●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
||
すばらしい日本
正統史観年表 内 検索 慰安婦と強制連行 南京大虐殺ネット最強の論客 いわゆる南京大虐殺 竹島・尖閣諸島・北方領土 おすすめリンク 1
当ブログのリンク先について
当ブログが紹介しているリンク先の
他サイトの内容を100%支持している わけではありません。完全に意見が 一致する人など存在していません。 ならば、なぜリンク紹介しているの かというと、大東亜戦争後、日本国 内が、あまりにも、いわゆる左巻き の論調に偏ってしまっているので、 全体的に見ると少数ながら存在して いる保守側の意見を、いろいろな 角度から知ってほしいからです。 ブログ記事の右下の日付について
ホームページよりもブログのほうが
簡単に作れそうだったのでブログで この正統史観年表を作成しました。 ブログなので各記事の一番右下に 日付が表示されてしまいますので、 適当な日付を指定しながら記事を 作成していきました。つまり各記事 の一番右下の日付はブログを書いた 日付ではなく、適当な日付です。 まぎらわしくて申し訳ありません。 |
元日本兵の貢献、ベトナムで認知の動き 「封印の歴史」報道
産経新聞 2005年9月20日16:43 ベトナムで敗戦を迎えた元日本兵が、 ホー・チ・ミン率いるベトナム独立同盟(ベトミン)に参加、 独立を目指した抗仏戦争(第1次インドシナ戦争、1946~54年)を 共に戦ったことを公に認知する動きがベトナム国内で出ている。 元日本兵の存在はベトナムでは「封印された歴史」だったが、 ハノイ大で昨年、研究会が2度開かれたほか、 複数のベトナム紙も元日本兵の貢献を大きく報じた。 8月7日付のベトナム紙ティエンフォンは 「ホーおじさん(ホー・チ・ミン)の兵士になった日本兵」の見出しで 日本兵が教官を務めたベトナム初の陸軍士官学校元幹部の手記を大きく掲載。 「近代的な軍に変わろうとしていたベトミン軍には 日本兵の支援が必要だった」などと指摘し、 ベトミンに大量の武器を供与した井川省(いがわ・せい)少佐や 陸軍士官学校教官の中原光信(なかはら・みつのぶ)少尉ら 功績のあった元日本兵数人を実名で報じた。 抗仏戦争で多くの元日本兵が死亡し、 「革命烈士」の称号を贈られた人がいることも紹介した。 40年にベトナムに進駐した旧日本軍をめぐっては、 これまでは「侵略軍」として断罪されることが多かった。 近年、両国の経済関係が緊密化する中で、 大阪経済法科大の井川一久(いがわ・かずひさ)客員教授らが、 残留日本兵の功績を認めるようベトナム政府に 強く働き掛けてきたことなどが元日本兵認知の背景にある。 井川教授によると、ベトミンに参加した元日本兵は約600人。 (1)敗戦で日本の将来を悲観した。 (2)現地に恋人がいた。 (3)抗仏戦を決意したベトナム人への共感。 などが理由という。 元日本兵は「新ベトナム人」と呼ばれ、 ベトミン軍に軍事訓練などを指導して共に戦い、 約半数が戦病死したとみられている。 54年のジュネーブ協定締結により抗仏戦争が終結した後、 150人以上が日本に帰国した。 井川教授は 「抗仏戦を有利に展開する決定的な役割を日本兵が果たしたことを 歴史として残さなければならない」と述べ、 ベトナムに資料館をつくる活動を進めている。 似たような戦後を生きた日本兵としては、 対オランダ独立戦争に参加したインドネシア残留日本兵の 存在が知られている。 ■ベトナムと旧日本軍 1940年、フランス領のベトナムに進駐した日本軍は45年3月、 フランスの植民地権力を解体しベトナムを形式的に独立させた。 同年8月の日本の敗戦を機にベトナム独立同盟(ベトミン)の蜂起で 8月革命が起き、9月にベトナム民主共和国が独立を宣言し、 ホー・チ・ミンが初代大統領に就任。 しかし、ベトナムの再植民地化を狙うフランスと衝突し、 46年に抗仏戦争(第1次インドシナ戦争)が始まった。 ベトナムにとどまった旧日本軍兵士がベトミン側に参加。 ディエンビエンフーの戦いで敗れたフランスは 54年7月にジュネーブ協定を締結、 戦争は終結したが、ベトナムは南北に分断された。 ベトナムには、1954年以降に帰還した元日本兵と 現地女性の間に生まれた子供が暮らす。 正確な人数は不明だが、数百人いるともいわれる。 その大多数が父と再会することなく、 身分を隠したり差別を受けながら苦難の人生を歩んだ。 元日本兵の父を持つ北部タイビン省出身で、 現在南部カントー市に住むレ・ヒエップ・チンさん(55)が 自らの境遇を語った。 母は女手一つで4人の子供を育て、大変な苦労をした。 母は、貧困の中で父への恨みを言ったものだ。 ベトナム戦争が終われば父が帰ってくるのではないかと待ち続けたが、 音信はなかった。 わたしはベトナムにも日本にも受け入れられない存在だった。 つらかったのは「日本ファシストの子」とののしられ、 あらゆる差別を受けたことだった。 共産主義を信じたが、党員になることは認められなかった。 ベトナム戦争にも志願したが、入隊は認められなかった。 ベトナムがカンボジアに侵攻した後の1979年に入隊が認められ、 ベトナム人としてようやく認知されたと感じた。 90年に突然、父から手紙が来た。 「苦労をかけた」と謝罪の言葉が続き、 最後に「それぞれの人生を歩もう」と書かれていた。 母は怒っていた。これが父からの最初で最後の手紙だった。 98年に日本にいる息子という人から手紙が届き、 その2年前に父が他界したと知った。 「遺品を整理していてベトナムの家族の存在を知った」 「どうか父を許してやってください」とつづられていた。 姉が日本に行き、父の遺骨を分けてもらった。 母は昨年11月に亡くなった。 父を待ち続け、再婚することなく終えた83歳の生涯だった。 2人の遺影は同じ祭壇に置いている。 父は無責任だと思う。でも一目でいいから会いたかった。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 仏印 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-136.html 仏印進駐を日本がおこなった経緯 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-132.html 仏印進駐の知られざる物語 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-138.html 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 英国軍と戦った99歳の日本兵の手を握るインドのモディ首相 2014年9月2日 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-674.html インドネシア独立戦争 http://www.youtube.com/watch?v=HPWS4h3WmI4 インドネシア国立英雄墓地に祀られた日本人たち http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-156.html オランダの有色人種蔑視 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-235.html |
誇りある日本 論点 チャンネル桜 英語で世界に発信! 距離を置くべきアメリカ ときどきニコ生放送! アフィリエイトやってない!
当ブログはアフィリエイトをして
いませんし、どのランキングにも 参加しておりません。このブログ で何の収入も得ておりません。 管理人へのメールフォーム
|
Copyright(C) 2006 正統史観年表 All Rights Reserved.
Powered by FC2ブログ. template designed by 遥かなるわらしべ長者への挑戦. |