正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1932年(昭和7年)1月28日~5月5日、第一次上海事変。

上海共同租界の施政権は、
上海共同租界の国会にあたる参事会と、
行政機関である工部局にありました。
日本人・日本軍は最初から上海共同租界の中にいました。
中国軍(蔡廷率いる19路軍)が上海の外からやってきたのです。

当時、上海には「特定の国の専管租界ではない上海共同租界」や、
「フランス租界」があり、
北四川路や虹江地区に約2万7千人の日本人居留民がいました。

日本は上海共同租界の最高意志決定機関である参事会の一員だったのであり、
共同租界防衛委員会の一員でもありました。
英米仏伊などの列国は自国居留民の警護を目的として
自国の軍隊を駐留させていて、
日本も海軍陸戦隊1000人が駐留していました。

上海共同租界を英米日伊軍が地区ごとに役割分担で守っていて、
中国軍が上海の外からやって来て
「金を出せ!」と強盗のような不法な要求をし、
上海共同租界を守っていた日本軍を武力攻撃してきたから、
それに対して応戦して追っ払ったのが第一次上海事変です。

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1932年1月上旬、上海市郊外に中国軍(蔡廷率いる19路軍)3万3千人が現れ、
上海共同租界の工部局に対して、
「兵士の給料を払え、給与が支給されるまで去らない。」
と通告してきました。

上海市参事会会長、警視総監、英米日仏伊軍の司令官などで
構成されていた共同租界防衛委員会は
中国軍が上海を侵略しに来たのではないかと警戒し、
日本を含む列国が協議を行ない、
共同租界を列国が分担して警備していました。

1月28日午後、突然、中国軍が日本軍に発砲してきて戦闘が始まりました。

軍事衝突発生を受け、日本海軍は第3艦隊 (司令長官:野村吉三郎中将) の
巡洋艦4隻(那智など)、駆逐艦4隻、航空母艦2隻(加賀・鳳翔)
及び陸戦隊約7000人を上海に派遣する決定をし、1月31日に到着。

さらに日本政府(犬養毅内閣)は2月2日に
金沢第9師団(師団長植田謙吉陸軍中将)
及び混成第24旅団(久留米第12師団の歩兵第24旅団を基幹とする部隊)
の派遣を決定。

これに対して国民党軍は第87師、第88師、税警団、教導団を
第5軍(指揮官張治中)として2月16日に上海の作戦に加わり、

2月18日に日本側の第9師団長は、更なる軍事衝突を避けるために、
列国租界から中国側19路軍が20キロメートル撤退すべきことを要求。

しかし19路軍を率いる蔡廷(金皆)が要求を拒否したため、
2月20日に日本軍は総攻撃を開始。

また、混成第24旅団の工兵ら(肉弾三勇士)の戦死などがあり、

2月24日に日本陸軍は善通寺第11師団及び宇都宮第14師団等をもって
上海派遣軍(司令官:白川義則大将、参謀長:田代皖一郎少将)を編成し
上海へ派遣。

3月1日に日本軍第11師団が国民党軍の背後に上陸すると(七了口上陸作戦)、
蔡廷(金皆)が率いる19路軍は退却を開始しました。

3月3日、日本軍が戦闘の中止を宣言。

3月24日、日中英米仏伊による停戦交渉が始まり、
中国軍の駐兵制限区域(浦東・蘇州河南岸)を定めた
上海停戦協定が5月5日に成立して終結しました。

この第一次上海事変の事後処理条約である1932年5月5日の上海停戦協定では、
もう中国軍は上海租界に近づくなと約束させられました。
つまり中国軍が悪いということです。

中国軍による上海租界への接近・武力攻撃があったから、
日本から上海へ応援軍が派遣されたのであり、
戦闘が終わると応援軍は日本へ引き揚げました。

このように第一次上海事変は1932年5月5日の上海停戦協定で
終結していますから、この第一次上海事変を理由に
蒋介石が第二次上海事変を起こしたならば不当となりますし、
蒋介石軍が1932年5月5日の上海停戦協定線を越えて
上海租界内に侵入してくることは協定違反ですから、
応戦する日本軍には正当性がありますし、
1928年の不戦条約は英米仏の要望により自衛戦争は除外されていました。

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第一次上海事変での日本側の戦死者は769名、負傷2322名。
中国軍の損害は1万4326人でした。

36日間の戦闘によって上海全市で約15億6千元の損害を被り、
中国側住民の死者は6080人、負傷2000人、行方不明1万400人
と発表されました。

この戦闘は、空母が初めて実戦に参加した戦闘でもありました。

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ちなみに、よく第一次上海事変の発端だといわれている
「中国人300人が日本人僧侶2人と信者3人を襲撃した事件」

「上海共同租界を各国軍と役割分担で警備していた日本軍を
19路軍が武力攻撃してきたこと」

は別の話であり関係ありません。

当時、上海公使館附武官であった田中隆吉は、
東京裁判において事前にキーナン検事と話し合い、
徹底的に日本や上司、同僚を批判しました。

たとえば東京裁判の席上、
田中隆吉は東條英機を指を差して批判し東條が激怒。

対米開戦に慎重派だった武藤章のことを
「軍中枢で権力を握って対米開戦を強行した」と証言し武藤章の死刑が確定。

橋本欣五郎・板垣征四郎・南次郎・土肥原賢二・梅津美治郎などを
名指しで証言した際には、

鈴木貞一はその日の日誌に
「田中隆吉証言。全ク売国的言動ナリ。精神状態ヲ疑ワザルヲ得ズ」と記し、
板垣征四郎も日記に二重丸をつけて
「◎人面、獣心ノ田中出テクル。売国的行動悪ミテモ尚余リアリ」と書き、
重光葵はその時の心境を
「証人が被告の席を指さして 犯人は彼と云ふも浅まし」と歌に詠みました。

第一次上海事変については関東軍の謀略だと言い、
関東軍の軍資金2万円で反日中国人を使って日本人僧侶を襲わせて
上海日本人僧侶襲撃事件を起こしたと証言しました。

ほかにも次々と反日証言を続けたため、
田中に対して「裏切り者!」と罵声を浴びせる者もいました。

そうして田中隆吉は東京裁判で戦犯とされることから逃れました。

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1932年2月10日 枢密院『上海事件ニ関スル報告会議筆記 大角海軍大臣』
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上海事件の起こる前に於ける日本と各国との関係は、
すこぶる良好にして、即ち居留地外は上海市長呉鉄城の支配権内に在るも、
居留地内は工部局が行政権を握り、其の執行機関たる参事会員は
外人9名支那人5名を以て組織せるものなるが、
各国人も予め支那側の横暴なることを熟知し日本に対し同情せり。
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日本海軍特別陸戦隊
日本海軍特別陸戦隊

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1932年5月5日、第1次上海事変の戦後処理の上海停戦協定。

第2条

中国軍隊は本協定に依り取扱はるる地域に於ける正常状態の回復後に於て
追て取極ある迄其の現駐地点に止まるべし。
前記地点は本協定第一附属書に掲記せらる。

第一附属書

本協定第二条に定むる中国軍隊の地点左の如し

付属縮尺十五万分の一郵政地図上海地方参照

安亭鎮の正南方蘇州河上の一点より
北方安亭鎮の直ぐ東方のクリークの西岸に沿ひ望仙橋に至り、
次て北方にクリークを越え沙頭の東方四キロメートルの一点に至り、
次て西北揚子江上の滸浦口に至り且之を含む。

右に関し疑を生するときは問題の地点は共同委員会の請求に依り
共同委員会の委員たる参加友好国の代表者により確めらるへし。

上海停戦協定 境界図

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【大谷光瑞】
当時、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の前法主であった大谷光瑞氏は、
法主時代だった1906年に上海にて西本願寺の出張所を開設するなど、
上海における布教に以前から関わっていた。また、上海滞在中の活動を通じて
中国の革命派や上海日本人社会とも交流を重ねていた人物である。
彼は第一次上海事変勃発当時、上海に滞在していた。
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『自由市を上海に! 円卓会議を中心として』緒方昇著より
大谷光瑞氏が第一次上海事変について語った部分を抜粋。

「思へば、日本のみが外敵に対して単身をもつて共同租界を保護し、
多大の犠牲を払つて共同租界を防衛したのである。
かくて、共同租界の不可侵性なるものは、血と鉄により一層神聖化せられ、
合法化せられたのである。換言すれば、日本は上海共同租界および
その治安に対して多大の貢献をなしたのである。
これは同時に今後上海における行政権その他に対して
日本の発言権を一層拡大強化したものであつて、日本は単独もつて
共同租界防衛の義務を完全に履行したのであるから、
それに伴ふ権利もまた、今後具体的に続出するであらう。」

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■4月29日、「上海天長節爆弾事件」
停戦交渉中の4月29日、上海日本人街の虹口公園で行われた天長節祝賀式典に
際して、朝鮮人の尹奉吉が爆弾を爆発させて白川義則大将、
河端貞次上海日本人居留民団行政委員長が死亡し、野村吉三郎中将、
植田謙吉中将、村井倉松総領事、重光葵公使らが重傷を負った。

「上海停戦協定」によって租界を含む外国人居住地域の
北・西・南へ15マイルを非武装地帯とし、この地帯は中国人警察官からなる
中国保安隊(平和維持部隊)によって治安維持が行われることとなった。
平和維持部隊の武装は最小限のピストルなどに留められた。

この協定にはイギリス、アメリカ合衆国、フランス、イタリアの各代表が
立会人として署名し、協定の執行と運営を監督する為に
日英米仏伊の領事と上海市長からなる国際委員会が設置された。
しかし、国際委員会には平和維持部隊を監督する権限がなく、
平和維持部隊がどの程度武装しているかは把握できなかった。

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1937年8月13日、第二次上海事変
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2010/01/05 06:00|年表リンク用資料
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