●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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すばらしい日本
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1937.8.13~第二次上海事変で
蒋介石から不法テロ攻撃を受けて日本は戦っているのに、 米英が援蒋するから蒋介石は日本からの和平交渉を拒否し続け、 テロ蒋介石側にテロ支援してるのが米英で、 その援蒋ルート遮断のために条約によって合法的に 日本軍は仏印に進駐しているわけで、 仏印進駐は国際法に則っての駐留なので批判される理由はありません。 権益地との距離が縮まっただけで経済制裁を発動して良いなんて、 どこの無法者の理屈なのでしょうか。 米英がテロ支援しなければ仏印進駐などしなくて良かったのです。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 仏印進駐を日本がおこなった経緯 【フランス領インドシナ進駐】 北部仏印、南部仏印進駐、援蒋ルートの遮断のまとめ 欧米が中国に軍事物資を援助しているため、 中国はいつまで経っても戦争をやめません。 そのため日本は、援蒋ルートを断たなければならなくなりました。 ビルマルートは簡単には近づけませんが、 北部仏印ならその気になれば何とかなります。 但し欧米を敵に回すことになりますけど。 そうした所、ドイツがフランスを占領したので、 これを契機に外交交渉をして 北部仏印に進駐(1940年・昭和15年9月23日)したわけです。 ところが、そうすると案の定、 米国は屑鉄の対日輸出を全面的に止めました。 そんな中、3ヵ月後、タイと仏印との間で国境紛争が起こります。 タイは1867年にフランスから譲渡させられていた国境地帯の一部の 失地回復を要求し、交戦状態となったのです。 日本は、間に立って停戦協定を成立させ、 東京でタイ・仏印国境紛争調停会議を開きました。 交渉は難航しますが、調停は成功し 1941年・昭和16年3月11日タイ・フランス平和条約が成立します。 この事によって日本がこの地域に地歩を固めますと、 米英は苦々しく思い、ますます経済制裁を強めていきました。 オランダ領インドシナには、日本に石油を売らない様圧力をかけました。 英・米・蘭の結託で日本にとって必要な資源が手に入らなくなります。 その為、日本は南方に資源を確保する必要に迫られました。 一方で、英国はビルマルートから 中国に武器の輸送を盛んに行なっています。 ビルマルートを塞ぐ事と、南方の資源確保の必要性から、 日本は南部仏印にも進駐する必要に迫られました。 そこで日本は、仏印政府と交渉して 平和裏に南部仏印に進駐(1941年・昭和16年7月29日)したのです。 米国は、これを南方の侵略準備と見ます。 しかし、そうせざるを得ない様に仕向けてるのは米国でしょう。 日本の、南部仏印進駐の真の目的は支那事変の解決なのです。 参謀本部の田中第一部長は手記に 「仏印、タイを我が軍事的結合圏内にすみやかに編入するため、 取りあえず、仏印南部に所要の兵力を進駐させる必要がある。 その目的は全仏印の実質的把握…更にタイに、にらみを利かせ… 情勢に応じてはビルマに進駐する為の基地とするにある。 これによって対支封鎖の陣形は完成される」 と書いています。 また御前会議の理由書にも 「…最近米国ヲ中心トスル英米蘭支ノ戦略態勢強化… 若シ帝国トシテ速ヤカニ之ニ対抗スル措置ヲ執ルコトナク… 日ヲ閲スルニ於テハ…支那事変ノ 解決ハ更ニ遷延スヘク… 帝国トシテハ此ノ際仏印・タイ全域ニ渉リ帝国ノ 軍事的地歩ヲ先制確保スル要極メテ緊切ナリ…」 とあります。 つまり、真の目的は支那事変の解決なのです。 ただその前に英米蘭の妨害があるわけです。 日本が生きていくために必要な石油や鉱物資源などを止められ、 売ってくれなきゃ、腕ずくででも取るしかありません。 戦争をやめろと言われても、戦争を仕掛けてるのは中国です。 日本に言うのはお門違いでしょう。 言うなら、中国の方に言うべきなのです。 日本はやめたくても、向こうがやめないから、 やめられないだけですから。 こちらが一方的にやめても、向こうは喜んで攻撃してきます。 それを知ってか知らでか、戦争を仕掛けてる中国には言わず、 被害者の日本に「戦争をやめろ」と逆さまの事を言うから、 どうにもならなくなるわけです。 おまけに加害者の中国には、「講和に応ずるな、頑張れ、」 とやっているのですから、何をか言わんでしょう。 この様に米国が加害者と被害者を取り違えているから 話がややこしくなるのです。 中国に騙されているのでしょうが、 物理的に出来ないことを、言われても出来ません。 日本が真珠湾攻撃を行なったのは、窮鼠猫をかむ行動からですが、 この南部仏印進駐も、実は、窮鼠猫をかむ行動だったのです。 これをやれば米国がどういう態度に出るかは、予想はついていました。 しかし、それでも敢えてやらなければならなかったのです。 この時から、日本は窮鼠猫をかむ行動をとらされていたわけです。 戦後の「日本悪者」思想に洗脳された人達は、 「この時、やめておけば」、「あの時、やめておけば」と、 アホな事を言っていますが、そのような事が不可能な事は明白でしょう。 日本は自分の意思で戦争をしているわけではないのですから。 ――――――――――――――――― 仏印 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-136.html 終戦後、ベトナムに残って独立運動に参加した元日本兵600名の貢献 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-137.html 仏印進駐の知られざる物語 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-138.html ――――――――――――――――― ■1940年(昭和15年)9月23日、北部仏印進駐 アメリカとイギリスの重慶政府援助と対日経済圧迫は日本の方策を 「援蒋ルート」遮断と経済体制確立への向かわせた。 両政策とも平和的外交手段によって達成すべく努力されたが、 アメリカ、イギリス、オランダの反日策動のため、困難を極めた。 南京陥落後、奥地の重慶で抗日抗戦を継続する 蒋介石政権(重慶政府)をアメリカ、イギリス、ソ連が支援し続けたが、 それらは仏印やビルマや支那西北方から重慶へ 通じる「援蒋ルート」によって行なわれており、 これらの援蒋(蒋介石政権を支援する)行為が 続けられる限り支那事変は解決しないのは明白だった。 アメリカ、イギリス、ソ連は支那事変解決のための調停を行なうでもなく、 重慶政府を助けて支那の抗日戦意を煽り続けているだけだった。 このため、日本が支那事変を解決するため 援蒋ルート遮断を考えたのは当然だった。 仏印ルート、ビルマ・ルート、西北ルート、南支ルートの 4本の「援蒋ルート」のうち最も重要だったのが仏印ルートで、 援蒋ルートすべての輸送量のほぼ半分がこのルートを通じて送られた。 支那事変勃発以後、日本はフランスに仏印ルートによる 援蒋行為禁止を申し入れていたが、フランスは様々な口実で承諾しなかった。 1940年(昭和15年)6月にフランスがドイツに降伏すると、 仏印当局はようやく仏印ルートによる援蒋物資の輸送を停止し、 2ヵ月に及ぶ外交交渉の末、 ・仏印の領土保全とフランスの主権を尊重 ・軍隊6000人以下 ・4箇所の飛行場周辺に限定 ・支那事変解決までの臨時措置。 などを明文化した松岡・アンリ協定を締結した。 この協定に基づき、9月23日に日本軍は北部仏印進駐を開始した。 これはフランス・ビシー新政府との合法的協定であったにも関わらず、 日本のやることになんでも反対する姿勢を見せていたアメリカは 例によってこの協定を認めなかった。 国務長官のコーデル・ハルは、日仏協定不承認声明を発した上で、 全等級の屑鉄、屑鋼の対日輸出を禁止する方針を発表した。 ◆イギリスやアメリカの他国への進駐 東京裁判以来、この北部仏印進駐を日本の侵略行為と論ずるのが 反日歴史家の定説になっているようだが、 イギリスやアメリカですら他国に同様な軍事進駐を行なっている。 仏印進駐の前、ノルウェーとデンマークがドイツ軍に占領されるや、 これらの属領のアイスランドとグリーンランドが ドイツの手に落ちるのを予防するため、 イギリスは2万の兵力でアイスランドを占領し、 島のノルウェー自治政府はこれを承認した。 日本の仏印進駐の4ヶ月前のことである。 1941年(昭和16年)、アメリカは在住デンマーク公使との間に グリーンランドに空軍基地を設定する協定を結んだ。 ドイツ支配下のデンマーク政府はその協定を取り消したが、 アメリカは無視してグリーンランドに基地を設定した。 5月、アイスランドが独立を宣言すると、その承認の下にアメリカは7月、 イギリス軍に代わってアメリカ軍をアイスランドに進駐させた。 東京裁判で、ブレークニー弁護士は、日本を不戦条約違反の罪に問うなら、 ソ連のポーランド、バルト三国、フィンランド、ルーマニア、 イランに対する侵略、イギリスのアイスランド侵入、 アメリカのアイスランドとグリーンランド進駐、 オーストラリアとオランダによるチモール島占領などの 侵略行為を立証する文書を提出した。 これに対し、裁判長のウェッブ(オーストラリア人)は、 東京裁判は日本の侵略戦争以外の戦争を裁く権限はないなどとほざき、 却下した。 結局、これらの戦勝国の日本と同様の行為は裁判に関係なしとして、 それらに関する弁護側の証拠は却下された。 バルト三国併合との比較 ソ連のバルト三国進駐は北部仏印進駐より3ヵ月も早く行われた。 ソ連は三国政府と何の交渉も行うことなく、突如最後通牒を突きつけ、 ほとんど即日これを受諾させ、バルト三国全土にソ連軍の自由進駐を 認めさせたうえ、親ソ政権まで樹立した。 バルト三国の主権尊重などソ連の眼中にもなかった。 これに比べて日本の仏印進駐は紳士的であった。 二か月に及ぶ辛抱強い外交交渉の末に結んだ協定では、 仏印に対するフランスの主権と仏印の領土保全の尊重を約束した。 ソ連がわずか17万平方キロのバルト三国に 10万もの軍隊を自由進駐させたのに比べて、 日本が75万平方キロという広大な仏印に進駐させたのは 6千以下の軍隊である。 駐屯地域もトンキン州の4ヵ所の飛行場周辺に厳しく制限されていた。 しかも、この駐屯は支那事変解決までの臨時措置であることを 日本は明文を持って約したのに対し、 ソ連はバルト三国をたちまち併合した (独立できたのは50年以上たった1991年である)。 これ以上のあからさまな侵略、他国に対する政治犯罪はない。 ――――――――――――――――― ■1941年7月28日、南部仏印進駐 支那事変の長期化に伴って 日本は英米依存の経済体制から脱却するため 蘭印資源に関心を向けたのは自然なことだった。 とくに昭和15年(1940年)1月の日米通商修好航海条約失効以後は、 自存自衛体制確立のため、 遅滞なく蘭印物資の買い付けをする必要に迫られた。 ◆日米通商修好航海条約破棄 この条約失効以降、自存自衛のため蘭印 (オランダ領東インド、今のインドネシア)からの物資、 特に石油買い付けが必要となり交渉を続けた。 しかし、アメリカとイギリスの妨害と圧力により、 また、オランダはイギリスの最終的勝利を信じており、米国依存の念が強く、 英米蘭三国は結託したため交渉は暗礁に乗り上げた。 そして10ヶ月に及ぶ交渉は無駄だとわかり、 日本は1941年(昭和16年)6月17日に交渉打ち切りを蘭印側に伝えた。 それに伴い、仏印政府に対して以下の要求を行なった。 ・仏印の共同防衛を目的とする軍事協力 ・必要数の日本陸海軍部隊の南部仏印への派遣 ・サイゴン以下8箇所の空軍基地の使用 ・サイゴン、カムラン湾の空軍基地としての使用 などだった。 アメリカとイギリスは日本への回答を延期するよう フランスに圧力をかけ妨害を図ったが、フランスのビシー政府は7月21日、 日本軍の駐屯が一時的であること、 フランスの主権を尊重することを日本が公約すること などを条件として日本の要望を受諾した。 こうして7月23日現地で南部仏印進駐の話し合いが成立し、 7月28日から29日にかけて日本軍部隊は平和裏に南部仏印に上陸を開始した。 アメリカ軍はすでにイギリス軍に代わってアイスランドに進駐しており、 日本の南部仏印進駐の3ヶ月も早い4月にグリーンランドに 空軍基地を設けているので、 日本の南部仏印進駐を非難する資格などアメリカにはまったくなかった。 これに先立ってアメリカ国務省の人間が野村大使を訪ね、 仏印進駐の情報の真相を尋ねた。 野村は、「英米の援蒋援助強化、米ソの協力で日本は包囲されつつある。 アメリカはアイスランドを占領し、ダカールなどに手を伸ばす噂がある」 と堂々と語った。 ◆日本が南部仏印進駐を行なった理由 ・支那事変解決のため、重慶と英米蘭の提携を南方において分断すること ・英米蘭の南方諸地域における戦備の拡大と対日包囲陣の結成 ・対日経済圧迫の加重 ・英米の策動による仏印・タイの敵性化 ・日蘭会商の決裂 などの諸事情であった。 特に、対日包囲陣構成上、仏印は重要地域であり、 いつ英米側から仏印進駐が行なわれるかも知れず、 日本はこれに対して自衛措置を講ずる必要があった。 ◆日本の南部仏印進駐に対して英米が神経を尖らせた理由 南洋が戦略物資の宝庫で、米英が最も必要とするゴムは 世界総生産量の90%を、錫はマレー、蘭印、タイを主産地として 世界の60%を占めていた事情による。 この東亜供給路を日本の進出によって絶たれることが 英米にとって大打撃だった。 当時、フランスはドイツに降伏し、ドゴール政権はイギリスにあったため、 ドゴールが仏印の管理を英米に依頼する可能性が十分にあった。 何でもやりたい放題の英米が仏印を占領する可能性は高かった。 経済圧迫に耐えかねた資源なき日本が、 自存自衛の手段である米とゴムの供給地である仏印が 敵の手に陥る前にこれを確保する行為に出たのは 当時の国際通念上、自衛措置の範囲内だった。 日本が南部仏印進駐に踏み切る前にアメリカ、イギリス、オランダは 相次いで日本資産の凍結を発表していた。 当時も、また現在でもこのような行為は宣戦布告と同じとみなされている。 日本の仏印進駐に対して、イギリス、アメリカ側はすぐに報復した。 アメリカは日本資産凍結を実施、 8月1日には日米戦争の主因である石油禁輸に踏み切る。 南部仏印サイゴンに上陸した日本海軍陸戦隊 ![]() |
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