正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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テロ攻撃に備えた満鉄の武装列車(九四式装甲列車)
テロ攻撃に備えた満鉄の武装列車(九四式装甲列車)

満州における鉄道関連地図および共産化状況
満州における鉄道関連地図および共産化状況

◆ソ連の動き

1917年(大正6年)、ロシア革命が起こり、ロシアはソ連となった。
ソ連はコミンテルンを設立して世界革命の本部とし、
世界の共産化を推進する政策を開始した。

まず1921年(大正10年)には、ソ連軍はロシア革命で敗れた白系ロシア人追撃
を名目に外蒙古に侵入し、同地域において略奪はおろか老若男女の別なく
虐殺を行い「蒙古人民革命政府」を樹立し、1924年(大正13年)には
「蒙古人民共和国」という名の衛星国を建設した。

1927年(昭和2年)当時、北京政府を支配していた張作霖は、
中国の共産化を警戒し、ソ連大使館をいっせい捜索して秘密文書を押収した。
それには中国の共産化のため、孫文によって新たに樹立された広東国民党政府
を援助する旨(むね)が記されていた。

1928年(昭和3年)、張作霖の子で満州を支配していた張学良は
ソ連が従来より支配していた東支鉄道全線に軍隊を配置し、
東支鉄道の接収をはかろうとしていたが、
ソ連は陸空軍をもって一挙に東支鉄道の軍事占領を敢行した。
これによって、東支鉄道のみならず、
北西満州は完全にソ連軍の影響下に入ることとなった。

さらにソ連・コミンテルンは1921年(大正10年)に結成された中国共産党の
満州支部に武装暴動を起こす事を指令して、
1929年(昭和4年)4月には、「全満暴動委員会」を組織させ、
共産パルチザン(極左暴力革命集団)活動を推進し、
その拠点を東満州一帯に広げた。

1916年(昭和5年)から1921年(10年)にかけて、
間島省、安東省、吉林省、奉天省など東満州に作られた共産軍遊撃区が
彼らの活動拠点である。
反日活動を展開するパルチザン部隊は数10名を単位として、
たえず移動して放火、略奪、暴行事件をあいついで起こしていった。

◆アメリカの動き

アメリカは、ハワイ王国の内政に干渉し、
1898年(明治31年)にハワイを併合した。

さらにスペインとの戦い(米西戦争)を起こし、

1899年(明治32年)にはフィリピンを併合した。

1900年(明治33年)の北清事変ではアメリカもまた列国と並んで出兵し、
事変終了後には列国同様の権益(居留民保護のための駐兵権等)を獲得した。
1905年(明治38年)の日露戦争では、満州に影響力を拡大しようと
していたアメリカは日本を支援して戦争終結の調停役を務めつつ、
戦争中に満州との貿易を拡大させた。
その貿易額は満州における列国の全貿易額の38%を占めるにいたった。
この趨勢(すうせい)に乗じてアメリカの鉄道王ハリマンは、
我が国に対して、日本がロシアから接収した満鉄の買収を申し出たのである。

また、アメリカは1909年(明治42年)には、満州諸鉄道の国際管理を提案し、
満州の鉄道権益への介入を試みたが、それらはいずれも失敗に終わった。

しかし、1927年(昭和2年)には、
張作霖が満鉄併行線敷設禁止協定を無視して満鉄併行線を建設した際、
アメリカ資本を提供して協力するとともに、
さらに1931年(昭和6年)には
アメリカは対日戦充実のための、年間戦車100台、飛行機数10機、弾丸100万発
の生産能力のある兵器工場建設を援助した。
かくして、アメリカは満州における影響力を増大させていったのである。

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『ノモンハン事件の真相と戦果・ソ連軍撃破の記録』小田洋太郎・田端元著

清国衰弱と共に満州には多くの中国人が流入し、
日本の後援を受けた張作霖が独立国とした。

(張作霖、張学良が満州の民衆を搾取していた実態や、
張作霖の度重なる危機を関東軍が救った話は
古野直也氏著の近著「張家三代の興亡」が好著である)。

張作霖父子は中国征服に乗り出し、20年先の税金まで一般人から取り、
日本や朝鮮人にも法外な税金を徴収したり、
土地、会社などを没収したりしたので
日本に対する忘恩行為と言われたが、特に朝鮮人は虐待された。
(略)
当時、朝鮮人は日本人だったが、
(張作霖父子は、朝鮮人の)日本人としての権益を認めず、
朝鮮語、朝鮮服の使用を禁止したり、朝鮮学校の没収を行い、帰化を強制し、
あげくには帰化朝鮮人まで追放し、殺害、略奪の対象になった。

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満州地域における日本人や日本関係施設の被害

日本所有の南満州鉄道の沿線地域は関東軍が守備していたが、
満州全体は張作霖(ちょうさくりん)、張学良 親子の匪賊が支配していた。

1911年の辛亥革命で清国が倒れて中華民国ができてから
1931年の満州事変の前まで、満州には非合法組織が数多く存在していた。

■張作霖(ちょうさくりん)、張学良 親子は、武装盗賊の頭領で、
アメリカの支援を受けながら、満州馬賊(匪賊)として満州を支配していた。
日本人や日本の南満州鉄道、日本関係施設へのテロ攻撃を繰り返していた。

満鉄への経営妨害、炭鉱など鉱山の採掘権の否認、鉱物の輸送制限、
付属地の買収禁止、その他農林水産業への妨害、
二重課税などの不当課税による商業活動の妨害、
日本人や朝鮮人への立ち退き命令などが行われ、
これらによって日本人居留民の生活は危殆(きたい)に瀕(ひん)した。

■一方、ロシアも東支鉄道および満州の北西地域
(日本の南満州鉄道の左側と右側の地域)を影響下におさめ、
中国共産党を支援して東満州に共産軍(共産パルチザン)の遊撃区を
いくつも構築して反日暴動、テロ活動を繰り返していた。

1919年(大正8年)より1931年(昭和6年)満州事変までの被害事件

●1920年(大正9年)、尼港事件
樺太対岸の尼港(ニコライエフスク)にいた日本人居留民、日本陸軍守備隊、
日本海軍通信隊、計7百数十名が、
ロシア人、朝鮮人、中国人から成る4千名の共産パルチザンによって、
凌辱暴行を受けたうえ虐殺された事件。

(共産パルチザンとは、コミンテルンの指令に基づく
極左暴力革命集団のことである。)

●1919年~1929年、共産パルチザン事件、108件。
108件の共産パルチザン事件の中でも最も苛烈(かれつ)を極めた事件は、
劉少奇統制下の満州省委員会の指令によって、
1930年(昭和5年)5月30日に東満の間島省で起こった暴動である。

総勢5千に及ぶ共産パルチザン部隊は日本領事館、停車場、機関車、
電灯公司、鉄道などに放火し殺傷する市街戦を起こし日本人44名を殺害した。
彼らは数十名を単位としてたえず移動し、いくつもの放火、略奪、
暴行事件を起こした。

故・北朝鮮主席金日成は、共産パルチザンとして、
東満州一帯で活動していたことを、
元ソ連軍特殊宣伝部長補佐官レオニード・ワーシンが証言している。

●1929年(昭和4年)~1931年(昭和6年)発砲・武力衝突事件、25件。
中村大尉虐殺事件(昭和6年)では大尉ほか3名が虐殺され、
これが満州事変の大きな要因となった。
その他の事件では、兵士2名死亡、警官3名死亡、負傷者数名が出ている。

●鉄道関係
信号所を襲撃して列車の運行を妨害する事件が多発。
また満鉄の貨物3千両が破壊されるなどの甚大な被害が発生した。

・鉄道運行妨害、171件
・鉄道貨物盗難被害、189件
・鉄道用品盗難被害、22件
・鉄道電線被害、28件

昭和4年と5年の合計、410件

●1930年(昭和5年)
関東庁警察で扱った満鉄の各駅ごとの事件事故数の集計、1294件


●営業権の否認・制限
炭鉱・石炭山等の採掘権の否認、
炭鉱輸送制限、満鉄の枕木購入制限、不属地土地買収禁止、
日本人農場への鉄道敷設、林業妨害、電気営業の妨害、
借款(しゃっかん)の踏み倒し、買収土地の返還命令、日貨排斥、
沿岸貿易の禁止、日本漁船の一掃、
公入札の否定(例えば、鉄道車両建造請負について、満鉄と三菱が
公入札で1・2位を占めていたが、これをチェコのスコダ工場より購入した))

●日本企業への不当課税、400件
(1)大連港の二重課税
(一度支那の港に入港された商品が他の港に入港するときは
再び課税されない措置がとられていたが、
日本商品が大量に入る大連港だけは二重課税されるようになった)

(2)それまで課税対象でなかった日本人経営の炭鉱への課税

(3)日本商品に限定して地方税の課税、が行われた結果、
日本商品の価格が高騰し、日本企業は経営困難に陥った。

●日本人居留民への圧迫
日本人殺害、日本人凌辱、日本人農場放火、デマ宣伝、
その他旅券の不発行などの圧迫を受けた。
そのような排日活動によって、
例えば、奉天市内にあった百数十戸の日本人街は、
満州事変直前にはその6分の1にあたる23戸にまで減少した。

●排日教育政策
教科書に「日本民族は生来侵略を好む民族である。・・・」
(新中華歴史課本高級用第4冊)などの言葉が記され、
意図的に反日意識を煽(あお)るものが氾濫した。
また、日本人学童への物理的圧迫として、
昭和2年9月だけでも、投石や小刀で脅された事件が156件起こった。

また、支那の児童が日本人経営の学校に入学すれば、
漸次(ぜんじ)親日的になるとして、
昭和2(1927)年9月にこれを制限する訓令を出し、
昭和5(1930)年には遼寧省政府が、
満鉄付属地の日本人学校への支那人の入学を取り締まるという密令を出し、
さらに支那の学校が「日本人ノ文化機関ヨリ補助ヲ受クルコトヲ禁」ずる
という密令を発して、日本と友好関係を結ぶことを妨害した。

●朝鮮人圧迫、80件。暴行虐殺事件など多数発生。
これらの中には、20数名の死者を出す事件があった。
また1931年(昭和6年)の万宝山事件は満州事変の大きな要因となった。
1931年(昭和6年)、満州・長春付近の万宝山で耕作をしていた朝鮮人が
中国人に襲撃される事件がおこり、
これが殺傷事件として朝鮮に伝わったため、
朝鮮在住の中国人への復讐襲撃が行われ多数の死傷者を出した。
これが更に中国に伝わる中で、朝鮮人を煽動(せんどう)したのは
日本人だという宣伝がなされることによって反日運動に火を付けた。

このように満州は日本人居住者にとっては
きわめて厳しい環境となっていたのである。

満州では事態改善に有効な方策は一向にとられず、
張作霖の後継者の張学良が国民党と連合して反日闘争を
展開するようになったため、
状況はますます悪化し満州は事実上の戦争状態に陥ったのである。

そのような中で起こったのが満州事変であった。
言わば満州事変は、満州に平和と秩序を回復することをめざした
防衛措置だったのである。

1932年(昭和7年)に内田外相が
「当時日本の当局者は、機会あるごとに彼(張作霖)に忠告を与え、
保境安民の必要を説きたるも顧みられず、
その子張学良に至りては・・・・・
遂に南方政府に通じて満州より日本を駆逐せんとするの暴挙を行うに至れり。
これ昨年9月18日の事変を惹起(じゃっき)せる真因(しんいん)なり。」
と述べているのは、満州の事情を如実(にょじつ)に物語っている。

満州事変の原因
http://megalodon.jp/2010-0503-2238-29/www.history.gr.jp/~showa/214.html

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『シナ大陸の真相 1931~1938』(P114~117)
第5章 日本は侵略国か、それとも権利を侵された国か

6、中国の条約侵犯

(一部抜粋)

ギルバート氏は次のように言っている。

「恐らく中国人のあらゆる暴行や故意の条約違反やその他の契約違反が、
これまでの列強諸国による正式抗議の原因になってきたであろうと思われる。

しかし中国政府は不快な外交通告を
握り潰したり忘却するやり方をずっと前から学んできた。

外国の抗議を無視することに対して
何らの処罰も科されなかったばかりでなく、
中国人はそのようなやり方が実際自分たちに
利益をもたらすと信じる格好の理由を与えられたのである」

と。

実際中国は、幣原男爵が宥和や善隣外交などを口にしているまさにその時に、
日本と結んだ条約を全面的に侵害するという手段に訴えてきたのである。
次に掲げるのはその期間に侵害された日中協定の一部のリストである。

1.商業及び農業の目的のために土地を借りる権利を日本人に与えた、
南満州と東内モンゴルに関する
1915年「条約」の第二項と第四項の遵守を拒否。

2.日本人の経営する撫順及び煙台の鉱山産出の石炭に対して
かかる輸出税を、トン当り10%から40%への勝手なつり上げ。
これは1911年5月に定められた「撫順及び煙台鉱山に関する詳細規定」違反。

3.南満州鉄道に並行して走る鉄道の建設。
これは1905年の満州善後条約違反。

4.1909年9月の「間島地域に関する協定」条項
(この協定によって中国は長春・吉林鉄道を
朝鮮国境まで延長することに同意)の発効拒否。
この協定は1918年と1927年の新協定によって補足。

5.満州の中国の鉄道で輸送される日本商品への差別。
これは1922年2月のワシントン九ヶ国条約違反。

6.大連港の返還を要求することによって、満州に関する1915年条約の無視。

7.日本の警備兵が鉄道沿線地域から撤退することを要求。
これは1905年の協定無視。

8.南満州鉄道沿線の日中共同鉱山事業に関する詳細な規定の交渉を拒否。
1909年9月の「満州における鉱山・鉄道に関する協定」第四項は、
そのような規定の採用を承認。

9.大連の中国港湾関税局によるタバコへの差別的な高輸入税の割り当て。
これは1907年5月の「大連に港湾関税局を設置することに関する協定」
第二項違反。

10.鉄道建設に必要な土地を南満州鉄道に売却するのを拒否。
これによって南満州鉄道は石、砂利、
その他の修繕と維持に必要な物を沿線の土地から得ることが不可能になった。
これは1896年9月の中露協定第六項に違反。
その条項は、1905年12月に日中間で締結された北京条約の下では、
現在でも南満州鉄道に適用可能。

11.南満州の鉄道区域外に日本人が居住し旅することを
不可能にしてしまうような秘密命令の発布。
これは1915年5月の「南満州に関する条約」第三項違反。

12.朝鮮人への迫害。これは1909年9月の「間島に関する協定」
第三項違反。

13.南満州鉄道区域内での不法な税金の取りたて。
これは1896年9月の中露協定第六項違反。
この協定は南満州鉄道にも適用可能。

14.タオナン・アンガンチー鉄道の管理部門に
日本人の交通要員または顧問を任命することを拒否。
これは満州国政府と南満州鉄道の間に締結された借款協定違反。

15.日本が資金を出して中国が経営している
その他の鉄道に勤務している日本人要員や会計係が、
借款協定で定められた監督権を行使するのを不可能にした。

16.撫順産出の石炭を用いて南満州鉄道が頁石油を製造することに抗議。

17.日系資本の鉄道の売上金の着服。
これによって日本の借款業務に対する支払停止が発生。
これらの売上金は、日本所有の南満州鉄道に
並行して走る鉄道建設のために使用。その目的は南満州鉄道の弱体化。

その全ての結末が1931年9月の満州事変であり、
満州国という新生国家の出現をもたらした。
これは中国の視野の狭さから起こったもう一つの悲劇の好例である。

中国は、日本が満州で合法的に獲得した権利と特権を
日本に出し渋ったことによって、
結果的には満州の全領土を失ってしまったのである。

幣原男爵が友好精神に基づいて繰り返し行った友好の申し入れに
中国がもしも応じていたならば、満州事変は決して起こらなかったであろう。

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『平和はいかに失われたか』ジョン・アントワープ・マクマリー原著。
原書房、アーサー・ウォルドロン編、北岡伸一監訳、衣川宏訳。P6~7。

米国の大部分の人々はそのころ、
日本がアジアを戦争に巻き込むドラマの悪役であると信じていたが、
マクマリーはこの考えに賛成ではなかった。

日本の1930年代の新しい強引な政策は、
一方的な侵略とか軍国主義のウィルスに冒された結果などではなく、
それに先立つ時期のアメリカを含む諸国の行為が
もたらしたものだと熱心に説いたのである。

ワシントン会議は、
確かにアジアでの国際協力を達成することのできる枠組みを決定した。

しかし1920年代において、
日本がワシントン条約の条文と精神を厳密に守ろうとしているのに、
この合意のもう一方の当事者、
特に中国と米国が条約諸規定の実施を繰り返し阻害したり、
拒否する事実のあったことを彼は指摘した。

このように米国に教唆された中国は、
自らの国際的地位を保証してきた法的な枠組みを一貫して軽視し、
それによって日本の激しい怒りを招く結果となった。

日本にワシントン条約を遵守させるのはなかなか難しかったのだから、
日本の態度は評価されるべきだったとマクマリーは主張した。

しかしそうした評価が得られず、日本が自発的に参加した国際システムの全体が
崩壊して自国の利害を脅かされると感じたとき、
日本は「東アジアにおける正当な地位を保障するための強力な軍備」
に頼るようになっていったとマクマリーは考えたのである。

1930年代の中頃、マクマリーは事態が重大化したと考え、
もし米国が日本の苦情を認めないで中国への肩入ればかりを続けるならば、
結果的には間違いなく「日本との戦争」になってしまうと予言したが、
彼の外交官仲間たちの多くはこの意見に賛成しなかった。

日米戦争が勃発したのはこれが書かれた6年後である、
マクマリーは、まさに先見の明があったというべきであろう。

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東京裁判研究会編『共同研究 パル判決書(下)』(講談社)

実にこの権威者(アーノルド・トインビー)は、
少なくとも1932年までの日本政府にたいしては多大の賞讃の辞を呈している。

1931年度の「概観」において、この大権威者は、

「1914年から1921年までの間にとられた占領および植民の方策は、
1922年から1931年までのまったく異なった通商拡張
および政治的善隣の方策によって代えられた。

後者の数ヵ年の間は、日本政府および日本国民は、
逐次増加する国際貿易額総計中において、
ますます大きな部分を占めることによって、
日本の急速に増加しつつある人口を賄うようにしたのである。

そして彼らは、
この経済政策のもたらす必然の政治的結果を甘受したのである」

と述べている。

この概観の執筆者はさらに続けていわく、
「このたゆみなき産業および通商上の拡張計画の企ては、
政治の面において徹底的に平和的な世界秩序の
精神と調和する真実の平和政策を遂行する日本――

そして、それを遂行していると隣接諸国が認めている日本によってなされて、
初めて成功の機会があることをかれらは認めたのである。

そして日本は、その歴史中にこの段階において、
数々の実際的な方法をもって、
その平和への意志を証拠立て、強い印象を与えた。

すなわち日英同盟の失効の甘受、
ウラジオストックおよび青島よりの撤兵の決定、
1924年の挑発的な米国移民(排斥)条項に対する日本の品位ある自制、

そしてさらにある注目に値する機会において、
中国の挑発にたいしことさら報復手段をとらなかった政策などである。

たとえば1927年の南京不法事件のさい、日本側はその自衛にあたって、
米国あるいは英国のいずれよりも明確に非戦闘的であった。
日本はその期間中、
機会のあるかぎり国際連盟の模範的加盟国としての態度で行動した。

これは一大国際社会の国際生活における
良き市民であったことの顕著な記録であったのである。」

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『満州事変の原因』 満州地域における我が国の被害事件一覧
http://www.history.gr.jp/~showa/214.html
http://www.history.gr.jp/~showa/214_01.pdf
http://megalodon.jp/2010-0503-2238-29/www.history.gr.jp/~showa/214.html

テロ攻撃に備えた満鉄の武装列車 (九四式装甲列車)
テロ攻撃に備えた満鉄の武装列車 (九四式装甲列車)

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日本の満州権益は、1904年2月8日~1905年9月5日の日露戦争の戦後処理条約
『ポーツマス条約(1905年9月5日)』や『満州善後条約(1905年12月22日)』
によって得られた正当なものでした。

満州内では日本人や日本の関係施設などが、
さまざまなテロ攻撃を受けていました。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-111.html

しかも、その武装盗賊テロ集団に武器や資金の支援をしていたのは
アメリカ(→張学良や中国国民党を支援)や、
ロシア(→共産パルチザンを支援)でした。

しかし日本政府は何ら有効な対策を打とうとせず、
「嫌なら帰って来ればいい」という態度だったのです。

そこで準備万端で一気にやり返すため、奉天(現瀋陽)郊外の
柳条湖付近で日本軍(関東軍)が南満州鉄道の線路を爆破して(柳条湖事件)、
警察行動である満州事変が勃発したものです。

5ヵ月後の1932年2月上旬にはテロ集団を満州から追放する事に成功し、
満州の治安は回復しました。

他の列強国が閉鎖的なブロック経済を構築していくなか、
日本は生きていくための日本独自の経済圏をめざしていたこともあり、
そもそも1911年の辛亥革命で支那満州は別になったはずでしたので、
1932年3月1日、日本がバックアップして清の宣統帝溥儀が満州国建国を
宣言し、支那に侵略されていた満州を満州族が取り戻しました。

その後も満州-支那の国境付近で張学良軍や中国国民党軍が
テロ攻撃してくるので、それらを排除する作戦などを行ない、
1933年2月初旬、熱河作戦。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-466.html
1933年5月3日~25日、関内作戦。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-467.html

1933年5月31日の『塘沽(タンクー)停戦協定』で満州事変は終結しました。

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【満州の歴史】
●1616年、女真族が「後金」王朝を建てる。
●1636年、「後金」が朝鮮を征服。国号を清(清国、清朝)と称し、
民族名を「女真族」から「満洲族」に改める。
●1644年、清国(満洲族)は万里の長城を越えて「明」を倒して領土を拡大。
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【清国は満州族が支配する国】
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1911年の辛亥革命で、
南京の孫文が武力で北京の清を倒したのではなく、
話し合いで清が滅亡して
1912年1月1日に中華民国(漢民族が支配)が建国されました。

清は中華民国に国を譲渡する代わりに『清室優待条件(協定)』を付け、
それを中華民国が呑みました。

つまり溥儀は条件付退位をしました。
この条件が「清室優待条件」で、
溥儀の退位詔書上諭に記載されています。

その内容は中華民国が清皇室の存続を認め、
退位後も「皇帝」という尊称を用い、
紫禁城への居住を認め、清朝の墳墓を保護し、納金し続けるなどです。

しかし1924年10月の北京政変で中華民国は
この条件を一方的に破棄して溥儀らを紫禁城から追い出しました。

追い出された溥儀は天津日本租界で保護され、
満州国建国で満州に行きます。

つまり中華民国が協定を一方的に破棄していなければ
溥儀は平和に北京に住んでるはずなので、
満州国の君主に就任できるはずはありませんでした。
蒋介石も優待条件の破棄を承認していました。

この条件を中華民国が呑む代わりの清滅亡、溥儀退位でしたから、
中華民国が条件を破棄するなら中華民国は無効となり、
清国が復活して溥儀が帝位に再就任となるのがスジでした。

つまり破棄ということは、
満州どころか中国全体が再び溥儀のものになっても良かったのですが、
満州だけで済ませ、中華民国を否定しないでやったのですから、
中華民国は日本や満州国に感謝してもいいくらいでした。

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『満州事変で「軍の暴走」と批判されることについて』

まず、アメリカの軍事支援を受けていた張学良や中国国民党、
ロシアの軍事支援を受けていた共産パルチザンなどによる
日本人や日本関係施設へのテロ攻撃が続いていたのが原因であり、
それに対して日本政府は何ら有効な対策を打とうとせず、
「嫌なら帰って来ればいい」という態度だったから、
武装盗賊テロ集団を満州から追い出すのが目的で満州事変となり、
結果としてその目的は見事に達成され満州の治安は回復しました。

日本人や日本関係施設への攻撃に対して何ら有効な対策を取ろうとせず、
自衛を放棄した日本政府の不作為こそ批判されるべきです。

原因はテロ集団にあり、
目的はテロ集団の排除であり、
結果的に治安回復されて多くの国民に賞賛され支持を受けたから
軍の関係者は処罰されるどころか出世しました。

政府から事後承認されたのであり、
「軍の暴走」というよりも「軍の英断」と表現すべきものです。

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【満州の歴史】
●1616年、女真族が「後金」王朝を建てる。
●1636年、「後金」が朝鮮を征服。国号を清(清国、清朝)と称し、
民族名を「女真族」から「満洲族」に改める。
●1644年、清国(満洲族)は万里の長城を越えて「明」を倒して領土を拡大。

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●1911年10月10日、辛亥革命
支那人(漢民族)たちが清王朝(満州族)を打倒して清国政府を、
その故郷である満州に追い返し、長年にわたる満州族の支配からの
民族独立(三民主義の一つ)をめざして戦い、中華民国を建てた。
これで支那は満州から分離独立して支那と満州は別になったはずだった。
「満洲」は民族の名満州と支那は別
●1912年1月1日、中華民国成立(支那独立)宣言。
孫文(漢民族)を初代臨時大総統とする中華民国が南京に成立。
1911年の辛亥革命で漢民族(支那人)たちが清王朝(満州族)を打倒し、
清国政府をその故郷である満州に追い返し、長年にわたる満州族の支配からの
民族独立(三民主義の一つ)をめざして戦い、翌1912年1月1日、中華民国を
建てたので支那と満州は別になったはずだったが、中華民国は清朝の支配地域
を全て継承したいがため、漢民族とチベット民族、ウィグル民族、
蒙古(モンゴル)民族、満州民族は、つまり「中華民族」であるという
新たな民族概念を創出し、漢民族だけでなく「中華民族」の土地は
すべて中華民国(支那)の土地だと主張するにいたり、チベット、ウイグル、
蒙古(モンゴル)、満州が独立するのを認めなかった。
日本は満州に権益があったこともあり、親日の満州族やモンゴル族を支援し、
治安を良くして発展することに尽力した。
★「支那」呼称について★満洲★清★辛亥革命~第一次国共合作
清朝(満州族)は北洋軍閥を率いる袁世凱に反乱軍(辛亥革命)の鎮圧を
命じたのだが、袁世凱は反乱軍(革命派)側と極秘に連絡を交わし、
事態収拾のため「中華民国」を建てて革命派の孫文を臨時大総統にする事を
清朝に進言する代わりに、すぐに自分を大統領にする事を孫文に求め、
自分が大統領に就任したら、清朝の皇帝・宣統帝を退位させ、
共和制に移行する事も孫文と約束していたので、
約束どおり孫文は大総統を去り、袁世凱が大総統となった。
1912年2月12日、袁世凱は最後の皇帝・宣統帝を退位させ清朝は滅亡、
しかし袁世凱は孫文と対立し、革命派を弾圧して独裁体制を取るようになり、
革命は名ばかりとなった。

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正統史観年表(トップページ)の1931年9月18日『満洲事変』の前後をご覧下さい。

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満州日報 昭和6年(1931年)11月19日 - 11月25日

満州に於ける借款鉄道の概観

支那の絶対的排他政策

万宝山、中村事件、青島事件と矢継ぎ早に各事件が錯総してさらでだに
無暴極まる支那側の政策的施行に依ってわが満鉄の妥当な運行を
絶対的に不可能な窮地に陥れていた険悪な空気を助長し、
九月十八日支那の暴力的満鉄線破壊に依って満州事変を勃発するに至った、
事変前における支那側は事毎に挑戦的態度に出て満鉄の運行を
絶対的不能ならしめたが、しかし満蒙に於ける支那の無暴な施行は
決して之れに始まったものではなかった、
例えば一九二九年全線開通を見た吉海線は
明かに日清満洲善後条約附属協定に違反するものであり、
且つ所謂満蒙四鉄道の一に該当するものであるにも拘らず
支那はわが当局の厳重な抗議を無視して遮二無二強行敷設した、
さらに打通線にしろ、瀋海鉄道にしろ条約協定の違反であり、
その他満蒙に於ける支那の鉄道政策的な暴力強行は
早くから基幹を敷いていたのであるが、その凡てに於て
わが当局の厳重な抗議を全的に無視し飽くまで強行的になされた、

満洲事変前における日支の険悪極まる空気は要するに支那側年来の挑戦的政策
に依り醗酵されたものであるのはいうまでもない、
日本は領土的何等の野心を持っていぬことは論を俟たない、
しかしながら日本は過去において十万民衆の貴重な生命を犠牲にし、
さらに満鉄経営に当っては二十億の資本を費消して
満蒙の物産的開発に当って来た、しかるに最近の如き支那の露骨なる
厭迫手段に依って満鉄の運行を全的に止揚するとせば
われ等は果して如何にすればいいのであるか?
われ等はただ手を拱いて彼等のなすが儘に任しておればいいのであるか?
二十万の満州邦人はこの状勢に従って推移するに於ては
遂に生活を全的に脅かされ破滅に終るより致方ない大勢に置かれていた、

支那人は口を開けば「中国は地大物博なり」という、
然り広袤四百四州を連ね人口四億に余る支那にとっては
満州における過去の歴史をもっている、吾人をして満鉄の妥当な運行を
なさしむる如きは意とするに足らぬ訳であるのだ、それにも拘らず
叙上の如き暴力的敢行をなしたのは専制軍閥的な執心を持って
満州当局者の個人主義的な私腹を肥やさんための強行と見られるのである、

若し然らずとせばわれ等に生活を可能ならしむる如きは
必ずしも至難なことではなかった筈である、われ等は人間としての
本質的な生活権擁護を以てこの暴力に拮抗せんとするものであり、
さらに況んや国際公法的に条約協定に依って認められていた借款
その他諸協約を主張施行せんとするは何等憚る訳がないのである、
本質としてはわれ等は生活権擁護のために起たねばならないのである

言うまでもなくわれ等は領土的野心あるものでなく
また排他的であるのではない、われ等の対抗せんとするものは
暴力的専制軍閥であり、支那民衆に対しては飽くまで共存共生の基幹的立場
を保持している、支那民衆は言うまでもなく満州に於て
十全なる生活樹立権を有する、然しながらそうかと言って
日本人及び鮮人が条約権限において生活をなし得ぬ筈はない、
専制軍閥的遼寧当局対日本側の最近における空気は
どうしても已むに已まれぬ絶対的状勢に置かれていた、
絶対な必然性を持っていたと言える、
が然しそれは民衆全般に対してではない、
しかも軍閥当路者は自己の私欲を充たさんために「帝国主義的領土侵占」
の汚名をわれ等に着せ、われ等の妥当な経済発展を阻止せんとした、
そして裏面においては無智な民衆を煽動するとともに、
所謂「排日屋」と称すべき職業的衆団を黙認
又は形成せしめ彼等の認識不足的排外思想を厭が上にも募らせた、

従来の反日会なるものは軍閥等と何等か黙認又は連繋を有するものであり
軍閥の傀儡として踊っていたものが多かった、遼寧外交協会吉林並に
ハルビンを根拠とした排日の一団の如きはその好例である
斯くて満洲に関する述作並に論文は多くは人間全般的に見れば
認識不足を多分に含んでおり、極端な排外思想を有するものが多いのである、
兎も角も支那側が極端な強行手段をとっていたことは事実であり
長年に亘るこれが具体的事実は枚挙に暇ない程であるが、
ここには借款鉄道を主点として見たる支那側の無謀な強行の
尤も重要なる点を具体的に概述し、併せて支那側認識の代表とも見るべき
昨年末東方雑誌(第二十七巻第十九号)に掲載された金士宣氏の
「東北鉄道政策」について附加的に検討を試みることとする。

借りた金は支払わず 並行線の役割すら演ずる支那

四●鉄道

本線は大正二年日支間の協約に依る満蒙五鉄道の一で四平街鄭家屯間、
鄭家屯通遼間、鄭家屯●南間の三区に分けて敷設されたもので
鄭通線は大正十年四月起工翌十一年一月より営業開始、
鄭●線は大正十一年九月起工翌年十一月竣工営業を開始したものである、
資本金総額は三千七百万円であるがこの全部を日本側より借款し
満鉄三千二百万円横浜正金銀行五百万円である、
然るに支那側は元金は一文も返還せざるのみならず利子を支払わず
現在延滞利子だけでも一千数百万円に上っている、
而して本鉄道の特徴は連絡輸送の多いことであり、
満鉄四●鉄路局間の連絡運輸契約は昭和三年九月調印を了したが、
該契約と不可分の関係を有する満鉄経由鮮鉄四●貨物連絡運輸契約改訂に
関しては交通委員会に依って無謀にも阻止された
その結果両契約とも今日まで何等現実的効力を齎さずして経過している、
そして支那側は却て本借款鉄道の貨物を鄭家屯を経て打通線に依り
営口河北駅に運搬し満鉄平行線の役割を果させていたのである。

●昂鉄道

本線は大正十三年九月三日奉天省当局と満鉄との間に締結した
「●昂鉄道建設請負契約」に依って大正十四年六月末工事に着手し
十五年七月竣工したものである、
工事費三千七百万円、利子三百四十八万円となっている、
契約には一個年後に工事代金支払不能の場合は借款契約に改訂の約束が
あるにも拘らず支那側は決算交渉を延引して借款線たることを
故意に回避し今なお延引約束を履行したい、
元利共未払の侭であるは四●鉄道と同線であり、
契約上には日本人顧問は経費支出書類の連署権を認められているが
これも無視し満鉄再三の抗議も馬耳東風の有様である
而して一層悪いことには四●線と連絡運転して
満鉄に脅威を与えているのである。

吉敦鉄道

本鉄道は吉林より敦化に至る線で吉会鉄道の一半をなすものである
大正十四年十二月二十四日支那政府と満鉄との間に締結された
「吉敦鉄道建設請負契約」に依って大正十五年六月工事に着手し
昭和三年十月全線開通を見た、敷設資金全額を満鉄が立替え支出したもので
請負契約金額は二千四百万円である、本線は開通以来輸送貨物旅客とも
僅少を免れず将来沿線の開発林業の発展も多少の期待はされるが
大したことはない、すなわち本線は吉会鉄道の一部としてこそ
物産開発に緊密な意義を有するものである、
なおこの鉄道も●昂線と同じく工事竣成後一ケ年内に
工事代金返済不能の場合は借款契約に改訂する規約だったが
現在に及んでもなお改訂に応ぜず、
金額や工事に難癖をつけて一文の元利も支払わない。

吉長鉄道

本線に関しては一九〇二年七月東支鉄道と支那政府との間に
「吉長鉄道に関する予備協定」を結び、東支鉄道の枝線として
敷設することに決定したが敷設しない中に一九〇四年日露戦争起り、
ロシアの敗北となって寛城子以南は日本の経営に帰したので
東支鉄道の本鉄道敷設も立消えとなっていた、
其後一九〇七年四月日本と支那政府との間に
「新奉及び吉長鉄道に関する契約」成立し、吉長鉄道を満鉄より借款により
敷設するに決定し翌一九〇八年十一月さらに日支両政府間に
「新奉及び吉長鉄道に関する続約」成り、
一九〇九年八月には満鉄と大清国邦伝部間に「吉長鉄道借款細目契約書」
の調印をおわった、越て一九一〇年工事に着手し、
一九一二年(大正元年)十月開通を見た、敷設資金は満鉄会社より
借款したもので総額六百五十万円である本線は大正七年一月以降満鉄が
委任を受けて経営に当り今日に至っているが
従って収支関係も割に順調に推移している、
すなわち叙上の鉄道借款において明かなる如く、
満鉄の委任経営をなしている吉長鉄道の外は凡て一厘の元利すら払わず
却て矛を逆さまにして連絡運輸を拒否し併行線の役目を演じて
満鉄を絶対窮地に陥れたのである。

金士宣氏の謬論

金士宣氏の「東北鉄道政策」に依れば日本は領土的野心を以て
借款に応じた如く明言しており元利の不払に関しては何一つ言及していない、
然しながら金を借りたのは一体誰であるか?
支那政府の自由意志に依ったものではないか?然るに前述の如く
その元利金は一厘もこれを払わざるのみならず貸主の日本側に対し
根幹的打撃を与える計画的連絡輸送を敢行し併行線の役割を
演じさせているのである
しかも日本側再三の抗議に対しても何等の誠意を見せなかった抑も
国際間に条約、協定を締結するのは言うまでもなく、
その契約履行を前提として行われるのである、
当事者両国は合意に依ってその厳格履行を誓約しているのだ、
若し然らずとせば何処に条約の価値があるか、
然るに奉天当路者は何等正当な理由なくして
全的に条約協定を無視し剰え対手国たる日本を絶対的不利な立場に陥れた、
少くとも条約の公正施行を許さるべき現行社会においては
決してかかる行為が認容されるものではない、
若し右の如き背反行為が許容されるとせば
世界に現存する条約価値が何処にあるのであるか、
現行社会に於ける限り条約価値は飽くまで守りとらねばならない、
而して前述の如く満洲に莫大の資本を投下して物産的開発の主幹となって
来たものは満鉄を中心とする日本側であり従って満洲現下の発展動向は
満鉄に負うことが尤も多いのである、
而して満鉄は飽くまで経済的立場を保持し中日民衆の共存共生的見知
により行動して来たのであり、今後に於てもまた然るであろう、
決して領土的野心や軍事的侵略をなさんとするものではない、
それにも拘らず遼寧支那当局は頭から白眼視し偏卑な
排外思想を以て計画的に、その運行を不可能に導き抜きさしならぬ
絶対境にまで引き入れた、彼等軍閥当局は国には排他思想を誇張しながら
内には不換紙幣を濫発満蒙の金融制度を基幹的に攪乱していた、
特産出廻り期に一時的不換紙幣の無制限な増発を行い
以て農民階級を極端に搾取剥奪し官銀号の金融勢力を悪用して
尨大な富力を領得し私欲を充たす糧となし認識不足の排外思想の実現の為に
無鉄砲な軍事の驚くべき拡充を敢てしていた、
見よ奉天票、吉林官帖等の実に数十億、数百億を流通していることを、
この無制限な数は銀行当局者と雖も了悉しているものが少くないということだ
これは何よりも彼等専制者の暴力強行の如実な現れではないか
その他高率な塩税を強行しているのもこの必需品を以て
民衆を圧迫していると見る外はない、
これを以て見ても口には「領土的野心」と他の痛くない腹をさぐって
置きながら実は民衆を煽動する具となし、
自身は飽くなき厭政を強行していたのである、
これを総合すれば金士宣氏の領土的野心云々の如きは
結局専制当路者の傀儡として翩舞していると見るの外はない

吉海鉄道

本線は吉林より海竜に至る満鉄の併行線で
明治三十八年日清満洲善後条約附属協定第三条の
「満鉄回収前にあって本鉄道の利害を阻害する併行線を敷設せざる」
規約に絶対的背反するものである、吉林鉄道□備処に依り遮二無二強行敷設
されたもので計画的に満鉄の対立線となし
満鉄の運行に絶大な脅威を与えたものである、
而も断って置かねばならぬことは大正九年九月成立を見た
日支協約の満蒙四鉄道の一に該当することである、
すなわち日本資本よりする借款を以て建設することを決定していたにも
拘らず「吉海鉄道□備処」は日本に何等協議することなく
独断を以て敢行した、昭和二年五月工事に着手したが
わが当局の厳重な抗議を無視し暴力的に工事を急がせ
四年八月完成するに至った、これに依って吉海、瀋海、北寧の
所謂東北東幹部幹線を形成し五年十月以降は吉林、奉天北平の直通運輸
をなし、条約廃棄を何等懸念することなくして露骨な挑戦態度を激化させた

奉天城根線

北寧線の奉天城内乗入れについての満鉄線クロスの件に関しては
明治四十一年南満京奉連絡協約に於て瀋陽駅を京奉(北寧)線の始発駅として
のみ承認されたもので他線との連絡は明かに禁止されていた、
従って瀋海線の始発駅としては別に一駅が設けられたのは言うまでもない、
然るに昭和二年奉天当局はこれを無視して奉天城根線を敷設し
瀋海北寧両線の連絡輸送を開始したので日本側はその条約背反に対し
抗議したが支那側は例に依って相手にせず、
明かに並行線である吉海、瀋陽線を北寧線に
直通せしめ満鉄の利益を根幹的に危うくした

打通、四●強行連絡

打通線は条約背反の並行線であることは前述した通りである
而して更に一層悪いことは若し本線が四●線に連絡するに於ては
満鉄に致命的大打撃を与うべきは明かであったが故に
日本側としては之が連絡運輸に関しては所謂並行線的大綱に依て
極力阻止せんとしたは言うまでもない、
然るに支那側は昭和五年十二月天津において打通、
四●両鉄道当局合議の上連絡設備の実施方を決定した、
日本は従って数次支那側の注意を喚起し
その条約違反行為たるを責むるところあった、
殊に鉄道交渉開始後は他の諸問題と一括して交渉題目の主要なる一となしたは
勿論で設備差控方を申入れたが支那側は例に依って
連絡設備を強行したのである斯くて斉克、●昂、四●、打通、北寧の直通連絡
を形成し完成せる並行線形態を有して満鉄をして絶対致命的窮地に突き入れた

計画的な強行

これを要するに支那側は満鉄を中心に東西に亘って両並行線を完成した、
すなわち東部に於ては瀋海線、吉海線を連絡せしめて
満鉄線中の最も主要なる部分と見るべき長春、奉天線に接近
並行せしめ東部の物産を奪取せんとした、
更に西部に於ては打通、四●、●昂、斉克を直通連絡せしめて
北部並に西部満洲の物産を全的に収受せんとした、
そして最も悪いことには北寧線中心主義によって吉海、瀋海線は
瀋陽にて北寧線を直通連絡し、西部幹線は打虎山にて同様に北寧線に結び、
ここに於て北寧線は東西両幹線貨物を合して
河北並に秦皇島に呑吐したのである、
将来葫蘆島築港完成の暁には云う迄もなく
同港に全部を流入せしめんとしたのである、
すなわち大連を眼の敵に置きすべてが計画的になされたものであった、
而してその中軸観念は絶対的排他主義であり満鉄を基幹的窮地に陥れても
敢て意とするところでなかった、
彼等の遣り方は目的のためには手段を選ばぬ底のものであり、
大綱に於ては並行線拒否権に違反し、
部分においては借款契約連絡運輸契約に背反した、
すなわち西部並行線の吉海鉄道はわが借款権を蹂躙したものであり、
東部並行線の四●線はわが借款鉄道なるにも拘らず
連絡運輸を全的に拒否する許りでなく並行線として重要な役割を演ぜしめ、
●昂線はわれより借款しながら借款線たることを故意に回避している、
支那は一部に対してでは全体に亘って契約破棄を敢行しているのである、
然しながら支那側は計画的な対立政策を以て臨んだのであり
この点より見れば敢て異とするには足りない、
金士宣氏の「東北鉄道政策」には次の如く述べられている
西部幹線とは北寧線打通支線の終点通遼より四●線の鄭家屯に接し、
●南を経てチチハルに達し黒河に至る一線を言い西北部の運輸権を総括し
葫蘆島開港の暁にはこれに物産を集中せしめんとするものである
之に依れば借款線を包括して西部幹線となし借款契約の何ものたるかは
敢て問うところではない、また曰く
以上の東西両幹線は瀋陽を枢軸とし、北寧線は連絡の中心となり
交叉形態を構成し南満線の核心を包囲する、
将来北寧沿線の営口、秦皇島、葫蘆島三港を経営する時は
満鉄の利源は絶滅し東北の経済的実権を掌握し得るであろう
彼等の計画は独存的であり何等共存共生的でない、
自分さえ利益を得れば他の絶対窮境も敢て顧慮するところではない









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満州善後条約
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-672.html
満州事変 関連議論
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清室優待条件(協定)
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満州地域における日本人や日本関係施設の被害
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満洲事変
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隠蔽が続く大東亜戦争の発端
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★もっと超簡単に!大東亜戦争にいたる流れの説明
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支那事変(日中戦争)の発端
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中国の租界
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日露戦争後の「アメリカの反日政策」と「日本の歩み」年表
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満州事変前~満州事変~支那事変まで
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満州事変を生んだ内外要因 ブロック経済から生き延びるために
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門戸解放宣言(通牒)
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もう一つのアメリカ合衆国 『満州』
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不戦条約と自衛権
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大東亜戦争までの内閣
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日米開戦前 日本の和平努力
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ハル・ノートに対する日本の回答入電「これは戦争を意味する」
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-311.html

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紐育タイムス北平通信 1931年10月20日

寧ろ日本の支配を

数千の満州避難民(大部分富有階級の支那人)の談話を綜合するに
彼等は連盟の主張するが如き現状の回復を望まず。
彼等の満州より避難し来れるは支那兵及び土匪の乱暴を
恐れたるが為めにして日本兵を恐れたる結果にあらず。
彼等は張学良の秕政に苦しむよりは日本の支配下に生活せんことを欲す。
蓋し満州の支那軍閥は通貨を下落せしめ、
人民の生産物を無価値の紙幣を以て
強制的に買上げて外国の金貨に代へて巨利を収め、
人民の租税は悉く軍隊の支払に充つる有様なるを以て、
張学良の復帰を見るよりは
寧ろ日本の支配下に新なる支那政権樹立せられんことを望むものなり。
蒙古に対する支那の悪政は更に甚だしく、官吏は土地を押収し重税を課し
人民を飢饉に陥れる有様にて人民は徐々に奥地に逃れつつあり。
特に最近日本兵より武装を解除せられたる支那兵は蒙古に入込み
掠奪放火を恣にし居る有様にて、蒙古人は支那の悪政より免がるる為め
日本の支配を歓迎せんとする状態なり。

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my日本の佐藤卓さんの見解

満州事変

日本の満州権益は、1904年2月8日~1905年9月5日の日露戦争の戦後処理条約
『ポーツマス条約(1905年9月5日)』や『満州善後条約(1905年12月22日)
によって得られた正当なものでした。

1931年(昭和6年)9月18日、奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖付近で、
敵兵が南満州鉄道の線路を爆破(柳条湖事件)。
現場に駆けつけた日本の鉄道守備隊(関東軍)に
対しても敵兵は攻撃を仕掛けて逃げました。
日本の鉄道守備隊は追いかけ、
敵兵は張学良の本拠地である北大営に逃げ込みました。
その北大営からも日本の鉄道守備隊に銃撃してきたので、
関東軍が本格的に報復軍事行動を起こして満州事変が勃発しました。
攻撃されて反撃するのは国際慣習法上の自衛行為です。

このように柳条湖事件は「犯人は支那軍」というのが本来の通説であり、
日本(関東軍)犯行説が出たのは大東亜戦争後です。
関東軍指導者が殆ど逝去された後に、
本当かどうか検証のしようがない「証言」のみが出て、
なぜか通説になってしまっている状態なのです。
物的証拠も状況的証拠も確たるものはなく、
主犯とされる石原莞爾も一貫して否定しています。

1931年9月15日、奉天総領事の林久治郎が「推察」として
「関東軍が近く軍事行動を起こす」旨の機密電報を幣原外相に
送ったことにより、それを抑えるためとして建川美次少将が満州・奉天に
派遣されますが、「推察」の根拠が検証されなければ
証拠にも論拠にもならず、派遣されたこと自体は何の根拠にもなりません。

支那側が1931.6.27.中村大尉殺害事件の回答を9月18日にしてきましたが、
その事件の回答を送って来ようが来まいが、
鉄道爆破・守備兵襲撃などされたら応戦膺懲するのは当然の事であり、
鉄道破壊犯討伐という鉄道守備の行動です。

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大東亜戦争後になって、確たる証拠もなく、
日本が悪いという、あらたな通説が、まかり通っています。
大東亜戦争の戦中戦前までの通説を、
確たる証拠もなく覆すのは、おかしいのです。

大東亜戦争の戦中戦前は「犯人は支那軍」というのが通説です。
爆音を聞いた守備兵が北大営近くで発砲されて交戦になりました。
その後、リットンなどが調査しましたが、
結論は出ないまま、戦後の「検証しようのない証言」で、
なぜか通説がひっくり返され、常態化している状況です。

仮に前通説に確たる証拠がなくとも、
それをひっくり返せる「確たる証拠がある論説」でない限り、
ひっくり返していない状態なのです。
2010/01/08 06:00|年表リンク用資料
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