●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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1940年9月13日~1941年6月17日、第二次日蘭会商。
日蘭会商と米英の圧力 ◆自存自衛体制の確立へ 支那事変の長期化に伴って、日本が英米依存の経済体制から脱却するため、 蘭印(オランダ領東印度。現在のインドネシア)資源に 関心を向け始めたのは自然なことだった。 特に1940年(昭和15年)1月の日米通商航海条約失効以後は、 自存自衛体制確立のため、 遅滞なく蘭印物資の買い付けをする必要に迫られた。 この南進政策は軍部のみの主張ではなく、外務当局も見解を同じくしていた。 たとえば、この年3月3日、外務省が作成した覚書は、 「日本が早急に取るべき方策は、現在の如き極端な米国依存を排し、 米国の態度によって脅かされないような経済機構の確立である。 このような機構を確立すること自体が、米国の再考を促すのに 大いに役立つことは疑う余地がない。」 と、やはり自存自衛体制の確立を勧告しており、 (デビッド・J・ルー『太平洋戦争への道程』)、 南方政策推進による自存自衛体制の確立は、 米国の対日経済圧迫が、我が国に課した不可避の選択であったと言える。 ◆米、対日経済圧迫を強化 その米国は欧州情勢の急転回と共に、一段と輸出制限を強化してきた。 すなわち、7月2日、ルーズベルトは国防強化促進法に署名し、 軍需資材輸出許可制を布き、その結果、兵器、弾薬、軍用器具、 主要原料26種、化学製品11種、工作機械等が輸出許可制となった。 ただし、屑鉄と石油は適用品目から除かれた。 しかし工作機械のほとんどを独米に依存し、欧州戦争によって ドイツからの輸入を閉ざされていた我が国が、 米国のこの措置で大きな打撃を受けた事はいうまでもない。 (板垣与一論文「太平洋戦争と石油問題」)。 その後、米国の対日経済圧迫は更に強まり、 7月25日ルーズベルトは大統領令を以って石油と屑鉄を 輸出許可制適用品目に追加した。 この措置に対する我が国の反響は、すこぶる大きく、 新聞は、これは対日経済挑戦であると論じ、 我が堀内駐米大使は8月2日、正式抗議を申し入れた。 この屑鉄の輸出許可制は、我が北部仏印進駐の結果、 10月16日以後は対日輸出禁止となったが、 9月27日、三国同盟が成立するや、米国は屑鉄の禁輸を鉄および屑銅にまで 拡張し、かくて10月16日以後は鉄および屑銅の対日輸出も 完全に禁止されたのである。 これら一連の経済圧迫は、 いよいよ日本に米国依存の経済体制からの離脱を決意せしめ、 当時すでに計画中の日蘭経済交渉のための施設派遣の 具体化を急がせることとなった。 ◆対日石油禁輸を米英が謀議 1940年(昭和15年)の夏ごろ、 米英とも日本を屈服させる決定的手段が石油禁輸であることを認識し、 石油を中心とした対日経済圧迫をいかに効果あらしめるかに苦慮していた。 その鳩首凝議の様子が記録されている。 すなわち7月18日、 スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、モーゲンソー財務長官は、 駐米英国大使および駐米オーストラリア公使と会食したが、 スチムソン陸軍長官は、 英国が対日融和政策を更に進めるのではないかと案じていた。 この席でスチムソンが対日石油供給停止に関する新立法 (7月25日の石油輸出許可制措置)について打ち明けたところ、 ロシアン英大使は英国は蘭印の油井を破壊することができること、 そしてもしこの両方の措置が取られたなら、 日本は油の欠乏のため事実上動きが取れなくなるであろうという意見を述べ、 モーゲンソーは、この考えに感心した、 とスチムソンはその日記に書いている。 ロシアン英大使の提案に感銘したモーゲンソー財務長官は翌日、 大統領に手紙を出して、その中で次のような計画を具申した。 【1】米国は国防の理由で石油を全面禁輸する。 【2】英国はカリビア地域から一切の石油を獲得する。 【3】英米両国はカリビア地域の余剰生産の石油を全て買い上げる。 【4】英国は蘭印の油井を破壊すべくオランダ政府と打ち合わせる。 そして最後に、 【5】ドイツの合成石油工場に爆撃を集中する。 こうすれば、一体どこから、 またどのようにして日本とドイツは戦争用の石油を得るであろうか。 (Herbert Feis: The Road to Pearl Harbor) 英米指導者が対日独石油供給停止について、 いかに腐心していたかを示す記録である。 ◆英米蘭の策謀で会商不調に終わる 斯かる状況下の7月27日、大本営政府連絡会議は我が対南方政策の基本方針 「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定した。 それによれば、支那事変が未解決の段階においては "第三国と開戦に至らざる限度において"対南方政策を行い、 蘭印に対しては当面"外交的措置により"その重要資源確保に努める、 という趣旨であった。 かくして政府は8月27日、商工大臣 小林一三を蘭印特派使節として任命、 小林使節は同30日、蘭印へ出発したのであった。 この間、英米は我が国の蘭印石油買い付けを阻止し、 日蘭会商の円滑な進展を妨害するため、活発な策動を開始した。 7月25日、ハミルトン米国務省極東部長は 米系のスタンダード石油会社に対して、 日本は米国からの石油輸入を蘭印に肩代わりさせようとしているとして、 日本に大量の石油を取得させないよう要望し、 8月初旬には日蘭石油会談を妨害するため、 マニラで米・英・蘭 三国会議が開かれた。 ちなみに当時、蘭印全産油量の74%を英国系資本が、 残りの26%を米国系資本が支配していた。 英米蘭の対日策謀のポイントは、 【1】米英両国は蘭印に対日石油交渉を遷延させ、 かつ、契約の量と期限を制限させること。 【2】蘭印は日本軍進入の際は、 全ての石油ストックと精油所・油井を完全に破壊すること。 であり、 これについて英米蘭の間には緊密な協調体制が出来上がっていたのである。 オランダ側は欧州大戦における英国の最終的勝利を信じており、 また米国依存の念が強く、米国の力で日本を牽制しようとして、 米・英・豪の共同防衛にも秘密裏に参加していた。 それゆえ、米英が健在である限り、 蘭印には日本との会商を成功させる意思はなかったのである。 されば、9月の三国同盟以後は、蘭印は殊更に我が国を猜疑し、 加えて米英の妨害や圧力もあり、日蘭石油交渉は暗礁に乗り上げ、 11月末日、小林使節は日本へ召還されたのであった。 その後、芳沢謙吉(元外交官)が特派使節に任命され、 翌1941年(昭和16年)1月より日蘭会商に入ったが、 米英蘭三者の結託による遅延策謀のため交渉は進歩せず、 ついに芳沢代表も蘭印問題打開のためには 実力解決以外にないとの意見を洩らすに至った。 (長岡新次郎論文「南方施策の外交的展開/1937年~1941年」、 『太平洋戦争への道』第六巻所収) 蘭印側は、日本側の石油・ゴム・錫等の戦略物資の輸入要求は 対独再輸出のためであると猜疑した。 これに対して我が方は、 日本の国土狭小と支那事変の二点を要求の理由として挙げ、 将来の衝突を避けるため協調的態度を求めたが、 オランダ側は、いざとなれば対日一戦も辞さずと大見得を切り、 かたくなな態度を変えようとはしなかった。(板垣論文) オランダ側は我が方が要求する物資、 特にゴムと錫がドイツに再輸出されることを恐れたので、 我が方は交渉条件を緩和して譲歩妥協したのであったが、 蘭側はゴム・錫がタイ・仏印より対日輸出される場合は、 その数量(オランダが認定する)によって 蘭印産品の対日輸出量を減少させることを主張した。 これこそ自由貿易への干渉妨害であり、 我が国国家主権の侵犯ともいうべき無礼極まる要求であった。 のみならず、蘭印からの対日輸出量は、オランダが必要と認める時は、 いつでも一方的に削減できることを条件として要求してきたが、 これこそ日蘭会商を決裂に至らしめた決定点であった。(板垣論文) 6月中旬、芳沢代表は蘭印側に対し、我が方の妥協的精神を説明して、 蘭印側も譲歩するよう再考を促したが、 蘭印側は再考の余地なしと回答してきたため、 芳沢代表は会商打ち切りを通告し、 前後10ヵ月余りの長きにわたった日蘭会商に終止符が打たれた。 ――――――― 『大東亜戦争への道』中村 粲(あきら)著(展転社) P545~549 より引用 http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93-%E4%B8%AD%E6%9D%91-%E7%B2%B2/dp/4886560628 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 必要な量を輸入させてもらえないことと、 安定した物資供給の確約が得られなかったので交渉中でしたが、 日本軍が南部仏印進駐すると、蘭印は日本との経済協定を破棄しました。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 『太平洋戦争』 岩間敏 著 P61 より ![]() |
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