●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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大東亜会議 ~ 独立志士たちの宴
昭和18年末の東京、 独立を目指すアジア諸国のリーダー達が史上初めて一堂に会した。 欧米のアジア植民地支配の歴史 http://www.nicovideo.jp/watch/sm1639598 ■1.戦時中の東京に集まったアジア諸国代表■ 1943(昭和18)年の末、アジアの独立した諸国代表が、 史上初めて一堂に会する機会を持った。 それは1943年11月5、6の両日、東京で開かれた 大東亜会議(The Assenblyof Greater East-Asiatic Nations)である。 事実、これ(大東亜会議)は歴史を創造した。 この大東亜会議にビルマ代表として出席したウー・バー・モウ首相の自伝 「ビルマの夜明け」の一節である。 昭和18年は年明け早々にガダルカナルからの撤退、 5月にはアッツ島守備隊玉砕があり、日本は守勢に立ち始めていた。 そうした状況の中で、満洲国、中華民国、タイ、フィリピン、ビルマ、 そして自由インド仮政府のそれぞれの代表者が東京に駆けつけ、 一堂に会した。 会議の前々日、午後4時から開かれた茶会はきわめて感動的な空気を つくりだしていて、「広いアジアそのものを一つのものとして とらえる思いに満たされていた」 「われわれは、へだてられた人間としてではなく、 すべての国民を包含した単一の歴史的家族として寄り集まっていた。 こんなことはかつてなかったことだ」とバー・モウは自伝に記している。 ■2.「戦う目的について堂々たる主張がなければならぬ」■ 昭和18年4月に中華民国大使・重光葵は、 「戦う目的について堂々たる主張がなければならぬ」として、 次のような意見書を東条首相に提出した。 日本の戦争目的は、東亜の開放、アジアの復興であって、 東亜民族が植民地的地位を脱して、各国平等の地位に立つことが、 世界平和の基礎であり、その実現が即ち、戦争目的であり、 この目的を達成することをもって日本は完全に満足する。[1,p47] 東条はこれに共鳴して、この政策実行のために重光を外相とした。 重光は汪兆銘政府と積極的に話し合い、全面和平の後、 日本軍の撤退を約する日華新協定、日華同盟条約を結んでいた。 重光はこの「新政策」をアジア全域に拡大しようと考えたのである。 これは英米対日本という戦争の構図を、 欧米植民地主義対アジア被抑圧民族という構図に 劇的に塗り替えてしまうものであった。 東条首相はアジア諸国の独立と交換に、人的物的協力を取り付けよう、 という意図で、重光の意見書に飛びついた。 東条を動かしたもう一つの要因は、昭和天皇の意思であった。 東条が中国への「新政策」を報告すると、昭和天皇は大変に喜ばれ、 その実現の監視役として弟宮の三笠宮を駐支派遣軍司令部に 転任する許可を与えられた。 大東亜会議の構想に対しても、おおいに関心と支持を示された。 重光は「東条首相が、何処まで徹底して新政策の意味を 理解していたかは疑問であるが、 彼が新政策の実行を指導したのは、 主としてこれが天皇の意思に副(そ)うものと思ったからである。」 と述べている。 東条は半年ほどの間に、満洲国、フィリピン、タイ、インドネシアを 精力的に歴訪し、各地の指導者と独立に関する協議を進めた。 その仕上げが11月の大東亜会議であった。 ■3.「自主独立」と「万邦共栄」■ 11月5日午前10時、各国代表が国会議事堂の中の会議場に入場。 大東亜会議は東条首相の代表演説から始まった。 東条は米英のアジア侵略の歴史をもとに、 「洵(まこと)に米英両国の抱く世界制覇の野望こそは、 人類の災厄、世界の禍根」とし、 日本に対しても経済断交をもって屈従を迫ったので、 自存自衛のため開戦のやむなきにいたった経緯を述べた。 そして「大東亜各国は正に其の自主独立をば尊重しつつ、 全体として親和の関係を確立すべきもの」と 「万邦共栄」の理想を謳いあげた。 「自主独立」の言葉は、 この後、各代表の演説で繰り返されるモチーフとなる。 続いて、中華民国代表の汪兆銘が演台に立った。 長身、ハンサムな汪は、にこやかな笑顔と柔らかい声で聴衆を魅了した。 汪は孫文の大アジア主義を継承する国民党の中心人物の一人であり、 日本側の誘いに乗って蒋介石政権と袂を分かち、新政府樹立を図ったが、 その後は日本の政策が二転三転して、何度も苦汁を飲まされた。 重光葵の新政策によって、汪はようやく誠意ある態度に接したのであった。 国父・孫(文)先生が日本に対し、切望致しました所の、 中国を扶(たす)け、不平等条約を廃棄するということも、 既に実現せられたのであります。 重慶(蒋介石政権)は他日必ずや、 米英に依存することは東亜に反逆することとなり、 同時に国父・孫先生に反逆することとなるべきを自覚し、 将士及び民衆も亦悉(ことごと)く翻然覚醒する日の 到来することは必定たるべきことを断言し得るのであります。 この時が、悲劇の政治家・汪兆銘の数少ない栄光の檜舞台であった。 このわずか1年後、かつて凶漢に撃たれた時の古傷がもとで 汪兆銘は死去する。 その後は「漢奸」(売国奴)と非難され、 彼が覚醒を呼びかけた親英米派の蒋介石政権も、 結局はソ連を後ろ盾とする共産党勢力に駆逐されて、 中国大陸の悲劇は果てしなく続いていく。[a] ■4.タイ・ピブン首相の仮病■ 初日、午前中の最後の演説は、タイのワンワイタヤコーン殿下であった。 本来ならピブン首相が参加すべき所だが、健康上の理由で来日できず、 その代理として参加したのが、 タイの近代化を推し進めたチュラロンコン大王の孫で、 駐英大使を務めたワンワイタヤコーン殿下であった。 しかしピブンの病気というのは仮病で、 日本の戦況が不利に傾きつつある状況の中で、 このような会議に首相が参加して積極的に肩入れしては、 いざ日本敗戦の際に自国の立場を悪くしてしまうからであった。 開戦当初は、日本の威力を利用して、 カンボジアやラオスから旧領土を取り戻したが、 戦況悪化にしたがって、タイは巧みに舵を切り替えつつあった。 タイは周辺諸国が英仏に植民地化される中で、 巧みな外交で独立を維持してきた。 大東亜会議ではワンワイタヤコーン殿下は 福々しい笑顔を絶やすことなく、 独立国タイの歴史と主権を再三にわたって強調したが、 その陰にはタイなりの「自主独立」への苦闘があったのである。 もっとも日タイの関係は打算ばかりではなかった。 戦後、殿下が国連議長に就任した際には、 日本の国連加盟に努力してくれたのだった。[b,c] ■5.張景恵の爆弾発言■ 午後は、満洲国総理・張景恵の演説から始まった。 張は日露戦争直前、満洲に南下して暴虐の限りを尽くしたロシア人を 激しく憎み、日露戦争が始まるとロシア軍の後方部隊を度々襲撃して、 日本軍に協力した。 この頃はすでに72歳、飄々とした風格で、 満洲国の役人が「日本人が実権を握っていて、何もできない」とこぼすと、 「日本人ほど便利な民族はいないではないか。 権威さえ与えておけば、安月給で夜中まで働く」と諫めたという。 張は満洲国建設以来10年の驚嘆すべき発展を自画自賛した。 たとえば鉄道は6千キロが1万2千キロに延び、 初等学校児童が50万人から250万人と急増した。 130万人もいたアヘン常用者がほとんど姿を消した等々[d]。 この発展を支援した日本を持ち上げておいた上で、 次のような爆弾発言をした。 此の際私は、本年1月第81議会の施政方針演説に於いて、 東条首相閣下が 「満洲国の今日の発展充実は取りも直さず 大東亜全域の明日を示すものである」と叫ばれたことを、 共感と感激とを以て、想起せざるをえないのであります。 昭和12年、関東軍参謀長に就任した東条は、 軍部が満洲国の政治に内側から介入して実務を掌握する 「内面指導」というやり方で成功したと、自負していた。 張景恵は東条の発想では、 大東亜共栄圏とは全アジアの満洲国化にほかならない、 と明言したのである。 東条の発想には日本国内にも異論が強く、 たとえば昭和17年秋に大東亜省設置が閣議にかけられた時、 東郷茂徳外相は英国のインド省のような植民地管理機構とも 受け取られかねない大東亜省によってアジアを 統轄しようというのは逆効果で、アジア諸国に対しても、 外務省が欧米と同じ次元で対等につきあっていくのが筋だ、 と大激論を展開したことがある。 こうした点で東条は国家的外交的構想力を欠く、 植民地官僚型タイプの軍人だったようだ。 ■6.ラウレルの感涙と警戒■ 次に登場したのが、フィリピン大統領ホセ・パシアノ・ラウレルだった。 ラウレルはアメリカに留学した際に多くの人種偏見や差別に触れて、 熱烈な民族主義者となった。 同時に次男を日本の陸軍士官学校に入学させるほどの親日派であった。 この時期のフィリピンのエリートたちは、 岡倉天心の「東洋の理想」や新渡戸稲造の「武士道」に 非常に感銘を受けていたのである。 ラウレルは演説の冒頭で、茶会での感激をこう述べた。 (東条)閣下の茶会を催された室に入りますや、私は感涙、 頬を伝ふると共に、鼓舞せられ、且つ霊感を受けたのでありまして、 私は其の時、「十億の東洋人、十億の亜細亜人よ、 何故に御身等の多くは米英に、殊更に米英両国に斯くも 圧迫支配されたのであろうか」と叫んだのであります。 その上で東条の「大東亜各国の自主独立を尊重」という言葉を引用し、 日本は単に自国民のみならず、 大東亜全民族の為に戦いつつあるのであり・・・ 日本は独り自己のみが生存し、東亜の同胞が滅び苦しむことを 幸福とするものでないことは、私の十分承知して居る所であります。 ラウレルは「大東亜」の理念には深く共鳴しつつも、 東条の覇権主義的な姿勢には警戒を隠さなかったのである。 後にラウレルは親交を結んだ村田省三・駐比大使に語気鋭く、 こう語ったという。 日本はなぜ、かつて台湾総督、児玉源太郎が台湾を統治した方法に則り、 力をもって強圧するのではなく、人情をもって、 フィリピン民衆に臨まなかったのであるか。 これが日本の失敗といわずしてなんであろうか。 ■7.我々を救い出してくれたのは■ 1日目の最後の演説を行ったのが、ビルマのバー・モウ首相だった。 英仏に留学した際に宗主国の豊かさを目の当たりにし、 搾取されている母国を救おうと独立運動を志した。 反英暴動の扇動者として投獄された事もあるが、 進攻してきた日本軍に迎えられ、 大東亜会議の3ヶ月前に独立を許されたビルマの元首かつ首相となった。 バー・モウは、こう言い切った。 我々多くの者が長い間彷(さまよ)い、 救いを求めて与えられなかった荒野から、 我々を救い出してくれたのは、東洋の指導者国家日本であります。 バー・モウの熱弁のうちに会議は高揚し、一日目を終えた。 ■8.「全世界の被抑圧民族の憲章」■ 2日目の午前10時、東条により「大東亜共同宣言」の採択が提案された。 宣言は、英米による大東亜への搾取隷属化を批判した上で、 大東亜各国は相提携して大東亜戦争を完遂し大東亜を米英の 桎梏(しっこく、足かせと手かせ)より解放して 其の自存自衛を全うし左の綱領に基づき、 大東亜を建設し以て世界平和の確立に寄与せんことを期す。 とし、道義に基づく共存共栄、互いの自主独立と伝統の尊重、 経済と文化の交流を綱領とした。 大東亜戦争を「日本の自存自衛」の戦いから 「大東亜各国の自存自衛」の戦いに位置づけたのである。 各代表による5分程度の意見陳述の後、 全員一致で大東亜宣言の採択が採択された。 この後、バー・モウが英国はインドの資源をもって 東洋の侵略を行っており、 「自由なるインドなくして自由なるアジアは存在しない」として、 自由インド仮政府首班スバス・チャンドラ・ボースの発言を求めた。 ボースは英国のケンブリッジ大学に学んだが、 その後反英独立の闘士となり、投獄されること11回に及んだ。 マレーシアに進攻した日本軍が英軍から投降したインド兵を組織して 「インド国民軍」を編成すると、その指導者として迎えられたのである。 [e] ボースは「大東亜共同宣言」が 「全世界の被抑圧民族の憲章たらんことを祈る」と名調子で 議場全体を魅了し、大東亜会議の閉幕を飾った。 ■9.「日本には、良い政治家がいない」■ アジア各地で自主独立を目指す指導者達が一堂に会したこの歴史的会議に 参加した後、ボースはこう語った。 日本という国が偉いことは認める。良い兵隊がいるし、いい技術者もいて、 万事結構である。 ただし日本には、良い政治家(グッド・ステーツマン)がいない。 これは致命的かもしれぬ。 この時に、わが国にボースやバー・モウ、ラウレルたちと 肝胆相照らすほどのグッド・ステーツマンがいたら、 どうなっていただろう。 昭和天皇の御心を体してアジア諸民族の自主独立を 心から願う国家指導者がいたら、どうなっていたか。 おそらくアジア諸民族は心から日本と共に立ち上がり、 インドは独立して英国をアジアから駆逐し、蒋介石政権も覚醒して 中国戦線を終結させることができたかもしれない。そうなれば アジアの志士たちの夢、各国が平和のうちに自主独立を謳う真 の「大東亜共栄圏」が実現していた可能性があった。 終戦の詔書には次のような一節がある。 朕(昭和天皇)ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル 諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス (文責:伊勢雅臣) |
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