正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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一般的には大東亜戦争の始まりは1937年(昭和12年)7月7日の
「盧溝橋事件」とされていますが、
まあ、その盧溝橋事件も中国側から攻撃してきたのですが、
それまでも中国側は散発的にテロ事件を起こしており、
盧溝橋事件も単なる地方軍閥(宋哲元29軍)との軍事衝突事件で、
一連のテロ事件の一種と考えて差し支えありません。
大東亜戦争の始まりは1937年(昭和12年)8月13日~の第二次上海事変です。

★もっと超簡単に!大東亜戦争にいたる流れの説明
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-553.html
第二次上海事変
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-281.html

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1937年(昭和12年)7月、支那駐屯軍配置図
1937年(昭和12年)7月、支那駐屯軍配置図

1937年(昭和12年)盧溝橋近郊戦闘経過要図
1937年(昭和12年)盧溝橋近郊戦闘経過要図

■1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件。

1937年(昭和12年)7月7日、夜10時40分頃、
北京(北平)西南方向12kmの盧溝橋北側の永定河左岸荒蕪地にて
演習を終えた支那駐屯歩兵第1聯隊第3大隊第8中隊に対して、
突如、数発の銃弾が発射され、中国国民革命軍第29軍との間で戦闘になり、
支那事変(日中戦争)の直接の原因となったとされています。
中国では七七事変と呼ばれています。

中国国民革命軍第29軍は、
張北事件(1934年10月26日と1935年6月5日)、
豊台事件(1936年6月26日と9月18日)を始めとして、
盧溝橋事件にいたるまでの僅かな期間だけでも、
・邦人の不法取調べや監禁・暴行
・軍用電話線切断事件
・日本・中国連絡用飛行の阻止
など50件以上の不法な抗日事件を起こしていました。

【そもそも、なぜ中国に日本軍がいたのか】

そもそも、なぜ中国に日本軍がいたのかというと、
1900年に山東省で外国人を襲撃する外国排斥運動、
『北清事変』(=義和団の乱、庚子事変)が起こり、
乱はたちまち全土に広がり、外国人にとって、
さながら地獄図のような光景が眼前で繰り広げられていたのですが、
清国政府は何もせず、逆に彼らを応援していました。
それどころか、義和団の勢いがよいと見るや、
義和団に味方して参戦したのです。このままでは皆殺しになります。

そこで義和団鎮圧のために列強8ヵ国による連合軍が出動しました。
軍を派遣した8ヵ国の内訳は
イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、
オーストリア(=ハンガリー)と日本です。
約2ヵ月後、8ヵ国の連合軍は首都北京及び紫禁城を制圧して
乱を鎮圧しました。

※ちなみに北京を占領した連合軍は各所で略奪を開始し、
頤和園も略奪と破壊の対象になりましたが、
日本軍だけは略奪に参加しなかった話は有名です。

この乱の平定後の1901年9月7日に北京で調印された義和団の乱における
列国と清国・義和団との戦闘の事後処理に関する
最終議定書の『北京議定書』に基づき、
首都の北京に列国公使館区域を設定し(第7条)、
列国の各条約港から北京までの安全交通の維持と自国民保護のため、
列強各国に北京、天津をはじめとする地区に
無期限の駐兵権が与えられました(第9条)。

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『義和団の乱・北京議定書』後の、
【列国の「公使館区域」である「東交民巷」の状況】

列強各国の「公使館区域」である「東交民巷」の周りは塀で囲われ、
列強各国の軍隊が駐留、管理する治外法権ゾーンでした。

公使館区域の周囲は警備のために空き地にしていましたが、
次第に怪しい安ホテルや旅館、飲み屋などが建ち並び、
外人を目当てに集まる娼婦のたまり場となっていました。

辛亥革命後の中国政府(北洋政府)は、
軍閥による連立政府のようなもので混乱が続いていたのですが、
公使館区域は政争に敗れた軍閥や政治家の手軽な亡命スポットでした。

普通、亡命する場合は、
どこかの国の大使館の敷地に入らなりませんし、断られることもありますが、
当時の北京では、とりあえず公使館区域に入ってホテルにでも泊まれば、
中国政府の軍や警察は入って来れないので、
特定の国の大使館の許可を得なくても気軽に亡命することができました。

かくして公使館区域の高級ホテルは、
失脚した軍閥や政客、官僚たちであふれていたようです。

その後1927年に南京で国民政府が成立し、
やがて列強各国がこれを承認して大使館を南京へ移しましたが、
その後も大使館なき公使館区域は治外法権のまま残り、
事実上の共同租界となりました。

1941年に真珠湾攻撃で大東亜戦争が始まると、
公使館区域は日本が管理することになりましたが、
1943年の2月から3月にかけて、日本は他の日本租界とともに公使館区域を
汪兆銘政権(親日政権)に返還しました。

1913年の地図。宮城(紫禁城)の右下が公使館区域があった「東交民巷」で、
列強各国の軍隊が駐留し、管理していた。
1913年の地図。宮城(紫禁城)の右下が公使館区域があった「東交民巷」で、列強各国の軍隊が駐留し、管理していた。

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また、翌1902年の天津還付に関する『交換公文』により、
列強国の各軍隊が鉄道沿線にて犯罪捜査を行ったり、
犯罪者に対して懲罰権を行使する権限が与えられていましたし、
下記のように実弾射撃以外の訓練や演習ならば、
清国政府に事前通告する必要はありませんでした。

「外国軍隊は教練、射撃又は演習をなすの自由を有す。
但し、小銃又は大砲を発射する場合に於ては、事前通告を為す事を要す」

ちなみに昭和12年(1937年)7月6日、7日、9日、10日は空砲の演習でしたが、
北平支那駐屯軍歩兵旅団司令部は7月4日に、その期間の昼夜に盧溝橋の原で
空砲を使って演習することを中国側に事前に通達していました。

このように列強各国は中国政府との合意に基づいて、
自国民を守るために軍隊を中国に駐留させていました。

日本軍が中国に駐留していたのは、そういう理由からです。
別に日本軍だけがいたわけではありません。
イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、
オーストリア(=ハンガリー)など出兵した8ヵ国と、
ベルギー、スペイン、オランダを含めた11カ国の欧米列強は皆いました。

北京議定書・第9条のなかで列国が条約港から北京までの自由交通を
維持するために駐兵が認められ、例示された12要所。
(すべて北寧線(京奉線)沿線)
黄村、楊村、郎房、天津、軍糧城、
塘沽、盧台、唐山、樂州、昌黎、秦皇島、山海関。

【日本軍の「豊台」駐屯への批判について】

下記の『列国鉄道守備区域変遷一覧表(1901年~1920年)』を見ると、
北京と黄村の間に「┃」が書いてあり、その「┃」が豊台であり、
豊台は北京から山海関までの北寧路線(京奉線)沿線にある。
北京議定書の締結国の指揮官会議でも豊台は守備区域として
認識されていたからこそ、イギリス軍が1911年から1926年まで豊台に駐留して
周辺の警備を担当していたのであり、当然ながら日本の豊台駐留に対して
他の駐留国が日本に抗議することもなかった。

列国鉄道守備区域変遷一覧表(1901年~1920年)
「密大日記 大正十四年 六冊の内一」
北京、豊台、黄村、安定、郎房、楊村、天津、軍糧城、塘沽、
北塘、盧台、唐山、古冶、欒(滦)州、(昌黎、秦皇島)、山海関
列国鉄道守備区域変遷一覧表(1901年~1920年)「密大日記 大正十四年 六冊の内一」北京-┃(豊台)-黄村-(安定?)-郎房-楊村-天津-軍糧城-塘沽-盧台-唐山-欒州-(昌黎-秦皇島)-山海関

下記の1917~1937年ごろの地図を見るとわかるが山海関から北京までが
北京議定書・第9条で列国の駐兵が認められた北寧線(京奉線)であるが、
北京市内の北京-豊台-黄村は一つの場所といっても差し支えない。
1917~1937年ごろの地図

1936年6月から日本軍が駐屯した豊台は、
北京議定書・第9条の例示の12地点の中にはありませんが、
12地点は単なる「例示」でありますし、
自国民を守り、治安を守る事が主要な目的です。

また、それまで北京議定書締約各国が任意に、
単に通告のみで兵力量や駐留地点を情勢に応じて
融通無碍に決定してきたという慣例があったので、
北平の日本人の増加が著しい状況に対応し、日本人の保護のために、
北平~山海関を結ぶ北寧路線(京奉線)沿線で黄村と同じ北京市内にあり、
1911年から1926年まで英国軍が駐留していた豊台に歩兵隊の一部を
派遣する事には条約上の差し支えは無しとしたものでした。

当初は豊台ではなく通州に置こうとしていたのですが、梅津陸軍次官が、
北清事変最終議定書の趣旨に則れば京津鉄道から離れた通州は駄目だと反対
したので、その代わり北京の西南4キロの豊台に一個大隊を置くこととなった
経緯があり、日本が可能な限り議定書順守に気を遣っていた事が伺えますが、
結果としては通州に置いていれば通州事件は起きなかったかもしれません。

また、南京政府軍勢力は微弱で、
学良系・閻錫山系・馮玉祥系などの軍閥が割拠するなか、
南京政府は、それらの軍閥に官職を与えるという形で、
それぞれの軍閥が自分の縄張りを統治しているという状況だったので、
臨機応変に対処しなければならなかったという事情も考慮されるべきです。

―――――――

『盧溝橋事件の研究』 秦郁彦著 P51 北京議定書 第9条の12地点の関連部分

「十二地点は……駐屯地を特定したものか、単なる例示で
沿線の他の地点にも駐兵が可能なのかという点については解釈が分れた」

―――――――

東京裁判での弁護側による「中華民国に関する立証」の際に、
サットン検事補が弁護側証人として出廷し、
河辺正三大将(当該時期に支那駐屯軍歩兵旅団長)に尋問するなかで、
日本軍の「豊台」駐屯について疑義を呈しましたが、
尋問は裁判長に打ち切られました。

●サットン検察官
「豊台は北京議定書の第9条にある12地点の中に入っていません。
日本は豊台を占領する権利はありませんでした。違いますか?」

●ウェッブ裁判長
「それは論評と称せられるべきものです。信憑性の問題には達しません。」

―――――――――――――――――

下記の資料から、1937年時点において支那は日本軍の豊台駐屯を認め、
また日本軍の盧溝橋城内通過も認め、
さらには日本軍が盧溝橋の原で演習することも認めていたことは明白です。

『支那駐屯歩兵第一連隊戦闘詳報』(現代語訳)
盧溝橋城内通過に関しては昨年豊台駐屯当初においては
我が部隊の通過を拒否することがあったので
これに抗議し通過に支障ないようにした。
特に豊台事件以後においては支那軍の態度が大いに緩和し
日本語の解かる将校を配置して誤解ないように努めたことを認めるが、
最近になって再び我が軍の城内通過を拒否し、
その都度交渉する煩瑣を要した。
―――――――
『盧溝橋事件』寺平忠輔著(読売新聞社刊)
日本側に、冀察政務外交専員の林耕宇から
「空砲で演習する場合でも、あらかじめ中国側に通告して欲しい」
との要請があり、特務の方で検討する事になりました。
北清議定書では、実弾射撃の場合は通報する事になっていますが、
空砲の場合は規定されていません。
「日本だけ勝手に規定を変える事はできない、
ここは他の列強と協議してからでなければ」
「しかし、今、不穏なこの時期、間違いがあれば大変な事になる」
「ここは一時的に彼らの要求を通したら」
という事で、『7月6日、7日、9日、10日の4日間、日本軍が盧溝橋の原で
昼夜空砲を使って演習する』という通告が、
その日の晩に、中国側に通達されました。

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★少し違う角度からの見解

北京議定書の附記「天津還附ニ関スル日清交換書」より
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/DM0004/0001/0035/0760/index.djvu

「15 天津行政清国へ還付1件 313」 P591
北京議定書の附記「天津還附ニ関スル日清交換書」

【第九】外国軍は、その占領する市街を自由に通過し得べく、
またその近傍すなわち30kmの半径地内においては、
清国官衛に照会を用いずして
操練を為し射撃及び野外演習を行なうことを得べし。
ただし戦闘射撃の際には単にその通牒をなすべき事。
かつ、また軍人並に軍隊に属する職員は
自由に右範囲内に往来するの権ある事。

「15 天津行政清国へ還付1件 313」 P596 (右下)
「15 天津行政清国へ還付1件 313」 P596 (右下)

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「15 天津行政清国へ還付1件 330」 P617
「15 天津行政清国へ還付1件 330」 P617

・・・外国軍は操練を為し射撃および野外演習を行なうこと
自由たるべく、ただ、戦闘射撃の際には単にその通告を与え可申候・・・

━─━─━─━─━─━―━―━―━―━―━―━

「操練を為し射撃及び野外演習を行なう」
→訓練や演習を目的とした射撃は事前通告なしに自由に行なえる。

「戦闘射撃」
→実際に戦闘を仕掛ける場合は事前通告をしなければならない。(宣戦布告) 

※「戦闘射撃」→「戦闘」を目的とした「射撃」。

「戦闘」とは、国際法学者 足立教授によれば、次のように説明されている。

『現代戦争法規論 足立純夫著』
―――――引用はじめ―――――――
戦闘は、敵国及び敵武装部隊の抵抗力及び攻撃力を破摧するために行われ、
そのため、敵の戦闘員を殺傷し、その抵抗力を排除してそれらの者を捕獲し、
武装紛争の遂行に貢献している政治、産業、交通、通信の
重要な中枢を破壊し、防守地区を占領し又は破壊する等の手段がとられる。
―――――引用おわり―――――――

つまり「戦闘による射撃」とは、
敵の戦闘員を殺傷、産業、交通、通信の重要な中枢を破壊、
防守地区を占領し又は破壊する等を目的とした射撃を指し、

対して、「操練を為し射撃及び野外演習を行なう」際の射撃は、
敵の戦闘員を殺傷、産業、交通、通信の重要な中枢を破壊、
防守地区を占領し又は破壊する等を目的としてない射撃という事であるから、
訓練や演習の際の射撃となる。

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北京議定書の附記『天津還附ニ関スル日清交換書』
「15 天津行政清国へ還付1件 313」 P592
【第16】外国軍隊は必要の時に際し
北戴河及北京西方の丘陵上に夏期舎営地を占領するの自由あるべき事。


そもそも日本軍の豊台駐留がどうであれ、
演習するために北京西の丘陵を占領することは自由でしたし、
演習の通告義務はなかったのに支那側に7月4日に通告していましたし、
7月6日から演習をやっていたのに
7月7日の夜になって支那軍が攻撃してきたのです。
豊台駐屯地が攻撃されたのではなく、
演習地に居た日本軍が攻撃を受けたのですから、
「支那軍による不法な攻撃」といっていいと思います。

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盧溝橋、豊台、黄村の位置関係
盧溝橋、豊台、黄村の位置関係

【日本軍の増派について】
北京議定書では、兵の増減について、
支那政府への事前通告や協議などの義務は規定されておらず、
駐兵権を有する列国の判断に委ねられていました。
列国は毎月お互いの兵力を報告し合っており、
その際、他の列国に通知すればいいだけでした。

1901年 北京議定書 締結の際、
日本に割り当てられた兵数は1570名でしたが、
長征で共産軍の一部が山西省に侵入した事を
日本陸軍が重視した事に伴い、支那北部における日本の権益と
北平・天津地方で増加する日本居留民の生命財産を保護する
兵力の不足が心配されたこと等の理由により、
日本軍北支那駐屯軍は1936年6月、1570名から5774名に増強し、
主力を天津に、更に北平城内と北平の西南にある豊台に
一部隊ずつを置きました。

これに対して、北支に展開する国民政府29軍の兵数は10万人であり、
このような状況下で
日本軍から紛争を起こすなど考えられないことでした。

参考 Wikipedia 『盧溝橋事件』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A7%E6%BA%9D%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6

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日本軍の豊台駐留について
『軍兵力並配置に関する参考資料の件(支駐)昭和11年(1936年)3月4日』
(作成者:支那駐屯軍參謀長 永見俊徳)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-686.html

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1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件。

『大東亜戦争への道』 中村粲(あきら)著 1990.12.8 (展転社)
P382~384、389~392、397~401 より、ところどころ引用。

昭和12年(1937年)7月7日、夜10時40分頃、
北平西方12kmの盧溝橋北側の永定河左岸荒蕪地で
演習を終了した支那駐屯歩兵第一聯隊第三大隊第八中隊に対して、
突如、数発の銃弾が河畔堤防の竜王廟付近よりなされた。

この際、清水節郎中隊長、野地第一小隊長、岩谷曹長、安保分隊長らが、
堤防と盧溝橋城壁の中国兵の間で、懐中電灯の点滅による信号が
交わされているのを目撃した。

・昭和13年7月『偕行社』特報「事変発端の思出」陸軍歩兵中尉野地伊七
・昭和62年5月『支駐歩一会々報』盧溝橋事件50周年特集号
「盧溝橋事件の回想」安保喜代治
・支那駐屯歩兵第一聯隊「盧溝橋付近戦闘詳報第一号」

すると再び今度は十数発の銃撃が我が軍に向かって浴びせられ、
我が軍は伏せの姿勢でこれを避けた。

この事実は2つのことを示唆する。
【1】堤防上にいた中国兵は盧溝橋城内の者と共謀関係にあり、
密接に連絡し合っていたこと。
【2】日本軍に対する銃撃は予定され準備された意図的な犯行であったこと。

銃撃を受けた我が中隊は直ちに集合したが、
この時、兵一名が行方不明であることが分った。
(20分後にこの兵は帰隊した)。

清水中隊長は岩谷曹長とラッパ兵の2名を乗馬伝令として豊台に走らせ、
一木漬直大隊長に事態を報告させた。

更に大隊長らの電話報告を受けた北平の牟田口廉也第一聯隊長は、
夜明けを待って蘆溝橋上の中国軍営長と交渉するよう命令した。

また聯隊長は北平特務機関に連絡、特務機関は不拡大方針に基づき、
日支双方の代表から成る軍使を現地に派遣することを決めた。

軍使は、中国側は宛平県長・王冷斎、随員として冀察政務委員会の林耕宇、
特務機関から桜井徳太郎・29軍顧問と寺平忠輔補佐官、
それに北平憲兵分隊長・赤藤庄次少佐が同行し、
牟田口聯隊長が警備司令官として北平に留まるため、
その代理人として森田徹中佐が参加することになった。

開門交渉のため桜井顧問のみ直ちに現地に直行し、
軍使一行は8日午前4時、北平の連隊本部を出発した。

この間、現地の清水中隊は中国側に対して一発の応射もせず
約2km東の西五里店に移勤し、豊台を発した第3大隊に合流、
同大隊は一文字山を占領した。

その直後の3時25分、再び竜王廟方向より3発の不法射撃が行なわれた。
一木大隊長より再度発砲の件につき電話報告を受けた連隊長は、
「3時25分と言えば既に彼我の識別が明瞭」にできる時刻であり、
日本軍と知りつつ二度まで不法射撃を加えるのは
侮辱であるとして戦闘開始を許可する。

この時、重大命令であるとして時刻の確認がなされた。4時20分であった。
以て我軍の軍律の厳しさを知るべきであろう。

西五里店から一文字山へ戻る途中、
大隊長は北平より車で来た中国第29軍顧問・桜井徳太郎少佐と出会い、
秦徳純(北平市長・第29軍副軍長)が桜井に
「中国兵は蘆溝橋城の外には一兵も居ない。発砲したのは匪賊かも知れない。
城外に居る者は自由に攻撃してよい」
と語ったことを聞かされる。

◆我が軍、7時間の隠忍自重

このような状況下で一木大隊が竜王廟付近の中国兵に対して
攻撃を開始せんとした時、先刻の軍使一行が一文字山に到着、
聯隊長代理として同行していた森田徹中佐は
歩兵砲隊長・久保田大尉に対し、弾薬の装填禁止を命じた。

森田中佐は、軍使出発後に聯隊長が一木大隊長に
電話で与えた戦闘許可を知らず、聯隊長代理として不拡大方針で
支那側と交渉に当らんとしたのである。

しかし久保田大尉は直属上官たる大隊長の命令に忠たらんと決意し、
部下に装填を命じ、砲撃命令を下した。

この時、森田中佐は、正に火を噴かんとする歩兵砲の前に
身を挺して発砲を阻止した。
(支那駐屯歩兵第一連隊「蘆溝橋付近戦闘詳報第一号」、
寺田淨『第一線の見た蘆溝橋事件記』、日比野士郎『一軍人の生涯』)
身を以て危局を救おうとしたのである。

因に森田中佐は昭和7年第一次上海事変の時の爆弾三勇士の指揮官であり、
のち昭和14年8月、ノモンハンの戦闘で戦死した。
その勇猛果敢で知られた森田中佐にしてこの通り。
現地日本軍の不拡大への誠意はかくの如くであった。

大隊長は、森田中佐の諒解を得るには時聞がかかることを考え、
攻撃を中止して部隊に朝食を取らせた。

この時、軍使一行は、蘆溝橋城内で
金振中営長(大隊長に当たる)と交渉に入ったところであった。

然るに我が軍の攻撃中止を怯懦と誤った竜王廟の中国兵は、
俄然、我が軍に猛射を浴びせてきた。
事ここに至って我が軍も遂に反撃の火蓋を切った。

時まさに7月8日午前5時30分。最初の不法射撃を受けてから実に七時間、
一発の応射もせず隠忍自重を堅持した我が軍であったが、
攻撃に移るや忽ち竜王廟の敵を撃滅し、永定河右岸に進出した。

この戦闘で敵兵の遺体を調査した結果、手帳が発見され、
その中に直系上官名として、第29軍長・宋哲元、第37師長・馮治安、
第110旅長・何基(さんずいに豊)、第219団長・吉星文、第3営長・金振中、
第11連長・耿錫訓の名が記されて居り、
紛れもなく29軍正規兵であることが判明したのである。

「城外に中国兵は一兵も居ない」
という秦徳純の断言(城内の交渉で金振中も同じことを確言した)
は嘘だったのだ。

以上は蘆溝橋事件勃発時の概況であるが、
不法発砲者が日中いづれの側の仕業であるか、おのづから明らかであろう。
我が部隊の7時間にわたる隠忍自重は
我が方に開戦意図が全くなかったことを立証するものである。

◆『金振中 回想』

『中央公論』昭和62年12月号『金振中 回想』(金・盧溝橋守備隊長の回想)
によれば、盧溝橋事件前日の7月6日、日本軍の盧溝橋攻撃演習を目撃し、
日本軍の後方から、
「戦車の轟々たる音が近づいて来るのが聞こえた」
と書かれているが、
天津に駐屯していた支那駐屯軍戦車隊一個中隊は、
盧溝橋事件後の7月28日の南苑攻撃には参加したが、
盧溝橋事件発生前日の7月6日に盧溝橋付近に出動した事実はない。

また、
「漆黒のように暗いこの雨の夜に
日本軍が演習を行なうのは宛平城の奇襲を企画するものであり」
と書かれているが、
■七日深夜の天気は晴れであった。

●清水中隊長の手記
「この夜まったく風なく空は晴れているが月なく、
星空に遠くかすかに浮かぶ盧溝橋城壁」

●時刻を追って盧溝橋事件を記録した北平特務機関の『業務日誌』
「七月八日(晴・曇・雨)」

この事件記録は8日の午前0時10分から始まっていることを考えれば、
7日深夜は晴であったことになる。

また、7日午後11時すぎに日本軍が何の理由も警告もなく、
宛平県城を突如「砲撃」して死傷者を出した事になっているが、
日本軍は10時すぎに堤防上の中国軍からの最初の不法射撃を受けてから、
翌朝5時30分まで一発の応射もしていない。
砲兵隊が現地に到着したのは8日午前3時20分である。
7日午後11時に盧溝橋城を「砲撃」できるはずがない。

さらに、
「8日朝6時頃、日本側代表は失踪兵捜索のため
宛平県城への入城を要求し、拒否すれば砲火で宛平県城を廃燼と化す。」
と日本側が強要したように書かれているが、
この日本側が要求してきた「朝6時頃」という時刻は
東京裁判で秦徳純が証拠として提出した『七・七事変紀美』のなかでも、
日本側が要求してきた時刻を「午前5時前後」としてあり近い時刻であるが、

失踪兵士は7日の午後11時には帰隊していたし、
この失踪兵の帰隊は、8日午前2時に宛平県長の王冷斎に連絡済みであり、
この事は王冷斎が自身の『七七回憶録』のなかでも書いている。

日本側から失踪兵士発見の報告を受けた王冷斎は
日本側軍使と共に午前5時に宛平県城に入っている。

失踪兵は既に帰っていたし、それを報告していたのに、
それから何時間も経って、
また失踪兵捜索のための宛平県入城を要求することなど有り得ない。

◆事件を予期しなかった我が軍

日本側に戦争計画など全くなかったことは、いくつかの事実が立証する。

例えば清水中隊は空包の他に万一の場合に備えて
各自実包30発を携帯していたが、実包は厳重に包装され、
間違っても使用できない状態になっていた。

第8中隊の兵器係をしていた阿部久六・軍曹によれば、
「演習の際、小銃は一統当たり空包5発、それに外地という特殊事情から
警備用として実弾30発、軽機関銃は実弾120発携帯することになっていたが、
実弾は自由に使用できぬやう、15発づつ固いボール紙で包装した上、
みだりに開封できぬよう木綿糸がグルグルまいてあった。

これを2箱計30発を薬盒に入れて携行していた。
左側の薬盒には実弾を、右側の薬盒には空包を入れていたので、
闇夜でも実弾と空包を間違えることはなかった。

のみならず隊長の『実弾使用』の明確な命令がない限り
実弾は使えない仕組みになっていた。

軽機の場合はこれが更に厳重で、
銃身に『実包銃身』と『空包銃身』とがあり、
常に『空包銃身』を取付けていたので、狂人でもない限り
実弾と空包を間違えることはなかった」という。
(読売新聞社『昭和史の天皇』15)

このことは阿部軍曹から筆者自身、直接に聞いて確認している。
同じことは同中隊の他の兵士も証言して居り、我が軍は士官の命令なき限り、
間違っても実弾は使用できないようになっていたのだ。
日本軍が実弾の誤用を防止するために、
いかに入念な配慮をしていたかが分かるであろう。

開戦の口実を作り出すための部隊であったならば
考えられない慎重さではなかろうか。
この点が、空包がない上に、士官の命令も許可もなしに
兵士が勝手に射撃をする軍紀乱れた中国軍との大きな相違と云えよう。

空包による演習は中国側に予告する必要はなかったが、
中国側の特別の希望でもあり、7月7日蘆溝橋での夜間演習は、
4日に中国側に通告してあった(寺平忠輔『蘆溝橋事件』)。

しかも当日、白昼から堤防上で作業していた200名以上の中国兵は
夕方から清水中隊の演習を眼前に見ていたのであるから、
それを実戦と誤解した筈はない。

のみならず、同中隊はその夜の演習に鉄帽さえ携行していなかった。
清水中隊長は2日後に予定された中隊教練検閲を控えて兵の過労を防ぐため、
鉄帽も携行させていなかったのである。
我が軍は鉄兜なきまま中国軍との紛争に巻き込まれて行ったのだ。

清水中隊長はこれについて「険悪な情勢を軽視し、恥づかしい失態であった」
と手記で述べているが、第8中隊が鉄兜を携行していなかった事実は、
同部隊が中国軍との交戦を全く予期していなかった事を証明するものである。

この一事を以てしても、日本軍謀略説は崩壊する外ない。
鉄帽不所持は我が軍が交戦を予想していなかったことを
立証する決定的事実と言ってよい。

これらに加えて、一般には知られて居ないことだが、
我が軍の暗号書不携行の事実を指摘しておこう。

現地の河辺旅団の暗号書は事件前月の昭和12年6月に改定され、
隷下部隊に配布予定中たった。
事件発生の翌7月8日夕刻、旅団司令部は豊台に進出したが、
新暗号書は旅団と共に移動せず、北平・東交民巷の
旅団司令部の鉄製行李の中に納められたままだったのである。

副官や担当下士官は何故暗号書を司令部と共に移動させなかったのか。
恐らく、今回の事件も従来と同じく、
すぐに解決するものと期待していたからであらう。

それ故、事件が拡大するや、
旅団司令部は無線電話と逆文(例へば旅団を「ンダヨリ」と書く)
で発受信する他なかった。
暗号書が旅団に運ばれたのは漸く7月15日になってからで、
28日南苑攻撃の時にはこの暗号が使われている。

事件勃発当初、我が旅団司令部が暗号書を現地に持参しなかったことは、
その不用意はともかく、我が軍にとって
事件が寝耳に水であったことを物語る有力な傍証ではなからうか。

前述の通り、最初の発砲者に関しては諸説がある。
その中で、最も無理と矛盾が多く、
事実である可能性の少ないものが「日本側発砲説」なのである。

昭和12年(1937年)5月、射撃演習に赴く途中、
支那側に盧溝橋城通行の交渉をする第8中隊初年兵係教官の野地伊七少尉(後ろ姿)。
昭和12年(1937年)5月、射撃演習に赴く途中、支那側に盧溝橋城通行の交渉をする第8中隊初年兵係教官の野地伊七少尉(後ろ姿)。
(第8中隊兵器係軍曹 阿部久六氏 撮影)
昭和12年(1937年)5月、射撃演習に赴くため盧溝橋城を通過する第8中隊
昭和12年(1937年)5月、射撃演習に赴くため盧溝橋城を通過する第8中隊。

―――――――――――――――――
『支那駐屯歩兵第一連隊戦闘詳報』 ■現代語訳■
盧溝橋城内通過に関しては昨年豊台駐屯当初においては
我が部隊の通過を拒否することがあったので
これに抗議し通過に支障ないようにし、
特に豊台事件以後においては支那軍の態度が大いに緩和し
日本語の解かる将校を配置して誤解ないように努めたことを認めるが、
最近になって再び我が軍の城内通過を拒否しその都度交渉する煩瑣を要した。
(※豊台事件は1936年6月26日と9月18日)

『支那駐屯歩兵第一連隊戦闘詳報』 ■原文のまま■
盧溝橋城内通過ニ関シテハ昨年豊台駐屯当初ニ於テハ
我部隊ノ通過ヲ拒否スルコトアリシヲ以テ
之ニ抗議シ通過ニ支障ナカラシメ
特ニ豊台事件以後ニ於テハ支那軍ノ態度大ニ緩和シ
日本語ヲ解スル将校ヲ配置シ誤解ナカラシムルニ努メシ跡ヲ認メシモ
最近ニ至リ再ヒ我軍ノ城内通過ヲ拒否シ其都度交渉スルノ煩瑣ヲ要シタリ

―――――――――――――――――

◆真犯人を不問に付した東京裁判

東京裁判の蘆溝橋事件に関する判決文には
支那駐屯日本軍の数をはじめ、大小の誤りや虚偽が含まれているが、
最も奇妙なことは、最初の不法射撃について何等言及する所なく、
ただ「緊張と不安の雰囲気の中で」事件が発生したという
漠然たる表現に留っている点てある。

満洲事変の発端となった柳条溝の満鉄爆破については
日本軍部の謀略として厳しく責任が追及されたのに比べて、
蘆溝橋の発砲者が何者であったかは殆ど追及されることなく、
緊迫した状況を作り出した日本側に責任がある、といふ風に
論理のすり替えが行なわれたのであった。

それは何故か。
恐らく、最初の発砲者について深く追及を進めて行くと、
中国側に不利な証拠が出てくることを惧れたためであろうと思われる。

それにしても、満洲事変段階では満鉄爆破事件を執拗に追及して
事変の歴史的背景に対する検討を無視した裁判所が、
支那事変段階では逆に日支衝突の直接原因である不法射撃については
深く問はず、事件の背景を重視する裁判姿勢を採ったことは、
あくまでも日本を有罪にせんとする意図に出たことは疑いの余地もなく、
裁判に於ける斯かるダブル・スタンダード(二重基準)は、
東京裁判が結局は政治裁判であり、
政治的復讐劇以外の何物でもなかったことを遺憾なく物語っている。

◆不拡大への努力

さて、蘆溝橋の事態に我が国はいかに対応して行ったか。

事件発生翌日の8日、陸軍中央と外務省は
直ちに不拡大・現地解決の方針を決めた。
9日の臨時閣議で杉山陸相は内地3個師団の派兵を主張したが、
広田外相はじめ全閣僚が全面戦争誘発の危険ありとして反対し、
また閣議中に現地停戦協議成立の報が入ったこともあり、
派兵提案は見送られたのであった。

一部の強硬論が全体の不拡大意思によって押さえられたのであり、
まずここに我が政府全体としての平和的意図を看取すべきである。
(註)松井(太久郎)・北平特務機関長、
今井(武夫)・陸軍武官と秦徳純・第29軍副軍長、馮治安・第37師長らの間で
交渉が進められた結果、
9日午前2時に至って、次の3項の停戦協議が成立した。
1.双方は直ちに射撃を中止すること。
2.日本軍は豊台へ、中国軍は永定河右岸へ撤退すること。
3.宛平県城の守備は対日敵意やや濃厚な第37師を転配し、
冀北保安隊に担任させること。

当時、河辺旅団は、9日天明を期して宛平県城の攻撃を
開始する態勢にあったが、停戦協議成立の報を得たので、
河辺旅団長は9日午前3時に攻撃準備中止を命令し、
旅団兵力を蘆溝橋付近に集結して、
中国軍の協定履行の確否を監視するものであること、
また支那軍撤退に際しては敵対行動をとったり、
また宛平県城内に兵を進めることを厳禁することを命令した。

然るに現地では中国軍が協議で約した撤退をせず挑発を続け、
しかも中央軍北上の報も伝えられたため、
政府は10日、関東軍より2個旅団、朝鮮軍より1個師団、内地3個師団を
派兵することを内定、
翌11日「差当り内地3個師団」を派兵する事を閣議決定し、これを公表した。

ところが11日夜8時、現地停戦協定が成立したため、
我が政府は内地師団動員を見合わせるとともに、
現地軍に不拡大方針を再確認させるため陸軍省の柴山軍務課長と
参謀本部の中島総務部長を派遣した。

ただし、在南京武官から、南京統帥部は飛行部隊と中央軍4個師団の
河南省北部省境への集中を命じたとの報が入ったため、
満鮮の部隊には予定通り行動をさせることとし、11日この旨を命令した。

(註)現地停戦協定は次の通りである。

1.第29軍代表は日本軍に遺憾の意を表し、かつ責任者を処分し、
将来責任を以て再びかくの如き事件の惹起を防止することを声明す。

2.中国軍は豊台駐屯日本軍と接近し過ぎ、事件を惹起し易きをもって、
蘆溝橋付近永定河東岸には軍を駐屯せしめず、
保安隊をもってその治安を維持す。

3.本事件は、いわゆる藍衣社、共産党、
その他抗日系各種団体の指導に胚胎すること多きに鑑み、
将来これが対策をなし、かつ取締りを徹底す。

◆二度も派兵を中止した我が国

だが、この停戦協定は忽ち中国側によって破られた。
13日午前10時、北平大紅門通過中の
我が天津砲兵聯隊第2大隊修理班が中国兵に襲撃され、
我が兵4名が爆殺された。停戦協定から40時間と経っていなかった。

14日には、天津駐屯騎兵隊が通州を経由して豊台に向う途中、
落鉄のために遅れた近藤二等兵が中国兵に襲撃され、
惨殺される事件が発生した。
近藤二等兵は軽機の銃弾を6発受けて即死し、倒れた後、
青竜刀で頭を2つに割られ、脳漿はなく、右脚も無残に斬り落とされていた。
眼も当てられぬ残忍な殺し方であった。

19日、停戦協定中の第3項排日取締りに関する細目協定が成立した。
それは、共産党の策動を抑制すること、
排日団体、排日運動を取締まること等の他に、
冀察側は自発的に北平城内に在る第37師の部隊を
他に撤去させることとなっていた。

第29軍軍長・宋哲元は、北平付近の37師を永定河西岸、更に保定へ移駐させ、
その後の北平城内は主として保安隊で治安を維持させる計画であった。

ところが翌20日、保安隊と交代するため撤退する筈の蘆溝橋城の中国軍が、
悔し紛れからか、突如我が部隊に一斉射撃を仕掛けてきたため、
我が軍も遂に蘆浪橋城壁に対して砲撃を行なった。

中国側の不法攻撃に、我が政府は同日夜、
動員発令後も事態が好転すれば直ちに復員するという条件つきで、
陸軍中央が前日に内定していた内地3個師団の派兵を承認した。
2度目の派兵決定であった。

しかし翌21日、現地に派遣していた柴山軍務課長らが帰京、
天津軍は目下、満鮮からの増派部隊で充分であり、
内地師団の派兵は必要ない旨の報告を行ない、
また天津軍参謀長よりも、冀察が19日の細目協定を実行しつつあり、
北平城内の第37師が保定方面への撤退を開始したことを伝へてきたため、
陸軍中央は22日、再度内地師団の派兵を見合わせることに決した。

実に2度、内地師団の派兵を決定し、2度中止したわけである。

◆3週間の不拡大方針も空し

しかし日本側の善意と忍耐も空しかった。
25日には廊坊の電線修理に派遣された我が電信隊1個中隊が
中国軍に包囲、攻撃される廊坊事件、
26日には北平居留民保護のため中国側と諒解を遂げた上で
北平・広安門を通過中の天津駐屯第2連隊第2大隊(広部広大隊長)が、
城壁上の支那軍より乱射を浴びた広安門事件が発生、
我が軍は2度にわたって中国軍の騙し撃ちに遭ったのである。

広安門事件こそ、陸軍不拡大の中心たる石原莞爾作戦部長をして
「遷延は一切の破滅だ」との悲痛な言葉を吐かせたのであり、
事ここに及んでは我が軍も遂に不拡大方針を一擲せざるを得なくなった。

27日、陸軍中央は三たび内地3個師団の動員を下令した。
閣議は直ちにこれを承認し、ついで勅裁を仰いだ。

派兵の要領は
①第5、6師団を応急動員、第10師団を本動員する。
②第20師団を本動員する。
③独立装甲3個中隊、戦車1個大隊その他を派遣する、
というものであった。

また貴衆両院は各院議をもって陸海軍将兵に対する感謝決議を行なった。
我が国は中国軍一片の誠意に信を置き、
それ故に事件発生以来3週間にわたってあらゆる侮辱に耐へ、
隠忍自重に努めた。

だがここに至っては武力不行使の大方針も放棄する他なく、
28日未明、天津軍は29軍に開戦を通告、同払暁より全面攻撃を開始、
中国軍は忽ち算を乱して南へ敗走、はやくも翌29日、
我が軍の平津(北平・天津地方)掃蕩作戦は終了したのであった。

そしてその29日、北平東方の通州にて中国保安隊が
日本人居留民約260人を虐殺する「通州事件」が起きた。

―――――――――――――――――

1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件。

平成18年、正論10月号
長澤連治・元支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第二小隊第二分隊長

日本軍駐留のきっかけとなったのは、
1900年、宗教・政治結社である義和団が、
外国人排斥を旗印に北京の外国公館を襲撃したことであった。

時の清国政府は傍観した(裏では暴動を煽った)ため、
やむなく日本、ロシア、アメリカ、ドイツ、フランス、オーストラリアなど
11カ国が共同出兵して暴動を鎮圧した。

そして翌1901年、各国政府は清国政府と
「北清事変に関する最終議定書」を結び、
首都の北京に列国公使館区域を設定する(第七条)とともに、
中国在住の自国民を守るため、外国軍隊の北京・天津地区における
無期限の駐兵を認めさせた(第9条)のである。

更に同議定書の「交換公文」において、
各国軍隊には、鉄道沿線において犯罪捜査を行い、
犯罪者に対して懲罰権を行使する権限や、
清国政府に通告することなく実弾射撃以外の訓練や演習を
行う権限も付与された、という解釈が確立されていた。

このように中国政府との合意に基づいて各国は、
北京・天津地域を守るため軍隊を駐留させていた。

その規模は、盧溝橋事件当時(昭和12年)、
イギリス軍1000名
アメリカ軍1220名
フランス軍1820名
イタリア軍300名
であった。

居留民が33000名に達していた日本の場合、約5600名が駐留していた。

当時、日本軍の支那駐屯歩兵第一連隊第3大隊は、
北京郊外にある盧溝橋から
北西約4キロに位置する豊台に駐屯地を置いていた。
この第3大隊第8中隊の133名が7月7日深夜、
盧溝橋周辺の永定河の河床地帯で実弾を使わない夜間演習を
行っていたところ、午後10時40分頃、突然実弾射撃を受けた。

その後も午後10時50分頃に2回目の実弾射撃があり、
翌日の午前3時20分頃、3回目の実弾射撃を受けた。

3回もの実弾射撃を受けて、
その「犯人」が中国の第29軍か匪賊であるかを確かめる為、
第3大隊が永定河左岸堤防に向け前進すると、
午前5時30分、永定河左岸堤防に布陣していた第29軍が一斉猛射撃を開始し、
日本側も前夜以来初めてそれに応射、ついに全面衝突となった。
これが、いわゆる「盧溝橋事件」である。

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

『シナ大陸の真相 1931~1938 K・カール・カワカミ著』
P9
【1938年2月 元駐日イギリス大使 ジョン・タイリー】
この本は、英国の読者が現在の日本の置かれた立場
および、その考え方を理解するのに大変役に立つだろう。
それらをカワカミ氏は実に明快に説明している。
我々が そのような見解を最終的に受け入れるかどうかは別として、
少なくとも我々が この本の趣旨を理解し、その底に流れている誠実さを
評価することは極めて大切である。カワカミ氏の適切な導きのおかげで、
我々は容易にそれをなすことができるだろう。
―――――――
P139~140
・・・
北京・天津地域に軍隊を駐留させている国は日本だけではない、
ということに留意せねばならぬ。
日本軍の派遣部隊がChina軍によって銃撃された当時、
この地域の諸外国の守備部隊の内訳は次の通りであった。
日本………4080名
アメリカ…1227名
イギリス…999名
フランス…1839名
イタリア…384名
この地域には17000人の日本人住民が居て、
それを4080人の日本兵が守らねばならなかったが、
これは兵士1人につき住民4人強の割合である。
同地域のアメリカ人とヨーロッパ住民の合計は10338人で、
彼らは4449人の軍隊の保護に頼っていたが、
これは兵士1人につき住民2人強の割合である。
これらの外国の守備隊は、
いわゆる義和団議定書に従って そこに駐留しているのである。
というのは その議定書は、挙匪の乱として知られる大規模な
排外暴動の直後に外国人の安全を守る目的で締結されたからである。
この挙匪の乱は当時の中国政府の暗黙の承認のもとに、
中国の全ての外国人を絶滅しようとしたものであった。
この乱から37年たった今日、列強諸国は、その各々の国民の生命と財産を
中国警察および中国軍の あやふやな保護に委ねることに、
いまだに安心感を持てないでいる。
北京付近でイギリス、アメリカ、日本の守備隊は、
各自にそれぞれ割り当てられた場所で定期的な軍事演習を行なっている。
アメリカ軍は「幸福の谷」という名のついた場所を使用し、
イギリスおよび その他の国の軍は
アメリカの演習場の北にある場所を使っている。
日本軍の演習場はマルコ・ポーロ橋の近くの平坦な土地である。
ここでマルコ・ポーロ橋事件に話題をもどすと、
150名の日本軍は7月7日の夜、中国軍に銃撃された時、
実弾を携行していなかったので反撃の火蓋を切らなかったし切れなかった。
・・・

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

平成19年 WILL 3月号
茂木弘道「史実を世界に発信する会」事務局長

日本軍が攻撃などする理由はありえない。
当時、北京議定書に基づき北京、天津などに居留民保護のために
駐屯していた日本軍は5600名であった。
これに対して、北支に展開する国民政府29軍は約10万である。

当時、日本軍の総兵力は内地海外合わせて(含関東軍)25万であった。
これに対して蒋介石中国軍は225万人である。
さらにソ連軍は130万人を数え、うち40万人が極東に配置されていた。

このような状況下で、日本軍が紛争を起こすなど考えられないことである。

―――――――――――――――――

『盧溝橋事件』 寺平忠輔 著 (読売新聞社刊)

日本側に、冀察政務外交専員の林耕宇から
「空砲で演習する場合でも、あらかじめ中国側に通告して欲しい」
との要請があり、特務の方で検討する事になりました。

北清議定書では、
実弾射撃の場合は通報する事になっていますが、空砲の場合は規定されていません。

「日本だけ勝手に規定を変える事はできない、
ここは他の列強と協議してからでなければ」

「しかし、今、不穏なこの時期、間違いがあれば大変な事になる」

「ここは一時的に彼らの要求を通したら」

という事で、
『7月6日、7日、9日、10日の4日間、
日本軍が盧溝橋の原で昼夜空砲を使って演習する』
という通告が、その日の晩に、中国側に通達されました。

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1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件

★中国側の行為
●現地日本軍の対応
■日本政府、陸軍中央の対応

―――――――

7月7日
22:40
★盧溝橋付近に駐屯していた日本軍(支那駐屯軍)が演習を終えた時、
突如、数発の銃弾が河畔堤防の竜王廟付近よりなされた。

当時はわからなかったが、支那の共産分子が
日本軍に銃撃を行なったのだった。
日本軍と国民党軍をけしかけるために行なった支那共産党の陰謀であった。

★再び十数発の銃撃が日本軍に向かって浴びせられた。

●日本軍は軍使を派遣することになった。

7月8日

3:25
★再び竜王廟方向より三発の不法射撃が行われた。

4:20
●砲撃を受け、日本軍の連隊長は攻撃を許可したが、
事件拡大を恐れて、直前で攻撃を中止した。

5:30
★日本の攻撃中止を臆病だと思った竜王廟の支那兵は
日本軍に猛射を浴びせてきた。

●事ここに至って日本軍もついに反撃の火ぶたを切った。
最初に不法銃撃を受けてから実に7時間、
一発の応射もせず隠忍自重を堅持したのだった。

●この戦闘で敵兵の遺体を調査したところ、
攻撃していたのは支那29軍正規兵であることが判明。

■事件の不拡大、現地解決を決定する。

■杉山陸相は内地3個師団の派兵を主張したが、
広田外相をはじめ全閣僚が全面戦争誘発の危険ありとして反対。

7月9日
2:00
★現地停戦協議成立。

●当時河辺旅団は、宛平県城の攻撃を開始する体制にあったが、
停戦協議成立の報を得たので、攻撃準備停止を命令。
■停戦協議成立を受け、派兵提案は見送られる。

7月10日
★停戦協議が成立したにもかかわらず
支那軍が協議で約した撤退をせず挑発を続ける。

■支那の挑発に加え、中央軍北上の報も伝えられたため、
政府は関東軍より2個師団、朝鮮軍より1個師団、内地3個師団を
派兵することを内定。

7月11日
■差し当たり内地3個師団を派兵することを閣議決定。

8:00
★●■停戦協定が成立

■停戦協定成立を受け、内地師団動員を見合わせる。
■盧溝橋事件を「北支事変」と命名する。

7月13日
10時
★停戦協定はまたもや支那側によって破られた。
北平大紅門を通過中の日本の天津砲兵隊修理班が支那兵に襲撃され、
4名が虐殺される。停戦協定から40時間と経っていなかった。

7月14日
★天津駐屯騎兵隊が通州を経由して豊台に向かう途中、
落鉄のために遅れた近藤二等兵が支那兵に襲撃され、惨殺される。
近藤二等兵は軽機の銃弾を六発受けて即死し、
倒れた後、青竜刀で頭を二つに割られ、脳漿はなく、
右脚も無残に切り落とされていた。目も当てられぬ残忍な殺し方だった。

7月19日
★●■停戦協定中の第三項排日取り締まりに関する細目協定成立。

7月20日
★協定に基づき保安隊と交代するため撤退するはずの盧溝橋城の支那軍が
日本軍に一斉射撃を開始。

●支那の一斉射撃に対して、日本軍も盧溝橋城に対して砲撃を行う。
■支那側の不法射撃に、日本政府は同日夜、動員発令後も事態が好転すれば
直ちに復員するという条件付きで、陸軍中央が前日に内定していた
内地三個師団の派兵を承認。(二度目の派兵決定)

7月21日~22日
■現地から戻った軍務課長から、満洲・朝鮮からの増派で十分であり、
内地師団の派兵は必要ない旨の報告を受ける。
また、天津軍参謀長よりも、冀察が19日の細目協定を実行しつつあり、
支那軍が撤退を開始したことを伝えてきたため、
再度内地師団の派兵を見合わせる。

7月25日
★日本側の善意と忍耐も空しかった。
廊坊(ろうぼう)の電線修理に派遣された日本の電信隊一個中隊が
支那軍に包囲され、攻撃される。(廊坊事件)

7月26日
★北平(北京)居留地保護のため支那側と諒解を遂げた上で
北平・広安門を通過中の天津駐屯軍が、城壁上の支那軍より乱射浴びる。
(広安門事件)

■二回にわたる騙し討ち(廊坊事件・広安門事件)を受け、
不拡大方針を変更せざるを得なくなり、
陸軍中央は見合わせていた内地三個師団の動員を命じる。
陸軍不拡大の中心たる石原莞爾までもがあきらめた。
閣議はただちにこれを承認。

7月27日
■「北支事変」を「日支事変(日華事変)」と改める。

7月28日
■日本は支那軍の一片の誠意に信を置き、
それゆえに盧溝橋事件発生以来三週間にわたってあらゆる侮辱に耐え、
隠忍自重に努めた。だがここに至っては
武力不行使の大方針も放棄する他なくなる。

●日本軍(天津軍)は支那第29軍に開戦を通告。同払暁より全面攻撃を開始。

7月29日
★支那第29軍は南へ敗走。
●日本軍、平津(北平・天津)地域の平和を回復する。

★北平東方の通州で、支那保安隊による大規模な日本人虐殺事件が発生。
(通州事件)

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【参考】 『大東亜戦争への道』 中村 粲(あきら)著 (展転社)

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以下、他の資料から

1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件

●1937年(昭和12年)7月4日、北平支那駐屯軍歩兵旅団司令部は、
7月6、7、9、10日の昼夜に空砲に於ける演習を支那側に報告。

●7月7日、19時30分、日本軍・清水第八中隊は対ソ戦法を演習開始。

●7日、20時30分、清水第八中隊演習終了。

●7日、20時40分、演習場西方の竜王廟の支那兵から実弾十数発を
日本軍に向けて二度発砲。
清水中隊長は集合を掛け、志村菊次郎二等兵が行方不明である事が判明する。

●7日、23時、志村菊次郎二等兵発見。

●7日、23時57分から58分、清水中隊長が豊台に発した騎馬伝令の報告を
一木大隊長が受ける。一木大隊長は北平に居る牟田口聯隊長へ報告。

●7月8日、零時十分、旅団副官からの報告を電話で
松井太久郎北平特務機関長が受ける。

●8日、0時20分、牟田口聯隊長から松井太久郎北平特務機関長へ報告。

●8日、0時30分、松井機関長から冀察政務委員会外交委員会・林耕宇に連絡。

●8日深夜、北京大学構内から延安の中共軍司令部に向けて
「成功した(成功了)」と打電。情報部北京支部長・秋富繁次郎大佐が
これを傍受『2052 0501 0055(成功了)』

●8日、2時、一木大隊長、演習場東南方の西五里店に於いて清水中隊を収容。
こゝで一木大隊長に『行方不明の兵発見』を報告。
一木大隊長が西五里店で聯隊本部へ電話連絡。

●8日、2時20分、松井機関長、『行方不明の兵発見せり』の報告を
旅団副官から受ける。
事態の顛末を聴く為、北平に召集した宛平県長・王冷斎に対し、
『行方不明の兵発見せり』と告知。

●8日、3時20分、一木大隊、一文字山を占領。

●8日、3時25分、竜王廟の支那兵、三発発砲。

●8日、3時25分、日支の軍使一行が現地に向かう為に北平出発。

●8日、4時20分、一木大隊長、西五里店より牟田口聯隊長へ
『支那兵からの再発砲』を電話報告。
牟田口聯隊長、『敵味方の識別が可能な時刻で敢えて攻撃したからには、
これは我軍への侮辱である』とし、
『再度発砲された時は撃ち返して宜しい』と命令を下す。

●8日、4時30分?、第二十九軍顧問である松井徳太郎と一木大隊長が遭遇。
松井徳太郎が北京市長・秦徳純の話を伝える。

●8日、5時、一文字山に戻った一木大隊長が
久保田少尉に攻撃準備命令を発す。
日支の軍使一行が一文字山に到着し、
森田徹中佐(聯隊長代理)が『不拡大方針』を徹底させる。

●8日、5時過ぎ、一木大隊が一文字山で朝食。

●8日、5時?分、日支の軍使一行が宛平県長・王冷斎、
冀察政務委員会外交委員会・林耕宇らと宛平県城にて話し合いを行う。

●8日、5時30分、支那軍が一文字山へ一斉射撃開始。
日本軍が応戦し僅か十五分で完全制圧。

●時刻不明、中国共産党中央委員会は、全国の各新聞社、各団体、各軍隊、
中国国民党、軍事委員会に抗日抗戦を呼び掛ける通電を発す。

●8日夕方、日本政府・陸軍中央は、事件不拡大、兵力不行使、
現地解決の方針を決定。
参謀本部は支那駐屯軍司令官に対し、臨時第400号を以って事件不拡大、
兵力不行使を打電。北京で停戦交渉が始まる。

●7月9日、日本政府、臨時閣議を開き、
杉山陸相が内地軍の派遣を主張するも通らず。

●7月10日、蒋介石の中央軍が北上しているとの知らせに、
日本政府は内地三個師団の派遣決定。

●7月11日、現地停戦協定成立
(遺憾の意の表明、責任者処分、宛平県城に保安隊を置き兵を撤兵させる、
排日を取り締まる)。
これを受け日本政府は、動員下令を見合わせる。
不拡大方針再確認の為、柴山軍務課長を現地に派遣する。

●7月13日、大紅門事件、
日本の修理部隊が支那軍の襲撃を受け四名の日本兵が爆殺される。

●7月14日、天津駐屯騎兵隊近藤二等兵が惨殺される。

●7月19日、排日取締りの為の細目協定成立。

●7月20日、宛平県城の支那軍、撤兵時に日本軍に一斉射撃。
日本軍、宛平県城の城壁に向け砲撃。
日本政府は内地三個師団の派遣を再決定。

●7月21日、柴山軍務課長帰国。『派兵の必要なし』と報告。
天津軍の橋本参謀長も同様の報告をする。
日本政府、再度内地軍の派兵を見送る。

●7月25日、郎坊事件、日本の電線修理部隊と援護部隊が
支那兵から突然襲撃を受ける。

●7月26日、広安門事件、中国軍が北京広安門から入城する。
日本の増援部隊に対して広安門城壁上から支那軍が襲撃。
第二十九軍顧問・松井徳太郎が銃撃され右足を三箇所骨折、
通訳は銃殺される。

●7月28日、天津軍開戦通告。不拡大方針の撤廃。

●7月28、29日、日本軍平津地区を攻撃、平定。

●7月29日、通州事件、冀東防共自治政府の保安隊二人が反乱を起こし、
日本人223人が虐殺される。
天津事件、支那軍潰走により事無きを得る。
天皇陛下、近衛首相に『外交で解決』を要請。

●7月31日、石原作戦部長、天皇陛下へ『速やかに撤兵』との考えを述べる。

●1937年8月1日、石射外務省東亜局長が和平提案し、陸海軍も同意する。
停戦交渉案と国交調整案を作成する。

(1)停戦交渉案
イ、塘沽停戦協定(昭和八年)廃止。
ロ、梅津・何応欽協定及び土肥原・秦徳純協定(昭和十年)廃止。
ハ、冀東防共自治政府・冀察政務委員会の解消。
ニ、日本軍を事変前に戻す。
ホ、満洲国を是認する。

(2)国交調整案
イ、上海停戦協定解消。
ロ、日本機の自由飛行停止。
ハ、冀東特殊貿易の廃止。
ニ、非武装地帯海面に於ける中国側密輸取締りの自由回復。

●8月4日、成都事件、日本人記者二人が殴殺される。

●8月9日、日支停戦協定会談開始。
大山事件、支那偽装保安隊によって大山勇夫中尉、
斉藤一等水兵が虹橋飛行場入り口付近で包囲され惨殺される。
船津和平工作が中止。

●8月1日から9日、2800名の日本人居留民を上海に引き揚げさせる。

●8月10日、第三艦隊司令長官・長谷川中将が、南京政府へ
『停戦協定区域内に於ける支那軍と軍事施設の撤去』を求める。

●8月11日、支那軍の偽装保安隊が上海停戦協定を無視して
協定線内に進入、陣地構築を開始。

●8月13日午前、午後と上海で支那軍が日本の陸戦隊に銃撃。
日本軍応射せず。午後八時、再び支那軍砲撃開始。
日本軍陸戦隊は支那の拠点を焼き討ち。

●8月14日、支那爆撃機が日本の第三艦隊旗艦「出雲」、
上海の日本の陸戦隊本部や総領事館、市街地、共同租界、
フランス租界を爆撃。日本政府、内地の二個師団の動員下令。

●8月15日、一時、日本政府、『盧溝橋事件に関する政府声明』を発表。
日本軍、南京の空軍基地を爆撃。
蒋介石、抗日抗戦総動員令を発布し大本営を設置。

●8月22日、内地二個師団が上海に上陸。

●1937年9月2日、日本政府、閣議で『支那事変』と改称。

●9月11日、日本軍、上海派遣軍編成。

●1937年10月20日、日本軍、第十軍編成。

●1937年11月2日、日本は和平仲介をドイツに依頼。
トラウトマン中華大使を通じ和平条件(船津和平工作時と同じ)を提示。
蒋介石はこれを拒絶。

●11月3日から15日、ブリュッセル九カ国会議に於いて蒋介石は、
西欧の力で日本を掣肘させようと企むが失敗。

●11月5日、日本軍第十軍が杭州湾に上陸。

●11月7日、日本軍、上海派遣軍と第十軍で中支那方面軍を編成。
作戦制令線を設ける。

●11月11日、蒋介石が南京死守を決定。唐生智が南京防衛軍司令官に就任。

●11月12日、上海陥落。

●11月15日、広田外相、J・グルー駐日米大使へ日支和平交渉開始説得を
要請するも、米国は積極的斡旋の努力をせず。

●11月20日、日本は大本営を設置。

●11月24日、作戦制令線を撤廃する。

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『新資料盧溝橋事件』 葛西純一編訳著
(昭和49年、中国人民解放軍政治部発行)
※葛西純一氏(=劉少奇)は元支那共産党軍(人民解放軍)将校。

◆劉少奇(葛西純一)
私が盧溝橋事件の仕掛人は中国共産党(北方局第一書記胡服こと劉少奇)
であると初めて知ったのは、
1949年(昭24)10月1日の北京政権誕生直後、
河南省洛陽市西宮に駐屯する中国人民解放軍第四野戦軍後勤軍械部
(兵器弾薬部)第三保管処に現役将校(正連級、日本の大尉に相当)
として勤務している時であった。

その頃、閉された中国大陸は『人民中国』の誕生にわきかえっていた。
中国人民解放軍総政治部発行のポケット版『戦士政治課本』
(兵士教育用の初級革命教科書で、
内容はいずれも中国共産党の偉大さを教えるものばかり)は、

「七・七事変(葛西注=中国では盧溝橋事件を一般にそう呼ぶ)は
劉少奇同志の指揮する抗日救国学生の一隊が決死的行動を以って
党中央の指令を実行したもので、
これによってわが党を滅亡させようと第六次反共戦を
準備していた蒋介石南京反動政府は、
世界有数の精強を誇る日本陸軍と戦わざるを得なくなった。
その結果、滅亡したのは中国共産党ではなく
蒋介石南京反動政府と日本帝国主義であった」

と堂々と述べ、・・・
(略)
昭和28年から翌29年(1953~54)にかけて、
いわゆる中共帰国船(興安丸、白山丸、自竜丸)で
約3万2千人の日本人が帰国したが、
「国共内戦で帰国のチャンスを失った日本人居留民」と
北京放送の伝えたあの日本人たちは、
実は中国革命戦争に8年間も従軍した革命者なのであった。

彼ら3万2千人は殆んどが中国語の『戦士政治課本』を読みこなせたし、
或る者は、
「日中戦争が中国共産党の仕組んだものだったとは・・・」
と憤慨もした。

―――――――――――――――――

東京大学近代中国史研究会訳『毛沢東思想万歳』、下巻

日本社会党の人士佐々木更三、黒田寿男、細迫兼光らを接見した際の談話
(1964年7月10日)

◆毛沢東

【佐々木】
今日、毛主席の非常に寛大なお気持ちのお話しをうかがいました。
過去において、日本軍国主義が中国を侵略し、
みなさんに多大の損害をもたらしました。
われはれはみな、非常に申し訳なく思っております。

【主席】
何も申し訳なく思うことはありません。
日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、
中国人民に権力を奪取させてくれました。
みなさんの皇軍なしには、
われわれが権力を奪取することは不可能だったのです。
この点で、私とみなさんは、意見を異にしており、
われわれ両者の間には矛盾がありますね。

(皆が笑い、会場がにぎやかになる)。

【佐々木】
ありがとうございます。

【主席】
過去のああいうことは話さないようにしましょう。
過去のああいうことは、よい事であり、
われわれの助けになったとも言えるのです。
ごらんなさい。中国人民は権力を奪取しました。
同時に、みなさんの独占資本と軍国主義はわれわれをも

〔日本側の記録では、「みなさんをも」となっており、
文脈からはその方が適切と思われる〕

助けたのです。
日本人民が、何百万も、何千万も目覚めたではありませんか。
中国で戦った1部の将軍をも含めて、
彼らは今では、われわれの友人に変わっています。

―――――――――――――――――

日中戦争のおかげで全滅を免れた中国共産党-小平語録
1998年06月06日(土) 伴 正一
【伴正一氏】
元外務省官僚。1972年から青年海外協力隊事務局長、
1977年から1981年まで北京の日本大使館で公使などを歴任。

●小平
日本側が「先の戦争では申し訳なかった」といった内容のことを述べると、
小平は発言をさえぎるようにして
「われわれは日本軍をそんなに悪く思っていませんよ」と切り出した。

あっけにとられた一行を前にした小平の説明はこうだった。

「あの戦争が始まる前、
われわれは井崗山(せいこうざん)から、長征の途についた。
延安にたどりついたときは気息奄々、
靴もちびはて、人数も2万人に減って、全滅寸前でした。

ところが日中戦争が始まり、われわれを包囲していた蒋介石軍は
日本軍によって次第に南部に押されていく。
袋のネズミだったわれわれはそれで息を付くことになり、
日本軍の後ろに回って、着々と工作をしていった。

そして戦争終結時には数百万の正規軍を擁する軍事勢力にのし上がった」
西安に旅行したとき、
周恩来が隠れていた地下指令室を見学した時のことを思い出した。
展示されていた古い雑誌に、日本軍が蒋介石軍を破って
南京に迫ってゆく様子を「形勢好」と表現してあった。
「形勢はいいぞ」という意味だ。

当時は「へんなことが書いてある」といった程度の認識だったが、
国共合作で友軍になったはずの蒋介石軍が負けていて
「いい」ということもなかろうにと考えた。

とにかく1936年秋の西安事件までは、蒋介石は日本とことを構えるより、
共産党制圧を第一目標にしていた。
それが西安事件で順番が逆転する。
そうしなかったら捕らわれの身だった蒋介石は殺されていただろう。

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参考:『近現代史の必須知識』

■盧溝橋事件

1937年(昭和12年)の「盧溝橋事件」は、
日本側が仕掛けた「支那事変」の発端と言われていますが、
その経緯は以下の通りで、日本軍が反撃に出たのは、
実に最初の発砲から7時間も後のことでした。

◆7月7日
22:40 演習を終了した日本の「支那駐屯軍」の中隊に発砲があり、
中隊から大隊・連隊へ報告され、軍使を派遣することになった。

◆7月8日

3:25 再び日本軍に向け銃撃がある。

4:00 軍使が連隊本部を出発。

4:20 2回目の銃撃の報告で、連隊長は戦闘を許可するした。
しかしこれは砲撃に至らなかった。

5:30 日本軍に向け3回目の猛射があり、ついに日本軍は反撃に出た。
最初の不法射撃より7時間後であった。

◆7月9日
2:00 停戦協定が成立。

◆7月13日、北平(北京)大紅門で日本兵が襲撃・虐殺される。

◆7月14日、天津駐屯騎兵隊の兵が襲撃・惨殺される。

◆7月20日、盧溝橋城の支那軍が日本軍に一斉射撃を行ない、
日本軍も砲撃を開始され、ついに同日20日、内地3個師団の派兵が
承認されますが、

◆翌7月21日、満州・朝鮮からの増派で充分との報があり、

◆7月22日、再度内地派遣を見合わせましたが、

◆7月25日、廊坊事件。電線修理に派遣された電信隊が支那軍に攻撃される。

◆7月26日、廣安門事件。北平・廣安門を通過中の天津駐屯の大隊が
支那軍より乱射を浴びる。
相次いで日本軍が襲撃される事件が発生し、ついに

◆7月27日、ついに陸軍中央は11日、22日と
2回にわたり見合わせていた内地3個師団の派遣を下命。

◆7月28日、日本軍(天津軍)が支那第29軍に全面攻撃を開始。
全面攻撃を開始しました。実に事件発生の3週間経過後でした。

◆7月29日、通州事件。日本人居留民260人が惨殺される。

■戦線の拡大と和平努力 1937年(昭和12年)

◆8月4日、「船津和平工作」成立。日本は満洲事変以後得た諸権益を
全て放棄する(支那側の要望とほぼ一致)。
支那側は満州国を黙認し、反日運動を取り締まる。

◆8月9日、「船津和平工作」の最初の会談が行われた日に大山事件が起こる。
大山勇夫中尉が上海で支那保安隊に包囲され、機関銃で撃たれ頭を青竜刀で
割られる。支那側は大山中尉が支那兵を射殺したのが原因と主張するが、
証拠の支那兵の死体は事件当初路上にはなく、後で置かれた。
さらに大山中尉はピストルしか持っていなかった上に袋に入れたまま
であったが、支那兵の死因は後方より小銃で撃たれたものであった。
これにより「船津和平工作」は中止となる。

◆8月11日、支那軍の偽装保安隊が上海停戦協定を無視して
協定線内に侵入し陣地構築を開始。

◆8月13日、朝、支那便衣隊(民間服を着た兵)が日本の警備兵に発砲。
日本軍は応射しなかった。夕方、支那軍が砲撃を開始したため、
日本軍は支那側の拠点を焼き討ちした。
夜、日本政府は内地2個師団の上海派遣を決定。

◆8月14日、支那爆撃機が上海の日本陸戦隊や市街地、共同租界、
フランス租界を攻撃。第三国に被害を与えて「日本が攻撃した」と
世界に宣伝して対日非難をさせようという支那の作戦で、
日本軍も支那空軍基地などを爆撃して応戦した。

◆8月15日、支那は全国総動員令を発し、日本は上海派遣軍の派兵を決定。
全面戦争となった。同時に日本は、不拡大方針、領土的意図のないこと、
南京政府の挑発的言動の停止要求等の「政府声明」を発表した。

以上が第二次上海事変です。

◆9月2日、当初「北支事変」と呼んだ盧溝橋事件以来の紛争を
「支那事変」とした。

◆10月20日、日本は「第10軍」を編成して上陸。

◆11月5日、日本は和平の仲介をドイツに依頼し、
トラウトマン中華大使を通じ和平条件を提示した。
これが「第一次トラウトマン工作」ですが、蒋介石はこれを拒絶しました。

◆11月7日、「上海派遣軍」と「第10軍」を合わせ「中支那方面軍」とする。

◆11月9日、日本は上海全地域を制圧。

◆11月15日、広田外相はアメリカのグルー大使に仲介を依頼したが、
積極的な斡旋はなかった。

◆11月19日、南京の国民党政府は首都を重慶に移すことを決定。

◆12月1日、大本営は、中支那方面軍に対し、南京攻略を命じる。

◆12月7日、蒋介石南京脱出。
南京城は、唐生智率いる10万の兵に任されます。

◆12月9日、日本軍は南京城を包囲し、降伏を勧告。返答なし。

◆12月10日、午後2時南京城攻撃開始。

◆12月12日、南京防衛司令官・唐生智は城内から脱出。
敗残兵の中には、市民の服を奪い安全区へ潜り込む者も多かった。

◆12月13日、南京城は日本軍によって完全に占領された。

◆12月17日、入城式

◆12月26日、再度ドイツのトラウトマンを通じ和平条件を提示した。
「第二次トラウトマン工作」である。
しかし南京攻略後であるため、新たに日本に対する賠償などの条件が
追加されており、支那側は曖昧な回答を送ってきた。

日本と蒋介石の和平を望まなかったのは誰かを考えると、
自ずとそれはコミンテルンの方針でその指令の下、
国民党に潜り込んだ中国共産党分子であることは明白でしょう。

これにアメリカ政府に潜り込んでいた共産主義者で蒋介石の軍事顧問
オーエン・ラティモアの和平妨害工作があったと言われています。

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1937年8月15日、日本政府、「盧溝橋事件に関する政府声明」を発表。

1、帝国はつとに東亜永遠の平和を希望し、
日支の親善提携に努力してきたが、
南京政府は排日抗日を国論昂揚と政権強化の具に供し、
自国国力の過信と我国の実力軽視の風潮に赤化勢力が加わり、
いよいよ反日侮日の機運を醸成した。

2、今次事変の発端も、このような気勢がその爆発点を
たまたま永定河(注:盧溝橋の河)畔に選んだにすぎない。
神人共に許さざる通州虐殺事件の因由もここに発する。

3、我国は隠忍を重ね、事件不拡大を方針とし、
つとに南京政府に挑戦的言動の即時停止と現地解決を
妨害せぬよう勧告したが、南京政府はますます戦備を強化し、
厳存の軍事協定を破り、上海ではついに我に対して砲火を開き、
帝国軍艦を爆撃するに至った。

4、このように支那側の帝国に対する軽侮と不法暴虐至らざるなく、
わが国としてはもはや隠忍その限界に達し、
支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し、
南京政府の反省を促すため、今や断乎たる措置を取るのやむなきに至った。

5、我国の願うところは日支提携にあり、支那の排日抗日を根絶し、
日満支三国の融和提携の実を上げること以外に他意はない。
もとよりまったく領土的意図はなく、
また無辜の一般大衆に対してはなんらの敵意を有するものではない。
また列国権益の尊重には最善の努力を惜しまぬものである。

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★もっと超簡単に!大東亜戦争にいたる流れの説明
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-553.html
支那事変(日中戦争)の発端
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-554.html
盧溝橋事件
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-120.html
中国の租界
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-43.html
第二次上海事変
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-281.html
「支那」呼称について
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-21.html
『大東亜戦争にいたる大まかな流れ』いろいろな説明の試み
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-531.html
rekisisiranaiさんの「大東亜戦争に至るまでの解説」
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-654.html
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