●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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簡単に作れそうだったのでブログで この正統史観年表を作成しました。 ブログなので各記事の一番右下に 日付が表示されてしまいますので、 適当な日付を指定しながら記事を 作成していきました。つまり各記事 の一番右下の日付はブログを書いた 日付ではなく、適当な日付です。 まぎらわしくて申し訳ありません。 |
1940年、リトアニアの日本領事代理だった杉原千畝氏は、
ナチスの迫害を逃れヨーロッパから 脱出しようとしていたユダヤ難民2139人に対して 外務省の訓令に背いて日本通過ビザを発給しました。 このビザによって命を救われたユダヤ人の総数は、 その家族を含めて6000人にのぼると言われています。 一外交官として、その行為は権限を逸脱するものでしたが、 彼は、人々の命を救うために人道的見地に立つことを選びました。 領事館閉鎖の命令が出た後も、自宅やホテルの部屋、 出発する列車の窓からさえも、手書きのビザを発行し続けました。 9月5日の早朝、カウナス駅でベルリン国際列車を待っている時にも、 ビザを求めて何人かの人が来ていました。 杉原氏は、汽車が走り出すまで、 窓から身を乗り出して許可証を書き続けていました。 汽車が走り出し、もう書くことが出来なくなりました。 「許して下さい。私にはもう書けない。皆さんのご無事を祈っています」 杉原氏は苦しそうに言うと、 ホームに立つユダヤ人たちに深々と頭を下げました。 ホームの誰かが叫びました。 「バンザイ、ニッポン」、「スギハラ、私たちはあなたを忘れません」 (「6000人の命のビザ」杉原幸子著から) ※ユダヤ人のラビであり、 日本に関する著書も多いマービン・トケイヤー師は「Fugu plan」の中で、 「松岡洋右外務大臣は、杉原領事が外務省の命令に背いて ユダヤ人にビザを発行したことを知っていた。 しかし、彼はユダヤ人の入国やビザ延長の許可が 表向き敦賀という地方の税関の権限でなされたことにし、 中央はそれについて連絡を受けていなかったことにするよう指示した。」 と説明しています。 偽物のオランダ領事館発行のスタンプや 杉原領事の許可証でも入国を許可されていましたし、 滞在期間の延長も問題ではなかったようです。 松岡洋右外務大臣は、内務省管理による「入国特許」で1ヶ月の滞在延長、 1ヶ月で足りなければ再申請を繰り返せばいいという方法を ユダヤ民族学者の小辻節三に教え、小辻節三がユダヤ人の世話をしました。 ・杉原領事の通過ビザで通過許可 昭和15年10月9日より10日間有効 ・内務省管理による入国許可 昭和15年10月18日より11月17日まで ほかにも日本人で大勢のユダヤ人を助けた人がいました。 1938年3月から すでに満州国にビザのないユダヤ難民が逃げ込んでいました。 関東軍のハルビン特務機関長 樋口季一郎が、 そのとき満鉄総裁だった松岡洋右の協力のもと 約2万人のユダヤ人を救ったと言われています。 1938年3月8月、満州と国境を接するソ連のオトポール駅で ビザのないユダヤ人たちが徒歩で満州に入ろうとしていました。 ビザがないので満州に入れずに 野原で野宿をしなければならなかったユダヤ人たち。 3月なので昼でもマイナス15度という寒さです。 国境の満州里日本領事館ではこれを見て本省に連絡しましたが、 日独防共協定を結んでいたのでドイツに気を遣い、 返事はありませんでした。 ハルビンのユダヤ人協会カウフマン会長は 樋口少尉にユダヤ人救出を懇願しました。 樋口少尉は満鉄総裁松岡洋右に相談し、ただちに救援列車が用意され、 ユダヤ難民は運賃も食料も無料でハルビンに行くことができました。 (このときの記録では18人でした。 その後も何人かのユダヤ難民がオトポールから 満州里に樋口少尉の尽力で逃げ込みましたが 総勢100名以下と言われています) 樋口少尉が2万人のユダヤ難民を救ったのはあやしい、 と書いている本もあります。 しかし、そのときドイツから日本政府に、 ユダヤ難民を受け入れたことに抗議があり、 (ヒトラーはその直前2月20日に満州国を承認したばかり) 日本はドイツに釈明をしたといいいます。 こういう背景があるので、杉原領事が外務省にユダヤ難民の 通過ビザを発行することには、良い返事をしなかったのかもしれません。 戦後、ソ連によって関東軍のハルビン特務機関長 樋口季一郎も シベリアへ送られようとしましたが 米国は彼をソ連に引き渡しませんでした。 それは米国のユダヤ人団体が樋口季一郎を救うために なんらかの行動をしてくれたのではないかといわれています。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 6千人のユダヤ人を救った日本人外交官 ■1.押し寄せたユダヤ人群衆 ■ 1940年(昭和15年)7月27日朝、 バルト海沿岸の小国リトアニアの日本領事館に 勤務していた杉原千畝(ちうね)領事は、いつもとは違って、 外がやけに騒がしいのに気がついた。 窓の外を見ると、 建物の回りをびっしりと黒い人の群れが埋め尽くしている。 ボーイのバリスラフは、すでに群衆に会って、その理由を尋ねてきていた。 ポーランドからナチスの手を逃れてここまで歩いてやってきたユダヤ人達で、 これから日本経由でアメリカやイスラエルに逃げようとして、 通過ビザを求めている、今は200人ほどだが、 数日中に何千人にも増えるだろう、と言う。 前年9月、ナチス・ドイツとソ連の密約により、 両軍がポーランドに同時に攻め込み、東西に二分割していた。 そのドイツ軍占領地から、ユダヤ人狩りを逃れて、 三々五々、このバルト海に面したリトアニアまで避難してきた人々であった。 すでにオランダもフランスもドイツに破れ、ナチスから逃れる道は、 シベリア-日本経由の道しか残されていなかった。 ビザを待つ人群に父親の手を握る幼な子はいたく顔汚れをり (幸子夫人、以下同じ) ■2.杉原領事の苦悩と決断 ■ これほど多くの人々にビザを出すことは、領事の権限ではできない事だった。 外務省に暗号電報で許可を求めたが、回答は「否」。 日独伊三国同盟を目指す方針の下で、 ドイツに敵対するような行為は認められなかった。 しかし、ビザを出さなければ、外のユダヤ人達の命はない。 杉原領事はあきらめずに二度、三度と電報を打つ。 8月3日には、ソ連がドイツとの密約通り、リトアニアを正式に併合し、 日本領事館にも8月中の退去命令を出した。 日本の外務省からも、「早く撤収せよ」との指示が来る。 ビザ交付の決断に迷い眠れざる夫のベッドの軋むを聞けり ついに意を決して、杉原は夫人に言った。 「幸子、私は外務省に背いて、 領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」 「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけれど、そうしてください。」 私の心も夫とひとつでした。大勢の命が私たちにかかっているのですから。 夫は外務省を辞めさせられることも覚悟していました。 「いざとなれば、ロシア語で食べていくぐらいはできるだろう」 とつぶやくように言った夫の言葉には、 やはりぬぐい切れない不安が感じられました。 「大丈夫だよ。ナチスに問題にされるとしても、家族にまでは手は出さない」 それだけの覚悟がなければ、できないことでした。 ■3.書き続けたビザ ■ 夫が表に出て、鉄柵越しに「ビザを発行する」と告げた時、 人々の表情には電気が走ったようでした。 一瞬の沈黙と、その後のどよめき。 抱き合ってキスし合う姿、天に向かって手を広げ感謝の祈りを捧げる人、 子供を抱き上げて喜びを押さえきれない母親。 窓から見ている私にも、その喜びが伝わってきました。 それから約1ヶ月間、退去期限ぎりぎりまで、 杉原は朝から晩まで一日300枚を目標にビザを書き続けた。 すべてを手書きで一人一人の名前を間違えないように書く。 途中で万年筆も折れ、ペンにインクをつけて書く。 効率を上げるために、番号付けや手数料徴収もやめた。 一日が終わると、ベッドに倒れ込み、 夫人が腕をマッサージしていると数分で眠り込む。 外には大勢のユダヤ人が順番を待って朝から晩まで立っている。 やっと順番が巡ってきて、 ひざまづいて杉原の足もとにキスをする女性もいた。 夜はもう寒いのに、近くの公園で野宿して順番を待つ人もいる。 ソ連から退去命令が何度も来て、 杉原はついに8月28日に領事館を閉鎖して、ホテルに移った。 領事館に張り紙をしておいたので、ここにもユダヤ人がやってきた。 ありあわせの紙でビザを書き続ける。 ■4.バンザイ、ニッポン ■ 9月1日の早朝、退去期限が過ぎて、ベルリン行きの国際列車に乗り込んだ。 ここにもビザを求めて何人かの人が来ていた。 窓から身を乗り出して杉原はビザを書き続けた。ついに汽車が走り出す。 走り出づる列車の窓に縋りくる手に渡さるる命のビザは 「許してください、私にはもう書けない。 みなさんのご無事を祈っています。」 夫は苦しそうに言うと、 ホームに立つユダヤ人たちに深ぶかと頭を下げました。 茫然と立ち尽くす人々の顔が、目に焼き付いています。 「バンザイ、ニッポン」 誰かが叫びました。夫はビザを渡す時、 一人一人に「バンザイ、ニッポン」と叫ばせていました。 外交官だった夫は、祖国日本を愛していました。 夫への感謝が祖国日本への感謝に つながってくれる事を期待していたのでしょう。 「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。 もう一度あなたにお会いしますよ」 列車と並んで泣きながら走ってきた人が、 私たちの姿が見えなくなるまで何度も叫び続けていました。 ■5.日本へ ■ ビザを受け取ったユダヤ人達は、数百人毎の集団となって、 身動きができないほど詰め込まれた列車で、 数週間をかけて、シベリアを横断した。 ウラジオストックの日本総領事は、杉原をよく知っていて、 杉原の発行した正式なビザを持つ人を通さないと 海外に対する信用を失うことになると外務省を説得した。 日本郵船のハルピン丸が、ウラジオストックと敦賀の間を 週一回往復してユダヤ人達を運んだ。 船は小さく、日本海の荒波で激しく揺れ、 ユダヤ人達は雑魚寝の状態で船酔いと寒さに耐えながら日本に向かった。 それでもソ連の領海を出た時は、ユダヤ人の間で歌声が起こった。 シベリア鉄道では歌を歌うことさえ許されなかったのだ。 昭和15年10月6日から、翌16年6月までの10ヶ月間で、 1万5千人のユダヤ人がハルピン丸で日本に渡ったと記録されている。 敦賀から神戸に向かい、神戸のユダヤ人協会、キリスト教団、 赤十字などの援助を受けた。 「日本人はやさしかった」と、あるユダヤ人は後に杉原夫人に語っている。 神戸と横浜からユダヤ人達はイスラエルやアメリカに渡っていった。 ■6.28年間探しつづけた ■ 敗戦後、日本に戻った杉原は、外務省を退職させられた。 占領軍総司令部から各省の職員を減らすようにという命令が出ていたのだが、 「やはり命令に背いてビザを出した事が問題にされているのか」とも思った。 杉原は黙って外務省を去った。 その杉原にイスラエル大使館から電話があったのは、 昭和43年8月の事だった。 杉原に救われた一人、ニシュリという人が 参事官として在日大使館に勤務していた。 ユダヤ人達は28年間も杉原を探していて、ようやく見つけたのであった。 ニシュリは、杉原に会うと、一枚のぼろぼろになった紙を見せた。 杉原からもらったビザである。そして杉原の手をかたく握って、涙を流した。 ■7.私たちはあなたを忘れません ■ 翌昭和44年、杉原は招待されてイスラエルを訪問した。 出迎えたのはバルハフティック宗教大臣。 領事館でユダヤ人代表として杉原に交渉した人物である。 バルハフティック大臣は、杉原をエルサレム郊外 にあるヤド・バシェムという記念館に案内した。 ホロ・コーストの犠牲者を追悼するとともに、 ユダヤ人を救った外国人を讃えるための記念館である。 杉原はそこに記念樹を植え、勲章を受け取った。 その記念館には「記憶せよ、忘るるなかれ」という言葉が刻まれている。 昭和60年1月、杉原はイスラエル政府から 「諸国民の中の正義の人賞」を授けられた。 日本人としては初めての受賞である。 すでに病床にあった杉原の代わりに、 夫人と長男がイスラエル大使館での授賞式に参加した。 杉原は病床のまま、翌昭和61年7月31日に亡くなった。 ――――――――――――――――― 国際派日本人養成講座 Japan On the Globe (21) より転載 http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog021.html 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 日本海軍が護る上海は1万8千人のユダヤ難民の「楽園」だった。 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-540.html 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 1937年、ナチスの暴挙を世界に喧伝するため 満州国のにハルビンで極東ユダヤ人大会開催された。 ハルビン特務機関長だった樋口季一郎らが大会に出席したことに対し、 当時、同盟国であったナチスドイツが日本に抗議した。 東条英機は、その抗議を握りつぶした。 所謂「A級戦犯」の多くは、 ヒトラーのナチスドイツに逆らって多くのユダヤ人救出に尽力した。 『戦前、罪のないユダヤ人を救出した皆さん』 東条英機 満州に逃げてきたユダヤ人に穏健な措置を取るように指示し、 ドイツからの抗議を一蹴。 松岡洋石 凍死寸前のユダヤ人難民のために列車を手配。 神戸に来たユダヤ人のために便宜を計らう。 荒木貞夫 文部大臣の時、ドイツから在日ユダヤ人教師の追放を要求されるも、 民族差別には 同意できないと拒否。 東郷重徳 亡命ユダヤ人医師の婚約者を救出。 恩義を感じたその医師は、東郷の主治医となり、日本で死去。 広田弘毅 命のビザを発給した杉原千畝の尊敬する人物。 亡命ユダヤ人音楽家の身元保証人となる。 板垣征四郎 五相会議において、ユダヤ人も公平に扱うべきと主張し、 その結果、ユダヤ人を公平に扱うのが日本の国策となった。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 日本海軍が護る上海は1万8千人のユダヤ難民の「楽園」だった http://bit.ly/1lm3oEQ http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-540.html 杉原千畝氏は日本政府の指示にしたがって通過ヴィザを発給した http://bit.ly/1m5Uv22 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-703.html 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 |
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