正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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■尼港事件■1920年(大正9年)1月29日

1920年初頭にはチェコ軍救出というシベリア出兵目的も達成しつつあり、
日本は満洲、朝鮮の防衛以外は守備隊を縮小し、
速やかに撤兵する方針を声明したが、ここにとてつもない惨劇が起こった。

尼港(ロシア語名:ニコライエフスク)は、
樺太の対岸、黒竜江がオホーツク海に注ぐ河口に位置する町である。

1920年初頭、ここに日本人居留民、陸軍守備隊、
海軍通信隊約7百数十名が在住していた。

連合軍が撤退すると、ロシア人、支那人、朝鮮人からなる4千人の
共産パルチザンが同市を包囲襲撃、
守備隊とのあいだに偽装講和を結んで同市を支配した。

共産パルチザンは革命裁判と処刑を開始したが、
ロシア革命三周年記念の日に日本軍と交戦状態に入り、
日本守備隊は大半が戦死、居留民ら140余名が投獄された。

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以下、下記サイトより引用
http://megalodon.jp/2009-0203-0940-12/chie.okigunnji.com/n/nikoujiken.htm

大正7年、共産ソ連の誕生に対し、
各地への共産化防止のため各国軍は共同でシベリアに出兵しました。

黒龍江河口から20キロの地点にある尼港(ニコライエフスク)には当時、
日本居留民が約700名、白系ロシア人が約1万5000名、
その他朝鮮人などが住んでいました。
シベリア出兵以来、日本軍の2個歩兵中隊(第14師団隷下)が駐屯し
現地の居留民保護にあたっており、
付近の共産主義武装組織は一時鳴りを潜めました。

ところが大正9年になって勢いを盛り返した武装組織が尼港市街を包囲、
守備隊は衆寡敵せず、停戦に応じることとなりました。
2月、尼港に入った武装組織員はまず、白系ロシア人を武装解除し、
資本家階級の家族ともども惨殺します(約2400名)。

在尼港の石田副領事はこの暴虐に抗議しましたが武装組織は受け入れず、
逆に日本側に対し武装解除を要求してきたのです。

武装解除後何をされるかは明らかであったことから、
現地の部隊および義勇隊(あわせて110名)は
武装組織の本拠を急襲しましたが、
衆寡敵せず駐留部隊指揮官石川少佐以下多数が戦死しました。

居留民の多くは領事館に退避しましたが、
集まったのはわずか250名で、
逃げ遅れて武装組織の手にかかった人も多かったそうです。
武装組織は子供を見つけると2人で手足を持って石壁に叩きつけて殺し、
女と見れば老若問わず強姦し両足を2頭の馬に結びつけて
股を引き裂いて殺したりと、
それは残虐な方法で命を奪ったということです。

一昼夜戦闘が続き、領事館のなかでの生存者も28名となり、
弾薬も尽きたため、一同はまず子供を殺し、
石田副領事、三宅海軍少佐以下全員が自決しました。
尼港に残る日本人は河本中尉率いる別働隊と
領事館に避難しなかった民間人140名となりましたが、
彼らは武装組織と交渉した上位部隊指揮官からの命で
武装組織に降伏し、監獄に入ることとなりました。

春になって、第7師団(旭川)の多門支隊が同地の救援にようやく
赴きましたが(武装組織侵攻以後は海面凍結のために派遣できなかった)、
そこで見たものは地獄絵図でした。
焼け野原と化した尼港には死臭が漂い、
「いったん撤退するが再び来て日本人を征服し尽くす。覚悟せよ」
との武装組織の声明書が残されていました。
「救援部隊来着近し」の報を受けた武装組織は、
中国人の妻妾となっていた14名以外全員を虐殺したのです。

唯一生き残った彼女らの話では、犠牲者たちは、両目を抉り取る、
5本の指をバラバラに切り落とされて刺殺される、
金歯があるものはあごから顔面を裂かれて抜き取られる、
女は裸にされ凌辱された上で、股を裂かれ、
乳房や陰部を抉り取られるなどの方法で殺されました。

獄舎の壁には血痕、毛のついた皮膚などがこびりついており、
被害者の手によると思われる鉛筆書きで
「大正9年5月24日午後12時を忘れるな」と書かれていました。

以上が尼港事件の概略です。

当時の日本人の「黙って殺されるよりは戦い抜く」という考えから、
無謀ともいえる攻撃を仕掛けたことに対し、非難する声もあります。
自国民の生命財産を保護するためにはどんな屈辱にも耐えろ、
という声です。

しかし、数千人のロシア人が虐殺されるのを目の当たりにし、
内地からの救援部隊が結氷のため来ることができない、
という絶望的状況のもと石田副領事、石川少佐が下した決心について、
私は非難する気になれません。

その後の経過を見ても、
武装組織がはじめから日本人の殺害を目的としていたことは明らかで、
「どうせやられるのなら一矢報いてやる」との気概に基づいた行動は、
血気の勇ではあるでしょうが、私は敬意を払いたいと思います。

さて、軍が派遣できた当時ですらこのような悲劇的事件が起こったことを
思いますと、
「世界中にいる国民をいかに保護するのか?
はたして今の日本政府には外地で危難に陥った自国民を本気で
救出する気構えがあるのか」について危惧を感じざるを得ませんでした。

現在、外地で危難にさらされた邦人がいる場合、
自衛隊は武装した部隊をかの地に送り救出することが、
憲法上できないのです。
どうか国民保護のために自衛隊が有効に活動できるよう
環境を整えてほしいものです。

犠牲になられた先輩方に心より哀悼の意を表します。
5月24日の先輩方の犠牲を絶対に忘れてはいけません。

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■尼港事件■1920年(大正9年)1月29日

下記サイトより引用
http://megalodon.jp/2009-0203-0855-27/www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1911-20/1920_niko_jiken

1920年初頭にはチェコ軍救出というシベリア出兵目的も達成しつつあり、
日本は満洲、朝鮮の防衛以外は守備隊を縮小し、
速やかに撤兵する方針を声明したが、ここにとてつもない惨劇が起こった。

日本軍が行なったと称される「蛮行」はやたらと
大げさに書き立てる日本の歴史学者、歴史教科書、新聞も
この世紀の大虐殺についてはまったく語らず、知らんぷりし、
日本人の記憶と歴史から消してしまおうとしている。
どうしても日本人を悪者にしたいと考えている連中にとっては、
日本人に知られたらひどく困るのだ。

尼港(ロシア語名:ニコライエフスク)は、樺太の対岸、
黒竜江がオホーツク海に注ぐ河口に位置する町である。
1920年初頭、ここに日本人居留民、陸軍守備隊、海軍通信隊約7百数十名が
在住していた。

連合軍が撤退すると、ロシア人、支那人、朝鮮人からなる4千人の
共産パルチザンが同市を包囲襲撃、守備隊とのあいだに
偽装講和を結んで同市を支配した。

共産パルチザンは革命裁判と処刑を開始したが、
ロシア革命三周年記念の日に日本軍と交戦状態に入り、
日本守備隊は大半が戦死、居留民ら140余名が投獄された。

このとき事件を目撃した日本の海軍士官が、苦難の末、
ウラジオストックに脱出し、事件の手記をもたらしたが、
共産パルチザンの蛮行を次のように伝えている。

―――

大正9年4月20日付 「大阪毎日新聞」 海軍士官の手記

彼等過激派の行動は偶然の突発にあらずして、
徹底的画策の下に実行されたものとす。すなわち左のごとし。

第一段行動として、露国資産階級の根本的壊滅に着手し、
所在資本階級者の家屋を包囲し、資産の全部を公然と略奪したる後、
老幼男女問わず家人ことごとくを家屋内に押しこめ、
外部より各出口を厳重に閉塞し、
これに放火し、容赦なく火中に鏖殺し尽くしたり。

第二段の行動として、親日的知識階級に属する官公吏と私人とを問わず、
容赦なく虐殺、奪掠、強姦など不法の極を尽くし、
第三段行動として獰猛なる彼らの毒牙は
着々我が同胞日本人に及びたるなり。

ここにこれが実例を指摘せんとするに当り、
惨虐なる暴戻ほとんど言うに忍びざるものあり、
敢えてこれを書く所以のもの、すなわち犠牲者の尊き亡霊が全世界上、
人道正義のため公言するものなり。深くこれを諒せよ。

公然万衆の面前において暴徒悪漢群がり、
同胞婦人を極端に辱かしめて獣欲を満し、なほ飽く処を知らず指を切り、
腕を放ち、足を絶ち、かくて五体をバラバラに斬りきざむなど
言外の屈辱を与え、残酷なる弄り殺しをなせり。

またはなはだしきに至っては馬匹二頭を並べ、
同胞男女の嫌ひなく両足を彼此の馬鞍に堅く結び付け、
馬に一鞭を与えるや、両馬の逸奔すると同時に悲しむべし、
同胞は見る見る五体八つ裂きとなり、至悲至惨の最後を遂ぐるを見て、
悪魔は手を挙げ声を放ちて冷笑悪罵を浴びせ、
群鬼歓呼してこれに和するに至っては、
野獣にもあるまじき凶悪の蛮行にして言語に絶す。

世界人類の公敵として天下誰か、これを許すものぞ、
いはんや建国以来の民族血族においてをや。
帝国居留民一同悲憤の涙を絞り、深く決する所あり。
死なばもろとも、散らば桜と、一同老幼相携へ相扶け、
やうやう身を以て領事館に避難し、
その後市街における同胞日本人に属する全財産の掠奪はもちろん、
放火、破壊その他暴状至らざるなし。

しかりといへども軍人云わず領事館民と云わず飽くまで
彼等と衝突を避くる事に注意し、切歯扼腕、堪忍自重す。
しかるに彼等過激派はますます増長し、
ついに領事館に向かって砲撃を加え、
我が領事館は砲火のため火災を起こすに至り、
もはや堪忍袋の緒も切れ万事休す。

これまでなりと自覚するや、居留民男女を問わず一斉に蹶起して、
自衛上敵対行動をとるに決し、男子と云う男子は総員武器を把って
護衛軍隊と協心戮力、頑強に防戦し、また婦人も危険を厭わず、
敵の毒手に斃れんよりは潔く軍人の死出の途づれ申さんと、
一同双手をあげて決死賛同し、にはかに活動を開始す。

しかし、全員いかに努力奮戦するも衆寡敵すべくもあらず、
刻一刻味方の減少するのみ、ついには繊弱なる同胞婦人に至るまで、
戦死せる犠牲者の小銃、短銃を手にし、弾はかく込めるものぞ、
銃はいかに射つものなるぞと教わりつつも戦線に加わり、
無念骨髄に徹する敵に対し勇敢なる最後の抵抗を試み、
ことごとく壮烈なる戦死を遂ぐ。

かくてもはや人尽き、弾丸尽き、力尽き、
人力のいかにすべきやうもなくなお生存の健気なる婦人または身働きの
出来る戦傷者は、なんすれぞ敵の侮辱を受けるものかと、
共に共に猛火の裡に身を躍らし、壮烈なる最期を遂げたり

―――

日本は雪解けを待って救援軍を派遣したが、
共産パルチザンは日本軍が到着する前に、日本人をことごとく惨殺、
さらに尼港市民1万2000人中、共産主義に同調しない約6000人を虐殺、
市外に火を放って町を逃げた。
こうして、居留民384名(内女子184名)、軍人351名、計7百数十名の
日本人が共産パルチザンによって陵辱暴行されたうえ、虐殺されたのだ。
事件から2週間後、日本の従軍記者が現場を視察し、
以下の視察記が掲載された。

―――

大正9年6月13日付 「時事新報」

南北一里半東西二里半の尼港全市はペチカの煙突のみ焼け残り、
一望荒廃、煉瓦造りの家屋は爆破され崩れ、
木造家屋は跡方もなく焼失せり。

電柱は往来に焼け落ちて、電線は鉄条網のごとく彼等の足に絡み、
焼け跡には婦人の服、靴、鍋、子供の寝台など散乱せり。
監獄は市の北部にあり。余等は直ちに焼け残れる一棟に入る。
まず異臭鼻を突くに、一同思わず顔を背けざるを得ざりき。

中は八室に別れ、腐敗せる握り飯の散乱せる壁に生々しき血液の
飛び散れる、女の赤き扱帯の釘に懸かれるなど、見るからに凄惨を極む。
最も落書の多かりしは二号室にて、
「大正九年五月二十四日午後十二時を忘れるな」と記し、
傍らに十二時を指せる時計の図を描きあり。

また「曙や物思う身にほととぎす」
「読む人のありてうれしき花の朝」等数句の俳句を記し、
また「昨日は人と思えども、今日は我が身にかかる」「武士道」等の文字、
白ペンキ塗りの壁に鉛筆を以て書かれあり。

特に悲惨なるは、赤鉛筆にて五月十九日より六月二十三日までの暦日を
数字にて表を作り、最初より二十四までは線を引きて消されあるもの、
二十五日以下は消されず。

これ二十四日夜、百四十名は監獄より曳き出されて、
黒滝河畔に連れ行かれ、ことごとく刺し殺して河に投じられたるなり。
記者一行は同胞の呻吟せしこの獄内に暫く低徊の後、
出でて黒竜江河畔に赴く。

造船工場の前におよそ二百坪の空地は一面に血潮に染められ、色既に黒し。
これ皆我が同胞の血!
縛めの縄にべっとり付着せる、また鮮血を拭いたる縮みのシャツ等、
陸に引き揚げられ、舷におびただしき血潮の飛び散れるなど、
眼も当てられぬ惨状なり。

同胞が恨みを呑んで毒刃に殪れしこの汀!
余等は一歩一歩同胞の血潮を踏まざれば進むを得ざるほどなり。
余等はそれにより津野司令官を訪う。

津野少将は涙を浮かべ
「我が同胞は一名も残らずことごとく死にました。同情に堪えません。
ただその中一人として卑劣な行いもなく、
最後まで屑かったということだけは嬉しいです」と。

―――

「明治大正国民史」 白柳秀湖著

七百の同胞は老幼男女を問わず、悪獣の如き共産パルチザンの手にかかり、
永く黒竜江上の煩鬼と化した。
この時、彼等が無辜のわが居留民に対して加えた陵侮残虐の甚だしき、
世界に人道の存する限り、
如何なる歴史家も到底これを筆に上すに忍びないであらう。

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尼港事件
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昭和2(1927)年3月24日の南京事件
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2010/01/14 06:00|年表リンク用資料
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