正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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仏印 

仏印

『仏印』とは、
1887年から1954年までフランスの支配下にあったインドシナ半島東部地域で、
現在のベトナム・ラオス・カンボジアを合わせた領域に相当する。
仏印=仏領インドシナ(ふつりょうインドシナ)『仏印』とは、1887年から1954年までフランスの支配下にあったインドシナ半島東部地域で、現在のベトナム・ラオス・カンボジアを合わせた領域に相当する。
『太平洋戦争』 岩間敏 著 P61 より
『太平洋戦争』 岩間敏 著 P61

仏印=仏領インドシナ(ふつりょうインドシナ)=フランス領インドシナ

1887年から1954年までフランスの支配下にあったインドシナ半島東部地域で、
現在のベトナム・ラオス・カンボジアを合わせた領域に相当する。

フランスは1887年にコーチシナ(ベトナム南部)を併合し、
安南国(ベトナム中部)、カンボジア王国を保護国、
トンキン(ベトナム北部)を保護領
(安南国主権下だがフランスが行政権を委任される)とし、
これらをもってフランス領インドシナであるとした。

その後、1893年にはラオス王国を保護国とし、
1900年からは中国南部の広州湾租借地を加えた。

1907年にはタイ(シャム)からカンボジア北西部の
バッタンバン・シエムリアップ・シソポンの三州を得た。

こうして、フランス領インドシナは、
コーチシナ直轄植民地・直轄都市(ハノイ・ハイフォン・ダナン)、
タイから獲得した三州による直轄植民地と、
アンナン・カンボジア・ラオスの三保護国、保護領のトンキン、
租借地の広州湾によって構成されることになった。

なお、南海諸島をもその範囲に含むとフランスは主張していた。

■日本の北部仏印進駐

支那事変中、米英が中国に軍事物資を援助し続けていたため、
中国はいつまで経っても戦争をやめないので、
日本は援蒋ルートを断つ必要に迫られていました。

1940年6月、ドイツがフランスの北部と西部を占領、
イタリアが南部を占領したのを契機に
日本はインドシナ政庁(フランス本国は親独のヴィシー政権 7月1日~)と
外交交渉をして協定を結び
1940年(昭和15年)9月23日、日本は北部仏印に進駐しました。

しかし、9月23日、午前0時、この協定により仏印国境を越えた
日本の南支那方面軍・第五師団に対して、ランソンに駐屯していた仏印軍が
激しく抵抗し、日本軍とフランス軍との間で戦闘が発生しました。
日本軍は迅速に戦闘を展開し、
25日には国境の町ドンダンとランソンを制圧しました。

その後、9月26日午前0時、印度支那派遣軍は平和裏に
港町ハイフォン郊外に上陸して「北部仏印進駐」は完遂されました。

■日本の南部仏印進駐

イギリスがビルマルートから中国に武器の輸送を盛んに行なっていたので
ビルマルートを塞ぐ事と、
米英が日本への資源供給を減らす傾向があったので
南方の資源確保の必要性から、
日本は南部仏印にも進駐する必要に迫られていました。

日本は仏印政府に対して以下の要求を行いました。
・仏印の共同防衛を目的とする軍事協力。
・必要数の日本陸海軍部隊の南部仏印への派遣。
・サイゴン以下8箇所の空軍基地の使用。
・サイゴン、カムラン湾の空軍基地としての使用。

アメリカとイギリスは日本への回答を延期するよう
フランスに圧力をかけて妨害を図りましたが、
フランスの親独のビシー政府は1941年7月21日、
・日本軍の駐屯が一時的であること。
・フランスの主権を尊重すること。
を日本が公約することなどを条件として日本の要望を受諾しました。
こうして1941年7月23日、現地で南部仏印進駐の話し合いが成立し、
7月28日から29日にかけて日本軍は平和裏に南部仏印に上陸を開始しました。

■ベトミン(ベトナムの独立運動組織)

インドシナは19世紀末から20世紀初頭にかけて
フランスの侵略を受けて植民地化されていたのですが、
それに抵抗して独立をめざすために、
1941年5月19日、ホー・チ・ミンが「ベトミン」を結成しました。

ベトミンは、仏印に進駐した日本軍をも敵と見なし、
ときどき日本軍に対してゲリラ攻撃をしてきました。

しかし「日本は仏印政府の同意を得て進駐していた」
という事実を忘れてはなりません。

■仏印総督府解体とインドシナ独立

1944年8月25日、連合軍がパリを攻略して親独のヴィシー政権は崩壊し、
10月23日、フランス共和国臨時政府がイギリス、アメリカ、ソ連の
承認を受けて誕生し、シャルル・ド・ゴールが首相に選出されました。
ド・ゴール首相はヴィシー政権時代に日本と結んでいた協定を
無効とする宣言を行いました。その結果、
在インドシナのフランス軍がドゴール寄りの行動を取り始めました。
このため、日本軍第38軍はインドシナ総督府を倒す『明号作戦』を計画し、
1945年3月9日、フランス軍に勝利して、
フランス領インドシナのフランス支配を終わらせました。

フエの宮廷にいたバオ・ダイ(保大)帝がベトナム帝国の独立を宣言。

また、3月12日にはカンボジアのシアヌーク国王も
カンボジア王国の独立を宣言し、

4月8日にはルアンパバーン王国のシーサワーンウォン王も
ラオス王国の独立を宣言しました。

■終戦後

1945年8月14日、日本がポツダム宣言受諾で終戦。

その後、

中国国民党軍が北ベトナムに進駐し、
英印軍第20歩兵師団は南ベトナムに進駐しました。

ベトナム8月革命でハノイを占拠したベトミンのホー・チ・ミンは、
バオ・ダイ帝の退位を説得し、
9月2日、日本のポツダム宣言調印と同時に大統領として
ベトナム民主共和国の独立を宣言。

ラオスは8月に臨時政府を樹立し、10月に独立を宣言しました。

■独立戦争

しかし、フランスは、これらインドシナ諸国の独立を認めず、
1946年に植民地再建のためフランス軍がインドシナに戻って来ました。
フランス軍とベトミンとの間で第一次インドシナ戦争を開始。

当初、ハノイなど都市部を占拠していたベトミン軍は
農村部に後退してゲリラ戦を余儀なくされました。

終戦後、日本兵600名がベトナムに残り、独立運動組織に参加して貢献した!

しかし、1949年に中華人民共和国が成立し、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、
ソビエト連邦と中華人民共和国はベトミン軍に対する軍事援助を活発化させ、
強化されたベトミン軍は1954年のディエンビエンフーの戦いで
フランス軍を敗北させました。

このためフランスはジュネーヴ協定によってインドシナ3国の独立を承認し、
フランスのインドシナ連邦は正式に解体となりました。

なお、広州湾租借地(現・広東省湛江)は1945年8月、
仏印からの中国軍撤収の見返りとして中国へ正式に返還されました。

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Wikipedia 『フランス領インドシナ』から部分的に参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E9%A0%98%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%B7%E3%83%8A

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『第二次世界大戦とフランス領インドシナ 「日仏協力」の研究』 彩流社

日本陸海軍は日本とフランスが合意した協定の
許す範囲内で仏印に進駐していたのである。
それはあくまでも駐屯であって、
主権の委譲や消滅などを伴う占領ではなかった。

日本軍が特定の飛行場や港湾を含む仏印領内の基地を使用して
戦争を遂行することができたのは、軍事力を背景とした交渉を通じて、
フランスから許可を得ていたからにほかならない.

フランスが日本に対してはかった便宜は基地施設の提供だけではなかった。
日本軍が駐屯に必要とする費用の負担、
仏印に足止めされていたフランスの民間船舶を
徴用(有償)したいという日本からの要求への同意、
中国軍や連合国軍の潜水艦、飛行機など敵の行動、
及び伝染病の発生などの衛生面や気象に関する情報の提供、
サイゴン放送局の使用許可、機雷に触れたり攻撃を受けたりして
航行できなくなった日本の艦船の曳航と
修繕のための仏印海軍施設の使用許可など、
仏印におけるフランスの対日協力は多方面にわたった。
また、経済面でも対日貿易割当量を拡大したり、
関税率を引き下げたりするなどの便宜をはかった。

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日米開戦の時に軍務課長、開戦後軍務局長の要職にあった佐藤賢了少将の回想
(のち中将。戦後、A級戦犯となり無期懲役)

問題は、南部仏印進駐が日米戦争を招くかどうか、である。
私は日米戦争にはならないと判断しておった。その理由は次の通りである。

日本軍隊は既に北部仏印に進駐しており、それがただ南部に進むだけである。
そして進駐はフランスのビシー政府との協定に基づいてやることであり、
決して戦争でもなければ侵略でもない。

また、そこは米国の領土でも植民地でもない。
日本はフィリピンの安全は保障する。

蘭印に脅威を与えるかもしれないが、そこは米国の領土ではない。
蘭印が平和的手段による日本の経済的交渉に応じさえすれば、
日本はこれを攻撃する意思はない。

蘭印との平和交渉を妨げているのはオランダと米国である。
南部仏印に僅かの日本軍隊が進駐したからといって、
フィリピンや蘭印と米国との交通に脅威を感ずるよりも、
ハワイに米国太平洋艦隊が駐留していることが、
遥かに日本に脅威を与えている。
だから南部仏印進駐によって米国が対日戦争をしかける理由はない。

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GHQ焚書図書開封2より
『インドシナSOS』 アンドレ・ビオリス 著 より一部抜粋

フランスの女性作家、アンドレ・ビオリスさんが、
仏印(フランス領インドシナ)時代に
ベトナムで起こっている非人道的な行為をフランス本国で告発した本。

◆上流階級に属していたベトナム人が帰国

彼は民主主義思想を持って帰り、フランスとの協力をしようと考えていた。

船から上がると総ての「フランス帰り」と同じように
たちまち彼も迫害の的になってしまった。

彼の言うには、新聞を創刊し、
それによって彼が私たちフランス人から教えられた原理に従い、
人間としての権威に欠くべからざる
最小限度の自由を穏やかな調子で主張し始めたのだった。

しかるに総督府はあらゆる手段を使って、この新聞を潰そうとした。
すべての印刷所に命じて印刷を禁止した。

郵便局はこれを配達しないか、さもなければ彼に返送した。
彼は口頭または文書で抗議した。ふんじばられた。(逮捕された)

◆囚人の収容施設にて

茅ぶきのバラックが長い列を作っていて、その中の一棟に入ったとき、
私たちを迎えたものは呻き声と鉄の響きと、
私の小鼻から離れない腐敗の臭気だった。

窓が無いので、暗さに慣れようとする私の眼に徐々に映って来るのは、
足を鉄の鎖でつながれて二列にされ、木の枠に窮屈そうに詰め込まれて、
坐ったり寝たりしている囚人だった。

バラック一棟に二百人の囚人が収容されていて、彼等は一斉に、
その熱病患者のような絶望的な眼を私たちに向けて哀願の手をさしのべた。

私には黒い皮膚がその骨の上にこびりついた顔と、
衰えて皹の入った唇と、一面に膿を持った傷だらけの手足が解った。
(中略)
その生理的な衰弱は赤痢に対する抵抗力がないために、
死ぬものが少なくない状態なのだ。

死体の運搬は毎朝行われ、
バラックの一棟に一日に平均2,3人の死亡があるということだった。

囚人は大部分ここへ入れられてから数ヶ月経っている。
彼等は何をしたというのだろう?

博士と州知事とが協議して名簿を調べている間に、
私はこのような質問で数名の囚人に尋ねてみた。

そしてそれを私に従ってきてくれたベトナム人が通訳してくれた。
不幸な囚人たちは私の問いに低いもの憂い声で答えた。
彼等は税金が納められなかったのだ。

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1937.8.13~第二次上海事変で
蒋介石から不法テロ攻撃を受けて日本は戦っているのに、
米英が援蒋するから蒋介石は日本からの和平交渉を拒否し続け、
テロ蒋介石側にテロ支援してるのが米英で、
その援蒋ルート遮断のために条約によって合法的に
日本軍は仏印に進駐しているわけで、
仏印進駐は国際法に則っての駐留なので批判される理由はありません。
権益地との距離が縮まっただけで経済制裁を発動して良いなんて、
どこの無法者の理屈なのでしょうか。
米英がテロ支援しなければ仏印進駐などしなくて良かったのです。

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南部仏印進駐の効果について

『ビルマ戦線と崩壊と重慶・米英・印度・濠洲 (上巻)』
大本営陸軍報道部長 陸軍大佐 谷萩那華雄著 より
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「ビルマ路喪失」
次に経済関係について述べれば、結局ビルマ公路喪失が
重慶に致命的打撃を与えたという問題になる。
昭和15年に米英その他援蒋諸国から重慶に入った物資の割合を見れば、
仏印ルートが46%、ビルマ公路から36%、
南支沿岸地方から17%、西北ルートから1%であった。
ところが、昨年の南部仏印進駐が決行されるや
仏印ルートの遮断でこの割合が変り、ビルマ公路77%、
南支沿岸、香港その他密輸ルートによるもの13%
西北ルートから10%になったのである。

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仏印進駐を日本がおこなった経緯
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-132.html
終戦後、ベトナムに残って独立運動に参加した元日本兵600名の貢献
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-137.html
仏印進駐の知られざる物語
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-138.html
2009/12/14 09:00|年表リンク用資料
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