正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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北支分離(華北分離)工作を日本がおこなった経緯

1933年5月31日、国民党政府(蒋介石)が満州国を認め、
「塘沽(タングー)停戦協定」が締結され満州事変は終結しました。

しかし停戦協定が結ばれたからといって、ハイそうですか、と
引き下がる中国ではありません。

執拗に満州再侵略と非武装地帯侵犯をくりかえします。

1934年(昭和9年)11月 宋哲元の部下の馮治安の部隊が突如、
熱河省を侵犯し、大灘西方20キロの断木梁という部落に進出して来ました。

そこで怒った関東軍が、
どこまでも追撃し宋哲元の本拠地近くまで迫ったのです。

困った宋哲元は、天津軍司令官梅津少将の所に泣きつき、
天津軍のとりなしでやっと関東軍は追撃を止め引き返しました。

1935年5月3日、天津の日本租界で、
国権報の社長胡恩傳と振報社の社長白逾桓の二人の親日分子が
白昼何者かに襲撃され、命を落とす事件がありました。

これについては、米公使ジョンソンは北京憲兵の関与と言っています。

また塘沽協定で設けられた緩衝地帯には、いつのまにか匪賊がはびこり、
彼らは「抗日義勇軍」を名乗って、
5月24日、長城を越え熱河を侵犯しました。

これもどうやら河北省主席である第51軍長于学忠が
後で糸を引いていたようです。

便衣隊の侵入、共産党の策動などで、河北は物情騒然となって来ました。

天津軍の任務は本来《北京・山海関間の鉄道の保全、
並びにこの間に居住する居留民の保護》だったのですが、
現状ではこの任務も危うくなります。

そこで「こんな事では困る!」と短気な酒井参謀長は、
華北粛清対策案を起案紙に一気呵成なぐり書きしました。

通告

一、最近華北に頻発しつつある排日・侮日の諸現象は、
方(ひと)しく塘沽協定の破壊行為たると共に、
また北清議定書の精神を蹂躪するものなり、
我が方はこれを明確なる対日挑戦行動と認め、条約上の権限に基づき、
今後自衛上必要と信ずる行動に出るある事を通告す。

二、これを未然に解決せんが為、左記各項の即時実行を要求す。

イ、軍事委員会北京分会、憲兵第3団、国民党本部、
政治訓練所、藍衣社等の一律撤去。

ロ、黄杰の第2師、関麟徴の第25師等、中央直系諸軍の華北撤退。

ハ、河北省政府主席于学忠、憲兵第3団長蒋孝先、
藍衣社主任劉一飛等の罷免ないし処罰。

ニ、排日侮日行為徹底取締りの確約 

以上

というものです。

そして、これを北京の何応欽の所に持って行き、
談判して呑ましたのが、梅津・何応欽協定です。

その次に、中国軍の熱河侵犯があまりにも執拗なため、
6月28日、土肥原少将は断木梁侵犯なんか絶対に出来ない様にと、
新たに《京綏鉄道以北の察哈爾省内に非武装地帯を設定する》
という協定を秦徳純に結ばせました。

これが、いわゆる土肥原・秦徳純協定です。

中国は屈辱的な協定を耐えて飲みますが、
それで大人しくしているわけではありません。
次の手段として、幣制改革を打ち出しました。

これは中国の通貨を英国の通貨にリンクさせ、
英国の経済と一体化させて、日本の影響力を排除しようというものです。

これが成功し北支が経済的に国民政府のコントロール下に入れば、
北支に交易の基礎を置く満州国は、重大な経済的脅威にさらされます。

危機を感得した、関東軍と支那駐屯軍は、
「北支を南京より経済的に分離するしかない」
と考え分離工作を始めました。
そこで11月25日、土肥原少将は殷汝耕を長官とする
冀東防共自治政府を成立させたのです。

また土肥原少将は、宋哲元に独立政権を樹立させようと、
日夜腐心していましたが、南京行政院は、そうはさせじと先手を打って
12月11日に冀察政務委員会設置法案を満場一致で可決し、
その委員長に宋哲元を任命しました。

※幣制改革を除く大部分
寺平忠輔著『盧溝橋事件』読売新聞社刊 昭和45年発行より引用
(幣制改革の部分は児島襄著『日中戦争』より引用)

梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定、冀東防共自治政府設立等、
これらの一連の行為を日本の華北侵略と言う人もいます。

が、そうせざるを得ない様に仕向けたのは中国です。

別に日本は侵略したくてそうしたわけではありません。

中国が執拗に満州を再侵略し、テロで北支の治安を乱し、
意図的に日本が困るようなことを企むものだから
日本が自衛策をとっただけです。

中国が最初から友好的な態度をとっていれば起こらなかった事です。

華北分離

協定

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満州事変は、満州事変の戦後処理条約の
塘古(タンクー)停戦協定(1933年5月31日)によって終結しました。

満州の西側の、支那の北半分は察哈爾(チャハル)省(略して「察」)で、
満州の西側の、支那の南半分は河北省(通称:冀)でした。

満州と支那の境界の南半分である「河北省の東(冀東)」
に塘古(タンクー)停戦協定によって非武装地帯が設けられました。

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ちなみに、その非武装地帯(冀東)・北支那の人々は、
南支那の南京中央国民政府に高額な税金を取られて苦しんでいるのに、
すぐ北の満州は支那から独立して大成功しているのを見て
満州がうらやましくなり、自治を求める運動が起きました。
非武装地帯(冀東)で親日だった殷汝耕(いん・じょこう)が
冀東(非武装地帯)の自治を宣言して冀東防共自治政府が誕生(1935.11)。
―――――――

このように塘古(タンクー)停戦協定によって
満州と支那の間の南半分には非武装地帯が設定され、
その非武装地帯は自治宣言して自治していましたが、

まだ満州と支那の間の北半分には非武装地帯は設定されておらず、
つまり満州と支那の間の北半分は直接、接しており、
北半分の支那側の察哈爾(チャハル)省に駐屯していた
支那国民革命軍第29軍は、南の冀東防共自治政府の地域や、
東の満州内に侵入し、対日満武力挑発事件を繰り返していたので、
1935年6月27日、日本側と支那側が交渉し、
「土肥原・秦徳純協定」が結ばれてチャハル省内の排日機関が撤去され、
第29軍はチャハル省から撤退し、河北省の北平(北京)方面に移駐したので、
チャハル省自体が非武装地帯・緩衝地帯のようになり、
満州と支那の境界の南から北まで、
すべてに緩衝地帯を設定することに成功しました。

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いわゆる「華北分離」とは。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-687.html
1935年6月10日、梅津・何応欽協定、1935年6月27日、土肥原・秦徳純協定
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-577.html
冀東・冀察政権成立
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-469.html
チャハル作戦
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-579.html
2009/12/31 09:00|年表リンク用資料
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