正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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占守島の戦い

占守島に残る戦車の残骸と、その後ろに立つ「北千島関係戦没者の霊」の白い墓標
占守島に残る戦車

占守島(しゅむしゅとう)という島がある。

第二次大戦の日本軍を語る上で、
硫黄島やガダルカナル島同様、忘れてはならない島の一つだ。

昨年末、映画『硫黄島からの手紙』によって、
硫黄島という南洋諸島の小さな島は、世界的に知られる島となった。
硫黄島の戦いは、寡少な兵力を持ちながら、
日本本土への米軍の上陸を少しでも遅らせるため、
「5日間で占領」するつもりだった米軍の思惑を大きく裏切り、
1ヶ月も釘付けにし、日本軍を上回る犠牲を強いた戦いだった。

ところが、日本の最南端で行われたこの戦闘と同様、
占守島という最北端の島でもまた、
日本を守るための激しい戦いが行われたことを知る人は、
硫黄島のそれに比べて余りにも少ない。

それが「占守島の戦い」である。

◆終戦後、ソ連は侵攻していた。

北海道占領予定線
北海道占領予定線

この地図を見てほしい。

北海道をまっすぐ分断するこの線、
これがスターリンが企図していた、北海道占領予定線である。

スターリンは、かの悪名高きヤルタ会談の密約で、参戦の見返りとして
樺太と北方領土を占領する約束をルーズベルトから取り付けていた。

しかしルーズベルトの死後、トルーマンに北海道北部の占領を反対され、
日本の降伏後に火事場泥棒を行うべく、大軍を送り込んできたのである。

スターリンは、「占守島は一日で占領する」と豪語していた。

◆占守島

占守島は、北方諸島の最北端にある、
面積で言うと琵琶湖程度の小さな島である。
海抜200m未満の丘陵と沼地、草原が入り混じり、
樹高1mくらいの這松や榛の木が群生している。

夏は15度で濃霧が発生し、冬にはマイナス15度で猛吹雪になる気候。
東西20km、南北30kmあまりの小島だが、北はカムチャッカ半島、
東はアリューシャン列島と交差する要所で、日本領の最北端だった。

日本はアリューシャン列島を西進してくるアメリカ軍の侵攻に備えて、
戦車隊を擁する精鋭守備軍2万5000をここに置いていた。
すでにアリューシャン列島のアッツ島やキスカ島は、
米軍によって陥落していた。

占守島と日本周辺
占守島と日本周辺

◆ソ連軍の侵攻

ところが8月15日、日本はポツダム宣言を受諾、
日本軍の無条件武装解除が決定した。

占守島でもこの命令が伝わったとき、
兵士達は激しく動揺し、自決するものも出るほどだった。

しかし、長かった苦しい戦いが終わり、極寒の島から故郷に帰れる安堵から、
兵士達も笑顔を取り戻し、武器の処分など撤退準備が始まっていた。

しかし8月18日未明、事態が急変する。

ソ連軍が突如として侵攻してきたのである。
占守島の対岸にあるロシア領、
ロパトカ岬から長距離射程重砲の砲撃が始まり、
現場の通信所からは「海上にエンジン音聞こゆ」と急報が入った。

すでに戦争は終結したはずで、
兵達も家族の待つ故郷に帰れるつもりでいたし、武装も解除していた。
しかし、ここで自分達が戦わなければ日本はどうなるか。

師団長、堤不夾貴中将は一旦は解除した武装を急遽揃え、戦闘を決意した。

その後も現場の通信所からは
「敵輸送船団らしきものを発見!」
「敵上陸用舟艇を発見!」
「敵上陸、兵力数千人!」
と急報が相次ぎ、
不意を付かれた日本軍は間に合わせの準備で各個戦闘を余儀なくされた。
(ちなみにこの段階では、当然アメリカ軍の侵攻と考えられていた。)

◆砲兵隊の活躍

占守島部隊配置図
占守島部隊配置図

まずソ連軍の上陸地点である北部の
竹田浜にいた村上大隊が自衛戦闘を開始した。

当時の「水際撃滅作戦」の思想にしたがって沿岸に多数配備されていた、
野砲や重砲などの大砲が火を吹いた。

対岸のロパトカ砲台からも
ソ連軍が12センチカノン砲5門で砲撃してきたが、
日本軍の重砲2門がこれを20分で沈黙させ、
他にも敵船を13隻撃沈するなど、大活躍をした。

硫黄島では「米軍の艦砲射撃戦法に対しては効果が薄い」
とされた水際撃滅戦法だが、
火事場泥棒的に押し寄せてきたソ連軍には効果覿面だったのだ。

しかしその背後にはまだ200隻以上の艦船があった。
ソ連はこの小さな島に、2万もの兵力を動員していたのである。

◆戦車隊の活躍

圧倒的なソ連軍2万に対し、北部の村上大隊はわずか600名!
物量に飲み込まれ、全滅する部隊も続出、
ソ連軍の上陸を許してしまったころ、
濃霧の中で南部から時速60キロで駆けつけた援軍の戦車隊が間に合い、
日本軍はソ連軍を再び押し返すことに成功する。

この戦車第十一連隊は、「十一」を合わせて「士」、
通称「士魂部隊」と呼ばれた精鋭部隊で、
「戦車隊の神様」と言われた池田末男大佐が指揮していた。

池田大佐は、学徒兵には
「健康を第一とし、具合が悪くなったらすぐに申し出よ」と気遣い、
下着の洗濯など身の回りのことは全て自分で行なう、四児の父である。
硫黄島で言う栗林中将のような、部下に慕われる人格者だった。

集結した戦車隊の部下を前に、池田大佐は問うた。

「諸氏は今、赤穂浪士となり、恥を忍んでも将来に仇を奉ぜんとするか、
あるいは白虎隊となり、玉砕もって民族の防波堤となり、
後世の歴史に問わんとするか!?
赤穂浪士たらんとする者は、一歩前に出よ。
白虎隊たらんとするものは手を挙げよ!」

全員が、喚声と共に即座に手を挙げた。

池田大佐は、先頭に立って敵陣に突撃し、
戦闘中に敵の戦車砲によって戦死している。

◆航空機部隊の活躍

島に7機だけ残っていた航空機部隊も発進した。
魚雷はすでに処分してしまっていたため、
通常の爆弾や対戦車用炸裂弾を搭載して攻撃、わずか7機で、
輸送船2隻、駆逐艦2隻、艦種不明1隻撃沈、輸送船2隻撃破
という大戦果を収めた。

ソ連軍も10機ほど戦闘機を出撃させたが、
戦車隊の懸命な防空射撃はこれを寄せ付けなかった。

◆停戦

これら部隊の奮戦によって戦闘は次第に日本軍が優勢になり、
ソ連軍は海岸付近に追い詰められ、
あとわずかの攻撃で日本軍がソ連軍を殲滅という体勢にまでなった。

しかしそのとき、札幌の方面軍司令部から
「戦闘を停止し、自衛戦闘に移行」との軍命令が届き、
停戦交渉を開始せざるを得なくなった。

しかしソ連軍は停戦軍使を射殺するなど、一向に攻撃を収める気配が無く、
戦闘が続行される中、とうとう札幌より「停戦すべし」との命令がくだり、
ようやく21日に交渉が成立した。

最終的に武装解除がなされたのは24日だった。
日本では、8月15日を終戦の日として扱っているが、
その後も祖国を守る戦いは続いていたのである。

◆戦い終えて

ソ連軍の侵攻地における略奪、破壊はすさまじいものがあり、
特に女性に対する陵辱は陰惨を極めた。

ベルリンや満州では地獄絵図が繰り広げられた。
この占守島にも、缶詰工場で働く約400人の若い女子工員がいた。
戦闘のさなか、占守島司令部隊は、
島にあった独航船20数隻に女性を乗せることにした。

戦闘を終了したソ連兵が血眼になって女性を探したが、
女性達は無事に北海道に着いた後だった。

ソ連軍は北方領土を次々と侵食して行ったが、
北海道本島にはすでにアメリカ軍が進駐しており、
ソ連による北海道割譲の野望は砕かれた。

当初の計画通り、占守島が1日で占領されていたら、
北海道もソ連の手に落ちていたことは間違いない。

島を死守し、民間人を保護し、祖国を守って戦い抜いた男達は、
戦闘終了後も帰国できるはずが連行され、
極寒のシベリアで奴隷労働に従事し、多くが命を落とした。
(ちなみにこの明らかな国際法違反の
拉致虐待犯罪による被害者は200万、死者40万とされている。)

ようやく抑留から開放され、帰国した彼らを待っていたのは、
世間の無関心と反戦平和の風潮で、占守島のことを知る人は全くいなかった。

◆日本人が忘れてはならない島がある

この激闘で、日本軍の死傷者は700~800名におよび、
ソ連軍は3000名以上の死傷者を出したと伝えられる。

ソ連政府機関紙のイズベスチアは
「占守島の戦いは満州、朝鮮における
戦闘よりもはるかに損害は甚大であった。
8月19日はソ連人民にとって悲しみの日である」
と述べている。

しかし、この日は日本にとって、
大日本帝国軍における最後の大勝利をたたえるべき栄光の日であったのだ。

「世界が忘れてはならない島がある」

これは、映画『硫黄島からの手紙』のキャッチコピーだ。

しかし、硫黄島と同じく、
少なくとも日本人が忘れてはならない島は他にもある。
その筆頭がこの占守島である。

家族と国とを思い、侵略者から祖国を守って戦った彼ら戦士達の、
その勇気と信念を今後は決して忘れず、感謝の祈りをささげたい。

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『朱雀式』様より転載
http://www.suzaku-s.net/2007/07/shumushu.html

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北海道北部を我が物にしようというスターリンの野望に
樺太、千島の日本軍が立ちふさがった。

国際派日本人養成講座 Japan On the Globe(203) H13.08.19 より引用
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h13/jog203.html

■1.北海道北半分をソ連に■

1946(昭和21)年8月16日、終戦の日の翌日、
スターリンは米大統領トルーマンに対して、
釧路市と留萌市を結ぶ線以北の北海道の北半分に対して、
ソ連側の占領を認めるよう要求を送った。

同年2月11日に、米英ソの指導者が結んだヤルタ協定では、
樺太の南半分と千島列島がソ連に引き渡されるよう決められていたが、
これをさらに北海道北半分にまで拡げよというのが
スターリンの新たな要求だった。

樺太、千島列島、北海道北半分をソ連圏内に収めてしまえば、
オホーツク海はソ連の内海となり、太平洋への出口も自由になる。
このスターリンの野望により、
終戦後も激しい日ソ間の戦いが樺太と千島で展開されることになった。

■2.樺太国境での激戦■

終戦の日のわずか1週間前のモスクワ時間8月8日午後11時、
ソ連は佐藤駐ソ大使に対して宣戦布告文を手渡し、
その一時間後に攻撃を開始した。

翌46年4月まで有効であった日本との中立条約を一方的に破棄し、
さらにソ連に和平仲介を依頼していた日本政府に対して、
宣戦が布告されたのである。

樺太でも早速9日朝から、
国境線を超えてソ連軍の散発的な砲撃と、小部隊の越境偵察が始まった。

樺太はもともと日露混住の地であったが、
明治8(1875)年の樺太・千島交換条約により、
樺太はすべてロシア領、千島列島はすべてが日本領となった。

明治38(1905)年の日露戦争の勝利の結果、
北緯50度以南の南樺太が日本に割譲された。

南樺太の面積は四国の約2倍にあたり、
終戦時の人口は季節労働者を含めて約40万人であった。

南樺太への本格的な侵攻は10日から始まった。
戦車95両、航空機100機を持つ第56狙撃軍団が、
国境近くの小集落・半田を攻撃し始めた。

ここでは陸軍2個小隊と国境警察隊の約100名の兵力が防戦し、
大半が戦死したが、ソ連軍主力を一昼夜にわたって食い止めて、
ソ連軍には大きな衝撃を、日本全軍には異様な感激を与えた。

半田を落とした後、ソ連軍は国境から10キロほどの
日本軍の主防御地帯への攻撃を開始したが、
日本の歩兵第125連隊約3千人が森林や山岳を利用した永久陣地に
こもって頑強な抵抗を示し、ソ連軍に足踏み状態を続けさせた。

その間に老幼婦女子を列車で南に避難させ、
なおかつ主要な鉄橋を次々と爆破して、
自らの全滅を賭してもソ連軍南下を防ごうとした。

15日正午、ポツダム宣言受諾に伴い、
天皇の終戦に関する「玉音放送」が行われた。
国境沿いで戦闘中のため連絡のとれない第125連隊にも、
18日にようやく戦闘停止の師団命令が伝達され、
連隊は武器をソ連軍に引き渡した。

これまでの戦闘による被害は日本側死者568名、
ソ連側死者約1千名、戦車数十両破壊と推定されている。

日本側は邦人保護のため、ソ連軍に現地で留まるよう要請したが、
ソ連側は傲然と拒否して、南下を続けた。

■3.8月18日、ソ連軍、占守島強襲上陸■
 
日本のポツダム宣言受諾が確認された15日、
アメリカは即座に全軍に戦闘停止命令を発したが、
極東ソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥は、樺太南西岸の真岡、
および、千島列島北部の占領を命令した。

樺太ではまだ国境を越えたばかりであり、
千島には足も踏み入れない状態では、停戦後の占領は不確実である。
さらに継戦の必要があった。

千島列島北端の占守(しむしゅ)島には、
第91師団を中心に、約2万5千が防備に当たっていた。

カムチャッカ半島南端とはわずか10キロ余の海峡をはさみ、
ソ連極東から太平洋への出口を扼する戦略拠点であった。

ソ連軍は上陸用舟艇16隻など、計54隻の艦船、総人員8千3百余名で、
18日午前2時に占守島北端の国端岬に急襲上陸を図った。

まだ薄暗く霧深かったが、
霧中射撃の訓練も十分に積んでいた海岸配備部隊は、
即座に敵を発見し、野砲、速射砲などで猛烈かつ正確な砲火を浴びせた。

撃破された船艇は確認されただけで13隻以上に達し、
3千人以上のソ連軍将兵が海中に投げ出され、死傷者が続出した。

しかしこの混乱の中をソ連軍将兵は泳いで上陸し、反撃を試みた。
この後、島北端の四峰山を巡って、激しい攻防が繰り返された。

■4.ソ連の悲しみの日■

堤第91師団長は、優勢な師団主力を占守島北部に集中して、
一挙にソ連軍を水際に撃滅するという決心をし、準備を始めた。

しかし、それを知った方面軍参謀長から、
18日16時までに戦闘行動停止の命令が来た。

日本軍は軍使の長島大尉一行をソ連軍に送ったが、射撃されて死傷者続出し、
長島大尉も単身敵中に潜入して行方が分からなくなった。
日本側が反撃行動を停止しても、ソ連軍は攻撃を続行してきた。

19日朝、再度の軍使が送られ、午後正式な停戦交渉が始まった。
何度かいざこざがあった後、21日に正式な降伏文書の調印が行われた。

一日で占守島全島を占領し、
急いで千島列島を南下しようというソ連軍の計画は、
日本軍の抵抗により大きく狂ってしまった。

ソ連側の記録によると、
日本軍の死傷者は1,018名、ソ連側は1,567名であった。

イズヴェスチャ紙は
「占守島の戦いは、満州、朝鮮における戦闘より
はるかに損害は甚大であった。8月19日はソ連の悲しみの日である」
と述べてた。
激戦の行われた四峰山では、戦後、戦没者の記念碑が建てられた。

■5.真岡への侵攻■

北千島と共にワシレフスキー元帥が占領を命じた真岡は、
樺太の南西岸にあり、
3千トン級の船舶数隻を同時接岸できる港をもっているため、
ソ連軍は真岡を北海道上陸作戦のための使用兵力を
大陸から送り込むための中継基地として考えていた。

真岡はもともと人口2万の町であったが、
16日夕から本土への引き揚げが開始され、
19日夕刻までに6千人が出航していたが、
乗船を待つ避難民がまだ1万5千~8千人いた。

真岡への攻撃は20日早朝に始まった。
数隻の大型軍艦が町中に艦砲射撃を行い、その後、上陸したソ連兵は
山へ逃がれる人々を背後から機関銃や自動小銃で掃射し、
手榴弾を投げつけた。

引き揚げ船へ向かう女子供たちの上にも、容赦なく砲弾が降り注いだ。
厚生省資料ではこの時の民間人犠牲者は約千名としている。

■6.さようなら、これが最後です。■

この時の悲話の一つとして伝えられているのが、真岡電話局に残って、
通信維持の使命に殉じた9人の乙女たちである。
9人は引き揚げの指示を断って、ソ連軍の砲撃開始後一時間半に渡って、
市街の惨状を報告し続けた。
今も詩吟「氷雪の門」で伝えられる最後の放送は次のようであった。

内地の皆さん、稚内電話局のお友だちに申し上げます。
只今ソ連軍がわが真岡電話局に侵入いたしました。
これが樺太から日本に送る最後の通話となるでありましょう。
私たち9人は最後まで、この交換台を守りました。
そして間もなく、9人そろってあの世に旅立ちます。
ソ連軍が近づいております。足音が近づいております。
稚内の皆さん、さようなら、これが最後です。
内地の皆さん、さようなら、さようなら、、、

9人の乙女は青酸カリを飲んで自決した。
戦後建てられた稚内市の「乙女の碑」を
昭和43年に訪れられた昭和天皇と香淳皇后は深く頭を垂れて、
冥福を祈られ、次の御製、お歌を残された。

樺太に命をすてしをたやめの心を思えばむねせまりくる
からふとに露と消えたる乙女らの御霊安かれとただいのるぬる

■7.真岡近郊での戦闘■

真岡に付近にいた配属部隊は、
すでに16日に終戦に関する師団命令を受けて、
真岡市から東方2キロの荒貝沢に移り、
一部の兵の召集解除を始めていた所であった。
残っていた人数は3~4百名程度と推定される。

ソ連軍の急襲に、仲川大隊長は即座に17名の軍使一行を派遣したが、
一行は荒貝沢の出口付近でソ連兵に制止せられ、指示に従って、
武器を地上に置いた所を、突然自動小銃で乱射され、
ほとんど全員が射殺された。

21日朝から、ソ連軍は荒貝沢に接近して、戦闘が始まった。
荒貝沢は真岡から樺太最大の町豊原への途上にある。

その豊原は、樺太南部の交通の要路であり、避難民でごった返していた。
豊原に向かうソ連兵を一刻でも長く引きつけておくために、
日本軍将兵等は全滅覚悟で戦かった。
近くからの応援も得て、日本軍は23日2時頃まで抵抗を続けた。

その間、ソ連軍は航空機による豊原攻撃を行った。
豊原駅前広場には避難民数千人が集まっており、駅には大白旗を掲げ、
救急所の天幕には赤十字が明示してあるにもかかわらず、
爆弾5,6発、焼夷弾約20発の攻撃を受け、
駅前の避難民に100人以上の死者が出た。

■8.スターリン、北海道侵攻を断念■

トルーマンからは北海道北部のソ連占領を認めないという返事が
18日に届いたが、スターリンはすぐには応えず、ワシレフスキー元帥は、
8月25日までに樺太全島と千島列島の北部諸島、9月1日までには
千島列島の南部諸島と北海道北半分を占領するよう命令を出した。

占守島への強襲上陸が始まったのが18日早暁、真岡侵攻が20日早朝と、
ソ連軍はトルーマンの回答を無視して、
8月28日に予定されていた降伏文書正式調印
(実際には9月2日に延期された)までに、
北海道北部占領を既成事実化してしまう事を狙っていた。

22日には、ソ連軍が上陸を予定していた留萌沖で、
樺太からの引き揚げ民を満載した日本船3隻を潜水艦で攻撃した。
うち2隻は雷撃により沈没。
1隻は海軍の特設砲艦で、雷撃により船尾を破壊されたが、
浮上した潜水艦と砲撃を交わして、なんとか留萌港にたどり着いた。
この攻撃により民間人約1700名の死者が出た。

22日になって、ようやくスターリンはトルーマンあてに
北海道占領を断念する旨の回答を送り、ワシレフスキー元帥は
「連合国との間に紛争や誤解が生じるのを避けるために、
北海道方面に一切の艦艇、飛行機を派遣することを絶対的に禁止する」
という電報を打った。

22日は、千島列島北端の占守島の日本軍との間で
降伏文書の調印が行われた翌日で、
それ以南の諸島はほとんどが手つかずの状態であり、
また樺太では真岡近郊での戦闘の最中であった。

日本軍の頑強な抵抗により、
ソ連としては樺太と千島列島の占領を優先するためには、
もはや北海道をあきらめざるをえない状況に追い込まれたのである。

■9.樺太、千島の占領完了■

24日早朝、アリモフ少将が戦車隊を従えて、豊原に到着し、
日本軍の施設をすべて接収し、樺太庁の行政も停止させた。
これにて樺太の占領は完了した。

千島列島に関しては、24日以降、順次、
日本軍将校を同船させて小型艦艇数隻からなる偵察部隊が南下し、
各島で日本軍の降伏を受け入れながら占領を続けていった。

択捉、国後については、当初は
「アメリカ軍がやってくるはずだから我々は手をつけずにかえるのだ」
と言って、上陸しなかった。

この二島はかつてロシア領になった事はなく、日本固有の領土であった。
したがって、ヤルタ協定でソ連に「手渡される」
ことになっていた千島列島にこの2島が入っておらず、
日本本土の一部として、
アメリカ軍の占領地域に入っていたと解釈されても不思議はなかった。

しかし、アメリカ軍が来ていないと知ると、ソ連軍は8月28日に択捉島に、
9月1日に国後島に上陸した。

さらに千島列島に含まれず北海道根室半島の延長である歯舞諸島、
色丹島にも、ソ連軍はそれぞれ9月1日、4日に占領した。
歯舞諸島占領が行われた9月4日は、降伏文書正式調印の二日後である。

■10.終戦後の戦死者と民間人犠牲者■

樺太および、千島の戦いでは、日本軍将兵約3千名、
民間人約3700名の命が奪われた。
このほとんどが8月15日の終戦以降のソ連軍侵攻によるものである。

さらに捕虜にされた樺太約1万8千名、千島約5万名の日本軍将兵は
本土に帰ると騙されて、シベリアなどに送られた。

スターリンは14日の時点では捕虜の
ソ連領移送は行わないと言っていたのだが、
北海道占領を断念したとトルーマンに回答した21日の翌日、
日本軍捕虜50万人のシベリア移送の極秘命令を出している。

ロシアの研究者の多くが、これは北海道占領断念の代償だったとしている。
もし、樺太、千島での日本軍の頑強な抵抗がなければ、
北海道北部はソ連に占領されていた可能性がある。

そうであれば満州や樺太で起きた民間人虐殺が
北海道でも繰り返されただろう。

そして、北海道北部は北朝鮮や東ドイツのように
共産主義独裁政権が支配していたであろう。
樺太と千島の防衛に一命を捧げた日本軍将兵3700人と、
その後のシベリア抑留に苦しんだ約7万の将兵に
心からの追悼と感謝を意を捧げたい。
2009/12/08 09:00|年表リンク用資料
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