正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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1927年(昭和2年)3月24日の南京事件

中国の国民革命軍第6軍と第2軍が
南京を占領したときに日本人が被害を受けた南京事件。
南京に入った北伐軍が日本領事館を襲撃し、日本人居留民に対して
略奪、暴行、女性への乱暴、殺害など悪辣の限りを尽くした。
英・米領事館なども同様の被害を受け、
英米軍艦は揚子江から砲撃をするなどの軍事行動をおこなった。

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朝日新聞夕刊1927年3月27日付
1927年3月27日付朝日新聞夕刊

1927年(昭和2年)、蒋介石は、
他の軍閥を倒して中国を統一する為、北伐を開始しました。
この北伐は中国の国内問題ですから、
日本としては干渉する気はありません。

ただ一つ問題があります。それは中国軍の常として、
軍が都市を通過する際、
略奪・殺戮・放火・女性への暴行など乱暴・狼藉を働らく事です。
従って警戒しなければなりません。

ところが南京の森岡領事は、今の平和主義者と全く同じ考えで
★「こちらが友愛で接すれば、相手も友愛で返してくれる」
と信じている人でした。
だから《過度に防備を備えて相手を刺激してはいけない》
と考えていたのです。

その結果どうなったか、
そこの所を児島襄著『日中戦争』で見てみましょう。

森岡領事は、国民革命軍が入城した以上
「十中八九危険は去った」と判断し、
荒木大尉に"武装"の撤去を求めた。

午前七時ごろ、約三十人の国民革命軍兵士が訪れ、
敗兵の所在を訊ねたが、不在と聞くと黙って去った。

日本人一同が安心していると、
約三十分後、五十人程の兵士が「疾風の如く」領事館に乱入して、
警察署長木村三畩の所持品を奪い左腕に貫通銃創を負わせた。
同時に居合わせた陸軍武官根元博少佐も腰を銃床でなぐられ、
署長と少佐は領事の病室に避難した。

二人が逃げると呼笛が鳴らされ、
すかさず平服の女性と青年を先頭にした兵士達約二百人が
喚声をあげて領事館内になだれ込んだ。
掠奪品運搬の為、トラック、馬車、人力車までが続行した。

暴兵と暴民は荒れ狂った。
館内の隅々まで先を争って走り込み、
トランクを開け戸棚を壊して物品を掠奪した。

男女の別なく衣服を奪われ財布・時計・指環は例外なく奪取されたほか、
次々に衣服をぬがされて身体検査をされた。

女性の場合は下着までぬがされて「忍ブベカラザル」検査さえされた。
森岡領事は荒木大尉を自室に呼び
「気の毒ながら各兵の階級章及び帽子の如き標識を一時取り去られたし」
と言った。
荒木大尉は血相を変えた。
国民を外敵から守るのが軍人の本務、
それを戦うなと言うだけでなく軍装まで解けと言う。
「度を過ごしたる無抵抗主義」は、
却って相手の増長心を刺激し暴行を激化させる。
そう思ったが「在留民の生命が風前の灯だから」と
病床に深々と頭を垂れる領事を見て承知した。

森岡領事の病室にも暴兵が乱入し、
室内の品を奪ったあと領事の布団・寝間着も剥いで行った。
一人の暴兵が領事めがけて威嚇射撃を行い、
居合わせた邦人数人が逃げ領事の他、
夫人・木村三畩署長・根元博少佐の三人が残った。
「外に出よう」 領事がベランダに出たとたん
一人の暴兵が走り込んで来て、
木村署長は左胸を銃剣で刺されて階下に逃げ、
根元少佐は後続した二人の暴兵に左腹部・左臀部を刺され、
ベランダ下の貯水槽に転落した。

暴兵達はひとわたり荒し回ると事務所の大金庫に集中した。
こじ開けようとしたが開かないので
館員のだれかれとなく鍵を出せと迫った。
領事夫妻はベランダにいたが、裏庭に避難した邦人達が
「暴兵達が車庫からガソリンを持ち出して放火しようとしている」
と告げたので、
階下に降り金庫の鍵を煙突の破口に投げ込んで、一同と合流した。
暴兵は尚も、一同に迫り交互に銃剣を突きつけて鍵を要求していたが、
午前十時半ごろ、一人の中国人将校が現れて、暴行を制止し終わった。
とあります。本文は長いので抜粋しました。

尚、この様な掠奪・暴行は市内の全ての外国人のいる所で行われた様です。
そして、4月末に領事館を訪ねた佐々木少佐は
「…金物という金物はドアのハンドルにいたるまで取り外し、
窓枠の木材、ガラス、床板すべてが持ち去られ…」と記録しています。

また、女性に対する「身体検査」というのも本当は
「女性への乱暴(→NGワード指定により表現を変えました)」
の事実を隠す"外交辞令"で、
実際には27人に輪姦された婦人もいるとの事です。
この事件で屈辱的な「無抵抗」を強いられた荒木大尉は自決しました。

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『もうひとつの南京事件』 (日本人遭難者の記録)田中秀雄著

この本は、昭和2年8月に刊行された
『南京漢口事件真相 揚子江流域邦人遭難実記』
の内容をそのまま翻刻したものである。

読んでいただければお分かりのように、
『南京漢口事件真相』は昭和2年の3月から4月にかけて、
中国の南京、漢口を中心とした揚子江流域各地で起きた、
中国軍兵及び中国民間人による日本人襲撃事件の実相を
証言や公文書を用いて臨場感鮮やかに再現したものである。
普通これを「南京事件」と呼んでいる。
・・・略・・・
3月23日には城内は一層の混乱に陥り、総司令以下支那官憲の全部は逃亡し、
城の内外にあった軍隊も、午後から夜にかけて下関浦口方面に潰走し、
銃砲のとどろき、兵馬の波は満街を埋め、
難を避けて逃げまどう市民の叫喚も混じりて、凄愴の気は全城を包んだ。

南京在留の邦人側においては、連合軍敗北の際における掠奪暴行を予想し、
22日城内にある邦人婦女子だけを領事館に避難せしめたが、
混乱いよいよ甚だしきに及び、市中に散在していた人々も続々避難し来り、
23日午後8時頃までには、
下関方面の在住者と市内の23名を除く外全部の引揚げを了し、
領事官舎15名、本館38名、警察官舎20名、書記生室19名、
署長官舎10名という振当てでそれぞれ収容した。
・・・略・・・
邦人一同は、24日の黎明を迎えて救われたような思いに充たされた。
不思議にも連合軍の退却は思いの外に平穏に過ぎた。
・・・略・・・
無心の子供は嬉々として床を出でた。
婦女子たちはかいがいしく朝餉の支度に取掛かった。

やがて6時過ぎとも思ぼしき頃、はるか遠くに嚠喨たるラッパの声が聞え、
間もなく晴天白日旗を先頭にした一隊が、
領事館前の鼓楼近くを前進するのが見えた。
・・・略・・・
館内の一同は、かねがね革命軍の規律正しいことを聞かされていたので、
むしろ歓迎の目を以って領事館のベランダから眺めていたが、
門口の土嚢の取除かれると前後して、
いつの間に入り込んだか23名の支那人がうろうろしていて、
何かの合図でもしているようすですこぶる気味悪く感じられたが、
或いはこれが言う所の革命軍特有の便衣隊なるものであったかもしれない。
・・・略・・・
それから半時間も経たと思う頃、
約一個中隊の歩兵が将校指揮の下に正門から闖入し来り、
折柄歩哨に立っていた西原丹等兵曹に向かってイキナリ銃剣を突きつけ、
外套越しに突きまくった上、散々に打ちのめした。

急を聞いて駆けつけた数名の水兵もたちどころに包囲せられ、
これまた銃剣を突きつけて時計や財布など残らずもぎ取られてしまった。
・・・略・・・
その時露台に身をかわした根本少佐は横腹に一撃を見舞われ
飛び降りようと身構えた所を無残にも銃剣を以って
臀部を突き刺され露台から突き落とされた。
鮮血に染まって下の貯水タンクの上に落ちた少佐は人事不省に陥った。

その時室内にいた人たちには、領事夫妻、根元少佐、木村署長の外に、
板阪民会長、山本訓導、綾野茂氏らがあったが、続けざまに十数発を乱射し、
一同を威嚇した暴兵らは、
「金を出せ」「金庫をあけろ」「出さねば皆殺すぞ」
と口々に罵りつつ各人を捉えて所持品を奪い取り、
衣服を剥がし、はては領事夫人にまで及んだ。
・・・略・・・

こうして各室を暴れ回った暴兵は、あとからあとからと新手が押し寄せ、
来る者ごとに何物かを奪い何物かを毀していく。
瞬く間に各館は階上階下とも、それこそ遺憾なく破壊され、
その上に暴兵の後から紛れ込んだ付近の住民、
老人といわず子供といわず、女房といわず娘といわず、
苦力、破戸漢、乞食に至るまで、てんでに物を持ち去る。

電球、電線、その他の装飾器具はもとより、
炊事道具から風呂桶まで担ぎ出し、
いよいよ取るものがなくなるとストーブの壁を剥がし、
はては痰壷から便器まで持ち出した。
・・・略・・・
取るものを取り尽くし毀すものを毀し尽くした後に
来るべき場面は言わずとも明らかだ。
銃剣に追い詰められ、所持品をかきさらわれた同胞を捉えては上着を脱がす。

その後に来た暴兵はこれまた銃剣を突きつけてズボンを脱がす、
その後のは帽子をさらって行く、靴を奪って行く、
しまいにはシャツ、ズボン下、猿股までも脱がして持って行く。

さらに婦女子に加えた暴虐に至っては、
まったく正視するに忍びなかったという。
髪を解かせ帯を解かせ、肌着を脱がせ足袋を脱がせ、
・・・略・・・
終わりに臨んで特記すべきは、当日の革命軍士卒の掠奪暴行が、
決して偶然的にまたは発作的に行われたものでなく、
事前に十分に計画され準備されたことである。

これには推定すべき多くの事実がある。
前にもあるように、事変当日日本領事館の入口付近には
朝早くから胡散臭い平服支那人が、3、4人うろうろしていた。
そして内と外かけて何かの合図でもしているようであった。
・・・略・・・
殊に当日の暴兵は20元の懸賞付で募集された決死隊様の者で、
その上に掠奪破壊すべき家々は
とっくに共産党南京支部の手によって調べ上げられていたと称せられている。

南京各所に散在せる日本人の家屋が、ほとんど一軒残らず、
しかも極めて短時間の間に襲撃されたのを見ても、
暴兵の背後に共産党一味があったことは主肯し得らるる。

事実当日暴行の現場には幾多の平服支那人が混じっていた。
領事館の正門から一番に雪崩込んだのはもちろん革命軍の暴兵であったが、
中には平常服に毛皮の帽子をかぶった男が
呼子笛を吹き鳴らしつつ指揮しているものもあった。

殊に掠奪品が後から後からと持ち出されると、
門前には自動車、馬車、驢馬などが
待ち受けていて山積みしては何処かへ運んで行く。
その指揮者の中には27、8くらいの斬髪婦人もまじっていた。

さらに欧米人に対して行われた暴虐もまったく同様の手段であった。
英米領事館を始め、欧米人の住宅、店舗が
遺憾なきまでに荒らされたのはもとより、
各学校にある欧米人までが一々物色して危害を加えられた。

中にも金陵大学副校長イー・ゼー・ウイリアム博士と、
震旦大学の仏人教師二名は暴兵のため惨殺され、
その中の一人は頭髪から髯、陰毛までも焼かれた上、
大腿部を切断され街頭に遺棄されていた。

この他に重傷を受けまたは衣服を
剥がされたものは数うるにいとまないほどである。
殊に婦人にして凌辱を受けたもの少なからずと言うが、
これらの事実に徴しても、いかに計画的に行われたかが分かると思う。

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『 シナ大陸の真相―1931-1938 』 カール カワカミ著

この著書が『シナにおける日本』(Japan in China)という原タイトルで、
ロンドンの書店から英文で出版されたのは1938年3月のことである。
とき、あたかもヨーロッパ大戦の始まる前年であり、
さらにまた日本が世界中から非難を浴びた支那事変の泥沼に
足を踏み入れてから一年目にあたり、まさに世界が迫り来る嵐の予感に
脅えながら、不安と緊張の暗雲に包まれ始めていた時期であった。

このような時期において著者のK・カール・カワカミ氏は、
世界大戦の破局を回避すべく、日本の置かれた立場を世界に訴えるために、
この本を書いたものと思われる。

日本が支那においてとっている行動は決して
侵略と破壊を目的としたものではなく、
東亜の秩序を確立し混乱を収束するためのものなのだ。
日本は国際法にしたがって忠実に行動しているだけであり、
欧米列強と事をかまえる意図など少しも無い…。
支那事変前夜の大陸の政治的実情と国際社会の視線を冷静に公平に
且つ鋭く見据えていた著者の観察は、日本の正義を主張してやまない。

P109-110

幣原男爵は中国に現存する如何なる政府とであれ、
治外法権を徐々に撤廃することを目的とした交渉を
行うことを望んでいたのである。

原則的に彼は治外法権の撤廃に賛成であるけれども、
満州の鉄道沿線地帯においては日本の司法権は
少なくとも今後数年間は維持せねばならぬ、
という風に一般的には解されていた。これは大いなる譲歩であった。

しかしながらこの融和的な日本の政策にもかかわらず中国は、
日本との通商条約を一方的に破棄すると日本に通告してきたのである。
中国は日本と妥協しようとする望みはかけらも見せなかった。

1925~27年にかけて、暴力的な反外国(特に反英)暴動が
揚子江南部のいくつかの省に広まった。
これはついに1927年3月24日のあの恐ろしい南京暴動に発展し、
この暴動で全ての外国領事館と多くの外国企業、住宅、
キリスト教の施設などが略奪された。

殺害された外国人の中には米人の南京大学副学長、
二人の英人、仏人と伊人の司祭一人づつが含まれていた。
多くの外国人の女性たちが筆舌に尽くしがたいほどの暴行を受けた。

この全期間を通じて日本は融和的な態度をとり続けた。
中国人の民族主義者の大群衆の前で
逃げ惑っている外国人を保護するために、
南京に停泊していた英米の戦艦が市街の幾つかの区域に砲身を向けたとき、
日本の駆逐艦の砲身は沈黙したままだった。

日本領事館が他国の領事館と同様に略奪され、
女性も含めた領事館職員が
筆舌に尽くし難いほどの虐待を受けたにもかかわらずである。

南京事件の後で暴行を免れた日本人の一人は、
当時南京に停泊していた我が日本の駆逐艦が彼らを「見捨てた」時、
避難民たちがどんな心地であったかを語ってくれた。
かれは次のように言っている。

「我々は日本の汽船会社に所属する廃船に逃げ込んだ。
二隻の日本の駆逐艦が我々からそれほど遠くない所に錨をおろしていた。
それを見て我々は大丈夫だと思った。
中国兵が廃船をよじ登ってきた我々から略奪を始めた時、
我々は日本の駆逐艦に大声を上げて助けを求めた。

だが何の反応も無かった。
そうしている間に英米の戦艦の砲身が火を噴き、
南京の城壁に囲まれた市街を砲撃し始めた。

それで我々も、日本の駆逐艦がせめて
我々を助けにくらいは来てくれるだろうと思った。
ところが見ろ!日本の船は突然錨をあげて
上流のほうへ去ってしまったではないか。」

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おもな南京事件は下記3つあります。
◆1913年(大正2年)8月の南京事件
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-604.html
◆1927年(昭和2年)3月24日の南京事件
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-107.html
◆1937年12月~の「いわゆる南京大虐殺(南京事件)」
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-518.html

尼港事件
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-105.html
漢口事件
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-108.html
済南事件
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-109.html
通州事件
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-121.html
アメリカ軍やオーストラリア軍の蛮行
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-162.html
終戦~日本人 引き揚げの悲劇
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-154.html
終戦~日本人 引き揚げの悲劇_2
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-155.html
敗戦後の惨状
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-575.html
東京大空襲 ~ その投下方法
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-153.html
2010/01/12 06:00|年表リンク用資料
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