正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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非道の中国軍から中国人を守った旧日本軍

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1938年6月、蒋介石軍が日本軍の進軍を阻止するため黄河の堤防を破壊した。
日本軍による救出活動も虚しく、多くの住民が罹災し、行方不明となった。
支那軍はこれを日本軍の仕業だと世界中に宣伝した。

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1938年6月6日に、日本は河南省の中心地である開封市を占領、
鄭州市も攻略できる様相となった。

早急な対策が求められた国民党軍側では劉峠第一戦区副司令官の
「黄河の堤防破壊により洪水を起すことによって日本軍の進撃を阻止」
する案が程潜司令官に示され、蒋介石の承認を得た。

蒋介石は、商震将軍に日本軍前衛部隊の背後を突くように
堤防爆破を命じたが、国民党軍の撤退が終わるまで爆破は延ばされた。

この間、蒋介石は何度もその爆破が行われたかの問い合わせを行っている。

おそらく蒋介石は、日本軍の進撃を阻止するために、
味方諸共水攻めにしようとしたのだろう。

6月7日には中牟近くで爆破が行われたが、これは結果として失敗し、
その後、場所を花園口に変更して作業が進められた。

6月9日午前9時に作業が終了、
堤防が破壊されると黄河の水は堤防の外に流れ出し、
河南省・安徽省・江蘇省の3省の土地54,000平方kmを水浸しにした。

この結果、黄河の流れは
その後9年間、南側へ変わり黄海に注ぐようになった。

水没した範囲は11都市と4,000の村におよび、
3省の農地は農作物ごと破壊され、水死者は100万人、
被害者は600万人と言われるが被害の程度については諸説ある。

6月11日夜、
支那軍は、隴海線中牟の西方20Kmの地点で黄河の堤防3箇所を破壊した。

二、三日前の雨で増水した黄河の水は堰を切って奔流しつつあった。

6月12日午後5時に日本軍の2部隊が堤防修理に出動し、
開封治安維持会からも50名以上が自発的に応援に出た。

洪水は中牟を中心として幅約20Kmにわたり、
5m弱の高さを持った中牟城壁は30cm程度を残すだけとなった。

幸い線路が高い所に位置していたため、
住民は線路伝いに徒歩で東方に避難した。

日本軍は筏船百数十艘を出して住民とともに救助活動を行い、
同時に氾濫した水を中牟付近から
別の地域に誘導するために堤防と河道を築いた。

日本軍に救助された避難民は開封方面1万人、
朱仙鎮、通許方面5万人、尉氏方面2万人、その他数万人だった。

国民党軍は現場に近づく日本軍に攻撃を加えたほか、
日本軍が住民と共同で行っていた防水作業を妨害した。

日本軍の地上部隊は住民とともに土嚢による防水作業を行い、
日本軍の航空機も氾濫した地区において麻袋をパラシュートにより投下して
これを支援したが、決壊地点の対岸にいた支那軍遊撃隊が
麻袋の投下開始直後からその航空機と地上で
防水作業中の住民に激しい射撃を加えたこともあった。

6月11日午前、支那国民党の通信社であった中央社は
「日本の空爆で黄河決壊」という偽情報を発信した。

6月13日、さらに支那国民党は、
支那全土の各メディアに虚偽報道の上「日本軍の暴挙」と逆喧伝させた。

当然、日本側は、支那の発表を否定するコメントを出した。

支那側からは、最初は黄河の堤防破壊は堤防の影に避難している支那軍を
日本軍が砲撃及び爆撃した時になされたものであるとの説明がなされ、
後には事件は日本軍によって意図して行われたことであり、
中牟と鄭州地区にある支那軍陣地への水攻めとし、
かつ後方連絡を脅かすゲリラに対する戦略であり、
広東への絶え間ない無差別爆撃と同様に
支那民衆を威嚇する日本軍の作戦の一部とされた。

さらに報告では日本軍機による中牟北部の堤防への爆撃が続けられ、
これが洪水を悪化させ、かつ日本軍は洪水の被害を受けた地区からの
避難民を機関銃で銃撃していること、が説明された。

支那国民党は、自分たちが行っていた住民への銃撃まで
日本軍の仕業だと嘘を吐いて逆宣伝を行っていた。

日本側は、開封の堤防破壊は
支那軍に強制された農民によるものと声明を出した。
(国民党軍は1個師団の兵に加えて付近の農民を強制して作業を行っていた)

また、日本軍は自軍の前進を妨げるために自軍が黄河の堤防を破壊して
洪水を引き起こすはずもなく、さらに堤防の大きさを考慮すれば
爆撃と砲撃によって堤防を破壊することは不可能だと主張した。

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『抗日戦回想録』郭沫若自伝より

敵の最初の計画は、伝えられるところでは、
大きく迂回した包囲戦略をとり、隴海線に沿って西進し、
さらに平漢線南半を奪って大武漢の背をつこうというものだったという。

しかしこの戦略は、6月11日の黄河堤防の決壊で、
河南省東部が沼沢地帯になったため、水の泡と化した。

あの時、黄河の堤防は
開封の西北の五荘、京水鎮、許家堤等で同時に決壊した。

わが方の対外宣伝では敵の無差別爆撃による、といっていたが、
実はわが軍の前線の将軍が命令によって掘りくずしたのだった。
わが伝統兵法――「水、六軍を淹(ひた)す」だった。

しかし敵が水浸しになった程度はたかの知れたもので、
むしろわが方の民間の生命財産が想像もつかぬ犠牲をこうむった。

敵の迂回戦略は挫折したが、逆に正面攻撃戦術をとり、
五方面の大軍で長江下流から水陸を並進し、直接武漢を攻撃した。

かくてしばしの安逸を貪っていた当局も
「大武漢を守れ」の呼びかけを出さざるを得なかった。
私たちが活躍すべき機会到来であった。

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中国軍は、みずから堤防を破壊しておきながら、
それを「日本軍がやった」と逆宣伝した。
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1938年6月16日 東京朝日新聞 夕刊【上海特電十五日発】上海軍当局談
「支那側は目下しきりに黄河堤防決壊は日本軍の所為なりと宣伝に努めつつ
あるが、決壊地点と称される京水鎮には、まだ、日本軍は進出しておらず…」

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1938年6月11日の中国軍による黄河の堤防決壊から罹災民を救い出す日本軍

同盟ニュース 昭和13年6月23日
泥流渦巻く黄河の洪水被災地で、日本軍が中国人を必死に救助した。
同盟ニュース、昭和13年6月23日_泥流渦巻く黄河の洪水被災地で、支那人に対する日本軍の必死の救助作業が続く。

『農民の飢餓救った日本軍』邦訳本出版より

1938年に中国軍が黄河の堤防を決壊し、
住民30万人以上を大量殺害した時にも、
中国は「日本軍の犯行」と宣伝したが、
日本軍は濁流に飲まれる中国住民を救っていた。
6月23日の同盟ニュースは、濁流渦巻く水禍の中、
ボートで救助作業をしている日本兵の姿を写している。
また、國史図書刊行会編『支那事変』にもその時の写真が掲載されている。

國史図書刊行会編『支那事変』
濁流に車馬を渡す須磨部隊(第10師団工兵第10連隊)。
中下は洪水によって浸水した農村地帯


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その後、支那軍は揚子江の堤防も破壊した。

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『悪逆、暴虐、その極に達す 敵、揚子江堤防を決壊』
6月26日同盟ニュース

悪逆の限り、黄河決壊の暴挙を敢えてなし、
無辜の民幾十万かを絶望の淵にたたき込んだ蒋介石は、
なんたる無謀か、皇軍を怖るあまり、又しても進撃を阻まんとして、
太湖南方揚子江両岸の馬華堤を破壊し、
付近一帯の住民は濁流渦巻く大水害に見舞われんとし、
怨嗟憤怒は地に満ちている。

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支那事変画報 第33号(毎日新聞 1938年7月11日)
わが軍の慈愛の手に救はれた黄河氾濫の被害民の群れ


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さらに中国軍は9月23日にも武穴鎮の下流で揚子江を決壊させた。

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黄河決壊事件の被害状況についての第一報は、1938年6月21日に
日本軍の占領下にある開封の治安維持会と商務会が発表している。
それによると、罹災者約100万人、うち行方不明者約12万人、
浸水部落約3500、うち水底に没したもの約2000、倒壊浸水家屋約30万戸、
被害面積約200平方キロという(大阪朝日1938年6月21日)。
死者数については、終戦後の1945年12月に
国民政府が河南省で行った「河南省戦時損失調査報告」がある。
それによると、1944年末の段階で、洪水による死者約32万人、
離郷者数約63万人という数値を提示している。

犯人である国民政府が終戦直後、河南省だけで約32万人とした死者数は、
その後『中国革命史辞典』などで89万人とされている。

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『中国革命の起源』ルシアン・ビアンコ著

一般住民に対して、徴発と略奪があまりしばしば行われたので、
農民は日本軍よりも彼等自身の軍隊をさらに一層憎んだ。
穀物を略奪されまいとして抵抗する農民を飢えた中国兵が殺したり、
日本軍の進撃を免れるために逃亡兵が村民を殺し、
その衣類を自分が着こんで変装するということも起こった。

日本軍の進撃を鈍らせて鄭州の町を守るために、
政府は1938年に黄河の堰を開いた。
すると、黄河は1世紀近く前から
打ち捨てられたままになっていた古い河道を再び流れた。

「思い切った」決定であったが、
このために、河南省東部の数十万の農民が命を失った。
彼等は水に溺れ、或は飢えて死んだのである。

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蒋介石が焦土戦術を命令していたことを報じる英国の通信社。

1938年(昭和13年)7月12日 東京朝日

【漢口発特電十一日発(ルーター特約)】

蒋政権当局は支那軍に対し九江退却に先立ち、
日本軍の軍事行動に便宜を与えるごとき財産或いは建造物は、
何物たるを問わずこれを破壊し去るよう命令を発した。

九江に権益を有する外国商社のうち亜細亜石油公司
及び怡和・太古の両汽船会社(いずれも英国人経営) は、
その所有財産が右破壊令の対象となることを恐れ、
蒋介石に対し右破壊令の施行範囲を最小限に留むるか、
または、特殊の物件に限り適用するよう、
今や躍起となって申し入れを行っている。

しかし、支那側は、もしこれら各社の施設が日本軍の手に渡れば、
必ず日本軍の軍事行動を助けることは必定であるから、
支那側は、退却に先立ちその欲するところにより、
これらの施設を破壊する完全なる権利を有するとの
見解をとっていることは明らかである。

商社側は依然申し入れを行っている。
なお近く南昌、信陽、岳州等の諸都市に対しても、
おそらく同様の命令が発せられるものと見られている。

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1938年10月、中国軍による清野作戦から中国人老婆などを救い出す日本軍。

『農民の飢餓救った日本軍』邦訳本出版より

10月21日、日本軍は広東に突入したが、中国軍は街に火を放って退却した。
國史図書刊行会篇の『支那事変』の255頁には、
市街はもうもうと上がる黒煙と炎で包まれ、
これを珠江の対岸から見ている日本兵の姿が写っている。

また、256頁には、逃げ遅れた老婆を背負って
避難地まで運んでいる日本兵の姿も写っている。
バックは物凄い黒煙である。

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産経ニュース 2008.12.29_23:03
「日本軍医の美談」日本語教材から削除 中国側のご都合歴史教育
http://sankei.jp.msn.com/world/china/081229/chn0812292305002-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/world/china/081229/chn0812292305002-n2.htm

【北京=矢板明夫】
日本のNPO法人が編集した日本語教材が中国で今秋出版されたが、
原本に史実として収録されていた「旧日本軍医が多くの中国人を助けた」
との内容に対し、中国側が「問題がある」として
削除していたことが29日までにわかった。

中国では愛国主義教育の一環として、
日本軍の残虐さを誇張して描写した書籍が大量に出版されており、
こうした日本軍のイメージと矛盾しているため
中国側が難色を示したとみられている。

この日本語教材は、北京の大手出版社「外語教学と研究出版社」が
9月に出版した「日語読庫」で、
日本のNPO法人、日本語多読研究会(本部、東京)が
外国人向けに編集した「日本語多読ライブラリー」(アスク出版)
を原本にしている。

日中の両出版社は当初、同じ内容の掲載を前提に話を進めていた。
ところが、中国側が突然、変更を求めてきたという。
この教材にはもともと、「雪女」「走れメロス」など
日本のおとぎ話や短編小説、伝記など5つの文章が収録されていたが、
中国側が問題視したのは「永井隆、原爆の地 長崎に生きて」
という文章だった。
長崎に原爆が投下された後、自分も被爆しながら、
多くのけが人を治療した医者、永井隆氏の生涯をつづった文章で、
1937年に永井氏は軍医として中国に赴き、日本人だけではなく、
病気や負傷をした中国人を多数治療したことも紹介されている。

そのうち、「1939年には1年間で4000人の中国の人々を助けた」
などの部分について、中国の出版社が「記述に問題がある」として
日本側に手直しを求めてきた。

日本側は、執筆の際に参考にした「永井隆全集」など
多くの史料を中国側に送り、説得しようとしたが、
結局「永井隆」の部分はすべて削除して出版された。

アスクの担当者は産経新聞の取材に対し、
「この教材は外国人向けの読み物であり、
日本人の中には永井隆博士のように素晴らしい人物がいることを、
ぜひ中国の皆さんに知ってもらいたかった」と述べた。

中国側と何度も交渉したこの担当者は
「削除は中国側の出版社の現場の意見ではなく、上の方の判断」
との印象を受けたという。
中国の外語教学と研究出版はこの件について「ノーコメント」としている。

同教材は2007年10月に韓国で出版され、
来春は台湾でも出版される予定だが、
いずれも原本のままで、内容については問題視されていない。

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農民の飢餓救った日本軍 邦訳本出版 中国で映画化

産経新聞 2006年4月9日より一部抜粋

1942年、大飢饉で河南省の農民を救ったのは、日本軍だった。
そんな歴史の真実をとらえ、ロングセラーとなっている中国小説が
このほど日本で翻訳出版された。
劉震雲さん著、劉燕子さん翻訳の「温故一九四二」(中国書店)だ。

同小説は日中戦争の最中の1942-43年、
河南省を襲った干魃による被災民3000万人、
餓死者300万人という大飢饉の状況を農民、蒋介石ら指導者、米国人記者、
日本軍の立場から多面的に描き出した。

飢饉の原因は天災だけでなく、
中国軍の容赦ない軍糧のとりたてのせいでもあった。
その中で、日本軍は餓死寸前の農民に軍糧を放出した。

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『抗日戦回想録』 郭沫若自伝

私はうけ合ってもいい、抗戦八年のあいだにこうしてふみにじられた同胞、
いわゆる壮丁から弱丁になり、弱丁から病丁になり、
病丁から死丁になって行った同胞の数は、戦死したもの、
日本軍に殺されたものにくらべて、最低百倍は超えているに違いない。

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『習近平よ反日は朝日を見習え』 高山正之著より

江南にある岳陽楼を訪ねた。
この辺の人々は支那人と思えないほど笑顔がいい。
広場でお通夜をしていた。
此方が日本人と分ると、居合わせた親族が焼香をせがんだ。
彼らの表情は寧ろ親しみを湛えていた。

本物の日本兵がこの街にきたのは、昭和13年10月である。
それまで此処に居座り、略奪や強姦を好き勝手にやった、
蒋介石軍と共産党軍は100キロ先の長沙に逃げて行った。

日本軍がきて、この街の住民は安心したが、
彼らがなだれ込んだ長沙は大変だった。
蒋介石軍が、逃げる時間を稼ぐ為にこの50万都市に火を放ち、
3日間燃え続けて3万人が死んだ。

蒋介石軍はその前にも、九江で日本軍足止めの為に、
井戸にコレラ菌を投げ入れた。
日本軍は2週間かけて、コレラ菌を絶滅させ、
内地から運んだ米40俵を難民に配った。

蒋軍は黄河も決壊させている。
日本軍は進撃を中止し被災者の救助を行ったが、
この洪水で30万人は死んでいる。支那の民の敵は常に為政者であった。

江南で初めて見た支那人の柔らかな笑顔は、そんな記憶からだろうか。

先日の新聞に「支那で日本軍善玉論が飛び出した」とある。
発端は支那のツイッターに
「狼牙山の抗日勇士は共産党の夜盗だった」と載せた男が逮捕された事だ。

男は裁判に訴える。村の古老が法廷で語る。
「彼らは銃を手にしたごろつきで、村人の知らせで日本軍が駆け付けると、
彼らは逃げ回った挙句に谷に落ちた」

歴史は楼閣とは違う。簡単に創り替える事はできない。

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中国の便衣兵、督戦隊(とくせんたい)、清野戦術
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-472.html
中国軍の清野作戦(=三光作戦、焦土作戦、燼滅(じんめつ)掃討作戦)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-322.html
1938年(昭和13年)11月13日、長沙焚城(長沙大火)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-473.html
日本人の武士道精神
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2009/12/22 09:00|年表リンク用資料
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