正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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砂浜に描かれた「ARIGATO」

アメリカ空軍横田基地が発表したニュース 2011年4月8日

4月3日、仙台空港の27番滑走路から800メートルほど離れた砂浜で、
松の大木を並べて描かれたARIGATO(ありがとう)のメッセージが見られた。

同空港は3月11日の地震と津波により壊滅的被害を受けたが、
嘉手納基地から派遣された第353特殊作戦群の支援を受け、
3月16日に運用が再開され、人道支援活動の拠点となった。

"ありがとう"などもったいない。
米軍にとって仙台空港の運用再開を支援出来たことは光栄です。

統合支援部隊 統合特殊作戦隊司令官 ロバート P. トス 米空軍大佐

2011年4月6日 - 横田基地

2011年3月11日のマグニチュード9.0の地震と
それに続く33フィート(約10m)の津波によって残された惨状は
言葉では言い表せない。

日本の本州東沿岸300マイル(約480km)以上が破壊された。
震災当初目にした中で最も悲惨な状況だったのは、
仙台空港そして隣接する名取市と仙台市だった。

津波が押し寄せた仙台空港と近隣の町のビデオは衝撃的だったが、
3月16日に初めて仙台空港に到着して
これらの地域を目の当たりにした衝撃は、映像をはるかに超えていた。

何千もの潰れた車両、折れ曲がった飛行機、根こそぎにされた木々、
崩壊した家々、水、砂、魚貝などが散乱し、
機能が停止した空港のイメージは、フィルムに、
そして我々の記憶にも記録された。

しかしそれと対象的なのが今日の仙台空港の映像であり、
それは希望と復興のそれである。

当初から私達の展望は、日本側と調整しながら人道支援物資を災害地域の
中心まで直接配送可能にする為に、仙台空港再開を促進することであった。

3月16日、最初の固定翼機が仙台空港の主滑走路に
着陸したことによりその展望を達成した。

その4日後MC-130第一便が着陸し、日本人とアメリカ人で編成されるチームは
全滑走路を整備してC-17の着陸を可能にした。

我々は共同して拠点を築き、災害の中心地にむけての支援が流れ始めた。
後に仙台空港の再開が希望の象徴として
宮城県の人々に勇気を与えることになろうとは、当初は予想だにしなかった。

我々の到着前、日本国土交通省航空局と仙台空港機関は
仙台空港再開は不可能だろうと考えていた。

仙台空港を津波以前の状態に復興するには、
日本政府、自衛隊、合衆国空軍、海兵隊、陸軍、海軍
および政府機関どうしの全面的な協力が必要であった。
二国間協議が設立された。

委員会が当初練った計画では、
当面は日本人従業員が復旧作業を行っている間、
特殊部隊の兵士が支援物資の配送を可能にするべく、
全ての飛行場運用に対処するというものであった。

陸軍と海兵隊の部隊が3月20日に到着した際、直ちにこの流れに加わった。
更なる支援を得て、両国間の調整委員会は計画に沿って、
全ての空港運営を日本側の管理に戻す計画を、練り上げた。
 
4月1日に米国空軍戦闘部隊が行なっていた管制塔業務を
仙台空港の管制官達に受け渡したのが、大きな節目だった。

その日私が仙台空港に着陸する際、管制塔から日本人管制官の
堂々とした声で着陸許可がおりるのを、胸が高鳴る思いで聞いた。

この日まで21日間という短い期間、米国空軍戦闘部隊の管制官は、
オペレーション・トモダチに参加する米国空軍、海兵隊、海軍
およびオーストラリア空軍等の250機以上の軍用機に着陸許可を与えた。

これらの航空機は、これまでに231万ポンドの支援物資
および現地で使用する重機・車両用の軽油
およびガソリンを1万5000ガロン輸送した。

米軍が24時間態勢で空港運用を行ないながら物資を配送している間、
空港の日本人は重機等を駆使して懸命に空港の整備と修理を行なった。

4月3日に最後の着陸を行なった時、
これがほんの19日前には壊滅的な状態だった空港かと、我が目を疑った。

それよりもさらに驚いたのは、
滑走路に向かって最終アプローチをかけた時だった。

滑走路27番に向けて800メートルほど
離れた砂浜の上空を飛行していた時、
ふと下を見るとそこに日本語の"ARIGATO"の文字があるのに気がついた。

津波でなぎ倒された松の木を20~30本使ってかたどったらしい。

我々の支援など日本の人々の労力に比べたら、何でもない。
それどころか、我々が去った後も彼らの戦いは続くのだ。
これまでも彼らは、自らが生き残るための戦いと
行方不明者の捜索を行なう中、復興作業に懸命に取り組んできた。

陸上自衛隊東北方面隊を指揮する君塚栄治陸将は、
4月5日に仙台空港を訪れて米軍から空港責任者に
管制業務が引き継がれる場に立ち会った。

仙台空港が再開した翌4月6日、空港は3月11日の朝当時、
すなわち日本人により運営される元の姿に戻ったのである。

仙台空港においてオペレーション・トモダチに携わった米軍は、
すべて本州と沖縄の駐留部隊である。
支援活動に派遣された全米軍人に代わって言いたい事は、
我々を迎え入れてくれた友人であり
隣人の日本の人々を支援できたのは我々にとって名誉だということだ。

第353特殊作戦群、米国海兵隊富士機動隊、海兵隊第35兵站連隊
および陸軍第35兵站連隊の全隊員、
君たちの仙台空港復興に向けた懸命の作業に、
また日本の人々に復興への勇気を与えてくれたことに感謝する。

聖アウグスティヌス曰く、
「我々は賞賛には値しません。我々は我々の義務をなすのです」

日本の皆さん、ARIGATOにはおよびません。

砂浜に書かれた「ARIGATO」 (米軍機から撮影)
砂浜に書かれた「ARIGATO」 (米軍機から撮影)

2011年4月15日 海外プレスセンター(ニューヨーク)

ロバート・トス空軍大佐
(統合部隊特殊任務共同支援隊「オペレーション・トモダチ」指揮官)

最も私の心を打った一つは、任務終了近い日に仙台空港に進入していた時、
私の記憶では4月3日頃で、仙台空港に進入しようとしていた時に、
仙台空港に入る前に実際砂浜の上を通過します。

そして滑走路への着陸まで約1/4マイルの降下中の
MC-130から砂浜を一目見たところ、地元コミュニティの誰かが
砂浜でどこか近くから持って来た20-30フィート [6-10m] の木を
引きずっていました。

大型の椰子の木か松の木で浜辺に
ブロック体の「arigato」--- 日本語の「thank you」が綴られていました。

その言葉は空港に進入するパイロットだけが
見られる場所に置かれていました。

この全ての苦境の中にあって、
空港で作業をする米国人の誰よりも懸命に働いている人々が、
実際にそこに来て私達に感謝するサインを置くために
労力を払った事は、直ちに私の心を打ちました。

そしてその感謝は、日本の人々に向けられる事がより真実です。
私達はそのお礼を示して頂いた事を感謝しますが、
そのお礼は本当は日本の人々に向けられるものです。
彼等自身が実現をした人々なのだから。
仙台の状況の中にありながら私達に感謝するための努力は、
それはとても驚くべき事です。

【司会】
実際ここにその写真があります。
これを記者の皆さんに送る事にします。

横田基地発行の日本の救援活動の日刊機関紙
『トモダチ・タイムズ』の4月9-10日号に掲載されたトス大佐のコメント
横田基地発行の日本の救援活動の日刊機関紙『トモダチ・タイムズ』の4月9-10日号に掲載されたトス大佐のコメント

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東日本大震災(2011.3.11)ニュースのなかの注目の話
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2011/04/10 09:00|年表リンク用資料
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