正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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1928年(昭和3年)5月3日、済南事件。

北伐軍(蒋介石軍)が山東省済南市に入城し、
日本人居留民に乱暴狼藉を働いた事件。
邦人経営商店での略奪行為をきっかけに日本軍と衝突。
日本の被害は、戦死9名、負傷32名、居留民の惨殺14名、
暴行侮辱30名余、奪被害戸数136戸、被害人員約400名。

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■済南事件■1928年(昭和3)5月3日

下記サイトより引用
http://megalodon.jp/2009-0203-0956-35/d.hatena.ne.jp/nay/20050702

昭和3年(1928年)の4月、蒋介石は中国統一を実現させるため、
国民革命軍(南軍)総司令として第二次北伐の軍を進めた。
全軍総司令官は蒋介石、参謀総長は何応欽将軍で100万の大軍が
4個の集団軍として編成されていた。

これに対して張作霖大元帥の北軍も7つの方面軍、
兵力100万を有していた。
4月7日北伐宣言を発した南軍は4月中旬に
早くも済南を包囲する態勢に入った。

済南は山東省の商業都市で人口38万を有し、諸外国人が多くここに住み、
日本人も1810人が居留民としてここに住んでいた。

しかし南軍が北上するにつれ、済南が危機に陥った。
南京事件(1927年に日米英仏の公館が国民革命軍に襲撃され略奪、
婦女暴行、殺戮が行われた事件)のような事件が
また発生するかもしれなかったためだ。

現地からの保護要請を受けた田中首相は居留民保護のため
やむを得ないと決断し、4月下旬に済南に軍を出した(第二次山東出兵)。

日本軍は現地に到着すると済南城に隣接する商業地
(居留民の大部分がここにいた)に、
東西2か所の守備地区を設置して居留民を収容保護した。
しかし北軍が退却した後の5月1日、南軍が入市してくると
恐れていた事態が起こってしまった。

南軍が入市してくると共に日本国旗の侮辱や反日ビラのばら撒きなどで、
もめ事が続発。済南市内は一気に緊迫するようになった。
2日、南軍総司令・蒋介石から治安は自分達が絶対に確保するので
日本軍の警備を撤去してくれとの要請があり、
その言葉を信じて日本軍は警備体制を全て解除した。

「済南事件」はまさに日本軍が警備を撤去した直後の
5月3日の朝に発生した。
その発端は南軍の兵が「満州日報」販売店を襲撃したことだった。
南軍兵は駆けつけた日本人巡査にも暴行を加えたため、
日本軍救援部隊が現場に急行すると、
南軍兵は兵舎に隠れて中から銃撃を加えてきた。

このため本格的に交戦状態に突入し、
中国兵による乱射略奪は一気に市内中に拡大した。
間もなく両軍間に停戦の申し合わせができたが、中国側はこれを無視し、
白旗を掲げて停戦を呼びかける日本軍の軍使まで射殺する暴挙に出た。
済南市内は凶暴な中国兵のため地獄と化した。
「南軍鬼畜と暴れ狂ふ」「日本人は狂暴なる南軍のため
盛んに虐殺されつつあり」(朝日新聞)

この事件の結果、日本軍は死者9人、負傷者32人、
そして日本人居留民14人が残虐の限りを以って殺される惨事となった…

済南事件で中国兵が日本人居留民に加えた残虐行為は、
まさに「中国式」で想像を絶する残虐さだった。
事件直後に惨殺死体を発見した南京駐在武官・佐々木到一中佐は
その手記に次のように記した。

「予は病院において偶然その死体の験案を実見したのであるが、
酸鼻の極だった。手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加へ、
あるいは滅多切りとなし、婦女は全て陰部に棒が挿入されてある。
ある者は焼かれて半ば骸骨となっていた。
焼け残りの白足袋で日本婦人たることがわかったような始末である。
わが軍の激昂はその極に達した」(「ある軍人の自伝」より)

この話は嘘でも誇張でもない。
済南の日本人惨殺状況に関する次の外務省公電がこれを立証している。

「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木を挿込みたるもの、
顔面上部を切落したるもの、
右耳を切落され左頬より右後頭部に貫通突傷あり、
全身腐乱し居れる者一、陰茎を切落したるもの二、」とある。
日清戦争の時も捕虜となった日本軍兵士達は両手両足を切断していく拷問
(中国ではこれを凌遅処斬とかいうらしい)をうけていたが
上の記録からも中国人の殺人の手口の凄まじいほどの残忍さが分かる。

中国兵による略奪陵辱暴行殺人事件。
略奪被害戸数136、被害人員約400とある。
中国側も立ち会った、済南医院での日本人被害者の検死結果。

藤井小次郎
頭および顔の皮をはがれ、眼球摘出。内臓露出。陰茎切除。

斎藤辰雄
顔面に刺創。地上を引きずられたらしく全身に擦創。

東条弥太郎
両手を縛られて地上を引きずられた形跡。
頭骨破砕。小脳露出。眼球突出。

東条キン(女性24歳)
全顔面及び腹部にかけ、皮膚及び軟部の全剥離。
陰部に約2糎平方の木片深さ27糎突刺あり。
両腕を帯で後手に縛られて顔面、胸部、乳房に刺創。助骨折損。

鍋田銀次郎
左脇腹から右脇に貫通銃創。

井上国太郎
顔面破砕。両眼を摘出して石をつめる。

宮本直八
胸部貫通銃創、肩に刺創数カ所。頭部に鈍刀による 切創。陰茎切除。

多比良貞一
頭部にトビ口様のものを打ち込まれたらしい突創。
腹部を切り裂かれて小腸露出。

中里重太郎
顔面壊滅。頭骨粉砕。身体に無数の刺創。右肺貫通銃創。

高熊うめ
助骨折損、右眼球突出。全身火傷。左脚の膝から下が脱落。
右脚の白足袋で婦人と判明した。

他の二体は顔面を切り刻まれたうえに肢体を寸断され、
人定は不可能であった。

南軍に凌辱虐殺された日本人居留民の死体が日本軍に発見されて、
5月5日、済南事件の真相が明らかにされた。
そして居留民に残虐を加えた事実が判明すると、日本国民に大衝撃を与え、
中国へ制裁を加えるよう求める国内世論で沸騰した。


日本軍は7日午後4時、12時間以内に、

一、残虐行為に関与した高級武官の処刑。

二、日本軍の面前で我軍に抗争した軍隊の武装解除。

三、一切の排日的宣伝活動の厳禁。

などの事件解決の条件を出して”善処”するよう求めたが、
南軍に拒否されてたので、日本軍は南軍の立てこもる済南城を砲撃して
(ただし無用な流血は避けるため目標は城壁と司令部に限定)
南軍を遁走させて、11日特に抵抗なく済南城を占領した。

以上が「済南事件」の概要だが、
中国ではこの事件は「北伐を妨害するための日本の策略」だとしている。
なぜ?日本軍はわずか3500人の守備隊で10万をはるかに超える
南軍の北伐を妨害するつもりだったというのか?
日本軍の出動目的が「北伐の妨害」だったというのが「事実」なら
最初から南軍の入市を阻止しようとしたはずだ。

もっとも、海外の論調は、いずれも日本の出動は当然の自衛措置であり、
事件は中国の挑発によるものとして日本を支持している。

仏紙ル・タンは「日本の行動は居留民保護に過ぎず、
何ら政治干渉の意味はない。
日本の自衛行動に憤慨するのは理由のないことだ」とし、
北支の代表的外字紙である京津タイムスは
「日本軍がいなければ済南の外国人はことごとく殺戮されたに違いなく、
この点大いに日本軍に感謝すべきだ。
日本軍は山東省を保障占領して惨劇の再演を防止すべし」とまで論じた。

英紙デイリー・テレグラフは
「中国人は略奪と殺人を天与の権利であるかの如く暴行を繰り返している」
と非難し、「日本人の忍耐にも限度がある」と述べ、
日本軍の行動を「正当防衛」と論じた。

昭和12年の”南京虐殺”の犠牲者数が何人なのか議論を呼んできたが、
仮にそれが一部事実だったとしても、
それより以前の南京事件や済南事件、通州事件などが
全日本人の脳裏と胸の奥に、
深い怨恨と怒りの記憶を刻みつけていたことも忘れてはならない。


参考文献

黄文雄「日中戦争知られざる真実」
小林よしのり「戦争論2」
K・カール・カワカミ「シナ大陸の真相」

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■済南事件■1928年(昭和3)5月3日

下記サイトより引用
http://megalodon.jp/2009-0203-0954-48/www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1921-30/1928_sainan_jiken.html

山東省の済南城には、北軍が撤兵すると蒋介石の国民革命軍(北伐軍)が
入城してきた。
北伐軍には南京事件という悪行の前例があるため、
日本は済南に軍隊を送り(第二次山東出兵)、
守備地区を設けて居留民保護の体勢をとった。
しかし、案の定、南軍が入ると同時に、
日本国旗侮辱や反日ビラ貼付などを行い、市内は緊迫の様相を呈した。

これに対し、南軍総司令である蒋介石より日本軍に対して
「治安は北伐軍が責任を持って確保するから済南城内の日本軍の
防御を撤去してほしい」との要請があった。
日本軍はその言葉を信じて徹夜で防御を撤去した。
すると5月3日、突然北伐軍が居留民を襲撃してきた。
各所で多数の男女日本人居留民が北伐軍の暴兵の手で虐殺されていった。
略奪などを含めると被害者は400人にのぼった。

虐殺の仕方は中国伝統の言語に絶する残虐なものであった。
たとえば、手足を縛り、手斧のようなもので頭部や面部に
斬撃を加えられたり、滅多切りされたりした。
婦女はすべて陰部に棒が挿入されていた。
また、焼かれて白骨化し、焼け残った白足袋で日本婦人たるものが
わかったというものもあった。
白人にこんなことをしたら中国人は復讐として
もっとひどい大虐殺を食らっていたであろう。

当然のことながら、日本国民の怒りは爆発した。
それでも、日本の山東省派遣軍は12時間の期限付きで責任者の処刑、
北伐軍の撤兵等の要求を北伐軍に行なった。
しかし、その要求を中国側が拒否したので攻撃を開始した。
ただし、安全地帯と避難路を指定しておいたため、
北伐軍は城外へ逃げることができた。最終的に日本軍は済南城を占拠した。

この虐殺に蒋介石は絶望した。
蒋介石の軍はごく少数の士官以外は全部そのあたりにいる者を
かき集めて成り立っていた。
そのため兵隊を十分に掌握できておらず、
さらに悪いことに共産主義者が多数紛れ込んでいた。

この事件後、中国側は「外交官虐殺事件」なるものを作り上げた。
済南で便衣隊から拳銃射撃を受けたために、
日本側が全員射殺する出来事があったが、
そこにたまたま国民党の外交官がいた。
ただそれだけの話だが、
これを中国側は「日本が外交官を虐殺した」と宣伝しまくり、
排日感情を煽る材料にした。

中華人民共和国(中国共産党)は例によって例のごとくこの事件を歪曲し、
反日運動に利用している。
中国共産党の公式見解では「済南事件は北伐妨害のために日本人が起こした」
となっており、5月3日を「国恥記念日」としている。
とにかく中国は嘘をついてでも自分が有利になるように宣伝するのである。

あきれたことに日本の広辞苑(岩波出版)は
日本軍が市民を殺傷したかのごとく記述をしている。

日本は済南事件に関して国際連盟に覚書を出し、
中国兵が便衣隊を加えていたと指摘した。

このあたりから、日本人の中にあった
「このままいけば、北伐は北京では終わらない。
日本の生命線―満州の権益にもおよんでくる」
という危機感が高まってくる。
しかし、この時点では、もう遅すぎた。
やっと気づいたときには、もう遅かった。
日本はパニックを起こして翌月の6月4日、
関東軍によって張作霖爆殺事件が引き起こされる。

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大東亜戦争への道(中村 粲/著)より。

酸鼻!日本居留民虐殺さる

済南事件に於て、支那兵が我が居留民に加へた暴虐凌辱は
言語に絶する悪鬼の所行であった。
事件直後に惨死体を実見した南京駐在武官・佐々木到一中佐は
其の手記に次の如く記した。

「予は病院において偶然其の死体の験案を実見したのであるが、
酸鼻の極だった。
手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加へ、
或いは滅多切りとなし、婦女は全て陰部に棒が挿入されてある。
或る者は焼かれて半ば骸骨となってゐた。
焼残りの白足袋で日本婦人たる事がわかったやうな始末である。
我が軍の激昂は其の極に達した」(『ある軍人の自伝』)

上の佐々木中佐手記は嘘でも誇張でもない。
済南の日本人惨殺状況に関する下の外務省公電が此れを立証してゐる。

「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木を挿込みたるもの、
顔面上部を切落したるもの、右耳を切落された左頬より右後頭部に
貫通突傷あり、全身腐乱し居れるもの各一、陰茎を切落したるもの2」
(5月9日田中外相宛西田領事報告)

中国側の蛮行の模様に記録したものがある。
其れは我軍及び警察と中国側の立会ひの下に
済南医院が行った検視の結果である(小川雄三『済南事件を中心として』)。
其の極一部を抜粋して、支那軍の殺人の手口の残忍非道ぶりを推察する一助ならしめよう。

西条八太郎(28歳)
・……両手を縛り顔面を地上に引きずりし形跡あり。
・腰の中心より下部中央に向け貫通銃創あり。
腹部射出口より約2尺ばかり小腸露出す。

西条キン(24歳)
・全顔面及び腰部にかけ、皮膚及び軟部の全剥離。
・○○に約2糎平方の木片深さ27糎突刺しあり。

大里重次郎(28歳)
・……死因は顔面の挫傷と脳底の骨折なり。
此の状態より察するに棍棒やうの器具にて殴打されたる結果ならん。
・顔面挫傷と背部の刺傷は、周囲に出血夥しきに察するに、
死者生存中に行はれたるものの如し。

多平真市(34歳)
・右前頭部に骨折伴ふ挫創あり。
玄能(大型金槌)様の器物を以て打撃せるものの如く、
頭蓋骨も美事に骨折を伴ふ。
・唇下部より臍に至る延長約2尺の切傷より小腸を露出す……。

井上邦太郎(30歳)
・前頭骨・両眼・左上顎骨及び鼻を欠損す。
・両眼球全く無し
・顔面は鳶口様のものにて打たれたるものの如し。
死因は顔面の惨酷なる挫創なり。

 藤井大次郎(40歳)
・広汎なる腹部の切創にて腹腔の内臓全部露出す。
・○○は根部より切断せらる。
・右眼球は見事に摘出せらる。

 宮本猶八(55歳)
・○○は鋭利なる刃物にて根部より切断せらる。

 高隈むめ(50歳)
・○○には深さ7寸の刺創あり(以下省略)

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参考サイト

済南事件の真実
http://s02.megalodon.jp/2009-0203-0955-37/ww1.m78.com/sinojapanesewar/chinan%20question.html
恥ずかしい国!有名な「捏造写真」を「大発見!」と言って自慢する国!
http://s04.megalodon.jp/2009-0428-1555-10/photo.jijisama.org/731.html
済南事件
http://s03.megalodon.jp/2009-0203-0957-20/rokujigen.iza.ne.jp/blog/entry/775468/
◎済南事件◎
http://s04.megalodon.jp/2009-0203-0958-17/sinobu10.hp.infoseek.co.jp/sainannjikenn1.html

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■済南事件

1928年、蒋介石が第二次北伐を開始すると、
日本は南京の二の舞は御免と、
居留民保護の為、出兵(山東出兵)を決めた。

中国から「統一を妨害するのか」と言われ、
一時ちゅうちょしたが、やはり出す事にした。

-以下、児島襄著『日中戦争』より抜粋引用-

済南で斉藤少将は、どうやって居留民を守るのか、熟慮した。
-「濁流はすべからく道を造りて流すべし」-
日本人居留民が住む商阜地は租借地ではない。
従ってなるべく衝突をさけ武力行使以外の方法で始末すべきである。
それには通行路を与えれば良い。

5月1日、午前6時ごろ国民革命軍入城、
第9軍・第40軍・第1軍・第41軍と続々入城して来た。

この頃、街の雰囲気は一変して来た。
商阜地東部監獄から囚人が解放され、入城した部隊の内、
特に第40軍所属の少年兵が市内を走り回り、宣伝ビラを民家の壁に貼った。
「排斥日本帝国主義」「反対日本出兵」など、いずれも反日ビラであり、
中には張作霖と日本女性が「乱舞」している図柄もあった。

少年兵は、わざと日本軍歩哨に近づき白眼を向いて敵意を示しながら、
その前面の街路樹にビラを貼った。

国民革命軍第1軍第22師第64団が入城する際、
兵士の一人が日本人民家に掲揚中の日章旗を奪い破棄した。

その後も革命軍の入城は続き済南には約十万の将兵が充満した。
日本軍はたったの五千人で国民革命軍の人海の中に点在する形となった。

蒋介石は入城後、佐々木中佐を通じて、
日本軍の撤兵、警備区域の撤去などを申し入れた。
斉藤少将は、師団長に連絡する事なく防禦物の撤去を命じた。

日本側が徹夜で撤去作業をしていると、
中国兵の一団がその作業を妨害し、
あえてその前で中国市民に反日演説を行う者もいた。

5月3日、午前9時20分ごろ、国民革命軍の暴兵約30人が麟趾門街の
『満州日報』取次販売店吉房長平宅に乱入し、掠奪を始めた。

久米川小隊は現場に急行、到着してみると、
先着した二人の巡査のうち岡田巡査が暴兵に袋叩きにされ、
佩剣を奪われ、射殺される寸前であった。

久米川小隊はとっかんし、暴兵は東方約百米の民宿に逃げ込んだ。
兵舎に利用された民家は、強固な土塀の中に数家屋が密集していて、
出入口は一箇所しかなく、二人の中国兵が立哨していた。

久米川小隊が近づくと歩哨は発砲し、屋内からも射って来た。
久米川小隊は応戦し、中隊に伝令を送った。

銃声を合図の様に国民革命軍兵士は商阜地内の随所で掠奪と射撃をはじめた。

天津歩兵隊第四中隊本部には、久米川小隊からの伝令が届く前に
「緯一路三馬路交差点付近で中国兵多数が日本人民家を襲っている、
国旗を破棄している」
という急報が伝えられた。

斉藤少将は日中交戦を知り、装甲車を出動させようとしたが、
中国兵がいち早く電話線を切断したので、
旅団司令部にも師団司令部にも、電話連絡出来なかった。

おっとり刀で日本軍部隊は現場に急行したが、
民家の土塀越しに射弾が集中し、前進が困難であった。

それでも中国兵がたむろする民家を一軒づつ掃討して行くと、
民家のほとんどが掠奪・暴行されていた。
「支那人民ノ柱ニ縛ラレアル等 惨状目モ当テラレズ」
と言った光景も少なくなかった。

午前11時 蒋介石は停戦を要望、福田中将も応じた。
しかし、中国側は発砲を止めなかった。

旅団司令部は、参謀菊地中佐が、
中国側に停戦を勧告すべく、捕らえた康明震を派遣した。

康明震と他二人は白旗を振りながら二馬路を西進したが、
中国側が容赦なく射って来るので、康明震らは立ち止まって前進を拒否した。

田中伍長が先頭に立ち「不打(うつな)」「不打」
と叫んで一行を引率したが、
緯五路二馬路交差点に差しかかった所、
南側民家に潜伏した中国兵の機銃射撃を受け田中伍長は戦死。
一行は遺体を収容して旅団司令部に引き返した。

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1928年(昭和3年)5月3日の済南事件後、ある外国人から日本軍に感謝の手紙

「日本軍に感謝」 ある外国人からの手紙

次の書面は、事件当時、済南在留の一外国人が
済南医院長の牧野博士の許に寄せた書面を、
更に同博士から福田師団長の許へ翻訳して送られたものである。

日支両軍の戦闘を目撃した一外国人の所感ではあるが、
中立的立場からの発言として貴重な参考資料と言えよう。

「去る五月三日、午前十時、済南府に於いて不意に射撃が勃発せし当時、
余は何故にこの射撃が行われたるかを知らなかった。しかし余は考えた。
『恐らくは南軍が、何等かの方法に於いて日本人を攻撃せるに非らずや』。
何となれば五月一日以来、日本人に反対する教唆の宣伝ビラは、
各街路に貼り出され、しかも益々猛烈なるものありしが故である。

南軍は恐らく彼等自身が非常に優勢にして、
日本軍に対して戦闘を開き得るものと想像したに違いない。
・・・余自身兵役にありしが故に、日本兵の態度により、
一目この戦争の勝利者たることを知った。

余は日本兵の突進し来たれる態度を見し時、心中非常なる喜びを感じた。
・・・日本兵は甚だ困難の立場にありながら、
日本人独特の強行的突進によって多数の支部兵を混乱せしめた。

余はこの光景を見て、直ちに教育ある軍隊と、支那人の烏合の衆との間に、
明瞭なる差異を認むるを得たのである。
余が路上に於いて話した日本の将校は、総て甚だ友誼的にして、
彼等の街路に於ける行動は最も公明正大である。
これは余が到る処に於いて他のヨーロッパ人より聞き及びたる事実である。

なほ日本の砲兵は、さかんに城内を攻撃した。
しかも攻撃に際し、如何に慎重に、かつ正確に照準したりしかは、
攻撃の跡を見て、直ちにこれを認むる所である。
即ち日本兵は支那の民衆を如何にして傷つけざらんかに
非常なる努力を払っている。

余の感ずる所に於いて、
当日、済南府には約二万の南軍が存在していたに拘らず、
約六百(東部地区の兵力のみならん)の日本兵に恐れをなし、
恰かも野兎の如く遁走した。
彼等は戦争前に於いて大言壮語せし手前も憚らず、
意気地なくも斯く二、三の日本人のために
直ちに圧迫されてしまったのである。

当地に居住するヨーロッパ人にとりては、
日本軍隊の済南に到着せしことは非常なる幸福であった。
余の感ずるところによれば、南軍はただ日本人のみならず、
総ての外人を攻撃せしならん。
これはひとり余のみならず、
多くの他のヨーロッパ人より余の聞きしところである。

日本兵が総てのヨーロッパ人の生命財産を保護したることについては、
吾々ヨーロッパ人は感謝の念を禁ずることができないと共に、
自国民及び他の外国人の生命を保護せんがために
永久に此地に眠れる約五十の忠勇なる日本将兵に対しては、
おのづから哀悼の念を禁ずることができない」

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『大東亜戦争への道』 中村粲(あきら)著 1990.12.8 (展転社) P279~280 より

1928年(昭和3年)5月3日の済南事件後、ある外国人から日本軍に感謝の手紙
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-290.html

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「済南事件で殺害された日本人被害者」 (1928年5月、済南病院にて撮影)
『山東省動乱記念写真帖』 昭和3年 青島新報(株)
を『ゼンボウ(昭和60年5月号)』が紹介した写真。


上記写真は、中国系アメリカ人作家アイリス・チャン著の
『レイプ・オブ・ナンキン』や、中国の中学歴史教科書では、
日本の石井・生物兵器戦部隊が健康な中国人に細菌の生体実験を
行なっている場面として紹介されている。

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尼港事件
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-105.html
昭和2(1927)年3月24日の南京事件
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-107.html
漢口事件
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-108.html
済南事件
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-109.html
通州事件
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-121.html
アメリカ軍やオーストラリア軍の蛮行
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-162.html
終戦~日本人 引き揚げの悲劇
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-154.html
終戦~日本人 引き揚げの悲劇_2
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-155.html
敗戦後の惨状
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-575.html
東京大空襲 ~ その投下方法
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-153.html
2010/01/10 06:00|年表リンク用資料
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