正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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せきやの『ニコ生版 正統史観年表「大東亜戦争にいたる大まかな流れ」』 http://bit.ly/1RgA3Db
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-737.html
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「日本は悪かった」という自虐史観には下記4つの種類があります。
冷静になって下記4つを分けて考えてみる必要があります。

【1】政治・軍体制
【2】一つ一つの軍事作戦の不備・・・【手段】
【3】戦争中の犯罪・・・【手段実行中の犯罪】
【4】事実経過の大きな流れ・・・【原因と目的】&【日本側からの視点】

―――――――

【1】政治・軍体制(すでにネットで、かなり語られている)
どんな政治・軍体制であろうと戦争は起きます。
自衛側であれば攻撃を受けているわけですから
政治・軍体制に関係なく自衛するしかありません。
「日本の政治・軍体制が悪いから」という理由で
蒋介石軍が武力攻撃してきたわけではありません。

【2】一つ一つの軍事作戦の不備(すでにネットで、かなり語られている)
一つ一つの軍事作戦の不備は敵味方に関係なく発生します。
完璧な軍事作戦などないでしょう。何か反省点はあるはずです。
敵味方に関係なく世界の戦史を研究して教訓にすればいいでしょう。

【3】戦争中の犯罪(すでにネットで、かなり語られている)
戦争中の犯罪も敵味方に関係なく発生します。
敵味方に関係なく世界の戦史を研究して教訓にすればいいでしょう。

【1】~【3】については、すでにネットで、かなり語られています。

しかし、問題は【4】です。
【4】の『事実経過の大きな流れ』の「事実」と「日本側からの視点」が、
いまだに隠されているというか、あまり語られていません。
まったく周知されていないと言っても過言ではありません。
一番、周知されなければならない重大な事実です。

ですから この正統史観年表トップページの巻頭において、
【4】の『事実経過の大きな流れ』を説明いたしますので、
「政治・軍体制が~」・「軍事作戦の不備が~」・「戦争中の犯罪が~」
という別の問題へと思考を向かわせず、
『事実経過の大きな流れ』・『原因と目的』・『日本側からの視点』
を知っていただいて、自衛であったことを理解していただきたいです。

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『大東亜戦争の大まかな流れ』

大東亜戦争は、日本は何も悪いことはしていなかったのに
不法な武力攻撃を受けて始まった戦争です。
―――――――
欧米人・欧米軍と同様に、
日本人・日本軍も条約で合法的に中国に居たのですが、
蒋介石軍が日本軍・日本人に不法武力テロ攻撃してきたから
日本軍は応戦・反撃していました。
(1937.7.7盧溝橋事件や1937.8.13~第二次上海事変)
日本からの和平提案を蒋介石が拒否し続けていたから戦闘が長引きました。
長引いた理由は英米が蒋介石に資金・武器支援していたからです。
日本は、英米が蒋介石に武器を輸送する援蒋ルートを遮断するため、
仏印と条約を結んで仏印に日本軍が合法的に進駐して
援蒋ルートを遮断すると、
英米が、被害側である日本に対して石油禁輸してきたので、
日本は蘭印の石油を武力で確保する決断をし、
その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるため、
先手を打って真珠湾攻撃しました→日米戦争。
1937.7.7盧溝橋事件もしくは1937.8.13~第二次上海事変から始まる支那事変
と1941.12.8~日米戦争までを総称して大東亜戦争といいます。
―――――――
日本はルールを守り、何も悪い事はしていなかった。
↓↓↓
中国側(蒋介石)がルールを破って違法なテロ攻撃をしてきた。
↓↓↓
その違法なテロ側を欧米がテロ支援していたことが合法であるはずはない。
↓↓↓
英米の資金・武器支援があるから
蒋介石は日本からの和平の打診を拒否し続けた。
↓↓↓
日本は援蒋ルートの合法的な遮断に努力していた。
↓↓↓
それに対して米英欄が経済制裁・石油禁輸してきた。
↓↓↓
それを受けて日本は蘭印の石油を武力で確保する決断に至った。
↓↓↓
その前に先手を打って
ハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるために真珠湾攻撃。
↓↓↓
日本は負け、紛争当事者の一方である戦勝国が東京裁判で裁判官となり、
すべての責任を日本にのみ求め、
事実とは違う政治的な決着の歴史を押し付けられている。
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大東亜戦争にいたるまでの説明図 http://bit.ly/1P1UDZX http://bit.ly/1RMhlYK
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-706.html
http://blog-imgs-90.fc2.com/s/e/i/seitousikan/20151214081352ded.jpg
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日本の戦国時代(1467年・応仁の乱~1614年・大坂冬の陣)のあたり、
アメリカのインディアン、アフリカ、アジアなどが
着々と白人に侵略されていくなか、日本は侵略されませんでした。
その一番の理由は軍事的抵抗力があったからです。
日本は当時まさに戦国時代にあり、
世界において日本は最強国に属していたのです。

その後、江戸の平和な時代が長らく続き、
武器・防具などは美術品として高められましたが、
引き続き国防に力を入れ続けておけば、1853年に来航した
黒船をはじめとする白人列強を追っ払えたかもしれません。

ほかのアジアのように欧米列強に日本が侵略されないように、
天皇陛下を頂点として一致団結して欧米列強のシステムに合わせて
体制を整えて生き抜こうとしたのが明治維新でした。
明治維新は日本独立維持のためだったのです。

ロシアは南下政策で南進して来る。
中国は各地に多くの軍閥があって
完全に統一された国とはいえない状態であり、
白人による半植民地化が進んでいる。

頼りない中国の属国「朝鮮」のままだと、いずれ朝鮮も白人の植民地、
特に南下政策を進めるロシア領になってしまう恐れがありました。

日本としては朝鮮半島は独立した国として
中国のものでも白人のものでもなく、
日露のあいだにある独立した緩衝地帯であってほしい。
日本から見れば朝鮮半島はロシア南下の防波堤だったのです。

【1894年~1895年・日清戦争】
1894年、朝鮮で「東学党の乱」という内乱が起きたとき、
中国は朝鮮の内乱を鎮圧するために朝鮮に中国軍を派遣しました。
中国が日本に通知してきた文書には
「属国を保護するために出兵」と書かれていました。
これは日本が受け入れられるものではありませんでした。
日本は、朝鮮が清国の属国であることを
認めるわけにはいかないため、朝鮮に兵を送り「日清戦争」となりました。

両国の宣戦布告文の主張
【日本】
朝鮮はわが国が誘って列国に加わらせた独立の一国であるのに、
清国は常に朝鮮を自分の属国といって内政に干渉し続けている。
【清国】
朝鮮はわが大清国の藩属たること二百年、毎年朝貢している国である。

日清戦争の結果、日本が勝ち、1895年4月17日、戦後処理条約である
日清講和条約(=下関条約=馬関条約)が締結され、
朝鮮が独立国であることが確認されたと同時に、台湾を得ました。
◆第一条
清国は、朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、
独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は
永遠に廃止する。
◆第二条
清国は、遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に割譲する。
―――――――

【1904年2月8日~1905年9月5日・日露戦争】
ロシア南下に抵抗してもらうために日清戦争して朝鮮を独立させたのに、
今度は、朝鮮国王はロシア公使館に亡命してロシアの属国となり、
ロシアは朝鮮内に軍港を作りはじめました。
ロシアが1891年に建設を始めたシベリア鉄道は完成に近づきつつあり、
シベリア鉄道が完成すればロシアの兵員・物資の移動が格段によくなります。
日本の10倍の国家予算を持つロシアが極東に強大な軍隊を配置すれば、
とても日本は太刀打ちできません。侵略されてしまいます。
そうなる前に、何としても侵略を阻止するため、
先手を打ってロシアに戦争をしかけたのが日露戦争です。
結果、日本が勝利し、日露戦争の戦後処理の講和(平和)条約の
『ポーツマス条約(1905年9月5日)』により、日本は沿海州沿岸の漁業権、
ロシアの樺太北緯50度以南の領土、朝鮮半島の優越権、
ロシアの関東州(旅順・大連を含む遼東半島南部)の租借権と、
長春~旅順間の南満州鉄道とその両側35m~15km(鉄道付属地)と、
その範囲内にある炭坑、日本の鉄道守備隊が南満州鉄道と沿線付属地域の
警備をする権利を得て、鉄道守備は満州の左隣の関東州の日本軍が担当し、
1905年12月22日、満州善後条約により日本の満州権益を清国も了承しました。

【1910年・日韓併合】
日本はロシア南下等に対抗しようとして日清戦争したのに
朝鮮は清属国から今度は露属国になったことで日韓併合論が起こりました。
日韓併合反対頭目の伊藤博文が韓国人に暗殺されたことや、
日本が義和団事件の功績でイギリスと同盟を組み、
ロシアをも倒したことで朝鮮の政治家等が親露反日から知日に変わり、
韓国側から日本に日韓併合を打診してきて、
「日韓併合条約(1910年8月22日 調印)」により
朝鮮半島は日本領となりました。つまり日本にとって
日韓併合はロシア南下に抵抗するための自衛だったのです。

【1914年~1918年・第一次大戦】
イギリスからの参戦要請があったので、
日英同盟の維持→日本独立維持のため出兵。

【1915年・対華21ヵ条の要求と日華条約】
辛亥革命(1911年)で清国が倒れて翌1912年に中華民国が成立したので、
清国時代に日清戦争の下関条約や日露戦争のポーツマス条約、満州善後条約
などで日本が得ていた支那や満州の権益の確認と、米英の介入や支那の排日で
非常に不安定になっていた日本権益を確固たるものにし、支那における
欧米列強の影響力を抑制しようとしたのが『対華21ヵ条の要求』であり、
その内容は欧米列強の権益と同程度か、むしろ温和なものであり、
特に新しい権益を要求したものではありませんでした。
そもそも日本と中華民国が要求を出し合いながら話し合い、
両国が納得して成立した『日華条約』を
他国が どうのこうの言おうが関係ありません。

「条約」というものは常に対等な立場で結ばれるとは限りません。
「条約」は侵略ではありません。
条約を結ぶまでの過程、話し合いにおいて相手に希望を言う「外交交渉」
のなかでの要求は侵略とはいいません。
結果的に16条に減りましたし、要求してその一部を相手に認めさせることは
「外交交渉」であって「侵略」とは言いませんし普通の事です。

【1931年~1933年・満州事変
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-334.html
日本の満州権益は1904年2月8日~1905年9月5日の日露戦争の戦後処理条約
『ポーツマス条約(1905年9月5日)』や『満州善後条約(1905年12月22日)
によって得られた正当なものでした。
1931年9月18日、奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖付近で、
敵兵が南満州鉄道の線路を爆破(柳条湖事件)。
現場に駆けつけた日本の鉄道守備隊(関東軍)に
対しても敵兵は攻撃を仕掛けて逃げました。
日本の鉄道守備隊は軌条に沿って追いかけ、
敵兵は張学良の本拠地である北大営に逃げ込みました。
その北大営からも日本の鉄道守備隊に銃撃してきたので、
関東軍が本格的に報復軍事行動を起こして満州事変が勃発しました。
攻撃されて反撃するのは国際慣習法上の自衛行為です。
このように柳条湖事件は「犯人は支那軍」というのが本来の通説であり、
日本(関東軍)犯行説が出たのは大東亜戦争後です。
関東軍指導者が殆ど逝去された後に、
本当かどうか検証のしようがない「証言」のみが出て、
なぜか通説になってしまっている状態です。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-710.html
物的証拠も状況的証拠も確たるものはなく、
主犯とされる石原莞爾も一貫して否定しています。
1931年9月15日、奉天総領事の林久治郎が「推察」として
「関東軍が近く軍事行動を起こす」旨の機密電報を幣原外相に
送ったことにより、それを抑えるためとして建川美次少将が満州・奉天に
派遣されますが、「推察」の根拠が検証されなければ
証拠にも論拠にもならず、派遣されたこと自体は何の根拠にもなりません。
鉄道爆破・守備兵襲撃などされたら応戦膺懲するのは当然の事であり、
鉄道破壊犯討伐という鉄道守備の行動でした。

それ以前も満州内では張学良による排日政策が行なわれていましたし、
日本人や日本の関係施設などが、さまざまなテロ攻撃を受けていました。
(下記URL記事は見解が統一されていない部分があります)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-111.html

しかも、その武装盗賊テロ集団に武器や資金の支援をしていたのは
アメリカ(→張学良や中国国民党を支援)や、
ロシア(→共産パルチザンを支援)でした。

5ヵ月後の1932年2月上旬にはテロ集団を満州から追放する事に成功し、
満州の治安は回復。
その後も満州-支那の国境付近で張学良軍や中国国民党軍が
テロ攻撃してくるので、それらを排除する作戦などを行ない、
1933年2月初旬、熱河作戦。
1933年5月3日~25日、関内作戦。

1933年5月31日の『塘沽(タンクー)停戦協定』で満州事変は終結しました。

満洲事変は1933年5月31日の塘沽(タンクー)停戦協定で終結していたので、
4年後の1937年になって満洲事変を理由に盧溝橋事件や第二次上海事変など、
まったく別の場所で武力攻撃を仕掛けてくることは不法です。

【1937年~大東亜戦争】

1931満洲事変―――1933塘沽停戦協定で終結

1937支那事変(中国大陸)―――――――――――1945終結
―――1939第二次欧州大戦(欧州)―――――――1945終結
――――――1941日米直接戦争(太平洋)――――1945終結

↓↓↓

1937支那事変+1941日米戦争=大東亜戦争

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アメリカ←←←←←1941年12月 日本は蘭印の石油を武力で確保する決断。
↓            ハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるため、
↓            先手を打って真珠湾攻撃

資金武器支援←←1941年7月 日本からの和平提案を蒋介石が拒否し続けた
↓           理由はアメリカが蒋介石を支援していたからだ。
↓           日本は仏印と話し合って条約で合法的に
↓           日本軍は仏印に進駐し、アメリカが蒋介石に
↓           武器を輸送する仏印の援蒋ルートを遮断
蒋介石
↓   ↑
↓   ↑
攻撃 反撃 → 1937年8月13日~第二次上海事変が本格的な
↓   ↑      支那事変の始まりであり大東亜戦争の始まりであり、
↓   ↑      蒋介石側から上海共同租界の日本人町を攻撃してきた。
↓   ↑
 日本  ←←←←←1941年8月 アメリカが日本に対して石油禁輸
※欧米と同じ条約による軍駐留であり、日本軍は欧米軍と一緒に役割分担で
協力して自国民を守っていたのだが蒋介石軍は日本軍・日本人だけを標的に
攻撃してきた。そしてその蒋介石を支援していたのは欧米だったのだ!怒れ日本人!

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大東亜戦争にいたるまでの説明図 http://bit.ly/1P1UDZX http://bit.ly/1RMhlYK
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-706.html
http://blog-imgs-90.fc2.com/s/e/i/seitousikan/20151214081352ded.jpg
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欧米人・欧米軍と同様、日本人・日本軍も条約で合法的に中国に居た。 http://bit.ly/1QAL1sU
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-708.html
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1900年・義和団の乱で中国軍と義和団が外国人多数を虐殺したので
欧米日8ヵ国軍が出動して鎮圧し、以後、欧米軍と同じ条約で
日本軍も自国民保護のため中国に駐留していました。
欧米人・欧米軍と同様、
日本人・日本軍も条約で合法的に中国に居ました。

1936年(昭和11年)12月12日の西安事件により、
アメリカが支援する蒋介石(国民党)と
ソ連が支援する毛沢東(共産党)が第二次国共合作をし、
合法居留の日本人・合法駐留の日本軍に対して
盧溝橋事件(1937.7.7)や第二次上海事変(1937.8.13~)などで
攻撃をしてきたのが支那事変の始まりであり大東亜戦争の始まりでした。

◆1937年7月7日、盧溝橋事件
条約による合法駐留の日本軍に対して
中国軍(宋哲元29軍)が武力攻撃してきました。
7月11日20:00『松井-秦徳純・停戦協定』が成立。
この盧溝橋事件が支那事変・大東亜戦争の始まりとされていますが、
それまでも中国側は散発的に日本に対してテロ事件を起こしており、
盧溝橋事件も単なる地方軍閥(宋哲元29軍)との軍事衝突事件で、
一連のテロ事件の一種と考えて差し支えありません。
しかも蘆溝橋事件は1937年7月11日20:00の
『松井-秦徳純・停戦協定』で終了しています。
盧溝橋事件があったからといって、
上海共同租界を攻撃していいということにはなりません。
上海共同租界は日本領ではありませんし、
日本の専管租界でも日本の租借地でもありませんでした。
上海共同租界は国際的な共同租界であり、そのなかに日本人が住み、
比較的、日本人が多く住んでいた日本人町もあったということです。
日本人町には日本人だけでなく欧米人も中国人も住んでいました。
上海共同租界の国会にあたる参事会14人の構成は、
イギリス人5人、アメリカ人2人、日本人2人、中国人5人でした。

大東亜戦争の実質の始まりは第二次上海事変です。 http://bit.ly/1jF8ES3
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-702.html

◆1937年8月13日、第二次上海事変。
中国軍(蒋介石軍)3万人が「1932年の上海休戦協定」に違反して
協定線内に侵入し、上海共同租界の日本人居留区域を包囲し、
条約による合法居留の日本人町に対して武力テロ攻撃をしてきました。
上海共同租界内の警備は役割分担で米英伊軍とともに
日本海軍陸戦隊も警備に当たっていました(仏租界は仏軍)。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-689.html
中国の租界
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-43.html
日本海軍陸戦隊は日本人居留区域を含む地域の警備に
当たっていたのですから応戦して当然です。
日本本土から援軍(上海派遣軍)が上海へ向かい、
蒋介石軍を追い払いました。
蒋介石は南京に逃げたので、増援の第10軍とともに南京を攻略。
蒋介石が武漢に逃げたので、日本軍は追撃して武漢も攻略。
次に蒋介石は重慶に逃げました。
日本軍は地上軍による重慶攻略を計画しましたが、
重慶が天然の要塞の地であることや兵站の問題もあり、
即時攻略は困難であるという結論に達し、重慶爆撃を行ないました。

中国には条約で欧米人・欧米10ヵ国軍もいたのに、
中国は、同じく条約でいた日本人・日本軍だけを攻撃してきました。
日本側は中国側に何度も和平を打診していたのですが、
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-554.html
アメリカが中国(蒋介石)に資金・武器を支援し続けていたので、
蒋介石は日本からの和平提案を拒否し続けました。
アメリカが蒋介石に武器輸送していた援蒋ルート(蒋介石支援ルート)を、
日本が仏印と条約を結んで日本軍が合法的に仏印に進駐して援蒋ルートを遮断
するとアメリカは、合法側・被害者側の日本に対しては
石油禁輸などの経済制裁を仕掛け、
中国大陸から日本だけ出て行けと、不当な事を言っていました。
日本は石油などの資源がないと国として立ち行かなくなるので、
蘭印の石油を武力で確保する決断をし、
その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるために
真珠湾攻撃をして日米戦争となりました。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-694.html
このように大東亜戦争は日本へのテロ攻撃で始まり、
日本への原爆テロ攻撃で終わりました。
支那事変から日米戦争までを総称して大東亜戦争といいます。

日本は攻撃されたから応戦、反撃したまでで、
攻撃されなかったならば「アジア開放のため」という理由だけで
日本から米英に戦争を仕掛けるはずはありませんでした。
1943年(昭和18年)11月6日の大東亜会議にて採択された
大東亜共同宣言で日本はアジア諸国の独立を承認していますので、
国際法上はアジアを解放したといえますし、同共同宣言において、
それを成すための戦争継続が明記されていますので、
アジア解放戦争で間違いありませんが、
日本からすればアジア開放が第一の目的ではなく、
第二次上海事変や援蒋、対日経済制裁という原因あっての大東亜戦争であり、
第一の目的は自存自衛であって、アジア解放はいわばその手段とも言えます。
(アジア開放で自由貿易できるようにして資源確保で生き延びるという事)
★昭和天皇の【大東亜戦争 開戦の詔勅
を読んでも同じ認識でいらっしゃる事がわかります。
↓↓↓
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-636.html
戦争遂行のために敵地から物資を頂戴することは禁止されておらず、
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-667.html
敵・白人列強の持ち物である東アジアを奪取したのですが、
日本はそこを植民地にはせず大東亜共同宣言で独立を承認しました。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-680.html

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日本では『大東亜戦争』が法的に正式な名称です。 http://bit.ly/1RBb4Aa
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-714.html
『米の援蒋と対日制裁は不法か?』 http://bit.ly/1ONT3vC
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-694.html
「コミンテルンの工作が~」について。 http://wk.tk/v4uTRc
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-704.html
来る日が来た親御さんへ。子供の質問「日本は悪い国だったの?」
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-701.html
勝率低いから自衛しない? http://bit.ly/1ml1X9M
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-707.html
『大東亜戦争の大きな流れ』超短縮版
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-665.html
★もっと超簡単に!大東亜戦争にいたる流れの説明
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-553.html
【短縮版】隠蔽が続く大東亜戦争の発端
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-633.html
★「正統史観VS自虐史観」の議論例 (mixi)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-621.html
日本軍の仏印進駐への批判に対して http://bit.ly/1JU6YeB
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-712.html
日独伊三国同盟の成立前からアメリカは対日経済制裁していた。 http://bit.ly/1mSDGZ8
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-713.html
日露戦争後の「アメリカの反日政策」と「日本の歩み」年表 http://bit.ly/1RyxCC5
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-510.html
論点 http://bit.ly/1QqRAtP
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-691.html

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『かけがえのない夢の国、日本』
・水道の水が、そのまま飲める国
・いつでもどこでも無料でトイレが使用できる国
・買い物の際につり銭をごまかされない国
・お店に入って買わずに出て来れる国
・物価が安定している国
・美しい四季がある国
・誰でも銀行に口座を開ける国
・だまされた人よりだました人が非難される国
・安全快適な交通機関が定刻どおり運行されている国
・世界中の書物が翻訳されて書店に並び購読されている国
・所得に差がある家庭の子供達が平等に教育を受けられる国
・誰でも安くて早くて安全な質の高い医療が受けられる国
・一系の天皇が二千年以上治めている国
・外の自販機が盗まれたり壊されたりされることが少ない国
・ちょっとした失敗でも潔く謝罪する国
・虫の鳴き声や波風・・・などの物音を左脳で聞いている国
・BBC世界好影響ランキング2年連続世界一の国
・手頃な値段で誰でも、あらゆる娯楽が楽しめる国
・自然がきれいな国
・世界一、旅行者のマナーが良い国
外国から見た日本_1外国から見た日本_2外国から見た日本_3外国から見た日本_4
外国から見た日本_5外国から見た日本_6外国から見た日本_7外国から見た日本_8
外国から見た日本_9外国から見た日本_10外国から見た日本_11外国から見た日本_現代

放射能のホントの話日本を守る保守の経済
「危険な外国人参政権」と「恐怖の人権機関」

日本の視点から見た大東亜戦争(アジア・太平洋戦争、第二次世界大戦)にいたる経緯年表

世界四大文明のウソ世界に誇る縄文文化三内丸山遺跡の衝撃
漢字と格闘した古代日本人ほんとの悪代官は、まじめ人間だった!?
花のお江戸はボランティアで持つ平和の海の江戸システム
平和と環境保全のモデル社会 『江戸』午後5時、黒船来航美しい国だった日本

【動画】 誇るべき日本を知ろう---国家観・歴史観

1911年(明治44年)アジア地図(正確ではないが当たらずとも遠からず)


欧米の植民地支配
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-321.html
白人の侵略の歴史~鎖国~明治維新~日清戦争
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――― 正統史観年表 ――――――――――――――――

●356年、朝鮮の金奈勿(キン・ナブツ)が、稲飯命の子孫である志良岐王族
を虐殺して王権を簒奪。志良岐を乗っ取る。稲飯命王朝は滅亡。

●562年、新羅が任那(日本領)を武力攻撃。任那は滅亡。

●660年、新羅が唐軍と共に百済(日本領)を侵略。百済は滅亡。

●678年、「日本」呼称、最古の例

●701年(大宝元年)、『続日本紀』(797年・延暦16年)のなかの、
文武天皇の「朝賀の儀」に関する記述において、
正月元旦、儀式会場の飾りつけに「日像の旗」を掲げたとあり、
これが日の丸の原型で最も古いものといわれている。

●811年12月、新羅の賊船が対馬近海に出没。警備を強化。

●813年(弘仁4年)2月、新羅の賊1100人が平戸に来寇。
日本人9人を殺害。100人を拉致。

●869年(貞観11年)5月、新羅の海賊が博多で掠奪。

●871年5月22日夜、新羅の船2隻が博多湾に侵入。豊前国の年貢を奪い逃走。

●893年(寛平5年)5月、新羅の賊が肥前・肥後を襲撃。

●894年(寛平6年4月)、新羅から賊2500人が45隻の船で対馬に来襲。
文室善友らが士卒100人を率いて防戦にあたったほか、
島分寺の僧など島民も戦闘に参加し、賊302人を倒して勝利。

●998年、高麗の賊が壱岐対馬を侵略。肥前にまで迫る。

●1014年、高麗の賊が九州に攻め寄せ大宰府に討たれる。

●1019年(寛仁3年)、『刀伊の入寇』 50余隻の船団が来襲。
壱岐、対馬、筑前糸島、志摩・早良諸郡を荒らして物資を奪い、
家屋を焼き払い、老人子供は殺して丈夫な者だけを拉致。博多に迫る。
日本側は大宰権使=藤原隆家・大蔵種材や在地の豪族らが応戦撃退。
逃げる敵を追い、船30艘で追撃して追い払う。10数日間に渡る戦闘だった。

●1097年、異賊船100隻が松浦・筑前に攻め寄せる。
大宰府官兵・九州軍士が大いに守り、賊船を撃破して賊徒数万を海没させる。
元寇に至る外国からの侵略の中で最大規模のものだった。

●1274年(文永11年)、元寇『文永の役』
蒙古・漢軍、高麗軍、女真人の軍勢を含む総計2万7千人が乗る大小900艘の
船団が日本の九州北部に来襲するも撃退。

●1281年(弘安4年)、元寇『弘安の役』
『文永の役』から7年後のこの年、またもや元・高麗軍、旧南宋軍の
合計14万人・軍船4400艘が日本の九州北部に来襲するも、またも撃退。

●1419年(応永26年)、朝鮮が対馬(日本領)を倭寇征伐の名目で侵略。
朝鮮では「己亥東征」という。太宗は「倭寇の根拠地は対馬だ」と言いがかり
をつけて対馬を侵略した。これにより6月19日、李従茂指揮の227隻1万7258人
からなる船隊が、朝鮮の巨済島から対馬にむかい、
翌20日、対馬浅茅湾の土寄崎に停泊。当初、朝鮮軍は対馬の民家1939戸を
焼き、多数の日本人住民を虐殺。しかし同年26日に仁位郡に進攻した頃から
対馬の伏兵に反撃され、朝鮮軍は2500余人の損害を出し、宗貞盛の撤兵要求
を受け入れ、7月3日に巨済島に引き揚げた。

●1492年10月12日、コロンブスがアメリカ大陸(サン・サルバドル島)に到達

中南米での大虐殺

●1497年、ポルトガルのバスコ・ダ・ガマ遠征隊が
アフリカ大陸南端の喜望峰を回って、インドの西岸、カリカットに到達。

●1511年、ポルトガルがマラッカ王国、モルッカ諸島を占領

●1521年、白人(マゼラン船隊)がフィリピンまで到達

●1521年、スペインがアステカ帝国を滅亡させる。

●1533年、スペインがインカ帝国を滅亡させる。

●1540年、スペインがカリブ海のインディオを絶滅させる。

●15世紀から19世紀の前半まで奴隷貿易がおこなわれた。
プランテーション奴隷商人

●1542年、ラス・カサス報告書

●1543年9月23日、白人(ポルトガル)、種子島漂着
鉄砲伝来と日本刀

●1549年、フランシスコ・ザビエル鹿児島上陸

●1557年、白人(ポルトガル)マカオ略奪。そのまま1999年まで植民地だった。

●1571年5月19日、スペインがフィリピン領有宣言。初代総督レガスピ。
以後、米西戦争に至るまでの330年間、植民地支配を続ける。
スペインはフィリピンをアジア侵略と経営の根拠地とした。

●1571年10月、レパントの戦い

●1587年、バテレン追放令

●1588年、イギリス、スペインの無敵艦隊に勝利

●1592~98年、秀吉の朝鮮出兵(文禄の役 1592~96、慶長の役 1597~98)。

●1600年、関が原の合戦

●1600年、イギリスが東インド会社を設立。

●1602年、オランダがインドネシアのジャワに東インド会社を設立。

●1603年、江戸幕府開始

●1607年、江戸時代最初の朝鮮通信使 慶暹の『海槎録』

●1613年、ロシア、ロマノフ朝開始

●1616年、満州に後金(後の清)興る。
清(清国、清朝)満洲「支那」呼称について

●1639年、鎖国

●1644年、清、支那を支配

●1652年~74年、イギリスは3回にわたる英蘭戦争に勝利し、
オランダの海上権を奪った。
イギリスの植民地争奪戦争の相手はフランスのみとなった。

●1661年、鄭成功、台湾からオランダを撃退
アジアの軍事力がヨーロッパの軍隊を撃退した最初の事件

●1683年、江戸の和算家、関孝和が『解伏題之法』にて行列式理論を発見。

●1689年、ネルチンスク条約(清とロシアの国境確定)

◆18世紀中ごろ~、産業革命はじまる

●1755年6月~1759年9月18日、フレンチ・インディアン戦争

●1757年、プラッシーの戦い。
インドでのイギリスとフランスの争いはこの戦いで決着がついた。
イギリスは、フランス軍とムガル帝国ベンガルの豪族軍の連合軍と
戦って勝利した。
フランスはインドから撤退し、イギリスはインドを植民地にすることになる。

●1764年、日本を見た朝鮮通信使

●1770年、イギリス、オーストラリア領有宣言

●1776年、アメリカ独立宣言
アメリカのインディアン

●1779年、ロシア船が蝦夷に来航して松前藩に通商を要求。

●1789年7月14日、フランス革命

●1792年、ロシアのラクスマンが根室に来航
●1796年、イギリス船が室蘭に来航。

●1796年~1805年、白蓮教徒の乱「支那」呼称について

●1803年、アメリカ、ルイジアナを買収

●1804年、ロシア、レザノフ長崎に来航

●1804年、ハイチ独立(中南米独立の始まり)

●1804年11月14日、華岡青洲が世界で初めて全身麻酔を用いた手術(乳癌手術)
を成功させた。これは1846年にアメリカのウィリアム・T・G・モートンが
行なった麻酔手術より40年以上も前のことであった。

●1808年10月、フェートン号事件

●1811年、ゴローニン事件国後にロシア軍艦長ゴローニンが来たが捕える。
●1812年、高田屋嘉兵衛がロシアに捕らえられる。

●1819年、アメリカ、フロリダを買収

●1822年、和算家の入澤新太郎博篤が『ソディの六球連鎖』と同内容の算額を発表。

●1823年、アメリカ、モンロー宣言

●1825年、異国船打払令

●1837年、アメリカ船モリソン号が漂流民を伴って浦賀に入港したが、
1825年に発布された『異国船打払令』によって撃退。

■■■疑問■■■なぜ中国に外国人居留地があったのか。
中国に、外国人居留地である「租界」や「租借地」が
設置されていった理由は、1842年、アヘン戦争で清国がイギリスに破れ、
それをきっかけに清国の同意を得て、中国各地の条約港に、
租界、租借地といった外国人居留地が設けられていったためである。

●1840年、アヘン戦争
イギリスは中国(清国)からの茶、絹、陶器などの輸入超過で貿易赤字に
陥り、通貨の銀が不足していた。
イギリスは植民地のインドにアヘンを栽培させ、
中国とアヘンの密貿易をして不足の銀を回収し、貿易黒字に転じていた。
つまりイギリスは交易にアヘンを用いて資産を獲得していたのだ。
このように中国では、イギリスによりアヘンがもたらされ、
中国国内ではアヘン中毒者が蔓延していたのである。
1839年、清朝政府はアヘン中毒の蔓延を憂慮してアヘン貿易を取締まった。
これに反発したイギリス政府が
翌年の1840年、清に宣戦布告して始まったのが阿片戦争である。
ちなみに満州や台湾でもアヘンの吸引が庶民の間で常習となっていたが、
これもイギリスによってアヘンがもたらされた結果、
アヘンの中毒者が蔓延していたのであり、日本が蔓延させたのではない。
日本のアヘン政策

●1841~43年、天保の改革。
老中・水野忠邦は、「アヘン戦争は外国の話しだが日本の戒めにしなければ
ならない。改革を厳格に行い、国内政治を立て直さなければならない」とし、
対外的不安と同時に国内不安も抱えながら、幕府は質素倹約の重農主義を
基本とし、経済改革を中心に綱紀粛正や軍制改革などを実施していった。

アヘン戦争で清国がイギリスに敗れた事に危機感を持った日本の徳川幕府は、
異国船打ち払令を、天保の薪水供与令に改めた。

●1842年8月29日、阿片戦争でイギリスに敗れた清国は
戦後処理条約である南京(江寧)条約を締結して阿片戦争は終結。
さらに翌年、英中・南京条約附属協定「1843.7.22五港通商章程を含めた
1843.10.8虎門寨追加条約(五港通商附粘善後条款)」を締結。
関税自主権喪失、治外法権、行政自治権、警察権、片務的最恵国待遇、
通商を行なう五港にイギリス軍艦の常駐などを定めた不平等条約により、
欧米による中国植民地化が始まった。清国はイギリスに香港島を割譲。
1843年にイギリスによる上海の租借から始まり、中国各地の条約港に
租界、租借地といった欧米列強の外国人居留地が設けられていく。
●1844年7月3日、米中『望廈条約』 (南京条約附属協定と同類の不平等条約)
●1844年10月24日、仏中『黄埔条約』(南京条約附属協定と同類の不平等条約)
※日本の租界は1895.4.17日清講和条約や1896.7.21日清通商航海条約で設置。
(最初の日本租界は1897年の杭州)
中国の租界日本の外国人居留地朝鮮の租界

●1844年、江戸幕府に対してオランダ国王の開国勧告がなされる。
●1845年、リメンバーアラモの砦、アメリカがテキサスを奪取。
「リメンバー・・・」
●1846年、アメリカ、オレゴン奪取
●1846年、アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来航し通商要求。
●1848年、アメリカ、カリフォルニア奪取

●1848年、オランダ、バリ島を征服・植民地化

●1850年~1864年、太平天国の乱

●1853年、ペリー来航。アメリカが日本にペリーを派遣し開港を求める。
1853年6月3日、午後5時、黒船来航。日本の警備船群が艦隊を取り巻いた。
●1854年、日米和親条約
日本にやって来た欧米人の日本の印象
●1853年8月22日、ロシアのプチャーチンが4隻の艦隊を率いて長崎に来航

●1855年2月7日、日露通好条約(下田条約)
択促島と得撫島の間に日露の国境線を定めた。樺太の国境は定めなかった。

●1855年、『長崎海軍伝習所』設立。  『長崎海軍伝習所の日々』
黒船来航以後、江戸幕府は海防体制強化のため西洋式軍艦の輸入を決める
とともに、海軍士官養成のため長崎に設立した教育機関。
オランダ軍人を教師に、蘭方医学や航海術などを学ばせた。
江戸の築地の軍艦操練所の整備などにより、4年後の1859年に閉鎖された。

●1856年、英仏連合軍が清へ侵攻、アロー戦争(第二次アヘン戦争)

●1857年6月6日~1859年7月、セポイの反乱(第一次インド独立戦争)

●1858年、ロシア、清国との間にアイグン条約を締結。
ロシアが黒竜江(アムール川)以北を奪取。

●1858年、アロー戦争(清国とイギリス・フランス連合軍との戦争)
最終的な戦後処理は北京条約

●1858年、フランスがベトナムへ侵攻、仏越戦争勃発

~以下、日本の開国後の驚異的な発展の速度にも注目です~
開国から62年後には国際連盟の理事に就任しました。

●1858年(安政5年)、日米修好通商条約締結。開国
治外法権、関税自主権の放棄(協定関税率制)、片務的最恵国待遇など、
日本にとって不利な内容を含む不平等条約であった。
●1858年(安政5年)、安政の大獄
●1860年(万延元年、安政7年)3月24日、桜田門外の変

●1859年 箱館、横浜、長崎、新潟、神戸の5港を開港。
開港場に外国人居留地(租界)が設置される。

●1859年(安政6年)、幕府が日章旗を御国総標にする旨の触れ書きを出す。
日章旗が「国旗」としての地位を確立したのはこれが最初である。

●1860年2月13日、万延元年遣米使節がサンフランシスコに向け横浜を出港。

●1860年、北京条約
イギリス、清より九龍市を割譲。
ロシア、清より沿海州を獲得しウラジオストックを建設。
※ウラジオストック=東方を支配せよ という意味。

●1861年2月3日、対馬事件
ロシアの軍艦が対馬を不法占拠。半年後にイギリスの軍艦2隻が退去させる。

●1861年~1865年、南北戦争(アメリカ合衆国の内戦)
奴隷制存続を主張するアメリカ南部11州が合衆国を脱退し、
北部23州と戦争になった。北軍が勝利。両軍合わせて62万人の死者を出した。

●1862年、フランス、ベトナムよりサイゴン等を獲得

●1862年9月14日、生麦事件
1863年6月、イギリス・フランス軍が横浜に駐留開始。(以後12年間駐留)
●1863年8月15日~17日、薩英戦争
●1863~1864年、馬関戦争(下関戦争)

●1866年、薩長同盟

●1867年、徳川幕府滅亡(大政奉還、王政復古の大号令)

●1867年、イギリス、シンガポールを植民地化
●1867年、アメリカ、アラスカを買収

●1868年~1869年、戊辰戦争。新政府軍と旧幕府軍の戦い。旧幕府軍は滅亡。
●1868年(慶応4年、明治元年)、五箇条の御誓文 (明治政府の基本方針)
明治維新

明治以降の日本は世界最高水準の自由な民主主義国家であった!

●1868年(明治元年)
元年者と呼ばれる日本人がハワイに移住を始める。

●1868年、朝鮮が国交樹立拒否。1873年、征韓論。1876年、江華島条約へ

●1870年代~1900年、白人のアフリカ分割

●1870年2月27日(明治3年)、太政官布告第57号で『日の丸』を御國旗と規定

●1871年(明治4年)、廃藩置県

●1871年、『日清・通商章程33ヵ条』と『日清修好条規18ヵ条』を締結。
日清相互に治外法権と領事裁判権を承認し合った平等条約であった。
この条約に基づき●1873年、上海に日本領事館を開設。

●1871年(明治4年)11月12日~1873年(明治6年)9月13日、岩倉使節団
岩倉使節団~サムライ達の地球一周

●1872年(明治5年)、マリア・ルス号事件
横浜港に停泊中のマリア・ルス号(ペルー船籍)内の
清国人を奴隷であるとして日本政府が解放した事件。

●1873年、オランダ、スマトラ島のアチェー王国へ侵攻(アチェー戦争勃発)

●1874年、牡丹社事件の台湾出兵
宮古島の住民が台湾に漂着し、54名が殺害された事に対し日本が台湾に出兵。

●1875年(明治8年)5月7日、樺太・千島交換条約。
日本は樺太の領土権を放棄し、
得撫島から占守島までの千島列島(クリル諸島)の領土権を得た。

●1876年(明治9年)、日朝修好条規(江華島条約)
江華島事件(雲楊号事件)のいきさつ
朝鮮が結んだ初の国際条約=日朝修好条約(江華島条約1876年)の意義
「日朝修好条規(江華島条約)」は韓国にとって不平等条約だったか?

●1877年、イギリス領インド帝国成立

日・中・韓紀行~イザベラ・バード

●1879年(明治12年)5月1日、
日本は薬用・阿片売買竝製造規則(阿片専売法)を施行。
アヘン製造販売を独占し、購入者及び栽培農家は政府による登録制とした。
アヘンの漸禁「ぜんきん(緩やかに禁止)」政策 → 日本のアヘン政策の時代背景

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沖縄(琉球)略年表
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●1881年、イギリス、ビルマをインドに編入

●1881年、ハワイのカラカウア王が来日し、明治天皇と会見

●1882年、アメリカで支那人移民禁止法制定「支那」呼称について

●●●1882年7月23日、壬午政変(じんごせいへん)
※高宗=李氏朝鮮王朝の第26代君主、朝鮮国王(のち大韓帝国の初代皇帝)。
政権を握っていた閔妃(みんびorびんぴ)(高宗の妃)は、
朝鮮の近代化をめざす開化派(独立党)であった。
高宗の実父である興宣大院君は、朝鮮は清朝の属国としての朝鮮のままで
あるべきだという守旧派(事大党)であった。
その大院君が起こしたクーデターが壬午政変である。
政権を担当していた閔妃一族の政府高官や、日本人軍事顧問、
日本公使館員らが殺害され、日本公使館が襲撃を受けた。
清国はこのクーデターを口実に朝鮮に軍隊を派遣したので、
清国寄りであった大院君を逮捕して反乱軍を鎮圧した。
清国軍3000名は、そのまま朝鮮に居座った。
日本は同年8月30日、朝鮮と壬午政変の事後処理の
済物浦条約(さいもっぽじょうやく)を結び、日本軍による日本公使館の警備
を約束し、日本は朝鮮に軍隊を置くことになった。
閔妃は朝鮮の近代独立を断念、清の属国を継続する守旧派(事大党)になった。

●1883年、フランス、全ベトナムを保護国化。
清・朝鮮と不平等条約を結び実質的な属国化を開始
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◆1883年、朝鮮で「漢城旬報」発刊。朝鮮での新聞第1号。
朝鮮宮廷の資金提供により漢字活字を日本から持ち込み、
日本人が編集して漢文で発刊された。翌1884年のクーデターの際に
印刷機械が破壊されてしまい、早くも廃刊となった。
◆1886年、「漢城週報」発刊。朝鮮史上初の漢字・ハングル混合文の新聞。
福澤諭吉が「朝鮮にはこんな文字があるではないか」とハングルに着目し、
漢字とハングルの混合文を考案して弟子の井上角五郎に作らせた。
当時の築地活版所で作られた「活字」が使用された。
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●1884年 清仏戦争勃発。

●●●1884年、甲申政変(こうしんせいへん)
朝鮮の近代化をめざす開国派、独立党の金玉均らがクーデターを起こした。
政権を握る国王(高宗)や閔妃の事大党は清国に派兵、鎮圧を要請し、
清国の袁世凱が1500名の軍隊で鎮圧したためクーデターは失敗に終わった。
壬午政変に続き、またしても清国が朝鮮の内政問題に介入して、
朝鮮の独立、近代化を阻止した。
壬午政変と同様、日本公使館が襲撃、焼き払われ、婦人を含む多くの日本人が
惨殺された。金玉均や朴泳孝たちは日本に亡命した。
日本は、朝鮮の独立を願うならば、清国との戦いは避けられないと痛感した。
朝鮮が列強を侮る清国の支配下に置かれ続け、事大派(攘夷派)が政権にいる
状態が続けば、朝鮮は近いうちに白人列強の植民地になるのは目に見えていた。
そうなると日本も危うい。
清国は、日本の朝鮮への進出を邪魔するため、
朝鮮に欧米各国と修好条約を結ばせた。それがロシアの朝鮮進出を招いた。
有能なロシア公使ウェーバーは、朝鮮におけるロシアの影響力を拡大し続けた。
甲申事変 その後
●1885年(明治18年)1月4日、漢城条約(日本と朝鮮との甲申政変の事後処理)
・朝鮮国が国書を日本に送り、謝意を伝える。
・日本人の被害者への損害補償として11万円を支払い、
公使邸再建工事費として2万円を支払う。
●●●1885年4月18日、天津条約(日本と清国との甲申政変の事後処理の条約)
伊藤博文は「日本と清国が争っているとロシアに得をさせるだけだ」と考え、
清国の李鴻章と天津条約を結んだ。
1.日清両国は4ヵ月以内に朝鮮から撤兵する。
2.日清両国は、朝鮮軍を教育するための軍事顧問は派遣せず第三国に任せる。
3.もし朝鮮に重大な変乱が発生し、朝鮮に出兵する時は、
互いに、その旨を通告し、事が収まれば、ただちに撤兵する。
ロシア、朝鮮侵略に着手
●1885年、フランス、清にベトナムに対する宗主権を放棄させる

●1885年、イギリス、朝鮮の巨文島を占領(2年後に撤退)

●1885年、イギリス、ビルマに侵攻。第三次ビルマ戦争勃発
●1886年、イギリス、ビルマをインド帝国へ併合

●1886年(明治19年)8月、長崎清国水兵事件(長崎事件)
長崎に来航した清国北洋艦隊の水兵が起こした暴動事件。

●1887年、ポルトガル、マカオの統治権を獲得。

●1887年、フランス領インドシナ成立

●1888年、イギリス領ボルネオ成立

●●1888年、露韓陸路通商条約
天津条約後、閔妃たちは清の支配から逃れるため、ロシアに近づいた。

●1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法(明治憲法)発布。
(1890年(明治23年)11月29日に施行)

●1890年(明治23年)、教育勅語 発布
日本の教育の根幹をなすものとして発表された勅語。
※勅語(ちょくご)=天皇が国民におおせられる公式のお言葉。

●1891年、ロシア、モスクワとウラジオストックを
結ぶシベリア鉄道の建設に着工(1904年完成)

●1891年(明治24年)4月29日、丸亀の歩兵連隊に在営中の
二宮忠八が作った模型飛行機が、世界で初めて飛行に成功。
プロペラ式のゴム動力で10メートルほどの距離を飛んだ。
「坂の上の雲」を掴もうとした男
●1891年(明治24年)5月11日、大津事件。来日中のロシア皇太子・ニコライ
が滋賀県大津市で日本人の巡査に斬りつけられた。明治天皇は深夜にもかか
わらず、ニコライのお見舞いに特別列車で関西にお行きになられた。
日本の一般人女性、畠山勇子がお詫びのために京都府庁の前で切腹自決した。

●1893年(明治26年)8月12日、文部省が『君が代』等を収めた
「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示。 『君が代』と世界の国歌

★当時の日本の毅然とした行動に感動!
●1893年、ハワイでアメリカ人農場主らが米海兵隊の協力でクーデターを
起こして王政を打倒して臨時政府を樹立し、その臨時政府がアメリカに併合を
求めた。日本は急きょ、在留邦人保護を理由に最新鋭巡洋艦『浪速』
(艦長 東郷平八郎大佐)と『金剛』の二隻をハワイに派遣し、ホノルル港に
停泊中の米艦ボストンの両側を挟むように真横に投錨して
クーデター勢力を威嚇。東郷はクーデター政権を完全に無視し、
リリウオカラニ女王の側近とのみ接触した。その後もホノルル沖で三ヵ月
にわたり遊弋を続けて不快感を表した。派遣された『浪速』は
英国アームストロング社が1886年に建造した新鋭艦で、米軍がハワイに
送ったボストン号の砲艦程度では、とても太刀打ち出来なかったこともあり、
アメリカのクリーブランド大統領はハワイ併合を見送った。
※『浪速』にはカラカウア大王が姪のカイウラニ王女の婚姻相手に指名して
いた山階宮定麿親王(後の伏見宮依仁親王)が海軍士官として同乗していた。
●1894年7月4日、アメリカによる併合に時間が掛かると判断した臨時政府は、
新憲法を発布してハワイ共和国を宣言した。(1898年に準州。1959年に州へ。)
米国のハワイ併合に抵抗した日本

■■■日清戦争に至るまでの下記3つの出来事も参照。
■■■◆1882年 壬午政変◆1884年 甲申政変◆1888年 露韓陸路通商条約
●●●1894年(明治27年)7月25日、日清戦争勃発
「李朝打倒・外国排斥」を掲げる新興宗教・東学党を中心に、農民たちが
朝鮮各地で反乱(東学党の乱)を起こした。『東学党の乱』鎮圧のため、
6月20日、清国は軍隊を出動させた。清国は出兵と同時に、日本と清国とで
甲申政変の事後処理で結んだ天津条約の規約どおり、清国は日本に出兵を事前
通知したのだが、そこには「属国を保護するために出兵」と書かれていた。
これは日本が受け入れられるものではなかった。日本は、朝鮮が清国の属国で
あることを認めるわけにはいかないため、朝鮮に兵を送り戦争となった。
「朝鮮は独立国」と主張する日本と、
「朝鮮は清の属国」だと主張する清国との争いだった。
つまり日本にとっては「朝鮮独立支援戦争」であった。
そのことは両者の宣戦布告文の主張を見比べれば明らかである。

◆両国の宣戦布告文の主張
【日本】
朝鮮はわが国が誘って列国に加わらせた独立の一国であるのに、
清国は常に朝鮮を自分の属国といって内政に干渉し続けている。
【清国】
朝鮮はわが大清国の藩属たること二百年、毎年朝貢している国である。
―――――――
◆京城(ソウル)駐在・シル米弁理公使の米本国への報告。
「日本は朝鮮に対して非常に好意的であるように思える。
日本の要求は、朝鮮に対する支那の宗主権という束縛を一挙に断ち切ること、
そして次に朝鮮国民に平和と繁栄と啓蒙をもたらすような改革を援助すること
によって、その弱き隣国が独立国としての地位を強化するのを助けること、
これだけであるように思える。この動機は、多くの聡明なる朝鮮国官吏を
満足させるものであり、また米国の否認すべきものでもないと考える。」
(Japan and the United States,1853-1921)
―――――――
●1894年(明治27年)11月21~22日、いわゆる「旅順虐殺事件」
清国軍の暴状
◆◆◆日清戦争は日本陸海軍の圧倒的な勝利で終わった。
日清戦争の意義を理解しない韓国

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●1895年(明治28)1月14日、日本政府、尖閣諸島を沖縄県に編入。
日本政府は尖閣諸島がいずれの国にも属していないことを確認したうえで
尖閣諸島に標杭を建設する旨の閣議決定を行ない正式に我が国の領土に編入。
―――――――
1920年(大正9年)5月、中華民国駐長崎領事が日本に感謝状を贈る。
前年に遭難して尖閣諸島に避難した中国・福建省の漁民31人を日本の住民が
救助したことに対して中華民国駐長崎領事が感謝状を日本に贈った。
その文中に「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」と記述している部分があり、
当時の中国が尖閣諸島を日本の領土と認めていたことがわかる。

石垣村長宛ての中華民国からの感謝状
石垣市内で新たに見つかった中華民国からの感謝状
―――――――
下記の地図は中国、北京の地図出版社1958年発行『世界地図集』の「日本図」。
台湾と尖閣・八重山諸島の中間に国境線が引いてあり、
「尖閣群島」、「魚釣島」と日本名で記載されている。
北京の地図出版社発行『世界地図集』(1958)所載「日本図」では、台湾と尖閣・八重山諸島の中間に国境線があり、「尖閣群島」、「魚釣島」と日本名で記載されている。

1969年に公刊された国連アジア極東経済委員会(ECAFE)の報告書で、
尖閣諸島周辺の海底に石油・天然ガスが大量に存在する可能性が
指摘されたあと、1970年に台湾、1971年に中国が領有権を主張しはじめた。

Gm遺伝子の分布図 http://bit.ly/1PWj8LE
Gm遺伝子の分布図

1/2◆2010.10.2_日の丸は何て美しい!_中国の尖閣諸島侵略糾弾 2670人デモ
2/2◆2010.10.2_日の丸は何て美しい!_中国の尖閣諸島侵略糾弾 2670人デモ

※なお、下記の下関条約(日清戦争の戦後処理の講和条約)第二条で
日本が清国から割譲を受けたなかに尖閣諸島は含まれていない。
尖閣諸島は1895年(明治28年)1月14日から、すでに日本の領土であった。

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●1895年(明治28年)4月17日、日清講和条約(=下関条約=馬関条約)。
日清戦争の戦後処理の講和条約で、山口県下関市において
伊藤博文と李鴻章のあいだで調印された。20日批准。
◆第一条
清国は、朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、
独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は
永遠に廃止する。
◆第二条
清国は、遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に割譲する。
◆第三条
清国は、賠償金2億両(約3億円)を日本に支払う。
■この条約で重要なのは清国が朝鮮を一つの独立国として認めた事である。
2年半後の1897年10月12日、長く支那の属国であった朝鮮に史上初の皇帝が
誕生し、「大韓帝国」が誕生した。
(李氏朝鮮王朝の第26代君主、朝鮮国王の高宗が大韓帝国の初代皇帝)
それまで朝鮮にいたのは皇帝ではなく、王であった。
百済王、新羅王、朝鮮王など、多くの王が存在した。
朝鮮ではやっと中華思想の呪縛が解けた。
反日自虐史観では日清戦争を「朝鮮に対する覇権争い」などと強調し、
「朝鮮の独立」という一番重要な点はわざとぼかされている。
清国の李鴻章はロシアに、この条約に干渉するよう求めた。
それがこの条約調印直後の4月23日の三国干渉となり、
日本は遼東半島を返還させられた。
●1895年~1945年、台湾統治
●●●1895年(明治18年)4月23日、三国干渉
日清戦争勝利後の戦後処理の下関条約(4月17日)で遼東半島が清から日本に
永久割譲されたのだが、それから一週間も経たない4月23日、清国は露仏独の
力を使って日本を遼東半島から追い出す事にし、ロシア・フランス・ドイツが
遼東半島を放棄せよと日本に勧告してきた。開国してまだ30年も経たない小国
であった日本は仕方なく応じた。この三国干渉で日本から清に返還させた領土
を数年後、ロシアは旅順・大連の租借地を、フランスが広州湾租借地を、
ドイツは膠州湾租借地を手にして自分達の国で分け合い獲得した。
三国干渉の2年後、西洋列強によるあからさまな清国の利権争奪が始まった。
三国干渉で日本が屈服すると、朝鮮の中で親日派が動揺し親露派が台頭した。
朝鮮国王はロシア公使館に移され、一年間ここで政務を執ることになった。
朝鮮は、日清戦争前は清国側に付いていたのだが、日本が勝利すると日本側
に付き、三国干渉で日本が屈服するとロシアに傾き、日露戦争で日本が勝利
するとまた日本に傾いてきた。このように朝鮮は常に強い方に頼ろうとする。
これを「事大主義」(大に仕える)と言う。日本は、朝鮮を独立させ、
内政改革により近代化させ、ロシアに対する日本の防波堤にしようとした。
ところが朝鮮は日本の近代化支援を侵略として排斥しようとし、伝統的な
事大主義から抜け切れず、この千載一遇のチャンスを活かせず内部の暗闘に
明け暮れ、近代国家として独立する絶好の機会を逸してしまったのだ。
日本は、信義も何も無い朝鮮の事大主義には、ほとほと困った。
福沢諭吉が一転して「脱亜論」を唱えた理由もうなずける。

●1895年、甲午改革

●1895年、乙未の変(いっぴのへん)

●●●1896年6月3日、露清密約(=李・ロバノフ条約=カシニー密約)
モスクワにて清の李鴻章(りこうしょう)とロシア外相ロバノフによって調印
された秘密協定。ロシアは日本から清に遼東半島を返還させた三国干渉の
見返りを清に求めた。ロシアはこの条約で満州での駐留や権益拡大を清に承認
させる事に成功し、ロシアの役人や警察は治外法権を認められ、戦時には中国
の港湾使用も認められた。さらにシベリア鉄道の短絡線となる東清鉄道を清領
内に敷設する権利も認めさせた。東清鉄道は名目上は共同事業だったが、実際
には出資も管理も全てロシアが行った。清はロシア軍の部隊移動や兵站を妨害
する事ができず、ロシアに対して大幅に割り引いた関税率を認めさせられた。
またロシアは鉄道建設に必要な土地の管理権を得たのみならず密約を拡大解釈
して排他的行政権も手にし、鉄道から離れた都市や鉱山も「鉄道附属地」とし
てその支配下に置いた。同年10月には南満州を縦貫する東三省鉄道と東清鉄道
との接続も認められる事になった。この露清密約の存在は1922年のワシントン
会議の席上で中華民国の代表から初めて発表された。
※1900年の義和団事件を受けての出兵の際、ロシアは満州全土を占領した。

●1896年、露館播遷(ろかんはせん)

日本のアヘン政策
米英の新聞が日本の台湾統治を絶賛!
もう一度 日本時代に戻りたい~楊素秋
「これが植民地の学校か」
台湾のラジオ放送局 脅威のMaid in Japan
「日本の教育あったから今の私がいる」…台湾の元師範学校生が語る
日本が残した資料が台湾のテーマパーク建設に貢献!

日本の台湾統治を絶賛するニューヨークタイムズ 1904/9/25
http://www.youtube.com/watch?v=cwY1Tu98Wzs
新台湾と日本
http://www.youtube.com/watch?v=vlxBNCeeFjc
米国から見た日本の台湾統治~「知られざる台湾・台南市」より
http://www.youtube.com/watch?v=YG9HvrgwmaM
日本と台湾は一心同体:Japanese and Taiwanese like each other
http://www.youtube.com/watch?v=gwPwOrmdlMs

●1898年、戊戌維新(ぼじゅついしん)

●1898年、米国がハワイ王国を併合し、ハワイ準州(米国自治領)とする。
日本の抗議にもかかわらず、7月4日、米国下院がハワイ共和国の併合と
ハワイ準州の設立を定めた『ニューランズ決議』(Newlands Resolution)
を採択、7月7日、マッキンリー大統領が署名。8月12日、ハワイ編入宣言。
ハワイ王国の国旗は降ろされ、星条旗が掲揚された。
以後、ハワイはアメリカの太平洋支配の拠点となり、
オアフ島のパールハーバー(真珠湾)に大海軍基地が建設された。

●1898年、米西戦争「リメンバー・メーン号事件」作戦
米国がスペインと戦争し、キューバとプエルトリコを奪取。

●1899年、ハーグ陸戦条約。
オランダのハーグで第1回万国平和会議が開かれ、
『陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約』と附属書『陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則』
が採択され、交戦者の定義や、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の
扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などが規定された。
※1907年の第2回万国平和会議にて同条約の改定が行なわれ、
「宣戦布告の義務」と「中立国への戦争状態の通告」などが追加された。

●1899年~1903年、アメリカ・フィリピン戦争(米比戦争)。
米国がスペインから独立させたフィリピンを植民地に。
米比戦争とフィリピン人虐殺

●1899年、アメリカ、門戸解放宣言(通牒)
アメリカは1803年、フランスからルイジアナを買収、
1819年、スペインからフロリダを買収、1845年テキサス、1846年オレゴンを
それぞれ併合。1848年アメリカ・メキシコ戦争に勝ちカリフォルニアを獲得、
さらに1867年、ロシアからアラスカを購入した。こうして太平洋岸に達し
終えると、今度はアジアに目を向け1853年、日本に開国と通商を求める
大統領親書を携え、東インド艦隊を率いて日本にペリーがやってきた。
1861~65年の国内紛争(南北戦争)時は一旦、領土拡張は休止し、
その後1898年ハワイを併合、同年スペインとの米西戦争勝利でキューバを
保護国としプエルトリコを獲得、さらにグアム、フィリピンを獲得した。
遅れてアジアに進出して来たため、すでにアジアは他の列強によって分割統治
されていたので、そこに割り込んで利益を得ようと考え出した聞こえの良い
キャッチフレーズが、1899年、ジョン・ヘイの「門戸開放」であった。

★1899年(明治32年)7月17日、日米通商航海条約の発効で治外法権が失効。
既に英蘭露仏とは治外法権は撤廃済みだったので、これで完全撤廃となった。
関税自主権は1911(明治44)年に完全回復して不平等条約の撤廃が完了する。

●1899年10月11日~1902年5月31日、ボーア戦争(イギリス戦争=ブール戦争)

■■■疑問■■■なぜ中国に外国の軍隊が駐留していたのか。
それは、それぞれの外国人居留地の自国民を守るためだった。
●1900年、中国で外国人排斥のテロ攻撃が活発化し『義和団の乱』が起きる。
欧米列強は義和団鎮圧のため日本に支援を要請し、
日本軍を中心とした列強8ヵ国による多国籍軍が出動し2ヵ月後に鎮圧。
軍を派遣した8ヵ国の内訳は、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、
イタリア、ロシア、オーストリア(=ハンガリー)と日本。
★★★1900年(明治33年)、ロシアが『義和団の乱』に乗じて満洲を占領。
義和団の乱~唐突な日英同盟締結の背景
●1900年(明治33年)7~8月、江東六十四屯虐殺(黒竜江=アムール川の悲劇)
●1901年9月7日、『義和団の乱』平定後、列国と清国・義和団とのあいだで
戦闘事後処理の『北京議定書』が北京で調印される。
この『北京議定書』に基づき、
列強各国に自国民の保護の為に中国への駐兵権が与えられた。
中国に駐留していたのは日本だけでなく、
イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、
オーストリア(=ハンガリー)など出兵した8ヵ国と、
ベルギー、スペイン、オランダを含めた11カ国。
北清事変 日本軍の軍紀厳正 ロシアの南侵

★★★1902年1月30日、日英同盟 調印 発効

●1902年5月20日、キューバがスペインから独立

●1903年、パナマがコロンビアから独立。
米国は独立運動に介入しパナマと運河条約を締結。
米国は運河地帯の永久租借権を獲得しパナマを実質的植民地に。

●1903年、ロシア、朝鮮の龍岩浦を軍港化

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日露戦争直前の日露交渉
●1904(明治37)年2月8日~1905(明治38)年9月5日、日露戦争。日本が勝利。
日露戦争(1904.2.8~1905.9.5)では、1904年2月10日に日露相互に宣戦布告が
なされる2日前の2月8日に日本海軍は旅順港外のロシア艦隊を夜襲したが、
1899年ハーグ陸戦条約では開戦前の宣戦布告の義務はなかった。
1907年10月18日の同条約改正で開戦前の宣戦布告の義務が追加された。
よって日露戦争開戦時は開戦前の宣戦布告なしでも国際法違反ではなかった。
1899年ハーグ陸戦条約の内容はロシアも知っていたし、同条約にかかわらず、
常に警戒を怠ってはならないのが国防である。ロシアの対日非難と日本の反論

●1905年(明治38年)7月29日、桂・タフト協定(密約)

■■■満州に日本軍がいた理由■■■
ロシアは満州の兵力を増強。南下政策を進めるロシアは1903年5月、
ついにロシアは朝鮮北部、鴨緑江河口の龍岩浦(りゅうがんぽ)に
ポート・ニコラスという軍港を建設した。鎮海湾にも軍港を作る意向だ。
ロシアが1891年に建設を始めたシベリア鉄道は完成に近づきつつあった。
シベリア鉄道が完成すればロシアの兵員・物資の移動が格段によくなる。
日本の10倍の国家予算を持つロシアが極東に強大な軍隊を配置すれば、
とても日本は太刀打ちできない。侵略されてしまう。
そうなる前に、何としても侵略を阻止するため、
先手を打ってロシアに戦争をしかけたのが日露戦争である。

結果、日本が勝利し、下記の戦後処理条約『ポーツマス条約』が締結された。
●1905(明治38)年9月5日、ポーツマス条約締結。
※日露戦争の戦後処理の講和(平和)条約。
・日本の朝鮮における権益を確認、韓国を保護国化。
・ロシアは清国の同意を得て、関東州(旅順・大連を含む遼東半島南部)の
租借権と、長春~旅順間の南満州鉄道と鉄道沿線の両側15km(鉄道付属地)と、
その範囲内にある炭坑などを日本に譲渡した。
南満州鉄道と沿線付属地域の警備を満州の左隣の関東州の日本軍が担当した。

※このポーツマス条約で樺太の北緯50度から南の南樺太が日本領となった。

■■■だから満州に日本軍(関東軍)がいたのである。■■■

関東州の守備のために関東都督府陸軍部が置かれ、1919年に関東軍となり、
関東州の右隣りの満州の南満州鉄道沿線地域も守った。
■満州全域を勢力下に治めたわけではなかった。
◆清国に日本は150万円、ロシアは200万ルーブルの戦場使用代を支払った。

【日本らしいエピソード】
日露戦争で捕虜にした6,106名のロシア人が自分の名前さえ書くことが
できない者が半分以上いたので、あまりに気の毒だということで、
日本各地のロシア人捕虜収容所ではロシア語の読み書き教育が行われた。
1905年(明治38年)5月27日~28日、日本海海戦(対馬海戦)
日露戦争の戦費調達
日露戦争の世界史的意義
日露戦争前後~ロシアと世界の反応
日露戦争後の日米関係
広瀬武夫 中佐
記念館 三笠

■日露戦争の日本勝利はロシア南下を阻止し、ロシア軍を満洲から撤退させ、
白人の支配に苦しむアジアを始め、世界の人々を覚醒・奮起させ、民族独立へ
の希望と勇気を与えた。日露戦争以後、白人の植民地は一つも増えなかった。
しかしその反面、欧米列強は日本を警戒し始め、とりわけ出遅れた支那に割り
込もうと門戸開放・機会均等を唱える米国で顕著で、ルーズベルト大統領は
新渡戸稲造の『武士道』を読み周囲に配るほどの親日家であったが日露戦争で
日本が勝利すると微妙に変化し始めた。米国は満州等への進出を考えていたが
日本が独占するのではないかと考え、次第に日本が邪魔な存在になっていく。

●1905年10月15日、 『桂・ハリマン覚書』
日露戦争勝利のポーツマス条約でロシアから日本が得た満州権益の一部である
南満州鉄道を日米共同経営にするという覚書が桂太郎首相と
鉄道王E・H・ハリマンとの間で取り交わされたがポーツマス講和会議から帰国
した小村寿太郎外相が反対し、覚書は破棄された。この『桂・ハリマン覚書』
破棄直後から米国の反日政策が始まり、大東亜戦争まで続いた。この時期は、
まだ米国は軍事大国ではなく、特に米国太平洋艦隊は、それほど脅威では
なかったのだが、この『桂・ハリマン覚書』を実行し、日米両国共通の国益
を増やし、両国が同じ敵から同じような攻撃を受け、米国も徐々に極東地域に
おける治安の悪さや共産主義勢力拡大の脅威を学んで実体験することにより、
20世紀初頭の、この早い時期から日米同盟の構築を目指すことができていた
ならば、大東亜戦争を回避できたかもしれないという意見もあるが、
不平等条約解消の英雄・小村寿太郎の主張「10万人の戦死者の尊い犠牲の上
で得た戦果を、一滴の血も流していない米国には渡せない」を評価すること
もさることながら、白人国家との共同経営を安泰と考えるのも危険である。
事実、戦後、米国は蒋介石を見捨てて共産拡大させてしまった。勝手な憶測
をしてまで自国を貶める必要は無い。交渉に成立や破綻はあって当然であり、
破綻したからといって相手国に敵対するのは間違いである。むしろ日米戦争
の遠因とするなら、一民間企業との共同経営交渉が破綻したことを理由に
国家として排日政策に転じた米国側の姿勢ではないだろうか。

◆◆◆似た事例◆1972年5月15日、沖縄返還。
沖縄返還時、アメリカは尖閣諸島海域の石油共同開発を日本に申し入れたが、
当時の佐藤栄作首相は日本単独で開発するといって断った。
尖閣諸島周辺海域には1000兆円規模の石油埋蔵量があるといわれている。

●1905年(明治38年)12月22日、満州善後条約。日本の満州権益を清国が了承。
1911年の辛亥革命以後も北洋政府・奉天軍閥などに継承されたが、
張学良が同条約を否認。併行鉄道の建設を推進して満州事変の遠因となった。

◆『アメリカ外交50年』ジョージ・F・ケナン著 (1951年)
アメリカ外交50年・満州関連部分

【戦前】欧米の日本叩き◆日露戦争後から大東亜戦争前までのアメリカの排日
http://www.youtube.com/watch?v=lQo2FVfbiyw

●1905年、東遊運動

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●1905年(明治38年)1月28日、明治政府が竹島を島根県に編入の閣議決定。
竹島は国際法的にも日本の領土となった。

竹島が日本の領土である根拠
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-164.html
竹島年表
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/06/blog-post_23.html
竹島.com
http://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/
韓国に竹島を描いた古地図は存在するか: 日韓古地図の比較
http://www.youtube.com/watch?v=_w7wHekOQM8

●1906年(明治39年)、アメリカ、オレンジ計画確定。
アメリカが支那大陸で反日運動を煽り始める。

●1906年(明治39年)4月18日早朝、サンフランシスコ大地震
日本は見舞・援助金を贈ったが逆に反日の対応をされてしまう。

●1906年、後藤新平 初代満鉄総裁は、
アヘン中毒者蔓延の南満州でも台湾同様に、
アヘンは漸禁(ぜんきん)政策をとった。

●1907年10月18日、ハーグ陸戦条約(1899年)の改定。
全8条から成るが主要な条項は第1条「宣戦布告の義務」と、
第2条「中立国への戦争状態の通告」の2つである。

●1907年(明治40年)、サンフランシスコで反日暴動が起こり、
多くの日本人が殺傷される。

●1908年(明治41年)3月、白船事件

●1908年(明治41年)、日米紳士協定。
20世紀に入り、ハワイから米本土(主としてカリフォルニア)に移住する
日本人が増えたため、米国人との間に軋轢を生じ、排日運動が激化した。
日露戦争で日本が勝利すると排日感情は一気に燃え上がり、1906(明治39)年、
サンフランシスコでは日本人学童の隔離を決議(のち撤回)したほどであった。
日本はアメリカの反日を考慮し1908(明治41)年、アメリカと『日米紳士協定』
を結び、商人や学生などのごく少数の認められた日本人を除き、日本は自主的
にアメリカ移民を制限することにした。その数は年間200~300人である。
その代わりアメリカは排日的な移民法を作らないと約束した。
日本はその協定を厳格に守ったが、カリフォルニア州は1913年(大正2年)
に排日土地法を成立させ、協定は早くも破られたのである。

●1909年(明治42年)、満州鉄道中立化提案
米国は、満鉄の国際管理を提案し
満鉄の権益への介入を試みるが、日本の立場を認めた列国の反対で失敗。

●1909年10月26日、初代内閣総理大臣 伊藤博文が暗殺される。

●1910年(明治43年)4月15日、第六潜水艇事故

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●1910年8月22日、「日韓併合条約」調印
条約というものは常に対等な立場で結ばれるとは限らない。
韓国は「日本に侵略された」というが、
韓国は日韓併合(1910年)に関係しない大東亜戦争勃発時の、
いわゆるA級戦犯への批判はするが、
日韓併合に関係する下記の元首相への批判はしない。
・1901年6月2日~1906年1月7日 桂太郎 (第一次)
・1906年1月7日~1908年7月14日 西園寺公望 (第一次)
・1908年7月14日~1911年8月30日 桂太郎 (第二次)
※ちなみに桂太郎元総理と西園寺公望元総理は靖国神社には祀られていない。

日韓併合の前後
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-317.html
日韓併合
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-101.html
日韓併合_関連資料
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-323.html
反日勢力撃退用・html版資料館
http://resistance333.web.fc2.com/html/patriotism_web.html
日本から見た歴史認識
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-167.html
日本が韓国を守った理由
http://fujissss.exblog.jp/page/3/
ぢぢ様 玉稿集 大日本史 番外編 朝鮮の巻
http://norikura.fc2web.com/
朝鮮の王朝を廃止したのは韓国人自身です。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-429.html

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★1911(明治44)年、日本は関税自主権を完全回復し、不平等条約を完全撤廃。
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【満州の歴史】
●1616年、女真族が「後金」王朝を建てる。
●1636年、「後金」が朝鮮を征服。国号を清(清国、清朝)と称し、
民族名を「女真族」から「満洲族」に改める。
●1644年、清国(満洲族)は万里の長城を越えて「明」を倒して領土を拡大。
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●1911年10月10日、辛亥革命
支那人(漢民族)たちが清王朝(満州族)を打倒して清国政府を、
その故郷である満州に追い返し、長年にわたる満州族の支配からの
民族独立(三民主義の一つ)をめざして戦い、中華民国を建てた。
これで支那は満州から分離独立して支那と満州は別になったはずだった。
「満洲」は民族の名満州と支那は別清室優待条件
●1912年1月1日、中華民国成立(支那独立)宣言。
孫文(漢民族)を初代臨時大総統とする中華民国が南京に成立。
1911年の辛亥革命で漢民族(支那人)たちが清王朝(満州族)を打倒し、
清国政府をその故郷である満州に追い返し、長年にわたる満州族の支配からの
民族独立(三民主義の一つ)をめざして戦い、翌1912年1月1日、中華民国を
建てたので支那と満州は別になったはずだったが、中華民国は清朝の支配地域
を全て継承したいがため、漢民族とチベット民族、ウィグル民族、
蒙古(モンゴル)民族、満州民族は、つまり「中華民族」であるという
新たな民族概念を創出し、漢民族だけでなく「中華民族」の土地は
すべて中華民国(支那)の土地だと主張するにいたり、チベット、ウイグル、
蒙古(モンゴル)、満州が独立するのを認めなかった。
日本は満州に権益があったこともあり、親日の満州族やモンゴル族を支援し、
治安を良くして発展することに尽力した。
★「支那」呼称について★満洲★清★辛亥革命~第一次国共合作
清朝(満州族)は北洋軍閥を率いる袁世凱に反乱軍(辛亥革命)の鎮圧を
命じたのだが、袁世凱は反乱軍(革命派)側と極秘に連絡を交わし、
事態収拾のため「中華民国」を建てて革命派の孫文を臨時大総統にする事を
清朝に進言する代わりに、すぐに自分を大統領にする事を孫文に求め、
自分が大統領に就任したら、清朝の皇帝・宣統帝を退位させ、
共和制に移行する事も孫文と約束していたので、
約束どおり孫文は大総統を去り、袁世凱が大総統となった。
1912年2月12日、袁世凱は最後の皇帝・宣統帝を退位させ清朝は滅亡、
しかし袁世凱は孫文と対立し、革命派を弾圧して独裁体制を取るようになり、
革命は名ばかりとなった。

・2月2日、川島浪速らが清朝の皇族・粛親王を北京から脱出させ旅順に保護。
(第一次満蒙独立運動)

1913年(大正2年)8月の南京事件

●1913年(大正2年)、第一次排日土地法
カリフォルニア州で日本人の土地所有を禁止し、
借地期間を3ヵ年に制限する法案を可決。
アメリカは1908年に結んだ日米紳士協定を早くも破った。

●1914年、パナマ運河開通

●1914年~1918年、第一次世界大戦
ヨーロッパ白人たちの世界植民地奪い合いの末の、分け前をめぐる内輪もめ。

●1915年、英国が戦時立法としてインド防衛法を発令。
インド人の政治活動を制限。インド独立運動に対する英国の対応

●1915年(大正4年)、アメリカ、ハイチ侵攻。
ハイチはもともと独立国だったが、第一次世界大戦がはじまるとアメリカは、
「ドイツ軍が潜水艦基地をつくる恐れがある」、「米国人居留民を守る」
などといった口実でアメリカは海兵隊を送り込んでハイチを占領した。
アメリカはそのまま約20年にわたって占領し続けた。

●1915年(大正4年)、『対華21ヵ条の要求』と日華条約
辛亥革命(1911年)で清国が倒れて翌1912年に中華民国が成立したので、
清国時代に日清戦争の下関条約や日露戦争のポーツマス条約、満州善後条約
などで日本が得ていた支那や満州の権益の確認と、米英の介入や支那の排日で
非常に不安定になっていた日本権益を確固たるものにし、支那における
欧米列強の影響力を抑制しようとしたのが『対華21ヵ条の要求』であり、
その内容は欧米列強の権益と同程度か、むしろ温和なものであり、
特に新しい権益を要求したものではなかった。
そもそも、日本と中華民国が要求を出し合いながら話し合い、両国が納得を
して成立をした『日華条約』を他国が どうのこうの言おうが関係ない。
「条約」というものは常に対等な立場で結ばれるとは限らない。
現在の中国が「日米安全保障条約は けしからん!」と言うようなものだ。
「条約」は侵略ではない。条約を結ぶまでの過程、話し合いにおいて
相手に希望を言う「外交交渉」のなかでの要求は侵略ではない。
結果的には16条に減ったし、要求してその一部を相手に認めさせることは
「外交交渉」であって侵略とは言わないし普通の事である。
日華条約が結ばれると、すぐにアメリカがこの条約に難癖をつけてきた。

●1916年、モンゴル馬賊の巴布札布(パプチャップ)が日本軍部や
旧清朝の粛親王の後押しを得て軍事行動(第二次満蒙独立運動)

●1917年4月30日、張作霖が国民政府から独立を宣言。
・7月1日、張勲復辟事件。
北京で張勲が康有為らと清朝復活をめざしてクーデターを起こしたが失敗。
清室は最終的には免罪された。

●1917年(大正6年)
・全アジア地域からの移民を排斥する米国移民法制定
(日本は厳重な抗議を繰り返したため、日本は除外される)
・アメリカの対独参戦
(ヨーロッパに派兵し、連合軍に恩を売って地位向上)
石井・ランシング協定

●1917年(大正6年)2月18日、ドイツ軍の潜水艇からイギリス・フランスの
輸送船を護衛するため、駆逐艦「松」が3隻の僚艦とともに佐世保港を出発。
日本帝国海軍、地中海に奮戦す

●1917年(大正6年)、ロシア革命

●1918年(大正7年)8月2日~1922年10月25日、シベリア出兵
◆1919年3月22日、イワノフカ事件

●1919年1月18日~、パリ講和(平和)会議(第一次世界大戦の講和会議)
実力のある列強はイギリス、フランス、アメリカ、日本の4ヵ国になった。
この会議で日本は国際連盟規約宣言の中に人種平等の原則(人種差別撤廃条項)
を挿入することを提案し、17票中11票の賛成を得たが、委員長ウィルソン
米大統領は、「この決議には全員一致を要する」との理由で拒絶したうえ、
逆にアメリカは日本への敵対心を強め、排日運動を激化させた。パリ平和会議
の結果、6月28日、第一次世界大戦の戦後処理条約のベルサイユ条約締結。

人種の平等と世界平和,公正な世界を目指した日本
http://www.youtube.com/watch?v=L7KN5h8YHrE
http://www.nicovideo.jp/watch/sm19140174
米国黒人社会の日本観
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-272.html

●1919年4月15日、いわゆる「堤岩里虐殺事件」

●1919年7月25日、第1次カラハン宣言

●1920年(大正9年)、国際連盟発足。
アメリカ大統領のウィルソンの14ヵ条の平和原則により提唱され、
第一次世界大戦の戦後処理のパリ講和(平和)会議のベルサイユ条約に基づいて
国際連盟規約が定められ設立された。当初の加盟国は42ヵ国。
日本は1858年の開国から62年後のこのとき、国際連盟の常任理事国となった。
新渡戸稲造が事務次長に選ばれた。
★提唱国であるアメリカは、なんと【参加しなかった】。
1934年のソビエト連邦の加盟で加盟国数が60ヵ国に達したが、
これ以降は脱退・除名等で加盟国が減少に転じた。
第二次世界大戦後の1946年4月、国際連盟は解散して国際連合に移行した。

●1920年(大正9年)1月29日、尼港事件
ロシアのトリャピーチン率いる、ロシア人、朝鮮人、中国人四千名から成る、
共産パルチザン(遊撃隊)によって黒竜江(アムール川)の河口にある
ニコライエフスク港(尼港、現在のニコライエフスク・ナ・アムーレ)の
日本陸軍守備隊(第14師団歩兵第2連隊第3大隊)および日本人居留民が
無差別に虐殺される。

●1920年6月~1922年夏、シベリアにいたポーランド孤児を日本に受け入れ、
2年間で合計765名を祖国ポーランドに送り返す。大和心とポーランド魂
1920年7月、陽明丸(茅原基治船長)がロシアの子供たちを救う。
ロシア革命後の内戦下、ロシアの子供たち約800人を救うため、
陽明丸(茅原基治船長)がウラジオストクまで子供たちを迎えに行き、
太平洋と大西洋を約3ヵ月間航海してフィンランドへ送り届ける。

●1920年(大正9年)、第二次排日土地法成立。
カリフォルニア州で日本人の借地権も禁じる法案が可決。
今度は日本人移民の子供まで土地所有が禁止されてしまった。
同様の法案は1924年までに10を超える州で成立した。

★★★1921年11月12日、ワシントン会議
この会議でアメリカは次の3つに成功した。
1.日本の太平洋進出を抑える。
主力戦艦の保有比率を米:英:日で5:5:3に確定したが、ふざけたことに
アメリカのハワイと、イギリスのシンガポールの配備は除外された。
2.日英同盟の終了。
日英同盟の代わりという事で、日本、アメリカ、イギリス、フランスで
四ヵ国条約が締結されたが、太平洋の現状維持を決めただけで大した意味は
なく、本当の目的は日英同盟を解消させることだった。日英同盟の不更新決定
によって第三次日英同盟の期限である1923年8月17日に日英同盟は失効した。
これにより日本をアメリカの集中攻撃から護る防壁はすべて取り除かれた。
3.支那における「門戸開放」の明文化、日本の特殊権益の否認。
九ヵ国条約は支那権益に関して、どの国も平等であるという内容なのだが、
そもそも1911年の辛亥革命で支那と満州は別になっていたのだから、
満州は『九ヵ国条約』の範囲ではなかったはずだった。
また、南下侵略して来るソ連は『九ヵ国条約』に入っていなかったので、
ソ連は権益を南に自由に広げることができるので、
ソ連の侵略に抵抗しなければならない日本にとっては不利な条約であった。
1917年の石井・ランシング協定で、日本は満洲の権益、米国はフィリピンの
権益を持つ事を日米両国は認め合っていたが、
この1921年11月12日~1922年2月6日のワシントン会議で九ヵ国条約が結ばれ、
支那に関してどの国も平等となってしまったが、
どこまでが支那なのか範囲が明確ではなく、
満州が支那に含まれるのかも曖昧なままであった。
このとき日本は世界に、1911年の辛亥革命で支那は満州族の支配から独立
して支那と満州は別になっていることを、もっと世界に主張すべきだった。
欧米の植民地はそのままであり、石井・ランシング協定は解消され、
アメリカのフィリピン権益は維持されたまま、
これ以降、新たな植民地は作ってはいけない事になった。
さらに日本は山東省の旧ドイツ権益を放棄させられ、
対華21ヵ条の希望条項を撤回させられた。

●1922年
・5月12日、張作霖が東三省の独立を宣言
※東三省とは、盛京省(=奉天省=現在の遼寧省)、吉林省、黒竜江省の3省

●1922年(大正11年)11月13日、アメリカ最高裁が「黄色人種(つまり日本人)
は帰化不能外国人であり、帰化権はない」という人種差別丸出しの
判決を出し、すでに帰化した日本人の権利まで剥奪できるとした。
第一次大戦でアメリカ兵として従軍した日本人移民まで帰化権を剥奪された。

★★★1923年8月17日、日英同盟 失効

●1923年(大正12年)9月1日、関東大震災直後の、いわゆる「朝鮮人虐殺」。

『孤独な帝国 日本の1920年代』駐日フランス大使 ポール・クローデル著

1924~27年(大正13年~昭和2年)、第一次 幣原外交
●1924年、連邦法として『絶対的排日移民法』が成立。(排日政策の集大成)
米国は国家として日本移民を拒否した。ヨーロッパからは毎年何十万人もの
移民を入れていたのに、日本人移民は一人も入れない法律を作った。これは
『日米通商航海条約』違反であり、アメリカが主張する門戸開放、機会均等
とは、単にアジアに遅れて入って来た米国が一方的に日本の満州権益を始めと
する他の列強国のアジア権益に入り込んで利益を得るための偽善であった。
1924年、第一次国共合作
●1924年11月29日、溥儀が日本公使館に移る。
●1925年2月23日、溥儀が北京の日本公使館を出て天津の日本租界に移る。
復辟をめざす鄭孝胥や羅振玉らが側近となる。

●1925年4月22日、『治安維持法』公布

●1925年5月、反日ストライキ暴動事件。
中国総工会(中国共産党を中心とする労働組合)は、
日華紡績、豊田紡績、青島紡績などでストライキを続発させた。

●1925年5月5日、『普通選挙法・改正』公布

●1926年(大正15年)7月、蒋介石が第一次北伐開始。

●1927年(昭和2年)1月5日、イギリス租界奪取事件
●1927年2月、武漢政府樹立
1927年(昭和2年)3月24日の南京事件
中国の国民革命軍第6軍と第2軍が
南京を占領したときに日本人が被害を受けた南京事件。
南京に入った北伐軍が日本領事館を襲撃し、日本人居留民に対して
略奪、暴行、女性への乱暴、殺害など悪辣の限りを尽くした。
英・米領事館なども同様の被害を受け、
英米軍艦は揚子江から砲撃をするなどの軍事行動をおこなった。
【注意】おもな南京事件は3つある→1913年1927年1937年12月~
●1927年(昭和2年)4月3日、漢口事件
揚子江中流の漢口で、中国人たちが暴徒と化して日本租界になだれ込み、
日本人の住居や日系工場を片っ端から掠奪した。
●1927年4月、上海クーデター
●1927年(昭和2年)5月28日、第一次山東出兵
●1927年7月、国共合作終了
●1927年(昭和2年)7月25日、張作霖が日本との満鉄併行線敷設禁止協定を
無視し、米国から資本提供を受けて満鉄併行線を建設。

●1927年9月、国民党統一。蒋介石が政府と国民党のポストから身を引く事を
条件に、汪兆銘の武漢政府と蒋介石の南京政府が合体して国民党政権が統一。
●1927年11月5日、田中・蒋会談
●1928年4月、蒋介石が第二次北伐を開始。
●1928年4月19日、第二次山東出兵

●1928年、日本兵不法拘留事件。
日本守備隊10数名が支那軍によって不法拘留される事件などが数件起こった。

●1928年(昭和3年)5月3日、済南事件
北伐軍(蒋介石軍)が山東省済南市に入城し、
日本人居留民に乱暴狼藉を働いた事件。
邦人経営商店での略奪行為をきっかけに日本軍と衝突。
日本の被害は、戦死9名、負傷32名、居留民の惨殺14名、
暴行侮辱30名余、奪被害戸数136戸、被害人員約400名。
1928年(昭和3年)5月3日の済南事件後、ある外国人から日本軍に感謝の手紙

●1928年(昭和3年)6月4日、張作霖爆殺事件
【ドミトリー・プロホロフ】
張作霖爆殺事件はソ連特務機関の謀略であった[桜H21/12/7]
http://www.youtube.com/watch?v=1si9hA_vfsk
●1928年(昭和3年)6月9日、南北統一(北伐完了)
・7月、支那兵たちの一団により東陵(清朝代々の皇帝の墳墓)が
爆破・盗掘される。溥儀が国民政府に抗議。

●1928年(昭和3年)8月27日、不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)
国際紛争を解決する手段として締約国相互での戦争を放棄し、紛争は平和的
手段で解決することを規定した条約だったが、「侵略」の定義は行なわれず、
「侵略か自衛か」は当事国が決めてよかったうえ、米英仏などの要望により
自衛戦争は除外されたので、単なる理想主義的な条約となった。また、
経済制裁が戦争に含まれるのかは不分明であったが、1928年12月7日の
ケロッグ米国国務長官は米国議会上院の不戦条約批准の是非をめぐる討議で、
経済封鎖は戦争行為そのものだと断言しているので、米国ケロッグ国務長官の
認識でいえば、米国による対日経済制裁は戦争行為そのものであり、日米戦争
はアメリカから日本に戦争を仕掛けたといえる。不戦条約と自衛権
米の援蒋と対日制裁は不法か?

●1928年12月29日、満州易幟(えきし)
●1928年(昭和3年)、蒋介石、アメリカで反日宣伝工作
1928年、革命外交

●1929年、済南他の地区で支那保安隊に日本兵が銃撃を受け、
2名死亡、2名重傷の事件が起こった。

1929年7月~1931年、第二次 幣原外交
1920年代のまとめ
●1929年(昭和4年)10月24日(木曜日)、世界大恐慌
ニューヨークの証券取引所で株価が大暴落した(暗黒の木曜日)。
一時は持ち直したが、その5日後の29日(火曜日)に
再び暴落した(悲劇の火曜日)。
◆5月に米国下院でホーリー・スムート法が通過したのが引き金である。
●1930年(昭和5年)3月、米国上院でもホーリー・スムート法が通過し、
両院の協議を経たのち、6月17日、ホーリー・スムート法は成立した。
アメリカは支那の「門戸解放」を唱えていたくせに
自国の市場は閉鎖し、ブロック経済に移行した。
田中上奏文
●1930年(昭和5年)1月21日~4月22日、ロンドン軍縮会議
●1930年(昭和5年)5月30日夜から31日、間島暴動
●1930年、長沙暴動
●1930年(昭和5年)10月19日、スタール博士が帰国前夜に全国ラジオ中継講演
●1930年(昭和5年)10月27日、台湾 霧社事件

●1930年(昭和5年)、蒋介石が「共産軍掃討作戦」を開始

●1931年6月27日、満州で中村大尉殺害事件
中村大尉が満州を地理調査中に行方不明となり、
のちに支那人部隊に殺害されたと判明。

●1931年(昭和6年)7月2日、万宝山事件
満州の長春の北にある万宝山で朝鮮人農民(日本国籍)が
支那人農民に襲撃されたため、朝鮮の各都市で朝鮮人が支那人を多数殺害。
そのため満州などで排日運動が更に激化。

米国が張学良に兵器工場建設を援助。

■■■重要■■■  大東亜戦争までの内閣
満州事変前~満州事変~支那事変まで
満州地域における日本人や日本関係施設の被害
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-111.html
満州事変についての大東亜戦争後の証言 http://bit.ly/1QMKjZG
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-710.html

テロ攻撃に備えた満鉄の武装列車(九四式装甲列車)
テロ攻撃に備えた満鉄の武装列車(九四式装甲列車)

門戸開放主義
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-141.html
満州事変を生んだ内外要因 ブロック経済から生き延びるために
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-291.html
満洲の現状を知らない政治家の責任
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-288.html
満州事変にいたる経緯
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-110.html
◆◆◆◆◆1931年(昭和6年)9月18日、満洲事変はじまる。
日本の満州権益は1904年2月8日~1905年9月5日の日露戦争の戦後処理条約
『ポーツマス条約(1905年9月5日)』や『満州善後条約(1905年12月22日)
によって得られた正当なものでした。
1931年(昭和6年)9月18日、奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖付近で、
敵兵が南満州鉄道の線路を爆破(柳条湖事件)。
現場に駆けつけた日本の鉄道守備隊(関東軍)に
対しても敵兵は攻撃を仕掛けて逃げました。
日本の鉄道守備隊は軌条に沿って追いかけ、
敵兵は張学良の本拠地である北大営に逃げ込みました。
その北大営からも日本の鉄道守備隊に銃撃してきたので、
関東軍が本格的に報復軍事行動を起こして満州事変が勃発しました。
攻撃されて反撃するのは国際慣習法上の自衛行為です。
このように柳条湖事件は「犯人は支那軍」というのが本来の通説であり、
日本(関東軍)犯行説が出たのは大東亜戦争後です。
関東軍指導者が殆ど逝去された後に、
本当かどうか検証のしようがない「証言」のみが出て、
なぜか通説になってしまっている状態です。
物的証拠も状況的証拠も確たるものはなく、
主犯とされる石原莞爾も一貫して否定しています。
1931年9月15日、奉天総領事の林久治郎が「推察」として
「関東軍が近く軍事行動を起こす」旨の機密電報を幣原外相に
送ったことにより、それを抑えるためとして建川美次少将が満州・奉天に
派遣されますが、「推察」の根拠が検証されなければ
証拠にも論拠にもならず、派遣されたこと自体は何の根拠にもなりません。
鉄道爆破・守備兵襲撃などされたら応戦膺懲するのは当然の事であり、
鉄道破壊犯討伐という鉄道守備の行動でした。
満洲事変は1933年5月31日の『塘沽(タンクー)停戦協定』で終結しました。
4年後の1937年になって満洲事変を理由に盧溝橋事件や第二次上海事変など、
まったく別の場所で武力攻撃を仕掛けてくることは不法です。
日本はアメリカによって無理矢理に開国させられて以降、すべて条約によって
行動していました。日本以外の、順法でない「ならず者国家」どもに、
さんざんな目に遭ってきたのが我が日本国なのです。
関東軍1万人で張学良軍30万人らを満州から追放した。
『満州事変』についての反応
東京裁判 弁護側資料 満州関連
人心を安定させる宣撫班
●1931年10月、満州各地の代表が溥儀に出馬要請。
●1931年11月10日、溥儀、天津を出発。
●1931年(昭和6年)11月、中華ソビエト共和国臨時政府
●1932年1月7日、スティムソン・ドクトリン
毅然とした態度こそ尊敬される
●1932年(昭和7年)1月28日~5月5日、第一次上海事変
上海市郊外に中国軍3万3千人が現れ、上海共同租界に「金を出せ!」と強盗
のような不当な要求をしてきた。上海共同租界は英米日仏伊軍が地区ごとに
警備分担していたが中国軍は日本軍のみを攻撃してきて戦闘になり日本軍が
応戦して中国軍を追っ払った。事後処理の上海停戦協定では協定線が設定
され、もう中国軍は これ以上、上海共同租界に近づくなと約束させられた。
●1932年(昭和7年)2月9日、血盟団事件
「血盟団事件、5.15事件、2.26事件」の大きな流れ。
●1932年(昭和7年)3~9月、リットン報告書
1932年3月、中華民国の提訴と日本の提案により連盟からリットン卿を
団長とする調査団が派遣され、3カ月にわたり満州を調査、
9月に報告書(リットン報告書)を提出した。
「リットン報告書」について~『 アメリカの鏡・日本 』より抜粋
『リットン報告書』は日本の正当性を裏付ける内容だった!
●1932年3月1日、日本がバックアップし、清の宣統帝溥儀が満州国建国宣言。
首都は長春を改称して「新京」。溥儀、満州国の執政(国家元首)に就任。
支那に侵略されていた満州を満州族が取り戻した。
・9月15日、『日満議定書』によって日本が満州国を承認し、
満州における日本の既得権益の尊重や、日本軍駐屯の2条などを規定した。
世界の戦国時代の戦時下なので日本は満州を補佐した。傀儡ではない。
清室優待条件(協定)『紫禁城の黄昏』が明らかにした真実
●1932年(昭和7年)5月15日、五・一五事件
「血盟団事件、5.15事件、2.26事件」の大きな流れ。
●1932年(昭和7年)7月21日~8月20日、オタワ会議
イギリス連邦の経済ブロック政策(イギリス連邦経済会議によるオタワ協定)
による高関税政策が開始され、日本はインド・イギリスブロックからも
事実上、締め出されたことから、満州や台湾など(円ブロック)が貿易の対象
となり、重工業化へ向けた官民一体の経済体制転換を打ち出した。
世界大恐慌は保護貿易思想が大きな原因だったのだが、あたかもマルクスの
「予言」が的中したかのように理解され、マルクス主義のプレステージを
高めてしまう。日本のインテリもマルクスに傾倒する。
日本の青年将校までも支配階級、資本家、政治家が悪いから、
自分たち兵士の実家が貧乏なのだと思い込まされてしまう。
ブロック経済

●1932年9月15日、日満議定書(日本国と満洲国の間で調印された議定書)

●1932年、平頂山事件

●1933年(昭和8年)2月初旬、熱河作戦
●1933年(昭和8年)5月3日~25日、関内作戦

●1933年(昭和8年)3月27日、日本、国際連盟を脱退

◆◆◆1933年5月31日、『塘沽(タンクー)停戦協定』で満州事変が終結。
塘沽停戦協定後、目立った戦闘はなくなり、事実上、満州事変は終結した。
暴力集団は満州から排除され、満州の治安は日本軍によって回復され、
満州国と支那の境界線を明快に決めた。4年後の1937年(昭和12年)7月7日の
盧溝橋事件まで、日本と支那の間に戦争のない状態が続く。
満洲事変の終結とその後

国連加盟国が50ヵ国ほどだった時代に、世界23ヵ国が満州国を承認した。
日本、中華民国、ドイツ、イタリア、スペイン、ヴァチカン、ポーランド、
クロアチア、ハンガリー、スロバキア、ルーマニア、ブルガリア、ドミニカ、
フィンランド、デンマーク、エルサルバドル、エストニア、リトアニア、
タイ、ビルマ、フィリピン、自由インド仮政府、蒙古自治邦(内モンゴル)
http://megalodon.jp/2010-0505-2245-04/www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/manchu7.html

◆満州の鉄道や都市開発等は日本をも凌いだ程で、
満州事変前の人口3000万人が10年後の1941年には4300万人に急増した。
もう一つのアメリカ合衆国 『満州』
日本の戦前の国定教科書の「国旗」の記述
●1933年、中国人の約8人に1人がアヘン常習者だった。
中国軍の戦費の4分の3はアヘンで賄われていた。
中国のアヘン状況(1933年)日本のアヘン政策

●1934年3月、溥儀は自らの意思で満州国の皇帝に即位した。
映画「ラストエンペラー」は、
『原作「紫禁城の黄昏」R.F.ジョンストン著』の通りには作られていない。

●1934年3月23日、米国議会で、タイディングス・マクダフィー法成立。
別名『フィリピン独立法』。10年後のフィリピン独立を承認。
しかし優しい気持ちから独立を認めたわけではなかった。
◆『アメリカ外交50年』ジョージ・F・ケナン著(1951年)
P23-25 フィリピン&満州 関連部分
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-118.html

●1934年(昭和9年)10月、共産軍が『長征(=大西遷)』(実態は逃避行)。

●●●1934年6月8日~12月21日、第一次日蘭会商 決裂。
●●●1936年6月8日、積荷に関する合意『日蘭海運協定』成立。
●●●1937年4月9日、石沢・ハルト協定(日蘭通商仮協定)締結。

●1935年5月、天津日本租界事件
1935年6月10日、梅津・何応欽協定、1935年6月27日、土肥原・秦徳純協定
●1935年(昭和10年)、北支分離(華北分離)工作 冀東・冀察政権成立
北支分離(華北分離)工作を日本がおこなった経緯

●1935年(昭和10年)8月4日、欒(らん)州事件
●1935年8月31日、アメリカ、中立法制定。

●1935年11月9日、中山水兵射殺事件。
日本海軍・上海特別陸戦隊の中山秀雄一等水兵が上海共同租界の兵舎付近で
射殺された事件。秘密結社「藍衣社」の一分派の犯行とみられたが、
中国側は容疑者を無罪にしようとした。
●1935年(昭和10年)11月11日、日比野洋行襲撃事件

平和はいかに失われたか

●1936年(昭和11年)2月、共産軍が山西省に侵入
日本は北支那の日本人居留民保護のため支那駐屯軍を3倍以上増強した事で
「大幅な増強」と批判されるが1570名から5774名の増強は、北支に展開する
国民政府29軍の10万に比べると大した増強ではない。

●1936年(昭和11年)2月26日、二・二六事件
「血盟団事件、5.15事件、2.26事件」の大きな流れ。

●1936年1月21日、汕頭邦人巡査射殺事件。
汕頭の日本領事館の日本人警官が射殺される。
●1936年7月10日、上海邦人商人射殺事件(萱生事件)。
三菱商事社員の萱生鑛作が子供を連れて上海市内を散歩中に射殺される。
●1936年(昭和11年)8月24日、成都事件。日本人記者2名が惨殺される。
●1936年(昭和11年)9月3日、北海事件
広西省北海の日本人商店を暴徒が襲い店主を殺害。
●1936年9月19日、漢口邦人巡査射殺事件
漢口で日本領事館の吉岡庭二郎巡査(長崎県出身)が射殺される。
●1936年9月23日、上海日本人水兵狙撃事件
またも上海共同租界で第三艦隊旗艦出雲乗組員の水兵4名が上陸散歩中、
4~5名の支那人により狙撃され死傷。

●1936年(昭和11年)11月14日、綏遠(すいえん)事件
●1936年(昭和11年)11月25日、日独防共協定
●1936年(昭和11年)12月12日、西安事件
もともと蒋介石は日本に留学経験もあり対日戦には消極的で共産軍を攻撃
していた。蒋介石は陝西省の延安に追い詰めた壊滅寸前の共産軍に総攻撃を
かけるため、彼の部下である張学良(東北軍)を陝西省の省都・西安に送り
込んだのだが、張学良は共産軍との戦いに消極的であったため、あとから
蒋介石も西安に督戦(監視)に行ったのだが、すでに共産党に寝返っていた
張学良に捕らえられ共産軍の捕虜となってしまった。蒋介石は助命の代わり
に共産党掃討をやめ、一緒に日本と戦う事を約束して第二次国共合作が
成立し、絶滅寸前だった支那共産党は生き返ってしまった。
※「国共合作」とは国民党と共産党が協力すること。
※「第一次国共合作」は1924年1月20日~1927年。
これにより蒋介石の本隊が上海共同租界の日本軍・日本人を攻撃したが
(第二次上海事変)蒋介石は日本軍に返り討ちにされ南京に逃げた。
日本軍は追撃して南京を陥落。蒋介石は武漢に逃げた。日本軍は追撃して
武漢も攻略。蒋介石は重慶に逃げたので日本軍は重慶爆撃を行なった。
これが支那事変であるが、支那事変の始まりが盧溝橋事件であれ
第二次上海事変であれ、どっちにしても支那側から攻撃して来たのである。
これに対し米英は日本に経済制裁を仕掛け、蒋介石に軍事援助を続けた。
●1937年4月26日、ゲルニカ空爆

おもな不法抗日事件
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-630.html
支那事変(日中戦争)の発端
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-554.html

●1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件
演習直後の日本軍に中国側から銃撃してきた。
東京裁判 弁護側資料 盧溝橋事件関連 ◆支那事変 戦跡の栞
当時の新聞記事でみる支那事変(盧溝橋事件~第二次上海事変~南京戦)
『日中戦争、日本が勝っていたら…』
・7月9日、停戦協定が成立。蒋介石は4個師団と戦闘機を北支に派遣。
・7月10日、200人以上の中国兵が迫撃砲で攻撃再開
・7月11日、停戦協定が成立。日本政府、北支への派兵を声明。
・7月13日、『大紅門事件』支那兵が北平(北京)大紅門で
移動中の日本軍トラック2台に手榴弾を投げ込み日本兵4人が死亡。

・7月14日、中国兵が日本の騎馬兵を惨殺
・7月16日、事件を収集させようとする宋哲元に対し、
蒋介石は「日本の策謀に乗じるな、戦備を整えよ」と打電

・7月16日、アメリカのコーデル・ハル国務長官が日本の対支政策を非難
・7月17日、蒋介石がラジオで『生死関頭』演説を行い戦争の決意を表明
・7月25日、郎坊事件、日本軍が攻撃を受ける。
・7月26日、広安門事件、日本軍が攻撃を受ける。
・7月28日、日本軍が北支への攻撃を開始。
支那が停戦協定に反し、たび重なる攻撃をして来たため、日本政府は、
とうとう我慢できなくなって不拡大の方針を撤回。支那に対して最後通告を
出し、留保していた内地三個師団の派遣を命じ、日本軍(支那駐屯軍)は、
宗哲元率いる第29軍への総攻撃を開始。するとそれまで日本を挑発していた
支那軍はあっという間に北京・天津地区を放棄して南の方へ逃げてしまった。
日本軍はわずか1日あまりで北京・天津地区を平定。
日本が優位に立った7月29日、天皇陛下から近衛首相に、もうこのへんで
外交交渉で決着させてはどうか、という意向が伝えられ、そこで外務省が
和平案を作成することになった。日本が北京・天津地方を占拠して圧倒的に
優位にあるときに、支那に対する和平提案の発想が生まれていた。
・7月29日、通州事件。日本人居留民約260名が虐殺される。
●1937年(昭和12年)8月9日~10月17日、チャハル作戦(察哈爾作戦)
・8月9日、大山事件。大山中尉と斉藤一等水兵が中国保安隊に惨殺される。
船津和平会談の日だったが中国保安隊が上海の虹橋飛行場近くで海軍陸戦隊の
大山勇夫中尉と運転手の斉藤要蔵一等水兵を惨殺して和平会談をぶち壊した。
この日の日本側の和平案は下記のように大幅に譲歩したものであった。
いかに日本が戦争をやめたがっていたのかがわかる。
◎塘沽協定の解消
◎梅津-何應欽協定の解消
◎土肥原-秦徳純協定の解消
◎冀察政権の解消
◎冀東特殊貿易の廃止
◎非武装地帯海面の中国側密輸取締りの恢復
◎華北における自由飛行の廃止
◎支那側が要求すれば上海停戦協定をも解消

・8月11日、上海市長が日本領事に電話をかけ、
「自分は無力で何もできない」と通報。
危機を感じた日本は同日夜、陸戦隊一支隊を予防のために上陸させた。

・8月12日未明、中国軍3万人が上海国際共同租界の日本人居留区域を包囲。
このため日本領事は1932年・上海休戦協定の締約国である米英仏などで組織
する国際委員会を再び招集し、中国軍の撤退を要求する共同抗議、および
何らかの制裁措置を講ずるよう提案を行なったが、反日・親蒋介石で固まっ
ていた列国は全く取り上げようとしなかった。上海市長は「中国は既に侵略を
受けている」との声明を発表し、最後に喩市長は「中国軍は攻撃されない限り
攻撃はしない、中国政府として認められるのは、せいぜいそれ位だ」と断言。
もし米英仏が日本と協力して『1932年 上海停戦協定』の順守に努力していた
なら、上海租界の人々の生命、財産は保護され、第二次上海事変は未然に防止
できた可能性は高い。米英仏は上海停戦協定を中国側に順守させる義務を怠っ
たどころか、逆に中国側を教唆煽動して日本との戦争を助長したのである。
当時、上海の日本海軍陸戦隊は4,000名のみだったので、
海軍は改めて陸軍の派遣を要請した。

★盧溝橋事件(1937.7.7)を含め、これまでの戦闘は突発的、散発的な
ものであったが、第二次上海事変から本格的に支那軍が攻撃してきたので
支那事変は第二次上海事変(1937.8.13)から始まったとみてよい。
ソ連・コミンテルンに指導された中国共産党とアメリカに支援された国民党
とが抗日統一戦線を形成し、反日運動を激化させていった状況の中で、
強引に日中両国間に戦争状態を作り上げようとして策動した結果、
勃発したものである。中国側を米英仏ソの4ヵ国が対日抗戦の継続を条件に
支援し続けたことより、長期化、どろ沼化した。

日本は何度も何度も支那に和平交渉を申し込んでいた。
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●1937年(昭和12年)8月13日、第二次上海事変はじまる。
午前10時半頃、商務印書館付近の中国軍(蒋介石軍)が日本軍陣地に対し、
突如、機関銃による射撃を開始して日本軍との間で戦闘状態となり、
「第二次上海事変」が始まった。

ドイツ軍事顧問団の訓練を受け、ドイツ製などの最新の兵器を持った
中国軍に対して寡兵の陸戦隊は奮戦した。
八字橋では10倍の敵に対して5時間にわたって戦い、支那八十八師を撃退。
日本人居留民はどんどん引き揚げたが、通州事件が再現されるかもしれない
との恐れから、残っている一人一人の邦人に警備がつけられ、
汽船やブロードウエイマンションに避難した。
それでも800名の婦女子が特別陸戦隊の炊き出しに従事し、
残った男子は土嚢作りを手伝い、のべ5万個も作った。
第二次上海事変における中国人による日本人捕虜の残虐処刑

英米仏は日中両軍の戦闘開始後に、
日本軍と中国軍の両方が上海国際共同租界から撤退することを勧告。
以後は日本軍を除く英米仏軍が上海国際共同租界の
治安維持を担当するという理不尽な提案を行なった。
本来ならば1932年・上海休戦協定に違反して協定線内に進入して攻撃してきた
蒋介石軍に対して、日英米仏軍が一致して対処するのが本筋だった。

・8月14日、中国軍が上海市街のキャセイホテルやパレスホテルなどを爆撃。
中国人や外国人に大量の死傷者を出した。中国はこれを日本軍の仕業だと
世界中に宣伝した。日本海軍は台風の中、日本から直接爆撃機を飛ばして
南京などにある中国軍の飛行場や前線基地を爆撃し(世界初の渡洋爆撃)、
上海などに居た日本人を助けた。

・8月15日、日本は松井石根大将を司令官とする上海派遣軍(援軍)を編成。

・8月23日、中国軍が上海のデパートを爆撃。
これも日本軍の仕業と世界中に宣伝。

・10月5日、ルーズベルト大統領が「戦争伝染病を隔離せよ」と演説。

・10月26日、上海近郊の要所である大場鎮が陥落。中国軍は南京方面へ敗走。
中国軍の退却時には堅壁清野と呼ばれる焦土作戦が行われる事が多く、
この時も中国側の敗残兵により掠奪、破壊、放火などが行なわれた。
上海フランス租界の重要機関は放火され、避難民に紛れた敗残兵と便衣兵
(民間人の服装をした兵士)とフランス租界の警官との間で銃撃戦も起きた。
上海の英字紙には中国軍が撤退にあたり放火したことは軍事上のこととは
認めながらも残念なことであるとし、一方、中国軍の撤退により上海に
居住する数百万の非戦闘員に対する危険が非常に小さくなったとして
日本軍に感謝すべきとの論評がなされた。
中国軍の清野作戦(=三光作戦、焦土作戦、燼滅(じんめつ)掃討作戦)
10倍近い中国軍を壊走させた日本の上海派遣軍は、
10月20日に編制された第10軍(柳川平助中将)とともにすかさず追撃に入った。
●1937年(昭和12年)11月2日~、第1次トラウトマン和平交渉(工作)
広田外相が正式に駐日ドイツ大使に仲介を依頼し、日本側の和平条件を提示。
●1937年11月3日~15日、ブリュッセル会議
●1937年(昭和12年)11月6日、駐支ドイツ大使が日本の第1次和平案を伝えるが蒋介石は拒否。
●1937年(昭和12年)11月、蒋介石(国民党)、南京陥落前に南京から逃走
最初は漢口、そして重慶に逃げ込んで重慶を首都にして重慶政府を樹立した。
●1937年(昭和12年)12月10日、南京を包囲された中国軍が日本の降伏勧告を無視。
●1937年(昭和12年)12月12日、パネー号事件
●1937年(昭和12年)12月13日、南京陥落。 ◆戦場手記『征野千里』
中国の便衣兵、督戦隊(とくせんたい)、清野戦術

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■■■いわゆる南京大虐殺URL図書室■■■
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-518.html
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当時から宣伝不足は指摘されていた!

●1937年(昭和12年)12月21日~、第2次トラウトマン和平交渉(工作)
●1938年(昭和13年)1月2日、ドイツ大使トラウトマンが日本の第2次和平案
の返事を聞くために蒋介石を訪問しようとしたが、蒋介石は会わず。
・1月15日、日本の第2次和平案も蒋介石が拒否。
・1月16日、第一次近衛声明「国民政府(蒋介石)を相手とせず」

●1938年(昭和13年)4月13日、いわゆる「三竃島事件

●1938年6月11日夜、蒋介石軍が日本軍の進軍を阻止するため、黄河の堤防を
破壊した。日本軍による救出活動も虚しく、住民60万人が罹災し、12万人が
行方不明となった。中国軍はこれを日本軍の仕業だと世界中に宣伝した。
非道の中国軍から中国人を守った旧日本軍
日本人の武士道精神
●1938年7月~、日支和平工作
●1938(昭和13)年7月9日~8月11日、張鼓峰(ちょうこほう)事件
ソ連軍が満州国領内に侵入、侵略。
●1938年(昭和13年)10月6日、米国の対日抗議
●1938年10月19日
支那軍は広東東方約50キロの増江の橋を爆破し増城城内を焼いて退却。
●1938年(昭和13年)10月26日、武漢三鎮陥落
武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)が日本軍によって陥落。
(支那軍は武漢撤退の際、すべての建物に爆弾をしかけた。)
以後、米国が支援する蒋介石の重慶政府、日本が支援する汪兆銘の南京政府、
ソ連が支援する毛沢東の延安政府による三つ巴の抗争が主流となった。
汪兆銘は1944(昭和19)年3月、南京で病に倒れ、名古屋で治療を受けたが
11月10日、帰らぬ人となった。翌年、日本は敗れ南京政府は瓦解。戦後、
米国は蒋介石への支援をやめたため毛沢東が勝ち、蒋介石は台湾へ逃げた。
●1938年(昭和13年)11月3日、第二次近衛声明 「東亜新秩序」
●1938年11月4日、アメリカ、新中立法成立
●1938年11月13日、長沙焚城
●1938年11月20日、「日華協議記録」調印。
●1938年12月4日~1943年8月23日、重慶爆撃。
日本軍が重慶に約4年9ヵ月の間、断続的に計218回の爆撃を行ない、
約11800人(1回に換算すると54人)の死者が出た。
東京大空襲と重慶爆撃を同列にする愚東京大空襲
●1938年(昭和13年)12月18日、汪兆銘、重慶脱出
●1938年、河豚計画。日本はヨーロッパで迫害されていたユダヤ人の
受け入れを検討し、1939年にユダヤ人難民が上海の『日本租界』にあふれた。
●1938年、反日世論形成
●1939年
・1月、日本に対して航空機および部品の道義的禁輸を実施。
・対日経済制裁『クレジット禁止』を実施。
・3月、米国は中国が軍用機や発動機を購入のために1500万ドルを借款
●1939年5月6日、汪兆銘、上海へ脱出
●1939年(昭和14年)5月11日~9月16日、ノモンハン事件
ソ連軍と外蒙軍が満蒙国境のハルハ河を渡って満州国領内に侵入。
●1939年(昭和14年)6月13日、ソ連が中国に1億5千万ドルの借款
●1939年(昭和14年)6月14日、天津イギリス租界封鎖
■■■1939年7月26日、米国が日米通商航海条約破棄を一方的に日本へ通告。
■■■(ちなみに実際の失効は17条により半年後の1940年1月26日)
野村吉三郎外相は、破棄された日米通商航海条約に代わる新通商条約あるいは
暫定協定の締結を希望し、グルー駐日大使と日米改善のための会談を行う。
野村外相は新通商条約または暫定協定の締結と引き換えに米国の在支那権益の
尊重と揚子江下流の解放の意図があることを申し出るが米国は拒否した。
●1939年8月23日、独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)。
日本は「日独防共協定」違反として抗議。
●1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し第二次欧州(世界)大戦勃発
※ドイツが宣戦布告しなかった事については批判されない。
●9月3日、ポーランドの同盟国であるイギリスとフランスがドイツに宣戦布告
●9月17日、今度はソ連もポーランド東部から侵攻を開始。
しかし英仏はソ連には宣戦布告しなかった。ソ連は11月にはフィンランド
にも侵攻。一連のソ連の侵略に対して国際連盟はソ連を除名しただけだった。
このほかソ連は占領地域でカティンの森事件や1939年~1941年にポーランド
市民180万人を殺害したり国外追放したうえ、バルト3国にも進駐し、
反ソ分子を逮捕、虐殺、シベリア収容所送りにしてバルト3国を併合。
ルーマニアからも領土を割譲させたが、のちのニュルンベルク裁判で
ソ連はドイツを裁く裁判官だった。(ソ連の宣戦布告なしも批判されない)
●1939年12月、国際連盟、活動を休止。
国際連盟は第1次世界大戦後アメリカのウィルソン大統領の提唱で1920年
(大正9年)に設立したが第二次世界大戦の勃発に伴い、連盟は機能不全に陥り
1939年12月の理事会においてフィンランド侵略(冬戦争)を理由に
ソヴィエト連邦を除名したのを最後に、理事会、総会共に活動を休止した。

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■■■強制連行と従軍慰安婦URL図書室■■■
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-157.html
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●1940年(昭和15年)
杉原千畝氏は日本政府の指示にしたがって通過ヴィザを発給した
六千人の命を救った外交官 杉原千畝
日本海軍が護る上海は1万8千人のユダヤ難民の「楽園」だった。
A JAPANESE HOLOCAUST RESCUER
http://www.youtube.com/watch?v=h0lizzqOxuI

●1940年1月4日、米国が錫、屑鉄の対日輸出額を前年度の半分にすると通告

■1940年1月26日、日米通商航海条約失効(1939年7月26日の米国の宣言で)

●1940年(昭和15年)3月30日、汪兆銘、南京政府を樹立
ハル国務長官は重慶政府支持を声明。
米国は蒋介石支援のため2000万ドルの借款供与。
汪兆銘~革命未だ成功せず
●5月、突如、アメリカは主力艦隊を大西洋からハワイへ移駐。
フィリピンのアメリカ海空軍も増強。
・6月5日、米国が工作機械の対日輸出を禁止

●7月2日、米国、軍需資材輸出許可制公布。兵器、弾薬、軍用器具、
主要原料26種、化学製品11種、工作機械等が輸出許可制となった。
この時は屑鉄と石油は適用品目から除かれた。
ほとんどの工作機械をドイツとアメリカに依存し、
欧州戦争によってドイツからの輸入を閉ざされていた日本は大打撃を受けた。

●7月18日、アメリカがイギリスと対日石油禁輸謀議

■7月22日、第二次近衛文麿内閣成立。
・7月25日、米国、石油・屑鉄を輸出許可適用品目に追加。
・7月31日、米国が航空機用ガソリンの東半球への輸出を禁止

●1940年(昭和15年)8月30日、松岡-アンリ協定。
日本が支那と戦争中であるのに米英が支那(蒋介石・重慶政府)に援蒋ルート
で軍事物資を送って援助し続けていて支那が、いつまで経っても日本への攻撃
をやめないので、その援蒋ルートを遮断する事を目的として、6月にドイツが
フランスを占領したのを契機に、松岡洋右外相とアンリ駐日フランス大使との
間で話し合いが行われ、日本軍の北部仏印進駐がフランスに受諾された協定。
●9月23日、日本軍は北部仏印(ベトナム附近)に進駐を開始した。
仏印進駐を日本がおこなった経緯
援蒋ルート(えんしょうルート)

■■■1940年9月13日~1941年6月17日、第二次日蘭会商
米国による一方的な日米通商航海条約破棄宣言(1939年7月)による
条約失効(1940年1月)以後、日本は極端な米英国依存の経済体制を見直し、
米英国の意向によって日本の資源供給が大きく左右されない自存自衛体制の
確立をめざし、蘭印物資の買い付けをする必要に迫られた。
自存自衛体制の確立は米国の再考を促すことにも役立つと日本は考えた。
※蘭印=オランダ領東印度(現在のインドネシア)
しかし当時、蘭印の全産油量の74%が英国系資本で、残りの26%は米国系資本
が支配していた。米英は蘭印に圧力をかけて日本と蘭印の交渉を妨害した。
蘭印はゴム・錫がタイ・仏印より対日輸出される場合は、その数量によって
蘭印産品の対日輸出量を減少させる事や、蘭印からの対日輸出量は、
オランダが必要と認める時は、いつでも一方的に削減できる事を条件として
要求してきた。日本は蘭印に対し、日本の石油・ゴム・錫等の物資の
輸入要求は、日本の国土狭小と支那事変の二点の理由を挙げて妥協的精神を
説明し、将来の衝突を避けるため、蘭印側も譲歩するよう再考を促し、
協調的態度を求めたが、オランダ側は「いざとなれば対日一戦も辞さず」と
大見得を切り、かたくなな態度を変えようとはせず「再考の余地なし」と
回答してきたため、日本は会商打ち切りを通告し、日蘭会商は終了した。

・9月25日、米国が重慶政権に2500万ドルの借款
・9月26日、米国が全等級の屑鉄、屑鋼の対日輸出を禁止する方針を発表。
(10月16日より実施)

■■1940年9月27日、日独伊三国同盟
近衛文麿首相は日独伊三国同盟を締結して対米交渉に臨み、軍事同盟の圧力で
米国の譲歩を勝ち取り、平和協定を結んで日中和平をまとめる計画を立てた。
三国同盟を推進した当事者の手記
東京裁判 弁護側資料 三国同盟関連
●1940年10月、イギリスがビルマ・ルート再開
・10月8日、米国、東アジア在住婦女子の引き上げを勧告。
・10月16日、米国で選抜徴兵法が成立。
●1940年10月18日、ビルマ・ルート再開
・10月19日、米国、名古屋領事館閉鎖。
・10月23日、米国海軍長官、フィリピン米海軍を強化する用意ありと言明。
●1940年11月、ルーズベルト「対外戦争をしない」公約
・11月3日、米大統領が重慶政権に更に5000万ドルの追加借款
●1940年(昭和15年)11月30日、『日華基本条約』調印。
日本政府が正式に汪兆銘の南京政府を承認。
●1940年(昭和15年)12月3日、日滿華共同宣言
●1940年(昭和15年)11月30日、日華基本条約否認声明
・11月30日、米国、対支1億ドルの借款供与を発表。
・12月2日、米国が蒋介石の重慶政府に一億ドルの借款供与
・12月4日、ルーズベルト、工作機械41種目を以後、輸出許可制にすると宣言
・12月10日、ルーズベルト、
「あらゆる鉄鋼製品を12月30日以後、輸出許可制にする」と発表。
・12月10日、英国が重慶政府に1000万ポンドの借款供与
●●1940年(昭和15年)12月22日、第三次近衛声明。(日華協議記録の内容)
●1940年12月29日、ルーズベルト、「アメリカをイギリスのみならず、独裁国
の侵略に抗して戦うあらゆる民主主義国の大兵器庫になる」という旨を宣言。
●1941年(昭和16年)、ABCD包囲網
●1941年(昭和16年)1月8日、『戦陣訓』が陸軍省によって示達された。
支那軍は負傷したり投降して捕まえた日本兵を捕虜として保護する事は全く
なく、全員を惨殺していた。支那軍に捕まった日本兵があまりにも惨たらしく
虐殺されていたので、陸軍は『戦陣訓』の中で「生きて虜囚の辱を受けず」
と示達した。惨殺方法は通州事件で想像できる。ちなみに『戦陣訓』は、
支那事変における陸軍の行動規範であり、海軍や日本国民への教育ではない。
また、この年の12月に始まった日米戦争でのアメリカ軍の蛮行もひどかった。
サイパンやグァムで米軍に捕まった日本の民間人は非常に酷い目に遭った。
自決した民間人は『戦陣訓』に従って自決したのではなく、アメリカ軍の蛮行
を知り、捕まるより自決する方がマシだと感じたから自決したと考えられる。
『戦陣訓』示達の前後での日本兵の行動の変化に関する統計的な資料はない。
相手の拷問などによって日本軍の情報を話してしまい、それによって多くの
日本兵が犠牲になるくらいなら、自決したほうがいいという考え方もある。

●1941年(昭和16年)3月31日
ルーズベルト大統領が提出した武器貸与法案が成立。
米海軍が護衛する輸送船団により連合国へ武器供与を開始。

●1941年(昭和16年)4月13日、日ソ中立条約調印

■■■1941年(昭和16年)4月16日、「日米了解案」に基づく日米交渉開始。
駐米大使 野村吉三郎と米国務長官コーデル・ハルの会談で提案された案は、
・日本軍の中国大陸からの段階的な撤兵。
・日独伊三国同盟の事実上の形骸化。
と引き換えに、
・アメリカ側の満州国の事実上の承認。
・日本の南方における平和的資源確保にアメリカが協力すること。
が盛り込まれていました。この諒解案は日米交渉開始のための叩き台に
過ぎませんでしたが、これを「アメリカ側提案」と誤解した日本では、
陸軍を含めて諸手を挙げて賛成の状況でした。
ところが、日ソ中立条約を調印して意気揚々と帰国した松岡洋右外相は
(4月22日)この案に猛反対しました。近衛文麿首相は松岡洋右外相を呼んで
説得したり、諒解案の手直しを試みましたが、修正案は米国が受け入れる
ものではありませんでした。アメリカ側が松岡洋右外相を非難したため、
7月18日、近衛文麿総理は松岡洋右外相を更迭するために内閣総辞職し、
あらたに第3次近衛内閣を発足して日米衝突回避を主張し続けてきた
豊田貞次郎海軍大将を外相に就任させてアメリカの意に沿った対応を
しました。日米戦争を危惧した陸海軍は近衛文麿首相を支持していたのです。
軍部が戦争を煽ったという一辺倒の固定観念が通用しない例といえます。
日米諒解案の全貌ハル「四原則」

■■●1941年(昭和16年)6月22日、独ソ戦開始

■■1941年(昭和16年)7月23日に、ルーズベルト大統領など米国首脳が、
フライング・タイガーによる同年9月下旬決行の日本本土奇襲爆撃計画に
署名し、当時の新米パイロットの5倍に当たる月給600ドルと日本軍機一機撃墜
ごとに500ドルという破格の報酬で集められ、8月下旬、
シンガポールに米軍の【正規兵】パイロットなど300人が集結したが、
機体の到着が遅れたために出撃が遅れた。

アメリカは日本を先制攻撃する計画だった!
米ABCテレビ 「20/20」 1991年12月6日放送
FDR plans sneak attack before Pearl Harbor
http://www.youtube.com/watch?v=C1cX_Fr3qyQ
http://www.youtube.com/watch?v=2Uf_3E4pn3U

■■●1941年(昭和16年)7月25日、在米日本資産を凍結

■■●1941年(昭和16年)7月29日、日本、南部仏印に進駐
援蒋ルート(えんしょうルート)
日本が支那と戦争中、米英はビルマルートから支那(重慶の蒋介石政権)
に武器の輸送を盛んに行なっていた。ビルマルートを塞ぐ事と、
南方の資源確保の必要性から、日本は南部仏印にも進駐する必要に迫られた。
日本は仏印政府に対して以下の要求を行なった。
・仏印の共同防衛を目的とする軍事協力。
・必要数の日本陸海軍部隊の南部仏印への派遣。
・サイゴン以下8箇所の空軍基地の使用。
・サイゴン、カムラン湾の空軍基地としての使用。
アメリカとイギリスは日本への回答を延期するようフランスに圧力をかけ
妨害を図ったが、フランスのビシー政府は7月21日、
・日本軍の駐屯が一時的であること。
・フランスの主権を尊重すること。
を日本が公約することなどを条件として日本の要望を受諾した。
こうして7月23日、現地で南部仏印進駐の話し合いが成立して
「日・仏印共同防衛協定」が結ばれ、
7月28日から29日にかけて日本軍部隊は平和裏に南部仏印に上陸を開始した。
【米英ソの進駐】
東京裁判では日本の仏印進駐を侵略としたが日本の北部仏印進駐の4ヵ月前、
1940年(昭和15年)5月、ドイツ軍にノルウェーとデンマークが占領されると、
すぐに、この両国の属領であるアイスランドとグリーンランドが
ドイツの手に陥るのを防ぐためとして、
【英国のアイスランド進駐】
同月、英国は機先を制して2万の兵力でアイスランドを占領し、アイスランド
が独立を宣言。その承認のもとに7月、英軍に代わって米軍が同島に進駐した。
【米国のグリーンランド進駐】
日本の南部仏印進駐の3ヵ月前、1941年(昭和16年)4月、米国は駐米デンマーク
公使との間で、グリーンランドに空軍基地を建設する協定を結んだ。ドイツ軍
占領下にあったデンマーク政府は、ただちに協定を取り消し、公使に召還命令
を発したにも関わらず、米国はグリーンランドに基地を建設した。ソ連は
ポーランド、バルト三国、フィンランド、ルーマニア、イランを侵略した。
しかし東京裁判では、日本の仏印進駐は有罪とされ、戦勝国の進駐は裁判に
関係なしとされて却下された。欧米列国やソ連のやってきたことは不問にし、
日本の合法的な進駐は有罪という、まったくもって横暴な考え方だった。
また、日本の目的は防共とアジア民族の独立、列強はアジアの植民地権益維持
と対中国の権益獲得であった。つまり日本は自衛のためであり、
列強は利益の維持獲得のためということは明白である。
仏印進駐を日本がおこなった経緯 日本より早く英米ソも他国へ進駐
終戦後、日本兵600名がベトナムに残り、独立運動組織に参加して貢献した!
仏印進駐の知られざる物語
1941年(昭和16年)発行『日米十年戦争』武藤貞一著
■■●1941年(昭和16年)8月1日、米国が対日石油輸出を全面禁止
●1941年8月8日、日本側から日米首脳会談を提案したがアメリカは冷ややかな反応。
■■●1941年(昭和16年)8月9日~14日、大西洋会談(大西洋宣言)
アメリカがイギリスに戦争協力を約束。
●8月18日、豊田外相がグルー駐日米大使に首脳会談への協力を要請。
グルー大使は豊田の真率な態度に感動し、即刻コーデル・ハルに
「日本の提案は深い祈念を込めた検討なしに片付けるべきにあらず。
最高の政治的手腕を発揮しべき機会がここに提起せられあり。
これにより太平洋の平和にとりて一見乗り越え難き障害も
克服しうる公算あり」と言葉の限りを尽くして打電した。
●1941年8月27・28日、内閣総力戦研究所が報告
●1941年9月4日、アメリカがドイツを攻撃
1941年9月6日、御前会議
●9月6日、近衛首相、グルー駐日大使を通じて、日米首脳会談の実現を
再度依頼したが、アメリカ政府は無視した。
◆「白紙還元の御諚」。昭和天皇から後継内閣の東條英機陸相に木戸内府を
通じ、9月6日の御前会議の「10月上旬までに交渉が成立しなければ直ちに開戦
を決意する」との決定に関し、「9月6日御前会議の決定にとらわれる事なく、
内外の情勢を更に広く深く検討し、慎重なる考究を加うることを要す」
との御諚(お言葉)が伝えられ、
9月6日の御前会議の決定を白紙に戻し、対米交渉をやり直すよう仰せられた。

●9月30日、豊田外相がクレーギー英駐日大使に日米首脳会談への協力を要請
し、クレーギー大使はイギリス本国政府に重大性を進言したが英国政府は無視

◆石油の補給は極めて困難であり、石油消費量は毎年、軍需民需合わせて
550万トンになるが、それは1943年(昭和18年)度までは何とかなるものの、
それ以後は南方石油に頼る他なかった。11月開戦ならば30ヵ月、
3月ならば21ヵ月で、我が国の備蓄石油はゼロになる計算であった。
海軍は毎時400トンの油を消費しており、
石油貯蔵量からして、戦機はすでに秒読みの段階に入っていた。

●1941年(昭和16年)11月1日午前から政府・統帥部連絡会議が開かれ、
延々17時間におよぶ白熱の討議が行なわれた。
統帥部側は外交交渉の期限を11月30日としたところ、東條首相は、
「12月1日にはならないか。1日でも長く外交をやることはできぬか。」
と切言したが、塚田参謀次長は東條の懇望を拒否し、
結局、外交交渉は11月30日夜12時までとされた。
連絡会議は2日の早暁にまでおよび「帝国国策遂行要綱」を決定。
東條首相は会議の経過と結論を涙を流しつつ委曲内奏した。
聞き終えられた陛下は、「事態が謂う如くであれば作戦準備もやむを得なか
ろうが、なんとか極力、日米交渉打開を計ってもらいたい」と沈痛な面持ち
で御憂慮の言葉を述べられた。(『大東亜戦争への道』中村粲著より)

●1941年(昭和16年)11月21日、米国に三国同盟死文化申し入れ
電文誤訳とハルの誤解
●1941年(昭和16年)11月25日、戦争関係閣僚会議
不戦条約と自衛権
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-287.html
門戸開放主義
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-141.html
GHQの一員だった女性の手記
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-365.html
日米開戦直前のまとめ
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-360.html
日米開戦前 日本の和平努力
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-285.html
ルーズベルトの愚行
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-313.html
日米開戦の悲劇
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-366.html
大東亜戦争と共産主義
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-372.html
日本人が知ってはならない歴史
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-364.html
経済相互依存は戦争防止に役立たない
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-375.html
■■■1941年(昭和16年)11月26日、ハル・ノート提示
ハル・ノートの3項と4項。
3項:支那大陸やフランス領インドシナからの即時無条件完全撤退。
4項:汪兆銘政権(南京政府)を見捨てて蒋介石政権(重慶政府)を支持すること。
「日本側の乙案」と「アメリカ側のハル・ノート」
ハルの予防戦争

アメリカが主張していた支那の「門戸解放、機会均等」とは、
「支那の権益は列強国の皆で分かち合いましょう。」
ということであり、決して、
「支那の権益は支那のものだから、
列強国が支那を植民地化するのはやめて支那から撤退しましょう。」
という意味ではなかった。もっといえば、
「日本だけ支那や満州から出て行け!」という意味であった。

◆蘭印(オランダ領東インド=ほぼ現在のインドネシア地域)。
1940年5月15日、オランダはドイツの侵攻を受けて降伏し、
オランダ王室はイギリスに亡命していた。
一応イギリス内でオランダ王国政府を作っていて、
1941年12月10日、日本に宣戦布告していた。
日本軍による蘭印進攻は1942年2月末。

米英を攻撃せずに、蘭印のみを占領して資源のみを確保しておけば
良かったのではないかという考え方もあるが、英米を攻撃せずに蘭印のみを
占領するとなると、これを理由に米英は海域封鎖などを行いつつ、フィリピン
に部隊を派遣して体制を整えてしまう。敵が完全武装になるのを日本は
黙って見ているしかない。アメリカに全く打撃を与える事ができずに
終わった可能性がある。蘭印の手前に敵対国の米国領フィリピンと
英国領マレーがある。日本としては手前から安全な海上輸送と制空権、
補給経路を確保しながら、航空基地も整備して足場を固めながら前進していく
方法を選んだ。1921年11月12日~1922年2月6日の『ワシントン会議』では、
日本を抑えることが目的で、主力戦艦の保有比率を米:英:日で5:5:3に
確定し、太平洋前線基地を現状維持とされた。つまり日本の太平洋防備が
制限されていたのである。しかし、ふざけたことにアメリカのハワイと
イギリスのシンガポールは、その対象から除かれたので大きな基地と
なっていた。日本は先手を打って、それらの基地を叩いておきたかったのだ。
蘭印の全産油量の74%が英国系資本、残り26%は米国系資本であり、
日本としては、米政府の決断か、何らかの事象により、
米世論の反転があれば一瞬にして崩壊してしまう不安な戦略は選ばなかった。
援蒋ルート(えんしょうルート)

ハル・ノートに対する日本の回答入電「これは戦争を意味する」
フーバー元大統領 「ルーズベルトは狂気の男」
ルーズベルトの開戦責任
朝日新聞 昭和16年(1941年)12月8日 真珠湾攻撃と人種差別
■■■1941年(昭和16年)12月8日、あえて言う! 「東南アジア解放へ
1941年(昭和16年)12月8日(米国時間12月7日)、1893年(48年前)にアメリカが
侵略した旧ハワイ王国・オアフ島の真珠湾のアメリカ軍の軍艦や軍事施設を
日本軍が攻撃し、直接の日米戦争が開始された。ハワイ・オアフ島のアリゾナ
記念館の資料では、日本軍の真珠湾攻撃でのアメリカの民間人の死者は48名、
戦闘員の死者は2338名。民間人といってもアメリカ軍基地で働いていた人か、
基地の関係者だった。日本軍は湾内に停泊中の病院船ソレースは攻撃しなか
った。子供の犠牲者はいない。日本軍も戦闘機29機、特殊潜航艇5隻を失い、
64名が戦死した。◆真珠湾攻撃の真相真珠湾の真実原爆開発者の声
http://megalodon.jp/2009-0208-1539-09/jiten.biglobe.ne.jp/j/b6/2f/0d/185573f707ef33edc5129d3e61447601.htm
◆真珠湾で日本は太平洋の米国海軍主力を破壊したが、3次攻撃を行なわず、
450万トンを貯蔵する石油タンクと海軍工廠を攻撃しなかった。もしこれを
爆破していたら米国は少なくとも半年間は太平洋で動きが取れなかった。
そうなればドゥーリトルも東京空襲もなく、
日本軍はミッドウェー、ハワイも占領できたはずである。
日本が大東亜戦争に負けた一つの要因かもしれない。
日米開戦直後の1941年12月のラジオ放送 『米英東亜侵略史』 大川周明
大東亜戦争の正体アメリカ西進の軌跡経済封鎖に挑んだ日本
◆「戦争しなければ死者は少ない」とは限らない。
イギリスに植民地にされたアイルランドの人口は、
1841年の820万人が1911年には444万人と約半分になった。
1939年9月に始まったドイツとポーランドの戦争で
ポーランド人が失った命は人口の0.4%にあたる約13万人だった。
ところが、1941年、ドイツとソ連の戦争が始まり、
ポーランドで独ソ両軍が死闘を繰り広げたら、
ポーランドは人口の20%が死ぬという悲劇に見舞われた。
つまり、ポーランドでは、
戦争で抵抗をして死んだのは人口の0.4%だったが、
戦争などの抵抗も出来ない状況において死んだのは人口の20%となった。
また、生きているよりも辛い仕打ちを受ける事もあるので、
「死ななければいい、生きてさえいればいい」とは限らない。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-191.html
―――――――――――――――――
●1941年12月10日、マレー沖海戦・・・命をかけて守った日本
●1941年12月12日、東條内閣で『大東亜戦争』の名称と定義が閣議決定。
1942年、餓死寸前の中国農民に軍糧を放出した日本軍

「日系人強制収容」と「米陸軍日系二世の442連隊」

●1942年2月19日、午前9時58分、ダーウィン爆撃
日本のオーストラリアへの最初で、かつ最大の空爆。
連合軍による(元)蘭印(インドネシア)などへの攻撃に、
オーストラリアの基地が使用されるのを遅らせることを目的として、
日本軍の艦載機がポート・ダーウィンの海軍基地と空軍基地を攻撃した。
日本の真珠湾攻撃直後にオーストラリアは日本に宣戦布告を行なっていた。

●1942年(昭和17年)3月2日、駆逐艦「雷」が英国海軍将兵450人を救助
歴史に埋もれた旧日本軍のイギリス兵救助劇

●1942年(昭和17年)3月、イギリス空軍のリューベック空襲虐殺

●1942年(昭和17年)、イギリス空軍がモンテカッシノ修道院を爆撃

●1942年4月10日、いわゆる「バターン死の行進」

●1942年(昭和17年)4月18日、ドゥーリトル爆撃隊の無差別空襲虐殺
●1942年(昭和17年)4月30日、第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)
●1942年9月9日、史上唯一、日本軍のアメリカ本土空襲(ルックアウト空襲)

●1943年(昭和18年)11月5、6日、東京にて大東亜会議が開催される。
独立を目指すアジア諸国のリーダー達が史上初めて一堂に会した。
大東亜会議 ~ 独立志士たちの宴

欧米のアジア植民地支配の歴史
(Japan Liberated Asia from Euro-American Colonizers )
http://www.youtube.com/watch?v=_PwbHPaGWLw

●1944年(昭和19年)3月~7月初旬、インパール作戦

●1944年(昭和19年)9月15日~1944年11月25日、パラオ・ペリリュー島の戦い
パラオの「ペリリューの戦い」では、圧倒的な米軍の戦力に対し、日本軍は
頑強な抵抗を行なった。1944年9月12日、米軍は島に艦砲射撃と高性能焼夷弾
の集中砲火を浴びせ、周囲のジャングルを焼き払い、9月15日「2~3日で陥落
させられる」との宣言のもと海兵隊を主力とする約28,000名が上陸。
しかし日本軍は徹底的な組織的抵抗を行い、米軍に大きな損害を与えた。
特に米軍上陸直後の水際での戦闘は凄惨を極め、大損害を蒙った米軍の
第一次上陸部隊が煙幕を焚いて一時退却するという場面すらあった。
上陸後6日目には全連隊が壊滅状態に陥るという前代未聞の事態となった。
10月30日、米軍第1海兵師団が全滅判定(損失60パーセント超)を受け、
陸軍第81師団に交代。海兵隊司令官はこの惨状への心労から心臓病を発病。
この時点で3日で終わるとされた戦いは1ヶ月半も継続されていた。
その後も日本軍の抵抗は約1ヵ月間続き、11月24日ついに兵力弾薬は
底を突き、最後の突撃を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られ、
翌朝25日、根本甲子郎大尉率いる55名の残存兵による突撃が行われ、
約2ヵ月半におよぶ戦闘は終結した。
パラオでの御在位奉祝パレードと皇居参賀

日本とパラオ ~歴史を越えた友情~
http://www.youtube.com/watch?v=cTRfPNEPR-A
ミャンマーで大東亜戦争はどのように教えられているのか
http://www.youtube.com/watch?v=k3wmril0nIQ
親日国インド
http://www.youtube.com/watch?v=CunDINRHP_8
今もインドで歌われる日本兵を讃える歌
http://www.youtube.com/watch?v=5gbvMnP2cYE
フィリピンで語り継がれる特攻精神
http://www.youtube.com/watch?v=HknYSn-sGtU
ビルマ(現ミャンマー)独立の父
http://www.youtube.com/watch?v=ZpGwvCKc_-Q
六十年の時を経て届いた手紙
http://www.youtube.com/watch?v=MFOt5TqOKFs

フィリピン少年が見たカミカゼ
フィリピンでヒーローになった特攻隊
もう一度 日本時代に戻りたい~楊素秋

●1945年(昭和20年)2月4日~11日、ヤルタ会談・ヤルタ密約

●1945年(昭和20年)2月13日、ドレスデン空爆大虐殺

●1945年2月19日~1945年3月26日、硫黄島の戦い。
日本軍は2万933名のうち2万129名までが戦死。
アメリカ軍も戦死6821名、戦傷2万1865名の計2万8686名の損害を受けた。
大東亜戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害実数が、
日本軍を上回った稀有な戦いであった。
必死で「日の丸」を掲げた日本人
●1945年2月、日本からアメリカへの和平打診に関する情報が
アメリカの新聞で報道される。
2/7_アメリカの鏡・日本 日本の降伏を許さず原爆投下へ
●1945年
・3月10日、東京大空襲、10万人が犠牲に。(逃げられないよう周囲から爆撃)
東京大空襲 ◆東京大空襲と重慶爆撃を同列にする愚

●1945年5月、ドイツが7日に連合国に、8日にソ連に無条件降伏し、
ヨーロッパでの戦争(第二次欧州大戦)は終結した。
●1945年(昭和20年)7月26日、アメリカ、中国、イギリスが日本に対して
大東亜戦争の終結を勧告する13条からなるポツダム宣言を発する。
●8月6日、広島に原爆(ウラン型)が投下され、14万人が犠牲に。
●1945年(昭和20年)8月8日、ソ連、日本に宣戦布告(日ソ中立条約違反)
●1945年(昭和20年)8月8日、ソ連軍、満洲に侵攻開始。
●8月9日、長崎に原爆(プルトニウム型)が投下され、7万8千人が犠牲に。
原爆投下(一)
http://megalodon.jp/2010-0528-1959-56/homepage3.nifty.com/yoshihito/genbaku-1.htm
原爆投下(二)
http://megalodon.jp/2010-0528-2000-26/homepage3.nifty.com/yoshihito/genbaku-2.htm
原爆開発者の声
・8月10日、日本がポツダム宣言の受け入れを連合国側に通告
●1945年(昭和20年)8月14日、ポツダム宣言受諾
・8月15日、ポツダム宣言受諾を日本国民に発表(玉音放送)
・9月2日、ポツダム宣言の履行などを定めた休戦協定(降伏文書)に調印

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占守島
占守島
北方領土:A.歯舞群島(歯舞諸島)、B.色丹島、C.国後島、D.択捉島
1.色丹村、2.泊村、3.留夜別村、4.留別村、5.紗那村、6.蘂取村
北方領土
【北方領土・略年表】
●1855年2月7日、 日露通商条約(下田条約)
択促島と得撫島の間に日露の国境線を定めた。樺太の国境は定めなかった。
●1875年(明治8年)5月7日、樺太・千島交換条約。
日本は樺太の領土権を放棄し、
得撫島から占守島までの千島列島(クリル諸島)の領土権を得た。
●1905年9月5日、ポーツマス条約で南樺太(北緯50度以南)が日本領となる。
◆1945年(昭和20年)8月14日、日本、ポツダム宣言を受諾。
●1945年(昭和20年)8月18日、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍が
カムチャツカ半島方面より千島列島北端の占守島に上陸し、
日本軍守備隊と戦闘となったが、21日に日本軍の降伏により停戦が成立し、
23日、日本軍が武装解除して「占守島の戦い」は終わった。
8月28日から9月1日までにソ連軍は北方領土の択捉・国後・色丹島まで占領、
9月3日から5日にかけて歯舞群島を占領して北方領土の不法占拠が始まった。
捕虜となった日本兵の大勢がシベリアへ抑留されたが、その法的根拠は無い。
ソ連軍の横暴 ◆武装解除を拒否して居留邦人4万人を守り抜いた日本軍
大東亜戦争後の満洲争奪戦
サンフランシスコ平和条約(1952年) 第二章 領域 第二条 (C) で、
日本は千島列島と南樺太を放棄させられたが、千島列島と南樺太の帰属が
ロシアにあるとは認められていない。千島列島と南樺太の最終的な帰属は
将来の国際的解決手段に委ねられる事となっており、それまでは
千島列島と南樺太の最終的な帰属は未定となっているが、旧ソ連は
サンフランシスコ平和条約には調印していないうえ、日本はソ連との間で
「千島列島と南樺太」についての特別な条約は結んでいない。つまり
千島列島と南樺太は正式にはどの国にも帰属しておらず、元日本領なので、
あらためて日本は領有権を主張し直すことができる。北方四島の領有を主張
すれば北方二島の返還に後退する恐れがあるが、大きく「千島列島と南樺太」
の領有を主張しておけば後退しても北方四島の返還は確保され得る。
千島列島と南樺太
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ニューヨーク・タイムズ社説「ドイツ終戦時の論調」と「日本終戦時の論調」
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-236.html

・9月27日、東京都港区赤坂のアメリカ大使公邸にて
おこなわれた昭和天皇とマッカーサーの御会見を通訳官が証言した映像
http://www.youtube.com/watch?v=inE1DSH0jrk
先帝陛下(昭和天皇)に戦争責任はない。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-263.html
天皇の価値と役割
http://megalodon.jp/2010-1215-1347-32/specific-asian-flash.web.infoseek.co.jp/tennouheika.html

731部隊
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-161.html
中国での旧日本軍兵器の行方
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-362.html
終戦~日本人 引き揚げの悲劇
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-154.html
終戦~日本人 引き揚げの悲劇_2
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-155.html
敗戦後の惨状
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-575.html

インドネシア独立戦争
http://www.youtube.com/watch?v=HPWS4h3WmI4
インドネシア国立英雄墓地に祀られた日本人たち
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-156.html
終戦後、日本兵600名がベトナムに残り、独立運動組織に参加して貢献した!
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-137.html
英国軍と戦った99歳の日本兵の手を握るインドのモディ首相 2014年9月2日
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-674.html
オランダの有色人種蔑視
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-235.html

●1945年10月、中国、内戦再開。
支那事変の前から中国の内戦はあった。外国がどの勢力を応援していたのか
という話である。米国は蒋介石の重慶政府、ソ連は毛沢東の延安政府、
日本は汪兆名の南京政府と仲が良かった。大東亜戦争後、
汪兆銘の南京政府は終戦翌日の1945年(昭和20年)8月16日をもって解消し、
南京政府の支那人は「漢奸(売国奴)」として重慶政府に逮捕、処刑された。
米国は蒋介石の重慶政府への支援は消極的となり、ソ連が熱心に支援を続けた
毛沢東の延安政府が勝って中国を支配することとなった。
米国の支援が少なくなって負けた国民党・重慶政府の蒋介石は台湾に逃げた。

●1945年(昭和20年)12月9日、NHKラジオ番組「真相はかうだ」の放送開始。
引き続いて放送された「真相箱」、新聞に掲載された「太平洋戦争史」、
東京裁判などと共にGHQは
「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」
という洗脳工作を実施。

●1946年(昭和21年)元旦、『新日本建設に関する詔書』(いわゆる「天皇の人間宣言」)

日本とアメリカの立場を逆にしてみたら?
稲塚権次郎とボーログ博士 ~ 世界を変えた「農林10号」

東京裁判(極東国際軍事裁判)
極東国際軍事裁判(東京裁判)(裁判費用27億円は日本政府が支出。)
■判事国.アメリカ、英国、ソ連、フランス、中国、オランダなど11ヶ国。
■1946年 4月29日.起訴(昭和天皇の誕生日)
■1946年 5月 3日.東京裁判、審理開始
■1948年11月12日.判決の言い渡し終了
■1948年12月10日.第3回国際連合総会で世界人権宣言を採択
■1948年12月23日.A級戦犯とされた7人の死刑執行(今上天皇陛下の誕生日)
「ウェッブ裁判」ブルックス弁護人、ファーネス弁護人、ブレイクニー弁護人
東京裁判 弁護側資料 清瀬一郎、高柳賢三、ウィリアム・ローガン
東京裁判後、レーリンク判事へのインタビュー
海軍中将 草鹿任一 東京裁判 弁護側冒頭陳述

東京裁判名場面
http://www.youtube.com/watch?v=grFZiNaNVds

東京裁判 裁いた者たちの悔恨
これで分かる東京裁判
東條英機 元総理の遺言

ちなみに日本の総理大臣は昔から短期間で交代していた。独裁ではなかった。
・1931年4月14日~12月13日 若槻(ワカツキ)礼次郎(2)→満州事変勃発(1931.9.18)
・1931年12月13日~1932年5月16日 犬養毅
・1932年5月26日~1934年7月8日 斎藤実
・1934年7月8日~1936年3月9日 岡田啓介
・1936年3月9日~1937年2月2日 広田弘毅
・1937年2月2日~6月4日 林銑十郎
・1937年6月4日~1939年1月5日 近衛文麿(1)→大東亜戦争勃発
(大東亜戦争は支那軍のほうから発砲してきて始まった。)
・1939年1月5日~8月30日 平沼騏一郎
・1939年8月30日~1940年1月16日 阿部信行
・1940年1月16日~7月22日 米内光政
・1940年7月22日~1941年7月18日 近衞文麿(2)
・1941年7月18日~10月18日 近衞文麿(3)
・1941年10月18日~1944年7月22日 東條英機→日米戦争勃発(1941.12.8)
・1944年7月22日~1945年4月7日 小磯國昭
・1945年4月7日~8月17日 鈴木貫太郎
・1945年8月17日~10月9日 東久邇宮稔彦王
・1945年10月9日~1946年5月22日 幣原喜重郎
明治以降の日本は世界最高水準の自由な民主主義国家であった!

アメリカ軍やオーストラリア軍の蛮行
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-162.html

●1947年(昭和22年)5月3日、日本国憲法施行。
「日本国憲法」作成の経緯
●1947年(昭和22年)7月13日、マッカーサーが
「すでに政策目標の基本的で最も重要な事項の大部分、
すなわち武装解除と非武装化は完璧に達成された。
日本は外部から制御しなくても、
今後100年間、近代戦に備えるような再軍備はできないだろう。」と報告

・12月7日、昭和天皇の広島巡幸_1947.S22.12.7_背景に原爆ドーム。
とてつもない歓迎ぶりです。遠くに原爆ドームが見えます。
昭和天皇は爆心地「相生橋」を通過されて、
平和の鐘が鳴る中を元護国神社跡で7万人の奉迎を受けられました。
広島市では戦災児育成所の原爆孤児84名に会われ、
原爆で頭のはげた一人の男の子の頭を抱えるようにして
目頭を押さえられました。
各地で昭和天皇は「生活状態はどうか」、「食べ物は大丈夫か」、
「家はあるのか」と人々に声をかけられました。
全国各地の、あまりの熱烈な歓迎、
そして禁止されていた日の丸を振る者もあらわれ、
危惧したGHQは巡幸を1年間中止にしました。
★復興への3万3千キロ
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-355.html
昭和天皇の広島巡幸_1947.S22.12.7_背景に原爆ドーム
http://www.youtube.com/watch?v=3iYTW3iTces

『女性天皇問題』は歴史の知恵に学べ
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-320.html

●1951年(昭和26年)5月3日、
米国議会上院の軍事外交合同委員会でマッカーサーは、「日本が戦争に
飛び込んでいった動機の大半が安全保障のためであった。」と証言
マッカーサーの遅すぎた悔恨・・・・
ルーズベルトの愚行
米英仏の教科書にみる日本
●1951年(昭和26年)9月8日、サンフランシスコ平和条約調印
●1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ平和条約発効。
サンフランシスコ講和条約・第1条。
日本国と各連合国との戦争状態は
(中略)この条約が効力を生ずる日に終了する。
―――――――
国際法上は、このサンフランシスコ平和条約の発効により、
連合国は日本国及びその領域に対する日本国民の完全な主権を承認し、
日本と連合国との間の「戦争状態」は正式に終結した。

1945年8月14日のポツダム宣言受諾から、
1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約の発行によって独立を回復する
までは、依然として我が国は連合国と戦争状態にあったということであり、
東京裁判は大東亜戦争の延長戦であった。

つまり戦闘は停止したが、国際法上の戦争は継続していたのであり、
東京裁判は戦争状態において行なわれた国際法の根拠を持たない
戦勝国によるリンチ、見せしめのための儀式(軍事裁判)であった。

したがって、敵の不当な軍事裁判で処刑された者は、
戦争状態において生命を奪われた者であり、
いわゆる「戦犯」として刑死した者は戦没者と同じである。

また、戦後、靖国神社に合祀される人の基準は、
国会で制定された法律に根拠がある。
昭和27年(1952年)4月28日にサンフランシスコ平和条約の発効によって
独立を回復すると、わが国の国会は早速、靖国合祀の関係法となる
「戦没者遺族援護法及び恩給法」とその関連法を制定した。
さらに、昭和28年(1953年)8月から国会で、
「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(遺族援護法)および「恩給法」
の改正が重ねられた。
当時の国会は、「戦犯」とされた人々の遺族も一般戦没者の遺族と同様に
扱うように法規を改正し、「戦犯」とされた人々を
国内法上での犯罪者とはみなさないことにした。決定は全会一致であった。
「戦犯」とされた人々の死を「戦争による公務死」としたことは、
主権独立国家として正当な決定であった。

●1959年8月21日、アメリカがハワイを50番目の州に昇格させ、
ハワイは完全な米国領土となり、ハワイ住民は米国国民として参政権を得た。

●1965年8月6日、アメリカで投票権法が制定され黒人に参政権が与えられる。

●1965年(昭和40年)6月22日、日韓基本条約
この時点から日韓併合条約は正式に無効となった。
日本は韓国に5億ドルの無償・有償協力資金
(他に民間協力資金3億ドル)を支払った。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-589.html
日韓基本条約の付随協約の「日韓請求権並びに経済協力協定」の第2条1項。
両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利
及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、
1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された
日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、
完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPKR/19650622.T9J.html
韓国政府は日韓基本条約を国民に公開していなかった!
http://nandakorea.sakura.ne.jp/honkanhtml/kanko.html

1951年、居昌事件。8500人虐殺 →自国の損害賠償請求は時効を理由に棄却
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-590.html
私の村は地獄になった。ベトナム戦争、韓国軍の戦争犯罪
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-284.html

【1972年9月29日 日中共同声明 5:賠償】
「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、
日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。」
―――――――
中国は日中戦争(支那事変)の賠償放棄を宣言。
日本は中国発展のため政府開発援助(ODA)を実施することにした。
2010年までの日本の対中ODA(政府開発援助)の総額は6兆円を超えている。

大東亜戦争は無謀な戦争だったのか
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-165.html

YASUKUNI http://bit.ly/1Kdd3IT
https://www.youtube.com/watch?v=Hx1Qnh-wNq0
神風特攻隊 -CloseYourEyes-
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4412199
特攻隊 資料映像
https://www.youtube.com/watch?v=Dp6xpFYXJWs

日系ブラジル人の中高生からの手紙
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-194.html
勇士の遺書
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-239.html
軍用犬「幸(さち)」
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-520.html
日本への遺書
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-370.html
ヴァチカン宮に祀られた昭和殉難者
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-419.html

rekisisiranaiさんの「大東亜戦争に至るまでの解説」
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-654.html
日本人に謝りたい
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-374.html
当時から宣伝不足は指摘されていた!
SNS『my日本』内の愛国者ルパン( ・ω・)ノさんの大東亜戦争についての総括

1/7_アメリカの鏡・日本
2/7_アメリカの鏡・日本 日本の降伏を許さず原爆投下へ
3/7_アメリカの鏡・日本
4/7_アメリカの鏡・日本
5/7_アメリカの鏡・日本
6/7_アメリカの鏡・日本
7/7_アメリカの鏡・日本

1/7 シナ大陸の真相
2/7 シナ大陸の真相
3/7 シナ大陸の真相
4/7 シナ大陸の真相
5/7 シナ大陸の真相
6/7 シナ大陸の真相
7/7 シナ大陸の真相

1/6 暗黒大陸
2/6 暗黒大陸
3/6 暗黒大陸
4/6 暗黒大陸
5/6 暗黒大陸
6/6 暗黒大陸

500年の歴史の流れを逆転させた日本
http://www.history.gr.jp/~showa/370.html
アジアの主な植民地
http://homepage3.nifty.com/asia-kenbunroku/Shokuminchi.htm
大東亜戦争開戦の経緯
http://www.kokubou.com/document_room/rance/rekishi/seiji/nichibei_kousyou/index.htm

イギリスは1950年代、ケニアの強制収容所で10万人のケニア人を殺害。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-600.html
ナチ「ガス室」はなかった。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-601.html
第二次世界大戦後の中国年表
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-191.html
急げ核武装!
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-505.html
中国で根絶やしにされた孔子の理想は、日本で花開いていた。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-421.html
オーストラリアが米海兵隊の重要拠点を中国に貸与【産経WEST 2016.3.31】 http://bit.ly/1ZMydAL
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-727.html
外国人_日本に死ぬほど住みたい理由
http://www.youtube.com/watch?v=JWACM1CU3n4
スウェーデンの悲劇。外国人参政権、人権擁護法案、移民1000万人受け入れの未来。
http://www.youtube.com/watch?v=KeLL6hNVrwc

『移民と外国人労働者』 http://bit.ly/1M1RKp2
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-722.html
『なくなる仕事』 http://bit.ly/1NlLbDK
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-729.html
外国人が住む町 http://bit.ly/1VxMMpq
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-275.html
外国人参政権は憲法違反 http://bit.ly/21TYWg3
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-277.html

社内公用語
夫婦別姓の問題点

国際親善を損なうマスコミ報道
最後の給油、パキスタンの駆逐艦から「君が代」、「ジャパンコール」も!
大歓迎された自衛隊~伝えないマスコミ
カンボジアPKO
田母神俊雄 元航空幕僚長の論文
平成23年8月6日 『広島・三たびヒロシマの平和を疑う!』 田母神俊雄 元航空幕僚長

封じられた沖縄集団自決の真実
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-638.html
沖縄防衛協会 初代 婦人部長 仲村俊子さん涙の演説
http://www.youtube.com/watch?v=8NedEBgAtLI
【米軍基地問題】大手マスコミが伝えない沖縄のお母さんたちの声 2010.5
http://www.youtube.com/watch?v=ycxzUt0cmZU
地政学の教訓と国益の追求[H21/7/17]
http://www.youtube.com/watch?v=Ka-z__IUJDg
【奥山真司】地政学からみた国際関係[桜H22/4/2]
http://www.youtube.com/watch?v=pWHTI84PGkE

アイヌの真実
http://www.youtube.com/watch?v=PrNkZHyGx9I
http://www.youtube.com/watch?v=e07pesr-JhY
http://www.youtube.com/watch?v=URRyaCPlWuo
http://www.youtube.com/watch?v=KrPFafFFRJE
http://www.youtube.com/watch?v=0SK7JJ7WUBg
http://www.youtube.com/watch?v=049RaEaJBNc
http://www.youtube.com/watch?v=KODg8Qa1DUE
日本は単一民族
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5545.html

探査機「はやぶさ」の軌跡

地球温暖化詐欺
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-283.html

東日本大震災(2011.3.11)ニュースのなかの注目の話
避難基準は年間100ミリシーベルトでいいのでは?

稲田朋美 (衆議院・自民・福井1区)

号泣アニメ『エルフェンリート』
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-663.html

カンヌ国際広告祭金賞受賞 『祝!九州新幹線全線開通 CM 180秒』
http://www.youtube.com/watch?v=A9floylV2ik

論点 http://bit.ly/1QqRAtP
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-691.html
私の基本的な考え方・判断基準
●集団的自衛権について●保守とは●自虐史観について●共産主義も新自由主義も侵略の手段
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-690.html

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正統史観年表について

長年、作成を続けているうちに、新しい情報を得たり、
いろんな人の意見を見ていくうちに考え方が変わってきたりしていますが、
本来なら、それらを、まとめ直して整理していかなければならないのですが、
過去の記事が、あまりにも膨大な量になっていて、
どこに何を書いているのか、どこに何を引用しているのか、
もう、わからなくなってきていまして、たとえ、わかったとしても、
まとめ直すのが大変なので放置している箇所が多いです。
ですから、「あっちに書いてる事と、こっちに書いてる事が矛盾している」
といったことが あちこちに あると思います。
引用の書籍によっても当然ながら著者の考え方が、それぞれ違います。
ですから、いろいろと見ていただいて総合的に捉えていただきたいです。
かえって、いろんな情報や考え方を知っておいたほうが
いいかもしれませんし、その辺のところは御了承ください。

私は、この正統史観年表の公開で何か利益を得ているわけではありません。
ブログランキングにも参加していません。
むしろリスクがあると思っています。
では、なぜ正統史観年表を公開し、
修正、訂正、追記をし続けているのかというと、
「この、生まれ育った日本が好きだから」という理由だけです。
私が死んだあとも正統史観年表が残り、
いつまで存在し続けるのかは分かりませんが、
私が生きた証だと思っています。
私が楽しい人生だったのか、そうではなかったのか、
そんなことは、どうでもいいことです。
私が死ぬ間際、何を思うかというと、家族のことと、日本の行く末、
そして、この正統史観年表を作ることができたという喜びです。
教科書では感じることができなかった喜びであり、
自国の本当の歴史に近づき、知ることができた、
この、すばらしい国に生まれ、
生きることができたという喜びだろうと思います。

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下記3つは同内容となっております。

正統史観年表の巻頭 http://p.tl/C7U3
http://seitousikan.blog130.fc2.com/
正統史観年表で一番拡散したいこと http://bit.ly/21WysLO
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-705.html
来る日が来た親御さんへ。子供の質問「日本は悪い国だったの?」 http://wk.tk/exW2Ew
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-701.html

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正統史観年表 (大東亜戦争、アジア・太平洋戦争、第二次世界大戦に至る経緯年表)
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2016/12/10 06:00|正統史観年表
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