正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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日韓併合

【文章で説明する日韓併合前後

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朝鮮併合については、
日本は朝鮮を清朝から独立させ、二国間での取り決めで
ロシア南下などの白人列強によるアジア掌握に対抗しようとしたのですが、
清朝が朝鮮を手放さず、日清戦争が勃発。
日本が勝ったので朝鮮は形の上では独立したのですが、
朝鮮国王はロシア公使館に亡命してロシアの傀儡国家となりました。
日本はロシア南下等に対抗しようとして日清戦争したのに、
朝鮮は今度は清属国から、すぐに露属国となって
日本を苦しめたので日韓併合論が起こりました。
日韓併合反対頭目の伊藤博文が韓国人に暗殺されたことや、
日本が義和団事件の功績でイギリスと同盟を組み、
ロシアをも倒したことで、
朝鮮の政治家等が親露反日から知日に変わり、
韓国側から最初に日本へ日韓併合を打診してきました。

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日韓併合は韓国のほうから日本に打診してきた!

日韓併合前の韓国は1200年以上に亘り歴代支那帝国の属国であり、
李氏朝鮮では両斑と呼ばれる権力者たちが
朝鮮民衆を暴力で支配する地獄だった。

日韓併合論は、ずっと以前から日韓双方で議論されていたことだった。

日本側にも賛成派と反対派がいたし、
同じように韓国側にも賛成派と反対派がいた。

日本側においては、陸奥宗光、曾禰荒助、竹越興三郎などは
明確に反対していたし、伊藤博文もかなり消極的だったことは有名だし、
井上馨や原敬も伊藤と同じだったようだ。

一方、長州閥の桂太郎、山縣有朋、寺内正毅などは、併合推進派だった。

対する韓国側においても、賛成派と反対派は割れていた。

李容九や宋秉などが率いる文明開化派の最大政治組織「一進会」が
強く併合を推進したし、総理大臣の李完用を始めとする閣僚の約半数が
「推進~容認」派だった。

一方、それまで朝鮮民衆に塗炭の苦しみを与え、
私利私欲を貪っていた皇帝高宗や両班や儒者たちは反対していた。

1907年のハーグ密使事件後、日本国内に
「我が国上下與論(よろん)沸然として鼎(かなえ)の湧くが如く、
或いは新聞に、演説に併合を論じ、合邦を説くこと盛(さかん)なり」
といった日韓併合・合邦論が急速に台頭してきた。

また、樽井藤吉(1849-1922)の『大東合邦論』の
「日韓併合によって新合邦国家『大東国』を建設し、
次に大東国と清国が合邦して南方植民地(東南アジア地域)を解放し、
『大東亜連邦』を実現する」と言った構想が内外に影響を及ぼし、
遂には韓国国内にも「日韓併合」論が公然と主張されだした。

1909年に日本で併合が閣議決定したものの、併合の時期について、曾禰荒助は
「就任時伊藤、桂と三者会談にて、5、6年様子を見て」と合意していた。

ところが、その1年以内に韓国側のほうで大きな変化があった。

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中央日報 2001年8月27日

本音を隠したままの日本側に対し、まず合邦を打診したのは朝鮮側だった。
総理大臣の李完用(イ・ワンヨン)の側近である、
新小説『血の涙』で知られる李人稙(イ・インジック) が
密使として動いたのだ。
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また、一進会は1909年12月4日、「韓日合邦を要求する声明書」を作成し、
上奏文と請願書をそれぞれ李完用総理、皇帝純宗、曾禰荒助統監に提出した。

しかし、日本側の併合反対派であった曾禰荒助統監は、
この合邦案を時期尚早との理由で却下すると共に、
新聞社、通信社に働きかけ、反対の論調をとらせた。

それでも、韓国側の併合推進派である一進会は
上奏書を却下されてもまた提出し、
これを繰り返すこと4回目に桂首相の指示により遂に受け取られた。

ただし、明治天皇の意向もあり、
曾禰荒助の更迭はならず、従って併合の正式決定はならなかった。

その間韓国では次第に併合に賛成する者が増え、
西北学会も賛成に転じ、大韓協会も賛成派と反対派に分裂する事となった。

1910年3月末に至るも曾禰に辞職の意思無く、
このまま放置もままならないので、遂に寺内を後任に内定し、
寺内を病気見舞いに行かせ、因果を含め辞表を出させることになった。

曾禰が辞表を出したのは5月30日で、直ちに後任には寺内が任命された。

寺内は、日本国内での意見調整、列強各国に併合についての合意を取り、
7月15日ようやく東京を発ち、7月23日ソウル入りした。

ソウルに入ったものの寺内は黙ったまま何ら方針を示さず、
半月余りたった。

8月16日、李完用首相は日本の水害見舞いと称し、
趙農相を伴い、寺内の居る統監邸を訪れた。

ここで山県副統監を交えた会談3時間に及び、
若干の修正にて日韓併合は合意に達した。

この結果にもとづき李完用首相は8月18日に閣議を開いたがまとまらず、
8月21日李完用が皇帝に内奏し、皇帝の了承を取り付けた。

これにより1910年8月22日の韓国の御前会議で
韓国は正式に日韓併合を決定した。

日本は統監統治や日韓併合で、階級による身分差別を撤廃し、
両班による搾取・虐待から農民を救い、移住の自由を認めさせ、
残酷な拷問や刑罰や一族の罪人連座法などを廃止し、
女性再婚の自由を保障し、人権尊重などの法治国家の基礎をつくり、
学校教育制度を導入し、読み書きを教え、ハングル文字を復活・普及させ、
台湾では運動が起きても1~2%にしか許可しなかった改姓名だが、
85%の朝鮮人には創氏改名を許可し、鉄道網、道路網を整備し、
港の開設工事をし、水力発電所を建設し、重化学工業を興し、
緑化政策によって山野を甦らせ、不毛の地を開拓し、
河川大事業で洪水を減少させ、水田を倍増させ、
世界中から世界一不潔と言われた町々を清潔にし、近代医療制度を導入し、
平均寿命を24歳から45歳にのばし、人口を2倍にし、
内地(日本)への渡航規制を犯して来る密航者にも寛容に対処した。

coffeeさんのブログより
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-4805.html

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『韓日合邦を要求する声明書』 1909年12月4日 一進会(百万の朝鮮人会員)

日本は日清戦争を通じて韓国を独立させ、
日露戦争でロシアに食われかけていた韓国を救ってくれた。

それでも韓国はこれをありがたく思うどころか、
あの国にくっつき、この国にくっつきし、
結局は外交権を奪われることになったが、
これは我々が自ら招いたことである。
(中略)
伊藤博文公が韓国国民を見守ってくれ、
太子を導いて我々韓国のためにご苦労されたことは忘れられない。

にもかかわらずハルピンの事件が起きてしまった以上、
今後いかなる危険が到来するのかわからない。
これもまた韓国人自らそうしてしまったのである。
(中略)
それゆえ劣等国民として保護されるよりは、
いっそ日本と合邦し大帝国を造って世界の1等国民として
日本人とまったく同じ待遇を受けながら暮らしてみよう。

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「朝鮮総督府統計年報」 朝鮮総督府編
 
年次……年末常住人口

1910年…1312万8780人 (日韓併合年)
1915年…1595万7630人
1920年…1691万6078人
1925年…1854万3326人
1930年…1968万5587人
1935年…2124万8864人
1940年…2295万4563人
1944年…2512万0174人 (5月)

このほか日本内地や満州にも多くの朝鮮人がいました。

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日韓併合は、時の朝鮮国王(韓国皇帝)が王令(勅諭)を出して行われました。
朝鮮国のトップが併合を認めたのですから、
韓国は日本に対して「正義の押し売り」だとか「ありがた迷惑」
などと言う資格はありません。

迷惑なのは日本のほうでした。

日清戦争前の朝鮮というのは清朝・中国の属国でした。

ロシアは不凍港を目指して南下している時代です。
日本はロシア南下に対抗して、朝鮮を独立国家と認め、
その国家との条約により軍部駐留を目指しました。

しかし属国を手放したくない中国と戦争になりました(日清戦争)。
日本は圧勝したため、朝鮮の独立だけでなく、
台湾領有の承認や、遼東半島の租借も得ることができました。

朝鮮の国王・高宗及び閔妃は
清の後ろ盾を失ったことにより今度はロシアに頼りだしたので、
朝鮮の親日派が閔妃の暗殺を企て、日本公使が協力することとなりました。

高宗はロシア領事館に逃げ込み、ロシア領事館の保護下で親露政策を取り、
ロシアと様々な契約を締結しました。

ロシアなど3国が日本に「遼東半島を清に返せ」と脅してきます(三国干渉)。
日本は仕方なく返しました。
するとロシアは清に日本を追い出したことへのお礼を要求し、
満州の半分がロシアのものとなりました(李-ロバノフ協定)。

1897年10月、高宗は皇帝を名乗り、国号を大韓帝国と改めます。
義和団事件でロシアは清に代償を要求し、ロシアは満州全土を掌握。
朝鮮もロシアの支配下寸前でした。

日本はロシア南下対抗のために
中国と戦争までして朝鮮を独立させたというのに、
逆にロシアは着々と南下し、朝鮮までもがロシア側についたのですから
日本は我慢の限界でした。

これにより日露戦争が勃発。
日本は辛くも勝利し、ロシアのものになってた満州を奪うことができました。

伊藤博文などが金がかかるという理由で朝鮮の併合に反対していましたが、
朝鮮を自由にふらつかせておくと、
こういう危険が実際に起こったため、併合派が多数だったわけです。

朝鮮がロシアのものとなる前にロシアを叩いた日本は優秀でした。
朝鮮がロシアのものとなってからでは日本に勝ち目はありません。
そうなる前に手を打った日本は国力が強いということです。

この後、朝鮮の親露行動による日本国存亡危機の再発を防止するため、
日本は朝鮮を併合しました。

日露戦争での日本の勝利を見て、
親露反日派が親日的に変わったとうこともあって併合がなされました。

日本は朝鮮の近代化に自国を犠牲にしてまで尽力したので、
国内でも朝鮮統治は問題になりました。

ちなみに大東亜戦争において、
日本があれほどまでに中国権益を手放さず、戦争してまで守ろうとしたのは、
遼東半島を手放した後の痛手を知っているからです。
ロシアに勝てたから良いものを、
負けた、あるいは朝鮮にロシアの軍事施設が完成していたら、
日本も植民地になっていたでしょうから。

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『近現代史の必須知識』より抜粋

■明治日本と朝鮮

当時の日本にとって最大の脅威はロシアでした。
ロシアは1860年には清国に沿海州を割譲させて
ウラジオストックに港を開いていました。

このロシアが南下し、朝鮮を植民地化すれば、
次は日本が標的となることは自明の理です。
そこで明治政府が期待したのが朝鮮の開国・近代化でした。

またこれは日本にとっての死活問題でもあります。
明治元年、維新政府は朝鮮と修好回復を希望する国書を提出しましたが、
その文中に清の皇帝と対等であることを表す「皇」の文字などが
あるという理由で朝鮮は国書の受理を拒否しました。

日本は、朝鮮が華夷秩序の中で、かたくなに国交樹立を拒否するため、
先に清国との「日清修好条規」を締結します。

■華夷秩序・小中華思想

華夷秩序とは、世界の中心に天子のいる中華があり、
その周辺の蛮族がみなその属国となって朝貢する関係のことで、
この宗主国と属国の関係を「宗属関係」といいます。

朝鮮は支那が親で、日本は下位の弟分と考えており、
これを「小中華思想」といいます。

現在でも韓国は日本の天皇を「日王」と呼んでいます。
日本はすでに、聖徳太子が隋の煬帝に
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という手紙を送り、
華夷秩序を脱しています。

■朝鮮の国名と年号

1392年、李成桂が「李氏朝鮮」を建てて高麗王に即位したとき、
すぐに明に使節を送り「権知高麗国事」としての地位を認めてもらいました。
明の朱元璋(太祖)より、王朝交代に伴う国号変更の要請を受けた李成桂は、
1393年、「朝鮮」と「和寧」の2つを提示し、
いずれとすべきか選んで欲しいと頼み、「朝鮮」と決めてもらいました。
年号も明国の年号を使用しています。
http://s01.megalodon.jp/2009-0401-1400-14/jiten.biglobe.ne.jp/j/b8/b0/f7/f4b2ab2678f69d0a62b5ffe1df42700b.htm

「韓」は、古代朝鮮半島の南部にあった「三韓」
と呼ばれる馬韓、辰韓、弁韓の国々の名称に由来する朝鮮民族の別名。

■江華島事件(雲揚号事件)

1875(明治8)年、測量目的で江華島の沖合に停泊していた軍艦雲揚号の
井上艦長が、飲料水を求め自らボートで陸地を目指していたところ、
突如朝鮮側が発砲してきました。
ボートで陸地に近づいたのは無害通行で、
これに発砲するのは万国公法違反です。

この武力衝突の結果翌年、江華島条約(日朝修好条規)が締結されました。

この条約は「朝鮮国は自主の邦として日本と平等の権利を有せり」という、
清国との宗属関係を否定した、朝鮮にとっては画期的な条約でした。

■日清戦争

日本が朝鮮の独立を主張し、
清国が朝鮮を属国であると主張して対立した戦争です。
日本は朝鮮の独立を援助し、清国はこれを妨害しました。

日本の宣戦布告の勅令には
「朝鮮は・・・列国の五伴(仲間)に就かしめたる独立の一国たり」とあり、

清国の宣戦詔勅には
「朝鮮はわが大清の藩屏(直轄の属領)たること二百余年、・・・」
とあります。

戦後の下関条約(1895年)で、清国は朝鮮の独立を承認しました。

■三国干渉

日清戦争後の下関条約で、日本は遼東半島を割譲されましたが、
清国は列強の力を利用して日本を追い出そうとしました。

これは支那伝統の外交術「以夷制夷」(夷を以って夷を制す)で、
露仏独の三国が遼東半島の清国への返還を日本に迫りました。

これは、下関条約調印の六日後のことです(調印4月17日)。

三国に対抗する国力のなかった日本は、
やむをえず遼東半島を清国に返還しました。

■三国干渉の影響

1.清国
清国にとって三国干渉は、
日本を追い出した代わりに狼を引き入れるような結果になります。
3年後の1898(明治31)年、ロシアは遼東半島を租借地として獲得します。
何のことはない、日本が戦争で得た領土を横からさらっていっただけです。
(当時の戦争は、敗戦国が領土を割譲し賠償金を払って決着をつけていた)。

それだけでなく他の2国すなわちドイツは膠州湾を、
フランスは広州湾を租借したのです。

2.朝鮮
三国干渉で日本が屈服すると、
朝鮮の中で親日派が動揺し、親露派が台頭します。
朝鮮国王はロシア公使館に移され、
一年間ここで政務を執ることになりました。

■朝鮮の事大主義
 
朝鮮は、日清戦争前は清国側に付いていましたが、
日本が勝利すると日本側に付き、三国干渉で日本が屈服するとロシアに傾き、
日露戦争で日本が勝利するとまた日本に傾いてきました。
このように朝鮮は常に強い方に頼ろうとします。
これを「事大主義」(大につかえる)と言います。

日本は、朝鮮を独立させ、内政改革により近代化させ、
ロシアに対する日本の防波堤にしようとしました。
ところが朝鮮は日本の近代化支援を侵略として排斥しようとし、
伝統的な事大主義から抜け切れず、
この千載一遇のチャンスを活かせず内部の暗闘に明け暮れ、
近代国家として独立する絶好の機会を逸してしまったのです。

■韓国併合に至る経緯

日露戦争が急迫したとき、
韓国は世界に向けて密かに「局外中立」を発表しました。

日露戦争開戦と同時に日本が先勝すると、韓国は親日に一変し、
日韓議定書が結ばれ、
その後1905(明治38)年「(第2次)日韓協約(韓国保護条約)」が締結され、
日本は韓国の外交権を預かり、韓国を「保護国」としました。

ポーツマス条約後、ルーズベルト米大統領は
「将来の禍根を絶滅させるには保護化あるのみ。
それが韓国の安寧と東洋平和のため最良の策なるべし」と言っています。

韓国政府は必ずしも日本の勝利を確信できず、
その後も日本に協力的ではなかった。

しかし韓国の一般国民の中には日本に理解を示す人々も多く、
日露戦争中に親日的な団体として「一進会」が結成されました。
会員数は100万といわれます。

1907(明治40)年、韓国皇帝・高宗はハーグの万国平和会議に密使を送り、
日本との保護条約の無効を訴えようとしましたが失敗し、
高宗は退位することになりました。

韓国併合に反対だった伊藤博文が安重根に暗殺され、
ついに1910(明治43)年、日韓併合条約(韓国併合に関する条約)
を締結して、日本は韓国を併合しました。

1.「植民地化」は「コロナイゼーション」(colonization)であるが、
「併合」は「アネクセイション」(annexation)です。
スコットランドとイングランドは併合です。
イギリスの新聞は韓国併合を「アネクセイション」と報じています。
「植民地」は差別と収奪、「併合」は対等ということです。
韓国併合後、日本は韓国を日本と同じ生活・文化水準に
引き上げようと様々な政策を実施しています。

2.日本は、韓国併合について事前に列国に打診し
賛同を得てから併合しました。
日本の韓国併合に反対した国は一つもありませんでした。
ルーズベルト米大統領は「朝鮮半島は、日本のものである」と公言し、
イギリスも「韓国併合こそ、われわれが以前から望んでいたことだ」
と大歓迎しました。

3.日本は、韓国の王族に非常な敬意を払い厚遇しました、
李王族には皇室に準ずる地位をあたえ、
最後の王太子には皇族の梨本宮殿下の長女方子女王が嫁いでいます。

4.併合は強制されたから無効という人がいますが、
国際条約はいつも対等な立場で結ばれるものではなく、
だからといって無効というものではありません。
どんなに不利な条約であっても、
いったん結ばれたら誠実に履行するのが国際社会のルールです。
明治日本は、欧米列強との不平等条約を改正するため、
それこそ血の滲むような苦労をし、
治外法権が撤廃されたのは日清戦争五年後の1899(明治32)年であり、
関税自主権を獲得したのは日露戦争七年後の1911(明治44)年です。

5.2001(平成13)年、韓国の学者の主導で、
「韓国併合再検討国際会議」が米国で開催され、
これには日米韓のほか英独の学者も参加しましたが、
韓国側の「日韓併合条約」不法の主張は支持されませんでした。

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■日韓併合前(1905年に日本の保護国になる前)

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朝鮮時代のソウル市内は汚物まみれ、衛生状態が深刻だった=韓国

サーチナ 2012年10月11日(木)10時36分配信

ソウル大医科大学・シン・ドンフン教授の研究チームは10日、
「景福宮の塀、光化門広場の世宗大王銅像の下、市庁舎付近、
宗廟広場などソウル四大門の重要なポイントの朝鮮時代の地層から、
各種の寄生虫の卵が発見された」と明らかにした。
複数の韓国メディアが報じた。

韓国メディアは、「朝鮮時代の人々の胃に寄生虫、衝撃」
「朝鮮時代、漢陽通りはふん尿天国」などと題し、
世宗路につながるソウルの中心地は朝鮮時代、においに悩まされ、
通りでは汚物を踏んでしまう汚れた街であり、
衛生状態も深刻だったと伝えた。

朝鮮王朝実録などの古文献に漢陽の汚染状態が記録されたりしていたが、
土から抽出した寄生虫の卵など、
これらを実証した研究が国内の考古学界に報告されるのは今回が初めて。

研究チームは、地層から肝臓ジストマ、回虫などの卵を発見した。
これらの寄生虫は、哺乳類や魚類などの動物を宿主にして人体に侵入した後、
長期間に寄生し、その後、便を介して再び外に出る。

実際の景福宮の前で抽出した土壌からは、
1グラムあたり最大165個の卵が確認され、
残りのサンプルでも平均35個の卵が発見された。

シン教授は「当時、人ぷんによる土の汚染度が
かなりひどかったという事実を示す結果となった。
現在に置き換えた場合、寄生虫の卵がこれほどたくさん出てくる地域は、
衛生施設が劣悪な発展途上国の大都市だけ」と説明した。

分析の結果、地層が形成された時代は、15~18世紀とされ、
シン教授は「ほぼ同じ時期のヨーロッパの大都市の状況と似ている。
朝鮮が漢陽に都を移した14世紀以後、当該地区の人口は爆発的に増加した。
多くの人が排出したふん尿を処理する衛生施設が不備であったため、
都市がこのように汚染されたものとみられる」と分析した。

研究チームは、2009年から国立文化財研究所などの支援に
寄生虫学を融合した考古学の研究を進めており、以前の研究では、
朝鮮時代のミイラ18体から出てきた寄生虫の卵を分析して、
この時代の人々の寄生虫感染率が現在の10倍に上るとの事実を明らかにした。
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-4820.html

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「在日朝鮮人―歴史・現状・展望」 朴鐘鳴編 1995年 明石書店

日清戦争に従軍して朝鮮に渡った兵士の一人は次のように記している。

『…さらに驚きは、聞きしに勝る不潔である。
道路は塵糞にておおわれ、不潔の大王をもって自ら任ずる豚先生、
子分を引き連れ、人間どもを横目で睨みつつ、道路を横行する。
臭気鼻をつき、嘔吐をもよおすなり…』

(浜本利三郎著・地主愛子編「日清戦争従軍秘録」青春出版社1972年)

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『政治史』第77巻、豚犬的生活 五 より 細井肇著「漢城の風雲と名士」

「韓国内地を旅行すれば、路傍や街路中に累々たる黄金の花(人糞の比喩)
が場所も構わずにあちらこちらに咲き乱れいて、
足の踏み場もなく潔癖な人は一目その不潔さと臭気の酷さに驚くのである。
(中略)
現に、この国(韓国)の中央都会である京城(ソウル)のような、
「韓国の帝都」と言われる都市でさえ至る所に
人糞や牛馬糞を見ないことはなく、
辺りに漂う恐ろしいほどの臭気は人の鼻を襲い目を顰めない人はいない。

さらに京城市内(ソウル市内)を流れている川には、
そこに隣接する各家々から排せつされる糞尿が混じり、
川の水は黄色に染まり、ドロドロとなっているなど
目も当てられない光景であるが、韓国人はその水を洗濯に使っている。

全く持ってとんでもない話である。

毎年夏期になると京城(ソウル)では伝染病が流行し、
その伝染病にかかる患者の殆どが韓国人であり、
大流行時には何千人もの患者を出すことも珍しくはない・・・」

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東亜日報 2005年8月22日
(一部抜粋)
中宗(チュンジョン、1488~1544年)は解熱剤として「野人乾」の水を
飲んだという内容もある。「野人乾」とは人糞のこと。

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中央日報 2010年08月20日

【噴水台】 人糞

人糞を治療用として食べた記録も見られる。
『東医宝鑑』は、自ずと死んだ鳥や獣の肉を食べて中毒になった時、
人糞汁を食べさせればよいと書いている。
毒キノコ中毒になった時、人糞を一升食べさせるという記録もある。
むちにひどく打たれて重い病気にかかった人に
人糞を食べさせる秘方もあった。
昔の歌歌いがを通すために人糞を濾した糞水を
飲んだというのはよく知られている話だ。

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最近朝鮮事情 明治39年 荒川五郎

・濁っている水だろうが、小便や糞が混ざっている水でも平気で飲む。
とにかく不潔で、味噌と糞も朝鮮人にとっては一緒だ。

・壁は馬糞を混ぜる。壁が固くなるそうだ。

・驚くべき事に小便で顔を洗う。肌のきめが細かくなるそうだ。

・肺結核の治療や解熱として小便を飲む。

・いよいよ病気が酷くなると、大便を食べる。

・穴で暮らしているから夏は暑く、家の外で寝る。
顔の近くを大便や小便が流れているが、
朝鮮人にとっては臭くないらしく、平気で寝る。

・小便壷が家の中にあり、客がいても平気で小便をする。
また、痰を吐くときは口の近くに壷を持ってくる。

・雨が降るとこれらの不潔物と雨水が一緒になりすねの上まで浸かり、
家の中の物が水に浸るが、洗うという事はしないでそのまま使っている。

・婦人が洗濯をしているので見てみると
小便水と見分けの付かない黒い水に洗濯物を揉んだり打ったりしている。

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Wikipedia 『嘗糞(しょうふん)』

「嘗糞」(しょうふん)とは、人間の糞を舐めて、
その味が苦ければその人物の体調は良くなっており、
甘ければ体調が悪化していると判断する、
古代中国や朝鮮半島の李氏朝鮮時代まで行われた民間療法。
儒教では孝行の一種とされている。

また、これより転じて、他人の糞を舐めて
誰の糞かを当てる遊びになったとする文献もある(後述)。

嘗糞の記録は中国の南北朝時代や唐代の説話にも見受けられる。
『二十四孝』や『日記説話』によれば、南斉時代に庚黔婁と言う役人が
父親が病気になったので帰郷すると医者に、
糞を嘗めて見ないと状態が解らないと言われ、
その味が甘かったので憂いたと言う「嘗糞憂心」の故事が残っている。

朝鮮での嘗糞の実際

朝鮮では、6年以上父母の糞を嘗めつづけ看病し
病気を治した孝行息子の話などの記録があり、
指を切って血を飲ませる「指詰め供養」(断指)や
内股の肉を切って捧げる「割股供養」などと共に、
親に対する最高の孝行の一つとされた。
断指及び割股に関しては『三国史記』の統一新羅時代に記述が見られる為、
同時代に唐から入ってきたと推測される。
こうした風習は朝鮮時代まで続き、日韓併合後に禁止された。
世宗が編纂を命じた儒教的な教訓を纏めた書、『三綱行実図』には
孝行の一例として挙げられている。

『朝鮮医籍考』によると、後に娯楽化し、
人の糞を舐めてその味で誰の糞であるか当てる遊びが流行した。

また、朝鮮王の中宗は、解熱剤として
人糞を水で溶いたものを飲んでいたという。

20世紀に入っても人間の大便を民間医術に使用する例があり、
『最近朝鮮事情』には重病人に大便を食わせる例が載せられている。

また『朝鮮風俗集』には人中黄(冬季に竹筒に人糞と甘草を交ぜ地中に埋め、
夏季に取り出し乾燥させて粉末にしたもの)と言う民間薬が載っている。

嘗糞は「お世辞の言葉」としても使われ、
お世辞の度が過ぎる輩の事を「嘗糞之徒」と言う。

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ユネスコ世界記録遺産 『東医宝鑑』
http://bit.ly/19Z9gbV
トンスルが世界24ヵ国以上で報道
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5183.html

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日韓併合以前のソウル・釜山は極めて不衛生な都市だった。
伝染病がしばしば起こり多くの人々が死亡した。
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「韓国は日本人がつくった ―朝鮮総督府の隠された真実―」
黄文雄 2002年 徳間書店

「日帝」以前のソウルは世界一不潔な都市

…首都ソウルでさえ非常に不潔であった。
当時の洋夷(西洋人)の目からみても、日本人からみても、
日清戦争前のソウルは、世界一不潔な都市だったという。

細井肇(朝日新聞記者・自由討究社創立)の
「漢城の風雲と名士」(「政治史」第77巻、ペリカン社、豚犬的生活5)
にある記述は比較的わかりやすいだろう。

『韓国内地を旅行すれば、路傍や街路中に累々たる黄金の花が場所も嫌わず
狼藉と咲き乱れて居て、足の踏み場もなく潔癖者は
一見その不潔と臭気に驚くのだ…。
現に、この国の中央都会の地たる京城の如き、
一名を真の帝都と緯号(あだな)されて居る程で、
至る処人糞或いは牛馬糞を見ざる無で、
紛々たる臭気は鼻を襲ひ眼を顰(ひそ)めぬ者とてはない。
そこで京城市内を流れて居る川の如き各戸より、排泄する糞尿を混じ、
その水は一種の黄色を帯び、ドロドロとなって居るなど、
実に眼もあてられぬ光景で、洗濯などに遣って居る。
なんと鼻持ちならぬ咄(はなし)ではないか。
毎年夏期になると伝染病が流行し、
その伝染病に罹(かか)る患者の多くは韓人で、
非常なる大流行を極め何千人を驚かすは珍しくない……』

氏は、京城の糞は煙管(キセル)、虱(しらみ)、妓生(キ-セン)、
虎、豚、蝿などとともに、韓国の7大名物として取り上げている。

また、韓国の首都ソウルでもこの有り様なのだから
「世界一の糞の国」だと称し、
その糞を処理するのは犬と豚であるとも言っている。

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「最近朝鮮事情」 荒川五郎著  明治39年(1906年) 清水書店
(本書は衆議院議員で中国新聞社主筆でもあった著者の朝鮮視察記)

朝鮮は概して飲料水がよくない上に、朝鮮人の無頓着なることは、
雨が降って河川が赤濁っておっても、
これを濾(こ)して用いるなどの考えは、更に無い、
そこで赤痢じゃの、腸チフスなどの病気がとかく発生しやすい。
(中略)
朝鮮人の不潔ときたら随分ヒドイ、
てんで清潔とか衛生とかいう考えはないから、いかに不潔な家でも、
いかに不潔な所でも一向平気で、濁った水でも構わないどころか、
小便や大便の汁が混じって居っても、
さらに頓着せずにこれを飲む、実に味噌も糞も朝鮮人には一所である。

といえば朝鮮に行かない人には、
極端の言いようのように思われるかも知れないが、事実その通りで、
一例をあぐれば、家を造るに、
壁土の中に馬糞などを混ぜて喜んでこれを塗る、
その訳は馬糞を混ぜると壁が堅くなって泥が落ちにくいというている。

さらに驚くべく信じ難い程であるのは、
朝鮮人は小便で顔を洗い、気目がよくなるというて居る、

また小便は腎虚や肺結核や解熱等に有効じゃというてこれを用い、
また強壮剤じゃというて無病の者でも飲んでいる、
いよいよ病気が重くて生きられまいという時は、
大便を食べさすということも聞いている、

なんと驚かしいことではないか。
塵や芥(ごみ)がばらけておろうが、物が腐って臭かろうが、
食物に蝿などがたかって汚しても、更になんとも思わないで、
年中風呂に入るの、湯をつかうのということは無い。

夏など穴のような家の中はもちろん蒸し暑いものであるから、
たいていは家の外に露宿をする、その頭元には糞や小便が流れており、
悪臭はふんぷんとして鼻をつく程でも、朝鮮人には感じが無いらしい。

日本の者が朝鮮に入り、朝鮮人家の間に雑居し、
または朝鮮内地を旅行して朝鮮人の家に泊まると、
一番に困るのは家の不潔であるのと、
一種の臭気を吐き気を催すほどであるうえに、
南京虫がやって来るので、実に快く眠ることができないからである。

また小便壷はたいてい室の中に置いてあって、大人でも小児でも、
客の前であろうが、誰が居っても構わず、、ジャ~と小便する、

またその小便器を口の側に持って寄せて唾を吐き込む、
彼らは久しい慣習で、別になんとも思わぬらしいが、
日本人の目から見ればいかにも見苦しい、たまったものではない。

これが田舎になると一層ヒドいのはいうまでもないが、
しかし田舎のみではない、京城でも割合に不潔でないのは大路位のみで、
少し折れて小路に入ると、その臭気は鼻をおおっていなくては通れない程で、
塵や芥が道の上に散り乱れており、
家々の便所から大小便は勝手に流れ出でつつある、
そこらあたりを朝鮮の小児らは平気でガヤガヤと戯れ遊んでいる。
(中略)
一度長雨が降ると、泥まった水は不潔物と一所になって
道の上でも脛の方までもくる程みなぎって、
室内の道具などただよわしてもこれを洗うのなんのということは更にない。

婦人がポチャポチャ衣物の洗濯をしているので、行って見れば濁り黒んで、
小便水やら雨水やら更に見分けはつかない中にセッセと、
揉んだり打ったり、汗水たらしてやっている。
(中略)
また朝鮮の食事が心地悪いのは、釜の萬用である、飯を炊いたり、
汁を煮たりするその釜で、汚れた衣服も煮る、
時としては不潔物などがついている事があっても平気でこれを煮るのである、
潔不潔の観念の無い朝鮮人には平気でも、
日本人には実にたまらぬことである。
(中略)
朝鮮人は病気とかその他吉凶禍福の事など多くは皆迷信に支配せられて、
医薬よりも祈祷、勤勉よりも祈願、
戒慎(自己批判・反省)よりも呪詛という有様で、
為に身を損ない身代を失い困難に陥るものはドレだけか分らない。

病気にかかるとたいてい死霊生霊、その他狐等のつき物の為に、
その崇(たた)りでこのようになるのであるからというて、
巫女(みこ)を招いて祈祷をしてもらう者が多い、
巫女の他に、男子で修験者のような者もいる。

この風は下つ方ばかりではなく、王様の宮中でも今日まだこの弊風がある、
去る明治35年の夏、北清地方からコレラが伝わって来かかったので、
その時宮内府顧問であって米国人のサンズが勧めて、
勅令をもって警務庁に臨時衛生院というものを設け
これを予防しようとしたのに、
宮中ではかえって巫女を集めて悪疫退治じゃと称えて、
しきりに祈祷をやっていた。

また人民もこれになろうて、国中八方から、名高い巫女を呼び寄せ、
一の大祈祷会をするという有様で、
文明的の予防法には耳を傾ける者が無いから、
折角の臨時衛生院もなんの活動もすることが出来なかった。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766869/55
韓国の食品
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-4687.html

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「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社

当時の韓国を訪れた外国人は筆をそろえて、
いかに不潔だったかに、驚いている。

ビショップ夫人は「ソウルは汚ないことと臭いことでは、世界一である」
と書いている。

『25万人の同市民は地上に瓦または藁を並べた一階屋の下に
潜り込んで生活している。いや、不潔な道路に蠢動(しゅんどう)
していると形容したほうがよいだろうか。
その道路は広くても二頭の馬が並ぶことができない。
狭いところで一人の荷を担いだ者が往来を塞いだほどである。
路傍には悪臭が芬々(ふんぷん)とする溝があり、
路面は埃まみれの半裸体の子供と、
獰悪(どうあく)な犬とによって占領せられている。』

『市街の中心を西から東へ流れる下水道は、
市中の汚水を夜に昼に絶えず城外に排泄している。
そのために下水道の泥は真っ黒で幾世の昔からの濁水によって染められ
悪臭を空中に放散して旅人を悩ましている。』

『南山の中腹に日本公使館があるが、
木造で白塗りの建物としてはあまり感心できない。
その麓に日本人居留地があり、
約5000人の日本人が小さな天地をつくっている。
料理店もあれば、劇場もある。
朝鮮人町と反対に清潔でよく整って気持ちがよい。』

(「30年前の朝鮮」バード・ビショップ 1925年)

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『悲劇の朝鮮』 アーソン・グレブスト 1912年
(高演義・河在龍訳 1989年 白帝社)

釜山で朝鮮が私に与えた第一印象は、さほどいいものではなかった。
道は狭く不潔で、家屋は低くて見栄えがしなかった。
日本のように人目を引く商店や、古い寺などもない。
四方から悪臭が漂い、戸外にはごみが積もり、
長い毛をだらりと垂らした犬が集まってきては食べ物をあさっている。
あちこちに乾上った下水道があるが、
そのべとべとした底ではいろんな汚物が腐りかけている。
そしてその中で髪の毛の長い子供たちが遊んでいる。
朝鮮の海辺の村落を通り抜け、
車夫らは道がより広く比較的きれいな、日本風の市街地へ向かった……

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「炎は流れる 第3巻」 大宅壮一 昭和39年 文藝春秋

統監府の外務部長として赴任した小松緑の書いたものによると、

『京城の町なかでさえも、家という家はみんな額のつかえそうな
低い屋根に泥ぬりの荒壁というありさま。
それに道路がせまい上に、石塊出没して凹凸状をなし、
そのそばの土溝(どぶ)には、たれ流しの糞尿が縦横にあふれ、
汚臭紛々として鼻をつき、息もつけない。
この穢路(わいろ)の奥にあった一軒の日本家が著者の借住居であった。
そこへ統監府から時々書類をもって往復する小使でさえ、
通るたんびに命がちぢまるといっていたくらいだから、
その非衛生的穢状が察せられるであろう。』

そこで、何かの折りに、小松は伊藤博文にそのことを話したが、
『やせてもかれてもここは王城の地だ。そんなことがあるものか』
といって信じなかった。

だが、たまたま小松の家で催された囲碁の会に博文が出席して、
小松の話がウソではないことを知り、
さっそくツルの一声で、統監官邸のある南山のふもとに、
日系官吏のために官舎が建てられることになったという。

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『まげの国の一五年』 アンダーウッド 1904年
朝鮮の宿屋は不潔さ、狭さ、悪臭と不快さにおいて、
中国内陸部の宿屋に次ぐものである。
扉を覆う紙は一様に汚れで黒ずんでおり、
光線がほとんど差し込まないため、部屋は陰鬱な感じがする。

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『朝鮮』 ハミルトン 1904年
漁村の貧困ときたならしさは、驚くほどである。
人々は精神がなく、寝て伸びをして食べてを繰り返す怠惰で
だらしない存在でいることに満足しているように見える。
金を出すと言っても、日中釣り舟を出させるのは不可能だった。

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韓国の評論家 金満哲の言葉

「日本文化の祖が韓国」とは恐れ入る。
一体、併合前の朝鮮半島のどこに「文化」なるものがあったのか。
併合前、我々先祖は乞食同然の生活をしていたではないか。

現在の韓国の姿、まさに他人により作られた砂の楼閣だ。
虚飾と偽善と歪曲とおごりに満ち満ちている、
真似と依存と歪曲が全てである。

このような韓国の本質を知らず「韓国こそ世界一」などと
ほらを吹いて自己満足している本国、在日の韓国人は正気の沙汰ではない。
これが恥でなくてなんであろうか。

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「朴正熙選集」-我々は今何をいかになすべきか-  
朴正熙 韓国大統領

我が五千年の歴史はひと言でいって退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史であった。
いつの時代に辺境を超え他を支配したことがあり、
どこに海外の文物を広く求めて民族社会の改革を試みたことがあり、
統一天下の威勢でもって民族国家の威勢を誇示したことがあり、
特有の産業と文化で独自の自主性を発揮したことがあっただろうか。

いつも強大国に押され、盲目的に外来文化に同化したり、
原始的な産業のわくからただの一寸も出られなかった。

「われわれのもの」はハングルのほかにはっきりとしたものは何があるか。
我々はただ座してわらを編んでいただけではなかったか。

自らを弱者とみなし、他を強大国視する卑怯で事大的な思想、
この宿弊、この悪い遺産を拒否し抜本せずには
自主や発展は期待することは出来ないであろう。

以上のように我が民族史を考察してみると情けないというほかない。
全体的に顧みるとただ唖然とするだけで真っ暗になるばかりである。
このあらゆる悪の倉庫のような我が歴史はむしろ燃やして然るべきである。

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『血の涙』李人稙(1862-1916)

両班たちが国を潰した。
賎民は両班たちに鞭打たれて、殺される。
殺されても、殴られても、不平は言えない。
少しでも値打ちがあるものを持っていれば、両班が奪っていく。
妻が美しくて両班に奪われても、文句をいうのは禁物だ。
両班の前では、全く無力な賎民は、
自分の財産、妻だけでなく、生命すらその気ままに委ねられている。
口一つ間違えればぶったたかれるか、遠い島へ流される。
両班の刃にかけられて、生命すら保つことができない。

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『朝鮮事情』マリ・ニコル・アントン・ダブリィ主教

朝鮮の両斑は、いたるところで、
まるで支配者か暴君のごとくふるまっている。

大両斑は、金がなくなると、使者を送って商人や農民を捕らえさせる。
その者が手際よく、金を出せば釈放されるが、出さない場合は、
両斑の家に連行されて投獄され、
食物も与えられず、両斑が要求する額を払うまでムチ打たれる。

両斑の中で最も正直な人たちも多かれ少なかれ
自発的な借用の形で自分の窃盗行為を偽装するが、
それに欺かれる者はだれもいない。

なぜなら両斑たちが借用したものを返済したためしが、
いまだかってないからである。
彼らが農民から田畑や家を買うときは、
ほとんどの場合、支払いなしですませてしまう。

しかも、この強盗行為を阻止できる守令は一人もいない。

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『悲劇の朝鮮』スウェーデン人 アーソン・グレブスト

李氏朝鮮の残酷な死刑や拷問に対して、

「こんな状況がまだこの地球の片隅に残されていることは、
人間存在そのものへの挑戦である。

とりわけ、私たちキリスト教徒がいっそう恥じるべきは、
異教徒の日本人が朝鮮を手中にすれば
真っ先にこのような拷問を廃止するだろうということだ」

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『朝鮮事情』 シャルル・ダレ 1874年 金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫

両班(ヤンバン)は、自分たちのすべての特権については非常にうるさく、
少しでも敬意を失するものがあれぱ、残忍な報復を下す。
その一つの実話を次に引用しよう。

みじめで、みすぼらしい風体をした一人の両班が、
郡衙(役所)の近くを通っていた。
そこへ、泥棒を捜していた4人の捕卒が行き会い、
その外見にやや疑念を抱き、
もしかするとこれが自分たちの捜している者ではないかと思って、
ぶしつけな尋問をした。

すると、両班は答えた。
「はい、そうです。私の家までついて来てくだされぱ、共犯者も教えますし、
盗んだ品物を隠している場所も教えます。」

捕卒たちがついて行ったところ、この両斑は、家に帰り着くやいなや、
召使いたちと数人の友人を呼んで捕卒たちを捕えさせ、さんざん殴りつけた。

そのあと、そのうちの3人からは両目をえぐり取り、
残る1人からは片方の目だけをえぐって、
次のようにどなりつけて彼らを送り帰した。

「この野郎ども。わかったか。これからはよーく見て歩けっ。
お前らが郡衙に帰れるように、目の玉1つだけ残してやったんだ。」

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『歪められた朝鮮総督府』 黄文雄 1998年 光文社

たとえば、統監府時代に、平理院首席補佐官として
招聘された中村竹蔵の回顧によれば、当時の平理院院長、李允用は
李完用(韓国併合当時の大韓帝国政府の首相)の兄で、
宮廷からの信任が厚く、判事、検事の任免は、
すべて院長の意思のままに行なわれ、司法制度は存在していなかったという。

大きな案件も院長の指図を仰いで裁判しており、
いったん判決を下した事件でも、勝手に「特旨に依って減刑す」と変更し、
判決が官報の内容と異なることもしばしばあった。

官廷と関係する人物には、
死刑判決を下してもすぐに上からの命令で書き直され、
「特旨に依り死一等を減ず」というありさまであった。
(『朝鮮に於ける司法制度近代化の足跡』友邦協会)

また、『朝鮮事情』(ダレ著、金容権訳・平凡社・東洋文庫)は、
両班は世界中で最も強力で傲慢な階級と述ベ、彼らが強奪に近い形で
「農民から田畑や家を買うときは、ほとんどの場合、
支払いなしで済ませてしまう。
しかも、この強盗行為を阻止できる守令(知事)は一人もいない。」
と述べている。
(中略)
アーソン・グレブストの『悲劇の朝鮮』には、
「(李氏)朝鮮はきわめて盗賊の多い国家で、城塞(ソウル)の外で
夜を過ごすことは大変危険だった。
ソウルの外廓には人命を蝿の命ほどにも思わぬ
山賊やならず者で溢れていた。」
と記されている。

李朝末期の司法は、拷問で自白させ、賄賂が横行していた。
判決は賄賂の多少によって決められた。

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『日本』フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(尾崎賢治訳)
『日本・第五巻』雄松堂出版、 1978年

朝鮮の工業技術は隣国の中国や日本と比べてずっと遅れているように思う。
木工は断然といってよいほど遅れており、
陶磁器の作りはひどく粗末である。鉄器、特に刀その他の刃物は価値が低い。

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『朝鮮事情』 シャルル・ダレ 1874年 金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫

朝鮮人は、科学技術の分野においてほとんど進歩のあとを見せていないが、
産業の知識においては、なおさら遅れている。

この国では、数世紀もの間、有用な技術は全く進歩していない。
この立ち遅れの主な原因の一つに、
人々が全ての手工業を各自の家でまかわなければならず、
必需品を自分の手で作らなければならないという現実がある。

農民たちは、自分の手で衣服・わらぐつ・籠・ざる
・箒・綱・紐・ござ・それに必要な農具を作る。
一言にして言えば、自給自足しているのである。

彼らはもっとも単純で原始的な方法に満足しているので、
決してめざましい熟練にまで達することはない。

特殊な道具を必要とし、その道具を使用するのに、
徒弟期間の置かれた職業にのみ特別な職人がいる。

しかしこの場合でも、一つの定まった仕事場だけで働く職人は稀である。
普通彼らは雇い主の所まで道具を担いでいき、
そこでの仕事が終わればまた別の仕事を捜す。
設備が必要なはずの者でさえ、一定の場所に留まることがない。

たとえば陶工は、薪と粘土が自分の好みに合う所に居を定め、
そこに小屋と窯を作り、近隣の人のために雑器や土壷、
時に大きな容器を作ったりするが、
薪がなくなればまた別の所へ稼ぎ場所をかえる。
鍛冶屋も同じ行動様式で採鉱が非常に困難になるとそこを離れて行く。

したがって、大きな工場や本格的な採掘場、
その名に値するほどの作業所などできはしない。

簡単に風に吹き飛ばされて、雨が漏れやすい継ぎ目の悪い板小屋。
それにひびが入って壊れそうな窯や炉、これが全てである。

したがって利潤はほとんどない。
金のあるような人はこのような産業へ投資しようとは考えもしない。

朝鮮の国内商業がほとんど発達していないことは
容易に結論づけることができる。
自分の家に店を開いている商人はごくわずかで、
ほとんど全ての取り引きが市で行われている。

また商業の発達に大きな障害になっているものの一つに
不完全な貨幣制度がある。
金貨や銀貨は存在せず、流通しているのは銅銭しかない。
そのため相当量の支払いをするためには、一群の担ぎ人夫が必要となる。

というのは、200フラン分の銭が1人分の荷物になるからである。
北部地域ではこの貨幣すら流通していないのである。

朝鮮の金利は法外である。
年3割の利子で貸し付ける人は、ただで与えるのも同然だと思っている。
もっとも一般的なのは5割・6割で、時には10割もの利子が要求される。

商取引におけるもう一つの障害は、交通路の惨めな状態である。
この国は山岳や峡谷が多いのに道路をつける技術は
ほとんど知られていないのである。
(p. 309)
アジアの北東部から日増しに侵略の歩を進めているロシア人によって、
いずれその難関は突破されるだろう。
1860年〔北京条約のこと〕から、彼らの領土は朝鮮と隣接するようになり、
これら二国間で、国境問題と通商問題に関してさまざまな難問が起こった。
これらの問題は、今後も間違いなく繰り返されるであろうし、
いつの日にか、朝鮮はロシア領に併合されてしまうであろう。 (p. 323)

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『隠者の国・朝鮮』ウィリアム・グリフィス
William Elliot Griffis, Corea the Hermit Nation, Kessinger, 2004.

朝鮮の建築はきわめて原始的な状態にある。
城郭、要塞、寺院、修道院および公共建築は、
日本や中国の壮麗さにまるで及ばない。
この国は古い歴史を誇っているのに、石造の遺跡がほとんどない。
住居は瓦葺きか藁葺きで、ほとんど例外なく一階建てである。
小都市では規則的な通りに配置されておらず、あちこちに散在している。
大都市や首都でも、通りは狭くて曲がりくねっている。(p. 262)

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『朝鮮奥地紀行』イザベラ・バード(林尚得訳)平凡社、1993年

25万人と見積もられている人びとが「地べた」、
主として迷路のような路地で暮らしている。
その路地の多くは、荷を積んだ2頭の雄牛が通れないほど狭い。
実にやっと人ひとりが、荷を積んだ雄牛1頭を通せる広さしか無い。

さらに立ち並んでいるひどくむさくるしい家々や、
その家が出す固体や液状の廃物を受け入れる緑色のぬるぬるしたどぶと、
そしてその汚れた臭い縁によって一層狭められている。(1巻, 71-72頁)

それにも拘わらず、ソウルには美術の対象になるものが何も無く、
古代の遺物ははなはだ少ない。
公衆用の庭園も無く、行幸の稀有な一件を除けば見せものも無い。
劇場も無い。ソウルは他国の都市が持っている魅力をまるで欠いている。
ソウルには古い時代の廃墟も無く、図書館も無く、文学も無い。
しまいには、他には見出せないほどの宗教に対する無関心から、
ソウルは寺院無しの状態で放置されている。(1巻, 106-107頁)

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『朝鮮風物誌』W・R・カールズ

われわれはすぐに、日本家屋が立ち並ぶ一帯を通り抜けることになった。
これらの日本家屋は、最近外国人たちとの商売で大きな利益を
上げている小商人たちが建てたものだった。

こうした種類の家は、あえて比較するなら、日本領事館のような高級建築と、
そこで働きながら仮住まいをする韓国人たちのあばら家の中間程度だった。
日本家屋はすべて魅力的な反面、韓国人たちの家は、
通風装置がまったくなっておらずにおいがひどい道路の両側に
散らばって立つ、草ぶき屋根と土塀の家だった。(p. 28)

ところが平安監司は突然話題を変え、
ゴッチェ博士と朝鮮政府の関係や彼の旅行目的について尋ねた。
そしてそれと同じように平安道の資源、貿易、
人口に対する質問をあげ、私はひどく苦しかった。

彼は私の旅行目的に対し警戒している様子で、
礼儀にもとることを言い、自分の国のあらゆることを非難した。
彼はいかなる貿易の存在も認定するまいとした。

彼の言葉によると、大同江もまったく運行に耐えず、鉱山も価値がなく、
ほとんど3000年の歴史を持つこの都市には関心に値するものはひとつもなく、
陶磁器や青銅等のいかなる商品も購買する価値がないと言った。(p. 120)

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『極東回想記』W・F・サンズ

西方世界の様子や発明品を眺める彼らの様子は、
アブラハム時代のイスラエル人が鉄道や電車や
複雑なヨーロッパの装置を見るように当惑している。
何も理解できず、また理解しようともしない。
彼らは「隠者の王国」であり続けることを願っている。(pp. 47-48)

■日本の統監統治時代(保護国時代:1905年~1910年)

李氏朝鮮時代の拷問は酷かったが、1905年に日本の保護国となり、
統監統治が始まると朝鮮においても
日本と同じようにすぐに拷問は廃止された。

朝鮮での拷問禁止は島村忠次郎
(1907年、水原の京畿道地方裁判所の「法務補佐官」)
が在職中に伊藤博文統監に申し入れて法令となった。

1908年の法令改正によって拷問した取調官は3年以下の懲役と定められた。
これにより、長年続いていた朝鮮での残虐な拷問は廃止となった。

●宣教師 ラッド博士
韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。
高い政治道徳を重んずる進歩的であり、円満である伊藤総監によって、
韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、
未開時代から文明時代に進むべく手をとられて進みつつあり、
旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、
あらゆる面において、三年間に二倍の進歩を遂げた。

■日本統治時代(日韓併合時代:1910年~1945年)

階級による身分差別を撤廃し、両班による搾取・虐待から農民を救い、
移住の自由を認めさせ、残酷な拷問や刑罰や一族の罪人連座法などを廃止し、
女性再婚の自由を保障し、人権尊重などの法治国家の基礎をつくり、
学校教育制度を導入し、読み書きを教え、ハングル文字を復活・普及させ、
台湾では運動が起きても1~2%にしか許可しなかった改姓名だが、
85%の朝鮮人には創氏改名を許可し、鉄道網、道路網を整備し、
港の開設工事をし、水力発電所を建設し、重化学工業を興し、
緑化政策によって山野を甦らせ、不毛の地を開拓し、
河川大事業で洪水を減少させ、水田を倍増させ、
世界中から世界一不潔と言われた町々を清潔にし、近代医療制度を導入し、
平均寿命を24歳から45歳にのばし、人口を2倍にし、
内地(日本)への渡航規制を犯して来る密航者にも寛容に対処した。

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●『外国新聞に見る日本』第4巻 国際ニュース事典 1906-1922
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ロシアの新聞ジュルナル・ド・サン・ペテルスブール紙 1910年8月26日付
―――――
フランスがアルザス=ロレーヌを失って以来、
またとりわけボスニアとヘルツェゴビナがハプスブルク王国に
組み込まれて以来『併合』という言葉はおぞましい意味を持ち、
国家間の強盗と同義語になった。
だが、朝鮮を日本が掌握することにはこのような意味合いを
持たせることはできずむしろアルジェリアのフランスへの併合や
イギリスによるエジプトの占領、
カフカスあるいはヒヴァ汗国のロシアへの主権移行などが
もたらした恩恵の記憶を喚起するものだ。
・・・
朝鮮は、日本の統治下に入って以来、夢のような変化の道を歩んでいる。
見る見るうちに、広大な鉄道網や電信電話網が敷かれた。
公共建築物や工場が立ち並び、
日増しに増え続けている子供達は学校に通っている。
農業も盛んになっている。
輸出は5年で三倍以上になった。財政は、輝かんばかりの状態にある。
港は活気に満ちている。
司法制度が改革され、
裁判の手続きもヨーロッパの裁判所に決して引けをとらない・・・
この観点に立てば、
朝鮮の日本への併合は極東の繁栄と 発展の新たな要素となるだろう。

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『醜い韓国人』 朴泰赫 1993年 光文社

日本統治時代に入ってから、医療衛生制度も確立された。
日本が韓国を統治したあいだの輝かしい成果の一つが、
病幕(ビョンマク)の設置だった。

日本統治時代に入ったころでも、腸チフスや、発疹チフス、
赤痢、コレラ、痘瘡が猛威を振るったために、
しばしば住民の一割ぐらいが病死した。

それまでは予防医学の知識がまったくなかったので、
伝染病による死者がでると、
その家の井戸の上に筵(むしろ)をかけたうえで、
厠(かわや)を焼き払った。厠は家の外につくられていた。

日本統治時代が始まると、村単位にそれぞれの村から離れたところに、
伝染病患者を隔離する病舎をつくった。
多くの場合は、そのような場所にあった貧しい家を買って、
改装したものだった。

私が少年だったころには、通学路の途中に、
道から150メートルほど離れた田園のなかに病舎があったので、
子ども心に恐ろしく思ったものだった。
多いときには、80人近くの病人が収容されていた。

それまで韓国では儒教思想のために、家で死ぬことを理想化して、
家の外で死ぬことを客死(ケクサ)と呼んで、惨めな死とみなした。
そこで父母や、兄弟が病幕で死ぬことがあると、
日本人が自宅で死ぬ権利を奪ったとして憤慨するようなことさえ多かった。

しかし、病幕と国立、あるいは道立病院が次々と建てられるようになると、
患者が隔離病棟に収容されるようになったので、
伝染病は姿を消すようになった。
私たちの村では病幕が、私が小学五年生になったときまであった。

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『歪められた朝鮮総督府』 黄文雄 1998年 光文社

朝鮮半島の近代医学の普及は、きわめて遅かった。
朝鮮総督府以前には、大韓帝国政府樹立後、ソウルに京城医専、
同付属病院の創立を皮切りに、
公済病院、赤十字病院が次々と設立されたものの、
いずれも規模が小さかった。

本格的近代医学医療制度の導入は、朝鮮総督府の時代からで、
この三院の統合、拡充と大韓医院の設立からである。

大韓医院はやがて発展して京城帝大付属病院となり、
朝鮮半島の近代医学、医療発展の中心的存在となった。

1909年から慈恵医院の官制が発布され、
その後、地方の医療制度は、清州、全州から、順次各地方で確立され、
医師の養成と疫病の防止に全力が注がれた。

さらに150万円の下賜金から済生会がつくられ、
李朝以来の階級制度の廃止とともに、各道から市町村にいたるまで、
地方の隅々まで医療制度が整備され、
賎民でも国民として、近代医療の恩恵を受けるようになった。

各開港都市と国境都市は、1910年から厳しく防疫、検疫を実施し、
疫病の進入防止に積極的に取り組んだ。
コレラ、天然痘、ペストなどの大流行は、
1918年から20年の大流行を最後に、やっと猛威を振るわなくなり、
とくにコレラの大流行は、この年以降なくなり、乳幼児死亡率が激減した。

中国大陸では1930年代に入ってからも、
相変わらず疫病が全国各地を襲いつづけていたのとは別に、
疫病の朝鮮半島侵入が医療制度の普及によって阻止された。

まさしく天国と地獄ほどの隔世の感である。
朝鮮半島が大陸からの疫病襲来を阻止したのは、
朝鮮総督府時代からであると言える。

朝鮮総督府の統治は、このほかならぬ近代医学による衛生環境の改善と
疫病の僕滅によって、インフラの整備と同様に、いやそれ以上に、
朝鮮半島の生命保全、韓民族の繁栄に大きな貢献をなしえた。

今日、この分野に関してあまり語られていないのは、じつに驚きである。
朝鮮総督府はインド、中国から朝鮮半島にわたって、
猛威を振るっていたハンセン病退治のために、
救ライ事業として世界的規模を誇り、
もっとも完備された施設を持つ小鹿島更生園をつくって、
6000人以上を収容した。

このような破天荒的な努力について、
朝鮮の近代史研究者は、なぜ語ろうとしないのであろうか。

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「ソウルに刻まれた日本」 鄭雲鉉 武井一訳 1999年 桐書房

(日本統治時代)歴史はただ一度だけ、
総督府の前でデモ事件があったことを記録している。

今は治療術がよくて問題はないのだが、
その当時、「ハンセン病」は「天の制裁(天刑)」と呼ばれていた。

彼らは家族から捨てられ、当局にとっても蔑視の対象でしかなかった。
彼らはどんな形であろうとも保護を必要とすることと、
同時に周囲の関心を喚起させる必要を感じたあまり、
植民地時代に「デモ」という形で意思表示を強行したのであった。

1932年、朝鮮全域から集まった「ハンセン病」患者600名の行進者は、
光州から歩いて12日で京城に到着した。

警察も憲兵も、ハンセン病患者ということで
彼らを怖がって彼らの行進を阻止できなかったのだ。
行進は崔興[王+宗]牧師が指導した。

結局、総督府当局はハンセン病患者の代表、崔牧師と
宇垣総督の単独面談をとりもって事態を収拾した。

旧朝鮮皇室と、日本の皇室、そして朝鮮内の有志が寄付金を寄託し、
その金で小鹿島の療養施設を拡大し、
この事件を契機にハンセン病患者の治療政策を新たに考究したという。

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『朝鮮騒擾善後策-鮮民の求むる所は斯くのごとし』 閔元殖

「日本政府は併合以来十年近く、朝鮮人の生命財産を保護し、
国利民福を向上させる点に於いて用意周到であった。
運輸交通、金融機関の整備、農工各種の産業の発達等、
旧韓国時代の悪政から朝鮮人を解放し、夢想もしなかった恵沢をもたらせた。
にも拘わらず朝鮮人の性情が偏狭・我執に傾いているためか、
口では感謝しながら、心では淋しさを感じ
朝鮮人の自尊心を傷つけるなどという者が多い。
更に朝鮮人は米国を世界の自由郷を現世の楽園のように思っている者が多い。
しかし、そこは白人の天国であって、
有色人種の人権はほとんど認められない。
パリ平和会議で、日本が人種差別撤廃を提案したが、
オーストラリアのヒューズ首相が強硬に反対し、
それを真っ先に支持したのはウィルソン大統領ではなかったか。
米国の庇護に頼って栄光ある独立ができるなど不可能な事である。
日本統治下の朝鮮人は、米国に比べてはるかに幸福であることを認識し、
穏当な方法によって民権を拡大していくことを講ずべきである」

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■1910年、日韓併合条約によって朝鮮半島は日本となる。

■1937年8月13日、蒋介石軍3万人が上海国際共同租界の日本租界のみを
攻撃してきて第二次上海事変が始まり、支那事変が始まった。

■1941年、日米戦争が勃発。

http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-553.html

朝鮮は「第二次世界大戦の被害国」とはいえません。

オーストリアはドイツの軍事侵攻によってドイツに併合され、
併合期間は6年でしたが、戦後、「ナチス・ドイツの共犯の国でもある」と
オーストリアは認め、謝罪しました。

日本と朝鮮は双方合意のうえで条約によって併合が成立し、
併合期間は35年でした。
日本を「加害国」というのなら、朝鮮も「加害国」ということになります。

大東亜戦争当時、朝鮮は日本の一部であり、
朝鮮人は大東亜戦争を肯定していました。

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韓国の詩人 朱耀翰 (戦後、韓国国会議員)

「ルーズベルトよ!答えよ!」

正義人道の仮面を被り、摂取と陰謀をほしいままにしている世界の放火魔、
世界一の偽善君子、アメリカ合衆国大統領ルーズベルト君。
君は口を開けば人道を唱えるが、パリ講和会議の序文に、
(日本人が)人種差別撤廃文案を挿入しようとしたとき、
これに反対し、削除したのはどこの国であり、
黒人と東洋人を差別待遇して同じ席にもつかせず、
アフリカ大陸で奴隷狩りを
あたかも野獣狩りをするが如くしたのはどこの国のものであったか。・・・
しかし、君等の悪運は最早尽きた。
一億同胞なかんずく朝鮮半島の二千四百万は渾然一体となって
大東亜の聖戦の勇士とならなことを誓っている。

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昭和十六年十二月十日 ソウルでの決戦報告大講演会 申興雨

祖父の代から受け継いできた黄色人種の積憤を
いまこそ晴らさなければならない。
一度、決戦する以上、、帝国行路のがんである敵性国家を粉砕し
新東亜建設に邁進しなければならない。

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普成専門学校教授 張徳秀

米英の圧迫と屈辱から東亜民族の解放を叫ぶ決戦を開始したのである。
いまや東亜民族は圧迫と摂取を受けて骨しか残っていないが、
今やその骨で断固として決起し、仇敵米英を打倒しなければならない。

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朝鮮農民運動の指導者 李成煥

貧欲の牙城、白人帝国主義の張本人英米をいまこそ撃滅せずには、
我等の子孫の発展を望むことはできない。

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『国民の歴史』 西尾幹二 平成11年 扶桑社

当時の朝鮮は、両班、中人、常民、奴婢の厳然たる四つの身分制があった。
両班の横暴には目に余るものがあり、
下の階級の者に対し生殺与奪の権を持っていたとさえいわれる。

朝鮮民衆は日本統治時代になって、
日本警察による両班取り締まりを大いに感謝したほどだったという。

ただし、朝鮮人の補助憲兵や巡査が日本の権力を借りて
今度は宿怨を晴らす恐ろしいシーンを展開し、
のちの日本に対する悪感情を生んだ。いかに横暴だったか、
驚くべき事例を沢山知っており、一冊の本ができる。
(今村鞆『歴史民俗朝鮮漫談』昭和三年)

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『朝鮮紀行』 イザベラ・バード 1897年 時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫

朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、
新しい体制にとってまったく不都合なもので、
改革のひとつひとつが憤りの対象となった。

官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、
ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、
全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、
改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。

政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、
どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、
首都と同質の不正がはぴこっており、
勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。

このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、
これは困難きわまりなかった。
名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。
公正な官吏の規範は存在しない。

日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。
盗む側と盗まれる側である。

そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。
「搾取」と着服は上層部から下級官吏にいたるまで
全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。

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『歴史を偽造する韓国』 中川八洋 2002年 徳間書店

◆日本型「司法」への中傷と誹謗

近代司法制度がすでに確立していた日本にとって、
李氏朝鮮を引き継ぐ「旧韓国」の司法は
「近代以前」というより「文明以前」であった。

スウェーデンのジャーナリスト(アーソン・グレブスト)が
1904年に朝鮮国内を旅行取材した『悲劇の朝鮮』は、
監獄内を自分の眼で見たときの笞刑(ちけい・ムチ打ち刑)執行の光景と
拷問死刑の光景を記録しているので、この「文明以前」がよくわかる。

拷問死刑は、まず棒を死刑囚の脚の問にはさみ
死刑執行人がその端に体重をかけて死刑囚の脚の骨を砕く、
次に腕と肋骨を折る、最後に絹紐で首を絞める、というものであった。

死刑執行の前に、わざわざ残酷にも全身の骨を砕いたり折るという拷問など、
当時の日本では信じられないことであった。
が、そのような野蛮な残虐性が朝鮮であった。

マッケンジーの『朝鮮の悲劇』(原著1908年)も次のように記しでいる。
死刑囚でない単なる禁固刑のものも、
監獄の都合で殺すのが朝鮮の実情であった。

「監獄は呪詛のまとであり、拷問は自由に行われ、周期的な監獄清掃に
際しては一時に数十名の囚人を絞首してしまい、裁判は売買された。」

しかし、当時の実態をひたすら歪曲する研究者があとをたたない。
例えば、朝鮮総督府が定めた1912年の朝鮮笞刑令が
「朝鮮人に限り之を適用す」(第13条)であることをもって、
朝鮮人と日本人とを刑罰上で差別するためにこの笞刑令を定めたとか、
異民族弾圧法であったとか、あらん限りの中傷を加える。

が、笞刑は、李朝の太祖李成桂以来、数百年間つづいた伝統的な刑罰であり、
それは「旧韓国」の『刑法大全』(1905年〉にも定められている。
しかも『刑法大全』は杖刑を廃止し、
そのぶん笞刑を広く適用する定めとしている。

朝鮮が日本国に併合された以上、
日本国の刑法が等しく適用されねばならず、『刑法大全』は無効となった。
だから笞刑もなくすべきであったというのであれば筋が通る。

しかし、日本は3ヶ月以下の懲役や百円以下の罰金となる、
朝鮮の貧民の犯罪にいたく同情して、
つまり例えば数日間であれ刑務所に収監されれば家族が飢餓に瀕する、
あるいは数円ですら罰金を払うとなれば
僅かな財産のすべてを失う事態を考えて、
朝鮮の伝統的な笞刑をもって罰としたのである。
懲役や罰金を見逃す便法であった。

このため、朝鮮笞刑令第4条は、
「罰金1円を笞1、懲役1日を笞1」に換算する旨を明記した。

当時の朝鮮の最も貧しい階層では、家族4名、5円あれば1ヶ月は食べられた。
それほど高額な1円が笞1で済むのである。
すなわち、朝鮮笞刑令とは「大岡裁き」で、
刑罰を温情的に軽滅する定めであった。

また、「笞刑令施行規則」(1912年)の第1条によって、
笞刑執行前に医師が受刑者の健康を診断することが定め、
笞を小さくし、執行中に受刑者に飲水を与えるように定めた。
笞刑令第5条をもって、女性や16歳未満の男児への笞刑を禁止した。
それ以前の朝鮮では姦通罪の女性に対して苛酷な笞刑を行っていた。

また、笞の長さは1尺8寸(55cm)、
厚みは2分5厘(7.6mm)となった(「施行規則第11条」)。

痛みを、それ以前の朝鮮笞刑よりも数分の一に下げるためであった。
臀部とはいえできるだけ肉体に傷をつけないように配慮したのである。
それ以前の朝鮮の笞は長さは3尺5寸(106cm)、
厚みは2分7厘(8.2mm)であった。

日本の笞刑と、それまでの朝鮮の笞刑は
考え方においても厳しさにおいても全く似て非なるものであった。

しかし、この笞刑令をもって、
「朝鮮民衆の独立運動に対する抑圧」の法律であったなどと、
荒唐無稽な珍解釈をなす研究者が多い。

あるいは、「反日」的言動をなした者を弾圧するために、
この笞刑が実施された、などという創り話すら流布している。
(朝鮮の伝統であった笞刑制度は1920年に廃止された。)

朝鮮人の残虐性は、日本人にはとても正視できない。文化の相違であろう。

例えば、死刑に際して面耳それぞれに矢じりを突き刺して首を刎ねるし、
首を切り落としたあと手足をバラバラに切断したりする
(シャルル・ダレ「朝鮮事情」)。

福澤諭吉を始め日本に多くの知人をもっていた金玉均が
1894年3月に上海で暗殺されたあと、
翌4月、朝鮮政府はその遣体に対して首を刎ね、四肢を切断して、
胴体を漢江に棄て、頭や四肢を京畿道の竹山に捨てたという。

日本が定めた笞刑令(1920年に廃止)を中傷し歪曲する暇があるなら、
残忍な刑罰や不法・不正だらけであった朝鮮司法について、
ありのままの正しい歴史を明らかにすべきであろう。

◆監獄(刑務所)の文明化

朝鮮の刑務所(監獄)の、不潔と残酷さは、言語に絶するものであった。
食事はおかずなしの雑穀のみであった。
さらに、監獄の狭さから囚人数を滅らすために、
獄吏が勝手に殺害して「処理」していた。

日本は1909年以来、それを人道的な日本並みに大改善していったのである。
総工費30万円をもって1910年に起工し1912年に完成した、
清潔で近代的な京城監獄(のち西大門刑務所と名称変更)は、
朝鮮の受刑者にとって地獄から天国に引越しをしたようなものであった。

国分三亥( こくぶさんがい、1908年に「旧韓国」の検事総長、
のち統監府・総督府高等法院検事長)は、
朝鮮には司法はなく行政(警察)の一部であったと、
次のように回想している。

「監獄は独立して存在しないで、全く警察の一部にすぎない…。
(1908年になって)日韓協約の趣旨に基いて(旧韓国政府は)司法機関を
創設して監獄は司法部に所管を移され…たけれども、
……(京城の)鐘路監獄のごときさえも、未決・既決の区別はほとんどなく、
……獄内は狭隘陰鬱にしてほとんど土窟のやうであり、
乱雑と不潔とは実に想像も及ばぬほどでありました。」
(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)

柿原琢郎(1920~22年の総督府監獄課長)は、上記と同じ座談会で、
平壌地裁次席検事として実際に訪れた(韓国併合直前の)平壌の監獄を、
次のように思い出している。

「狭隘なる監房は到底それに応ずることできず、
ただ無理押しに押し寵めてゐました。1坪に15、6人も押込むありさまで、
在監者(は同時に横臥睡眠をとれないので1日に)3、4回交替にて
横臥せしめた。作業上の設備も被服交換の準備なく、
…終日終夜着のみ着のままで在房してゐますから、
監内の熱気と臭気とは短時間の参観にも堪えられませんでした。」
(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)

しかし、日本の努力で1910年末には
すべての朝鮮の監獄での1坪当りの収監者数を
3分の1の「約5人以内」に下げたのである。
そして、1913年頃には、それが「約2.9人」まで大改善された。
(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)。
「畳2枚に3名」であるから、いつでも横になって寝ることが可能になった。

刑務所が受刑者サイドでこれほどの改善がなされたのは、
1919年からの新しい総督(斎藤実)のもとで
230万円の巨額で監獄の近代化と大拡張を実施したからであった。

ついでに、朝鮮併合直前の朝鮮の裁判所の実情を、
旧韓国政府の首席「法務補佐官」であった中村竹蔵が拷問のことを
回想しているので紹介しておきたい。
裁判所すら拷問するのが、朝鮮の実情であった。
中村竹蔵は1907年に平理院(「旧韓国」の最高裁判所)に配属となり、
ここですら拷問が実施されているのを目撃したのである。
「平理院では法廷の取調の際にしばしば拷問を行ふことがあつたから、
たびたび院長(李允用。李完用の兄)に対して
之を廃止するよう厳重に要求すると、
…院長は午後遅くなって出勤するようになった。
……私が退庁するのをまつて夜中に依然拷問行ふことが判り、…」
(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)

当時の朝鮮では刑事被告人だけでなく、
なんと民事でもその被告を拘留し投獄し拷問していた。
島村忠次郎(1907年、水原の京畿道地方裁判所の「法務補佐官」)
は回想する。
「私の在職中の出来事で大きなものと思ふのは拷問禁止のことであります。
私は着任後しばしば拷問を行ふのを目撃しました、
…その禁止方を伊藤博文総監に具申しついにそれが法令となって表われた。」
(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)

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【産経ニュース 2015.8.12 16:24】
http://www.sankei.com/world/news/150812/wor1508120035-n1.html

鳩山元首相、韓国ソウルの西大門刑務所跡地で土下座して謝罪


韓国を訪問中の鳩山由紀夫元首相は12日、ソウル市内にある
西大門刑務所の跡地(西大門刑務所歴史館)を訪問した。
同刑務所は、日本の朝鮮半島統治時代に独立活動家らが
収監されていた場所で、韓国では“抗日”の象徴。
現在は独立活動家らの「苦難の歴史」が、
写真や資料で館内に展示されている。
30分あまりにわたって館内を見学した鳩山氏は、
独立活動家らをしのぶモニュメントに献花した。
さらに、鳩山氏は靴を脱ぎ、膝を屈したうえ、
モニュメントに向かって手を合わせ、ぬかずいた。
この後、記者会見した鳩山氏は、
「元日本の総理として、ひとりの日本人、人間としてここに来ました」
と述べた。その上で、「日本が貴国(韓国)を植民統治していた時代に、
独立運動家らをここに収容し、拷問というひどい刑を与え
命を奪ったことを聞き、心から申し訳なく思っている。心から申し訳なく、
おわびの気持ちをささげていきたい」と謝罪の言葉を繰り返した。

ソウルの西大門刑務所跡地を訪問し、女性の独立運動家、柳寛順氏が
収容されていた部屋に献花する鳩山元首相=12日、ソウル


―――――引用おわり―――――――

柳寛順への日本の蛮行、誇張多い
【2002年02月26日21時21分 中央日報 中央日報日本語版】
「柳寛順(ユ・クァンスン)烈士について
誤って理解されている点を正してみたかったのです」。
この4年間、柳寛順研究に没頭してきた
郷土史家の任明淳(イム・ミョンスン、55、忠清南道天安市社稷洞)さん。
天安(チョンアン)大にある柳寛順研究所の客員研究員でもある任さんは
「柳寛順に関連した内容が、1945年8月15日の解放以後、
植民地時代に日本が行った蛮行を糾弾するという意味合いから、
誇張され過ぎてしまった感がある」と主張する。
(中略)
任さんは、柳寛順の最終刑量は、懲役7年でなく3年だったと主張した。
京城(キョンソン)復審裁判所(控訴審)の判決文と受刑者記録表によると、
柳寛順は小学校の教科書にあるように
「検事に椅子を投げつけたため法廷冒とく罪が追加され、
7年の刑を宣告された」のではなく、3年の刑を受けたという。
その後、柳寛順は高等裁判所(現在の最高裁)に上告せず、
これが最終刑量になったという。
「梨花学堂時代、柳寛順の級友だったポガック(99、僧侶)さんの証言に
よると、死亡して20日余り過ぎた後、柳寛順の死体を受け取ったそうです。
その時、死体は腐っていましたが、
四肢は切断されてはいなかったという話です」。
任さんは「柳寛順への盲目的な思い込みから、
こうしたいい加減な事実が広まり、子供向けの伝記にまで掲載された」とし、
「今は、冷静になって史実を確認すべきだ」と話した。

―――――引用おわり―――――――

1970年、当時、西ドイツのウィリー・ブラント首相が
ポーランドのワルシャワ・ゲットー蜂起の記念碑前で
ひざまずいた行為をマネたのではないかといわれている。








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■戦後~現在(1945年~)

【戦後韓国の虐殺事件】(合計30万人~100万人)。

●1945年8月21日、ハンセン病院虐殺事件。

●1948年4月、済州島事件(済州島4.3事件)
政府関係者が口にしているのは死者六万人~七万人。
反体制の人々は死者十万人以上を主張していた。
アメリカ人学者ジョン・メリルは
「正確な事は解らないが、死者は3万人あまり」と記している。

●1948年10月、麗水・順天反乱事件。

●1950年夏、国民保導連盟事件。
韓国各地で、無抵抗で非武装の国民、合計30万人が虐殺。
殺されたのは国民保導連盟の人達。
国民補導連盟とは、今まで厳罰一辺倒だった共産分子への対応を改め、
自首期間中に、共産党の甘い言葉に騙された人は、
自首して国民保導連盟に所属すれば、罪は問われない、としたもの。
しかし、人民解放戦争(朝鮮戦争)勃発と共に、
韓国人によって全て虐殺された。

●1950年7月はじめ、大田刑務所虐殺事件。

●1950年冬、国民防衛軍事件。
死者 数十万人。(詳細は、東亜日報にて連載された。)
通称「死の行進」「死の南下」数十万人が死んだと言われている。

●近年の北朝鮮 (脱北者) 【凍土の狂気が続く金正日強制収容所】
ネズミを焼いて食べ、シラミのわいた毛布で寝る、死ぬよりつらい。
木から線路に落ちた栗を拾おうとトロッコを止めた運転手(収容者)を、
警備員が射殺した。
撃たれた運転手は死んでもまだ栗をしっかり握りしめていました。

ある時、男の収容者が空腹に耐えかね、
雄牛のテール(尻尾)でつくった鞭を口に入れたら、
たまたま警備員に見つかった。
彼は叩かれたうえに、便所の腸内寄生虫を食べさせられ、
2日後に息を引き取った。

悲惨な話は山ほどあります。

牛の糞の中に潰れていない豆があると、みんな我先に奪い合います。
死人が出ると着ていた服を取り合い、生きている者が着る。
人間の住むところではなかった。

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韓国は第二次日韓協約に高宗皇帝の署名・捺印がないことから、
第二次日韓協約が日本による韓国の国権の制限の起点であり、
第二次日韓協約が日韓併合条約へつながったという主張をしてきます。
つまり署名・捺印がない第二次日韓協約は無効だから
日韓併合条約も無効だということにしたいのです。

【第二次日韓協約について】

1905年11月17日締結の第二次日韓協約は
韓国の国権の制限の起点ではありません。
1904年2月23日締結の日韓議定書が韓国の国権の制限の起点です。

条約に署名・捺印するのは特命全権大使や外務大臣であって
国家元首ではありません。

高宗皇帝の署名は必要ありません。
当該条約が批准を要するかどうかは条約締結国間の協議によるもので、
この協約は批准を要する条約とはされていません。
よって皇帝の批准がなくてもいいのです。

しかも高宗皇帝が一旦裁可した条約を
高宗皇帝自身が批准において拒否することはあり得ないし、
また許されることでもありません。

国家に対する強制をして講和条約を結べば国際法上は認められますが、
国家に対する強制をする必要はありませんでした。
日韓議定書から日韓併合条約まで国際法上合法的におこなわれました。

●日韓議定書(1904年2月23日締結):日本では2月27日、
韓国では3月8日に官報で公表。
3月20日に韓国皇帝から
「日韓議定書の主義を確守し、之と一致の方針を執る」
という誓約を得ています。
●第一次日韓協約(1904年8月22日締結):8月22日に韓国皇帝の裁可を得て、
9月5日に日本の官報で、9月9日には韓国の官報で公表されています。
●第二次日韓協約(1905年11月17日締結):韓国皇帝の裁可が
出て締結となり、日本は11月23日の官報で、
韓国は12月16日の官報で公表しています。
●第三次日韓協約(1907年7月24日締結)
●日韓併合条約(1910年8月22日調印)

※韓国の代表者個人に対する強制の事実について
信頼できる史料は確認できません。
※君主専制の韓国において、
条約締結権を持つのは皇帝であり(大韓国国制第九条)
大臣の多数決によって決定されることはあり得ません。

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「韓国併合「無効説」の誤謬」より引用
http://megalodon.jp/2009-0210-1812-07/www.seisaku-center.net/modules/wordpress/index.php?p=43

━━━━━━━━━━

・1965年(昭和40年)6月22日の日韓基本条約により、
この時点で日韓併合条約は正式に無効となりました。
日本は韓国に5億ドルの無償・有償協力資金(他に民間協力資金3億ドル)
を支払いました。
http://megalodon.jp/2009-0211-2326-09/www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/nikkankihonnjyouyaku.htm

・日韓基本条約の付随協約である「日韓請求権並びに経済協力協定」
の【第2条1項】
両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利
及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、
1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された
日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、
完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。
http://megalodon.jp/2009-0211-2326-09/www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/nikkankihonnjyouyaku.htm

━━━━━━━━━━

韓国政府は日韓基本条約を国民に公開していなかった!
http://megalodon.jp/2008-1025-2357-02/nandakorea.sakura.ne.jp/html/kanko.html

併合中に急成長
http://megalodon.jp/2009-0413-1416-36/tosi.iza.ne.jp/blog/entry/358680/

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歴史捏造国家、韓国
http://plaza.rakuten.co.jp/khiroba/diary/200411150000
http://s02.megalodon.jp/2009-0409-1117-25/plaza.rakuten.co.jp/khiroba/diary/200411150000

日本が朝鮮半島に残した資産16兆9千億円、個人資産が4兆9千億円。
http://megalodon.jp/2009-0314-1038-33/blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/6054774.html

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大清国属高麗国旗
大清国属高麗国旗

1602年 「坤輿萬國全図」 制作 Matteo Ricci 北京
1602年 「坤輿萬國全図」 制作 Matteo Ricci 北京

韓国では日清戦争後の下関条約 第一条を国民に教えていない。

■下関条約 第一条
清国は、朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、
独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する
貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。

下関条約

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迎恩門と独立門 ~ 膨れ上がる、朝鮮による歴史捏造の序曲

独立後、韓国政府は、
まず、政府自ら作った教科書以外を教科書と認めないことにした。

そして「日本が朝鮮を独立させたこと」を隠蔽した。
具体的には日清講和条約(下関条約)の第一条の内容を削除したのである。

日本と中国の間で締結されたこの下関条約第一条の本当の内容は、
『日本が清国に朝鮮の独立を承認させた』というもの。

これを韓国の国民に知られると、
「5000年独立していたという政府が作った嘘の朝鮮国史」
に反してしまうので教えられないのである。

ちなみに『迎恩門』は、朝鮮が独立した時に
『独立門』という“中国からの独立を記念する門”に建て替えられていたが、
現在の反日教育ではこの門を“中国からの独立”を記念した門、ではなく
“日本からの独立”を記念した門、と意味を勝手に変えて教えている。

そもそも迎恩門は日清戦争が終わって朝鮮が独立した時に、
清(中国)への屈辱的隷属の象徴だったことを理由に開化派の
独立協会に取り壊されたもの。そして1897年(明治30年)に自主独立の
決意を込めて“わざわざ同じ場所”に建てられたのが独立門である。

米国GHQの軍政から朝鮮が独立したのは日本の敗戦から3年後、
独立門が建てられて『51年後』の1948年(昭和23年)なので、
建設の年代を見るだけで独立門と日本が全く無関係なのは明白なのである。

このように簡単に暴くことができる嘘でも韓国では疑われることなく
中学校の教師レベルまでもが信じ込んでいるほど反日教育が浸透している。

この門に関してそんな嘘を教え込んでいる理由は簡単、
『1000年間の長きに渡る清(中国)の支配からの悲願の独立が、
 日清戦争に勝利した日本のおかげ』だからである。

民族の独立を日本に頼ったことがカッコ悪かったので、
手柄を横取りしたかったのである。

これらが次々と膨れ上がる朝鮮の歴史捏造の序曲であった。

【引用先】
enjoy Korea
『迎恩門の嘘。これが次々と膨れ上がる、朝鮮による歴史捏造の序曲だ』

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なぜ韓国は2001年になってから靖国批判を始めたのか・・・
歴代首相の靖国参拝

東久邇稔彦
1945(昭和20)年:沈黙
幣原喜重郎
1945(昭和20)年:沈黙
吉田茂
1951年10月18日:沈黙
1952年10月17日:沈黙
1953年4月23日:沈黙
1954年4月24日:沈黙
岸信介
1957年4月24日:沈黙
1958年10月21日:沈黙
池田勇人
1960年10月10日:沈黙
1961年6月18日:沈黙
1962年11月4日:沈黙
1963年9月22日:沈黙
佐藤栄作
1965(昭和40)年:沈黙
1966年:沈黙
1967年:沈黙
1978年:沈黙
1969年:沈黙
1970年:沈黙
1971年:沈黙
1972(昭和47)年:沈黙
田中角栄
1972(昭和47)年:沈黙
1973年:沈黙
1974(昭和49)年:沈黙
三木武夫
1975年4月22日:沈黙
1976年10月18日):沈黙
福田赳夫
1977年4月21日:沈黙
1978年4月21日:いわゆるA戦犯合祀:沈黙
大平正芳
1979年:沈黙
1980年:沈黙
鈴木善幸
1980(昭和55)年~1982(昭和57)年までに9回:沈黙
中曽根康弘
1983年4月21日:沈黙
1984年:沈黙
1985年:突然中国抗議(声明のみ)
天安門事件
(1989年)
橋本竜太郎
1996(平成8)年:中国抗議
小泉純一郎
2001年: 中国・韓国抗議
2002年4月21日:中国・韓国抗議
2003年:中国・韓国抗議
2004年1月1日:中国・韓国抗議

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日本の税金で賄われた朝鮮の鉄道建設

『日韓併合』 崔基鎬著 祥伝社より

鉄道は未開国を
近代国家に育成する機能を発揮するための
必要不可欠の動脈であり、市場経済の血管である。
鉄道に代表される「大衆交通手段」の発達は、
人類の生活向上と幸福の増進にも欠かせない。

道なき山野に鉄道が敷設されたことが、
日本政府の目的がどこにあろうと、
朝鮮民族にとって、長い間の地獄のような生活から
脱することにつながったことは論を俟たない。

1894年、日清戦争勃発を契機として、
朝鮮に鉄道敷設の機運は熟していたが、
当時の李朝は財政・経済に対する基礎的知識もなく、
交通・鉄道に関する認識もなかった。

1869年、「京仁線」(けいじんせん・ソウル~仁川間)
38.9キロの鉄道敷設権を、
日本企業「京仁鉄道合資会社」が米人モールスから買収、
1900年7月8日、全線開通させた。
朝鮮で最初の鉄道だった。
ちなみに日本で新橋~横浜間が開通したのは1872年のこと。

従来ソウル~仁川間の往復は5―6日かかった。
ソウルの両班老人たちは、初めて見る汽車を「鉄馬」と呼び、
その「鉄馬」に乗って1日中、
往復を繰り返して楽しんだと伝えられている。
往復で5―6日の所要時間は2,3時間に短縮された。

元来、両班とは、働かずに、
農工民が生産したものを優先的に処分する権利を保有していたから、
「鉄馬」に乗って1日を消費して、
それを最高の享楽と感じたことは容易に想像できる。
「京釜線」(けいふせん・ソウル~釜山間)450.6キロは、
「京釜鉄道(株)」が1905年1月1日全線開通させた。
京仁・京釜線鉄道の買収額(建設費)は、3500万円だった。

それに対して
同年の大韓帝国の収入額(税・印紙税総額)は、
784万円だから、自力での鉄道敷設は夢でしかなかった。
それまでフランス・ロシアも競って鉄道敷設権を獲得したが、
その資金の裏付けもなく、工事の着工もできなかった。

アメリカのモールス(京仁線敷設権取得者)も
事情はまったく同じで、彼らが頼りにしたのは李朝であったが、
以上のような財政事情で、まったく実現の可能性がなかったから、
日本企業がこの難局を切り抜け、
京仁・京釜線が施設されたことは、天佑神助というべきであった。

京義線(けいぎせん・ソウル~新義州間)は、
フランスのグリールが敷設権を取得したが、これも日本(陸軍)が
買収して建設を受け継ぎ、1906年4月に全線開通した。

京義線と馬山浦線の建設費は3138万円で、したがって、
京仁・京釜・京義・馬山浦線建設費を合わせると6638万円になる。
この6638万円は、日本人の血税で賄われたが、その活用は、
日本人・朝鮮人共用であり、朝鮮側の享受した利益は莫大なものであった。

もしも1896~1906年の1円が、
今の10万円に相当するとすれば、6.6兆円であり、
それを2003年11月25日の為替レートで韓国ウォンに換算すれば、
79兆6560万ウォンに相当する。


総督府が建設した鉄道路線と、投下した資金

こうして、1910年の日韓併合時には、
すでに全国1039.7キロの路線が完成した。

これにつづき日韓併合後は、寺内・長谷川の両総督時代に、
湖南線・京元線(ソウル~元山間)・平南線が、
1917年には会寧~清津間が開通した。

併合後に朝鮮総督府が、
鉄道敷設に投資した費用は、以下の一覧の通りである。

朝鮮総督府 鉄道投資額一覧
1913年 8,662,000円
1914年 7,634,000円
1915年 8,004,000円
1916年 7,7,05000円
1917年 6,152,000円
1918年 11,094,000円
1919年 15,750,000円
1920年 16,329,000円
1921年 18,856,000円
1922年 22,267,000円
1923年 16,475,000円
1924年 10,307,000円
1925年 12,018,000円
1926年 17,737,000円
1927年 25,291,000円
1928年 28,688,000円
1929年 23,379,000円
併合後の総計  257,048,000円
(併合前の総計) 105,077,000円

資料 朝鮮総督府鉄道局刊 「朝鮮鉄道一班」1931年


斎藤実総督は1921年9月に開催した「産業調査委員会」の提議によって、
吉林~会寧間の敷設計画と、それ以降の12ヵ年計画を立ち上げたが、
その概要は以下のとおりであった。

鉄道建設12カ年計画
期間 1927~1939年 総経費 3億円
路線 図們線 (ともんせん) 雄基~潼闕鎮 156キロ
恵山線 (けいざんせん) 恵山鎮~吉州 142キロ
満浦線 順天~満浦 286キロ
東海線 安辺~浦項・釜山~浦項 549キロ
慶全線 晋州~全州・院村~潭陽 251キロ
計 1384キロ

また、朝鮮総督府が建設する鉄道で、
1930年末までに完工した路線は、次の通りである。

鉄道建設状況(1930年末)
幹線名 支線名
京釜線 450.6キロ
京仁線 38.9キロ
馬山線 40.1キロ
鎮海船 20.6キロ

京義線 499.3キロ
兼ニ浦線 13.1キロ 黄州~兼ニ浦
平壤炭鉱線 23.3キロ 大同江~鎮南浦
平南線 55.3キロ 平壤~鎮南浦
博川線 9.3キロ 孟中里~博川
竜山線 6.7キロ 竜山~唐人里
新義州貨物取扱所線 1.8キロ
湖南線 260.7キロ
群山線 23.0キロ 裡里~群山
慶全線
慶全北部線 25.3キロ 裡里~全州
光州線 36.4キロ 松汀里~潭陽
京元線 223.7キロ
咸鏡線 617.6キロ 元山~会寧
川内里線 4.4キロ 竜潭~川内里
清津線 9.0キロ 輸城~清津
会寧炭鉱線 10.6キロ 会寧~鶏林
北青線 9.4キロ 北青~新北青
遮湖線 4.9キロ 会山~遮湖
鉄山線 3.0キロ 羅興~鉄山
平元西部線 67.0キロ 西浦~新倉
東海線 東海中部線 148.8キロ 大邱~慶州
東海北部線 31.4キロ
図們線 図們西部線 59.6キロ 会寧~潼闕鎮
図們東部線 31.4キロ 雄基~訓戎狭

その後、
新倉~高原間の平元線 146.8キロ
吉州~恵山鎮間の恵山線 141.6キロ
順天~満浦間の満浦線 286.6キロ
釜山鎮~蔚山間の蔚山線 70.8キロなどが開通した。

1910年の日韓併合以来、旅客運賃収入と貨物収入は
以下の表のように飛躍的に発展しており、物流の活発化を裏づけている。

こうして、1945年の終戦の日まで鉄道網の拡張は続けられ、
その総延長は6632キロ、駅の数は762、
従業員数は10万527名に達した。


朝鮮の鉄道営業収支表
年度…営業収入(円)…営業経費(円)…差引益金(円)
1910…27,174,000……23,329,000……3,845,000
1921…28,110,000……21,630,000……6,480,000
1922…30,686,000……23,863,000……6,823,000
1923…33,076,000……25,485,000……7,591,000
1924…31,435,000……24,709,000……6,726,000
1925…47,301,000……39,079,000……8,223,000
1926…51,812,000……40,702,000……11,110,000
1927…57,285,000……46,662,000……10,623,000
1928…58,471,000……36,977,000……21,494,000
1929…63,039,000……48,922,000……14,117,000
1930…75,398,000……59,719,000……15,679,000
資料 朝鮮総督府鉄道局刊「鉄道要覧」


鉄道運賃収入、貨物収入 一覧
年度…旅客収入(円)…貨物収入(円) 
1910…2,350,000………2,062,000
1912…3,542,000………2,270,000
1914…3,657,000………2,740,000
1916…4,320,000………4,335,000
1918…8,939,000………8,100,000
1920…12,668,000……12,347,000
1922…14,219,000……14,194,000
1924…14,936,000……14,092,000
1926…16,415,000……17,396,000
1928…19,307,000……19,658,000
1929…20,981,000……20,409,000
資料 朝鮮総督府鉄道局刊「鉄道要覧」

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朝鮮半島での電灯数は1912年に比べ、39年は74倍になった。

歴史を偽装する韓国・中川八洋著等より

前近代社会であった朝鮮の各世帯が電化したのは、
日本の私企業の並はずれた努力の成果であった。

例えば、朝鮮の一世帯当たりの電灯数は
1925年現在ですら日本の十六分の一であった。
それでも表が示すように、
1912年に比すれば電灯数は18倍に大増加した。
(朝鮮総督府「電力政策基本計画調書」)

1942年3月末、電灯普及率は朝鮮全体(全戸数)の
17.4%になった。

1917年3月末の1%未満からすれば驚異的な発展であった。
(中央日韓協会「朝鮮電気事業費」)

朝鮮の電灯数 電灯総数
1912年 2万7525
1915年 8万5315
1920年 23万4066
1925年 48万6654
1935年 129万3822
1939年 206万3708


日本の電力開発

朝鮮での電力開発は、アメリカ、ルーズベルト大統領の
ニューディール政策に於けるテネシー川開発(TVA)に
匹敵するモノであった。

朝鮮年間発電量の終戦時完成分は、114億kwh
1945年8月、敗戦時の発電設備は、173万4220kwh

韓国併合時は、電灯は京城・仁川・釜山だけであり、
1065kwhに過ぎなかったから、実に、1600倍になったわけだ。


電力開発は工業化への端緒

朝鮮の気候及び地形上、
大規模な水力発電は不可能であると認識されていた。

しかし、河川水系を人為的に変えて、落差を得る流域変更方式という
新技術を導入すれば、膨大な水力発電の潜在力がある事が解った。

日本工営社長の久保田 豊は、朝鮮を旅行して地図を収集し、
鴨緑江上流の赴戦工、長津江の流れを日本海に向ける事により、
有利な発電が出来る事を発見した。

当時の化学肥料は、最大の電力消費産業であったため、
電力ユーザーとして化学肥料メーカーの
日本窒素(社長野口遵)を誘致した。
1929年(昭和4年)に赴戦江第一発電所13万キロワットが完成し、
興南に一大化学工場を建設。後に朝鮮窒素株式会社を設立。

ここに大化学工業の発展が始まり、
大規模な電源開発と電力多消費型産業の成長が絡み合いながら
展開する朝鮮工業化の特質になった。

また、この電源開発の特徴は、鉄道建設が帝国全体の立場から、
政策的に推進されたのに対して、
電源開発は総督府のある程度の独自的な政策と
日本内の民間資本の統合によって展開されたことである。


日本が建設した発電所の主な内訳

●1926年~32年 鴨緑江支流の赴戦江では
第1の13.0万kwhを含み3つで19万kwh、4つで20万kwh。工事建設費5500万円

●1936年~は、鴨緑江支流の長津江で、第1:14.4万kwh、第2:11.2万kwh等、
4つで33万kwh。工事建設費6500万円

●1940年~43年、虚川江で、第1:14.5万kwh等、4つで34万kwh。
工事建設費7000万円

●1941年~44年に稼働開始した水豊ダムは、1940年末で建設費だけで
2億3700万円。世界最大の発電機(10万kwh)を7つ使い、
水豊発電所70.0万kwhを予定し、7機目は1946年に稼働する予定だった。

●工事中で戦後を迎えた発電所には、雲峰50万kwh、義州20万kwh

朝鮮の年間発電量 114億kwh
工事中だったのは、70億kwh

―――――――

ちなみに、
アメリカTVA年間発電量は、
水力…………………114億kwh
火力…………………43億kwh
陸軍工廠……………14億kwh
アメリカンアルミ…118億kwh

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日本人より偉かった朝鮮人

日本に併合された朝鮮は、植民地の正確が全くない。
その一つが日本人を部下とした、統治(支配)する側に
エリート朝鮮人が無数に存在した事実である。

例えば13の県(朝鮮では「道」)知事のポストの
ちょうど4割は朝鮮人が任命された。
つまり、県庁の幹部には多くの日本人官吏がいたので、
これら日本人官吏は朝鮮人知事に忠実に仕えた部下となっていた。

13道の25年間(1910~1935年)の全知事総数125名のうち、
日本人知事は76名、朝鮮人知事は49名であった。
つまり39%が朝鮮人であった。

江原道の県知事のポストは、歴代、朝鮮人のみによって独占されていた。
(李奎完→元應常→申錫麟→尹甲炳
→朴榮吉→朴相駿→兪星濬→李範益→孫永穆
/1910~1935年・朝鮮総督府三十年史・第二巻 クレス出版)

特殊副知事というべきポストの「参与官」は、
知事に直結して朝鮮の民情を吸い上げ、
具申する任務であるから、13名とも朝鮮人であった。

慶尚北道という県を例にすると、
1932年1月現在、県知事は朝鮮人。
4名の部長(内務部、産業部、財務部、警務部)のうち産業部長が朝鮮人。
この4つの部にいた部長以外の日本人官吏は、194名に上っていた。
つまり、3名の日本人部長もその他の194名の日本人官吏も、
朝鮮人の知事に仕えたのである。

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歴史を偽造する韓国 中川八洋 徳間書店 より

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朝鮮人には参政権がなかったのか?

朝鮮人の朴春琴が2回も衆議院議員に
当選していたというと驚く人が多い。
それは、「朝鮮人には参政権がなかった」と、
思われているからである。
朝鮮では確かに国勢に関する選挙権は与えられていなかった。
しかし、それは日本人も朝鮮人も同じだったのである。

逆に、内地では朝鮮人にも、参政権を日本人と同等に与えた。
その中で、朴春琴が東京の深川地区から、衆議院議員に、
1932年と37年の二回も当選したのである。

中略

なお桝添要一氏の尊父は、唱和5年、若松市の市会議員に立候補されたが、
その選挙ビラにはハングル文字でルビを振ってあったとの事である。
当時は、ハングルでも投票できたのである。

中略

貴族院議員には、通算10人も任命されている。
まず、朴春琴が衆議院議員に当選した1932年、
朴泳孝が貴族院議員に任命されている。

1945年3月には、選挙法が改正になり、
次の衆議院選挙には、朝鮮にも18人の定員が割り当てられたが、
敗戦で実現に至らなかった。
その改正と共に、貴族院議員には7人の朝鮮人が任命されたのである。
アメリカで黒人に参政権を認めたのは1965年である。
日本は朝鮮人差別を非難されているが、
アメリカより遙かに差別は少なかったのである。

地方政治の面では、併合時、13人の道長官には、
日本人7人朝鮮人6人が登用された。
その後も5-6人が朝鮮人の指定席であった。
日本人の多い市の市長は原則として日本人であったが、
地方の郡守、面長(村長に相当)は原則として朝鮮人であった。

日本の朝鮮統治により朝鮮人は奴隷状態におかれたと非難されるが、
公爵、伯爵、陸軍中将、国会議員を輩出している朝鮮人が
奴隷状態とは、戦時プロパガンダに過ぎない。

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「植民地」朝鮮の研究 杉本幹生著 より

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1933年(昭和8年)4月の群馬県桐生市 市会議員選挙 有権者名簿。
(昭和八年五月の「五」は消印が押され、隣りに「四」と印字されている。)
1933年(昭和8年)4月の群馬県桐生市 市会議員選挙 有権者名簿_1

1933年(昭和8年)4月の群馬県桐生市 市会議員選挙 有権者名簿_2

1933年(昭和8年)4月の群馬県桐生市 市会議員選挙 有権者名簿_3

金明哲、金東石、林行薫、張明正、金鉄朱(※鉄は旧漢字)
金長守、鍋高三、呉福晩、姜硯是、姜●煕(●は火へんに内みたいな漢字)
鄭在栄(栄は旧漢字)、鄭甲出、朴英淳、鄭周浩、朴瑛来

以上15名が朝鮮人と思われる名前である。

全体の有権者は10621名なので、朝鮮人の有権者は全体の0.14%。

もし日本人名を名乗っている朝鮮人がいたなら、もっと増える。

ちなみに1925年(大正14年)、それまで選挙権は
直接、国税を3円以上納めていなければ得られなかったが、
納税条件が撤廃され、
満20歳以上の成人男子全てに選挙権が与えられることとなった。

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my日本の「本屋」さんの資料。(現在は在特会が所有)

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総督府時代、会社令において差別があったのか?

植民地朝鮮の研究 杉本幹生著 より

会社令による民族企業の抑圧について、教育出版の中学教科書では
<会社の設立も許可制として、
朝鮮人の会社は出来るだけ作らせないようにした>
と書いており、韓国教科書も「民族企業の抑圧」と非難している。

会社令は1910年(明治43年)~1920年(大正9年)4月まで
10年間施行されたものである。

併合時総督府では、以下のように、会社令制定の理由を述べている。
「請願者の多くは[会社とは何か]というイメージすらなく、
利権確保の手段として会社を設立する傾向がなきにしもあらずてあった。
従って、往々狡猾者の甘言に騙され、不慮の損失を招く恐れがあった。
また有望な事業に多くの業者が林立し、無用な競争をし、
多くの損失を招く恐れがあった。」

朝鮮では、併合に伴い、功労者への叙爵、高徳の両班・儒生に対する恩賜金、
孝子・節婦の表彰、孤児・貧民等の救済資金等が支出された。
彼らが、悪質な内地人に騙し取られないよう、
総督府でしっかりチェックしようというのが、
この法令の目的だったのである。

従って、この政令は内地人、朝鮮人を問わず適用された。
この間に設立された会社数は、次表の通りである。
併合前の数字との比較から見て、
極端に朝鮮人の起業が抑圧されたとは思えない。
しかし、このような許可制の下では依怙贔屓が
あったと思われても仕方がない。

会社令による設立会社数
……………日本企業…朝鮮企業…合計
併合以前……172…………28………200
1910-1915……96…………28………124
1916-1920……302………101………403
小林英夫編、「植民地への企業進出、朝鮮会社令の分析」

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日本の反体制運動への弾圧と、その前後の時代との比較

■朝鮮総督府の時代には、
1910年の日韓併合から1919年の3.1独立運動に至るまでの10年間を見ると、

1913年の独立義軍府事件、光復団活動。
1915年の国権恢復団中央部事件。
1917年の光復会事件。

など、秘密結社の活動や反抗事件があったものの、
きわめて散発的で、併合に対して行動で反対を示したことは、
諸外国に比べて意外に少なかった。

少なくとも戦後、李承晩政権後の朝鮮戦争を経ての10年間、
あるいは15年間の韓国社会と比べると、
日韓併合後の10年間、あるいは統監府統治からの15年間は、
むしろ「日帝」時代のほうが朝鮮の社会としては安定していた、
と言うべきではあるまいか。

以下の、その前後の時代と比較してみよう

■李朝時代の反体制運動に対する残虐な処刑

李朝時代の反体制運動に対する残虐な処刑は、
朝鮮総督府時代に比べると、実に想像を絶するものであった。

李朝は19世紀に入ってから、カソリック教徒への激しい弾圧を続けた。

1801年の「(しんゆう)辛酉教獄」で、
清国人宣教師の周文謨をはじめ300余名を処刑した

1839年の「(きがい)己亥教獄」でアンベールら
三人のフランス人宣教師をはじめ200余人を処刑

1846年の「丙午教獄」で、金大建ら20余人を処刑

1866年の「丙寅邪獄」で、ブルマーをはじめとする9人の
フランス人宣教師と、南鐘三ら数千人のカソリック教徒を逮捕、処刑した。

1865年から3年間、約8000余人のカソリック教徒を
処刑という弾圧政策をとった。

■李承晩政権後の弾圧

戦後の李承晩政権は、
1960年、学生運動(4.19革命)で追われるまで評判は芳しくなかった。

例えば、済州島の「4.3事件」における3万人虐殺はアメリカ軍政支配下で、
アメリカ軍の責にしたとしても、
1951年、居昌(コチャン)事件では、
(市民700余人を共産ゲリラ容疑で虐殺)では、
国会調査委員会の調査では、各地方で虐殺された市民が
8500余人と報告し、立法、司法、行政機関が合同で
「良民虐殺事件処理特別措置法」まで制定した。

1951年、国民防衛軍事件では、
10万人が虐殺され、100万人の第二国民兵を飢えと疫病に追い込んだ。

(ポド)保導連盟事件では、
「ハンギョレ新聞」や「時事ジャーナル」によると
30万人の虐殺があったと告発している。

白骨団(ベッコル)土峰団(トオボン)などの組織が
政敵を暗殺、処刑したり、野党国会議員50余名の強制連行事件、
1956年、野党副大統領、張勉(チャンミョン)の襲撃
1958年、政敵である進歩党党首曹奉岩(チョボンアム)の
スパイ容疑での処刑

南北政権の反体制運動に対する不寛容さは、
総督府時代とは、あまりにも対照的ではあるまいか。

黄文雄著、中国・韓国の歴史歪曲(光文社)より引用


国民補導連盟(国民保導連盟事件)1950年

1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発するのですが、
この直後に起きた事件ですね。

国民補導連盟とは、
今まで厳罰一辺倒だった共産分子への対応を改め、
自首期間中に、共産党の甘い言葉に騙された人は、
自首して国民保導連盟に 所属すれば、罪は問われない、としたもの。

左翼に 転向した人や、その家族たちを
‘助けて、正しく導く(補導)’という意味を持つ組職で、
事実上、李承晩政権の反対勢力をだった人に、罪を悔やみ、
李承晩に忠誠する機会を与えるというものだった。

左翼組織に入ったことがあると当局が認識していた人々を、
強制的に加入させた組織であり、
あるいはかつて漢拏山に避難して隠れていた人々、
こういう人々が朝鮮戦争のさなかに予備検束され、
韓国人自身の手で処刑されることになっていくわけで、
朝鮮戦争中に左翼関係者を無抵抗で非武装の国民、
合計30万人が虐殺した事件のようです。

以後、人民軍の占領地で起きた、
仕返し虐殺の原因を提供する事にもなった。

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『朝鮮騒擾善後策-鮮民の求むる所は斯くの如し』 閔元植(びんげんしょく)
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閔妃皇后の血統を引く閔元植は、12歳から日本で学び21歳のとき朝鮮に帰ると
統監府の官吏となり、33歳で高陽の郡守をしていたとき3.1事件に遭遇した。
―――――――
このたび3.1独立運動の近因は、米国大統領ウィルソンの提唱した
民族自決主義を、欧州戦線と何ら関係のない朝鮮にも適用されるものと
する誤解から起こった。

もしくは誤解を装うて、ひょっとしたらうまくゆくかもしれないと
狙った在外朝鮮人の扇動に由来した。

もっと言えば初めから実現できないと知りつつ妄動を企てた感がある。
常識的に見れば、狂気の沙汰と言えよう。

しかし朝鮮人が、日本の統治政策に深い不満を抱いていることは確かである。
この対策を考えねばならない。

日本政府は併合以来、10年近く、朝鮮人の生命財産を保護し、
国利民福を向上させる点に於いて用意周到であった。
運輸交通、金融機関の整備、農工各種の産業の発達等、
旧朝鮮時代の悪政から朝鮮人を解放し、夢想もしなかった恵沢をもたらした。

にも拘らず朝鮮人の性情が偏狭、我執に傾いているためか、
口では感謝しながら、心では淋しさを感じ
朝鮮人の自尊心を傷つけるなどと思う者が多い。

更に朝鮮人は米国を自由郷、現世の楽園のように思っている者が多い。
しかし、そこは白人の天国であって、
有色人種の人権はほとんど認められない。
パリ平和会議で、日本が人種差別撤廃を提唱したが、
オーストラリアのヒュース首相が強硬に反対し、
それを真っ先に支持したのは米国のウィルソン大統領でなかったか。

米国の庇護に頼って光栄ある独立が達成できるなど不可能の事である。
日本統治下の朝鮮人は米国に比べて遥かに幸福であることを認識し、
穏当な方法によって民権を拡大してゆくことを講ずべきである
―――――――
米国大統領ウィルソンの提唱した民族自決主義とは、
第一次大戦時のドイツとその同盟国の支配下にあった東欧地域の
諸民族独立を支援する地域限定のもので、日本とは無関係なものであった。

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■総督府時代、3.1事件の犠牲者数と、公正だった裁判

「植民地朝鮮」の研究 杉本幹夫著 展転社 より改編

3.1事件の犠牲者数と、公正だった裁判および他国の争乱との比較

3.1事件の被害と、韓国側の数字への疑問

……………朴殷植……朝鮮総督府……憲兵・警察官
参加者……203万名……106万名  
死 者……7509名………553名……………8名
負傷者……15961名……1409名…………158名

韓国教科書において、犠牲者は朴殷植「朝鮮独立運動の血史」の
数に拠っているようである。
しかし、朴殷植は亡命中であり、
あちこちでの聞き取りを集計したモノであり、
且つ、本書は反日を煽るための本である。

面(村)毎、月別に集計された総督府の数字より
信頼性が高いとは言えない。

実際、彼は、「今回の独立運動は、
・・・・確実な実態調査を得る事は難しい。況や海外にあって、
ただ新聞報道や個人の伝聞的報告によるモノだけであってみれば、
その事実の困難さは推してしるべきであろう」と、断っている。

海外にいて、新聞報道や個人の伝聞的報告だけで書かれた数字を
疑いもなく教科書に掲げるのは公平さを欠く

官公署の被害(4月25日現在、朝鮮総督府の調査)
面事務所(村役場)全壊19。内、放火によるモノ5、
村役場の一部崩壊(窓ガラス破壊、器物、書類の焼却等)28
警察署、駐在所、憲兵分隊等の全壊16、一部破壊29
郵便局の全壊2、一部破壊9

■公正だった3.1事件の裁判

5月8日までに
10,268名が送検され、
内3789名が不起訴。
1151名が取調中。
同日時点で起訴されたのは、約半分の6417名に過ぎなかった。

5月20日時点での第一審での
有罪判決は3967名、
無罪58名、
免訴1名。
有罪でも死刑はゼロ、
15年以上もゼロ
10~14年が6名、
7~9年が1名、
5~6年が23名、
3~4年50名、
3年以上の禁固刑は80名と僅か2%であった。

尚、裁判では、
内乱罪の適用が高等法院で却下され、
保安法および出版法違反という微罪となったため、
主犯とされた崔麟ら8人は僅かに3年崔南善ら6人が2年6ヶ月
有罪となったのは37人に過ぎない。

証拠主義に徹して、多くの被疑者が無罪放免となり、
死刑、無期も一人もなく軽い罰の判決しか出なかった。

放火・殺人・建物破損をした罪の3.1事件の被告達には、
控訴や上告も自由にさせた。

このように、朝鮮時代とは違って、
酷刑を嫌う穏やかな日本民族の加罰はきわめて軽かった。
3.1事件をもって、朝鮮総督府が、
他民族を弾圧したと言うのは偽造である。

また、日本人の憲兵6名と警察官2名を殺害し、
放火等による官公署建築物破壊をした朝鮮人の被疑者に対して、
朝鮮固有の拷問は皆無だった。

3.1事件被告の控訴、上告件数等 5月31日現在
…………………受理件数(人数)…既済……………未済
控訴 覆審法院…830(3970)………433(1411)……397(1659)
上告 高等法院…214(588) ………78(169)………136(419)

4月3日、水原郡雨汀面(村)の花樹里警察官駐在所
(日本人巡査1人、朝鮮人巡査補3人が勤務)の
川端豊太郎巡査を石と混紡で殺した後、
耳鼻などを切断した惨殺事件があったのに、
裁判は報復的な事を一切しなかった。

そして、起訴された52名につき予審を担当した京城地方法務院は
半数にもなる25名を証拠不十分で免訴かつ放免した。

高等法務院に刑法第77条該当として送致したのは27名のみだった。

■公正だった司法の独立

”司法の独立”は、朝鮮には存在しなかった。
戦後においても朝鮮半島では、司法の独立は完全ではない。
司法への介入は、金大中大統領の時も例外ではない。

朝鮮において、司法の独立は、韓国併合時代の35年間だけである。

<憲兵警察政治>と称する事が如何に不適切であるかは、
憲兵警察のなした逮捕者の半分を不起訴にした数字からも解る。
拷問のない世界最高の公正裁判を受けたと言える。

そして、インドやアルジェリアでの反乱に対する英国や
フランスの事後処理の峻烈さと比較すれば、一層明確になる。

■他国の民族独立運動についての裁判では

ベトナムの民族独立運動の場合
1913年ハノイや北部・中部の都市で手投げ爆弾を
爆発する事件が続き、この事件で14人が死刑

1930年北部トンキン、イェンバイ近くのフランス軍兵舎の近くに、
革命軍が集結。フランス人将校6人を殺害し武器弾薬を運び出した。
この事件で、40人が死刑、50人が終身刑で流刑、
34人が終身刑で重労働に処された。

1933年には、120人が裁判となり、
8人が無期懲役、79人が5年から20年の刑。

このように、3.1事件の最高刑が
懲役3年とは比較にならない重刑である。

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いわゆる「堤岩里虐殺事件」
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-570.html

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神戸新聞 1924/7/27
『怪鮮人は春画を売って上海仮政府へ走らうとした不逞の徒』

神戸又新日報 1924/7/27
『怪鮮人の行動/
大阪の同志等と結んで上海仮政府の密偵及主義宣伝/旅費調達に裸体写真を』

京城日報 1924/12/8 夕
『大掏摸(スリ)団/独立陰謀団とも気◆を通ず』

大阪朝日 1926/2/23
『上海不逞団の名で富豪を恐喝す/鶴橋署で逮捕の鄭永斗』

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歴史を偽造する韓国 中川八洋 徳間書店 より

少数の憲兵や警察官だけで、本当に武断統治が可能か?

韓国中学教科書・国史/憲兵警察統治の項で、
「朝鮮総督府は、行政権はもちろん司法権と軍事権など
すべての権限を持ち、わが民族を弾圧した。
日帝の我が国に対する植民地支配は、
憲兵警察を先頭にした弾圧的な武断統治であった。(中略)
こうした日帝の弾圧的な統治によって活動が難しくなった民族指導者は
海外に逃亡し、その間つづけられた義兵運動もしだいに、
その活動舞台を満州や沿海州に移すようになった。」

朝鮮で1918年11月まで警察業務を行った憲兵につい言及しておきたい。

韓国併合時の憲兵の数は、すべてで僅か2019名であった。
しかも、そのうち憲兵補助員の1012名は朝鮮人であった。
すなわち、日本人の憲兵数は1007名しかいなかった
(水田直昌「統監府時代の財政」友邦協会)。

これが22万平方キロメートルの
朝鮮全土に散らばって配置されたのである。
文民警察官は5693名いたが、
その半分以上の3428名は朝鮮人であった。
このような数字を見ると、
韓国の歴史教科書が小説じみていることが解るだろう。

僅か2019名(その内、日本人は1007名)の「憲兵警察」で
「弾圧的な武断統治」が果たして可能だろうか?

日本の「憲兵警察」は、
当時の朝鮮人全体に受容され、強く支持されていた。
そうだから、このような僅かな数の憲兵が朝鮮全土に
ミニ小部隊ごとに別れて展開しても安全であった。

分遣・派出箇所が563とすれば、
1箇所につき日本人憲兵は2名未満であった。
村の民衆が、ある程度の集団で襲撃すれば、
これらの憲兵を全員殺害することが可能である。

しかし、このようなことは殆ど発生しなかった。
1919年の3.1事件のとき(2名の警官の他)
6名の憲兵が殺害されただけだった。

圧倒的に多数の朝鮮民衆が綱紀の厳正な日本の
「憲兵警察」の方を信頼し協力した。
保護国時代の「義兵」を継承する、
独立運動家の「反日分子」の方を拒絶した。

この「憲兵警察」と普通警察「文民警察」とを合わせても、
韓国併合年の、在朝鮮にある日本の警察力は7712名
(その内、日本人は3259名)であった。

この極端に僅かな数の「警察官」で、朝鮮全土を担当したのである。
日本がいわゆる「独立を奪った」直後の1910年における
この数字「7712名」は、当時の朝鮮人全体が、日本統治を、
面従腹背であれ、重病人のごとき朝鮮政府より遙かにましとして
支持していた歴史事実を鮮明にしている。

併合から一年余りが経った1911年末には、
文民警察官は6006名、憲兵は7749名と増え、合計13,755名となった。

それでも、現在の日本における2000平方キロメートルの
東京都(面積は朝鮮の百分の一、人口は当時1910年頃の朝鮮とほぼ同じ)を
所管する、警視庁の41,721名の警察官(=2000年4月現在)の3分の1である。

朝鮮半島における1911年末の憲兵数
憲兵…将校……下士官……上等兵……憲兵補助員計
78……693………2525………4453………7749

朝鮮半島における1910年末の警察官数
役職………日本人…朝鮮人……朝鮮人の割合
警察部長…13…………0…………0.0%
警務官……2……………1………33.3%
警視………30…………14………31.8%
警部………167………101………37.7%
巡査………2,053……181………8.1%
巡査補……0…………3,131……100.0%
計…………2,265……3,428……60.2%

【出典】
水田直昌監修『総督府時代の財政』、友邦協会、122ページ

【分析】
・上位三階級のうちの25%は朝鮮人
・日本人警部167名のうち31.8%は朝鮮人警視の部下
・警察官全体の6割が朝鮮人

【結論】
・日本の朝鮮統治は、朝鮮人と共に行っていた。
・警務官、警視などの上位階級にも朝鮮人は登用されていた。
・朝鮮人が上司で、日本人が部下という場合もあった。
・朝鮮半島で取り締まっていた朝鮮人警察官。
http://photo.jijisama.org/IHall.html

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併合前・後の日本の財政負担と、朝鮮の「もらい得」

歴史を偽装する韓国・中川八洋著より

併合以前の朝鮮への日本の財政負担(1904~1910)

朝鮮は、もともと予算の編成能力すらなく、
目賀田顧問の指導監督で初めてできた予算では、
その歳入は1906年度で748万円しかなかった。
これで韓国を近代国家として運営するに必要な
年3000万円以上の予算を組むには、
日本から差額すべてをもっていくほかはなかった。
かように日本は巨額の支出を強いられた。

「持参金付きの統治代行」であるがために生じた朝鮮への日本の財政負担は、
1904年の第一次日韓協約による、
1904年10月の目賀田財政顧問の着任から始まる。
それから1910年8月末の併合・総督府設置されるまで、
日本は日本人の税金から、朝鮮の歳入不足分を無利子・無期限にて
朝鮮政府に「立て替え」て交付した。

年度……日本の立替金……日本政府の直接支出……計
1907……177万円……………約2500万円……………約2700万円
1908……526万円……………約2600万円……………約3100万円
1909……465万円……………約1600万円……………約2100万円
1910……260万円……………2242万円………………約2500万円
計………1428万円…………約9000万円……………約10400万円
「総督府時代の財政」水田直昌監修、友邦協会

その額は、4年間で1428万円。
朝鮮政府の税収不足分をそっくりそのまま日本が「立て替え」た。
そればかりか、朝鮮政府を経由せずに日本政府は直接にも支出して、
韓国の行政を代行した。
が、その額は、「立替金」の数倍にのぼった。
すなわち、司法と警察など、日本が受託した分野では、
日本政府が直接に支出した。

1910年8月末までは「旧韓国」の朝鮮政府があり、
その歳入に入れたのを「立替金」と呼ぶ。
翌9月から、総督府の歳入に入れた日本人の税金を「補充金」と呼ぶ。
1910年9月から翌1911年3月末までの補充金は289万円で、
表中の日本政府の直接支出に含めた。

また、1910年8月29日に明治天皇からの臨時恩賜金3000万円が
与えられたが、これは、1910年度の日本の持ち出し総額
約2500万円には含まれていない。
また、旧韓国が日本政府から直接借り入れしていた
「借金」2651万円は、棒引きにした。

併合後の日本の財政負担(1911~1945)と朝鮮の「もらい得」

併合後の1911年以降は、
「補充金」と呼ばれる日本政府からの持ち出し(=日本人の税金)は、
同年度の1235万円と、それ以前の半分となったのは、
残りの半分を日本で発行した公債や日本からの借入金で
補えるようにしたからであり、
日本から約2000万円前後を調達した状況は変わらなかった(B)。

それは、朝鮮人の税・印紙収入(A)の倍に及んでいた。

併合直後の朝鮮の歳入の対日依存
年度……税・印紙(A)…公債.借入金…補充金…計(B)…A+B
1911……1330…………1000…………1235……2235……3565
1912……1468…………1490…………1235……2725……4193
1913……1562…………1110…………1000……2110……3672
1914……1854…………764……………900……1664……3518

つまり朝鮮は、その財政の過半から三分の二を日本に支出・調達させた。
公債・借入金はすべて日本(日本人)からの調達であり、
朝鮮人は全く参画できなかった。
そのような公債を買う朝鮮人はいなかった。
資金を貸す力のある朝鮮資本の銀行は一行もなかった。
Aは、{A+B}の三分の一から二分の一しかなかった。
つまり、朝鮮の歳入の対日依存度は、
その三分の二から二分の一に及んでいた。

(中略)
「立替金」・「公債」その他は、巨額にのぼる(1945年度は不確定)。
立替金・日本政府の直接支出、補充金、公債未償還だけでも、
約21億円になる。(1910~1944年)。

朝鮮の対日「搾取」最小額 立替金その他 1億400万円
補充金(1911~44年) 5億3521万円
公債未償還 14億3971万円
合計  20億7897万円

日本で調達した公債の未償還は、
発行した公債(1910~1944年)21億6566万円から、
償還分7億2595万円を差し引いた額である。
朝鮮は3分の1しか償還していない。

この未償還の約14億4000万円は、
敗戦と同時に全て、朝鮮側の「もらい得」となった。
日本側の巨額損失である。

1907~1944年の1円が、仮に平均で3万円に相当するとすれば、
これだけでも63兆円になる。

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日本帝国主義下の朝鮮経済(金洛年)著などを引用

諸制度の完備が市場経済を発展させた

独立によって、憲法の制定をはじめ、国家の統治機構は根本的に改革され、
それと関連する諸法令が新しく作られるようになった

これに対して、植民地期に成立した所有権制度、
財政制度、貨幣及び金融制度、
それに基づいて成立した市場経済の方は、
解放後との連続性は強いと思われる。

中略

土地調査事業による登記制度の導入と、近代的土地所有権の確立、
地価調査に基づく地税制度の整備、円系通貨として朝鮮銀行券の発行、
日本の民法・商法の移植による朝鮮民事令の施行などは、
植民地権力による朝鮮に於ける新しい制度の創出であった。

これが、朝鮮の永久合併を目指したのは言うまでもないが、
朝鮮の市場経済化を急速に進展させた制度基盤になったことも事実である。

その結果、朝鮮に於ける全国的に統合された市場が成立したのは、
植民地期になってからのことと思われる。


文藝春秋 諸君8月号より、対談を抜粋

黄文雄
インフラ面でも、朝鮮の歴史は党争ばかりで、
二千年の歴史で一番安定していたのは、いわゆる日帝36年なのです。
社会や政治が安定していなければ、近代経済は成り立ちませんから、
まさに近代化の基礎が出来たのは、この36年間だったのです。

渡部
北清事変(1899年)の英雄の柴五郎が、
支那から回って朝鮮に入って一種の調査旅行をした記録を読むと、
「朝鮮に入ったらお金というものがない」という、
つまり貨幣経済にまだ入っていないのです。
当時は支那の下級のお金が一部で使われていた程度のようです。
同じ頃、朝鮮を調査した日本の経済学者も、「朝鮮の経済状況は、
日本で言えば平清盛か鎌倉時代の始まりの頃だ」と言っています。

黄文雄
そのようです。
当時は朝鮮だけではなく、
台湾も満州も中国も本格的な貨幣経済の時代には入っていないのです。
日本人が進出した所で、まず金融、貨幣など財政政策を行ったというのは、
その時代では考えられないすばらしいことなのです。


社会資本の充実と統合市場の出現

穀物市場の統合は、開港を契機に先に始まって、
植民地期には既に解放後の水準に達しており、
次いで、労働市場の全国的な統合も進んでいた。

資本市場は、最も遅れて近代的金融と伝統的な私債市場との
二重構造を脱皮できなかったが、そうした特徴は解放後にも続いていた。

この時期に市場経済の急速な拡大には、前述した制度の移植とともに、
社会資本の影響が大きかった。

鉄道、道路、通信施設の整備は、物資と情報の移動を飛躍的に速めて、
朝鮮経済の日本への包摂を進めただけでなく、
朝鮮内部に於いても市場統合を大きく進展させたのであった。


その結果、植民地期になると、
市場は既に経済活動の組織原理として定着して、
それに合わせて朝鮮人の生活様式も大きく変化されていった。
こうした変化は、不可逆な性格のモノで、解放後にも連続していく。


総督府時代と似ている韓国の経済成長

近年では、解放後韓国経済の展開には、植民地期に表れた経済成長の
パターンと類似している点が多かった事が認識されつつある。

例えば、
両時期、共に貿易と投資の増加が経済成長を主導しており、
さらに投資の中には外資の比重が高く、
対外依存的な成長類型を示していること。

経済成長に於いて、技術発展より、資本や労働の要素投入の増大が
主導する外延的成長の特徴が持続していること。

1960年代以降の朴政権の開発主義的な政策は、
経済開発に於ける総督府の役割。
特に戦時期のそれを想起させることが指摘されている。

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韓国教授(88歳)が告白
「殺される覚悟で言う。韓国人は強制従軍慰安とか歴史捏造をやめるべきだ」

知ってはならない日帝時代の真実~学校で教えられていない日帝強占期の実像

http://www.hoshusokuhou.com/archives/10770522.html

"私は88才です。 もう事実を話したいと思います。
[チェ・キホ伽耶大学客員教授] 朝鮮末期の私は1923年の生まれです。

もう韓国のためでも、日本のためでもなく「事実」を話したいと思います。
それは相当な覚悟が必要です。 生命の危険も覚悟しています。
しかし、これは私の使命であると信じています。

私はソウルに住んでいました。そして、時々、平壌や東京に行きました。
その当時の韓国人は「日本人以上の日本人」でした。

「親切でやさしい日本人」という印象を、
必死に消すために「反日」を指導者はそそのかしてきました。
韓国と日本の歴史教育を比較すると、
日本が10%の歪曲といえば、韓国は90%が歪曲です。

朝鮮末期の正常ではないで政治腐敗を教えず、
日本が関与しなければ独立ができたことのように使われています。

韓日合邦によって
「教育」 「医療」 「工業」 「社会インフラ」が整備されました。
近代国家の基礎が出来たことは明らかな事実です。

その実績を「日本帝国主義の侵略政策の産物だ!」
と糾弾する韓国にはあきれます。
より一層「日帝が民族産業を停滞させた!」
という主張にはコメントする気持ちもなくなります。

民族産業を殺したのは、朝鮮王朝です。
近代化を主張する先進的な思想家は反逆者とし、
親族までも処刑されました。

韓国人は「日帝の虐待! 性奴隷!」と叫んでいますが、
私は信じることができません。
歴史の真実を知っているためです。

朝鮮語でキウン「地獄」でした。それは大韓帝国時代になっても同じでした。
1904年、日本は朝鮮の惨状を救うために、財政支援を決断します。

例えば1907年度、朝鮮王朝の歳入は748万円だったが、
歳出は3000万円以上でした。
その差額は日本が負担していました。
1908年にはより一層増加し、3100万円を支出しています。

現在88才の老人の絶叫です。 どう思われますか?

なぜ朝鮮人は嘘をつくのか Why does the Korean tell a lie?
http://www.youtube.com/watch?v=9ATZG6pyY88
http://www.youtube.com/watch?v=jbgbbXk0n1k
http://www.youtube.com/watch?v=KR7z_-jagCE

[Annexation Song] 韓国併合の歌
http://www.youtube.com/watch?v=yUelX8kBThk

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平成25年(2013年)3月8日、衆議院 中山成彬先生の質問 1/2
http://www.youtube.com/watch?v=-p2M0TCHyhk
平成25年(2013年)3月8日、衆議院 中山成彬先生の質問 2/2
http://www.youtube.com/watch?v=pknV1c7_9kM

平成25年3月8日の国会 衆院予算委員会
中山成彬・元文部科学相の質問の要旨

「国際的に日本の子供たちがいじめられている。
いま日本の留学生がアメリカやカナダで、中国・韓国の留学生に
『あんたたちの祖先から自分たちの祖先は酷い目に遭った』と迫られ、
肩身の狭い思いをしている。」

「戦前の日本の朝鮮や台湾統治は欧米諸国の植民地主義とは違う。
学校、道路、鉄道を造った。韓国の近代化にも熱心だった」

「創氏改名は朝鮮人が望んだと麻生さんが東大で講演し、
朝日新聞でたたかれた。現在、使われている検定を通った高校日本史の
教科書3つで、創氏改名を強制したと書いてある。
しかし、『氏の創設は自由だ、強制と誤解するな、総督から注意を促す』
という当時の朝日新聞記事がある。3つの教科書、明らかに間違っています。
大学入試で、創氏改名は強制と答えた場合、
これは○か×か?大きな問題になる。
本来であれば間違った教科書を回収すべき。」

「いわゆる従軍慰安婦問題。官憲が介入したと誤解させた最初の記事は
平成4年の(朝日新聞の)『慰安所 軍関与示す資料』。
ところがよく見ると、悪徳業者が募集に関与しているようなので
注意するようにという通達で、全く逆なんです。
官憲が強制連行したのではなく、当時の朝日新聞の報道では、
朝鮮人が日本人の良家の子女を誘拐して満州に売り飛ばした。
そして、警察がしっかり仕事をしていたことが分かる。」

「こういうことがずっと蔓延しているのは自民党にも責任ある。
歴代の外交が、その場しのぎで、謝ればそれ以上追及しないという言葉に
乗せられて、談話等が出された。そのツケが全部いま来ている。
日本人は惻隠の情や、人を騙してはいけないと小さい頃から教えられるが、
しかし、騙されるほうが悪いんだと、嘘も100回言えば本当になると、
プロパガンダに励んでいる国民もいることを忘れてはいけない。」

「先の戦争は侵略戦争だったと思い込まれているが、
1951年、マッカーサーは米国議会の上院の軍事外交委員会で、
『日本は米国によって閉じ込められ、資源供給の道を断たれた。
日本が戦争を始めた目的は、
主として安全保障の必要に迫られてのことだった』
と明確に、侵略戦争を否定している。
このマッカーサーの発言を東京都では副読本で使っている。
これを全国の公立学校に配布してはどうか」

「教育問題の集中審議をお願いしたい。
その時に、朝日新聞の関係者にもぜひ来ていただきたい。」

インフラ

創始改名

靖国参拝

慰安婦a

慰安婦b






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■大東亜戦争後も、日本は世界一、韓国に親切な国です。

●独立時無償贈与5億ドル
●無償資金協力2億3384万ドル
●無償技術協力9億1372万ドル
●政府貸与総額36億154万ドル

現代の価値に換算すると総額は数兆円規模になる。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/jisseki/kuni/j_99/g1-03.htm

◆通貨危機にも一番最初に助けに来た日本
1、100億ドルの融資
2、IMFを通しての20億ドルの融資
3、邦銀118億ドルを含む韓国への短期対外債務320億ドルの繰延べを主導
http://www.mof.go.jp/jouhou/hyouka/honsyou/14nendo/hyoukasho/sougouhyoukasho/sougou-ikkatsu.pdf

◆21世紀も韓国にODA援助をする日本
2003年 日本のODA技術援助された国上位10位 単位:百万ドル
1位中国 300.13
2位インドネシア 120.66
3位フィリピン 91.53
4位ベトナム 83.63
5位タイ 73.85
6位韓国 60.60
7位マレーシア 45.77
8位カンボジア 41.24
9位ラオス 34.00
10位ブラジル 33.17

1人当たりなら中国よりも沢山援助を受けました。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/hakusyo/04_hakusho/ODA2004/html/zuhyo/zu030171.htm

◆日本と係われば必ず成功する韓国
日韓併合1910年→所得倍増
日韓分裂1945年→最貧国
日韓修好1965年→漢江の奇跡

◆韓国の産業技術も日本が援助
カラーTV、オーディオ製品に関する技術
VHS方式VTRの特許及び製造技術
TV・オーディオ用バイポーラICの設計・製造に関する技術
半導体 IC製造技術
上下水道用・中・大型バルブの製造技術
化粧品に関する製造技術
中・大型船舶用ディーゼルエンジンに関する技術
X線診断装置、超音波診断装置に関する技術
高性能乾式複写機に関する技術
VTRの製造技術
船舶用エンジン製造に関する技術
製糖工場の自動化に関する技術

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迎恩門と独立門
http://megalodon.jp/2009-0210-2331-17/nippon.ikora.tv/e10717.html

高麗年表
http://s01.megalodon.jp/2009-0211-0117-49/jiten.biglobe.ne.jp/j/9d/13/57/dde43d352a86ea82e94abaaed69c23d7.htm
丙子胡乱
http://s04.megalodon.jp/2009-0211-0117-17/jiten.biglobe.ne.jp/j/37/49/1f/954312072c578a31a0c804f86ce21e3d.htm
三跪九叩頭の礼
http://s03.megalodon.jp/2009-0211-0116-47/jiten.biglobe.ne.jp/j/79/b2/6a/04dd7bc49ac2cbeaf72ae4cc7eb9acf2.htm
大清皇帝功徳碑~三田渡の盟約~
http://s04.megalodon.jp/2009-0211-0116-20/jiten.biglobe.ne.jp/j/8e/be/7f/efe8af94c1147b00b2c2dfff35ebf436.htm
迎恩門
http://s01.megalodon.jp/2009-0211-0115-15/jiten.biglobe.ne.jp/j/c1/10/f8/3956e0da412206ac096f1c8db2599b57.htm
独立門
http://s02.megalodon.jp/2009-0211-0115-54/jiten.biglobe.ne.jp/j/51/3b/7b/cd6723ce9b057fa422ca02ad11249f19.htm

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日韓併合の前後
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-317.html
日韓併合_関連資料
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-323.html
竹島が日本の領土である根拠
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-164.html
慰安婦_資料
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-147.html
日本が土地調査を進めて農民たちから農地を取り上げたというのは事実誤認
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-130.html
「日帝が朝鮮の米を収奪した」???
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-581.html
韓国のネット掲示板に韓国人が日本統治時代の小学校の参考書の画像をアップ
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-642.html
250年前の日本を見た朝鮮通信使
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-29.html
日・中・韓紀行 ~ イザベラ・バード
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-211.html
日本から見た歴史認識
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-167.html
ブログ『ぼやきくっくり』 「朝鮮總督府官吏 最後の証言」
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1612.html

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韓国・奴隷のいた国 凶暴なる依存心と便乗侵略
http://www.nicovideo.jp/watch/sm18431367

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1910年、日韓併合は時の朝鮮国王(韓国皇帝)が
王令(勅諭)を出して行なわれました。
つまり朝鮮国のトップが日韓併合を認め、
1910年から朝鮮国は無くなり、日本となりました。

「大韓民国臨時政府(1919年設立?)」というのは、
世界のどこからも、いかなる地位としても認められていませんでした。

あとから史実を変えるのは朝鮮的であり、
「勝っても負けても戦勝国」とか都合のいいことはありません。

「カイロ宣言」なるものは日時や署名がなく公文書も存在していません。
2010/01/18 06:00|年表リンク用資料
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