正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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ベトナム秘史に生きる「日本人」

『仏印進駐の知られざる物語』

◆植民地支配下の人々と連携した日本人

ドイモイ(刷新)政策による経済成長を謳歌するベトナム。

2006年、同国のグエン・タン・ズン首相と
日本の安倍晋三首相の相互訪問を機に、
両国は「戦略的パートナーシップ」を構築することを発表した。

経済交流が加速し、両国の関係強化は着々と進んでいる。

近い過去を振り返れば第二次世界大戦に先立ち、通称「仏印進駐」を行い、
日本はこのベトナムにも軍を進めていた。

そして戦後、隣国中国と同じく共産党一党独裁の体制となった。
だが現在ベトナムにおいては、
中国や韓国のようなヒステリックな反日運動が起こったり、
「歴史認識」が取りざたされたりすることはきわめて稀だ。

日本軍の仏印(ベトナム)進駐とその結果は、
これまでに日本国内で
「日本軍によるベトナムにおける200万人餓死」なる事件により、
批判にさらされることがあった。

これは、駐屯する日本軍が米を徴発したことを主な原因として、
200万人ものベトナム民衆が餓死したとされるもので、
主に左派の日本人ベトナム研究者によって指摘されてきた。

だがこの200万という数字はベトナムの初代国家主席ホー・チ・ミンが
独立宣言に盛り込んだものに過ぎず、その他の明確な根拠を欠いている。

当時、ベトナムはフランスに支配された植民地だった。
場所を間借りする日本軍が軍政を敷くことは不可能な状態にあった。
行政権、警察権を始めとして主権はフランスが握っていた。

しかも米の集散は事実上、華僑の手中にあった。
200万人分の米を奪うような徴発などできようはずもない。

「親日」か「反日」か??ある国をそんな類別でのみ捉えれば、
粗雑の誹りは免れない。
それでもベトナムに在留する邦人の間で
「嫌日」や「反日」を気にする声はほとんど聞かれない。

この事実の背景を、当時を知る人の証言を鍵として、
ベトナム史に刻まれた「日本」の位置から今一度再考してみよう。
そのためにまず、日本が「南進」を明確に打ち出し、
現在のベトナムを含む仏領インドシナ(以下仏印)に
軍を進めた1940年に焦点を絞る。
そこから戦中・戦後と続く
日本のベトナムに対する貢献が見えてくるはずだ。

日本が軍を進駐させた頃、
「ベトナム」は東京(トンキン・北部)、安南(アンナン・中部)、
交址支那(コーチシナ・南部)の三地区からなり、
カンボジア、ラオスを含む
広大なフランス領インドシナの一部に過ぎなかった。

フランス本国の管轄下、フランス人のインドシナ総督が全権を掌握していた。
傀儡皇帝を玉座に据えたグエン王朝がわずかに中部に存在するのみ、
それも「保護国」の扱いに甘んじていた。

フランスの侵略と支配は80年に及び、
安南人(=仏領期、「ベトナム人」の呼称は使われていなかった)
の抵抗運動も、仏印軍の前に無力に近かった。

仏印政府は彼ら反仏分子を各地の監獄や洋上の孤島に送り、
その係累も厳しく処断した。
2人以上が無許可で集まれば反仏謀議の容疑で逮捕される時代でもあった。

「安南人はフランス人なんかと話せないんですよ。
近くに行くとぶるぶる震えちゃってダメなんです」

「カチナ通り(=現ドンコイ通り。ベトナム南部ホーチミン市の目抜き通り)
なんかで、安南人が裸足でぺたぺた歩いているでしょう、
そうするとフランスの警察が来てそれをとっ捕まえるんですよ」

「サイゴン(=現ホーチミン市)市内のプールに日本人が行きますよね、
するとフランス人から日本人が来たぞと怪訝な目で見られるんですね」

大戦中仏印にいた日本人は口々に語る。
無法な法が横行し、
人を人と見ない人種的偏見が蔓延する植民地の実状が感じられる証言である。

そんな時代に安南人の独立勢力と密かに連携する日本人がいた。
その活動は曲折を経て日本軍による仏印政府打倒のクーデターに結実する。

この一大事件は、植民地の桎梏に苦しむ安南人の意識を大きく揺さぶった。
「同じ肌の色をした人間がフランスを倒した、自分らもできるのではないか」
と??
これらの事実は年表に太字で残る事柄とは別に、
語られる機会があってよいものだ。
異土の人々に共感し、彼らとともに行動した日本人が、仏印にもいたのである。

◆仏印進駐、フランス支配を揺るがした事件

「あの頃ベトナムという言葉は口に出すのもはばかられました。
なぜ? 独立運動と同じ意味ですから、禁句扱いなんですよ」

仏印時代を知るかつての若者は、
戦後60有余年を経てかつての植民地支配の厳しさを端的に語った。

彼は昭和史に名を残す右翼思想家・アジア主義者、
大川周明の主宰する満鉄東亜経済調査局附属研究所(通称大川塾)に学び、
卒業後はその仏語力を買われ、
日本軍の軍属(=軍人ではないものの、軍隊に勤める者)を振り出しに、
特務機関員、商社員を経て最後は徴集を受け軍人となった。

彼の名は西川捨三郎、対米英開戦へつながる転換点として
史上に言及される「仏印進駐」の第一歩を、
最先頭に立つ陸軍の斥候隊とともに踏みしめた人物である。

仏印進駐とはいったい何か?
これは日本軍が中国大陸で戦っていた蒋介石軍の
封じ込めを意図する策動に始まった。

1940年6月20日、「援蒋ルート」の監視と遮断のため、
日本は仏印側に日本人の監視団の設置を求め、これを受け入れさせた。

フランス本国の対ドイツ降服3日後のことである。
フランスではビシー政権が成立していた。

援蒋ルートは大別して3つあり、
そのうちの1つが「仏印ルート」と呼ばれていた。
これが北部仏印の港町ハイフォンを経由し、
蒋介石が拠点とする重慶へ補給物資を流していた。
日本はこの補給路を断ち、中国戦線の好転を図ったのだ。

さらに「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」(1940年7月)により日本は、
仏印に軍を進めることを決定した。
南方の資源獲得に向け、仏印をその兵站とするのが狙いである。
8月に入ると軍進駐を仏印側に要求、交渉を開始した。

進駐に関する協定は、9月4日に第一次、同月22日に第二次が調印された。
日本の中央政府は「平和進駐」のかたちを整えたかった。

だが翌23日午前0時、「平和」を根底から覆す事件が発生する。

協定により仏印国境を越えた南支那方面軍隷下の第五師団に対し、
仏印軍は激しく抵抗、戦闘が発生したのである。
「平和進駐」は一転して「武力進駐」の様相を呈した。
日本軍は迅速に戦闘を展開し、
25日には国境の町ドンダンとランソンを制圧した。

この「武力進駐」からほどない同月26日午前0時、
印度支那派遣軍は平和裏に港町ハイフォン郊外に上陸した。
世に言う「北部仏印進駐」はここに完遂された。
その先頭の部隊に前述の西川捨三郎がいたのである。

「私は軍属でしたが、私も完全武装で行きましたよ、
歴史的には平和進駐だなんて言っていますが、
あれは戦争のつもりだった。まさに敵前上陸でした」

西川は自らの進駐体験をそう回想する。
直前に起こった中国国境付近での「武力進駐」の報が
全将兵を緊張させていたのだろう。

後日日本のマスコミはこの「北部仏印進駐」を「平和進駐」と報じた。
だが現場にいた西川の目から見ると、実態はその形容からほど遠かった。
陸路・海路を問わず、仏印軍の抵抗が予想されたため、
日本軍は「武力進駐」を覚悟していたのである。

一方の仏印政府もまた、協定があったとはいえ、
「平和進駐」を額面通りに受け止めていなかった。
陸路仏印入りした日本軍に抵抗した由縁である。

そもそも仏印側が日本に対して
強い警戒心を抱くに至った経緯はその35年前に遡る。

1905年、安南人の間で
民族主義者ファン・ボイ・チャウの主導する「東遊運動」が巻き起こった。
運動の趣旨は「大国ロシアに勝利しつつある日本に学べ」と
独立の志士(留学生)を日本に送り込み、
先進の学術・軍事技術などを修得させようというものである。
このため一時期日本は独立派安南人の梁山泊と化していた。

これに対し仏印政府は独立の機運を高めるものとして
仏印内の運動支援者を弾圧、
日本にも在日安南人の取り締まりを求めるなど厳しい処置で望んだ。
そんな日本が今度は直接軍を進めて来るのだ。
仏印側が警戒するのも至極当然のことだろう。

事実、フランスの主権下にある土地に軍を進めるにあたって、
日本は周到に謀略的な準備を進めていたのである。
ここで1940年9月、進駐に先立つ動きを追ってみることにしよう。

◆進駐の裏面史、暗中飛躍した日本の軍民

日本軍の到来を目前に控え、
現地では安南人の軍による反仏武装決起が企図されていた。

「進駐に合わせてチャン・チュン・ラップという将軍の率いる
復国同盟軍が北部で決起したんですよ。
ラップ将軍という人は非常に立派な人でしてね??」

西川は日本と安南人の独立勢力との連携を感慨深げに回想する。
ラップ将軍による反仏決起の軍、「復国同盟軍」の編成を援助したのが
「印度支那産業」重役の山根道一だった。

のちに特務機関「山根機関」を率いることになる彼は、
反仏の志士として支援していたラップが
日本軍と連絡を取り合う手引きをするなど積極的な事前工作を展開した。

同社社員らも「対ベトナム民衆工作」に従事、
同軍では顧問格となっていた。

ラップの復国同盟軍は、越境してきた日本軍と歩調を合わせ、
約3000人の兵力で立ち上がった。
日本軍の先導を務めただけでなく、事前に仏印軍兵営に潜入、
仏印軍の戦力を殺ぐべく安南兵(=仏印軍内にいる安南人の兵隊)
らの帰順も図った。

こういった特殊工作が機能し、
日本軍は国境付近における仏印軍との交戦(=「武力進駐」)を
短時日で有利に終えることができた。

武力衝突も辞さない覚悟で海路からの「平和進駐」に臨んだ西川らだったが、
部隊は意想外にも整然と居並ぶ仏印軍に出迎えられたのである。
先立つ「武力進駐」で軍事力を
まざまざと見せつけたことが功を奏したと言えよう。

だが「武力進駐」及び復国同盟軍の決起を、
日本の中央政府は歓迎しなかった。

ビシー・フランスはあくまで友邦であり、
仏印は南方の資源獲得に向けた「兵站」であるべきだった。
兵站に大規模な戦力を割くのは不適切である。
フランスの支配を温存し、あくまで安定を求めなければならなかった。

このため、現地の日本軍・民間の後押しがあって成立したにもかかわらず、
復国同盟軍は結局見殺しにされてしまう。
仏印軍は、進駐した日本軍の主力が上海へ去って行くのと同時に、
復国同盟軍に大規模な弾圧・掃討を加えた。
ラップ将軍はハノイ攻略と独立政権樹立を目指して軍を動かした末、
逮捕され銃殺刑に処された。
「もし私に昔の同志達がいたら、決して捕らえられることはなかっただろう」
ラップ将軍は最後にそう言い残したという。


「仏印軍に追いつめられて逃げてきた復国同盟軍の連中がいました。
彼らを日本軍は兵営に受け入れて庇ってやったものです。
長く彼らと付き合っていた日本軍の将校連中も、
見殺しなんてかわいそうだって、それはもう憤っていましたよ」

西川自身、復国同盟軍の幹部と交わった経験を持つ。
それゆえ彼らの悲劇的な運命を語るとき、無念の表情を隠さなかった。
また西川の周囲にも同じ思いを抱く日本人がいたのである。

もし自国・自軍のために利用しただけであれば、憤りなど生じないだろう。
よしんば利用する意図がまずあったとしても、
その連携の過程で仏印にいた日本人たちの心中に、
独立運動に対する強いシンパシーが生じていたことは容易に想像できる。
だからこそ西川はその後の独立運動支援にも一心に挺身したに違いない。

『植民地政府を解体した一夜の奇襲作戦』

◆インドシナ現地商社による独立運動支援

1940年9月の進駐後、
西川は軍属としての任務を経て、特務機関「山根機関」に加わった。

後日サイゴンに移ると、
インドシナにおける日本の有力商社「大南公司」に入社した。

山根機関の機関長、山根道一と独立運動の関係は前に述べた。

一方の大南公司は当時インドシナ各地に支店を持ち、
現地ではその名を知らぬ者のない存在である。
社長の松下光広自らがスパイ容疑で仏印政府から国外退去を
命ぜられた経験を持つ人物で、独立派安南人との関係も深かった。

「大南公司の事務所には、よくそんな(独立運動に関わる)
連中が出入りしていたんです。
松下社長は金をやったりして支援していましたね」

西川は在籍した大南公司の様子をそのように語った。
いわくつきの組織に西川は名を連ね、
反仏謀略の活動に従事し、戦局悪化にともない軍に入営した。
一兵卒となってからも彼の職務??情報収集、特殊工作??は変わらなかった。

西川のことを「スパイ」などと呼ぶのは不穏当に過ぎるであろう。
だが彼が記した日記形式のメモに頻出する「任務」「調査」「情報工作」
といった単語を見れば、若い身ながら、
特命を帯びた人間としての自覚を持って
仏印にあったことがひしひしと伝わってくる。

その彼のメモからは、
日本の軍民と独立運動家との交流がはっきりと見て取れる。
ベトナム最後の皇帝バオダイ、20世紀初頭に日本に亡命、
祖国の独立工作を続けていた王族クォンデ殿下、
のちの南ベトナム(ベトナム共和国)大統領ゴ・ディエン・ジェム、
日本軍による仏印武力処理ののち、
首相に任命されたチャン・チョン・キム、カンボジアの反仏民族主義者で
独立後には外相となったソン・ゴク・タン……。
インドシナ現代史を語る上で欠かせない人物ばかりが登場するのである。

西川その人については、
「なかなか話さないんだよ、書かせたらたくさん書くんだが……」と、
彼との付き合いの長かったベトナム関係者は口を揃える。
「仏印・ベトナムと日本の関係を知る字引みたいな人だけれどね、
とにかく謎が多い。語らない人なんだよ」

私が会ったとき、西川はすでに齢80を超えていた。
それでもやんわりと、「録音機なんて使わないで下さい」と、
秘密めいた来し方の一端を窺わせる態度を示した。
戦争の裏面に生きた時代のことを、
易々とは話したくない??西川にはそんな思いがあったのかもしれない。

◆大戦中の反仏特殊工作と仏印武力処理

1943年、南京攻略でも知られる陸軍の松井石根大将がサイゴンを訪れた。
大川周明らと交流し、早くから安南独立に関心を示していた彼は、
安南人記者を集めた会見で「(安南人は)独立のために準備を」
と談話して仏印側の憤激を買った。

仏印政府が主権を握り、
日本軍が間借りしている状況は変わっていなかった。

それでも独立勢力との連携は水面下で絶えず続けられていた。
この微妙な時期、西川は何をしていたのか?
彼のメモから断片的にではあるが描出してみよう。

・[1943年3月]タイ国へ亡命中のヴェトナム独立運動家と会談。

・[同年10月]フエよりグォ・ディン・ジェム氏来着。
グォ氏と松下社長、小松清[フランス文学者、評論家]氏の会談に同席。

・[1944年1月]チャン・チュオン・キム氏等、
日本軍庇護下にシンガポールに向け出発。
チャン氏の案として、シンガポールにクォン・デ殿下を迎えて、
独立運動本部を設置する計画書作成。

・[1945年2月]安部隊サイゴン隊勤務となる。
安部隊の任務は、フランス軍武装解除、重要施設接収、独立運動党員糾合。
これらの工作任務遂行のため、
高台(カオダイ)教団を活用する方針を決定した。

(文字遣いはすべて原文ママ。[]は引用者注記)

戦局悪化を受け、
仏印は当初の「兵站」から防衛すべき「拠点」へと変わっていった。

仏印全土で防衛の備えを急ぐべきときに、
主権者たる仏印政府の存在は日本軍の邪魔になるだけだった。
彼らは取り除かれなければならなかった。
この軍事的な理由を背景に、特殊工作を含め、軍の準備が進んでゆく。

これらの動きは1945年3月9日、
一気に噴出した。仏印政府を解体する「仏印武力処理」(秘匿号は明号作戦)
が発動されたのである。

もともと仏印武力処理の検討自体は、1943年の時点で始まっていた。
だが作戦実施に向け本格的に動き始めるのは1944年末、
南方圏の要、フィリピンでの決戦が失敗に帰してからのことだ。

ここにおいて「インドシナ防衛」は焦眉の問題となった。
フィリピン・ルソン島に上陸した米軍と、
ビルマ方面から殺到する英印軍がインドシナに襲来、
これに呼応して仏印軍が立ち上がるという、
最悪のシナリオを想定せざるを得なくなったのである。

大本営は1945年2月28日、南方軍総司令官に対し、
「3月5日以降機宜、仏領印度支那の処理を行うこと」と命令を発した。
日本軍の推計では、インドシナの仏印軍は計9万名。
一方の日本軍は4万名弱。数字の上では明らかに不利だった。

武力処理は、3月9日午後10時、奇襲で幕を開けた。
北部仏印の一部で頑強な抵抗に遭った以外は、事前の特殊工作により、
ほぼ全土で翌日午前中には軍事施設、行政の要所、要人の逮捕などを終えた。

現場の日本軍下士官が
「彼ら(安南兵)はすぐ両手を上げて出てきました。
降服するのを喜んでいる風でしたね」
と驚くほど、あっけなく終わったケースもあった。

グエン王朝の皇帝バオダイは
武力処理を伝える日本の特殊工作員に涙を流して感謝、
「戦争終了後は友邦日本とともに苦難を越えて共同してゆきたい」
と語ったとされる。3月11日、彼はフランスからの独立を宣言した。

このバオダイ帝の反応と相通じる民衆の素朴な姿を、
北部仏印で明号作戦に参加した元日本兵は印象的に記憶している。

「作戦後は日本軍に拍手した連中もいたくらいですから。
とにかくあの支配者フランスを一晩で叩いたんですよ、
安南人はわーっとなりましたね」

またある安南人の老人は
「安南ノ黎明、今此所ニ明ケントス、人民歓喜、蹶起シテ之ヲ追ウ」
と漢字で綴った書状を作戦行動中の部隊に手渡したという。

フランスは土地の人々を圧倒する軍事力をもって君臨していた。
それを一夜にして追い落とした大事件の意義は、
そう簡単に消えるものではないだろう。
何しろ80年もの間、ベトナムはフランスに抗っては倒され続けていたのだ。

西川は後年、明号作戦は
「追いつめられた日本軍の作戦的理由」によるものと書き記した。
この見方が妥当だとしても、同作戦は単なる武力行使ではなかった。
同じアジアに属する日本の軍隊が成しとげたものとして、
安南人の独立の意識を著しく刺激した事件だったのである。

◆日本の敗戦と蜂起の奔流

明号作戦を境に、日本軍は仏印全土の防御陣地化を開始した。
山岳地帯に退き、海岸線からの米軍襲来に備えた。
だがその備えも空しく米軍は直接に沖縄を席巻、
8月15日、インドシナも敗戦を迎えた。

「日本軍は安南(チュオンソン)山脈に立てこもる、
そうして山岳ゲリラ戦で米軍に対抗することになっていました。
それで私は中部高原のバンメトートという町に行っていたんです。
少数民族の協力を得てゾウを使った特殊部隊の訓練を始めましてね。
そのとき敗戦の報に接したんです」

敗戦を8月14日に知ってから、西川の動きは非常に慌ただしくなる。
彼は他の隊員とともに任地を離れ、サイゴンに急行した。
だがサイゴンもすぐに離れなければならなかった。

西川には、フランスによる戦犯追及を逃れる必要があったのである。
大戦中の仏印総督ドクーをして「日本軍の第五列」
と言わしめた大南公司に勤めた西川が、
戦犯として罪に問われることは間違いのないことだった。

「独立支援みたいなことをしていましたから」
言葉少なに西川はサイゴン脱出の理由を説明した。
任地から引き揚げた先のサイゴンでは皆と
「どうするか、飛行機でも乗っ取るか」と議論の末、
船で海路脱出する方法を選んだ。

すでに大南公司の松下社長は
サイゴンを発つ最後の飛行機で辛くも台湾に逃れていた。

西川自身は8月25日、小型漁船に乗り込み、
密航者然として外洋へ逃れ、荒波に揉まれて日本へ帰還した。

一部の現地残留者を除き、
仏印からの復員は翌46年5月に集団で行われた事実を踏まえると、
西川の切迫した脱出劇は、一般将兵・民間人とは異なる身であった彼の姿を
強烈に照らし出すものだとも言えそうだ。

日本による仏印政府解体は、安南人のなし得なかった悲願だった。
それだけに強烈な衝撃を残し、歴史の次のページを開く原動力となった。
「フランスをやっつけて我々が独立できるのは日本軍のおかげだ」
「ホー・チ・ミンがフランスに勝てたのは、
日本軍が仏印軍を前もって叩いてくれたからだ」

敗北した日本人に対し、
ベトナムの人々はそんな感謝めいた言葉を発している。

西川が関わった諸々の活動もまた、そういった感謝に値しないはずがない。
その西川は2006年、ホーチミン市(旧サイゴン)で病に倒れ、
不帰の客となった。

1945年8月15日を境に、新たに独立運動の最前面に躍り出た勢力があった。
ホー・チ・ミン率いるベトミン(ベトナム独立同盟)である。

彼らは人心掌握に長けていたが、軍事力に乏しかった。
それゆえ近代戦の経験に秀でた日本軍の将兵を
自軍に取り込むことに熱心だった。

敗戦直後の仏印では、この勧誘に応ずる形で現地部隊を脱し、
ベトミン軍に参加する日本軍将兵が相次いだ。
こうしてベトミンは彼らの力を存分に吸収し、
再支配を目論むフランスと戦うことになる。

明号作戦が安南人の「意識」を変えたとすれば、
ベトミン軍に参加した日本軍将兵は、
安南人に「技術」を伝えたと言えるかもしれない。
日本人によるこの新たな貢献を、次回は詳述しよう。

『ホー・チ・ミンの軍隊で戦った日本人』

◆独立闘争史に刻まれた功績

ベトナム語で「ングォイ・ベトナム・モイ」、
訳すと「新ベトナム人」となる。

第二次世界大戦終結後ベトナムに残留し、
第一次インドシナ戦争(1946年12月19日~1954年5月7日。以下抗仏戦争)
を戦った外国人の総称である。

この新ベトナム人の大多数が元日本軍将兵であり、
総数は約600名と言われている。

彼ら新ベトナム人は、それぞれベトナム名を持ち、
ベトナム社会に溶け込んでいた。
同胞として、ベトミン(ベトナム独立同盟)に協力し、
フランスの再侵略を退けることに尽くしたのである。

フランスがインドシナの再支配を断念した1954年、
彼ら新ベトナム人の多くが日本に帰ったが、
ベトナム政府は彼らの抗仏戦争に対する貢献を積極的に認め、表彰している。
近年日越共同の研究が進み、
日本ではジャーナリストの井川一久が詳細な研究を明らかにした。

だが今もってこの残留者たちの存在と事績は
日本国内での認知が進んだとは言い難い状況にある。

戦後ベトナムに残留した日本人は
ベトナム独立闘争史にいかなる足跡を残したのか?
ここでは最初にベトミンの来歴を俯瞰し、
次いで二人の新ベトナム人のベトナムにおける履歴を辿って行こう。

◆ベトミン、抗仏のために軍事力増強へ

ベトミンの結成は、1941年、
中国経由で祖国に帰ったホー・チ・ミンの呼びかけで始まった。

彼らはアメリカOSS(=戦略情報局。CIAの前身)の支援も受けながら、
北部仏印の山間でゲリラ戦を展開、
「明号作戦」後の日本軍を悩ませるようになっていた。

そのベトミンが1945年8月15日、日本の敗戦を機に一斉蜂起を決定、
同月19日にはハノイ市中で大集会を開き、重要施設の接収を開始した。

彼らはベトナム全土に生じていた権力の空白をついたのである。
日本軍の武装解除を行うべき中国国民党軍はまだ、
ベトナム北部に到着していなかった。
南部の武装解除を担当する英印軍もまた然りだった。

そして電撃的な権力奪取から間もない9月2日、
ハノイでホー・チ・ミンが独立宣言を読み上げ、
ベトナム民主共和国が成立した。

ベトミンはすでに民衆の間に広く浸透していた。
だが軍事力の点では力不足を否めなかった。
竹槍を持つ彼らの姿は、初期ベトミンの一典型としてしばしば言及される。

例えば敗戦直後、
サイゴン近郊にあったのちの芥川賞作家、古山高麗雄は短編「墓地で」
においてベトミンの軍事教練に触れ、
「私は、竹槍をかついだ女や老人の教練を見た」と書いている。
中国・雲南の激戦地で米式装備の敵と戦った経験を持つ作家の目を通すと、
「モク、ハイ、モク、ハイ」(=いちに、いちにの意)
とかけ声をかけて行進する人々は、
いくらか可愛げすら帯びていたように見えてしまう。

だがベトミンはやがて再来するだろうフランスに対抗すべく、
軍事力の増強を懸命に急いだ。それももっとも直截的な方法で──
彼らは敗戦の虚脱にある日本軍将兵を自軍に勧誘し始めたのである。

◆帰還を拒み、抗仏戦争を支えた元将校

「日本に帰ってアメリカの兵隊の顔を見るのが嫌だったんですよ」
ベトナム南部で敗戦を迎えた日本軍の元将校は、
現地に残留した理由をそのように説明した。

この元将校の名は加茂徳治。
ガダルカナル島、ビルマ、中国・雲南、仏印と戦場を
渡り歩いた第二師団に所属していた。
軍で使っていたベトナム人通訳から残留を勧められ、
軍刀と着替えだけを携えて軍を離脱(=脱走)、
ベトミン軍に参加して抗仏戦争の戦列に加わった。

「思想? そんなものはありませんでしたよ」と明言するように、
加茂はベトミンを率いるホー・チ・ミンが
奉じる共産主義思想に対するシンパシーなど持ち合わせていなかった。
ただ祖国の敗戦に絶望していた。
「ビルマ、仏印と転戦してきました。他国に占領されるのがどんなことか、
自分が外地に出てすでに経験していたわけです」と彼は語る。

敗北し、他国の支配を甘受せざるを得ない祖国。
そこへ帰還する望みを断つ一方、
それゆえに完全独立を目指すベトミンに共感を持ったのだろう。

南部の町ファンティエットで軍を離脱した加茂はまず、
他の軍離脱者と組んでベトミン民兵に訓練を施した。
ほどなくして日本軍の軽機関銃や小銃を使い、仏印軍を撃破する実績を上げた。

その戦闘に先立つ指示を加茂はよく憶えている。
軍事に未熟なベトミンの実像──それが彼の証言にも表れている。
「どこでもいいからとにかく撃て、喚声を上げよと、
そんなことを身振り手振りで伝えましたよ。身振り手振りは万国共通ですから」

民兵らにとって、
自分たちの手で仏印軍を倒したことで得た達成感は、
強烈なものだったようだ。

「フランス人が殺されるのを初めて見た!」と興奮して話す者がいた。
この成果により加茂らは「フランス人をやっつけた人たちだ」と
他のベトナム人に紹介されるようにもなった。

◆教官はすべて日本人、創設されたエリート軍学校

やがて加茂は中部における抗仏戦争の拠点、クアンガイの町に入った。
1946年の4月頃だった。
丁重に彼を迎えたベトミン幹部からは、
「わたしたちのために、陸軍中学をつくって下さい」と言われたという。

クアンガイでは、現代ベトナム独立闘争史上でも異彩を放つ、
日本人教官による「クアンガイ陸軍中学」
が創設されようとしていたのである。

「教育はすべて日本人がやる、そう最初から決まっていました」
と加茂は語る。

このクアンガイ陸軍中学創設のため、
同地には元日本軍将兵30名が集まっていた。
総数約400名のベトナム人学生を軍の中級幹部に仕立てること、
これが学校の目的だった。

教育にあたって4個中隊がつくられ、加茂は第4中隊を担当した。
教官は将校、助手は下士官が務めた。
このあたりの編成・職制は、日本陸軍の制度を模したのだろう。

「共産党員であること、戦歴があること、
地方の党委員会による推薦を得ていること、
だいたい年齢は20歳前後でしたかね」

集まってきた学生像を加茂は思い起こし、
「我慢強い、音を上げない、
どんなつらいことがあっても人民のために、という気概を持っていた」
と賛嘆する。

軍の幹部候補生として、彼らの気構えは申し分なかった。
だが一方で、
軍事に関しては日本軍の新兵よりも未熟な状態にあったようだ。
「学生はほとんどが中学を卒業した者です。
当時のベトナムで中卒と言ったらエリートですが、
とにかく動作が鈍いんですよ。気をつけもできない。
だから教育は気をつけ、休め、回れ右、敬礼といった
基本的な軍隊用語と動作を教えることから始まりました」

加茂が語るように、陸軍中学の教育は基礎の基礎からスタートした。
まず号令のかけ方、基本姿勢(気をつけ、休め、解け)、
基本動作(匍匐、匍匐前進、横転、横進)を習得させた。

次いで銃の操作、銃剣術、手榴弾投擲、散開、立哨、
警備巡回といった個人的技術の訓練を施した。

また昼間・夜間戦闘、白兵戦、奇襲、偵察、陣地構築、通信、兵站確保の他、
分隊・小隊規模での軍事技術と指揮方法を教え、
指揮官が必要とする技能と知識を学ばせ、
最後に集中的に戦闘式の演習を実施した。

「先生は軍事知識の基礎を教えて下さいました──」
これは2005年、NHKがベトミンに
参加したベトナム残留将兵にフォーカスした番組、
『引き裂かれた家族──残留日本兵とベトナムの60年』中で紹介された、
クアンガイ陸軍中学出身者らの言葉である。

日本人教官が基礎の基礎から教え込んだことは、
当の学生がもっともよく記憶し、感謝している、
「私たちは日本人教官のご恩を忘れることはできません」と。

クアンガイ陸軍中学の教育は同年11月には早くも終わりを迎える。
フランス軍の北部ハイフォン上陸を受けて、
ホー・チ・ミンが「全国抗戦宣言」を発し、ベトミンは北部山岳地帯での抗戦を決定したのだ。

加茂は北上して抗戦拠点入りし、その後も教育に携わり、
「軍訓局」という訓練専門の部署で働き続けた。
その貢献が高く評価されていたのだろう、
加茂に対する軍上層部の態度は常に礼儀正しかったという。
そんな加茂に対し、ベトナム政府は
第一級戦功勲章、第二級戦功勲章の二つをもって報いている。

クアンガイ陸軍中学は戦局の影響から短命に終わった。
だが同校は近代戦の経験者たる日本人将兵が、
本格的な軍隊教育を施したという点で特筆されるべき存在である。

卒業した者たちは抗仏戦争を戦い、
続くベトナム戦争では将官、佐官になるものも現れ、
連隊長や作戦参謀として第一線に立ったという。

日本人の教えたものが最前線の知恵となっていたと想像するのは、
あながち的はずれではないだろう。

「新ベトナム人」のすべてが日本軍を離脱した残留将兵だったわけではない。
なかには、「ベトナム」という土地に早くから理解と愛着を持ち、
半ば必然的にベトナム残留を決めた者もいる。
次回はもう一人の「新ベトナム人」について語ろう。

『現地校卒業生、命がけのベトナム残留』

◆土地への思いを育んだ現地校、「南洋学院」

「新ベトナム人」のすべてが
日本軍を離脱した残留将兵だったわけではない。

なかには、「ベトナム」という土地に早くから理解と愛着を持ち、
半ば必然的にベトナム残留を決めた者もいる。

新ベトナム人としてベトナム北部に長く残留し、
帰国後「ベトナムの地に夢を抱き、そこに人生を託した」と、
十代の日の鮮烈な心象を手記に残した新ベトナム人がいる。
駒屋俊夫、大戦中のサイゴンに開校された日本の現地校、
「南洋学院」の卒業生である。

この南洋学院は1942年10月、
外務省の管轄下、南洋協会(大正4年創立)の運営により誕生し、
南部仏印の商都サイゴンに学舎を置いた外地校(高等専門学校)である。

学生は台湾や満州を含む日本全国から選抜され、
一期生30名、二期生30名、三期生52名を擁した。
教科は「安南語」「フランス語」を筆頭に、「熱帯衛生」や「仏印経済」
といった現地教育にふさわしいものが揃っていた。

同校の募集要項には
「南方開発の指導的人材を養成する」と記されていた。
開校には時の国策、すなわち南進が影響していたことは疑いない。

だがたとえ開校が国策によるものであっても、
学校はリベラルな空気に満ちていた。

OBらの証言によると、教授陣には、
当時日本を含め世界で支配的だった「ブロック経済」の考え方を
「戦争の原因」と退ける者もいた。

一方の学生側は戦時の雰囲気が重苦しい内地を離れ、
熱帯の外地に渡ることで、精神的な解放感を得た。

あるOBは一学生が
「クリスチャンとして戦争には反対する」と入学前の研修合宿で公言し、
また「この戦争は負ける。アメリカに勝てるはずがない」
とまで言い切ったのをよく憶えているという。

このようなとらわれのない校風が後押ししたのか、
OBの一人が「独立したいと思う安南人がいないはずはない、
そう思っていました」と述懐するように、
学生らは植民地の実状と苦境を察するようになった。
そこにある視座は、資源供給地・兵站としてのみ
仏印を眺める内地日本人が持ち得ないものだったのである。

駒屋俊夫もまた、その学校に学んだ学生の一人だった。
異土に抱いた希望が大きかっただけに、彼は祖国の敗戦に激しく動揺した。
一時は自殺も考えたというが、
現地で召集された者の除隊を許可する連絡が入るや、考えを変えた。
大多数が内地帰還へと思いを馳せるなか、
「ベトナムに残ろうと決心し」たのだった。

「どのような方法で(ベトナムに)残るのか、考えるすべもなかったが、
とにかく残留に一縷の望みを託した」と駒屋は書く。
強い思いと不安を抱えての残留だったろうと推察される。

実際、現地に学生時代から自由に親しみ、
言葉にも堪能な南洋学院出身者であっても、
激動のベトナムに身を置くのは非常に危険なことだった。
駒屋以外の南洋学院生でベトナムに残ったとされるのは3名だ。

一人は後年、無事日本に帰還、
一人はハノイで同級生に会ったのを最後に行方がわかっておらず、
さらにもう一人は
「タイニン(=南部ベトナムの新興宗教カオダイ教団の本拠地)へ行く」
と同級生に言い残してサイゴンを去り、それ以後消息を絶ったままだという。

◆評価された日本人としての知性

駒屋は、同じく残留を決意した日本人らと現地自活を目指し、
ハノイ北東約60キロに位置するバクザン省ボハ村に入植した。
敗戦から間もない1945年10月のことである。

「まず何より食うことだった」とは、
彼の手記に残された入植当初の決心である。
なりふりは構っていられなかった。

仲間と農業に精を出したものの失敗、
その後は炭焼きを生業として暮らし、どうにかこれに成功した。

あるときなど、ベトミン民兵によって誤って捕縛され、
銃殺刑目前のところ、必死で窮地を脱出するという苦難も経験した。

決して楽な自活ではなかったが、
駒屋は地元の民生に役立つ行いにも努めていた。
「薬問屋の息子で薬に詳しかったです。
熱帯衛生の教授にも可愛がられていましたね。
衛生係軍曹なんてあだ名でした」と同級生が語るように、
彼は南洋学院で受けた教育を活かし、
マーキュロクロムの原料粉末から「赤チン」を作り、
現地の人々の熱帯性潰瘍を治療するなどしたのである。

当時ベトナムの医療事情は劣悪だった。
駒屋のように薬品類に明るい人間が歓迎されたことは言うまでもない。

1946年の終わり頃から駒屋らはベトミン民兵の「軍事教練」のため、
近隣の村々を回るようになった。

折しも抗仏戦争が本格化していた。
クアンガイ陸軍中学を経て、
元将校加茂徳治が北部へと移った時期とちょうど重なる。

駒屋は教育にたいへんな労力を割いたという。
文盲が大半を占めていたからである。

それでも算術・国語を手始めに、測地・測量など、
より軍事に近い科目をも教えるにいたった。

「地図の読み方など知らない者が多いのには難儀した」そう駒屋は記す。
彼は軍務の一環で地図の複写も行った。
印刷などできない環境下、彼の複写した地図がバクザン省にいる各部隊の
隊長に手渡されるようになっていった。

付言すると、
現在でもベトナムでは地図から過不足なく情報を読み取れる人は少ない。
タクシー運転手に地図で場所を示しても、まず通用しないのだ。

仮に彼のよく知る地元であっても事情は変わらない。
まして60有余年前ならば、
地図を読ませる駒屋の苦労はいかほどだったろうと推察される。

駒屋は1949年、「北部軍管区参謀部作戦班」に勤めることとなった。
地図をよくする彼の能力は最大限に買われ、
戦闘報告をもとに「戦図」を起こす任務を与えられた。

その後、「情報班」に所属を変わったが、
この理由について、
「駒屋ベトナム・モイの思考方法に大変興味を持っていた」
と軍幹部に言われたことを、駒屋は記している。
戦図作成だけでなく、情報の分野でも、
先進国日本から来た人間として、その知性を評価されていたのだろう。

1954年、他の残留者らとともに復員した駒屋だが、
彼のベトミン時代の事績を現在のベトナムも顕彰している。

一例を挙げると、ベトナムの国軍「ベトナム人民軍」が発行する月刊誌
『SU KIEN VA NHAN CHUNG(事件と証人)』(1999年10月号)は、
「抗仏戦争において多大なる功績があった」と賛辞をもって駒屋を紹介、
「駒屋俊夫とその友人らによるベトナム独立に対する
貢献に敬意を表するために執筆された」との一文で記事を結んでいる。

また2002年、国営のベトナム・ニュースエージェンシーは
その英字版で、駒屋がベトナム政府から勲章を授けられたことを伝えている。

2005年の春、私は駒屋が深く親しんだであろう入植先のボハ村を訪問した。
村の寺に集まっていた古老らに、
「このあたりに日本人のコマヤトシオさんが昔、住んでいましたね」
と尋ねた。
70年輩の彼らは札遊びの手を休めず、
「日本人ならいたよ」と素っ気なく答えるだけだった。
「でもコマヤトシオという名前は記憶にない」
コマヤトシオという名前が通じなくともよい、
日本人がいたという事実だけでも確認したくて私は何度も念押しした。

コマヤです、コマヤトシオという日本人なのです。
同じ質問を二度三度と繰り返すと、そのうちの一人が怒ったように断言した。
「日本人じゃない、新ベトナム人だ!」
なぜ当たり前のことを、日本人のお前はわからないのだ、
と咎めるようでもあった。

それほどに新ベトナム人の存在が村では当たり前のことだったのだろうと、
すでに物故していた駒屋の姿を想像せずにはいられなかった。

ベトミン軍に参加した者たちはそれぞれ戦功を立て、
現在では数十名がベトナム側から勲章を受けたことが明らかになっている。
クアンガイ陸軍中学に代表されるように、
彼ら新ベトナム人がベトナムに注入した日本および日本軍の技術は、
長く、ベトナム独立闘争史に残されるべきものとなったのである。

『源流は大東亜戦争にあり──戦後日本のベトナム支援』

◆「大南公司」と日本のベトナム再進出

日本は1951年、サンフランシスコ講和条約で国際社会に復帰した。
これを受け、東南アジア外交においては最初に「賠償」の問題に直面した。

この賠償とは、同条約第14条により発生した義務で、
「日本が太平洋戦争で相手国に与えた損害および苦痛に対して支払」
われるべき(『東南アジアを知る事典』)ものだった。

だが賠償が途上国である受償国のインフラ整備に
大きく貢献したことを考えれば、
賠償という言葉にまとわりつく「罪の償い」という
マイナスイメージに寄りかかって「日本の旧悪」へと思考を進めることが、
必ずしも正しい姿勢とは言えないだろう。

こと対ベトナム賠償に関しても事情は同様であり、
否定的になり過ぎるべきではない。

むしろ賠償にあたり、戦中に日本人が築いた人脈が機能し、
独立間もない国のインフラ整備に貢献したという、
積極的な面を見てみる必要があるだろう。

1954年、南ベトナム(当時ベトナム国、のちベトナム共和国)と
正式に国交を結んだ日本は、大戦中に現地にいたある人物を介し、
ベトナムとの関係再構築に乗り出した。

その人物とは他でもない、17歳にして仏印に渡り、
現地商社「大南公司」を築き上げた松下光広である。

戦中の彼と大南公司、
同社の独立運動関与については本小文第2回で述べた通りである。
対南ベトナム賠償の裏面史もまた、彼を抜きにして語り得ない。
(なお北ベトナム=ベトナム民主共和国は賠償について1956年、
「賠償権を留保する」と発表した)

1953年、大南公司を再建した松下のもとには、
西川捨三郎など旧大南公司の面々や、
西川と同じ満鉄東亜経済調査局附属研究所(通称大川塾)出身者が参じていた。
松下と旧交のあったゴ・ディエン・ジェムは1955年、
南ベトナムの大統領に就任した。

大戦中、仏印政府の監視下にあったジェムを
大南公司の宿舎に密かに匿うなどし、すでに信頼を勝ち得ていた松下は、
その私設顧問の地位を得た。

この関係を背景に、
南ベトナムでも大南公司は圧倒的な存在感を持つことになったのである。

1959年5月、日本と南ベトナムは賠償協定に調印したが、
同年10月に始まった第33回国会の衆議院外務委員会の会議録には、
調印をめぐり、松下を黒幕扱いする社会党議員の発言が残されている。

「サイゴンの大南公司、これは松下光広が社長です。
例の日本工営(=建設コンサルティング会社)の
久保田豊をゴ・ディン・ジェムに引き会わせたこの松下光広という人は、
もう御存じのように、ベトナムにおいて
日本が何か仕事をしようとするためには、必ずこの人を通さなければ、
向こうの政府と関係が結べないくらい
大きな力を持っておると言われておる」

社会党は、南ベトナムだけを相手にした賠償自体を、
アメリカの軍事援助を受ける傀儡国家への歪んだ支援と見なし、
そのあり方を厳しく非難していた。

では、なぜ松下は槍玉に挙げられたのか? 
結論から言えば、彼は他の日本人ではなしえない力業を、
賠償にまつわる場で見せていたのである。

◆日本企業の大型ダム工事逆転受注、戦中の交流が起点に

日本の対南ベトナム賠償の主幹は、「水力発電所建設」だった。
これはサイゴン北東250キロに位置するダニム川に、
ダムと水力発電所を開発するものである。

日本との賠償協定が結ばれる1959年より前、
このプロジェクトは、フランスが行うことになっていた。

55年の時点で、フランスは南ベトナムで建設に向けた調査に着手済みだった。
そこへ横から割り込む格好で
日本工営がプランを南ベトナムに示し、最終的に受注となったのである。

その逆転劇を演出したのが、
社会党議員の指摘するように松下光広だと言われている。
松下は日本工営社長の久保田豊をジェムに会わせ、
プランを示す場をお膳立てした。

無論ジェムの私設顧問たる彼にしてみれば、
人一人を紹介するくらいはわけのない仕事だったに違いない。

ダム工事は1961年に開始、3000万ドル
(=当時の円に換算すると、126億4900万円)の巨費を投じ、
64年末には16万キロワットの発電が可能な発電所が完成した。

また建設に際しては、サイゴンに集まっていた元残留日本兵らが、
ベトナム人スタッフとの間に立ち、
現場作業における不可欠の媒介役となったことも
触れられてよい事実だろう。

当時松下の部下としてサイゴンにいた小田親
(1920年ハノイ生まれ。ハノイのリセを卒業)は、
ベトナムで一時代を築いた松下のメンタリティをこう指摘する。

「思想的に言えば、松下社長はむしろ左寄りの人だったのじゃないかな。
特にインドシナ三国ではね。
急進的な人たちとの付き合いが好きだったのでしょう」
社会党から名指しで非難されるようなフィクサー的存在だった松下が
「左寄り」とは意外な響きがある。
しかし、植民地時代から独立運動の有力者・要人と交際を重ねてきた人物は、
むしろその取り組みの早さや革新性において
「左寄り」の冠がふさわしいのかもしれない。

「戦後」の対南ベトナム賠償ですら、大南公司や残留日本兵など、
仏印時代に端を発する戦前・戦中の縁や関係が
不可欠の潤滑油として働いていた。

だがベトナムにおける戦前・戦中と戦後世界の連続性を明らかに示す例は、
南ベトナム時代に限ったものではない。
ベトナム版ペレストロイカとも称される「ドイモイ政策」で
新生成ったベトナム(=ベトナム社会主義共和国)
でも見て取ることができるのだ。

◆サイゴン現地校のOBが開設、学費無料の精鋭日本語学校

1991年、ベトナム南部のホーチミン市総合大学内に、
「学費・教材無料」という破格の日本語学校が誕生した。
その名を「南学日本語クラス」といい、
戦中サイゴンにあった日本の外地校「南洋学院」(第4回参照)
OBの手によってつくられたものである。

当時、首都ハノイには日本語の公的教育機関があったものの、
商都ホーチミン市にはそれがなかった。
ドイモイ政策が成功して日本企業のベトナム南部進出が相次ぐなか、
日本語能力のある人材が求められていた。

時宜を得た南学日本語クラスの開校は、
現地で折衝を担当した蛭川弘尹(第三期生)の努力が実り、
ベトナムの大学側も歓迎するところとなった。

学校の創立に際しては、南洋学院OBが寄付金を出し合った。
なかでも特筆すべきは弁護士の中村護(第三期生)が、
事務所・教員宿舎の賃貸料(15年分)の一括前払いに際し、
資金として数万ドルを私費で提供したことだろう。

思い出の地、ベトナムのためとはいえ、
一個人がそれだけの金銭を出すのは並大抵のことではない。
だが中村自身はそれを特に誇ることはしない。
創立に賛同し、出資した他のOBも、
「青春時代にお世話になったベトナムに今度は支援の手を」
との気持ちで一致していた。

開校は広く注目を集め、定員20名のところに2000名の応募があった。
南学日本語クラスの教育は非常に厳しく、学生は2年の年限において、
月曜日から金曜日までの週5日、
日本語だけを毎日5時間学ぶことになっていた。

アルバイト禁止の規則まで設け、とにかく日本語漬けにしたのが実を結び、
第一期の卒業生から日本領事館や大手商社に就職する者が続出、
留学生も4名が来日した。

「南学(南学日本語クラスの通称)があったから今の自分があります。
南学のためにできることなら何でもしますよ。
私、南学のファンなんですから」
ベトナム中部のフエ外国語大学日本語学科で教鞭を執る
グエン・ティ・フーン・チャーは、インタビューの打診に対し、
開口一番、自分を育ててくれた南学日本語クラスへの思いを吐露した。

ホーチミン市総合大学での開校とその成功に続き、
フエ師範大学でも1993年、
ベトナム側の学長による度重なる強い要請を受け、
姉妹校として南学日本語クラスが始まった(以下フエ南学)。

彼女チャーはフエ南学の第一期生である。
チャーはクラスが始まった当初のことを、驚きとともに回想する。
「ノート、ペン、その他学習に必要なものはすべて支給されました。
教科書もオリジナルなんですよ!
書き込んだらもったいないと思ったくらいです」

「教科書もオリジナル」と驚くのは、ベトナムではコピー文化が圧倒的で、
「学校の教科書=コピー本」という図式があるからだ。

だが南学日本語クラスは違った。本格的に日本語を教える、
その姿勢を充実した教材で学生に強く印象づけたのである。

無論、南学日本語クラスは物質面だけで学生を魅了したわけではない。
ベトナム人ではなく、
日本で選抜した日本語教授資格を持つ若い日本人を派遣し、
教育に当たらせた。

これも南洋学院OBらがサイゴンで、
ベトナム人教師から直に語学を学んだ経験を持つがゆえのことだろう。

南学日本語クラスの学生が熱心に学んだ理由を、
初期フエ南学で教壇に立ち、
今もベトナムで日本語を教える黒田朋斎は、別の角度から説明する。

「何かの折にベトナムに来た中村さんが、学生を前に話をされるでしょう。
そうすると中村さんは感極まって涙を流されるんですよ。
自分たちの学費の面倒まで見てくれる人のそんな姿を見たら、
学生は目の色が変わるんですよ」
南洋学院OBの情熱、これが大きいと言うのである。

2006年、惜しまれつつ南学日本語クラスは
15年におよぶ歴史に終止符を打った。
今やベトナムで大学における日本語教育はまったく珍しくない。
ホーチミン市やハノイでは、中学校の一部でも日本語教育が始まりつつある。
そんななか、時代に先駆けた南学日本語クラスの実績は際立っている。

昨今ベトナム南部を中心に、
日本企業の採用担当者が「ああ、南学ね」と言ってわかるほどに
南学日本語クラスの認知度は高い。
卒業生のなかには日本留学を果たし、
大学で修士・博士号を取って大学教員となったOBもいる。

南学日本語クラスは単なる日本語教室の枠を越え、
ベトナムの人材を育てることに成功した。
その原動力が戦中の現地校にあることは言うまでもない。

2006年8月、「南学日本語クラス閉校記念パーティー」が
ホーチミン市で開催された。
家族とともに参加した中村護は、
「ここはベトナムですが、日本語クラスのパーティーですからみなさん、
日本語でいきましょう」と述べてまず会場の笑いを誘い、
次いで自ら支援し続けた教室への思いを、声を詰まらせながら語った。

そんな中村だが、意外にも大戦中の南洋学院入学は、
南方開発に尽くそうと強く望んだ末のものではなかった。
学校の担任教師に勧められての受験であり、
自身では「海外に出る好機だと思いました」と短く語るのみだ。

それでも敗戦後、日本に戻ってからもベトナムを忘れることはなかった。
そして約45年のときを経て、
彼とその仲間たちは青春を育んでくれた地への恩返しを果たしたのだった。

南学OBの熱意は、南洋学院に学んだという、強固な原体験に根ざしている。
彼らが生んだ南学日本語クラスもまた、
日本が現代ベトナムでなした一つの功績に違いないのである。

◆「日本人」が関わったベトナム現代史

「私はベトナム生まれだからベトナムはもちろん第二の故郷です。
あの国はこれから変わっていく、よくなっていくと信じていますよ。
経済発展は改革の賜物、中国より良くなるはずですよ。
ベトナム人は現実主義者で頭がいいですから」

ハノイ生まれの小田親は、ベトナムの明るい未来を予見している。
第三世界の開発コンサルタントとしてキャリアを積んだ彼は、
1986年、ドイモイ政策が始まったばかりのベトナムを再訪、
「大臣クラスならいつでも会える」という人脈を生かし、
仕事を再開させた。

彼の人脈とはもちろん現地に生まれ育ち、
戦中・戦後と変わらずベトナムに関わってきたからこそのものである。

西川捨三郎は2000年に『ベトナム人名人物事典』を刊行した。
これはベトナム史上、中国の支配、フランスの侵略に対して
戦った英雄らの事績を記したもので、じつにマイナーな一書だが、
早くからベトナム独立への戦いをともにした経験を持つ西川らしさが
よく伝わるものとなっている。

西川は同書の他にもベトナムに尽くした日本人の事績を
折に触れて書き綴ってきた。
その彼は自分もまた、
その日本人のうちに連なることを自覚していたはずである。

「第二の故郷ですね。人生を変えたところです。
大きな転機でしたから──」
ベトミン軍に加わった加茂徳治は自らのベトナムをそのように位置づける。

「クアンガイ陸軍中学の教え子が、
ベトナム戦争のときには中堅幹部になっていたんですね。
サイゴンに一番乗りした戦車に乗っていたのもそうですよ」

1975年4月30日、ベトナム戦争終結の日、
サイゴンに入城した北ベトナム正規軍戦車の姿は写真や映像で知る人も多い。
加茂はその歴史的瞬間に秘められた日越交流の証跡を誇らしげに話した。
けだしクアンガイ陸軍中学教官として
独立の思いを共有した者しか語れないエピソードだろう。

「私は暗いベトナムではなく、新しく明るいベトナムを求めているんですよ」
南洋学院OB(第三期生)の徳田勝紀は、自身の「仏印体験」もそこそこに、
南学日本語クラス創設の苦労と軌跡を語り、
また「今のベトナム」を見据えた希望を明確に、熱っぽく語る。

80歳を超えている徳田だが、最近では外務省関係者、
ベトナム研究者らを巻き込んだ日越文化交流プロジェクトを
企画、実現に向け、日夜奔走している。

彼にとっては、テレビジャーナリズムが好んで取り上げたために
日本人の間に定着した、「ベトナム戦争」や「難民」に代表される悲惨な
ベトナム・イメージはもはや古すぎるのである。

25歳以下が全人口の6割超を占める
今のベトナムと日本の新しい交流こそが重要事なのだ。


この小文でその言葉を借りた人々は、
いずれもベトナムの苦しく暗い「過去」を知るがゆえに、
「現在」にも関わろうとしてきた。

決して甘い追憶や一時の思いつきだけで行動しているわけではない。

彼らは脈々と続く日越交流史のただなかにいる。
各人の言葉が語る通り、これはベトナム戦争中、旧ソ連が武器を送り、
アメリカが英語しか話さない大量の将兵を送り込んだのとは
まったく異質なものだ。
同じアジアの国の人間が、
人と人との関係にまで踏み込んで関わっていたのである。

今日、日本とベトナムが謳う「戦略的パートナーシップ」の背景に、
戦前から続く日越交流の姿を読み込むことは、決して無益なことではない。
何物にも代え難い愛着をもってベトナムに対した人々の言葉を聞き知るとき、
日越交流史への新たな視点が生まれ出る──
この小文がその一助になればと願っている。
(了)

―――――――――――――――――

【執筆者】玉居子精宏(たまいこ・あきひろ)
1976年、神奈川県生まれ。フリーランスの編集・ライター。
大学卒業後、出版社に勤務。
退社後は大東亜戦争中の
ベトナムに存在した日本の外地校「南洋学院」に注目し、
「仏印・ベトナムと日本のかかわり」をテーマに取材を続ける。
2005年、ホーチミン市(旧サイゴン)に移住。
現在は「ベトナム残留日本兵」への聞き取りにも力を注ぐ。

―――――下記サイトより引用――――――――――――

ベトナム秘史に生きる「日本人」
第1回 仏印進駐の知られざる物語
http://web.soshisha.com/archives/vietnam/2007_0802.php
第2回 植民地政府を解体した一夜の奇襲作戦
http://web.soshisha.com/archives/vietnam/2007_0823.php
第3回 ホー・チ・ミンの軍隊で戦った日本人
http://web.soshisha.com/archives/vietnam/2007_0906.php
第4回 現地校卒業生、命がけのベトナム残留
http://web.soshisha.com/archives/vietnam/2007_0920.php
最終回 源流は大東亜戦争にあり──戦後日本のベトナム支援
http://web.soshisha.com/archives/vietnam/2007_1004.php

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1937.8.13~第二次上海事変で
蒋介石から不法テロ攻撃を受けて日本は戦っているのに、
米英が援蒋するから蒋介石は日本からの和平交渉を拒否し続け、
テロ蒋介石側にテロ支援してるのが米英で、
その援蒋ルート遮断のために条約によって合法的に
日本軍は仏印に進駐しているわけで、
仏印進駐は国際法に則っての駐留なので批判される理由はありません。
権益地との距離が縮まっただけで経済制裁を発動して良いなんて、
どこの無法者の理屈なのでしょうか。
米英がテロ支援しなければ仏印進駐などしなくて良かったのです。

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仏印
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-136.html
仏印進駐を日本がおこなった経緯
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-132.html
終戦後、ベトナムに残って独立運動に参加した元日本兵600名の貢献
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-137.html
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