●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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すばらしい日本
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『アメリカ外交50年』ジョージ・F・ケナン著 (1951年)
■ジョージ・F・ケナン 「ソ連【封じこめ政策】の生みの親」といわれるアメリカの外交官で リアリスト(現実主義者)の政治学者 ━━━━━━━━━━ 【P23-25】 フィリピン (タイディングス・マクダフィー法など) 膨張論者はいろんな議論を展開した。 ある者は、これらの領土獲得は我々の「顕示的な運命」であると述べた。 他の論者は、我々が色々の理由からこれらの領土に対して 優越的利益を持っていると述べた。 更に他の者は、我々は文明国及びキリスト教国として、 これら無智にして迷える住民たちを更正させる義務があると主張した。 また他の議論によれば、これらの領土は、 わが大陸領域の防衛上必要であるというのであった。 最後に、商売気のある人達の云い分によると、 所謂偉大な将来を持つ東洋貿易において、分相応な役割を確保するために、 我々は、これらの領土殊にハワイ 及びフィリピンを獲得しなければならないと云うのであった。 (中略) 帝国主義者たちの最も強力な議論は、実際は今私が述べたようなものでなく、 時に偶発的必要と呼ばれるようなものであった。 それは、我々がこれらの領土を取らなければ、 誰か他の国が獲得するだろうし、 それではもっと具合の悪いこととなると云うのである。 ポルト・リコ及びハワイの場合、この議論は実情に沿わないものと思われる。 誰も別に干渉しようとする気配が実際存在していなかった。 我々の安全に関する限り、ポルト・リコをスペインの手に残すか、 キューバのように独立を与えるか、どちらにしても全く安心していられた。 フィリピンの場合、問題はもっと重大であった。 (中略) それは何かと云えば、当時の米国民ないしは少なくとも その有力な代弁者の多くの者が、わけもなく帝国の味を好きになり、 同時代の植民地強国と肩を並べ、 遠く熱帯の島々に米国旗が翻るのを眺めたり、 対外的冒険と権威とを発揚する気持ちを味わい、 そして世界の偉大な帝国的列強の一つとして公然と認められたい との欲求を感じていたという事実なのであろう。 (中略) フィリピンの場合、その併合数年を出ずして、 比島領有の最初にして最も熱心な唱導者であったセオドア・ルーズベルトが もはや幻滅を感じて、自分が音頭をとったことを後悔し、 厄介者から逃れたいと望んでいたことが想起される。 結局我々は1930年代に比島の解放を決定し、 最近になってこれを実行した。 だが、我々の考えておかなければならないことは、 それは決してフィリピン人のためを思ってではなく (気の毒に思ったり、或は彼等が独立の用意が出来たと考えたり、 また我々が独立を許す義務をもっていると感じたではなく)、 寧ろ、彼等が我々自身にとって一寸した厄介者であることが分ったから であり、我々の領有下において当然予期された比島との経済的接近が、 我国における強力な私的利益にとって 面白くないものであることがはっきりしたからである。 つまり、「白人の重荷」という言葉によって表現される これらの初歩的な犠牲すら、 我々として長い間我慢する用意を持たなかったからなのである。 19世紀よりアメリカではいろんな理屈によって膨張論が主張された。 ハワイ王国を滅亡させて無理矢理アメリカに併合し、 フィリピンを騙してスペインから独立させた直後に領有した。 しかし、アメリカは僅か数年でフィリピン領有は メリット以上にデメリットが大きいことに気が付き幻滅した。 1930年代に、とうとうアメリカはフィリピンを切り捨てる決定をした。 アメリカは予てより中国大陸(満州や中国)の権益を 日本から横取りしようとしていたが、 1930年代に決定したフィリピンの放棄によって これを具現しようとしたのかもしれない。 【P53-56】 満州 セオドア・ルーズベルトは既に1905年に、 その方面において日本と露との間に均衡が保たれ、 「その結果、相互に抑制的作用を及ぼし得ること」 を望ましいことと認めた。 その後彼は次のように述べた。 我々の利益は、我々が日本に対し敵意を持ったり、 あるいは彼らの利益に対し――いかに些細な程度であろうとも ――脅威となるという感じを、 何等の理由も無しに日本に持たせるような如何なる措置も、 満州に関連して執らないということである。 (中略) 我々として実行し得るものでない限り、 如何なる場合でも我々の主張を強要すべきではないと思う。 そして満州に関して、日本が我々の反対する行動に出ようと欲する場合、 我々は戦争に訴える用意がない限り、これを阻止できない。 そして満州での戦争に勝利を得るためには、英のような優秀な艦隊と、 独のような強力な陸軍を必要とするであろう。 シナにおける門戸開放は結構なことである。 そして私は、それが一般の外交的協定によって維持され得る限り、 将来も結構なことであることを念じている。 だが、満州の歴史を通じて示されたように、 露の下でも日本の下でも「門戸開放」政策は、 強国がこれを無視することを決意して、 自らの意図を曲げるよりは戦争の危険を進んで冒すようになれば、 忽(タチマ)ちにして全く消滅してしまうものである。 斯かる見解に従って、米政府は、 日本の朝鮮における優越的地位の確立に対し、 自らを適合させることを別段困難と思わなかった。 そして1905年のタフト・桂協定、 及び1908年のルート・高平協定は、 我々にとっていかなる意義を持ったにせよ、 何れも日本にとって彼らが満州において獲得した地位に対する 暗黙の承認を意味したことは確かである。 このような考察によって次のことが明らかにされたと、私は考える。 即ち、「門戸開放」や「シナの行政的領土的保全」という言葉のどれも、 シナにおける全ての列強の特殊的利益及び地位にとって代わり得るような 実行可能な具体的措置を示唆するものではないという意味において、 シナの実情に対して明確に適応することは出来ないものであった。 (中略) 然し、この点に問題があるのではなく、政治的原則としての門戸開放、 領土保全主義の難点は、これらの文句が、 外交政策の基礎として役立ち得るには明確な意義を欠いている ということに他ならなかった。 それは非常に不正確な意味を持ち、 人々の心の内に混乱した連想を呼び起こすような性質を 持っているのであればこそ、外国政府は、 我々の要請によって意見を求められた時、 「ええ、貴方がそういわれるのなら、我々としても勿論賛成しますよ。」 と答える以外何も出来なかったのである。 これらの文句は、誰にも簡単に片付けるにはあまりにも多くの 積極的な合意を持っているので、反対の理由を説明するよりは、 これに賛意を表するほうが容易なのであった。 本当はこれらの文句はシナの特殊な情勢に関連してのみ 意味を持つものである。 その文句がどういう意味を持っているかを、 具体的事例についていろいろ説明しなければならないわけである。 それは一般的に通用する適切な実際的意味を持っているとは云えない。 これを字義通りにまた型通りに適用しようとすれば、 それは、外国人一般がシナにおける居住 及び活動を完全に放棄することを意味するだけであったろう。 そしてそれは、西欧的国家組織に適合することを拒絶したシナの頑迷さに 対する一種の処罰或は報償(諸君がどちらであると考えるかは別として) として、シナをぜんぜん相手にしないという政策に帰着することとなる。 【P58-60】 既に挙げたような諸事実から判断し得る限り、米の政治家の考え方は、 道徳的ないし法律的原則の名において述べられ、 或は主張されたことは如何なる事であれ、 その原則が現状に適用し得るかどうか疑問であり、 又これを遵守した実際的影響が広汎かつ徹底的なものであろうとも、 斯かる原則の主唱者には 何ら特別な責任を負わせるものでないというのである。 我々として強要しようが、哀訴しようが、邪魔をしようが、当惑させようが、 それは全く勝手だというのである。 もし他国が我々のいうことを聞かなければ、我々は世界の世論の面前で、 彼らの無様な様子を暴くだけである。 他方、我々の主張を容れたにしても、 それは彼ら自身の責任においてしたことであり、我々として、 その結果生じる問題について彼らを助けてやる義務はない。 それは彼ら自身処理すべき問題なのだ。 こういうような気持ちを持って我々は10年1日の如く、 アジア大陸における他の列強就中日本の立場に向かって 嫌がらせをやったのであるが、 それは、我々の原則が立派なものであるならば、 これを実行した結果が幸福であり歓迎すべきものでない筈はない という不動の信念に基づいていたのである。 しかしながら、日本の膨張する人口、シナ政府の脆弱性 あるいは他の列強の野心に対する実効的対抗策というような本質的な問題 についての論議に、我々を引き込むことは殆ど不可能であった。 このことは、そのアジア大陸における利益が、 わが国におけるよりも遥かに重大視している国にとって、 特に敏感な神経を刺される思いをしたことを留意しなければならない。 その結果自分と違って殆ど何も失うもののない他人から、 自分の行動を変更するように忠告されることは、誰も好まないことである。 日本人や英人の間には、シナにおける米の利害関係が 日英両国のそれに比べて遥かに少ないという理由だけで、 米は、シナにおける日英の外交的資産を浪費する傾向がある、 という気持ちが何時も抱かれていた。 多年にわたって、我々は、我々が要求していることが、 日本の国内問題の見地からみて如何に重要な意義を持っているかについて、 考慮を払うことを拒んできた。 日本の大陸政策を挫折せしめる代価が、 軍事的過激論者による権力の決定的確立であったにしても、 そのことは長い目で見て米の態度を殆ど変更せしめるものでなかった。 勿論これには重要な例外があった。 というのは、米の政治家も時には、 日本の国内情勢に有利な影響を与えるように、 米の政策を調整する努力を払ったこともあるからである。 しかしながら、これらの努力は当時の趨勢に逆行したものであり、 米の政策の全般を通じての特徴を為すものではなかった。 我々の切実な要求が特に敏感な個所に触れて 日本人の感情を傷つけたにしても、 それは我々に大した影響を及ぼさなかった。 また日本人の心中に1894年の日清戦争後の三国干渉によって その勝利の成果を奪われたという傷手が残っていたことも、 我々の態度に殆ど影響を与えなかった。 1905年、日露戦争の終りに我々が再び日本の勝利の前に 立ちはだかるような(実際はそうではなかったのだが)格好に なったときにも、我々は別段これを気にしなかった。 また、それは、第1次大戦直後(対独戦参加によってシナ大陸での 態勢強化という報酬を得た日本から、 これを剥奪しようとする断乎たる運動の中心的指導者として)、 再び我々がでしゃばるのを、妨げるものでなかった。 この長い不幸な物語を通じて、我々が幾度も、移民政策や、 米の特定地方における日系ないし一般的東洋系に人々に対する 処遇問題によって、神経質な日本人を刺激し怒らせたということは、 少しも事態を改善させることとはならなかった。 【P62-64】 私の云い得ることはただ次のようなことである。 長い期間にわたって絶えず東亜における勢力関係の実現を 真剣に注目すべき要因として認識することに基礎を置くと共に、 東亜における状態を法律的・道徳的に規正するばかりでなく、 その安定と平寧を維持することを目的とするような米国の政策によって、 歴史の進路が変更されるような可能性があったとしても、 つまり、私の云うように、かかる政策によって歴史の進路が 変えられる可能性があったにしても、我々はこのような可能性を探求し、 これに現実化する機会を与え、 それから我々自身と世界平和のために引き出し得るような 利益を獲得するために、殆どこの可能性を利用しなかったことを 承認しなければならないということである。 そして、私は、かかる可能性にチャンスを 与える必要があったということは、 後から考えてそう云えるのだということではないということを、 付け加えておきたい。 第2次大戦のずっと以前から、権威ある観察者で、 シナ大陸における日本の利益を覆し、 またシナにおける外国政府の地位を毀損する傾向を 益々強めていた政策の適否を疑問視していた者がいたのである。 我々の最も消息通の職業外交官の1人であった ジョン・V・A・マックマレー氏は、引退されてから数年になるが、 1935年に極めて思索的で予言的な覚書を書いた。 その中で、もし我々が現にとりつつある方向に進んで行くならば、 日本と戦争がおこるであろうと指摘した後、 彼は、かかる戦争において我々の目的を徹底的に貫徹したにしても、 それはロシアに旨い汁を吸われるだけであり、 山ほどの新しい問題を作るだけであると述べた。 日本を敗北させたからといって極東問題から 日本を排除したことにはならないだろう。 (中略) 活力ある国民は戦敗や国家的恥辱によっておとなしくなるものではない。 寧ろ彼等は、自尊心と言う激情的衝動にかられて、 彼等の帝国的権力の全盛期に揮った実力と殆ど少しも劣らぬほどの 「邪魔者の真価」を発揮するような諸手段を用いて 自己の存在を再び主張するに至る。 しかしながら、日本を抹殺することが可能であるにしても、 それすら極東ないしは世界にとって祝福すべきこととはならないであろう。 それは単に新たな一連の緊張状態を造り出すだけであり、 日本に代わってロシア帝国の後継者としてのソ連が、 東亜制覇の競争者として (そして少なくとも日本と同じ位無法な且つ危険な競争者として) 現れるたけであろう。 斯かる戦争に於ける我々に勝利から利益を得るものは、 恐らくロシアの他にないであろう。 仮に我々がシナを日本から「助け」てやらねばならぬとしても、 我々がシナ人の感謝の念に乗じて請求権を確立すべきでなかったという ことを認めることは、シナ人にとって何等不面目なことでない。 国家や民族というものは、 集団的にこのような感情に動かされないのが当り前のように思われる。 (中略) 彼等は我々に対して何等感謝することもないし、 また利他的な意図について我々を賞揚することもないであろう。 却って、彼等は、我々が引受けた責任を果たそうとする場合、 これに抗争しようと試みるであろう。 今日我々が当面している朝鮮の情勢を見るならば、 これらの言葉に付け加えて論評する必要はない。 アジアにおける我々の過去の目標は、 今日表面的には殆ど達成されたということは皮肉な事実である。 遂に日本はシナ本土からも、満州及び朝鮮からも駆逐された。 これらの地域から日本を駆逐した結果は、正に賢明にして現実的な人々が、 終始我々に警告した通りのこととなった。 今日我々は、殆ど半世紀にわたって朝鮮及び満州方面で日本が直面し、 かつ担ってきた問題と責任とを引継いだのである。 もしそれが他国によって引受けられたならば、 我々として軽蔑したような重荷を負って、 現に我々が苦痛を感じているのは、確かに意地の悪い天の配剤である。 |
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