●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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終戦~日本人 引き揚げの悲劇
1945年8月9日、ソ連は日ソ中立不可侵条約に違反し、 満州や北方領土などに攻め込み、日本侵略を開始した。 ソ連は日本から日米の終戦交渉を依頼されていたにもかかわらず、 日ソ中立不可侵条約を一方的に破棄し、 原爆によって虫の息ほどになった日本に対し、宣戦を布告したのだ。 そして、ソ連軍は、その頃手薄になっていた満州や樺太に上陸し、 略奪・強姦・殺戮など悪逆・暴虐の限りを尽くした。 さらに、ソ連は、100万人以上の日本人を拉致し、シベリアに強制連行し、 強制労働をさせた所謂『シベリア抑留』で50万人以上を大虐殺した。 原爆の日は学校やマスコミで毎年大きく取り上げるが、 「ソ連による侵略の日」は殆ど無視されている。 満州残留孤児も、北方領土問題も、 「8・9ソ連侵攻」から始まっていることを日本人は忘れてはならない。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 ベール脱ぐ引き揚げ史、福岡の旧二日市保養所、看護婦が体験を証言 1997/05/13, 西日本新聞 終戦直後、中国大陸から引き揚げ途中に旧ソ連軍兵士らから 暴行を受け妊娠した女性の堕胎処置が行われた福岡県筑紫野市武蔵の 「旧二日市保養所」跡地で十二日、供養が行われた。 当時、看護婦として同保養所で働いた村石正子さん(71)が初めて参列し、 自らの体験を涙ながらに語り、隠れた引き揚げ史を証言した。 「博多引揚援護局史」などによると、 旧二日市保養所は一九四六年三月に開設。 患者総数は三百八十人、閉鎖までの治療日数は 延べ七千九百八十一日を数えた。 堕胎は、当時非合法だったこともあり、保養所の歴史はあまり語られず、 引き揚げ史の中でも実態は詳しく分かっていない。 日赤看護婦だった村石さんは、四六年、同保養所で約三カ月勤務。 「堕胎は違法と知っていたが、 心ならず妊娠した女性は故郷にも帰れなかった。 ただ救いたい、という一心だった」と当時の様子を証言した。 処置後、「悔しい」という言葉を残して亡くなった十七歳の師範学校女生徒の ことなどを思いだすにつけ、村石さんは自分の過去に苦しめられたが、 五十年余りがたち「歴史の一ページとして証言しなければならない」 と思ったという。 (以下略) 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 【双方向プラザ】看護婦22人眠る「慈蔵尊」参りたい 2003/07/27, 産経新聞 ■“ソ連軍暴行より死”悲劇忘れてはならぬ (一部抜粋) ≪命日に有志、靖国の提灯供える≫ 「事件」は終戦後の昭和二十一年六月に起きました。 その年の春、ソ連軍(当時)の支配下にあった 満州・新京(長春)の長春第八病院で、 三十四人の従軍看護婦が仕事を続けていました。 そこへ、数キロ離れたソ連陸軍病院から 「三人の看護婦を派遣せよ」という命令が届きます。 約一カ月後にはもう三人、そしてさらに三人と、 看護婦の派遣命令が続きますが、誰一人として帰ってきません。 しばらくたって、瀕死の重傷を負った看護婦の一人が 長春の病院のドアをたたきました。 ソ連軍の病院に派遣された一人が、決死の思いで逃げ帰ってきたのです。 「わたしたちは看護婦の仕事ではなく、 ソ連軍将校の慰みものにされているのです。 もう、人を送ってはいけません…」。 その看護婦が息もたえだえに語ったのは衝撃的な事実でした。 そしてその二日後の六月二十一日、悲劇が起きました。 長春の病院に残っていた二十二人の 看護婦が青酸カリを飲んで自ら命を絶ったのです。 遺書には、「ソ連軍に暴行されるよりは死を選びます」 という内容のことが書かれていました。 看護婦たちは、ソ連軍の非道ぶりに“死の抗議”をしたのでしょう。 看護婦たちの遺骨は当時の婦長さんの手によって、日本へ帰りました。 (以下略) 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 「読者手記 53編」 文藝春秋・特別号 1983.9掲載 昭和20年8月20日頃であったろうと思う。 …(略)… ぶきみという程静かな日が続いていたので、 新京の街で何が起こっていたのか解らなかった。 そんな日病院の玄関で大声で騒ぐ声にびっくりして、 私は板でくくりつけた足をひきずりながら玄関に出て見て驚いた。 12、3の少女から20ぐらいの娘が 10名程タンカに乗せられて運ばれていた。 それは、まともに上から見ることの出来る姿ではなかった。 その全員が裸で、まだ恥毛もそろわない幼い子供の恥部は紫に腫れ上がって、 その原形はなかった。大腿部は血がいっぱいついている。 顔をゆがめつつ声を出しているようだが、聞き取れない。 次の女性はモンペだけをはぎとられて下(しも)の部分は前者と同じだが、 下腹部を刺されて腸が切口から血と一緒にはみ出していた。 次の少女は乳房を切られて、片眼を開けたままであったから 死んでいるのかも知れない。次もその次も、ほとんど同じ姿である。 「ああ女とはこんな姿でいじめられるのか・・・」。 次々に病室に運ばれて行く少女を眼のあたりに見て、 その非情なソ連兵の動物的行動に憤りを感じると同時に、 道徳も、教養も平和な中にのみあるのであって一つ歯車が狂ってしまったら、 そんなものは何の役にもたたないのだ。 …(中略)… 1週間私はこの病院にいて毎日毎日この光景を見て、 その無残、残酷さに敗戦のみじめさを知った。 銃でうたれて死ぬのは苦痛が一瞬であるが、 自分の体重の3倍以上もある毛むくじゃら男数名に なぶられた少女や娘等はどんな苦しみであったろうか。 …(中略)… また女医さんに聞いたことだが、 「10名に2、3名は舌を噛んで死んでいるんです。 また何名かの方は胸を圧縮されて息絶えている人がありました」 と語られたことを想い出す。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 樺太の真岡は人口2万の町だった。 8月16日夕から本土への引き揚げが開始され、 19日夕刻までに6千人が出航していたが、 乗船を待つ避難民がまだ1万5千~8千人いた。 真岡への攻撃は20日早朝に始まった。 数隻の大型軍艦が町中に艦砲射撃を行い、 その後、上陸したソ連兵は山へ逃がれる人々に 背後から機関銃や自動小銃を撃ち、手榴弾を投げつけた。 引き揚げ船へ向かう女子供たちの上にも、容赦なく砲弾が降り注いだ。 厚生省資料ではこの時の民間人犠牲者は約千名としている。 樺太の真岡電話局には電話交換手の9人の若い女性たちが、 引揚げの指示を断ってまで、 市街の惨状を報告し続けるために現地に残留していたが、 そこにもついにソ連軍が侵入。 9人は引き揚げの指示を断って、ソ連軍の砲撃開始後一時間半に渡って、 市街の惨状を報告し続けた。 だが、そこにもついにソ連軍が侵入・・・ 「氷雪の門」で伝えられる最後の放送は次のとおり。 「内地の皆さん、稚内電話局のお友だちに申し上げます。 只今ソ連軍がわが真岡電話局に侵入いたしました。 これが樺太から日本に送る最後の通話となるでありましょう。 私たち9人は最後まで、この交換台を守りました。 そして間もなく、9人そろってあの世に旅立ちます。 ソ連軍が近づいております。足音が近づいております。 稚内の皆さん、さようなら、これが最後です。 内地の皆さん、さようなら、さようなら」 9人の乙女は青酸カリを飲んで自決した。 【樺太1945年夏 氷雪の門】ソ連の北方領土侵略を描いた映画 http://dai.ly/x13ad74 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 満州の対ソ戦 (一部抜粋) 居留民後退の問題 それでも9日には在留邦人の後送に着手し一般邦人を 先に送り出そうとしたが、既に生活拠点を有する民間人は 直ちに乗車などできない状況にあり、 満州は内地よりも安全と考えられていたことも手伝って 遅々として進まなかった。 一刻の猶予もない状況下ではやむを得ず、緊急集合が容易な 軍人・軍属の家族を主体に一番列車に乗せ、 10日 0140には新京駅を出発した。 だがこのことは後に、関東軍は軍人家族を最初に後退させた、 として非難されることとなった。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 根本博・陸軍中将 終戦後もソ連軍は満州や中国での侵攻を止めず、 在留邦人や日本軍を苦しめた。 駐蒙軍司令官だった根本博・陸軍中将は武装解除を拒否して 日本軍守備隊に戦闘を命じ、ソ連軍の攻撃を食い止めながら、 居留邦人4万人を乗せた列車と線路を守り抜いた。 根本博・陸軍中将 ![]() 以下、Wikipediaより抜粋 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E6%9C%AC%E5%8D%9A 1944年11月、駐蒙軍司令官に就任。 翌1945年8月のソ連軍の満州侵攻は、8月15日の日本降伏後も止まらず、 同地域に滞在していた同胞4万人の命が危機に晒されていた。 ソ連軍への抗戦は罪に問われる可能性もあったが、 生長の家を信仰していた根本は『生命の実相』より そのような形式にとらわれる必要はないと考え、 罪を問われた際は一切の責任を負って 自分が腹を切れば済む事だと覚悟を決め、 根本は「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。 これに対する責任は一切司令官が負う」と、 日本軍守備隊に対して命令を下した。 途中幾度と停戦交渉を試みるもソ連軍は攻撃を止めず、 部下将兵は必死にソ連軍の攻撃を食い止めながら、 すさまじい白兵戦をも乗り越え、 更に八路軍(中国共産党軍の前身)からの攻撃にも必死に耐え、 居留民4万人を乗せた列車と線路を守り抜いた。 8月19日から始まったソ連軍との戦闘はおよそ三日三晩続いたものの、 日本軍の必死の反撃にソ連軍が戦意を喪失した為、 日本軍は8月21日以降撤退を開始、最後の隊が27日に万里の長城へ帰着した。 出迎えた駐蒙軍参謀長は 「落涙止まらず、慰謝の念をも述ぶるに能わず」と記している。 一方、20日に内蒙古を脱出した4万人の日本人は、 三日三晩掛けて天津へ脱出した。 その後も引揚船に乗るまで 日本軍や政府関係者は彼らの食料や衣服の提供に尽力した。 引揚の際、駐蒙軍の野戦鉄道司令部は、 引き揚げ列車への食料供給に苦心していたとされる。 8月17日頃から、軍の倉庫にあった米や乾パンを先に、 沿線の各駅にトラックで大量に輸送していた。 また、満州では関東軍が8月10日、居留民の緊急輸送を計画したが、 居留民会が短時間での出発は大混乱を招く為に不可能と反対し、 11日になってもほとんど誰も新京駅に現れず、 結局、軍人家族のみを第一列車に乗せざるを得なかった。 これが居留民の悲劇を呼んだと言われる。 尚、前任の下村定陸軍大将が最後の陸軍大臣になった事を受けて8月19日、 北支那方面軍司令官を兼任する。 1946年8月、根本は最高責任者として、在留邦人の内地帰還はもちろん、 北支那方面の35万将兵の幅員を終わらせ、最後の船で帰国した。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 満州の終戦時の状況 http://bit.ly/2jKisKZ http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-753.html 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 1945年(昭和20年)8月、牡丹江事件(ぼたんこうじけん) 1945年(昭和20年)8月、満州国東満省(現中華人民共和国黒龍江省) において日本人避難民680人が ソ連軍機甲師団と暴民の襲撃により虐殺された事件。 生存者は20人とされている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A1%E4%B8%B9%E6%B1%9F%E4%BA%8B%E4%BB%B6 ━─━─━─━─━─━―━―━―━―━―━―━ 1945年(昭和20年)8月12日、麻山事件(まさんじけん)。 太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月12日、 満州国鶏寧県麻生区(現中華人民共和国黒龍江省鶏西市麻山区)において、 日本の哈達河開拓団が避難中にソ連軍と満州国軍反乱兵によって 攻撃されて集団自決した事件。421人が死亡した。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6 ━─━─━─━─━─━―━―━―━―━―━―━ 1945年8月13日、小山克事件 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E5%85%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6 1945年8月13日に満州国吉林省で南満州鉄道京図線が 九台駅と吉林駅の間の小山克で武装した暴民に襲われ、 日本人避難民が強姦・虐殺され集団自決した事件。 1945年8月9日未明に突如としてソビエト連邦が満洲国に侵攻した。 満州国を守る関東軍は米英を相手とする南方戦線に兵力を抽出されたため 弱体化していたため、関東軍は総司令部を新京から南満州の通化に移し、 満州南部と朝鮮半島を最終防衛ラインとして ソビエト軍の侵攻を食い止める作戦行動に移った。 8月10日正午前に関東軍は避難民の移送を決定した。 第一列車は8月10日午後6時出発予定 (実際には遅れて8月11日午前1時40分出発)としたため、 当初の輸送順序である民・官・軍の家族の順ではなく、 連絡のつきやすい軍人の家族を第一陣として 避難の誘い水とすることとなった。 8月11日昼までに軍・官関係者の家族を中心とした約38,000人が 18本の避難列車で移送された。 この第一陣の多くの避難民は平壌での難民生活中に 飢えや伝染病で亡くなることとなる。 8月11日午後には民間の避難民も新京駅に集まるようになった。 8月13日になると、満州国皇室は新京から南満州の臨江を目指して 特別列車で脱出することとなった。 8月13日午前1時50分に満州国皇室一行490名を載せた特別列車は 新京を出発した。 特別列車に次いで14時10分に出発した2番列車が 事件に巻き込まれることになる。 新京を出発した避難列車が九台駅に到着すると鎌などで 武装した暴民たちが待ち構えていた。 列車警備の満人鉄道公安官達は、避難民に暴力が振るわれない限りにおいて 暴民の狼藉を黙認したため、暴民達は客車に乱入して避難民から 金品を奪っていった。 その後、九台駅を出発した列車はいくつかの小さな駅を 停車することなく素通りした。 夕刻に吉林盆地に抜ける小山克トンネルに差し掛かろうとしたところ、 小銃で武装した暴民たちが線路を焼き払い待ち構えていた。 列車がやむなく停止すると、暴民たちは客車になだれ込み、 鉄道公安官の拳銃を奪い取るとともに縛り上げた。 そして、暴民たちは日本女性たちを車外に連れ出して輪姦しだした。 暴民たちは抵抗するものは射殺し、女性が抱いている赤ん坊たちは 窓から放り投げて殺害した。 このため、100人以上の女性たちが崖から谷底に飛び降りて自決した。 避難民たちは、事件を知らせるために次々と使者を送りだしたが、 暴民たちによってトンネルにたどりつく前に射殺されていった。 唯一、谷底に転落した13歳の少女だけが負傷しながらも 5キロ先の駅にたどり着いて事件を知らせることができた。 知らせを受けた関東軍第一方面軍所属の吉林駐屯中の 松下部隊から池内少佐率いる一個大隊600名が列車で派遣され、 8月14日午前5時半ごろに事件現場に到着した。 日本女性を抱きながら眠り込んでいた暴民たちは、 日本軍の到着を知るや否や、逃走を試みるか女性たちを楯に立てこもった。 だが、日本軍によって次々に射殺され、 射殺を免れたものたちも皆捕縛された。 日本軍は暴民を鎮圧すると、直ちに線路を復旧し、列車は通化に到着した。 避難民たちは通化の避難民収容所に収容されたが、 再び通化事件に巻き込まれることになった。 ━─━─━─━─━─━―━―━―━―━―━―━ 1945年8月14日、葛根廟事件(かっこんびょうじけん)。 1945年8月14日、満州国興安総省の葛根廟 (現在の中華人民共和国内モンゴル自治区 ヒンガン(興安)盟ホルチン右翼前旗葛根廟鎮)において 日本人避難民約千数百人(9割以上が婦女子)が ソ連軍によって攻撃され、1,000名以上が虐殺された事件。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E6%A0%B9%E5%BB%9F%E4%BA%8B%E4%BB%B6 ━─━─━─━─━─━―━―━―━―━―━―━ 1945年8月20日、真岡郵便電信局事件 大東亜戦争末期の樺太の戦いで、 真岡郵便局の電話交換手が集団自決した事件。 当時日本領だった樺太では、ソ連軍と日本軍の戦闘が、 1945年8月15日の玉音放送後も続いていた。 真岡郵便局の電話交換手(当時の郵便局では電信電話も管轄していた)は、 疎開(引き揚げ)をせずに業務中だった。 8月20日に真岡にソ連軍が上陸すると、 勤務中の女性電話交換手12名のうち10名が局内で自決を図り9名が死亡した。 真岡郵便局事件、また北のひめゆり(事件)とも呼ばれる。 自決した電話交換手以外に残留していた局員や、 当日勤務に就いていなかった職員からも、ソ連兵による爆殺、 射殺による死者が出ており、真岡局の殉職者は19人にのぼる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%B2%A1%E9%83%B5%E4%BE%BF%E9%9B%BB%E4%BF%A1%E5%B1%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6 ━─━─━─━─━─━―━―━―━―━―━―━ 1945年(昭和20年)8月22日、三船殉難事件(さんせんじゅんなんじけん)。 第二次世界大戦末期(日本の降伏文書への調印予告、 および軍隊への停戦命令布告後)の1945年(昭和20年)8月22日、 北海道留萌沖の海上で樺太からの婦女子を主体とする引揚者を乗せた 日本の引揚船3隻(小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸)が ソ連軍の潜水艦による攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸が沈没して 1,708名以上が犠牲となった事件を指す。三船遭難事件とも呼ばれる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%88%B9%E6%AE%89%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6 ━─━─━─━─━─━―━―━―━―━―━―━ 1945年8月27日、敦化事件。 敦化事件(とんかじけん)とは1945年8月27日に 満洲国吉林省敦化(現吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)で ソ連軍によって連日に渡り集団強姦され続けていた 日満パルプ製造(王子製紙子会社)敦化工場の 女性社員や家族が集団自決した事件。 日満パルプ事件とも呼称される。 事件の現場となった日満パルプ製造敦化工場は、 1934年に王子製紙が敦化県城南門外牡丹江左岸(敦化郊外5キロ)に 設立した工場である。 工場に隣接して設置された社宅地は、 高さ4.5mの煉瓦壁でおおわれた2万坪の敷地内に壮麗な造りの社宅と 福利厚生のためのクラブなどが設けられており、 日本人職員とその家族260人が暮らしていた。 また、敦化市内には2,000人の関東軍守備隊の駐屯地があり、 終戦当時には敦化北部の山地に築城し ソ連軍の侵攻を食い止めようと備えていた。 1945年8月9日未明に突如としてソビエト連邦が満洲国に侵攻し、 敦化に近い東部国境付近では関東軍・満洲国軍がソ連軍と交戦していたが、 工場や敦化市内では満人や朝鮮人の態度も変わることなく 治安が保たれたままであった。 8月15日に敗戦を迎えた後も工場の満人や朝鮮人従業員は 変わることはなかったが、敦化市内では満人や朝鮮人の一部による 略奪・放火・日本人女性への暴行が行われるようになった。 8月17日、敦化郊外で陣地を築いていた敦化守備隊は工場に 資材を取りに来て初めて終戦を知った。 8月19日、ソ連軍が敦化市内に進駐してきたため、 敦化守備隊は降伏し武装解除された。 8月22日、ソ連軍は日満パルプ製造敦化工場に進駐した。 ソ連軍は社宅に侵入すると1時間以内に社宅の一角を引き渡すよう要求した。 ソ連兵はすぐにホテル・レストランを兼ねた壮麗な造りのクラブに 惹きつけられていった。 ソ連兵はクラブ従業員の女性2人を引きずり出すと ジープで社宅から連れ去った。 数時間後に拉致された女性がぼろぼろになって社宅に帰ってきたが、 もう一人の若い娘は強姦された後に牡丹江に流され行方不明となった。 8月25日、ソビエト軍は男性全員を集合させると10キロほど離れたところに ある飛行場の近くの湿地に連行し、婦女子は独身寮に集められた。 170人ほどの婦女子は15,6人ずつに分けられ監禁されることとなった。 夜になると、ソ連兵300人あまりが独身寮に移ってくるとともに、 短機関銃を乱射する頻度が夜が更けるにつれて増えていった。 女性たちは夜が明けることを祈りながら一晩中恐怖と戦っていた。 8月26日夜明け、酒に酔ったソ連兵たちは短機関銃を空に乱射しながら 女性たちが監禁されている各部屋に乱入すると、 女性たちの顎をつかみ顔を確認しながら、 気に入った女性たちを連れて行こうとした。 女性たちは金品を渡したり、許しを懇願したが聞き入れられず、 次々に引きずり出されていった。 各部屋からは女性たちの悲痛な叫びが溢れたが、 ソ連兵は構うことなく短機関銃を乱射し続けていた。 このため、女性たちは頭を丸坊主にしたり、顔に墨を塗るなどしたが、 ソ連兵による強姦は朝になっても収まることはなく、 部屋に乱入すると女性たちの胸部をまさぐるなどして 気に入った女性たちを何度も連行していった。 社宅と塀を隔てた工場に残されていた男性社員たちは、 社宅の異変を察知するとソ連兵の監視を掻い潜り塀を乗り越え 社宅に潜入したが、厳重な警戒が布かれている独身寮には 近づくことができなかった。 ソ連兵たちは狼藉を続けるうちに女性たちの部屋の廊下に 監視兵を置くようになったため、 御不浄や食事もままならないようになった。 女性たちは自身のおかれている状況や絶え間ない銃声から、 すでに男性社員たちは皆殺しにあったのではないかと考えるようになった。 ソ連兵による女性たちへの昼夜に渡る暴行は8月27日の深夜になっても 収まることはなかった。 このため、28人の婦女子が集められていた部屋では 自決をするべきか議論がなされるようになった。 議論中にもソ連兵の乱入があり、隣室からも女性たちの悲鳴や 「殺して下さい」などの叫び声が聞こえてきたため、 自決することに議論が決した。 隠し持っていた青酸カリが配られ全員が自決を図り、 23人が死亡、5人が死に切れずに生き残った。 他の部屋ではソ連兵に引きずり出されるときに 剃刀で自殺を図った女性もいた。 8月27日早朝、ソ連兵が集団自決を発見し、 将校に報告されると各部屋にはソ連兵の見張りが付けられ、 女性たちは外を見ることを禁じられ、遺体はどこかへ運び去られた。 責任を問われることを恐れたソ連軍将校によって、 これ以上の暴行は中止されることとなった。 その日のうちに女性たちは男性社員が 野宿させられている飛行場のそばの湿地に連行された。 その後、8月末までは湿地や飛行場で待機させられ、 シベリアに連行される日本軍部隊から密かに食料や毛布などを 分けてもらうなどしていたが、 牡丹江対岸の熊本県開拓団の小学校に遷されると、 毎日のようにソ連軍による略奪が行われ、 女性を裸にしてまであらゆるものを奪い去っていった。 一切のものを奪われたため、男性社員たちは街に出て 材木運びなどの労働に出て僅かな賃金を稼ぐことで命をつなぐこととなった。 また、ソ連へ戦利品として工場設備から列車の線路にいたる 全てのものを持ち去るための解体作業を昼夜に渡って行わされた。 その後、敦化市内の旧軍人会館に移転させられたが、 冬が訪れると飢えと寒さと発疹チフスのために87人が死亡した。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A6%E5%8C%96%E4%BA%8B%E4%BB%B6 ━─━─━─━─━─━―━―━―━―━―━―━ 1946年2月3日、通化事件。 通化事件(つうかじけん)とは、 1946年2月3日に中国共産党に占領されたかつての満州国通化省通化市で 中華民国政府の要請に呼応した日本人の蜂起と その鎮圧後に行われた中国共産党軍と朝鮮人民義勇軍南満支隊(李紅光支隊) による日本人及び中国人に対する虐殺事件。 日本人3000人が虐殺されたとされている。中国では二・三事件とも呼ばれる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%8C%96%E4%BA%8B%E4%BB%B6 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 消えた満州人―支那の陰謀 http://s03.megalodon.jp/2009-0625-0841-18/chinachips.fc2web.com/repo4/047058.html 戦後満州引き揚げ 故郷への道 http://s03.megalodon.jp/2009-0625-0839-53/nozawa22.cocolog-nifty.com/nozawa22/2007/12/nozawa22_1.html 戦争におけるソビエト軍(ロシア)の残虐性 http://s03.megalodon.jp/2009-0625-0838-27/www.tamanegiya.com/rosianozanngyakusei.html 終戦前後の満洲における惨劇_1 http://s01.megalodon.jp/2009-0625-0848-48/www.kikokusha-center.or.jp/resource/ioriya-notes/mondaishi/sangeki-1.htm 終戦前後の満洲における惨劇_2 http://s03.megalodon.jp/2009-0625-0849-15/www.kikokusha-center.or.jp/resource/ioriya-notes/mondaishi/sangeki-2.htm 「従軍看護婦の集団自殺」堀喜美子著 http://s01.megalodon.jp/2009-0625-0706-06/www.geocities.co.jp/NeverLand/8947/aoba.htm 敗戦による朝鮮半島引揚げの惨事 http://s03.megalodon.jp/2009-0625-0916-30/mirror.jijisama.org/rekisi2.htm 朝鮮半島から日本人が日本に帰る(引き上げ)時に、 多くの日本人女性が レイプされた http://s03.megalodon.jp/2009-0625-0845-33/ameblo.jp/campanera/entry-10075588939.html 引揚民間人を襲った略奪・暴行・殺戮の嵐 http://s01.megalodon.jp/2009-0625-0847-24/current-affair.blog.so-net.ne.jp/2006-03-03-1 「非武装」とはこのことだ! 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 尼港事件 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-105.html 昭和2(1927)年3月24日の南京事件 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-107.html 漢口事件 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-108.html 済南事件 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-109.html 通州事件 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-121.html アメリカ軍やオーストラリア軍の蛮行 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-162.html 終戦~日本人 引き揚げの悲劇 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-154.html 終戦~日本人 引き揚げの悲劇_2 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-155.html 満州の終戦時の状況 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-753.html 敗戦後の惨状 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-575.html 満州事変3記事 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-724.html 満州事変についての大東亜戦争後の証言 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-710.html 東京大空襲 ~ その投下方法 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-153.html おもな不法抗日事件 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-630.html |
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