正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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1945年2月17日、米軍の上陸前の攻撃が行われている硫黄島
1945年2月17日、米軍の上陸前の攻撃が行われている硫黄島

日の丸を掲げることに命をかけた日本人

硫黄島 摺鉢山陥落

http://www5c.biglobe.ne.jp/~odah/i_think/WW2/ioujima10.htm

1945年2月21日、摺鉢山の攻撃はすでに最終段階に入ろうとしていた。
朝8時になると40機の戦闘機がやってきて
ロケット砲弾、機関銃弾、ナパーム弾を撃ち込んでいった。

8時半になると地上部隊の攻撃にバトンが渡された。
それとともに摺鉢山からの攻撃も激しくなった。

ヘンリー・ハンセンとドン・ルールは摺鉢山の麓の塹壕で隠れていた。
そこにわずか2メートルしか離れていない場所に手榴弾が落ちてきた。
ルールは「気をつけろ、手投げ弾だぞ」と叫び、それに覆いかぶさった。
ルールは死んだ。片腕が吹き飛ばされ、胸に血だらけの腔ができていた。

この物語でもたびたび引用させていただいている「地獄の戦場」の
著者であるリチャード・ホイーラーもこの日の戦闘で負傷した。
砲弾の穴のなかに臼砲弾が飛び込んできたのだ。
ホイーラーは顎を砕かれておびただしい出血をしていた。
手当てを受けていると、さらに砲弾が落ちてきた。
ホイーラーのふくらはぎの筋肉は二つに割かれ、
肉が切断されて切れ切れにぶら下がっていた。

戦闘を指揮するウェルズ中尉とほかの4人がかくまっている穴の中にも
臼砲弾が落ちてきて、ウェルズ中尉は両足に被弾した。
彼は衛生兵からモルヒネ剤を投与してもらってそのまま指揮を続けたが、
消耗が激しくなり、傷口には否応なく砂が入り込んできたため、
二回目のモルヒネを打ってもらい指揮を続けていたがじきに交代した。
米軍は発見できる掩蔽壕にたいして火炎放射器を使用した。

日本兵が死ぬや、小隊のものは、肉の焼ける臭いが鼻に来るのを感じた。
そして兵士の一部は後日、状況上これは今までかいだ臭いの中
もっとも芳しい香りというふうに思われたと語っている。
(「地獄の戦場」リチャード・ホイーラー)

また遅れていた戦車隊も到着し、掩蔽壕にたいして砲撃が加えられていった。
このため日本軍の攻撃もだんだん沈黙していった。
この日、摺鉢山の麓まで米軍は占拠していた。
午前2時過ぎに日本軍の夜襲がはじまった。
しかし米軍の砲弾と一斉射撃の前に多くの日本兵が死んでいった。

2月22日の戦闘はすでに終盤になっており、
米軍は摺鉢山の壕をひとつひとつしらみつぶしにライフル銃や手投げ弾、
火炎放射器で攻撃するだけになっていた。
日本軍の組織的な抵抗はなくなっていた。
しかしこの日の戦闘までに摺鉢山攻撃を担当していた第五海兵師団は
2057人の死傷者を出していた。

翌23日、摺鉢山は陥落した。この日は朝から斥候が派遣された。
摺鉢山の頂上にのぼり、星条旗をたてる役目である。
ときどき日本兵の洞穴があったが、抵抗もなく頂上に達した。
しばらく抵抗はなかった。
米軍の一人は火口のなかにむけて小便をするものもいた。

その後、一人の日本兵が穴から這い上がろうとするのが見えた。
登り始めてからはじめてみる日本人だった(死者を除いて)。
米軍は三発ライフル銃を撃つと、その日本人は穴に落ちていった。

それから手榴弾がバラバラと投げられてきた。
海兵たちも銃撃や手榴弾で戦闘をしたがすぐに終わってしまった。

その際にも別の海兵隊員たちが長いパイプを見つけ出し、
任務どおりに星条旗をしばりつけて山頂に立てられた。
「地獄の戦場」のリチャード・ホイーラーは10時20分と書き、
「硫黄島 勝者なき戦闘」のビル・D・ロスは10時31分と書いている。
R・F・ニューカムの「硫黄島」では時間はかかれていない。
このときの星条旗掲揚の写真が海兵隊誌の写真師ルー・ロウェリーによって
撮られているが、あまり劇的な写真ではなかった。
有名な写真、および映像はこの2時間後に撮られたものである。

ロウェリーが写真を撮った瞬間、二人の日本兵が出てきた。
愛国心に燃え、星条旗を引きづりおろそうとしたのだろう。
一人は海兵隊員に向かって発砲したが、それた。
この日本兵は撃たれて火口に転がり落ちていった。
もう一人は刀をふりかざして旗を揚げているグループに突撃してきたが
やはり撃たれて転落していった。

その後、手榴弾が海兵隊員たちに降り注いできた。
海兵隊員たちは火炎放射器で穴のすき間を攻撃し、爆発物で穴をふさいだ。
このとき写真師ロウェリーに向かって手榴弾が投げられたため、
ロウェリーは斜面をすべり落ちた。
このためカメラは壊れたが、フィルムは無事だった。

この日の午後、最後に攻撃された洞穴を調べた海兵隊員たちは
90メートル近くも山中に掘られていることを確認した。
そして150人以上もの日本兵たちの死体が見つかった。
ほとんどは手投げ弾を腹のあたりにもち、ピンを外して死んでいたという。
書類から前夜(22日)、約300人の日本兵が脱出したことがわかった。
しかし米海兵隊員たちの脇をすりぬけて本部へ合流した者たちは
20名くらいしかいなかった。
大半は元山飛行場の争奪戦のなかで死んだようである。

この脱出組みのことがR・F・ニューカムの「硫黄島」には
次のように書かれている。
映画「硫黄島からの手紙」でも形をかえて取り入れられているし、
映画を観た人はどの場面か想像もつくであろう。
日時は2月24日の出来事である。

東集落近くにあった井上海軍大佐の司令部に、
日本軍の海軍大尉と、数名の兵隊がたどりついた。
血でよごれた服を着た大尉は、摺鉢山から脱出してきた旨を報告した。
井上大佐はどなりつけた。
「この裏切者め。なぜここにきた。何という恥さらしだ。
お前は、卑怯者で脱走兵だ」
軍規のもとでは脱走兵はただちに断罪される。
「いま、その首をたたき落としてやるからそう思え」と井上は叫んだ。
日本刀をひき抜き正眼に構えた。
大尉は無言で地面にひざまづき首をたれていた。
しかし副官がそれを押しとどめ、井上の手から刀をもぎとった。
大佐は涙をかくそうと振りむいて、「摺鉢山は陥落した」とつぶやいた。
その従兵であった小安利一兵曹は大尉を治療室につれていって、
傷の手当を受けさせた。
(R・F・ニューカム「硫黄島」)

小さい旗ながらも艦船からは双眼鏡などで確認された。汽笛が鳴らされた。
足に怪我をして後方移動させられたウェルズ中尉は、
最初の旗の重みを知っており、
海兵隊で共有するために代わりの大きめの旗を差し向けた。
AP通信のジョー・ローゼンソールは2月19日から上陸して、
日々撮影したフィルムをエルドラド号でグアム行きの輸送用飛行艇に
積み込み手続きをしていた。

23日もエルドラド号から上陸し、山頂に登るべく決意していた。
すでに最初の星条旗は掲揚されていたが、何かを撮りたくて出かけた。
ほかに、海兵隊所属のカメラマンが一緒に登った。
頂上では新しい星条旗が運び込まれ、長めのパイプに結び付けられていた。
6人の海兵隊員たちがこの新しい星条旗を岩場にたてるとき、
写真家たちはそれぞれカメラや映像を回しはじめた。

ローゼンソールはスピグラ
(アメリカ製で政府機関や新聞社などに広く使われたベストセラー機である)
のシャッタースピードを1/400にして露出は
F8とF11の中間で撮った。
これが有名な星条旗掲揚の写真となり、
1945年度のピューリッツァー賞に輝くことになる。

また海兵隊所属のカメラマン・ゲノーストは撮影機をまわして、
これも有名な映像となっている。
写真の中の6名を割り出すのに数日費やした。
特にアメリカ本国では熱狂的に誰なのかを知りたがった。
最初に旗を掲揚したのではないにもかかわらず、
ローゼンソールの劇的な写真のせいで英雄視された6名の名前は
アイラ・ヘイズ、フランクリン・R・スースリー、マイケル・ストランク、
ジョン・ブラドレー、リーン・ギャグノン、ハーロン・ブロックである。

このうち、スースリー、ストランク、ブロックの3名は
後の硫黄島戦闘で死ぬことになる。
また、映画や本「父親たちの星条旗」でも描かれているように、
ヘイズとギャグノンは二人ともアル中になって死んでしまった。
映像を記録したゲノーストも自分の撮影したフィルムを見ることもなく
戦死することになる。

ところで最初に摺鉢山に登ったものは40名であったが、
硫黄島の戦いが終わるまでに無傷だったのはたったの4名である。
残りは戦死するか負傷して戦場から離脱した。

摺鉢山が23日に陥落してからも、
まだ星条旗をめぐる日本軍の抵抗があったようである。
これは他の本では書かれていないが、
「十七歳の硫黄島」(秋草鶴次)に書かれている。

二月二十四日朝、米軍は八時出勤だから、
それまでには現状保持の状態にまで繕っておかなくてはならない。
八時少し前には、整地して足跡などを消し現状に復す仕事をして、
中に入ろうとした。
すっかり明るくなった摺鉢山を望んだ。
するとそこには星条旗ではない、まさしく日章旗が翻っていた。
よくやった。日本軍は頑張っているのだ。
この島のどこよりも攻撃の的になっている場所なのに。
ご苦労さん、と自然に涙が出た。懸命に摺鉢山を死守している勇士がいる。
故郷の人に見せてやりたい。
今頃俺の田舎では、雲雀がわが巣に戻って、安眠の最中であろうに。
その鳥にも劣る我は今、食するのも、ねぐらも、
親兄弟と離れ離れの生活を強いられている。
敵は前方のみではない、周囲四方が敵である。
否、味方になるものは何ひとつない。まず自分に勝たなければならない。
弱音を吐いたら、それまでである。
第二には飢えに堪えることだ。何がなくても水があれば生きられるという。
しかしその水をいま天が恵んでくれない。
しかし死ぬわけにはいかないと、自分に暗示をかけていた。
同じ境遇の人が、摺鉢山では夜を日についで眼前の敵と悲惨な激戦を展開し、
ついに日の丸を掲げた。涙なくして見られぬ光景であった。
(秋草鶴次「十七歳の硫黄島」)

その日の丸も米軍に気づかれ、米兵が穴の中に手榴弾を投げ入れ、
火炎放射器を使った。そして星条旗を立てた。
日本軍がまだ潜んでいる壕からは薄紫色の煙が穴から出ていた。
そのまま二十四日は星条旗が掲げられていた。
夜になった。照明弾が夜空に輝き始めた。
地下にいる日本軍からは、軍用犬の鳴き声も聞こえていた。
硫黄島では軍用犬も使われた。
そして映像「硫黄島決戦」(日本クラウン株式会社)では
軍用犬の死体も映っている。この戦争の犠牲者は人間だけではなかった。
翌25日、この日も摺鉢山の旗に異変があった。
これも文献としては「十七歳の硫黄島」(秋草鶴次)にのみ書かれている。

二月二十五日早朝。いつの間に取り替えたか、
摺鉢山にはまたもや日の丸の旗が朝日を浴びて、泳いでいた。
まぶしいほど綺麗な懐かしい旗だ。
これは、いまだ頑張っている守備隊員がいるあかしである。
あれほどの攻撃を受けたのに、よく頑張っているな。しばらく見入っていた。
 あの旗はどこにあったのだろう。不思議な思いだ。
それに、あの旗は昨日とは違う。昨日の日章旗より、少し小さい四角だ。
もしかすると、急拠作製した血染めの日章旗かもしれない。
日の丸が茶色く見える。影を見ると泣いていた。
拝む想いで眺めていた。
その後の戦闘で、摺鉢山の旗が日章旗にかわることはなかった。

1945年2月19日、摺鉢山付近の海岸に向かう米軍
1945年2月19日、摺鉢山付近の海岸に向かう米軍

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硫黄島守備隊の市丸海軍少将が、米ルーズベルト大統領に宛てた抗議文。
(硫黄島陥落後、手紙を託された部下の遺体から発見された。)

現代口語訳

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日本海軍 市丸海軍少将が「フランクリン・ルーズベルト」君に書を宛てる。

私は今、我が戦いを終えるに当たり一言貴方に告げることがある。

日本国が「ペルリー(ペリー)」提督の下田入港を機とし、
広く世界と国交を結ぶようになった時より約百年の間、
国の歩みは困難を極め、自ら欲しないにも関わらず
日清戦争、日露戦争、第一次欧州大戦(第一次世界大戦)、
満州事変、支那事変を経て、不幸にも貴国と交戦することになった。

そして貴方は我々を、あるいは好戦的国民であるとし、
あるいは黄禍論を用い貶め、あるいは軍閥の独断専行であるとする。
思いよらぬもの甚だしいと言わざるを得ない。

貴方は真珠湾攻撃の不意打ちを理由に
対日戦争(大東亜戦争)唯一の宣伝資料とするが、
そもそもにおいて日本国が自滅を免れるため
この行動に出る他ないという程の
窮地にまで追い詰めたような諸種の情勢というのは、
貴方の最も熟知するものであると思う。

畏れ多くも日本天皇は皇祖皇宗建国の大詔に明らかなように、
養成(正義)、重暉(明智)、積慶(仁慈)を三鋼(秩序)とする
八紘一宇(天下を一つの屋根の下に)の文字によって表される皇謨に基づき、
地球上のあらゆる人間はその分に従い、
その郷土においてその生を生まれながらに持たせ、
それによって恒久的平和の確立を唯一の念願になさったのに他ならない。

これは「四方の海皆はらからと思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ
(意訳:人は皆家族であるのに、なにゆえ争わねばならないのか)」
という明治天皇の御製(天皇の詩)は
貴方の叔父セオドア・ルーズベルト閣下が感嘆したものであるが故に、
貴方もよく熟知しているのは事実であろう。

私たち日本人はそれぞれ階級を持ち、また各種の職業に従事するけれども、
結局はその職を通じ皇謨、
つまりは天業(天皇の事業)を翼賛(補佐)しようとするのに他ならない。
我ら軍人は交戦を以て天業を広めることを承るに他ならない。

我らは今、物量に頼った貴方の空軍の爆撃、艦隊の射撃の下、
外形的に後ろへ退くもやむなきに至っているが、
精神的にはついに豊かになり、心地ますます明朗になり、
歓喜を抑えることができなくもある。

この天業翼賛の信念が燃えるのは、日本国民共通の心理であるが、
貴方やチャーチル君は理解に苦しむところであろう。

今、ここに貴方達の精神的貧弱さを憐れみ、
以下の一言を以て少しでも悔いることがあればいいと思う。
貴方達のなすことを見れば、
白人、とくにアングロサクソン(アメリカとイギリスの主な民族)が
世界の利益を独占しようとして、
有色人種をその野望実現のための奴隷として扱おうということに他ならない。

この為に邪な政策をとり有色人種を欺き、
所謂悪意の善政を行うことで彼らを喪心無力化しようとしている。

近世に至り日本国が貴方達の野望に抗し有色人種、
特に東洋民族を貴方達の束縛より解放しようと試みたところ、
貴方達は少しも日本の真意を理解しようと努めることなく
ただ貴方達に有害な存在となし、
かつて友邦とみなしていたにも関わらず仇敵野蛮人であるとし、
公然として日本人種の絶滅を叫ぶに至った。
これは決して神意にかなうものではないだろう。

大東亜戦争によって所謂大東亜共栄圏が成立し、
所在する各民族はわれらの善政を謳歌しているから、
貴方達がこれを破壊することが無ければ、
全世界にわたる恒久的平和の招来は決して遠くは無いだろう。 

貴方達はすでに成した。
充分な繁栄にも満足することはなく数百年来にわたるあなた方の搾取から
免れようとするこれらの憐れむべき人類の希望の芽を
どうして若葉のうちに摘み取ろうとするのか。

ただ東洋のものを東洋に返すに過ぎないではないか。
あなた方はどうしてこのような貧欲で狭量なのか。

大東亜共栄圏の存在は少しも貴方達の存在を脅威するものではない。
むしろ世界平和の一翼として世界人類の安寧幸福を保障するものであって、
日本天皇の真意はまったくこれに他ならない。
このことを理解する雅量(器)があることを希望してやまないものである。

翻って欧州の事情を観察すると、
また相互無理解に基づく人類闘争が
いかに悲惨であるかを痛感し嘆かざるをえない。

今ヒトラー総統の行動の是非を云々するのは慎むが、
彼の第二次世界大戦開戦の原因が第一次世界大戦の終結の際、
その開戦責任の一切を敗戦国ドイツに押し付け、
その正当な存在を極度に圧迫しようとした貴方達の処置に対する
反発に他ならないということは看過できない。

貴方達の善戦によって力を尽くしてヒトラー総統を倒すことができたとして、
どうやってスターリン率いるソヴィエトと協調するのか。
世界を強者が独専しようとすれば永久に闘争を繰り返し、
ついに世界人類に安寧幸福の日はないだろう。

あなた方は今世界制覇の野望が一応、まさに実現しようとしている。
あなた方は得意げに思っているに違いない。
しかし貴方達の先輩ウィルソン大統領はその得意の絶頂において失脚した。
願わくば私の言外の意を汲んでその轍を踏まないでほしい。

市丸海軍少将



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【硫黄島】忘れがたき壮絶な戦地/英霊に感謝と鎮魂


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平成25年(2013年)4月14日、安倍総理大臣が硫黄島を訪問。
米軍が作った滑走路の下に眠る日本兵に対して跪く安倍総理。
http://www.youtube.com/watch?v=I90_DhcAZzs
2013_4_14_安倍総理_硫黄島にて
2009/11/29 09:00|年表リンク用資料
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