正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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『大東亜戦争への道』 中村粲(あきら)著 1990.12.8 (展転社) P84~87 より

◆門戸開放主義の提唱

「大東亜戦争」とは何か・・・。
これについて明確な定義を与へるために、
どうしても米国の「門戸開放主義」について述べなければならない所へ来た。
大東亜戦争の本質を解明する鍵がここにあるからだ。

1899年(明治32年)、米国務長官ジョン・ヘイは
英独露日伊仏6国に対して「門戸開放宣言」と呼ばれる通牒を発した。

その骨子は、中国に租借地や勢力範囲をもつ列国が、
その中の条約港や他国の既得権益に対して干渉しないこと、
またその勢力範囲に於て関税や鉄道運賃の面で
他国に不利な待遇を与へないこと。

を謳ったものである。

要するに、中国に於ける「勢力範囲の存続を前提として」
その中での通商上の機会均等の原則を提唱したものと云ってよいだらう。

既述したやうに、19世紀後半、
米国は西太平洋の奥深くまで「新しき国境線」を拡げたのであったが、
列強の清国争奪競争には参加する機会がなかった。

「門戸開放主義」は、清国に於ける列強の勢力範囲設定によって
阻害される惧れのある米国の利益を
確保すべく打出された新政策なのであった。

ところが、中国に於ける列国の勢力範囲の存在を前提とした上で
提唱された門戸開放主義は、やがて範囲を拡大し、変質してゆくことになる。
そしてそれこそが、
大東亜戦争に至る日米抗争の核心部分を形成してゆくのである。

これについて簡単に触れておかう。

門戸開放宣言の翌1900年、清国に義和団事変(北清事変とも云ふ)が発生し、
各国連合軍が出兵して清国分割の危機が激化するや、
ヘイ国務長官は第二次の門戸開放通牒を列国に送ったのであるが、
この第二次通牒は重大な新提案を含んでいた。

それは第一に「通商上の機会均等主義」を勢力範囲に留らず
中国全土について主張したこと、

第二に機会均等のみならず、
中国の「領土的・行政的保全」を提唱したことである。

このように門戸開放の適用範囲と内容が著しく拡張されたことについて、
極東外交史の泰斗ポール・クライドは、
「清国の領土保全が門戸開放と混同されるに至った。
門戸開放主義の定義を誤った結果、
不用意な論者は門戸開放と何ら関係ない行為を
門戸開放の破棄であると断ずる誤謬を犯すに至った」と論じたが
(『満洲に於ける国際争覇』)、
正に門戸開放主義をめぐる日米間の解釈の相違が、
極東に於ける日米の紛議と対立の中心的争点を形成して行ったのである。

◆「特殊」と「普遍」の争い

門戸開放主義をめぐる争点の核心は何であったか。

我が国の明治以来の大陸政策は、国運を賭した日清日露両戦役と、
その後に於ける粒々辛苦の努力によって大陸、
殊に南満洲に於て築き上げた諸権益と地位を擁護し維持することを以て、
その中心的課題としていた。

それらは特殊権益あるいは特殊地位と称されたのであった。
「特殊」とは地理的近接のみならず、
多分に歴史的感情を包含する用語と解すべきものである。

これに対して米国の門戸開放主義は、
支那全土に於て一律に通商上の機会均等と完全なる領土的
及び行政的保全を主張するものなるが故に、
必然的に「特殊地位」あるいは「特殊権益」の思想との間に
軋棒を生ずることになる。

尤も、ジョン・ヘイが門戸開放主義を提唱した時期に於ては、
支那に於ける「勢力範囲」の存在の方が「普遍」だったのであり、
門戸開放主義は
「普遍」原則中の「特殊」原則として唱道されたのであったが、
日米国力の消長の結果、遂にワシントン会議(1921~22年)を転機として、
「拡張解釈された門戸開放主義」が「普遍」原則となり、
我が国の主張する「特殊地位」が「特殊」原則
とみなされるに至ったのである。

特殊地位の保持を中心とする我が大陸政策と、
門戸開放主義を理念とする米国極東政策の戦いは、
必然的に我が国に不利である。

なぜならば、一方が国民的生存権を守らんとする
「持たざる者」の死活的主張であるに反し、
他方は自己の生活に余裕綽々たる「持てる者」の赤十字的主張であり、
何人の眼にも後者が前者より正しく、美しく映ずるからである。

「時によっては主義の擁護者たる栄誉を求めんとし、
また時によっては実質的利益に均霑を獲んとするのが真相なるに拘らず、
米国の対満活動の進退の殆ど悉くが門戸開放・機会均等と云ふ
美しき標識に結びつけられて説明され、
しかも多くの場合、第三者にあたかも自国が
被害者かの如き立場を感ぜしめるのは、畢竟米国の対満外交が
擬装に巧妙なるためである」とは、
満洲事変を門戸開放主義の違反であるとした米国の
対日非難に対する英修道博士の反論である(『満洲国と門戸開放問題』)。

先に述べた如く、門戸開放主義の内容が著しく拡大せられ、
変質を遂げるに至ったため、日米間に解釈の相違を生ずる結果となったが、
そのような解釈や理解の相違が完全に調整されぬまま、
この門戸開放主義は

1915年、所謂「二十一ヵ条問題」の際、
ブライアン国務長官の「不承認主義」を生み、

次いで1922年ワシントン会議に於ける「支那に関する九国条約」
の中心思想となり、

1931年の満洲事変では
米スチムソン国務長官の「不承認主義」に論拠を提供し、

支那事変では米国の日本非難の口実となり、

更に1941年日米交渉ではハル国務長官の硬直せる
原則尊重主義の中に組込まれ、

遂にはかのハルーノートに於ける米側要求となって
日米開戦を導くことになった。

なほ、戦後の東京裁判に於て、
日本が侵犯した国際条約の一つとして挙げられた九国条約が、
門戸開放を根本理念とするものであることは前述の通りである。

このやうに、門戸開放主義の形は時代や情勢と共に変じつつも、
その根本主義は極東に於ける日米間の最大争点として
遂に解決されぬままだったのであり、
日米50年の抗争の最深部に伏流し続けてきたのであった。

実に門戸開放主義こそは、半世紀にわたる日米関係の推移と大東亜戦争の
史的背景を考察する上で、最重要視点を提供する問題と云える。

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満州事変前~満州事変~支那事変まで
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満州地域における日本人や日本関係施設の被害
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2009/12/09 09:00|年表リンク用資料
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