正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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日本帝国海軍、地中海に奮戦す

国際派日本人養成講座 Japan On the Globe(315) H15.01.19 より引用
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog315.html

第一次大戦、同盟国イギリスの要請に応え、
日本の駆逐艦隊は地中海でドイツ軍潜水艇と戦った。

■1.海軍創設以来の壮挙■

大正6(1917)年2月18日午後1時、
片岡覚太郎・中主計(後の主計中尉、以下、片岡中尉と略す)
の乗った駆逐艦「松」は3隻の僚艦とともに佐世保港を出発した。
港に停泊している艦船では、乗員が艦上に整列し、
帽子を振って見送っている。
出港する4艦の乗組員もこれに答礼する。

駆逐艦4隻からなる第11駆逐隊は、これからシンガポールに行き、
南シナ海からインド洋方面を警備している巡洋艦
「明石と駆逐艦4隻に合流する。
そこからインド洋を渡り、スエズ運河経由で地中海に進出し、
暴れ回るドイツ軍の潜水艇からイギリス・フランスの輸送船を
護衛する任務に就くのである。

1914年に始まった第一次世界大戦は
すでに4年目に入っていたが、膠着状態が続く中で、
日英同盟に基づくイギリスの支援要請に応えるためであった。

これまでもスエズを越して地中海に入った日本の軍艦は多かったが、
いずれも新造艦の回航とか国際儀礼を目的としたもので、
実戦に向かうのは今回が初めてである。
日本帝国海軍創設以来の壮挙に向かう艦隊の士気は高かった。

何かというと二口目にはジャップと軽蔑した西洋人の鼻先に、
ジャップが自分で拵えた艦を持って行って、
骨のあるジャップの腕っ節を見せてやる。[1,p29]

■2.地中海マルタ港■

4月13日、2ヶ月近くの航海の後に、艦隊は地中海のマルタ島に入港した。
長靴の形をしたイタリア半島のつま先にあるシシリー島の
さらに南部にマルタ島は位置する。
ちょうどアフリカ大陸もやや北に張り出して、
地中海が最も狭くなる海峡に近い。
東西方向では地中海の中央に位置し、
まさに地中海の制海権を握るには絶好の要衝である。
英国はこの島を1814年にフランスから獲得し、
それ以来、英国海軍の地中海における一大基地としていた。

日本艦隊はここを基地として英国海軍とともに英仏運送船の護送に
あたる事となった。
イギリス、フランス、イタリアの各国艦隊は、地中海の制海権を握り、
オーストリアとトルコの艦隊をそれぞれの母港に封鎖していた。
しかし、ドイツの潜水艇は厳重な封鎖線を突破して、
輸送船を手当たり次第に沈めて、暴れ回っていた。
そのため輸送船護送と潜水艇攻撃が、海上作戦の中心であった。

こうして日本艦隊の8隻の駆逐艦は、護送任務や、
襲われた輸送船の緊急救助にと、
マルタ港にゆっくり停泊している暇もない多忙な日々を送るようになった。

■3.「トーピードー(魚雷だ!)」■

5月3日、片岡中尉の乗る「松」と僚艦「榊」は、
フランス・マルセイユ港からエジプト・アレキサンドリア港に3千の陸兵、
および大砲・小銃などを運ぶ英国運送船「トランシルヴァニア」を
護送する任務に就いた。

翌4日午前10時20分、イタリア半島沿岸を南下中、
トランシルヴァニアは突然、左舷に魚雷を受けた。
船体中部から爆煙があがり、船はやや左舷に傾いて停止した。
榊が周囲を警戒する間に、松が運送船左舷に横付けし、人員収容にかかる。

トランシルヴァニアの陸兵たちは、ロープや縄ばしごを伝って、
続々と松に移乗する。
気の早い兵は運送船の高い甲板から飛び降りて、足を折る者が続出した。
半数ほどが乗り移った頃、「トーピードー(魚雷だ!)」という叫び声。
人々の指さす方向を見ると、一条の白い航跡を引きながら、
敵の魚雷が真一文字に疾走してくる。
松とトランシルヴァニアを串刺しにしようとするかの如くである。

■4.決死の救出作業■

松はトランシルヴァニアに横付けしているので、とっさには動けない。
片岡中尉は命中は避けがたいと観念して目をつぶった。
しかし、しばらくしても何も起こらない。
はて、と目を開けた途端に、艦首の方で轟然たる爆発音が聞こえた。

魚雷は松の艦首をわずか10メートルほどはずれて、
トランシルヴァニアの左舷に命中したのである。
折悪しく40人あまりを載せた救命ボートを吊り下げている所で、
ボートは運悪く爆風に吹き飛ばさて、影も形もなくなってしまった。

松はすでに800名余りを収容したので、
後進してトランシルヴァニアから離れ、敵潜水艇攻撃に移った。
入れ替わりに榊が右舷に横付けして、5分ほどで1千人もの兵員を収容する。
甲板はたちまち黒山の人だかりで埋め尽くされた。
榊は近隣のイタリア・サヴォナ港に向かう。
松は急遽出動したイタリアの駆逐艦2隻とともに、
付近に浮かんでいる兵員の救助にあたった。

敵潜水艇がいつまた魚雷攻撃を仕掛けてくるか分からないが、
それを恐れていては人命救助はできない。
微速でいかだや浮標(ブイ)につかまって海面に漂う兵員に近づいては、
停止して艦内に収容する作業を続けた。
やっとの事で引き揚げた兵員たちに、ビスケットや衛生酒を与え、
寒さにふるえている者には毛布を掛けてやる。
毛布が足りなくなると、松の乗員は自分の服を脱いで着せてやった。

やがてトランシルヴァニアの巨体は、逆立ちしてから、
海面に飲み込まれていった。
こうして3千2百余名の乗員のうち、約3千は救出された。

■5.総出の見送り■

松と榊は、救助した兵員をサヴォナ港に送り届けた。
片岡中尉が報告の電報を打とうと上陸して郵便局を探していると、
大勢の英兵たちが取り巻き、四方から握手を求めて、
「スプレンディッド(天晴れ)!」などと賛辞を振りまく。
道ですれ違った汚れた服のままの看護婦の一隊は、
敬礼して深い謝意を表す。

翌日夕刻、松と榊はサヴォナ港を出港した。
海岸には救助された英国の陸兵たちが見送りのために
黒山のように集まっている。
海岸や山際の家々の二階、三階のベランダはことごとく住民たちに満たされ、
帽子やハンカチを振り、小さな子供たちまで手を振って、松と榊を見送った。

その後、駐英大使館付武官・船越少将から、
英国海軍大臣から次官経由で以下のような謝辞があったとして、
電報が寄せられた。

運送船「トランシルヴァニア」遭難の際、松、榊はすこぶる勇敢に行動し、
かつ生存者の大部分は両艦によりて救助せられたる由、
「サヴォナ」英国総領事の報告に接し、
英国海軍大臣は、取り敢えず英国海軍および英国海軍省の名をもって、
右両艦の勇敢なる行為と作業とに、
深き謝意を表することを貴官に伝達ありたき旨、英国海軍次官より
申越せり。[1,p133]

■6.榊やられる■

6月11日、松と榊はエーゲ海のミロス島を出港して、並んで航行していた。
榊は左舷横約2百メートルの近距離に、敵潜水艇の潜望鏡を見つけ、
すぐさま砲撃を開始したが、その寸前に敵の放った魚雷が
左舷艦橋下に命中・爆発した。艦橋は吹き飛び、船体は少し前方に傾いて、
煙に包まれたまま停止した。

松は、榊の周囲を不規則に旋回しながら、敵の第二波攻撃を警戒した。
敵の航跡らしきものを見つけて、爆雷を投ずる。
約2百メートルの後方で爆発して、太い水柱が噴き上がった。

やがて、英国駆逐艦「リッブル」「ゼッド」、
フランスの水雷挺が救援に駆けつけた。
共に戦う男たちは、国籍など問わずに助け合う。
松が周囲を警戒する中を、リッブルは勇敢にも榊に近づくや、
ボートを降ろして負傷者を引き取り、さらに榊を曳き綱で曳航し始めた。
低速で進む両艦は敵潜水艦の絶好の餌食であるが、
松やゼッドの警戒で寄せ付けなかった。

榊はクレタ島スダ港に曳航され、負傷者は病院に収容された。
夜を徹して榊の破損箇所を片づけていくと、悲惨な屍体が次々と出てきた。
翌日昼から始めた59名もの殉職者の火葬は夜になっても続き、
松の艦上からも遠目に凄惨な炎が見えた。

■7.沈黙の奮闘■

榊がやられた翌日、駆逐艦「梅」と「楠」は
陸兵千五百を載せた英国運送船「アラゴン」を護送して、
スエズ運河地中海側入り口のポートサイドから、マルタに向かっていた。

午後7時15分、日没間もなくで、洋上にはまだ明るさが残っている頃、
梅は右舷前方6,7千メートルに敵潜水艦が
司令塔を海上に現しているのを発見。
梅は全速力で近づきつつ、砲撃を開始した。
楠はアラゴンの右舷に媒煙幕を張って、敵の視界を遮った。

梅が近づくと、敵潜水艦は慌てて潜行して逃げ出したが、
梅は左舷前方6百メートルに航跡を発見、
その進路方向に先回りして爆雷を投下した。
投下10秒後、後方100メートルの所で、
6,7メートルの水柱があがった。
梅が反転して投下位置に戻ると、海面に黒色の油が大量に浮遊していた。
敵潜水艇を撃沈して、見事、榊のかたきをとった形となった。

このような戦果は何度もあったが、
そのためには見張り員は暑い日に照らされ、寒い風にさらされ、
雨に打たれて、哨戒を続けなければならない。
戦闘員も上着も脱がずに仮寝し、
ラッパ一声で飛び起きて、持ち場に着く。
緊張の日々を何日も続け、ようやく港に帰ったと思ったら、
すぐに次の任務に出て行かねばならない。

こうした「沈黙の奮闘」に、縁の下の力持ちのようだ、
という不平が乗組員から漏れ聞こえてくることもあったが、
片岡中尉はこう諭す。

自分の努力が認められると、認められないとは、自分の知ったことではない。
ただ、国民としての本分を尽くしたという自覚が、
自分にとって大なる安心である、満足である。
少しでも自分の努力を認めて貰いたいと云う、さもしい私心が、
その間に萌すと、折角の御奉公に疵がつく。
[1,p319]

■8.大輸送船団■

この年の暮れから大会戦の準備を進めていたドイツ軍は、
翌1918年3月20日夜から大攻勢を始め、
23日にはパリを長距離砲で脅かすまでに接近した。

連合軍はあわてて各方面から兵力をかき集めて対抗を図る。
英国は東南アジアやインドなど、
東方の陸兵をエジプトのアレキサンドリア港に集結させ、
そこからフランスのマルセイユ港まで
大型輸送船6,7隻でピストン輸送する事とした。

輸送は4月から7月まで5回に渡り、
そのすべてを日本の駆逐艦群が護送した。
大きな輸送船がうち並び、日本の駆逐艦に守られて、
堂々と洋上を進む光景は絵のように美しかった。
しかし当然、敵からも目をつけられ、
ほとんどの航海で敵潜水艇に遭遇した。

護衛の駆逐艦は絶えず海上に目を光らせ、
敵潜望鏡が浮上しているのを見つけると、即座に近づいて爆雷を投下する。
あたかも羊の一群を狼から守る番犬である。
5往復のべ65隻の航行で犠牲となったのはわずかに2隻。
1回の往復で2万ほどの兵員を輸送するので、
合計10万ほどの大兵力を欧州戦線に送り込んだことになる。

これらの戦力を加えたイギリス軍は8月8日、
ソンムの戦いでドイツ軍の優勢を覆した。

この後、9月から11月にかけて同盟国側は
ブルガリア、トルコ、オーストリアが次々と脱落し、
最後のドイツも11月11日に休戦条約に調印し,
ここに4年3ヵ月にわたる第一次世界大戦が終結した。
日本帝国海軍の駆逐艦隊はまさに縁の下の力持ちの役割を
見事に果たしたのである。

■9.平和な島の墓地で■

[1]の編者C.W.ニコル氏は1997年7月6日にマルタを訪問した。
その時の事を解説でこう記している。

翌朝早く、ポーターに海軍墓地の場所をたずね、タクシーをつかまえた。
墓地は開放されていて、敷地内はマルタの管理人によって
きちんと手入れされていた。

日本帝国海軍の記念碑は、飾りけのない一本の柱で、
地中海の任務中に亡くなった全艦隊員の名前と階級が、
銅板に日本語で彫られている。

背後には古い石壁があって、ブーゲンヴィリアの緑と紫に彩られ、
近くの木では何十羽もの雀がにぎやかにさえずっていた。
眼下には、グランド・ハーバーが広がっている。

ぼくは、日本酒の小壜と、小さな「海苔」のパックと「梅干し」を、
記念碑の石台に供え、頭を垂れた。
この男たちは、故郷からかくも遠く離れて亡くなった。
連合軍の勝利に多大な貢献をした。
それなのに、ほとんど忘れ去られていた。
第二次大戦のために、彼らの物語は歴史にうずめられてしまったのだ。

涙が浮かんできた。この男たちのためばかりではなく、
彼らのことを考えていたら、祖父たちの思い出がよみがえってきたのだ。
祖父の一人は、あの戦争のさなか、フランスの塹壕で戦った。
その話を、ぼくは子供のころに聞いていた。
そしてもう一人の祖父、ニコルは、英国海軍の一員として同じ戦争に出征、
彼ら勇敢な若い日本人と、同じ敵を相手に戦ったのだ。

あたりを見回すと、イギリス人、イタリア人、フランス人、
ドイツ人水兵の墓があるのに気づいた。
敵も味方もともに、静かで手入れのゆきとどいた、
同じ平和な島の墓地に葬られているのだ。

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1917年5月3日、
ドイツUボートの攻撃で遭難したイギリス輸送船トランシルバニア号救出
翌日の、イギリス陸軍将兵を甲板上に載せる駆逐艦榊。駆逐艦松から撮影。
以後、日本海軍への護衛依頼が殺到した。
のちに両駆逐艦の士官はイギリス国王ジョージ5世から叙勲された。
1917年5月3日、ドイツUボートの攻撃で遭難したイギリス輸送船トランシルバニア号救出翌日の、イギリス陸軍将兵を甲板上に載せる駆逐艦榊。駆逐艦松から撮影。

―――――――

榊遭難から1年後、マルタ共和国カルカラの
英国海軍墓地(現英連邦墓地)に慰霊碑が建立された。
慰霊碑はイギリス海軍墓地の奥の一番良い場所を提供されており、
当時、日本海軍の活躍をいかにイギリス海軍が感謝していたかがうかがえる。

写真は修復直後の日本海軍第二特務艦隊戦没者の墓である。
碑文には「大日本帝国第二特務艦隊戦死者之墓」とある。

慰霊碑は、第二次世界大戦時のドイツ軍によるマルタ包囲作戦で爆撃を受け、
上4分の1が欠けてしまった。長らくその状態で荒れていたが、
1974年日本政府は新しく慰霊碑を作り直して復元し、
海上自衛隊練習艦隊が慰霊祭を行なった。
2002年に再度戦没者名プレートなどの修復が行なわれている。
その後も海上自衛隊が練習艦隊を欧州に派遣した時は
慰霊祭が開催されており、最近では2005年に行なわれている。
マルタ共和国カルカラの英国海軍墓地(現英連邦墓地)にある、修復直後の日本海軍第二特務艦隊戦没者の墓。碑文には「大日本帝国第二特務艦隊戦死者之墓」とある。

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安倍晋三首相、島国マルタ訪問 
日本の現職首相で初 旧日本海軍戦没者墓地も慰霊

産経ニュース 2017.5.28 09:54
http://www.sankei.com/world/news/170528/wor1705280016-n1.html

旧日本海軍戦没者墓地を訪れ、献花する安倍首相=27日、バレッタ近郊


イタリアで開かれていた先進7カ国(G7)首脳会議に出席していた
安倍晋三首相は27日深夜(日本時間28日午前)、
会議閉幕後に地中海の島国マルタを訪問した。
日本の現職首相による同国訪問は初めて。
首相は、首都バレッタにある首相府でムスカット首相と約50分間会談し、
東・南シナ海で海洋進出を強める中国を念頭に、
海洋における法の支配の徹底に向けて連携することを確認した。
ミサイル・核開発を強行する北朝鮮についても意見交換し、
さらなる挑発行為には、厳しい措置を含む新たな国連安全保障理事会決議を
採択することが重要との認識で一致した。
マルタは今年前半のEU(欧州連合)議長国。
ムスカット氏は「日EUの経済連携協定(EPA)の早期合意を目指す」
と述べた。
首脳会談に先立ち、安倍首相は第1次大戦中に死亡した日本人戦没者の慰霊
のため、旧日本海軍戦没者墓地で献花し、黙祷をささげた。
安倍首相は約4時間のマルタ滞在後、政府専用機で帰国の途についた。

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2010/01/15 06:00|年表リンク用資料
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