正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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冀東・冀察政権成立
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東京日日新聞 昭和12年(1937年)8月4日付
昭和12年(1937年)8月4日 東京日日新聞

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■1937年(昭和12年)7月29日、通州事件

通州の冀東防共自治政府は、昭和10年、
親日家の殷汝耕が南京政府から離脱して創設した政権で、
一万余の糞東保安隊を有していた。

この保安隊は昭和8年、塘沽停戦協定に基づいて置かれたものであったが、
所要以上の人員を有し、また銃と剣だけでなく、機関銃や野砲も持ち、
保安隊と称し得る以上の戦闘能力があった。

さて、通州の宝通寺に中国第29軍の1個営が駐屯していたが、
7月25、26日廊坊、広安門の両事件が発生するに至って、
通州特務機関も、この宝通寺部隊の処理を考える必要に迫られた。

この部隊は日中関係悪化と共に、去就すこぶる曖昧になり、
放置しておくのは危険と判断されたのである。

そこで廊坊事件直後の26日、
日本側は宝通寺部隊に対して北平への撤退を求める最後通告を行なった。
だが中国軍からの回答はなく、遂に27日早朝、我が軍は攻撃を開始、
正午までに宝通寺部隊は敗走、潰滅した。

ところがこの戦闘で、支援のため飛来した関東軍の爆撃機が、
誤って宝通寺兵営と隣接する冀東保安隊幹部訓練所に爆弾を投下し、
数名の保安隊員が死亡するという不幸な事態が起きたのである。

保安隊は我が爆撃機が対地戦闘を開始するや、
好奇心から隊員一同が訓練所校庭に飛び出して爆撃を見物していたのだが、
飛行機には冀察と冀東の境界線も保安隊訓練所の位置も分からず、
脚下で騒いでいる保安隊を29軍の一味と速断したのも無理のない事であった。

誤爆の報に接するや、細木特務機関長は直ちに
冀東政府の殷汝耕長官を往訪し陳謝するとともに、
機関長自ら現場を視察、遺族の弔慰に奔走した。
更に翌28日には保安隊教導総隊幹部一同に対して
誤爆について釈明し、慰撫に努めたのであった。

丁度、事件が起こった27日頃、デマを流すので有名な南京放送
(中国国民政府の御用放送)が
「蘆溝橋で日本軍は29軍に惨敗し、豊台と廊坊は完全に中国軍が奪還した。
中央は陸続、華北の戦野に兵を進めつつあり、
日本軍の潰滅も旬日のうちであろう」
と事実と正反対の放送を流した。

南京放送は最後に
「軍事会議の結果、蒋委員長は近く29軍を以て大挙冀東を攻撃し、
偽都・通州を屠り、逆賊の殷汝耕を血祭りにすることを決議した」
と叫んでいた。
これは我が北平特務機関が聴取したのである。

このデマ放送が北平方面の実状に疎い通州の中国兵に
相当の心理的動揺を与えたことは疑いない。
通州保安隊は張慶余指揮の第一総隊と張研田指揮の第二総隊であったが、
早くから人民戦線運動の影響を受けていた。
「日本軍敗走」「冀東攻撃」という南京のデマ放送は、
彼等の抗日態度を決定的ならしめ、日本側に付いているよりも
29軍側に寝返った方が有利であるとの誤った判断を抱かせたに違いない。

折も折、通州の日本守備隊は、主力が南苑攻撃に向い、
留守部隊は藤尾小隊40名、山田自動車中隊50名、
それに憲兵、兵站、兵器部その他を合わせて
110名程度の微弱な兵力でしかなかった。

我が部隊の手薄なこの時期を狙って、
張慶余、張研田の両保安隊総隊長は非望を実現せんとしたのである。

7月29日払暁、保安隊は日本軍民への襲撃を開始した。
夜陰に乗じて長官公署を襲って殷汝耕を拉致し、
主力は日本軍守備隊を襲撃した。

我が方の残留兵力は極めて僅少であったが、
千数百を算する敵の攻撃に対して死力を尽して戦った。
守備隊には軽機関銃、小銃、手榴弾があるのみで重火器はなかった。
保安隊の装備の方が遥かに優れていた。
守備隊は敵の集中砲火を浴び、死傷者の続出する中で撃退に努めたが、
居留民や特務機関まで守る余裕はなかった。

鬼畜と化した中国保安隊の日本居留民に対する暴虐は、
この間に進行していた。
また通州特務機関は、一個中隊ほどの保安隊の襲撃を受け、
2名の少年給仕(日本人)を含む機関員が死力を尽して応戦したが、
数十倍の敵には抗し難く、
遂に全員が壮絶な最期を遂げ、特務機関は全滅した。

通州城内の見取り図(点線から右一帯が保安隊に蹂躪された地域)
通州城内見取り図(点線から右一帯が保安隊に蹂躪された地域)

『大東亜戦争への道』 中村粲(あきら)著 1990.12.8 (展転社) P402~403

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以下、ブログ『正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現』より
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/41483540.html

1937年(昭和12年)7月29日、支那の保安隊が日本人居留民約260人を大虐殺した。

犯人は、支那の国民党軍でも共産党軍でもなく、
事件前までは親日的だった「冀東防共自治政府」の保安隊だった。

しかし、支那保安隊が日本人居留民を大虐殺した最大の原因が
国民党の南京政府の御用放送局によるデマ放送であり、
保安隊が国民党軍に寝返るための日本人大虐殺だったので、
支那軍による大虐殺といって良い。

7月27日頃、北京特務機関がキャッチした南京放送ニュース
――――――
日本軍は盧溝橋の戦場に於いて、我が優勢な29軍と交戦の結果、
支離滅裂の敗戦に陥り、豊台と郎坊とは完全に我が手に奪還してしまった。
(略)
なお、最近北京における軍事会議の結果、蒋委員長は近く29軍を提げて、
大挙冀東を攻撃し、偽都通州を屠り、逆賊殷汝耕を血祭りにして、
満州失地恢復の第一声を挙げる事を決議した。
――――――

日本軍を撃破した支那の宋哲元軍(29軍)が、
冀東防共自治政府(通州)に攻め込んで来れば、
今まで親日だった支那保安隊は漢奸として処刑される。

そこで保安隊の連中は、日本人を大虐殺し、
冀東防共自治政府の殷長官を捕らえ、
これを手土産にして北京の宋哲元へ馳せ参ずることを決意した。

通州大虐殺事件の原因については、
事件の2日前にあった日本軍による保安隊への誤爆や、
事前に国民党と保安隊に密約があった計画的犯行など、
今でもいろんな説があるが、
最大で直接の原因が蒋介石政府の南京放送による
デマ報道だったことは間違いない。

支那保安隊の連中は、日本人大虐殺を手土産にして
意気揚々と宋哲元が居ると思い込んでいた北京へと向かった。
ところが、そこにいたのは宋哲元軍(29軍)ではなく、
実際には日本軍だった。

日本軍による誤爆が原因なら、支那保安隊が日本人を大虐殺した後に
日本軍の居る北京に向かうわけがないのだ。

北京に居るのが宋哲元軍(29軍)ではなく
日本軍だと知った支那保安隊の連中は慌てて逃げたが、日本軍に捕まった。

中島29軍顧問は「機関銃をくれ、仇をとってやる」と息まいた。

しかし、「それでは暴に酬ゆるに暴を以ってするだけだ。」と止められ、
結局、支那保安隊の連中は収容もされず城外に放置されただけとなった。

理由は
「収容すると飯を食わさにゃならん。
本当は鉛の弾を食わしたいくらいなのに、飯などもったいない。」
という事だったが、支那保安隊の連中は後に移動して支那軍に加わった。

これが当時の日本軍であり、お人好しぶりは今の日本人と変わらない。

支那保安隊の連中が通州で大虐殺した日本人を手土産に北京に行ったことは、
事件の直接の原因が【南京放送のデマ報道】だった裏付けとなる。

通州事件については犠牲者名簿があり、
当時、日本の外務省も公式声明を発した。

つまり、日本人居留民約260人が大虐殺された通州事件ほどの事件が
起これば当たり前のことだが、当時、内外において事件が認知されていた。

一方、いわゆる「南京大虐殺」の場合、
当時、支那政府も日本政府もその他誰も事件の認識がなく、
よって当然犠牲者名簿などもなかった。

「南京大虐殺」というのは当時は加害者側も被害者側も
誰も全く認識していなかった不思議な不思議な事件なのだ。

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東京裁判で弁護側は、通州事件に関する外務省の公式声明を
証拠として提出したが、ウェッブ裁判長はこれを却下した。
いわゆる“南京事件”で裁判所が中国側の公式資料を
証拠として採用したことを考えると、公平を欠いた裁判指揮であった。
しかし虐殺現場を目撃した証人の宣誓口供書は受理された。

極東国際軍事裁判における証言(極東国際軍事裁判速記録より)

■当時、天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長で、
7月28日の南苑戦闘に参加した後、
30日午後通州に急行して邦人救援に当たった萱嶋高 陸軍中将の証言。

城内は実に凄惨なもので、
至るところ無残な日本居留民の死体が横たわっておりまして、
殆ど全部の死体には首に縄がつけられてありました。
頑是なき子供の死体や婦人の虐殺死体は、殆ど見るに堪えませんでした。

その記録は今日ありません。
従つて私は私の目撃したことを主として、記憶を辿り、左に陳述します。
然しそれは余りにも残酷でありましたので、
私は一生忘れることの出来ない印象となつて頭に残つて居ります。

旭軒とかいう飲食店を見ました。
そこには40歳から17~18歳までの女7、8人は、
皆強姦され射殺されておりました。
そのうち4、5名は陰部を銃剣で突刺されていました。
(中略)
家の内は家具、布団、衣類等、何物もなく掠奪されていました。
その他の日本人の家屋は殆ど右同様の情態でありました。

錦水楼という旅館は凄惨でありました。
同所は危険を感じた在通州日本人が、
集まった場所でありましたものの如く、
大量虐殺を受けております。
女主人や女中は数珠繋ぎにされ、
手足を縛られたまま強姦され遂に斬首されたという事でした。

■通州救援の第2連隊歩兵隊長代理を務めた桂鎮雄 陸軍少佐の証言。

錦水楼の門に至るや、変わり果てた家の姿を見て驚くとともに、
死体より発する臭気に思わず嫌な気持になりました。
(中略)
次に帳場配膳室に入りました。
ここに男一人、女二人が横倒れとなり、
或いはうつぶし或いは上向いて死んでおり、
ここの屍体は強姦せられたか否かは判りませんが、闘った跡は明瞭で、
男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようでありました。

私は一年前に行った事のあるカフェーにへ行きました。
扉を開けて中へ入りましたが、部屋は散乱しておらず、
これは何でもなかったかと思いつつ進んだ時、
一つのボックスの中に素っ裸の女の死体がありました。
これは縄で絞殺されておりました。
カフェーの裏に日本人の家があり、
そこに二人の親子が惨殺されておりました。
子供は手の指を揃えて切断されておりました。

南城門の近くに日本人の商店があり、
そこの主人らしき者が引っ張り出されて
殺された死体が路上に放置されていました。
これは腹部の骨が露出し、内臓が散乱しておりました。

■支那駐屯歩兵第2連隊小隊長として7月30日、
連隊主力と共に救援に赴いた桜井文雄 陸軍少佐の証言。

まず、守備隊の東門を出ますと、殆ど数軒間隔に居留民男女の惨殺死体が
横たわっているのを目撃し、一同悲憤の極みに達しました。

敵兵は見当りませんでしたので、夜半迄、専ら生存者の収容に擔りました。
「日本人は居ないか」と連呼しながら各戸毎に調査してまいりますと、
鼻部に牛の如く針金を通された子供や、
片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等が
彼所此所の塵、埃箱の中や、壕の内、塀の蔭等から、
続々這い出してきました。

某飲食店内には一家ことごとく皆、
首と両手を切断惨殺されているのを目撃しました。
婦人という婦人は、14、5歳以上は悉く強姦されて居りまして、
見るに忍びませんでした。

旭軒という飲食店に入りますと、
そこに居りました7、8名の女は全部裸体にされ、
強姦射(刺)殺されておりまして、
陰部にほうきを押し込んである者、口中に土砂を埋めてある者、
腹部を縦に断ち割ってある者等、全く見るに堪えませんでした。

東門の近くの鮮人商店の付近に池がありましたが、
その池には首を縄で縛り両手を併せて、
それに八番鉄線を通し(貫通)一家6名数珠繋ぎにして引廻された形跡、
歴然たる死体がありました。
池の水は血で赤く染つて居たのを目撃しました。

―――――

※近水楼を襲撃したのは武装した黒服の学生団と保安隊であった。
彼等は女中数名を惨殺、残る十数名の男女従業員・宿泊客に対して
金品を強奪した後、全員を麻縄で数珠つなぎにして
銃殺場に引出し、処刑したのであった。
その凄惨極まる処刑場の情況については、
当時だれ一人これを知る者もなかったが、
当日、近水楼に泊り合わせた同盟通信特派員・安藤利男氏が
命がけで銃殺場から脱走し、北平に辿り着いた結果、
世界はその惨劇の実相を知ったのであった。
安藤氏の手記は『続対支回顧録』に収録されている。

【古来からの支那特有の虐殺手口】
東京裁判証言で明らかなように、
通州事件でも、頭部切り落とし、眼球えぐり取り、
胸腹部断ち割り、内臓引出し、強姦後の陰部突刺など、
独特な猟奇的虐殺が日本人に対して行なわれた。
このような惨殺パターンは日清戦争以来、
小規模ならば、ときどき日本人が遭遇してきたものである。

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■通州事件■1937年(昭和12年)7月29日
http://s02.megalodon.jp/2009-0203-1029-22/www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1931-40/1937_tsushu.html

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通州事件 鬼畜も及ばぬ残虐

被害甚大の近水楼
被害甚大の近水楼

【北平1937年7月31日発・東日大毎特電】

通州反乱保安総隊顧問、村尾昌彦大尉夫人が
頭に包帯をして顔その他に傷を受け30日深夜命からがら
冀東政府長官秘書孫錯氏夫人(日本人)とともに北平交民巷に逃げ込んだ。
身震いが止まず反乱隊の残虐ぶりをポツリポツリと語った。

保安隊が反乱したので在留日本人は特務機関や近水楼などに集まって
避難しているうち29日の午前2時頃守備隊と交戦していた大部隊が
幾つかに分れてワーッと近水楼や特務機関の前に殺到して来て、
10分置きに機関銃と小銃を射ち込みました。

近水楼の前は日本人の死体が山のように転がっています。
子供を抱えた母が3人とも死んでいるなど、二た目と見られない惨状でした。
私達はこの時家にいました。

29日午前2時頃、
保安隊長の従卒が迎えに来たので洋服に着かえようとしたところ、
その従卒がいきなり主人に向ってピストルを一発射ち
主人は胸を押え「やられた!」と一声叫ぶなりその場に倒れました。

私は台所の方に出て行って隠れていると従卒がそこらにあるもの
片っ端から万年筆までとって表へ行きました。

そのうちに外出していたうちのボーイが帰って来て、
外は危ないというので押入の上段の布団の中にもぐっていたところ、
さっきの従卒が10人ばかりの保安隊員を連れて家探しをして
押入れの下まで探したが上にいた私には気づかず九死に一生を得ました。

家の中には主人の軍隊時代と冀東政府の勲章が4つ残っていました。
それを主人の唯一の思い出の品として私の支那鞄の底に入れ、
主人の死体には新聞をかけて心から冥福を祈り、
ボーイに連れられて殷汝耕長官の秘書孫一珊夫人の所へ飛び込み
30日朝まで隠れていましたが、

日本人は皆殺しにしてやるという声が聞え、いよいよ危険が迫ったので、
孫夫人と2人で支那人になり済まして
双橋まで歩きやっとそこから驢馬に乗ったが、
日本人か朝鮮人らしいと感づかれて驢馬曳などに叩かれましたが
絶対に支那人だといい張ってやっと30日午朝陽門まで辿りつきましたが、

門がしまっていたので永定門に廻りやっと入り、
30日夜11時日本警察署に入ることが出来ました。

冀東銀行の顧問三島恒彦氏が近水楼で殺され、
冀東政府の島田宣伝主任等も虐殺されたらしく、
近水楼にいた日本人は殆ど殺されているでしょう。

昔シベリアの尼港惨劇も丁度このような恐ろしさであったろうと思います。
反乱した張隊長は毎日家に遊びに来て
「好朋友、好朋友」などといい非常に主人と仲良しだったのに、
こんなことになるとは支那人ほど信じ難い恐ろしい人間はないでしょう。
三人の遺骸は必ず私の手で取りに行きます。

なお危険地区を突破した夫の唯一の形見を肌身離さず持ち帰った沈着な
この夫人の行動は避難邦人の賞賛と感激を受けて
同夫人に対する同情は翕然と集まっている。

―――――――

邦人大量虐殺の陰謀 「天津事件の真相」
天津1937年8月5日発・朝日特派員 永田正義

通州の邦人虐殺事件は、かの惨虐非道なる尼港事件を彷彿させるもので、
9000万同胞の腸を断たしめるものがあるが、
天津日本租界及び軍閥系機関襲撃の支那敗残兵の遺棄した命令書や
捕虜の自白、憲兵隊、領事館、警察署などの調査によって
恐るべき計画が立てられて居た事が判明した。

情報を総合するに、去月29日未明天津租界及び軍関係諸機関を
襲撃した支那軍は天津保安隊凡そ4000名、第29軍の正規兵凡そ2000名、
合計凡そ6000名と称されるが、敵は第29軍の首脳部の命を受け26日頃から
通州襲撃の保安隊及び正規兵と連絡をとり、
北清事変議定書によって正規兵は天津市内に入る事を得ざるを以て
便服に着替えて大胆にもトラックを以て続々天津に侵入、
機関銃、迫撃砲、小銃、青龍刀などを蔬菜や貨物の下に隠して運び込み、
或は天津郊外の民家に隠して時の到るのを待って居た。

27日夜、日本租界及び日本軍を
29日午前2時を期して襲撃すべしとの指令が発せられた。
敵は28日夕刻から南開大学、市政府、保安総局、警備隊本部などに
集結し武装して各部署に就いた。
敵の襲撃目標は軍関係並に駐屯軍司令部、○○飛行場、
東站、総站、糧秣倉庫などで、
この外に日本租界及び租界外の東洋紡、公大紡、
鐘紡の各邦人経営工場であった。

即ちわが軍の第一線出動によって天津における兵力の不足を探知した支那軍は
その手薄に乗じて支那駐屯軍司令部を占領して、
北支における我軍の中枢機関を潰滅せしめ、
各地に善戦して居る第一線部隊との連絡を断ち窮地に陥れ、
○○飛行場の襲撃によって我軍の活動にに致命的損害を与え、

一方東站、総站を占領して日本軍及び弾薬糧食の輸送を不可能ならしめ、
更に糧秣倉庫を掌中に収め第一線日本軍の糧道を断たんとしたものである。

最も戦慄すべきは日本租界を襲撃し先ず総領事館、憲兵隊、
居留民団警備隊、特務機関、発電所等を占拠した後3000人の支那兵は
租界内の邦人(半島人を含む)約15000人を虐殺し掠奪を悉恣にした上、
日本租界を占拠し、茲に青天白日旗を翻して天津から邦人を
一掃する意図を有して居たのである。

もし租界の守備線において一角でも崩れたらんには兵力不足の租界は
敵の蹂躙するところとなり通州以上の邦人大虐殺が行われるところであった。

支那兵は第一回の襲撃失敗にも懲りず29日深更から30日未明にかけて
第二回の夜襲を行うことになり兵力を分散させては
攻撃力を減殺されるところから
今度は兵力の最も脆弱な租界に全兵力を集中して、
前回の失敗を取返し邦人大虐殺を行うべく作戦中、
これを探知した我軍は飛行機と大砲をもって空陸相呼応して
敵の本拠たる市政府、南開大学、保安総隊、
東站附近の民家を爆撃殲滅したものである。

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『中国の戦争宣伝の内幕』フレデリック・ヴィンセント・ウイリアムズ著

第2章 西安事件と頻発する日本人虐殺事件(P25~P38)

■共産主義者、日本を挑発 (P31~33)
さあ、中国では若い共産党員が、蒋介石が誘拐されて
ソビエトのコントロール下に置かれ、日本との戦争に同意したという
西安とモスクワからのニュースを歓迎していた。

後に南京に帰ってきた蒋介石によって戦争は延期されることになり、
今度はその言葉は彼らの怒りと不信で迎えられた。

彼らのリーダーの幾人かは南京政府で信用を得ていた。
彼らは蒋介石の大軍での日本を打ち負かすには充分ではない、
結果として戦争は延期するしかないと警告とともに説得された。

南京政府は彼ら数千名を数える若い共産主義者や
モスクワの赤軍宣伝大学で訓練と教育を受けた数百名に、
実際の戦争の代わりに、
さらに一層大衆に反日キャンペーンをするように求め、
結局は始まることになる日本との戦争に備えるように説得した。

しかし若い共産主義者は血が熱く敵意に燃えていた。
すぐさま戦争を要求した。軍閥の大軍隊が行進し教練をやっている。
都会の警察は夜に銃剣訓練をしているではないか?

これは血と復讐の栄誉の日、金持が貧者にされ、
貧者が金持になるその日を欺こうとするトリックではないのか。
町からソビエトの旗が一掃されるのだと彼らは考えた。
「よし分かった」彼らは結論づけた。
もし蒋介石が言い逃れするなら、自分たちを騙そうとするなら、
自分たちの手で事件を起こし、戦争にしてやる、
日本を戦争に引き込んで見せると。

実行するのは簡単だった。
中国には他国の人々と共に、万を数える日本国民が住んでいた。
そのほとんどは孤立していた。
中国人の町に妻や子と一緒に市民として暮らしていた。
軍隊に保護されてもいなかった。

商人や貿易業者は近づきやすく、逃げるのも簡単だ。
中国では外国人が殺され続けてきた。目新しいことではなかった。
再び起きてもおかしくない。
おまけに日本人の男や女、子供たちは他の国から人気が悪くなっていた。
マスクワやヨーロッパのある国々による熟練したプロパガンダのためである。

その中に特に一国は中国に大きな利害関係があり、
日本の商業的台頭を恐れていたのだ。他の国民は後で始末してやる。
中国共産党はまず日本人を血祭りに挙げることに決めた。

もし日本人がニ三千名殺されたとして、誰が対応するのだ。
虐殺は日本を激昂させるだろう。
自国民を殺されて行動を起こさない国はない。面目は立たない。
日本人虐殺は日本との戦争となるだろう。蒋介石も戦わざるを得なくなる。

そしてまた、蒋介石は南京で新たに軍隊を狂熱的に作り直そうとしていた。
そしてこれによって中国中にさらに大きなスケールでの
日本人男女、子供の虐殺が始まることになった。これには朝鮮人も含まれる。

防禦方法を持たない無辜の日本人たちは、
家で、店で屠殺され、町や村の街路で暴徒に殺された。
数え切れない多数の日本人、朝鮮人たちがこうして死んだ。
孤立したコミュニティで殺されていく。

■通州事件(P33~35)
私が住んでいた北支の百五十マイル以内のところに、
二百名の男女、子供たちが住んでいたが、共産主義者によって殺された。

二十名はほんの子供のような少女だった。
家から連れ出され、焼いたワイヤーで喉をつながれて、
村の通りに生きたまま吊り下げられていた。
空中にぶらぶらされる拷問である。

共産党員は野蛮人のように遠吠えしながら、
揺れる身体を銃弾で穴だらけにした。
日本人の友人であるかのように
警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女、子供らの虐殺は、
古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。

それは一九三七年七月二十九日の明け方から始まった。そして一日中続いた。
日本人の男、女、子供は野獣のような中国兵によって追い詰められていった。
家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。

それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。
ひどいことには手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見したときには、
ほとんどの場合、男女の区別も付かなかった。

多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。
水は彼らの血で赤く染まっていた。
何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。
中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ。

これは通州のことである。
古い町だが、中国で最も暗黒なる町の名前として
何世紀の後も記されることだろう。
この血まみれの事件に三百八十人の日本人が巻き込まれた。
しかし百二十人は逃げおおせた。犯され殺された者の多くは子供であった。

この不幸なおびただしい日本人の犠牲者たちは
暴行が始まって二十四時間以内に死んだのだが、
責め苦の中で死んでいったのだ。

中国人たちは焼けたワイヤーを鼻から喉へと通し、
両耳を叩いて鼓膜を破り、
彼らの「助けてくれ」との叫びを聞こえなくさせた。

目玉を抉り出し、自分の拷問者を見られなくした。
アメリカ西部の開拓初期の頃のイロクォイ族も
スー族もこんなことまで考案しなかった。

セオドア・ルーズベルト・ジュニア夫人は中国から帰ってきて、
『サタデー・イヴニング・ポスト』(一九三十七年十月二十一日号)に、
中国人の品行問題について、啓発的意見を述べている。

「……突然私たちは叫び声を聞いた。
それは不機嫌なわめき声に変わっていった。
私たちの直ぐ下で、一塊の群集が激怒した暴徒と化し、
大声で叫びながら、五人の日本人を追っていた。
四人はうまくバスの中に逃げ込んだ。
奇妙だが、中国人は日本人を引きずり出そうとしなかった。
一人がよろけて落ちた。彼らはそこに襲いかかった。

それから彼は血だらけになるまで蹴られた。殴られた。踏みつけられた。
肋骨が折れ、顔がどろどろと血まみれだった。
そこに白いターバンのシーク教徒の交通警察官が
南京路の交差点から鞭を持ってやってきて、
暴徒をうさぎのように追い散らした。

それから救急車を呼んだ。暴徒がまた集まってきた。
明らかにやり返しに来たのだ。私はあの日本人が死んでいると確信した。
しかし担架に乗せられたとき、彼の手が動くのを見た」

■日本にいる中国人は安全である (P35~37)
こういう事件が起こっているときも、
その後も、日本帝国に住む六万人の中国人は平和に生活していた。
彼らの生命や財産は、
日本人たちとの渾然一体となった友好的な社会関係の中で守られていた。

私は横浜のチャイナタウンを歩いたことがある。
他の町でも遊んでいる中国人の子供を見つけた。
危険や恐怖など何も知らない表情だった。

かたや中国では、かの国人が暴徒と化して、
日本人の子供を好きなように捕まえていたのである。

東洋的微笑の中で我々のように暮らし旅した者は、
「日本人の残忍さと非人間性、
それに較べて貧しき中国人の平和な人間性とはいかに違うものか」
と聞くことがある。

通州で無辜の日本人たちを虐殺したまさしくその中国兵たちが、
捕虜になったときは日本軍によって給養され、
「罪を憎んで人を憎まず」のサムライ精神によって、
「もうああいうことをしてはいけない。さあ行け」と説かれていたのである。

日本軍の将官は虐殺の罪を無知な兵隊に帰するのではなく、
南京の軍閥やモスクワ、
無知な耳に叩き込まれた反日宣伝のせいだとしたのである。

世界はこれらの非道行為を知らない。
もし他の国でこういうことが起きれば、
そのニュースは世界中に広まって、その恐ろしさに縮み上がるだろう。

そして殺された人々の国は直ちに行動を起こすだろう。
しかし日本人は宣伝が下手である。
商業や戦争において、
西洋諸国のような方法を取ることに熟達していたとしても、
日本人は自らの敵が世界で最強のプロパガンダ勢力
であることにもかかわらず、宣伝を無視するだろう。

中国にいる外国人には驚きとしか思えないのだが、日本はすぐに動かない。
彼らは共産主義者によって虐殺が遂行されたことが分かっていた。

また西洋諸国が日本を世界貿易市場から締め出した以上、
北支との間でビジネスをしなければならないことが分かっていた。
率直に言って、中国とは戦争をしたくはなかったのである。
中国政府がロシアのボルシェヴィズムの罠に
絡め取られていることも分っていた。

しかしそれでも中国の人々とは戦争をしたくはなかったのである。
なぜなら中国は隣国であり、もし望むならば、
生きていくためのなくてはならないお客様だったのである。

日本は南京とモスクワを真剣に観察していた。
まずソビエトの国内がぐらついているのを知った。
共産主義と第三インターナショナルは時がくれば自壊するだろうと。
蒋介石とその統治が中国人に人気がないことも知った。
彼らは蒋介石とその将軍たちが外国に資産を蓄えていることを知っており、
時が来れば、
愛想づかしている彼らに代わって新しい指導者についていくだろうと。

その指導者というのは日本のように共産主義に反対し、
北支に日本のために貿易を開始してくれる人物である。

■盧溝橋事件 (P37~38)
日本人虐殺は続いていた。掠奪、殺人が継続した。
そして盧溝橋で日本軍が銃撃された。
中国共産主義者がこれをやった。火をつけて引火させたのだ。

というのも日本軍の軍服は天皇を表象する聖なるもので、
日本人は深く永遠なる愛で天皇を仰募していたからだ。
つまり心の中にある火が大きく燃え上がったのだ。

日本は今度は迅速に対応した。
共産主義者は後退し、南京の軍閥の統治下に呻吟していた北京市民は、
日本との門が開かれたことを喜んだ。

彼らは蒋介石の北京抹消計画を知っていた。
また世界では知られておらず、中国人は皆知りたがっていたことだが、
蒋介石はモスクワの共産主義と平和協定を結んでいたということも知った。
中国共産党は権力の座に昇ろうとしていたのだ。

中国共産党は蒋介石を日本と戦わせようとし、戦争に引きずり込んだ。
思ったとおりになった。

しかし北支の市民はこれらの共産主義者に抵抗した。
町が共産主義者に乗っ取られたならば、南京に屈従しなければいけないし、
反日軍閥に救いを求めねばならない羽目になるのだ。

―――――――――――――――――

以下、ブログ 『ねずきちの ひとりごと』 「通州事件を忘れるな」 より引用
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1025.html

通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)

「徳島の保守」というブログがあります。
そのブログで、通州事件についての体験談が掲載されています。
通州事件というのは、昭和12年7月29日に、
実際に起こった日本人皆殺しの地獄絵です。
以下にお示しするのは、実際に現場にいてこれを体験した方の手記です。

【通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)・日本人皆殺しの地獄絵】
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100730/p1

1937年(昭和12年)7月29日。
73年前、北京の西の通州において、
数百人の日本人居留民が虐殺されました。

通州の日本人居留民は、
日本軍守備隊の留守をねらった支那の保安隊、学生により、
世界の残虐史上類例を見ないほどの残虐行為を受け、虐殺されました。

さらに支那人達は、殺した日本人に対して一片の同情も哀れみの心もなく、
その屍体までもいたぶっているのです。

かけつけた日本軍がそこで見たものは、言語に絶する惨状であったそうです。
支那人は南京で日本軍が大虐殺を行い、
妊婦の腹を裂き、胎児を銃剣で突き殺すなど、
悪逆非道の限りをつくしたとデッチあげて日本を非難していますが、
通州事件を見ますと、日本軍が行った行為と言っているのは、
つまり、支那人自身が行ったことに他ならないことが解ります。

通州事件は、殆どの日本人から忘れ去られようとしていますが、
日本人居留民の無情な殺され方を、
そして支那人の持つ残虐性を私達日本人は決して忘れてはいけません。

通州における惨劇は、多くの人が証言していますが、
実際の体験者であるSさんの話を、拙ブログで採り上げ、
一人でも多くの日本人に知ってもらいたいと思っています。

【Sさんの体験談】

私は大分の山の奥に産まれたんです。

すごく貧乏で小学校を卒業しないうちにすすめる人があって
大阪につとめに出ることになりました。
それが普通の仕事であればいいのですけど、
女としては一番いやなつらい仕事だったので、
故郷に帰るということもしませんでした。

そしてこの仕事をしているうちに何度も何度も人に騙されたんです。
小学校も卒業していない私みたいなものは
それが当たり前だったかも知れません。

それがもう二十歳も半ばを過ぎますと、
私の仕事のほうはあまり喜ばれないようになり、私も仕事に飽きが来て、
もうどうなってもよいわいなあ、
思い切って外国にでも行こうかと思っているとき、
たまたまTさんという支那人と出会ったのです。

このTさんという人はなかなか面白い人で、
しょっちゅうみんなを笑わしていました。
大阪には商売で来ているということでしたが、何回か会っているうち、
Tさんが私に「Sさん、私のお嫁さんにならないか」と申すのです。

私は最初は冗談と思っていたので、
「いいよ。いつでもお嫁さんになってあげるよ。」と申しておったのですが、
昭和七年の二月、Tさんが友人のYさんという人を連れて来て、
これから結婚式をすると言うんです。

そのときは全く驚きました。
冗談と思っていたのに友人を連れて来て、
これから結婚式というものですから、私は最初は本当にしなかったんです。

でも、Yさんはすごく真面目な顔をして言うのです。
「Tさんは今まで何度もあなたに結婚して欲しいと申したそうですが、
あなたはいつも、ああいいよと申していたそうです。
それでTさんはあなたと結婚することを真剣に考えて、
結婚の準備をしていたのです。
それで今日の結婚式はもう何もかも準備が出来ているのです。」
とYさんは強い言葉で私に迫ります。

それでも私は雇い主にも相談しなくてはならないと申すと、
雇い主も承知をして今日の結婚式には出ると申すし、
少しばかりあった借金も全部Tさんが払っているというので、
私も覚悟を決めて結婚式場に行きました。

支那の人達の結婚式があんなものであるということは
初めてのことでしたので、大変戸惑いました。

でも、無事結婚式が終わりますと、すぐに支那に帰るというのです。
でも私も故郷の大分にも一度顔を出したいし、
又結婚のことも知らせなくてはならない人もあると思ったのですが、
Tさんはそれを絶対に許しません。

自分と結婚したらこれからは自分のものだから
自分の言うことを絶対に聞けと申すのです。

それで仕方ありません。
私はTさんに従ってその年の三月に支那に渡りました。

長い船旅でしたが、支那に着いてしばらくは天津で仕事をしておりました。

私は支那語は全然出来ませんので大変苦労しましたが、
でもTさんが仲を取り持ってくれましたので、
さほど困ったことはありませんでした。

そのうち片言混じりではあったけれど支那語もわかるようになって
まいりましたとき、Tさんが通州に行くというのです。

通州は何がいいのですかと尋ねると、
あそこには日本人も沢山いて支那人もとてもいい人が多いから
行くというので、私はTさんに従って通州に行くことにしたのです。

それは昭和九年の初め頃だったのです。

Tさんが言っていたとおり、この通州には日本人も沢山住んでいるし、
支那人も日本人に対して大変親切だったのです。

しかしこの支那人の人達の本当の心はなかなかわかりません。
今日はとてもいいことを言っていても
明日になるとコロリと変わって悪口を一杯言うのです。

通州では私とTさんは最初学校の近くに住んでいましたが、
この近くに日本軍の兵舎もあり、
私はもっぱら日本軍のところに商売に行きました。

私が日本人であるということがわかると、
日本の兵隊さん達は喜んで私の持っていく品物を買ってくれました。

私はTさんと結婚してからも、
しばらくは日本の着物を着ることが多かったのですが、
Tさんがあまり好みませんので天津の生活の終わり頃からは、
支那人の服装に替えておったのです。

すっかり支那の服装が身につき支那の言葉も大分慣れてきていました。

それでもやっぱり日本の人に会うと懐かしいので日本語で喋るのです。

遠い異国で故郷の言葉に出会う程嬉しいことはありません。
日本の兵隊さんの兵舎に行ったときも、
日本の兵隊さんと日本語でしゃべるととても懐かしいし又嬉しいのです。

私が支那人の服装をしているので支那人と思っていた
日本の兵隊さんも、私が日本人とわかるととても喜んでくれました。

そしていろいろ故郷のことを話し合ったものでした。

そして、商売の方もうまく行くようになりました。
Tさんがやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、
必要とあらばどんな物でも商売をします。
だから買う人にとってはとても便利なんです。

Tに頼んでおけば何でも手に入るということから
商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。

Tさんも北門のあたりまで行って
日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。

この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でした。
私たちはTさんと一緒に西の方に住んでいましたので、
東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。

ところが昭和十一年の春も終わろうとしていたとき、
Tさんが私にこれからは日本人ということを
他の人にわからないようにせよと申しますので、
私が何故と尋ねますと、支那と日本は戦争をする。

そのとき私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、
日本人であるということは言わないように、
そして日本人とあまりつきあってはいけないと申すのです。

私は心の中に不満が一杯だったけどTさんに逆らうことは出来ません。

それで出来るだけTさんの言うことを聞くようにしました。
顔見知りの兵隊さんと道で会うとその兵隊さんが、
Tさん近頃は軍の方にこないようになったが
何故と尋ねられるとき程つらいことはありませんでした。

そのうちにあれだけ親日的であった通州という町全体の空気が
だんだん変わって来たのです。

何か日本に対し又日本人に対して
ひんやりしたものを感じるようになってまいりました。

Tさんが私に日本人であるということが人にわからないようにと
言った意味が何となくわかるような気がしたものでした。

そして何故通州という町がこんなに日本や日本人に対して
冷たくなっただろうかということをいろいろ考えてみましたが、
私にははっきりしたことがわかりませんでした。

只、朝鮮人の人達が盛んに日本の悪口や、
日本人の悪口を支那の人達に言いふらしているのです。

私が日本人であるということを知らない朝鮮人は、
私にも日本という国は悪い国だ、
朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしていると申すのです。

そして日本は今度は支那を領土にして支那人を奴隷にすると申すのです。
だからこの通州から日本軍と日本人を追い出さなくてはならない。
いや日本軍と日本人は皆殺しにしなくてはならないと申すのです。

私は思わずそんなんじゃないと言おうとしましたが、
私がしゃべると日本人ということがわかるので
黙って朝鮮人の言うことを聞いておりました。

そこへTさんが帰って来て朝鮮人から日本の悪口を一杯聞きました。
するとTさんはあなたも日本人じゃないかと申したのです。

するとその朝鮮人は顔色を変えて叫びました。
日本人じゃない朝鮮人だ、朝鮮人は必ず日本に復讐すると申すのです。
そして安重根という人の話を語りました。
伊藤博文という大悪人を安重根先生が殺した。
我々も支那人と一緒に日本人を殺し、
日本軍を全滅させるのだと申すのです。

私は思わずぞっとせずにはおられませんでした。
なんと怖いことを言う朝鮮人だろう。
こんな朝鮮人がいると大変なことになるなあと思いました。

Tさんは黙ってこの朝鮮人の言うことを聞いて
最後まで一言もしゃべりませんでした。

こんなことが何回も繰り返されているうちに、
町の空気がだんだん変わってくるようになってまいったのです。
でもそんなことを日本の軍隊や日本人は全然知らないのです。

私は早くこんなことを日本人に知らせねばならないと思うけれど、
Tさんは私が日本人と話すことを厳重に禁止して許しません。

私の心の中にはもやもやとしたものがだんだん大きくなって来るようでした。

道を歩いているとき日本の兵隊さんに会うと「注意して下さい」と
言いたいけれど、どうしてもその言葉が出てまいりません。

目で一生懸命合図をするけど日本の兵隊さんには通じません。
私が日本人であるということは通州で知っているのは
Tさんの友人二、三人だけになりました。

日本の兵隊さん達もだんだん内地に帰ったり他所へ転属になったりしたので、
殆ど私が日本人であるということを知らないようになりました。

そうしているうちに通州にいる冀東防共自治政府の軍隊が
一寸変わったように思われる行動をするようになってまいりました。

大体この軍隊は正式の名称は保安隊といっておりましたが、
町の人達は軍隊と申しておったのです。

この町の保安隊は日本軍ととても仲良くしているように見えていましたが、
蒋介石が共産軍と戦うようになってしばらくすると、
この保安隊の軍人の中から共産軍が支那を立派にするのだ、
蒋介石というのは日本の手先だと、
そっとささやくように言う人が出てまいりました。

その頃から私は保安隊の人達があまり信用出来ないように
なってしまったのです。

行商に歩いていると日本人に出会います。
私はTさんから言われているのであまり口をきかないようにしていました。

すると日本人が通った後ろ姿を見ながら朝鮮人が、
「あれは鬼だ、人殺しだ、あんな奴らは
いつかぶち殺してやらねばならない」と支那人達に言うのです。

最初の頃は支那人達も朝鮮人達の言うことをあまり聞きませんでしたが、
何回も何回も朝鮮人がこんなことを繰り返して言うと、
支那人達の表情の中にも何か険しいものが流れるようになってまいりました。

特に保安隊の軍人さん達がこの朝鮮人と同じ意味のことを
言うようになってまいりますと、
もう町の表情がすっかり変わってしまったように思えるようになりました。

私はあまり心配だから、あるときTさんに
こんな町の空気を日本軍に知らせてやりたいと申しますと、
Tさんはびっくりしたようにそんなことは絶対にいけない、
絶対にしゃべったらいけないと顔色を変えて何度も言うのです。

それで私はとうとう日本軍の人たちに
こうした町の空気を伝えることが出来なくなってしまったのです。

それが、昭和十一年の終わり頃になると
こうした支那人達の日本に対しての悪感情は更に深くなったようです。

それは支那のあちこちに日本軍が沢山駐屯するようになったからだと
申す人達もおりますが、
それだけではないようなものもあるように思われました。

私はTさんには悪かったけれど、紙一杯にこうした支那人達の動き、
朝鮮人達の動きがあることを書きました。

そして最後に用心して下さいということを書いておきました。
この紙を日本軍の兵舎の中に投げ込みました。

これなら私がしゃべらなくても
町の様子を日本軍が知ることが出来ると思ったからです。

こうしたことを二回、三回と続けてしてみましたが、
日本軍の兵隊さん達には何も変わったことはありませんでした。

これでは駄目だと思ったので、私はこの大変険悪な空気になっていることを
何とかして日本軍に知らせたいと思って、東町の方に日本人の居住区があり、
その中でも近水槽というところにはよく日本の兵隊さんが行くということを
聞いたので、この近水槽の裏口のほうにも
三回程この投げ紙をしてみたのです。

でも何も変わったことはありません。

これは一つには私が小学校も出ていないので、
字があまり上手に書けないので、
下手な字を見て信用してもらえなかったかも知れません。

このとき程勉強していないことの哀れさを覚えたことはありませんでした。

昭和十二年になるとこうした空気は尚一層烈しいものになったのです。

そして上海で日本軍が敗れた、済南で日本軍が敗れた、
徳州でも日本軍は敗れた、支那軍が大勝利だというようなことが
公然と言われるようになってまいりました。

日に日に日本に対する感情は悪くなり、支那人達の間で、
「日本人皆殺し、日本人ぶち殺せ」と言う輿論が高まってまいりました。

その当時のよく言われた言葉に、
「日本人は悪魔だ、その悪魔を懲らしめるのは支那だ」という言葉でした。

私はそんな言葉をじっと唇をかみしめながら
聞いていなくてはならなかったのです。

支那の子供達が「悪鬼やぶれて悪魔が滅ぶ」という歌を歌い、
その悪鬼や悪魔を支那が滅ぼすといった歌でしたが、
勿論この悪鬼悪魔は日本だったのです。

こんな耐え難い日本が侮辱されているという心痛に
毎日耐えなくてはならないことは大変な苦痛でした。

しかしこんなときTさんが嵐はまもなくおさまるよ、
じっと我慢しなさいよと励ましてくれたのが唯一の救いでした。

そしてその頃になるとTさんがよく大阪の話をしてくれました。
私も懐かしいのでそのTさんの言葉に相槌を打って
一晩中語り明かしたこともありました。

三月の終わりでしたが、Tさんが急に日本に行こうかと言い出したのです。
私はびっくりしました。

それはあれ程に日本人としゃべるな、
日本人ということを忘れろと申していたTさんが何故日本に行こうか、
大阪に行こうかと言い出したかといえば、
それ程当時の通州の、いや支那という国全体が
日本憎しという空気で一杯になっておったからだろうと思います。

しかし日本に帰るべくTさんが日本の状況をいろいろ調べてみると、
日本では支那撃つべし、支那人は敵だという声が充満していたそうです。

そんなことを知ったTさんが四月も終わりになって、
「もうしばらくこの通州で辛抱してみよう、
そしてどうしても駄目なら天津へ移ろう」と言い出しました。

それで私もTさんの言うことに従うことにしたのです。
何か毎日が押付けられて、押し殺されるような出来事の連続でしたが、
この天津に移ろうという言葉で幾分救われたようになりました。

来年は天津に移るということを決めて二人で又商売に励むことにしたのです。

でもこの頃の通州ではあまり商売で儲かるということは
出来ないような状況になっておりました。

しかし儲かることより食べて行くことが第一だから、
兎に角食べるために商売しようということになりました。

そしてこの頃から私はTさんと一緒に通州の町を東から西、
北から南へと商売のため歩き回ったのです。

日本人の居住区にもよく行きました。
この日本人居留区に行くときは必ずTさんが一緒について来るのです。
そして私が日本人の方と日本語で話すことを絶対に許しませんでした。

私は日本語で話すことが大変嬉しいのです。
でもTさんはそれを許しません。

それで日本人の居留区日本人と話すときも
支那語で話さなくてはならないのです。
支那語で話していると日本の人はやはり私を支那人として扱うのです。
このときはとても悲しかったのです。

それと支那人として日本人と話しているうちに特に感じたのは、
日本人が支那人に対して優越感を持っているのです。
ということは支那人に対して侮蔑感を持っていたということです。

相手が支那人だから日本語はわからないだろうということで、
日本人同士で話している言葉の中によく「チャンコロ」だとか、
「コンゲドウ」とかいう言葉が含まれていましたが、
多くの支那人が言葉ではわからなくとも
肌でこうした日本人の侮蔑的態度を感じておったのです。

だからやはり日本人に対しての感情がだんだん悪くなってくるのも
仕方なかったのではないかと思われます。
このことが大変悲しかったのです。

私はどんなに日本人から侮蔑されてもよいから、
この通州に住んでいる支那人に対しては
どうかあんな態度はとってもらいたくないと思ったのです。

でも居留区にいる日本人は日本の居留区には強い軍隊がいるから
大丈夫だろうという傲りが日本人の中に見受けられるようになりました。

こうした日本人の傲りと支那人の怒りがだんだん昂じて来ると、
やがて取り返しのつかないことになるということを
Tさんは一番心配していました。

Tさんも大阪にいたのですから、日本人に対して悪い感情はないし、
特に私という日本人と結婚したことが
Tさんも半分は日本人の心を持っていたのです。
それだけにこの通州の支那人の日本人に対しての
反日的感情の昂りには誰よりも心を痛めておったのです。

一日の仕事が終わって家に帰り食事をしていると、
「困った、困った、こんなに日本人と支那人の心が悪くなると
いつどんなことが起こるかわからない」
と言うのです。

そして支那人の心がだんだん悪くなって来て、
日本人の悪口を言うようになると、
あれ程日本と日本人の悪口を言っていた朝鮮人が
あまり日本の悪口を言わないようになってまいりました。

いやむしろ支那人の日本人へ対しての怒りがだんだんひどくなってくると
朝鮮人達はもう言うべき悪口がなくなったのでしょう。
それと共にあの当時は朝鮮人で日本の軍隊に入隊して
日本兵になっているものもあるので、
朝鮮人達も考えるようになって来たのかも知れません。

しかし五月も終わり頃になって来ると、
通州での日本に対する反感はもう極点に達したようになってまいりました。

Tさんはこの頃になると私に外出を禁じました。
今まではTさんと一緒なら商売に出ることが出来たのですが、
もうそれも出来ないと言うのです。

そして「危ない」「危ない」と申すのです。

それで私がTさんに何が危ないのと申すと、日本人が殺されるか、
支那人が殺されるかわからない、
いつでも逃げることが出来るように準備をしておくようにと申すのです。

六月になると何となく鬱陶しい日々が続いて、
家の中にじっとしていると何か不安が一層増して来るようなことで、
とても不安です。
だからといって逃げ出すわけにもまいりません。

そしてこの頃になると一種異様と思われる服を着た学生達が
通州の町に集まって来て、日本撃つべし、支那の国から日本人を追い出せと
町中を大きな声で叫びながら行進をするのです。

それが七月になると、
「日本人皆殺し」
「日本人は人間じゃない」
「人間でない日本人は殺してしまえ」
というような言葉を大声で喚きながら行進をするのです。

鉄砲を持っている学生もいましたが、
大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていました。

そしてあれは七月の八日の夕刻のことだったと思います。

支那人達が大騒ぎをしているのです。

何であんなに大騒ぎをしているのかとTさんに尋ねてみると、
北京の近くで日本軍が支那軍から攻撃を受けて大敗をして、
みんな逃げ出したので支那人達があんなに大騒ぎをして
喜んでいるのだよと申すのです。

私はびっくりしました。
そしていよいよ来るべきものが来たなあと思いました。

でも二、三日すると北京の近くの盧溝橋で戦争があったけれど、
日本軍が負けて逃げたが又大軍をもって攻撃をして来たので
大戦争になっていると言うのです。

こんなことがあったので七月も半ばを過ぎると学生達と保安隊の兵隊が
一緒になって行動をするので、
私はいよいよ外に出ることが出来なくなりました。

この頃でした。

上海で日本人が沢山殺されたという噂がささやかれて来ました。
済南でも日本人が沢山殺されたということも噂が流れて来ました。

蒋介石が二百万の大軍をもって日本軍を打ち破り、
日本人を皆殺しにして朝鮮を取り、
日本の国も占領するというようなことが真実のように伝わって来ました。

この頃になるとTさんはそわそわとして落ち着かず、
私にいつでも逃げ出せるようにしておくようにと申すようになりました。
私も覚悟はしておりましたので、身の回りのものをひとまとめにしていて、
いつどんなことがあっても大丈夫と言う備えだけはしておきました。

この頃通州にいつもいた日本軍の軍人達は殆どいなくなっていたのです。
どこかへ戦争に行っていたのでしょう。

七月二十九日の朝、まだ辺りが薄暗いときでした。

突然私はTさんに烈しく起こされました。
大変なことが起こったようだ。
早く外に出ようと言うので、私は風呂敷二つを持って外に飛び出しました。

Tさんは私の手を引いて町の中をあちこちに逃げはじめたのです。
町には一杯人が出ておりました。

そして日本軍の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえて来ました。

でもまだ辺りは薄暗いのです。
何がどうなっているやらさっぱりわかりません。

只、日本軍兵舎の方で炎が上がったのがわかりました。
私はTさんと一緒に逃げながら、
「きっと日本軍は勝つ。負けてたまるか」
という思いが胸一杯に拡がっておりました。

でも明るくなる頃になると
銃撃戦の音はもう聞こえなくなってしまったのです。
私はきっと日本軍が勝ったのだと思っていました。

それが八時を過ぎる頃になると、支那人達が、
「日本軍が負けた。日本人は皆殺しだ」
と騒いでいる声が聞こえて来ました。

突然私の頭の中にカーと血がのぼるような感じがしました。
最近はあまり日本軍兵舎には行かなかったけれど、
何回も何十回も足を運んだことのある懐かしい日本軍兵舎です。

私は飛んでいって日本の兵隊さんと一緒に戦ってやろう。
もう私はどうなってもいいから最後は日本の兵隊さんと
一緒に戦って死んでやろうというような気持ちになったのです。

それでTさんの手を振りほどいて駆け出そうとしたら、
Tさんが私の手をしっかり握って離さないでいましたが、
Tさんのその手にぐんと力が入りました。
そして、
「駄目だ、駄目だ、行ってはいけない」
と私を抱きしめるのです。

それでも私が駆け出そうとすると
Tさんがいきなり私の頬を烈しくぶったのです。
私は思わずハッして自分にかえったような気になりました。
ハッと自分にかえった私を抱きかかえるようにして
家の陰に連れて行きました。

そしてTさんは今ここで私が日本人ということがわかったら
どうなるかわからないのかと強く叱るのです。

それで私も初めてああそうだったと気付いたのです。
私はTさんと結婚して支那人になっておりますが、
やはり心の中には日本人であることが忘れられなかったのです。

でもあのとき誰も止める者がなかったら
日本軍兵舎の中に飛び込んで行ったことでしょう。

それは日本人の血というか、九州人の血というか、
そんなものが私の体の中に流れていたに違いありません。
それをTさんが止めてくれたから私は助かったのです。

八時を過ぎて九時近くになって銃声はあまり聞こえないようになったので、
これで恐ろしい事件は終わったのかとやや安心しているときです。

誰かが日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫ぶのです。
私の家から居留区までは少し離れていたので
そのときはあまりピーンと実感はなかったのです。

そのうち誰かが日本人居留区では女や子供が殺されているぞというのです。
何かぞーっとする気分になりましたが、
恐ろしいものは見たいというのが人間の感情です。

私はTさんの手を引いて日本人居留区の方へ走りました。

そのとき何故あんな行動に移ったかというと、
それははっきり説明は出来ません。
只何というか、本能的なものではなかったかと思われます。
Tさんの手を引いたというのも
あれはやはり夫婦の絆の不思議と申すべきでしょうか。

日本人居留区が近付くと何か一種異様な匂いがして来ました。
それは先程銃撃戦があった日本軍兵舎が焼かれているので
その匂いかと思いましたが、それだけではありません。
何か生臭い匂いがするのです。
血の匂いです。
人間の血の匂いがして来るのです。

しかしここまで来るともうその血の匂いが
当たり前だと思われるようになっておりました。
沢山の支那人が道路の傍らに立っております。
そしてその中にはあの黒い服を着た異様な姿の学生達も交じっています。
いやその学生達は保安隊の兵隊と一緒になっているのです。

そのうち日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。
十五才か十六才と思われる色の白い娘さんでした。

その娘さんを引き出して来たのは学生でした。
そして隠れているのを見つけてここに引き出したと申しております。

その娘さんは恐怖のために顔が引きつっております。
体はぶるぶると震えておりました。

その娘さんを引き出して来た学生は何か猫が鼠を取ったときのような
嬉しそうな顔をしておりました。
そしてすぐ近くにいる保安隊の兵隊に何か話しておりました。

保安隊の兵隊が首を横に振ると学生はニヤリと笑って
この娘さんを立ったまま平手打ちで五回か六回か殴りつけました。

そしてその着ている服をいきなりバリバリと破ったのです。

支那でも七月と言えば夏です。暑いです。
薄い夏服を着ていた娘さんの服はいとも簡単に破られてしまったのです。

すると雪のように白い肌があらわになってまいりました。
娘さんが何か一生懸命この学生に言っております。

しかし学生はニヤニヤ笑うだけで娘さんの言うことに
耳を傾けようとはしません。

娘さんは手を合わせてこの学生に何か一生懸命懇願しているのです。
学生の側には数名の学生と保安隊の兵隊が集まっていました。

そしてその集まった学生達や保安隊の兵隊達は目をギラギラさせながら、
この学生が娘さんに加えている仕打ちを見ているのです。

学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。
そして下着を取ってしまいました。

娘さんは「助けてー」と叫びました。

と、そのときです。

一人の日本人の男性がパアッと飛び出して来ました。
そしてこの娘さんの上に覆い被さるように身を投げたのです。

恐らくこの娘さんのお父さんだったでしょう。

すると保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を
銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。

何かグシャッというような音が聞こえたように思います。
頭が割られたのです。

でもまだこの男の人は娘さんの身体の上から離れようとしません。
保安隊の兵隊が何か言いながらこの男の人を引き離しました。

娘さんの顔にはこのお父さんであろう人の血が一杯流れておりました。
この男の人を引き離した保安隊の兵隊は再び銃で頭を殴りつけました。

パーッと辺り一面に何かが飛び散りました。
恐らくこの男の人の脳髄だったろうと思われます。

そして二、三人の兵隊と二、三人の学生が
この男の人の身体を蹴りつけたり踏みつけたりしていました。
服が破けます。
肌が出ます。
血が流れます。
そんなことお構いなしに踏んだり蹴ったりし続けています。

そのうちに保安隊の兵隊の一人が銃に付けた剣で腹の辺りを突き刺しました。
血がパーッと飛び散ります。

その血はその横に気を失ったように倒されている娘さんの
身体の上にも飛び散ったのです。

腹を突き刺しただけではまだ足りないと思ったのでしょうか。
今度は胸の辺りを又突き刺します。
それだけで終わるかと思っていたら、まだ足りないのでしょう。
又腹を突きます。
胸を突きます。
何回も何回も突き刺すのです。

沢山の支那人が見ているけれど「ウーン」とも「ワー」とも言いません。
この保安隊の兵隊のすることをただ黙って見ているだけです。

その残酷さは何に例えていいかわかりませんが、悪鬼野獣と申しますか。
暴虐無惨と申しましょうか。
あの悪虐を言い表す言葉はないように思われます。

この男の人は多分この娘さんの父親であるだろうが、
この屍体を三メートル程離れたところまで
丸太棒を転がすように蹴転がした兵隊と学生達は、
この気を失っていると思われる娘さんのところにやってまいりました。

この娘さんは既に全裸になされております。
そして恐怖のために動くことが出来ないのです。

その娘さんのところまで来ると下肢を大きく拡げました。
そして陵辱をはじめようとするのです。

支那人とは言へ、沢山の人達が見ている前で
人間最低のことをしようというのだから、
これはもう人間のすることとは言えません。

ところがこの娘さんは今まで一度もそうした経験がなかったからでしょう。
どうしても陵辱がうまく行かないのです。

すると三人程の学生が拡げられるだけこの下肢を拡げるのです。

そして保安隊の兵隊が持っている銃を持って来て
その銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突き込むのです。

こんな姿を見ながらその近くに何名もの支那人がいるのに
止めようともしなければ、声を出す人もおりません。

ただ学生達のこの惨行を黙って見ているだけです。
私とTさんは二十メートルも離れたところに立っていたので
それからの惨行の仔細を見ることは出来なかったのですが、
と言うよりとても目を開けて見ておることが出来なかったのです。

私はTさんの手にしっかりとすがっておりました。
目をしっかりつぶっておりました。

するとギャーッという悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。
私は思わずびっくりして目を開きました。

するとどうでしょう。保安隊の兵隊がニタニタ笑いながら
この娘さんの陰部を切り取っているのです。
何ということをするのだろうと
私の身体はガタガタと音を立てる程震えました。
その私の身体をTさんがしっかり抱きしめてくれました。
見てはいけない。
見まいと思うけれど目がどうしても閉じられないのです。

ガタガタ震えながら見ているとその兵隊は今度は腹を縦に裂くのです。
それから剣で首を切り落としたのです。

その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。
投げられた首は地面をゴロゴロと転がって
男の人の屍体の側で止まったのです。
若しこの男の人がこの娘さんの親であるなら、
親と子がああした形で一緒になったのかなあと
私の頭のどこかで考えていました。

そしてそれはそれでよかったのだと思ったのです。
しかしあの残虐極まりない状況を見ながら
何故あんなことを考えたのか私にはわかりませんでした。

そしてこのことはずーっとあとまで
私の頭の中に残っていた不思議のことなのです。

私は立っていることが出来ない程疲れていました。
そして身体は何か不動の金縛りにされたようで動くことが出来ません。

この残虐行為をじっと見つめていたのです。
腹を切り裂かれた娘さんのおなかからは
まだゆっくり血が流れ出しております。
そしてその首はないのです。

何とも異様な光景です。
想像も出来なかった光景に私の頭は少し狂ってしまったかも知れません。

ただこうした光景を自分を忘れてじっと見ているだけなのです。
そうしたときTさんが「おい」と抱きしめていた私の身体を揺すりました。

私はハッと自分にかえりました。
すると何か私の胃が急に痛み出しました。
吐き気を催したのです。

道端にしゃがみ込んで吐こうとするけれど何も出てきません。
Tさんが私の背を摩ってくれるけれど何も出て来ないのです。

でも胃の痛みは治まりません。
「うーん」と唸っているとTさんが「帰ろうか」と言うのです。

私は家に早く帰りたいと思いながら首は横に振っていたのです。
怖いもの見たさという言葉がありますが、
このときの私の気持ちがこの怖いもの見たさという
気持ちだったかも知れません。

私が首を横に振るのでTさんは仕方なくでしょう
私の身体を抱きながら日本人居留区の方に近付いて行ったのです。

私の頭の中はボーとしているようでしたが、
あの残酷な光景は一つ一つ私の頭の中に刻みつけられたのです。

私はTさんに抱きかかえられたままでしたが、
このことが異様な姿の学生や保安隊の兵隊達から注目されることの
なかった大きな原因ではないかと思われるのです。

若し私がTさんという人と結婚はしていても
日本人だということがわかったら、
きっと学生や兵隊達は私を生かしてはいなかった筈なのです。

しかし支那人のTさんに抱きかかえられてよぼよぼと歩く私の姿の中には
学生や兵隊達が注目する何ものもなかったのです。
だから黙って通してくれたと思います。

日本人居留区に行くともっともっと残虐な姿を見せつけられました。

殆どの日本人は既に殺されているようでしたが、
学生や兵隊達はまるで狂った牛のように日本人を探し続けているのです。

あちらの方で「日本人がいたぞ」という大声で叫ぶものがいると
そちらの方に学生や兵隊達がワーッと押し寄せて行きます。

私もTさんに抱きかかえられながらそちらに行ってみると、
日本人の男の人達が五、六名兵隊達の前に立たされています。

そして一人又一人と日本の男の人が連れられて来ます。
十名程になったかと思うと学生と兵隊達が針金を持って来て
右の手と左の手を指のところでしっかりくくりつけるのです。

そうして今度は銃に付ける剣を取り出すと
その男の人の掌をグサッと突き刺して穴を開けようとするのです。

痛いということを通り越しての苦痛に
大抵の日本の男の人達が「ギャーッ」と泣き叫ぶのです。
とても人間のすることではありません。

悪魔でもこんな無惨なことはしないのではないかと思いますが、
支那の学生や兵隊はそれを平気でやるのです。

いや悪魔以上というのはそんな惨ったらしいことしながら
学生や兵隊達はニタニタと笑っているのです。

日本人の常識では到底考えられないことですが、
日本人の常識は支那人にとっては非常識であり、
その惨ったらしいことをすることが
支那人の常識だったのかと初めてわかりました。

集められた十名程の日本人の中にはまだ子供と思われる少年もいます。
そして六十歳を越えたと思われる老人もいるのです。

支那では老人は大切にしなさいと言われておりますが、
この支那の学生や兵隊達にとっては
日本の老人は人間として扱わないのでしょう。

この十名近くの日本の男の人達の手を針金でくくり、
掌のところを銃剣で抉りとった学生や兵隊達は
今度は大きな針金を持って来てその掌の中に通すのです。

十人の日本の男の人が数珠繋ぎにされたのです。

こうしたことをされている間日本の男の人達も
泣いたり喚いたりしていましたが、
その光景は何とも言い様のない異様なものであり、
五十年を過ぎた今でも私の頭の中にこびりついて離れることが出来ません。

そしてそれだけではなかったのです。

学生と兵隊達はこの日本の男の人達の下着を全部取ってしまったのです。
そして勿論裸足にしております。

その中で一人の学生が青竜刀を持っておりましたが、
二十才前後と思われる男のところに行くと足を拡げさせました。

そしてその男の人の男根を切り取ってしまったのです。
この男の人は「助けてー」と叫んでいましたが、
そんなことはお構いなしにグサリと男根を切り取ったとき、
この男の人は「ギャッ」と叫んでいましたがそのまま気を失ったのでしょう。

でも倒れることは出来ません。

外の日本の男の人と数珠繋ぎになっているので
倒れることが出来ないのです。
学生や兵隊達はそんな姿を見て「フッフッ」と笑っているのです。

私は思わずTさんにしがみつきました。
Tさんも何か興奮しているらしく、
さっきよりももっとしっかり私の身体を抱いてくれました。

そして私の耳元でそっと囁くのです。
「黙って、ものを言ったらいかん」と言うのです。

勿論私はものなど言える筈もありませんから頷くだけだったのです。

そして私とTさんの周囲には何人もの支那人達がいました。
そしてこうした光景を見ているのですが、誰も何も言いません。
氷のような表情というのはあんな表情でしょうか。

兵隊や学生達がニタニタと笑っているのに
これを見守っている一般の支那人は
全く無表情で只黙って見ているだけなのです。

しかしようもまあこんなに沢山支那人が集まったものだなあと思いました。
そして沢山集まった支那人達は学生や兵隊のやることを
止めようともしなければ兵隊達のようにニタニタするでもなし、
只黙って見ているだけです。

勿論これはいろんなことを言えば同じ支那人ではあっても
自分達が何をされるかわからないという恐れもあってのことでしょうが、
全くこうした学生や兵隊のすることを
氷のように冷ややかに眺めているのです。

これも又異様のこととしか言いようがありません。

こんな沢山集まっている支那人達が少しづつ移動しているのです。
この沢山の人の中には男もいます。
女もいます。
私もその支那人達の女の一人としてTさんと一緒に
人の流れに従って日本人居留区の方へ近付いたのです。

日本人居留区に近付いてみるといよいよ異様な空気が感ぜられます。

旭軒という食堂と遊郭を一緒にやっている店の近くまで行ったときです。
日本の女の人が二人保安隊の兵隊に連れられて出て来ました。

二人とも真っ青な顔色でした。
一人の女の人は前がはだけておりました。
この女の人が何をされたのか私もそうした
商売をしておったのでよくわかるのです。

しかも相当に乱暴に扱われたということは
前がはだけている姿でよくわかったのです。
可哀想になあとは思ってもどうすることも出来ません。
どうしてやることも出来ないのです。
言葉すらかけてやることが出来ないのです。

二人の女の人のうちの一人は相当頑強に抵抗したのでしょう。
頬っぺたがひどく腫れあがっているのです。
いやその一部からは出血さえしております。
髪はバラバラに乱れているのです。
とてもまともには見られないような可哀想な姿です。

その二人の女の人を引っ張って来た保安隊の兵隊は
頬っぺたの腫れあがっている女の人をそこに立たせたかと思うと
着ているものを銃剣で前の方をパッと切り開いたのです。

女の人は本能的に手で前を押さえようとすると
いきなりその手を銃剣で斬りつけました。
左の手が肘のところからばっさり切り落とされたのです。

しかしこの女の人はワーンともギャーッとも言わなかったのです。
只かすかにウーンと唸ったように聞こえました。

そしてそこにバッタリ倒れたのです。

すると保安隊の兵隊がこの女の人を引きずるようにして立たせました。
そして銃剣で胸のあたりを力一杯突き刺したのです。

この女の人はその場に崩れ落ちるように倒れました。
すると倒れた女の人の腹を又銃剣で突き刺すのです。

私は思わず「やめてー」と叫びそうになりました。
その私をTさんがしっかり抱きとめて「駄目、駄目」と耳元で申すのです。

私は怒りと怖さで体中が張り裂けんばかりでした。

そのうちにこの女の人を五回か六回か突き刺した兵隊が
もう一人の女の人を見てニヤリと笑いました。

そしていきなりみんなが見ている前で
この女の人の着ているものを剥ぎ取ってしまったのです。

そしてその場に押し倒したかと思うとみんなの見ている前で
陵辱をはじめたのです。

人間の行為というものは
もっと神聖でなくてはならないと私は思っています。

それが女の人を保安隊の兵隊が犯している姿を見ると、何といやらしい、
そして何と汚らわしいものかと思わずにはおられませんでした。

一人の兵隊が終わるともう一人の兵隊がこの女の人を犯すのです。

そして三人程の兵隊が終わると次に学生が襲いかかるのです。
何人もの何人もの男達が野獣以上に汚らわしい行為を続けているのです。

私はTさんに抱きかかえられながらその姿を
遠い夢の中の出来事のような思いで見続けておりました。

それが支那の悪獣どもが充分満足したのでしょう。

何人か寄っていろいろ話しているようでしたが、
しばらくすると一人の兵隊が銃をかまえてこの女の人を撃とうとしたのです。

さすがに見ていた多くの支那人達がウォーという唸るような声を出しました。
この多くの支那人の唸りに恐れたのか兵隊二人と学生一人で
この女の人を引きずるように旭軒の中に連れ去りました。

そしてしばらくするとギャーという女の悲鳴が聞こえて来たのです。
恐らくは連れて行った兵隊と学生で用済みになったこの日本の女の人を
殺したものと思われます。

しかしこれを見ていた支那人達はどうすることも出来ないのです。
私もTさんもどうすることも出来ないのです。

もうこんなところにはいたくない。
家に帰ろうと思ったけれどTさんが私の身体をしっかり抱いて離さないので、
私はTさんに引きずられるように日本人居留区に入ったのです。

そこはもう何というか言葉では言い表されないような地獄絵図でした。
沢山の日本人が殺されています。

いやまだ殺され続けているのです。
あちこちから悲鳴に似たような声が聞こえたかと思うと、
そのあとに必ずギャーッという声が聞こえて来ます。

そんなことが何回も何十回も繰り返されているのでしょう。
私は聞くまいと思うけど聞こえて来るのです。
耳を覆ってみても聞こえるのです。

又私が耳を覆っているとTさんがそんなことをしたらいけないというように
その覆った手を押さえるのです。

旭軒と近水槽の間にある松山槽の近くまで来たときです。
一人のお婆さんがよろけるように逃げて来ております。

するとこのお婆さんを追っかけてきた学生の一人が青竜刀を
振りかざしたかと思うといきなりこのお婆さんに斬りかかって来たのです。

お婆さんは懸命に逃げようとしていたので頭に斬りつけることが出来ず、
左の腕が肩近くのところからポロリと切り落とされました。

お婆さんは仰向けに倒れました。
学生はこのお婆さんの腹と胸とを一刺しづつ突いてそこを立ち去りました。

誰も見ていません。
私とTさんとこのお婆さんだけだったので、
私がこのお婆さんのところに行って額に
そっと手を当てるとお婆さんがそっと目を開きました。

そして、「くやしい」と申すのです。
「かたきをとって」とも言うのです。

私は何も言葉は出さずにお婆さんの額に手を当ててやっておりました。
「いちぞう、いちぞう」
と人の名を呼びます。

きっと息子さんかお孫さんに違いありません。
私は何もしてやれないので
只黙って額に手を当ててやっているばかりでした。

するとこのお婆さんが「なんまんだぶ」と一声お念仏を称えたのです。
そして息が止まったのです。

私が西本願寺の別府の別院におまいりするようになったのは
やはりあのお婆さんの最期の一声である「なんまんだぶ」の言葉が
私の耳にこびりついて離れなかったからでしょう。

そうしてお婆さんの額に手を当てていると、
すぐ近くで何かワイワイ騒いでいる声が聞こえて来ます。

Tさんが私の身体を抱きかかえるようにしてそちらの方に行きました。

すると支那人も沢山集まっているようですが、
保安隊の兵隊と学生も全部で十名ぐらい集まっているのです。

そこに保安隊でない国民政府軍の兵隊も何名かいました。
それがみんなで集まっているのは女の人を一人連れ出して来ているのです。

何とその女の人はお腹が大きいのです。
七ヶ月か八ヶ月と思われる大きなお腹をしているのです。

学生と保安隊の兵隊、それに国民政府軍の正規の兵隊達が
何かガヤガヤと言っていましたが、
家の入り口のすぐ側のところに女の人を連れて行きました。

この女の人は何もしゃべれないのです。
恐らく恐怖のために口がきけなくなっていることだろうと思うのですが、
その恐怖のために恐れおののいている女の人を見ると、
女の私ですら綺麗だなあと思いました。

ところが一人の学生がこの女の人の着ているものを剥ぎ取ろうとしたら、
この女の人が頑強に抵抗するのです。
歯をしっかり食いしばっていやいやを続けているのです。

学生が二つか三つかこの女の人の頬を殴りつけたのですが、
この女の人は頑強に抵抗を続けていました。
そしてときどき「ヒーッ」と泣き声を出すのです。

兵隊と学生達は又集まって話し合いをしております。
妊娠をしている女の人にあんまり乱暴なことはするなという気運が、
ここに集まっている支那人達の間にも拡がっておりました。

とそのときです。
一人の日本人の男の人が木剣を持ってこの場に飛び込んで来ました。

そして「俺の家内と子供に何をするのだ。やめろ」と大声で叫んだのです。

これで事態が一変しました。
若しこの日本の男の人が飛び込んで来なかったら、
或いはこの妊婦の命は助かったかも知れませんが、
この男の人の出現ですっかり険悪な空気になりました。

学生の一人が何も言わずにこの日本の男の人に青竜刀で斬りつけました。

するとこの日本の男の人はひらりとその青竜刀をかわしたのです。
そして持っていた木刀でこの学生の肩を烈しく打ちました。

学生は「ウーン」と言ってその場に倒れました。
すると今度はそこにいた支那国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊が、
鉄砲の先に剣を付けてこの日本の男の人に突きかかって来ました。

私は見ながら日本人頑張れ、日本人頑張れと心の中に叫んでいました。
しかしそんなことは口には絶対に言えないのです。

七名も八名もの支那の兵隊達が
この男の人にジリジリと詰め寄って来ましたが、
この日本の男の人は少しも怯みません。

ピシリと木刀を青眼に構えて一歩も動こうとしないのです。
私は立派だなあ、
さすがに日本人だなあと思わずにはおられなかったのです。

ところが後ろに回っていた国民政府軍の兵隊が、
この日本の男の人の背に向かって銃剣でサッと突いてかかりました。

するとどうでしょう。
この日本の男の人はこれもひらりとかわして
この兵隊の肩口を木刀で烈しく打ったのです。
この兵隊も銃を落としてうずくまりました。

でもこの日本の男の人の働きもここまででした。
この国民政府軍の兵隊を烈しく日本の男の人が打ち据えたとき、
よこにおった保安隊の兵隊が
この日本の男の人の腰のところに銃剣でグサリと突き刺したのです。

日本の男の人が倒れると、残っていた兵隊や学生達が集まりまして、
この男の人を殴る蹴るの大乱暴を始めたのです。
日本の男の人はウーンと一度唸ったきりあとは声がありません。

これは声が出なかったのではなく出せなかったのでしょう。
日本の男の人はぐったりなって横たわりました。

それでも支那の兵隊や学生達は乱暴を続けております。
そしてあの見るも痛ましい残虐行為が始まったのです。

それはこの男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。
私はあんな残酷な光景は見たことはありません。
これはもう人間の行為ではありません。
悪魔の行為です。
悪魔でもこんなにまで無惨なことはしないと思うのです。

頭の皮を剥いでしまったら、今度は目玉を抉り取るのです。
このときまではまだ日本の男の人は生きていたようですが、
この目玉を抉り取られるとき微かに手と足が動いたように見えました。

目玉を抉り取ると、
今度は男の人の服を全部剥ぎ取りお腹が上になるように倒しました。
そして又学生が青竜刀でこの日本の男の人のお腹を切り裂いたのです。

縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。
ずるずると腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。

人間の腸があんなに長いものとは知りませんでした。
十メートル近くあったかと思いますが、学生が何か喚いておりましたが、
もう私の耳には入りません。

私はTさんにすがりついたままです。
何か別の世界に引きずり込まれたような感じでした。

地獄があるとするならこんなところが地獄だろうなあと
しきりに頭のどこかで考えていました。

そうしているうちに何かワーッという声が聞こえました。
ハッと目をあげてみると、
青竜刀を持った学生がその日本の男の人の腸を切ったのです。

そしてそれだけではありません。
別の学生に引っ張らせた腸をいくつにもいくつにも切るのです。

一尺づつぐらい切り刻んだ学生は細切れの腸を、
さっきからじっと見ていた妊婦のところに投げたのです。
このお腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、
その自分の主人の腸の一切れが頬にあたると
「ヒーッ」と言って気を失ったのです。

その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。
残った腸の細切れを見物していた支那人の方へ二つか三つ投げて来ました。
そしてこれはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろと申しているのです。

しかし見ていた支那人の中でこの細切れの腸を
拾おうとするものは一人もおりませんでした。

この兵隊や学生達はもう人間ではないのです。
野獣か悪魔か狂竜でしかないのです。

そんな人間でない連中のやることに、
流石に支那人達は同調することは出来ませんでした。
まだ見物している支那人達は人間を忘れてはいなかったのです。

そして細切れの腸をあちらこちらに投げ散らした兵隊や学生達は、
今度は気を失って倒れている妊婦の方に集まって行きました。

この妊婦の方はすでにお産が始まっていたようであります。
出血も始まったのしょう。兵隊達も学生達も
こんな状況に出会ったのは初めてであったでしょうが、
さっきの興奮がまだ静まっていない兵隊や学生達はこの妊婦の側に集まって、
何やらガヤガヤワイワイと申しておったようですが、
どうやらこの妊婦の人の下着を取ってしまったようです。

そしてまさに生まれようと準備をしている赤ん坊を
引き出そうとしているらしいのです。
学生や兵隊達が集まってガヤガヤ騒いでいるので
はっきりした状況はわかりませんが、
赤ん坊を引き出すのに何か針金のようなものを探しているようです。

とそのときこの妊婦の人が気がついたのでしょう。
フラフラと立ち上がりました。

そして一生懸命逃げようとしたのです。
見ていた支那人達も早く逃げなさいという思いは持っているけれど、
それを口に出すものはなく、又助ける人もありません。
さっきのこの妊婦の主人のように殺されてしまうことが怖いからです。

このフラフラと立ち上がった妊婦を見た学生の一人が
この妊婦を突き飛ばしました。
妊婦はバッタリ倒れたのです。

すると兵隊が駆け寄って来て、この妊婦の人を仰向けにしました。
するともうさっき下着は取られているので
女性としては一番恥ずかしい姿なんです。

しかも妊娠七ヶ月か八ヶ月と思われるそのお腹は相当に大きいのです。
国民政府軍の兵隊と見える兵隊がつかつかと
この妊婦の側に寄って来ました。

私は何をするのだろうかと思いました。
そして一生懸命、同じ人間なんだから
これ以上の悪いことはしてくれないようにと心の中で祈り続けました。

だが支那人の兵隊にはそんな人間としての心の欠片もなかったのです。
剣を抜いたかと思うと、この妊婦のお腹をさっと切ったのです。

赤い血がパーッと飛び散りました。
私は私の目の中にこの血が飛び込んで来たように思って、
思わず目を閉じました。それ程この血潮の飛び散りは凄かったのです。

実際には数十メートルも離れておったから、
血が飛んで来て目に入るということはあり得ないのですが、
あのお腹を切り裂いたときの血潮の飛び散りはもの凄いものでした。

妊婦の人がギャーという最期の一声もこれ以上ない悲惨な叫び声でしたが、
あんなことがよく出来るなあと思わずにはおられません。

お腹を切った兵隊は手をお腹の中に突き込んでおりましたが、
赤ん坊を探しあてることが出来なかったからでしょうか、
もう一度今度は陰部の方から切り上げています。

そしてとうとう赤ん坊を掴み出しました。
その兵隊はニヤリと笑っているのです。
片手で赤ん坊を掴み出した兵隊が、
保安隊の兵隊と学生達のいる方へその赤ん坊を
まるでボールを投げるように投げたのです。

ところが保安隊の兵隊も学生達もその赤ん坊を受け取るものがおりません。
赤ん坊は大地に叩きつけられることになったのです。
何かグシャという音が聞こえたように思いますが、
叩きつけられた赤ん坊のあたりにいた兵隊や学生達が
何かガヤガヤワイワイと申していましたが、
どうもこの赤ん坊は兵隊や学生達が靴で踏み潰してしまったようであります。

あまりの無惨さに集まっていた支那人達も呆れるように
この光景を見守っておりましたが、兵隊と学生が立ち去ると、
一人の支那人が新聞紙を持って来て、
その新聞紙でこの妊婦の顔と抉り取られたお腹の上を
そっと覆ってくれましたことは、
たった一つの救いであったように思われます。

こうした大変な出来事に出会い、
私は立っておることも出来ない程に疲れてしまったので、
家に帰りたいということをTさんに申しましたら、
Tさんもそれがいいだろうと言って二人で家の方に帰ろうとしたときです。

「日本人が処刑されるぞー」

と誰かが叫びました。
この上に尚、日本人を処刑しなくてはならないのかなあと思いました。
しかしそれは支那の学生や兵隊のやることだから
しょうがないなあと思ったのですが、そんなものは見たくなかったのです。

私は兎に角家に帰りたかったのです。
でもTさんが行ってみようと言って私の体を
日本人が処刑される場所へと連れて行ったのです。

このときになって私はハッと気付いたことがあったのです。
それはTさんが支那人であったということです。
そして私は結婚式までしてTさんのお嫁さんになったのだから、
そののちは支那人の嫁さんだから私も支那人だと思い込んでいたのです。

そして商売をしているときも、一緒に生活をしているときも、
この気持ちでずーっと押し通して来たので、私も支那人だと思うようになっていました。
そして早く本当の支那人になりきらなくてはならないと思って
今日まで来たのです。

そしてこの一、二年の間は支那語も充分話せるようになって、
誰が見ても私は支那人だったのです。
実際Tさんの新しい友人はみんな私を支那人としか見ていないのです。
それで支那のいろいろのことも話してくれるようになっておりました。

それが今目の前で日本人が惨ったらしい殺され方を
支那人によって行われている姿を見ると、
私には堪えられないものが沸き起こって来たのです。
それは日本人の血と申しましょうか、日本人の感情と申しましょうか、
そんなものが私を動かし始めたのです。

それでもうこれ以上日本人の悲惨な姿は見たくないと思って
家に帰ろうとしたのですが、Tさんはやはり支那人です。
私の心は通じておりません。

そんな惨いことを日本人に与えるなら
私はもう見たくないとTさんに言いたかったのですが、
Tさんはやはり支那人ですから私程に日本人の殺されることに
深い悲痛の心は持っていなかったとしか思われません。

家に帰ろうと言っている私を日本人が処刑される広場に連れて行きました。
それは日本人居留区になっているところの
東側にあたる空き地だったのです。

そこには兵隊や学生でない支那人が既に何十名か集まっていました。
そして恐らく五十名以上と思われる日本人でしたが
一ヶ所に集められております。

ここには国民政府軍の兵隊が沢山おりました。
保安隊の兵隊や学生達は後ろに下がっておりました。

集められた日本人の人達は殆ど身体には何もつけておりません。
恐らく国民政府軍か保安隊の兵隊、又は学生達によって
掠奪されてしまったものだと思われます。

何も身につけていない人達は
こうした掠奪の被害者ということでありましょう。
そのうち国民政府軍の兵隊が何か大きな声で喚いておりました。

すると国民政府軍の兵隊も学生も
ドーッと後ろの方へ下がってまいりました。
するとそこには二挺の機関銃が備えつけられております。

私には初めて国民政府軍の意図するところがわかったのです。
五十数名の日本の人達もこの機関銃を見たとき
すべての事情がわかったのでしょう。

みんなの人の顔が恐怖に引きつっていました。
そして誰も何も言えないうちに
機関銃の前に国民政府軍の兵隊が座ったのです。

引き金に手をかけたらそれが最期です。
何とも言うことの出来ない戦慄がこの広場を包んだのです。

そのときです。
日本人の中から誰かが「大日本帝国万歳」と叫んだのです。

するとこれに同調するように殆どの日本人が
「大日本帝国万歳」を叫びました。
その叫び声が終わらぬうちに機関銃が火を噴いたのです。

バタバタと日本の人が倒れて行きます。
機関銃の弾丸が当たると一瞬顔をしかめるような表情をしますが、
しばらくは立っているのです。

そしてしばくしてバッタリと倒れるのです。
このしばらくというと長い時間のようですが、
ほんとは二秒か三秒の間だと思われます。

しかし見ている方からすれば、その弾丸が当たって倒れるまでに
すごく長い時間がかかったように見受けられるのです。
そして修羅の巷というのがこんな姿であろうかと思わしめられました。

兎に角何と言い現してよいのか、私にはその言葉はありませんでした。
只呆然と眺めているうちに機関銃の音が止みました。

五十数名の日本人は皆倒れているのです。
その中からは呻き声がかすかに聞こえるけれど、
殆ど死んでしまったものと思われました。

ところがです。その死人の山の中に保安隊の兵隊が入って行くのです。
何をするのだろうかと見ていると、
機関銃の弾丸で死にきっていない人達を
一人一人銃剣で刺し殺しているのです。

保安隊の兵隊達は、日本人の屍体を足で蹴りあげては生死を確かめ、
一寸でも体を動かすものがおれば銃剣で突き刺すのです。

こんなひどいことがあってよいだろうかと思うけれど
どうすることも出来ません。
全部の日本人が死んでしまったということを確かめると、
国民政府軍の兵隊も、保安隊の兵隊も、
そして学生達も引き上げて行きました。

するとどうでしょう。

見物しておった支那人達がバラバラと屍体のところに
走り寄って行くのです。
何をするのだろうと思って見ていると、
屍体を一人一人確かめながら
まだ身に付いているものの中からいろいろのものを掠奪を始めたのです。

これは一体どういうことでしょう。
私には全然わかりません。

只怖いというより、
こんなところには一分も一秒もいたくないと思ったので、
Tさんの手を引くようにしてその場を離れました。

もう私の頭の中は何もわからないようになってしまっておったのです。
私はもう町の中には入りたくないと思って、
Tさんの手を引いて町の東側から北側へ抜けようと思って歩き始めたのです。

私の家に帰るのに城内の道があったので、
城内の道を通った方が近いので北門から入り近水槽の近くまで来たときです。

その近水槽の近くに池がありました。
その池のところに日本人が四、五十人立たされておりました。

あっ、またこんなところに来てしまったと思って引き返そうとしましたが、
何人もの支那人がいるのでそれは出来ません。
若し私があんんなもの見たくないといって引き返したら、
外の支那人達はおかしく思うに違いありません。

国民政府軍が日本人は悪人だから殺せと言っているし、
共産軍の人達も日本人殺せと言っているので、
通州に住む殆どの支那人が日本は悪い、
日本人は鬼だと思っているに違いない。

そんなとき私が日本人の殺されるのは見ていられないといって
あの場を立ち去るなら、きっと通州に住んでいる支那人達から
あの人はおかしいではないかと思われる。
Tさんまでが変な目で見られるようになると困るのです。

それでこの池のところで又ジーッと、
これから始まるであろう日本人虐殺のシーンを
見ておかなくてはならないことになってしまったのです。

そこには四十人か五十人かと思われる日本人が集められております。
殆どが男の人ですが、
中には五十を越したと思われる女の人も何人かおりました。

そしてそうした中についさっき見た手を針金で括られ、
掌に穴を開けられて大きな針金を通された十人程の
日本人の人達が連れられて来ました。
国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊、それに学生が来ておりました。

そして一番最初に連れ出された五十才くらいの日本人を
学生が青竜刀で首のあたりを狙って斬りつけたのです。
ところが首に当たらず肩のあたりに青竜刀が当たりますと、
その青竜刀を引ったくるようにした国民政府軍の将校と見られる男が、
肩を斬られて倒れている日本の男の人を兵隊二人で抱き起こしました。

そして首を前の方に突き出させたのです。
そこにこの国民政府軍の将校と思われる兵隊が青竜刀を振り下ろしたのです。

この日本の男の人の首はコロリと前に落ちました。
これを見て国民政府軍の将校はニヤリと笑ったのです。

この落ちた日本の男の人の首を保安隊の兵隊が
まるでボールを蹴るように蹴飛ばしますと、
すぐそばの池の中に落ち込んだのです。
この国民政府軍の将校の人は次の日本の男の人を引き出させる、
今度は青竜刀で真正面から力一杯この日本の男の人の額に斬りつけたのです。

するとこの日本の男の人の額がパックリ割られて脳髄が飛び散りました。
二人の日本の男の人を殺したこの国民政府軍の将校は
手をあげて合図をして自分はさっさと引き上げたのです。

合図を受けた政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、
学生達がワーッと日本人に襲いかかりました。
四十人か五十人かの日本人が次々に殺されて行きます。

そしてその死体は全部そこにある池の中に投げ込むのです。
四十人か五十人の日本の人を殺して
池に投げ込むのに十分とはかかりませんでした。

池の水は見る間に赤い色に変わってしまいました。
全部の日本人が投げ込まれたときは
池の水の色は真っ赤になっていたのです。

私はもうたまりません。
Tさんの手を引いて逃げるようにその場を立ち去ろうとしました。

そして見たくはなかったけど池を見ました。
真っ赤な池です。
その池に蓮の花が一輪咲いていました。

その蓮の花を見たとき、何かあの沢山の日本の人達が
蓮の花咲くみほとけの国に行って下さっているような
気持ちになさしめられました。

Tさんと一緒に家に帰ると私は何も言うことが出来ません。
Tさんは一生懸命私を慰めてくれました。

しかしTさんが私を慰めれば慰めるだけ、
この人も支那人だなあという気持ちが私の心の中に拡がって来ました。

昼過ぎでした。

日本の飛行機が一機飛んで来ました。
日本軍が来たと誰かが叫びました。

ドタドタと軍靴の音が聞こえて来ました。
それは日本軍が来たというもので、国民政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、
そしてあの学生達が逃げ出したのです。

悪魔も鬼も悪獣も及ばぬような残虐無惨なことをした兵隊や学生達も、
日本軍が来たという誰かの知らせで
まるで脱兎のように逃げ出して行くのです。
その逃げ出して行く兵隊達の足音を聞きながら、
私はザマアミヤガレという気持ちではなく、
何故もっと早く日本軍が来てくれなかったのかと、
かえって腹が立って来ました。

実際に日本軍が来たのは翌日でした。
でも日本軍が来たというだけで逃げ出す支那兵。

とても戦争したら太刀打ち出来ない支那兵であるのに、
どうしてこんなに野盗のように日本軍の目を掠めるように、
このような残虐なことをしたのでしょうか。
このとき支那人に殺された日本人は三百数十名、
四百名近くであったとのことです。

私は今回の事件を通して支那人がいよいよ嫌いになりました。
私は支那人の嫁になっているけど支那人が嫌いになりました。

こんなことからとうとうTさんとも別れることとなり、
昭和十五年に日本に帰って来ました。

でも私の脳裏にはあの昭和十二年七月二十九日のことは忘れられません。
今でも昨日のことのように一つ一つの情景が
手に取るように思い出されます。

そして往生要集に説いてある地獄は
本当にあるのだなあとしみじみ思うのです。

―――――――

以上です。

通州で被害に遭われた方々のご冥福をお祈りしたいと思います。

このお話は、教育社発行しらべかんが著
「天皇さまが泣いてござった」という本からの引用です。
デジタル化にあたっては、「blog:徳島の保守」のみなさんが、
財団法人慧燈財団、前理事長であられた、調寛雅(しらべかんが)さんの
ご子息様のご許可を頂き、引用掲載されています。
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100730/p1

たいせつなことがあります。
それは、この事件は、単に73年前のひとつの特異な事例ではない、
ということです。

支那では、いまでも法輪功やウイグル、チベットで、
同じことが繰り返されています。

そしていま、民主党政権のもとで、多数の支那人学生が日本に居留し、
また今年7月1日のVASA要件緩和によって、
多数の人民解放軍が日本にやってきている、ということです。

在日朝鮮人が走狗となって使われ、日本人は残虐だ、日本は悪い国だ、
日本人は皆殺しにしなくてはならないなどと
マッチポンプの役割を果たします。

そして支那人たちが大挙して日本にやってくる。

子供の頃から徹底した反日教育を受けて育った支那人たちが暴発したとき、
そこで何が起こるのか。

沖縄は、いま、中共の工作によって日本人に貶められた自分たちは被害者だ、
という妄想に取りつかれようとしています。

それが暴発したとき、沖縄で何が起こるのか。

歴史は繰り返すといいます。

しかし、73年前に日本人が受けたその酷い仕打ちを、
絶対に繰り返してはならない。

ここは日本です。
日本の地は、日本人が守らなくていったい誰が守るのか。

通州事件は、私たちに大切な何かを教えてくれているのだと思います。

最後にひとつ。

どなたか、この通州事件の真実を、
英文に翻訳して発信いただけないでしょうか。

世界は、もういちど、この通州事件を知るべきだと思うのです。

おしまいに、ひとつ付け加えます。

「なぜ通州に、日本軍が駐屯していたか」です。

日本軍は、この地を占領していたのではありません。

この前に、世界を震撼させた恐怖の義和団事件が起こっています。

この事件で清朝政府に治安維持能力がない事が分かったため、
明治34(1901)年の義和団議定書で、
居留民保護のために国際平和維持軍が設立されたのです。

その議定書に基づき、米英仏伊日5カ国が、
36年間もの間北京周辺に大部隊を駐屯させ、
居留民の保護を行ったのです。

各国駐屯軍は大砲や戦車まで持っていました。

そして各国駐屯軍は、支那人が自国の居留民に対して、
たった一度でも暴行を働くと、
これに対して徹底的な軍事的制圧を行っています。
たとえば、自国の居留民ひとりが支那人によって乱暴されるような
ことがあると、暴徒たち全員に、大打撃を加えています。

ところが日本は、同じ東洋民族として、支那人たちに仁政を行います。
そのため、日本人に対しては、何をしても日本人は反撃してこない、
という風潮が支那国内に生まれました。
そして、通州において、それが具体的な形となって顕われたのです。

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昭和12年『恨みは深し通州城』奥田英子。作詞 佐藤惣之助。作曲 古賀政男


『通州の丘』(通州事件の歌)結城道子。作詞 藤田まさと。作曲 長津義司


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通州事件 犠牲者名簿(内地人) http://bit.ly/1rn40vU
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/tuusyuu00.htm
通州事件 犠牲者名簿(朝鮮の人) http://bit.ly/1XmzVKS
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/tuusyuu20.htm

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そのほかの日本人被害事件

尼港事件
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-105.html
昭和2(1927)年3月24日の南京事件
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-107.html
漢口事件
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済南事件
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通州事件
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アメリカ軍やオーストラリア軍の蛮行
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-162.html
終戦~日本人 引き揚げの悲劇
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終戦~日本人 引き揚げの悲劇_2
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敗戦後の惨状
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東京大空襲 ~ その投下方法
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-153.html
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