正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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日中戦争の中国側発表の中国側死者数は、なぜか増える一方だ。

【支那事変における中国側被害者数の変遷】
1945年 死者132万人(GHQ調査・発表)
1945年 死者132万人(国民党調査・発表)
1948年 死者438万人(国民党政府報告書)*1
1950年 死者1000万人(共産党が政権を奪取した年代)
1960年 死者1000万人(中国政府発表)
1970年 死者1800万人(中国政府発表)
1985年 死者2100万人(中国政府発表・抗日勝利40周年)以後公式数字となる
1995年 死傷者3500万人(抗日戦争記念館)
1997年 死者3500万人(抗日戦争記念館改修後)死傷者数を死者数に変換
1998年 死者3500万人(江沢民発表・来日時の演説)以後公式数字となる
2005年 死者5000万人(卞修躍博士発表・抗日勝利60周年)
*1 蒋介石が終戦時発表した抗日戦の中国側死傷者数は438万人。
終戦当時の公式文書「対日戦争勝利の成果」には
「中国側戦死者1,319,958人、戦傷者1,761,335人(総計3,081,293人)」とある。
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【日中戦争における中国側被害金額の変遷】
1951年 500億ドル(中国政府発表)
1983年 600億ドル(中国政府発表)
1991年 1000億ドル(中国政府発表)
1997年 5000億ドル(中国政府発表)*3
1998年 6000億ドル(中国政府発表)*4
*3 抗日戦争記念館にもこの数字が書かれてある。
*4 現在の中国の教科書には「5620億ドル」と記述。
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中国は南京事件(1937年~)での犠牲者数を公式に
「無抵抗な民間人30万人を組織的に虐殺した」と主張していますが、
・南京陥落直前の人口=20万人
(国際機関の認定による)
・陥落10日後=20万人
(南京外国人会のジョージ・フィッチが南京城内の食糧補給のため算出)
・陥落1ヶ月後=25万人
(日本軍の調査により外国人が発表)
・陥落3ヶ月後=22万1150人
(ルイス・S・C・スミス博士が学生を動員して調査。
調査員の手のとどかない所もあり、
移動途中の民衆を加えると25万~27万と推定される)
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【資料引用】 ぼやきくっくり
http://s02.megalodon.jp/2009-0218-2015-42/kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid191.html
http://s03.megalodon.jp/2009-0203-2311-27/bu-nyan.m.to/tokua/sinahigai.txt

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■中国が最初の最初に南京大虐殺を言い始めたのは1938年2月2日です。

1938年2月2日、国際連盟理事会、第100会期、第6会議にて、
「支那問題に関する決議」が採択されましたが、
その採択にあたり、顧維釣 中国政府代表が演説し、
第三国の新聞記事や米国人教授の報告、書簡などを引用して、

南京において日本軍兵士により
・無差別略奪
・数千人の女性への暴行
などのほか、
・市民殺害
・戦争捕虜の大量殺害
により2万人が虐殺された。

との見解を示しましたが理事会で否定され、
この件は「支那問題に関する決議」の決議文のなかには
取り入れられませんでした。
―――――――
1938年2月2日、国際連盟理事会、第100会期、第6会議。
ちなみに日本脱退後の国連理事会です。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/nankin/gijiroku.html
国際連盟で採択されなかった『南京事件』
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-508.html

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●南京市民の虐殺などしていない。虐殺する理由がないのだ。
なぜ南京の民間人を数十万人も殺害する必要があるのか?
動機が見当たらない。
※便衣兵を摘出する際に万が一、間違われた人がいたとすれば
国際法違反の便衣兵戦術を採用していた中国が悪い。

●便衣兵(一般市民の服装をして急に攻撃を仕掛けてくる兵)は
国際法違反だ。
中国は便衣兵戦術を採用していた。
一般市民にまぎれて急に攻撃をしてくる便衣兵に
日本軍は被害を受けていたし、
一般市民を危険にさらすことになる便衣兵戦術は国際法違反だ。
自分から投降してきたのではなく、便衣兵となって潜んでいたところを
発見されたのなら戦闘中に該当するから、
その場で射殺されても仕方がないのだ。

●当時は、敵に捕虜となる事が認められて
収容された時点から捕虜となっていました。

『現代戦争法規論』足立純夫 著 から抜粋

「1929年の捕虜条約の規定の解釈では、捕獲した敵要員を
いつから捕虜とするかは捕獲国軍隊指揮官の自由裁量とされていたが、
1949年条約はその考え方を根本的に修正し、敵要員を捕獲した瞬間から
最終的にそれらの者が解放送還されるまでの間、捕虜の待遇を与えるよう、
その始終期を判然と定めた(第5条第1項)。」

●投降拒否について。

交戦法規・慣例を遵守する軍隊ならば、
武器を公然と携帯し、投降の際は武器を隠し持ったりしませんし、
投降したと見せかけて反撃に転じたりはしないので、
指揮官が一斉に投降を表明して公然と顕示された武装を
放棄した敵部隊については、隠し武器による騙し討ちを
受ける恐れはないと判断して投降を受け入れることができますが、

投降が指揮官の統制下で一斉に行われたものではなく、
投降する兵士と投降しない兵士が混在する状態であった場合は、
戦闘が行なわれていない時間が一定の時間、続いていたとしても、
投降兵の受け入れをしている最中に投降していない残りの兵が攻撃してくる
恐れもあるので、その場合は投降拒否が許される状態だといえます。

●敗残兵(投降兵)を開放する際の突発的な事故での殺害はあった。
たとえ事故ではなく、敗残兵(投降兵)の処断があったとしても
仕方がないこともある。
投降兵が大量すぎると、捕虜として管理できなくなる。
動きが取れなくなり危険だ。
しかも日本軍には大量の捕虜に食べさせる食料がない。
何しろ自分たちが食べる物すら少ないのだから。
かといって大量の兵をそのまま釈放したら、
武器をとってまた攻めて来るかも知れない。

●オッペンハイムら多数の戦時国際法家の見解
投降兵の助命は、次の場合に拒否しても差し支えない。
第一は、白旗を掲げた後なお射撃を継続する軍隊の将兵に対して、
第二は、敵の戦争法規違反に対する報復として、
第三は、緊急必要の場合において、すなわち捕虜を収容すれば、
彼らのために軍の行動の自由が害せられて、
軍自身の安全が危うくされる場合においてである。

戦闘の進行中に敵軍の一部が投降しようとした場合に、
味方軍がこれを受諾し投降兵を収容して後方に送致する為には
味方軍の進撃を中止する必要を生じ
その事が味方軍の勝利を危うくする惧れのある場合には、
味方軍の安全と勝利を確保する為に
敵軍の降伏信号を黙殺して攻撃を継続する事が軍事上必要となる。
ゆえに戦時法規は一定の条件下において投降の拒否を認めるのである。

●ちなみに中国軍は、
投降したり負傷して捕まえた日本兵を一人残らず全員惨殺し、
捕虜として保護したことは全くなかった。

●激戦が始まると敵の司令官である唐生智は兵隊を放ったらかして逃げた。
残された兵は恐ろしい「敗残兵」となる。何だってやる。
南京にとどまっていたアメリカ大使館の書記官が、
支那の敗残兵は一般の市民を殺して服をはぎとり、
安全地帯に逃げた例もあると書いている。
それらが、すべて日本兵の仕業にされているのだ。

敗残兵になると降参が簡単にできない。
ハーグ陸戦法規において、捕虜になる条件として重要な三つのものがある。
◆団体が降参する時は責任者がいなければならない。
◆武器は必ず見えるように持たなければならない。
◆必ず軍服を着ていなくてはならない。
少なくともこの三つの条件を満たしていなくては捕虜になる資格はない。
ところが敗残兵はそんなこと知ったことではない。
だから日本軍は、敗残兵掃討、残敵掃討を行ったわけだ。

●旧日本軍には便衣兵と民間人を区別する専門の担当者がいた。
自治委員会の中国人と一緒に相談しながら分離作業をおこなった。
上着が民間服で下着が兵隊服のままの兵士が多かったという。
中国軍兵士の多くは坊主頭だった。
これにヘルメット焼けや、銃ダコの有無、兵士なら階級まで確認した。

■便衣兵摘発の状況 『南京戦史』P387

査閲の方法は、第十六師団参謀長・中沢三夫氏の
『極東裁判における宣誓供述書』によれば、
「日支合同の委員会を構成し日支人立会の上、
一人宛審問し又は検査し、委員が合議の上、敗残兵なりや否やを判定し、
常民には居住証明書を交付し、 敗残兵と認定された者は
之を上海派遣軍司令部に引き渡した」ということであるが、
師団副官・宮本四郎氏の遺稿によると、
捜査にあたった司令部の大行李長・瀬戸大尉の話として
「ズボンをまくりあげさせ、短ズボンを穿いていた奴は
太股に日焼けの横線がある。此奴は兵隊である。

・・・・・・紛らわしいのは逃亡兵の方に入れる。
それが逃亡兵でない時は、本人が言い張るばかりでなく、
難民区から見に来ている男女中国人が、この男は何町の呉服屋の店員だとか、
これは私の妹の子供だと泣きすがって
哀願する婆さんが現れたりして、決着がつく」と記している。

また、兵民分離査問に立会した内田義直氏
(陸軍省通訳官・第十六師団警備司令部配属)は、
その実態を次のように述べている。
「中国人の言葉には地方訛りがある。南京を守備した中国軍は、
広東、広西、湖南の兵隊で南方訛りであって、
言葉で兵隊と市民の区別は難しかった。

しかし、体つきを見れば兵隊と一般市民とは、直ぐ区別がつく。
自治委員会の中国人と一緒に相談しながら分離作業をやったので、
一般市民を狩り立てることはなかった。
上着だけが民間服で、下着が兵隊服のものが多く、すぐ見分けがついた。」

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「水谷荘日記 戦塵」(歩兵第七連隊第 一中隊一等兵)

12月13日
引き続いて市内の掃蕩に移る。市内と言っても大都市南京、
ほんの一部分の取りついた附近の小範囲に過ぎない、
夥しい若者を狩り出して来る。色々の角度から調べて、
敵の軍人らしい者21名を残し、後は全部放免する。

12月16日
それでも100数十名を引立てて来る。その直ぐ後に続いて、
家族であろう母や妻らしい者が大勢泣いて放免を頼みに来る。
市民と認められる者は直ぐ帰して、36名を銃殺する。

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「色々の角度から調べて」、「後は全部放免する」、
「市民と認められる者は直ぐ帰して」

その結果、『夥しい若者→21名』 『100数十名→36名』となっている。
無差別攻撃などではなく、ちゃんと選別が行われている。

そして何より南京は攻撃が禁じられている『無防備都市』ではなく
無差別攻撃の対象となる『防守都市』であった。
ゲリラ狩りなど行なわず、
米軍がマニラ攻略戦において行なったように無差別攻撃が可能だった。

実際に日本軍が無差別攻撃など行なっていない以上、何の問題もない。

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『南京の真実』 ジョン・ラーベ著 講談社文庫 P358~P359

ドイツ帰国後の公演原稿・ヒットラー宛の上申書

しかしながら、またしても私は思い違いをしていたのです!
この部隊の兵士全員、それからさらに、この日、武器を捨てて
安全区に逃げ込んだ数千人の兵たちも、
日本軍によって難民の中から選り分けられたのです。
皆、手を出すように言われました。
銃の台尻を握ったことのある人なら、タコができることをご存知でしょう。

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★拘束した兵士が反乱した例

「証言による『南京戦史』(8)=「偕行」1984年11月号 P7」

六車正次郎氏の証言(歩兵第九聯隊第一大隊副官)

『・・・・大隊は15日頃、城内の宿舎を割り当てられ、
17日頃城内に移駐したよしであるが、私が原隊復帰後に、
城外掃蕩に任じていた小隊長から、次のような話を聞いた。
「1ヶ小隊で中山門東方紫金山中の警備を担当したが、
激戦により小隊は約30名に減少していた。
夜半、東方の山中から敗残兵数100名が、
日本軍が居るのに気付かず、南京に向かって来たのを捕えた。
しかし、我々の人数が少なく、もし少人数と判れば危ないので、
銃を取りあげ凹地に集結させ、
外側の兵のみを電線で縛って逃げないようにした。
ところが、日本軍が少人数とあなどったのか、
手榴弾を投げつけてきて暴れだし、収拾がつかなくなったので、
軽機・小銃で弾丸のある限り射った。
小隊長も、手向かってくる敵を斬りまくり刀が折れた」』

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「本当はこうだった南京事件」 P382~P383

たった7名で捕虜500を得た第16師団通信隊の堀曹長の手記
『想出集』(込山繁上等兵編、戦前の手記集と思われる)から抜粋

紫金山から太平門めざし降りだすと、各所に敗残兵と遭遇し、
一緒に行動する予定だった野田部隊(歩33)の14、5名は危険を感じて
引き返してしまう。

残る通信隊の1コ分隊7名は、いやがる苦力(6名)を督励して
さらに進んで、紫金山頂北西2キロの地点で
白旗を掲げた一団の敗残兵と遭遇する。

さらに後方から一団また一団と続々と続く状況から、
師団本部にこの状況を通信するとともに、
全員を武装解除し、その場に座らせて命令をまつことにした。

捕虜の数は500を越えている。
「直ちに救援隊を送るから、その位置におれ」とのことで、
夕方まで待ったが救援隊は到着しない。
捕虜は動揺し始め、必死に静めることに努力したが、
日本兵にも恐怖感が漂いだした。

やむなく伝令を太平門に走らせ、増援を依頼したが、
門の守備兵力(第6中隊)は僅少(200名以下か)で、
守備の中隊長からは「君等が此所迄引張ってくれば引受ける」とのこと。

鹵獲した武器弾薬は後に残し、兵3名が手真似足真似で捕虜を引き連れ、
残りが警戒と通信機材を担ぐ苦力を監督しつつ歩き、
やっと守備隊長に引き渡したという。

堀曹長は、この約1時間後、この敗敵は数発の手榴弾を投げ、
警備兵に損害を与え、約200名は遁走した、と記す。

これが「太平門1300」の真相か否かはここで断定できないが、
少数の兵士が数倍の捕虜を監視するその困難さ、恐ろしさ、危険性などが
実感をもって如実に証言されている。

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東中野修道氏『再現 南京戦』第4章より

捕虜の逆襲 - 再び太平門外にて

その日(12月13日)の20時過ぎ、夜の暗闇のなかで
久居33連隊第6中隊は戦場整理をおこなった。
そのとき古山一等兵はもう一つの戦場の現実を記している。

「こうして夜に入り8時すぎ、敗残兵の死骸整理中、
突然3発の手榴弾に見舞われて、六名の死傷者が出た。
その1人が私で、明けて14日早朝、
城内飛行場に開設された野戦病院に入院した。」
(『魁』〈第1巻〉536頁)(P97)
このとき襲撃してきたのは拘束中の投降兵であった。

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★反抗した捕虜の鎮圧は正当

そもそも実際に行為の実行に関係なく、
交戦相手が「敵対行為」と判断すればその場で射殺される。

幕府山の事例は「単なる移送中の捕虜の反抗鎮圧」に過ぎない。
「移動しろ」という指示に従わず日本兵を殺傷したのだから
敵対行為と判断されて当然である。

反抗した捕虜を鎮圧するのに裁判など必要ない。

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ハーグ陸戦規則 第8条 処罰

俘虜ハ、之ヲ其ノ権内ニ属セシメタル国ノ陸軍現行法律、
規則及命令ニ服従スヘキモノトス。
総テ不従順ノ行為アルトキハ、俘虜ニ対シ必要ナル厳重手段ヲ施スコトヲ得。

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★戦場に身を置く戦闘者の心理

「証言による『南京戦史』(9)=『偕行』1984年12月号 P5

島田勝巳氏(歩兵第33連隊第二機関銃中隊長)の遺稿

「中国兵は、小銃を捨てても、懐中に手榴弾や拳銃を隠し持っている者が、
かなりいた。紛戦状態の戦場に身を置く戦闘者の心理を振り返ってみると
「敵を殺さなければ次の瞬間、こちらが殺される」
という切実な論理に従って行動したのが偽らざる実態である。」

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★現代でさえ負傷した相手であっても「死んだふりをしている」とみなして
射殺しても「正当な戦闘行為」とされたりする。
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毎日新聞 2005/05/06 【ワシントン及川正也】
米軍によるイラク・ファルージャ掃討作戦中の昨年11月、
米海兵隊員が無抵抗のイラク人負傷者を射殺した事件で、
米海兵隊は4日、「交戦規定と一致する行動で、自己防衛のためだった」
とする調査結果を発表した。
これにより事件に関する軍法会議は開かれず、
海兵隊員の刑事責任は問われないことになる。
調査結果によると、事件は同13日にファルージャの
モスク(イスラム礼拝堂)内で作戦行動中の海兵隊員がライフル銃で、
イラク人3人を射殺。この様子を従軍取材していた米NBCテレビが撮影、
武装していないイラク人1人の射殺直前の場面が放映された。
ビデオによると、この海兵隊員は「死んだふりをしている」
と叫んでから、銃撃していた。
この海兵隊員は聴取に対し
「襲いかかろうとしてきたので、自己防衛のために撃った」と主張。
複数の目撃証言やビデオの検証、法医学的検証などと合わせて検討した結果、
「交戦規定と矛盾しない」と判断、正当な戦闘行為と結論付けた。
調査では、死んだふりをして不意を突いて
襲撃してくることがある反米武装勢力の戦術なども考慮された。

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南京事件資料集②中国編 P-227,228 郭岐「陥都血涙録」
―――
日本の獣兵は南京市を占領していたが、周辺のデマで日夜不安であり、
まるで針の筵に座っているかのようだった。
あるとき、中央(国民政府)の便衣隊約五、六人が入城し、
中華路付近の地下室内に潜んでいた。
ちょうど五人の獣兵が三、四人の人夫をともなって
北から南にやって来ていて、我が便衣隊の近くに来た。
彼らはすぐさま発砲して獣兵を皆殺しにし、四人の人夫に
『中央軍はすでに入城した』と言って、人夫たちを安心させた。

―――――――

●便衣服に着替え一般市民を装った中国兵を偽装と判断して摘発し、
処断しても国際法に違反しない。虐殺ではない。

―――

2~3ヶ月の間に数万件の強姦が発生したのなら、
その10ヶ月後に出産する女性が劇的に急増するはずである。
同時に性病の流行も引き起こす。

1945年のベルリン陥落時、
約10万人のドイツ女性がソ連兵に強姦され、約1万人が自殺した。
その10万人の強姦を受けた女性たちの23%が妊娠し、
そのうちの31%が中絶し、残りのほとんどがソ連兵の子供を生んだ。
これらの事実は、
ベルリンの病院に残された産婦人科の受診簿が語っている。

アイリス・チャンは南京で2万から8万人の女性が
日本兵から強姦を受けたと主張しているが、
ベルリンの事件から考えると、
事件の10ヶ月後には、数千から2万人近くの日本兵の子供が
一斉に生まれる現象が南京で起きたはずだ。
しかし、そのような記録はない。

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『「南京虐殺」の徹底検証』 東中野修道著 P261

記録者名のある強姦(未遂)事例61件のうち、
日本軍に通報された事例を挙げると、それは次のように分類される。

1.日本兵逮捕の事例は、右の「事例167」の1件のみであった。
2.日本兵が憲兵に引き渡されて事例は右の「事例227」の1件のみであった。
3.憲兵に連絡された事例は「事例426」の1件のみであった。
4.日本兵が連行された事例は「事例168」と「事例220」の、2件であった。
5.被害者が証人として同行を求められたのは右の事例146の1件のみであった。
6.日本兵と被害者(未遂)が連行されたのは「事例216」の1件のみであった。

このように日本軍に通報された件数は合計7件であった。

右の計算には、あるいは見落としがあるかも知れない。
そこで、東京裁判に出廷した塚本浩次法務部長の証言をも紹介しておく。
法務部とは軍関係の裁判を司る部門であった。
塚本法務部長は上海派遣軍法務官として、
1937年12月から1928年8月まで南京に在勤した。
その間に、何件の事件を扱ったのか。
サトン検察官から、そう尋問されて、彼は次のように答えた。
「10件内外であったかと思います。(略)
10件と申しましたのは1人1件ではございません。
1件の中には数人を含む場合も相当あります。」

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中国は、日本軍が1937年12月から2~3ヶ月の間に
南京市民30万人を虐殺したと主張しているが、
では、その期間、中国軍はどこで何をしていたのか?

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南京大虐殺記念館は日本人が造った


上海事変~南京陥落


南京陥落後


日本の武士道精神
http://s01.megalodon.jp/2009-0520-0820-02/photo.jijisama.org/china.html

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南京大虐殺の際、中国軍は何処で何をしていた?

南京戦を行った日本軍は、
松井石根大将を司令官とする中支那方面軍(当時の名称)と、
その指揮下にあった上海派遣軍と第10軍で、総兵力は7万数千名である。

1937年11月11日、蒋介石は首都南京で、南京を放棄するか、死守するか、
李宗仁、白崇禧、何応欽、唐生智、徐永昌、
ドイツの軍事顧問団団長のアレキサンダー・フォン・ファルケンハウゼン
といった将軍らと善後策を諮っていた。

偕行社版『南京戦史資料集Ⅰ』によると、唐生智将軍が南京死守を力説する。
そこで、蒋介石は、「わが血肉をもって南京城と生死を共にする」
と誓う唐生智将軍を南京防衛軍司令官に任命し、南京死守を決定した。

それでも何十万人という大軍が蒋介石と共に
南京を見捨てて漢口に逃げて行き、
1937年12月10日頃、南京城攻防戦に残った中国軍の戦力は、
戦史分析から大目に見積もって約8万~9万(雑兵含む) だった。

12月12日、「わが血肉をもって南京城と生死を共にする」
と誓った唐生智司令官も、手下を連れて船で南京を脱出した。
司令官に逃げ出されたことを知った南京の中国兵たちも、
南京城からの逃亡を試み、12月12日夜から日本軍と衝突し戦闘が始まった。

さらに、中国軍には戦闘に際して兵士を先頭に立たせ、
後退する兵士がおれば背後から射殺する任務を帯びた「督戦隊」という
独特の組織があり、多くの中国兵はこの「督戦隊」によっても殺された。

それでも夜陰に乗じて多くの中国兵が揚子江ルートで脱出に成功した。
12月10日頃に約8万~9万居た南京の中国兵のうち、
約4~5万の中国兵が南京から逃亡・脱出し、
南京が陥落した12月13日でも南京に残っていた中国兵は
戦死者も含めて約4万と推測される。

南京陥落まで南京に残った約4万の中国兵のうち、
1万は捕虜として日本軍に保護されて最後まで生存した。
したがって、残り約3万が「戦死」したことになる。

この約3万人「戦死者」の中には、
上述のとおり中国軍「督戦隊」によっても殺された者、
日本軍に投降しようとしたが日本軍が捕虜として保護することを
拒否した(状況に応じて投降兵の助命を拒否することは合法)ために
戦死した者、安全区に逃げ込んで
便衣兵(民間人を装った中国兵)となったが、
摘出されて処刑された者なども含まれる。

一方、もともと100万人居た南京市民だが、
1937年12月12日に南京で戦闘が勃発する前に
約80万人が南京を脱出して避難していた。

南京を脱出した約80万人の南京市民のうち、
一般市民を中心に約50万人が日本軍の占領する上海に避難し、
公務員を中心に約25万人が蒋介石と共に漢口に避難し、
約5万人は香港に避難していた。
南京で戦闘が始まる12月12日まで南京に残った約20万人の市民は、
上海などに避難する船賃も払えない貧しい人ばかりだった。

日本軍が南京を占領した後、
日本軍は安全区に潜伏した中国の便衣兵を摘出して処刑し、
南京には徐々に平和が蘇えったため、
上海などに避難していた南京市民は徐々に南京に戻って来た。
1937年12月12日に「20万人」まで減った南京の人口は、
1938年1月14日には「25万人」と増加に転じ、
1938年9月23日には「40~50万人」まで回復した。

大半の中国軍は蒋介石と共に漢口に移動していた。
南京では日本軍による虐殺はなかった。
そのため、漢口に居た中国軍は特に何もしなかった。

1937年12月10日頃、南京に残った約8万~9万の中国軍のうち、
約4~5万の中国兵が南京から逃亡・脱出し、
南京が陥落した12月13日でも南京に残っていた中国兵は
戦死者も含めて約4万と推測される。

◆12月13日まで南京に残った約4万の中国兵の内訳
・戦闘で戦死した者、2万
・便衣兵となり摘出されて処刑された者、1万
・日本軍に投降しようとしたが日本軍が捕虜として保護することを拒否した
(状況に応じて投降兵の助命を拒否することは合法)
ため処断された(戦死した)者、1万
・捕虜として生存した者、1万

※中国軍は日本兵を捕虜にすることはなく、ほぼ全員を処断した。
※日本軍が南京市民を数万~数十万人も殺害する理由などない。動機がない。

◆支那軍の生存捕虜が約1万人だった資料

『南京戦史資料集』 P594

朝日新聞 昭和12年12月29日 「捕虜1万5百」

1、俘虜7200名は、第10中隊堯化門付近を守備すべき命を受け
同地にありしが、14日午前8時30分頃数千名の敵、
白旗を掲げて前進し来り午後1時武装を解除し南京に護送せし者を示す。

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仙鶴門附近の約7千人の捕虜は南京に収容

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上海派遣軍独立砲兵第二大隊『戦闘詳報』第9号付録
(12月13日午前1時~正午)

(四)戦闘における状態
(略)
同夜午後7時頃、仙鶴門鎮西方に約2~300の敵襲を受けたるも
難なくこれを撃退せり。14日午後4時砲兵指揮官、内山少将、
仙鶴門鎮に来られ 、敵襲後の状態を視察せらる。
これより先午後2時頃堯化門付近において、約7000名降伏し来り。
午後6時歩兵第38連隊の一中隊護衛の下に、仙鶴門鎮北側凹地に集結す。
該俘虜の大部は13日早朝仙鶴門鎮及び新庄付近を襲撃せるものにして、
事後北方に退却し我が部隊各所に駐屯し有力なる為ついに、
企図を放棄し武器を捨て降伏し来れりものなり。

(注:捕虜確保は12月14日) 『南京戦史資料集』 P650

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独立砲兵隊の捕虜は歩38所属の中隊に引き渡された。
歩38の戦闘詳報↓↓↓
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第16師団 歩兵38連隊戦闘詳報 附表第3 戦闘詳報12号附表 備考

1、俘虜7200名は、第10中隊堯化門付近を守備すべき命をうけ
同地にありしが14日午前8時30分頃数千名の敵、
白旗を掲げて前進し来り午後1時武装を解除し南京に護送せし者を示す。

『南京戦史資料集』 P594

―――――――――――――――――

『本当はこうだった南京事件』 板倉由明著 日本図書刊行会 P387

なお、城内に収容された捕虜のその後については、
『南京戦史』第六章第六節「南京付近に収容した捕虜の状況」に詳しいが、
最初一万人程度の捕虜が収容され、翌昭和十三年一月六日に
「三千六百七十人もいるそうだ」と
第十六師団経理部の小原立一少尉の日記に記されている。
約半数が昭和十二年末ころ上海に送られたものと見られ、
残りが汪兆銘の南京政府軍に編入されたという事実はよく知られている。

(注 板倉氏は『南京戦史』の主力編集員)

―――――――――――――――――

『南京戦史』 P324

これらを総合すると堯化門(仙鶴門鎮)付近の捕虜約七千二百名を
中央刑務所(第一監獄所)に護送し収容したことはあきらかである。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/8312/page028.html

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■南京戦における日本軍(上海派遣軍+第10軍)の兵力は約8万人。
(そのほか補給などの後方支援は約16万人)戦死1600人。戦傷5000人。

―――――――

■南京戦におけるChina軍の兵力は約5万人。
戦死2万。捕虜1万。逃亡1万。
民間服で潜伏中の発見で処刑1万。
「投降してきたが拒否」+「暴動で逃亡を図った敵兵」=射殺1万。

●台湾(中華民国)の公刊戦史
「当初は10万、落城時は3.5万~5万」(China兵の多くは激突前に逃亡)

●『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』 P239
アメリカ大使館報告「1937年12月10日後の主な報告」
南京の陥落を前にして、人口のおよそ4/5が市を脱出し、
主要な部隊は武器、装備もろとも撤退していった。
南京市の防衛はわずかに5万人の兵士に任されていた。

●『日中戦争史資料集8 極東国際軍事裁判資料編』 P395
東京裁判判決文
「中国軍はこの市を防衛するために約5万の兵を残して撤退した。
1937年12月12日の夜に、日本軍が南門に殺到するに至って、
残留軍5万の大部分は、市の北門と西門から退却した。
中国軍のほとんど全部は、市を撤退するか、
武器と軍服を捨て国際安全地帯に避難したので・・・後略」

―――――――

南京戦における日本軍および中国軍の編成
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/taigaishinryaku_nankinziken_gunnohensei.htm
南京防衛軍
http://www5b.biglobe.ne.jp/~nankin/page005.html
南京戦 参加兵力
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E6%88%A6#.E5.8F.82.E5.8A.A0.E5.85.B5.E5.8A.9B

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◆虐殺事件の証拠(資料)一覧◆

●済南事件
1.日本人犠牲者の名簿 ○あり
2.命令書 ×なし
3.政府の認識 ○あり(田中外相宛西田領事報告など○)

●通州事件
1.日本人犠牲者の名簿 ○あり
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/tuusyuu00.htm
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/tuusyuu20.htm
2.命令書 ×なし
3.政府の認識 ○あり(外務省の公式声明など○)

●カチンの森事件
1.ポーランド人犠牲者の名簿 ○あり
2.命令書その他公式文書 ○あり
(スターリンが命令し、
内務人民委員部長官ラヴレンティ・ベリヤが命令書に署名○)
3.政府の認識 ○あり
加害者のソ連 ○あり
被害者のポーランド ○あり
濡れ衣を着せられたドイツ ○あり
(事件3年後、収容所にいた元ポーランド軍将校、公務員、警察協力者、
情報部員、憲兵隊員、獄吏等の遺骸を発見○)

●ホロコースト
1.犠牲者の名簿 ○あり(犠牲者や強制労働者ら1750万人の名簿○)
2.命令書その他公式文書 ○あり
(ナチスの強制収容所などの実態が記述された約5千万件の公文書○)
3.政府の認識 ○あり

●ソ連による日本人拉致・シベリア強制連行・殺害事件
1.犠牲者の名簿 ○あり
(死亡年月日、死因、埋葬地など全員○。
犠牲者は50万人超で、ゴルバチョフ来日の際、名簿の一部のみ渡された)
2.命令書その他公式文書 ○あり
(マリク駐日大使がモロトフ外相に宛てた文書で、「1946年12月時点で、
まだ生存している抑留日本人が105万人以上居る」と記載○)
3.政府の認識
被害者の日本 ○あり
加害者のソ連 ○あり
第3国の米国 ○あり

●原爆投下
1.犠牲者の名簿 ○あり
2.命令書 ○あり
(7月25日、トルーマンの決定を受けてグローブスが
作成した「原爆投下命令書」がワシントンの
陸軍戦略航空軍司令官カール・スパーツに手渡され、
ポツダムにいる陸軍長官スティムソン、陸軍参謀総長マーシャルが承認し、
陸軍参謀総長代理トーマス・T・ハンディがサインした公文書○)
その他、膨大な文書○や記録フィルムなどの資料 ○あり
3.政府の認識 ○あり
(日本にも○、アメリカにも○、世界中の政府にも○、認識あり)

●南京事件
1.犠牲者の名簿 ×なし
(日本も×、蒋介石政府も×、汪兆銘政府も×、
南京安全区国際委員会も×、南京市民も×、誰も作成せず)
2.命令書その他公式文書 ×なし
3.政府の認識 ×なし
(当時、日本にも×、何応欽にも×、蒋介石にも×、
毛沢東にも×、国際連盟にも×、事件の認識×なし)

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参考資料

日本軍と日本刀の実態
http://s04.megalodon.jp/2009-0201-1311-15/resistance333.web.fc2.com/html/nihongun_nihontou.htm
プロパガンダ写真<軍刀編>
http://s02.megalodon.jp/2009-0201-1311-36/resistance333.web.fc2.com/propaganda/guntou1.htm
プロパガンダ写真館<軍刀編2>
http://s04.megalodon.jp/2009-0201-1311-58/resistance333.web.fc2.com/propaganda/guntou2.htm
銃器編
http://s03.megalodon.jp/2009-0201-1319-08/resistance333.web.fc2.com/propaganda/zyuuki.htm
非情編
http://s01.megalodon.jp/2009-0201-1319-29/resistance333.web.fc2.com/propaganda/hijyo.htm
死体編
http://s02.megalodon.jp/2009-0201-1319-47/resistance333.web.fc2.com/propaganda/sitai.htm

南京証言











戦場においてゲリラ(便衣兵)から狙われるほど恐ろしいものはありません。

制圧したと思って村や町に入ると、建物の陰から鉄砲の弾が飛んできます。

敵兵を探しても、いるのは善良そうな顔をした人々だけ…。

あるいは、少年少女だと思って油断していると
突然懐から拳銃が出てきて撃ち殺されたりするのです。

ゲリラ戦・便衣隊戦術は民間人を戦闘に巻き込みます。

上海戦開始から多くの日本軍将兵が多くの支那軍便衣隊によって
殺傷されており、南京入城後に軍服が大量に捨てられていたため、
日本軍は徹底的な便衣兵掃蕩を余儀なくされました。

便衣兵と判明すれば殺すしかありません。
便衣兵を殺さなければ、
その後、支那軍は癖になって便衣隊戦術をエスカレートさせ、
日本軍や一般市民の被害は拡大する一方です。

さっきまで戦闘していたのに、「いや、自分は民間人だ」と言う。
その人が、そのあと、また襲ってくるのです。

―――――――

島田勝巳氏(歩兵第33連隊第2機関銃中隊長)の遺稿
・・・太平門の辺りでは、多くの敗残兵を捕らえたが
“ヤッテシマエ”と襲いかかるケースが多かった。

城内掃蕩中でも、獅子山付近で百四、五十名の敗残兵を見つけたが、
襲い掛かって殺した。

中国兵は、小銃を捨てても、
懐中に手榴弾や拳銃を隠し持っている者が、かなりいた。

紛戦状態の戦場に身を置く戦闘者の心理を振り返ってみると、
「敵を殺さなければ、次の瞬間、こちらが殺される」
という切実な論理に従って行動したのが偽らざる実態である。
(証言による『南京戦史』9)
[註:捕らえてから殺した、あるいは投降兵を殺したとは書かれていない]

―――――――

歩兵第9連隊第1大隊副官 六車政次郎氏の証言

・・・私が原隊復帰後に、城外掃蕩を任じていた小隊長から
次のような話を聞いた。

『一ヶ小隊で中山門東方紫金山中の警備を担当したが、
激戦により小隊は約三十名に減少していた。
夜半、東方の山中から敗残兵数百名が、日本軍が居るのに気付かず、
南京に向かって来たのを捕らえた。

しかし、我々の人数が少なく、もし少人数と判れば危ないので、
銃を取りあげ凹地に集結させ、
外側の兵のみを電線で縛って逃げないようにした。

ところが、日本軍が少人数とあなどったのか、
手榴弾を投げつけてきて暴れだし、収拾がつかなくなったので
軽機・小銃で弾丸のある限り射った。
小隊長も、手向かってくる敵を斬りまくり刀が折れた』
(証言による『南京戦史』8)

―――――――

歩兵第七連隊が安全区内で鹵獲した武器だけでも膨大な量があります。

(南京城内掃蕩成果表)「12月13日~12月24日」によると

鹵獲品 

●15センチ砲:2門、同弾薬:約600発

●20センチ級砲:8門、同弾薬:約1000発

●小銃:960挺、同実包:39万発

●水冷式重機関銃:12挺、軽機関銃:33挺

●拳銃:103挺、同弾薬:261,350発

●高射砲:1門、高射機関銃:1挺

●山砲:6門、同弾薬:82発

●迫撃砲:10門、同弾薬:57,218発

●戦車砲弾:39,000発、銃剣:320挺

●手榴弾:55,122発、青竜刀:2,020振

●対戦車砲:2門、戦車:4台

●機関砲:1門、自動貨車:16台

●便衣服:2,300着、夏衣袴:25,300着

とあります。しかもこれは実際の三分の一だそうです。

―――――――

第一六師団長の中島今朝吾中将の日記の、

「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタルモ・・・」

の「片付クル」を勝手に「殺害する」という意味に捉える人がいますが、
実際は「処理していく」という意味で、
この場合、「武装解除して釈放する」という意味です。

ちなみに、そのあとの文章は以下の通りです。

「大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたるも
千五千一万の群集となれば之が武装を解除することすら出来ず、
唯彼等が全く戦意を失ひ、ゾロゾロついて来るから安全なるものの、
之が一旦掻〔騒〕擾せば始末に困るので、
部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ、
十三日夕はトラックの大活動を要したり乍併戦勝直後のことなれば、
中々実行は敏速には出来ず、
斯る処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり」

―――――――

また、南京戦について佐々木少将の証言の中に、
「…その後捕虜続々投降し来り数千に達す…片はしより殺戮…」
という部分があります。

反日左翼は、このような証言や記録を持ってきて、
「日本軍は保護すべき捕虜を不法殺害した」と主張します。

しかし、この場合の「捕虜」とは正確には(国際法上は)
「捕虜」ではありません。

「捕虜が投降する」という表現は日本語としては不自然ですし、
国際法上の「捕虜」「俘虜」とは、
投降して、敵に投降(捕虜となること)が認められ、
収容されて初めて保護されるべき「捕虜」「俘虜」となります。

ハーグ陸戦法規では、
「兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること」
を禁止していますが、
状況によっては投降を拒否して攻撃・殺傷を継続することを認めています。

したがって、佐々木証言の「捕虜が続々投降し来り」は
正確な表現ではありません。

このように、当時の多くの日本軍将兵は、
国際法上正確には「捕虜」「俘虜」とは言わない敵の
「投降兵」や「敗残兵」などのことを、
「捕虜」「俘虜」と記録しているので要注意なのです。

日本軍が殺したのは、国際法上保護すべき「捕虜」「俘虜」ではなく、
正確には「敗残兵」「投降兵」だったのです。

ちなみに中国軍は、投降したり負傷して捕まえた
日本兵を一人残らず全員惨殺し、
捕虜として保護したことは全くありませんでした。

「ハーグ陸戦条約 第23条 禁止事項」は
実際の戦場においては実行不可能な場合もあります。

ハーグ陸戦条約 第23条 禁止事項
(c)兵器を捨て、または自衛の手段が尽きて
降伏を乞う敵を殺傷すること。
(d)降伏拒否の宣言。

―――――――――――――――――

国際法学者の佐藤和男氏は
「伏敗残兵の摘発・ 処刑は、違法な虐殺行為ではないと考えられる」
という見解を述べています。

2001年3月号 正論 P317

「南京事件と戦時国際法」 佐藤和男 著

兵民分離が厳正に行われた末に、変装した支那兵と確認されれば、
死刑に処せられることもやむを得ない。
多人数が軍律審判の実施を不可能とし【軍事的必要】・・・

軍事史研究家の原剛氏は、多数の便衣兵の集団を審判することは
「現実として能力的に不可能であった」と認めている・・・、

また市街地における一般住民の眼前での処刑も避ける必要があり、
他所での執行が求められる。

したがって、間題にされている潜伏敗残兵の摘発・処刑は、
違法な虐殺行為ではないと考えられる。
―――――
その二は、戦闘中に集団で捕えられた敵兵の処断である。
同じように戦闘中に捕えられながらも釈放された支那兵が
多数いたことを見れば(前出『南京戦史』第五表を参照)、

日本軍の側に捕えた敵兵を組織的に
絶滅させる計画的な意図が無かったことは明白である。

具体的な 熾烈な戦闘状況を調べてみると(本稿では詳述する余地がない)、
日本軍の関係部隊には緊迫した【軍事的必要】が
存在した場合のあったことが知られる。

―――――【軍事的必要】とは?――――――――――――

『国際法Ⅲ 田岡良一著 P352』

「戦争法規は戦時に通常発生する事態における
【軍事的必要】のみを考慮して、
その基礎の上にうち建てられたものであるから、
より大きい【軍事的必要】の発生が
法規の遵守を不可能ならしめることは実際に必ず生ずる。
この場合に法規は交戦国を拘束する力を失う。

―――――――――――――――――

戦数理論(=戦時非常事由、交戦条理)。
たとえ軍服の敵兵が投降してきたとしても、
その人数が1万人など大量の捕虜をかかえることになると、
拘束しておく場所や食料調達などの管理が困難になる。
かといって自由に釈放すると、また武器を取って攻撃して来る恐れもある。
まだ戦争は終わっていなかったのだ。
したがって投降の拒否をして処刑しても、
やむを得ない場合が生じることも考えられる。
このように戦争時の「やむを得ない行為の発生」を認めざるを得ないという
考え方が、いわゆる「戦数」理論(=戦時非常事由、交戦条理)である。

―――――――――――――――――

■オッペンハイム国際法・戦時の部
投降者の助命は、次の場合に拒否しても差支えない。
1.白旗を掲げた後なお射撃を継続する軍隊の将兵に対して。
2.敵の戦争法違反に対する報復として。
3.緊急必要の場合において、すなわち捕虜を収容すれば、
彼らのために軍の行動の自由が害せられて、
軍自身の安全が危くされる場合においてである。

戦闘の進行中に敵軍の一部が投降しようとした場合に、
味方軍がこれを受諾し投降兵を収容して後方に送致する為には
味方軍の進撃を中止する必要を生じ
その事が味方軍の勝利を危うくする惧れのある場合には、
味方軍の安全と勝利を確保する為に
敵軍の降伏信号を黙殺して攻撃を継続する事が軍事上必要となる。
ゆえに戦時法規は一定の条件下において投降の拒否を認めるのである。

■ウェストレーク戦時国際法
「ハーグ陸戦条約 第23条 禁止事項(c)(d)」が
実行不能な場合として
一般に承認されているのは、戦闘の継続中に起こる場合である。
このとき投降者を収容するために軍を停め、
敵軍を切断し突撃することを中止すれば、
勝利の達成は妨害せられ、時として危うくされるであろう。
のみならず戦闘の継続中には、捕虜をして再び敵軍に復帰せしめないように
拘束することが実行不可能な場合が多い。

■スぺート(戦争法の権威)の陸戦法に
関する名著「陸上における交戦権」では、
投降者の助命が戦時の実際においては行われ難く、
かつその止むを得ない場合があることを論じている。

■ローレンスは、投降を許して収容した捕虜さえも、
軍の行動の必要によっては
皆殺しにするのも止むをえない場合があると説いている。


旧日本軍には、便衣兵と民間人を区別する専門の担当者がいました。

旧日本軍の公式記録「戦闘詳報」に、
歩兵7連隊だけで刺殺あるいは射殺した敗残兵は
6670人と記録されていますが、
掃蕩作戦において敗残兵や便衣兵を
射殺したり刺殺することは問題ありません。

掃蕩作戦の際に「便衣兵と非戦闘員を見分けることが出来なかった。」
と証言した、
歩兵7連隊の元兵士がいらっしゃいますが、
その元兵士は、便衣兵と民間人を分離する担当者ではありませんでした。

歩兵第7連隊の中にも、便衣兵と民間人を区別する担当者と、
便衣兵と判断された中国兵を
連行して処断する担当者が、それぞれ居ました。
その元日本兵は、後者です。
実際に、便衣兵の摘出作業(平民分離作業)に携わった兵士は、
「便衣兵と民間人は簡単に見分けがつき、
便衣兵と間違えて民間人を処断したことはなかった。」
と証言しています。

中国軍兵士の多くは坊主頭だったそうです。
ヘルメット焼けや、銃ダコの有無、
その他の身体的特徴が重なった場合は「兵士」と考えたようです。

南京市民で徴兵された者も、徴兵された以上は兵士であり、
安全区に家族がいて無実を訴えたとしても市民としては扱われません。

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『南京の真実』 ジョン・ラーベ P358~P359

そのほか、背嚢を背負った跡が背中に残っていないか、
行進による靴擦れができていないか、
兵士独特の形に髪が刈られていないかなども調べられました。

―――――――

『南京戦史』 P387

査閲の方法は、第十六師団参謀長・中沢三夫氏の
『極東裁判における宣誓供述書』によれば、
「日支合同の委員会を構成し日支人立会の上、一人宛審問し又は検査し、
委員が合議の上、敗残兵なりや否やを判定し、常民には居住証明書を交付し、
敗残兵と認定された者は之を上海派遣軍司令部に引き渡した」
ということであるが、

師団副官・宮本四郎氏の遺稿によると、
捜査にあたった司令部の大行李長・瀬戸大尉の話として
「ズボンをまくりあげさせ、短ズボンを穿いていた奴は
太股に日焼けの横線がある。
此奴は兵隊である。・・・・・・紛らわしいのは逃亡兵の方に入れる。
それが逃亡兵でない時は、本人が言い張るばかりでなく、
難民区から見に来ている男女中国人が、この男は何町の呉服屋の店員だとか、
これは私の妹の子供だと泣きすがって哀願する婆さんが現れたりして、
決着がつく」と記している。

また、兵民分離査問に立会した内田義直氏
(陸軍省通訳官・第十六師団警備司令部配属)は、
その実態を次のように述べている。
「中国人の言葉には地方訛りがある。
南京を守備した中国軍は、広東、広西、湖南の兵隊で南方訛りであって、
言葉で兵隊と市民の区別は難しかった。
しかし、体つきを見れば兵隊と一般市民とは、直ぐ区別がつく。
自治委員会の中国人と一緒に相談しながら分離作業をやったので、
一般市民を狩り立てることはなかった。
上着だけが民間服で、下着が兵隊服のものが多く、すぐ見分けがついた。

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日中戦争で中国が採用していた便衣兵戦術は国際法違反です。

兵士が便衣となって市民の中に紛れ込む行為は、
市民と兵士の識別を困難にしました。
それでも日本軍は、逃亡兵摘出に当たり
可能な限り兵士と市民を識別しようとしました。
その結果、誤認された市民がいたとしても、
それは軍事目標と非軍事目標の識別が困難な状況下で
攻撃に巻き込まれた非戦闘員であり、
その原因は識別努力義務に真っ向から違反した中国軍にあります。

ハーグ陸戦法規 第23条(C)では、
「兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること」
を禁止していますが、
摘出された便衣兵は降伏を表明して自ら捕らえられたのではなく、
隠れているところを捕獲されたのですから、
「降を乞える敵」に該当しません。

国際法上は、敵に投降(捕虜となること)が
認められて収容された時点から「捕虜」となります。

―――――――――――――――――

【重要】また、捕虜となった場合であっても、
ハーグ陸戦条約(1907年)やジュネーブ俘虜取扱条約(1929年)には、
「捕虜を裁判にかけなければならない」という規定はありません。

◆1907年ハーグ陸戦条約付属規則のなかで、
「裁判にかけなければならない」と規定しているのは、
間諜(スパイ)に対する処罰のみです。

下記4つがハーグ陸戦条約での裁判に関する事項ですが、
23条と43条はセットで、
捕虜に対するものではなく、相手国の国民に対するものです。

【第12条】
宣誓解放を受けた俘虜であって、その名誉を賭して宣誓を行った政府
又はその政府の同盟国に対して兵器を操って再び捕えられた者は、
俘虜の取扱を受ける権利を失うべく裁判に付せられることがある。

【第23条】
特別の条約により規定された禁止行為以外に、特に下記の物を禁ずる。
(中略)
相手国国民の権利消滅、停止、裁判の不受理の宣言。

【第30条】
間諜(スパイ)の現行犯は裁判を経て罰しなければならない。

【第43条】 占領地の法律の尊重。
国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、
占領者は、絶対的の支障なき限、占領地の現行法律を尊重して、成るべく
公共の秩序及生活を回復確保する為、施し得べき一切の手段を尽すべし。
―――――――
◆1929年ジュネーブ俘虜取扱条約(当時、日本は批准していなかった)には、
捕虜を裁判にかける場合の規定はありますが、
「裁判にかけなければならない」という規定は見当たりません。
※日本は大東亜戦争後の1953年4月21日に閣議決定、10月21日に公布。
―――――――
支那事変は支那から日本軍に攻撃してきて始まりましたが、
両国とも宣戦布告をしていませんので、
そもそも上記2つの条約が適用されるのか議論の余地があるところです。

―――――――――――――――――

現行犯の便衣兵は即時殺害でも構いません。
戦争中に敵兵を殺してはならない戦争などありえません。

逃走中の敵は適法な攻撃対象であり、
逃走中はまだ交戦状態が続いています。
逃亡中の兵士は戦闘外にあるとは認められない敵対行為中の戦闘員です。

戦闘後、逃亡中に便衣となった戦闘員が残敵掃蕩の為に摘出されたのです。
便衣兵の摘出は敗残兵掃蕩という戦闘行為です。

交戦状態にあった守備軍が便衣兵となって市中に潜伏している状態は、
便衣兵となって交戦を続行している状態です。
初期掃蕩戦における便衣兵摘出は、
交戦状態続行中の、現行犯の便衣兵摘出なのです

島田氏の残した『「敵を殺さなければ、次の瞬間、こちらが殺される」
という切実な論理に従って行動したのが偽らざる実態である。』
という証言は、現場の人間の偽らざる実感だったと思われます。

上海事変以降、便衣兵に苦しめられてきた日本軍は
便衣兵の厳正な摘出を行いました。

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★少年の中国兵もいた。

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 P373

目黒福治 陣中日記 山砲兵第19連隊第三大隊大隊段列・伍長

12月13日 晴天

午前3時起床、4時出発、南京爆布(幕府)山砲台攻撃の為前進す、
途中敵捕慮(虜)各所に集結、其の数約1万3000名との事、
12~3才の小供より50才位迄の雑兵にて中に婦人2名有り、
残兵尚続々の(と)投降す、各隊にて捕い(え)たる総数約10万との事、
午後5時 南京城壁を眺めて城外に宿営す。

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『南京大虐殺の徹底検証』 東中野修道著 P45

『ニューヨーク・タイムズ』 1937年(昭和12年)12月7日 南京発 特電
テイルマン・ダーディン記者

湯山と南京の間、公路沿いに、
だいたい1マイルおきに堡塁 (ほうるい) が設けられている。
首都に近づくと、中国軍に放たれた火が激しく燃え盛っていた。
敵軍が遮蔽物に使いうる農村の建物を清除しているのである。
ある谷では一村が丸々焼けていた。
(略)
湯山地区では少年雑役兵が数多くいた。
少年たちは年齢10歳から12歳、軍服姿の正規兵で、
伝令、運搬、炊事といった仕事をしている。
ときには最前線で戦争をゲームのように楽しんでいるように見える。

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少年兵が軍服を着用している限り、それは戦時国際法違反ではなかった。
下記動画に、投降してくる中国少年兵が映っている。(1:30~)
なぜ南京大虐殺は捏造されたのか?


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【南京陥落:1937年12月13日】

南京陥落後の写真 1937年12月27日(上)と22日(下)
南京陥落後の写真1937年12月27日(上)と22日(下)

1937年12月22日
1937年12月22日_乗馬&散髪

1938年1月11日
1938年1月11日_バトミントン

1938年1月11日
1938年1月11日

週刊朝日、1938年(昭和13年)1月30日号、童心に蘇る春
週刊朝日、1938年(昭和13年)1月30日号、童心に蘇る春

アサヒグラフ、1938年(昭和13年)2月2日号、春動く江南
アサヒグラフ、1938年(昭和13年)2月2日号、春動く江南

週刊朝日、1938年(昭和13年)2月6日号、陣中爆笑風景
週刊朝日、1938年(昭和13年)2月6日号、陣中爆笑風景

アサヒグラフ、1938年(昭和13年)4月6日号、漫々的抒情詩
アサヒグラフ、1938年(昭和13年)4月6日号、漫々的抒情詩
上記写真8枚は、下記「ごちゃまぜ歴史写真」さんのサイトから引用
http://kyoto.cool.ne.jp/syasinsyuu/index.htm

1937年12月20日 『南京陥落後の街頭にて』
朝日新聞1937年12月25日掲載(林特派員撮影)
1937年12月20日 『南京陥落後の街頭にて』朝日新聞1937年12月25日掲載(林特派員撮影)_1

1937年12月20日 『南京陥落後の街頭にて』
朝日新聞1937年12月25日掲載(林特派員撮影)
1937年12月20日 『南京陥落後の街頭にて』朝日新聞1937年12月25日掲載(林特派員撮影)_2

南京陥落直前の1937年12月12日の東亜日報。
「十二日、全朝鮮一斉に南京陥落祝賀挙行」
南京陥落直前の1937年12月12日の東亜日報 「十二日、全朝鮮一斉に南京陥落祝賀挙行」

南京陥落1937年12月13日の翌日14日の東亜日報。南京陥落の祝賀が
大都市のテグ、釜山、仁川などで挙行された。虐殺らしき報道はない。
南京陥落1937年12月13日の翌日14日の東亜日報。南京陥落の祝賀が大都市のテグ、釜山、仁川などで挙行された。虐殺らしき報道はない。

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いわゆる南京大虐殺・URL図書室
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-518.html

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いわゆる「南京大虐殺」関連
http://bit.ly/1RdAwI7
2009/12/28 09:00|年表リンク用資料
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