正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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終戦~日本人 引き揚げの悲劇_2

「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 1989年 原書房

惨憺たる北鮮引揚げ

日本の連合国への降伏により、日本軍は38度線を境に、南鮮はアメリカ軍、
北鮮はソ連軍へ降伏するように指令された。
南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでにほとんどすべて引揚げたが、
北鮮では約31~2万の日本人がそのまま残っていた。

もともと北鮮に住んでいた27~8万と、
満州から戦火をさけて逃げてきた4万人である。
北鮮にはいってきたソ連軍は、満州におけると同様、略奪、放火、殺人、
暴行、強姦をほしいままにし、在留日本人は一瞬にして
奈落の底に投じられることになった。

白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生は
ソ連軍のトラックで集団的にら致された。
反抗したもの、暴行を阻止しようとしたものは容赦なく射殺された。

「各地の凄惨な記録は読むにたえない」と、
『朝鮮終戦の記録』の著者森田芳夫氏は書いている。
それらは主としてソ連軍兵士によって行なわれたことであり、
また占領地の住民の保護にあたるべき
ソ連軍当局の責任であることは明らかだが、
ソ連兵に触発された朝鮮人の暴行も多かったし、
ソ連軍を背景に行政権を掌握した北鮮の人民委員会も、
その責任はまぬかれない。

たとえば3000名中、その半数が死亡した富坪の避難民の情況を
調査するため派遣された咸鏡南道人民委員会検察部、
李相北情報課長自身、次のように報告している。
…かれら(在留日本人)の大部分は、途中において衣類、
寝具等を剥奪され、零細なる金銭と着衣のみにて
咸興市内に殺到したるも…
われわれは36年間の日帝の非人道的支配に反発し、
立場が逆になった日本人全般に対する民族的虐待という、
ごく無意識のうちにファッショ的誤謬をおかしたことを
告白せざるを得ない。…
駅前に雲集せる三千余名の避難民を空砲と銃剣を擬して、
即時咸興市外脱出を強要し、市外に追放した。

その結果、断え間なく降りつづいた雨中の川辺と路傍に野宿し、
極度の困憊(こんぱい)と栄養不良を激成し、…
富坪避難民の宿舎は実にのろわれたる存在である。
それは実に煤煙と、あまりの悲惨さに涙を禁じ得ない飢餓の村、
死滅の村なり。

襲いくる寒波を防ぐため戸窓はたらず、かますで封鎖され、
白昼でも凄惨の気に満ちた暗黒の病窟なり、
それは避難民を救護する宿舎ではなく、
のろいを受くる民族のまとめられた死滅の地獄絵図にして、
老幼と男女を問わず、蒼白な顔、幽霊のように
うごめくかれらは皮と骨となり、足はきかず、
立つときは全身を支えることもできず、ぶるぶるふるい、
子供たちは伏して泣す。

無数の病める半死体はうめきながらかますのなかに仰臥しており、
暗黒の中にむせびつつ、……
そこに坐しているのは実に地獄の縮図以外の何ものにもあらず…
(森田芳夫『朝鮮終戦の記録』)

一日も早く引揚げさせてくれという要望はソ連軍当局によって無視され、
日本人はただただ餓死を待つよりほかない状況に追い込まれた。
こうして在留日本人社会では「38度線さえ越えれば」というのが
唯一の悲願となった。

やせこけた身体に乞食のようなボロをまとい、
山を越え谷を歩き強盗にささやかな所持品を奪われ、歩哨の銃弾にたおれ、
そして時には泣き叫ぶ子供の口をふさいで死にいたらしめるまでして、
人々は南にたどりついたのである。
38度線は朝鮮民族にとっては何十万の血の流れた同胞争闘の
境界線となったが、20万を超える日本人にとってもまた、
血と恨みにいろどられた『天国と地獄の境』となったのである。

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『戦後引揚げの記録 新版』若槻泰雄著(1995年10月発行)

荒れ狂う婦女暴行

ソ連兵の日本婦人への暴行は、すさまじいの一言に尽きる。
それが12、3歳の少女であろうと、70歳近い老婆であろうと、
そして、人前でも白昼でも、また雪の上であろうとも、
そういうことは全く頓着しなかった。

樺太の場合同様、女性たちは丸坊主になり顔に墨をぬり
男装して難を逃れようとしたが、
彼らは1人1人胸をさわって女であることを確かめると引き立てていった。

南満へ疎開した人達が、終戦後また新京の自分の家に帰る途中、
公主嶺の駅で進駐してきたソ連軍の列車とばったり出くわしたとき
起こった事件は「誰知らぬ者もない事実だ」という。

それは、あわてて発車しようとする日本人の乗っている列車をソ連兵が止め、
女は1人残らずプラットフォームに降ろされ、
「白日の下、夫や子供や公衆の真ん前で集団暴行を受けた」のである。

もとより日本女性のすべてが唯々諾々と
ソ連兵の毒牙に身を任せたわけではない。
陵辱に耐えかねて、死をもって抗議する若い婦人、
暴行から身を守ろうとみずから死を選ぶ人妻もいた。

例えば敦化の日満パルプ株式会社の社宅では、
ソ連軍は命令によって男と女を分離させ、
170人の婦女子全員を独身寮に監禁し、
夜となく昼となく暴行の限りを尽くしたが、
この際、23人の女性は、一斉に青酸カリによって自殺している。

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「大東亜戦史8 朝鮮編」 池田佑編 昭和46年 富士書苑
三十八度線 木下宗一

満州から鴨緑江を越えてぞくぞくと南下する避難民を朝鮮軍は
平壌でストップさせた。
やがて、38度線は朝鮮を南北にまっ二つに分断した。
北鮮にあった日本人は、この分断線によって悲運のどん底に突き落とされた。
(中略)北鮮を追われた避難民の群れは、平壌へ、平壌へと流れてきた。
列をなした乞食の群れである。ぞうりを履いている者はほとんどいない。
女も子供も皆ハダシである。

山を越え、熱砂をふんだ足の裏は、ザクロのように裂け、
その傷にはウジがわいている人もいた…
平壌には元からの在住者が2万8千名もいる所へ、
汽車で送られて来た疎開者が1万2千名もはいっていた。
そこへ、北鮮からのこのハダシ部隊が毎日毎日流れてきた。

若松小学校の避難舎は、これらの人々を迎え入れて日とともに
膨れ上がっていく。
中には一椀のカユをふるまわれ優しい言葉で迎えられると、
悪夢のような数日の怒りがこみ上げてくるのであろう、
「畜生、ロスケのやつ」「山賊朝鮮人め!」髪を振るわして、
勝利者の暴力を訴える婦人もいる。

負けた者の宿命に、悲しいあきらめを残して、
これらハダシ部隊の大部分はぞうりを恵まれてたって行く。
1日でも早く、1時間でも近く、祖国日本の姿に接したいのである。
南へ、南へ、38度線突破の一念に燃えながら――

乏しい食糧の所へ、これらの南下部隊を迎え入れて、
若松小学校の疎開本部は苦しい生活が続いた。
1日ひとり1合の米が心細くなって、1日2食のカユになった。
子供たちは腹をすかして母親を困らせた。

ある日――それは何かの祝いの日にあたっていたので、
肉入りの味噌汁が大なべで作られていた。
そこへ朝鮮の子供がいつものとおり4、5人からかいにやってきた。
遊びに来るというのではなく、
子供ながらも自分たちの優越感を誇りに来るのである。
そんな時に、このやろう! とでも言おうものなら、
後の仕返しがそれこそ大変である。
朝鮮人の顔役がズラリ顔をそろえてやって来て、打つ、蹴る、殴るの
「見せしめ」が始まる。

この日も悪い奴がやって来た! と思ったが、
炊事当番の人々が知らぬ顔をしていると、
「負けたくせに生意気だ」と食って掛かって来た。
あまりの雑言にきっと目をすえると、
「これでも食え!」と言いざま、足もとの土砂をすくって
パッと味噌汁の鍋にたたきこんで逃げていった。
久しぶりのご馳走というので、窓、窓には笑顔が並んでいたが、
この光景に、窓の表情はたちまち青ざめた憤りに変わった。

今日もまた「命令」と称して朝鮮人のトラックが乗りつけて来た。
カーキー色のものは服といわず靴といわず、
一物も余さずかっさらって行く。
これらは軍需品だから没収するというのである。

これから寒さに向かうというのにシャツ1枚でも無駄にはできない、
その貴重品をトラックに山積みにして今日も引揚げていく。
避難の人々は、最後の1枚を没収されないためにチエを絞り出した。
明日もまた現れるであろう没収団のため、
有り合わせの染料で他の色に染め変えてしまった。

その翌日――。朝鮮側の命令は例のとおりやってきた。
一同は一夜で変わった黒や青色の服で列をつくったが、
予想に反して今度は服装には目もくれず、意外な命令が言い渡された。
「今度は一切の所持金を提出しなければならない。

もし、この命に違反し、一銭といえども所持していることが
後で分った場合は銃殺される。
では、本日ただちに提出するように」有無を言わせない強制処置である。
今後何か月かかるか分らない長い苦難を前に、金こそは命の綱である。
その命の綱を一銭残らず供出したら――
今までに子供がおなかをすかせれば芋の一つも買ってやれたのに、
無一文は死の宣告も同然である。

しかし、銃殺で脅かされた一同は、
泣く泣く最後の一銭までも提出してしまった。
その夜――
カユをすすった避難民一同は絶望の中に寝られぬ夜明けを迎えた。

その朝も、恐怖のマトである命令が来た。
1日1日この命令で心臓を締め付けられてきた一同は、
伝令の姿が現れると、もうそれだけで体が震え出した。
「命令――」冷厳な、
その命令は疎開本部代表に針のような鋭さで伝達された。
「17歳以上、50歳までの男子は、ひとり残らず軽装で集合せよ」
十分の猶予が与えられて男子は校庭に集合した。

この部隊はそのまま朝鮮保安署に連行された。
残された婦人たちは「いつもの使役だとよいが… 」と
冷たい雨の中を去っていく男子部隊をいつまでもいつまでも見送っていた。
この雨中の別れが、長い長い別れとなった。
この男子部隊はその夜、移駐を命じられ、
遠くシベリア送りとなったのである。

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「生きて祖国へ5 死の三十八度線」
引揚体験集編集委員会編 昭和56年 図書刊行会発行
(灰色文字は管理人注)
(日本敗戦後一年が過ぎても北朝鮮内の日本人の移動は禁じられていた。
筆者のグループは賄賂を使ってトラックを雇い南朝鮮への脱出を
決行することになった。)

私も居所を中心とした50人ほどのグループに参加した。
昭和21年9月中旬、朝鮮警察のトラックを使用する。
料金は一人千円ということで、赤ん坊も含めて、私は六千円を支払った。
(中略)
夕闇の迫る時刻に平壌郊外に集会することになった…
全員乗車し終わると、大きなシートで人間を覆って、
トラックは始動をしはじめた。
あのエンジンの音の嬉しさと恐ろしさとは忘れることができない。

途中、第1のソ連兵の関門を通った時、
停車を命ぜられたのにトラックはそのまま猛スピードで逃れて発砲された。
銃の発射音を聞いたが、別状無く進んだ。
第2、第3の関門では、用意の賄賂の酒瓶を与えることで無事通過した…
市辺里で全員トラックから下ろされ、後は徒歩になったのだが、
牛車が2台待っていて使用を強制され、荷物を載せて身軽で歩いた。
牛車代はもちろん多額が要求され、
次の部落では次の牛車に載せ替えられてまた金を巻き上げられる…
いよいよ38度線が稜線だという山にかかると、
牛車から下ろした荷のうち、病人や老人の荷は、
強制的に数人の朝鮮人たちの背中のチゲ(背負子)に載せることになる。
山の中腹に煙が見えた。

そこはチゲ部隊の交替地であった。
もうこのころには、醵出(きょしゅつ)する金は無くなっていたが、
物でもいいと言われ、せっかく、
わざわざここまで運んできた物を大部分取上げられてしまう。
稜線まできたチゲ部隊に、
「こんな少しばかりで、お前ら、日本へ帰れると思うのか。
もっと出せ出せ!!」と威かくされ、残りの物まで投げ出し、
疲労困憊の老幼男女は、狂気のようにこの38度線の山稜を駆け下る。
ああ、ここは衛生施設の整ったアメリカ軍管轄の
開城府のテント村であった。

この脱出コースは、関所があり、検査所があり、
牛車やチゲによって金銭や持ち物を日本人から取上げてしまおうという、
最初から最後まで彼らの計画の略奪コースであったのである。
このようにして、病死を除いた引揚者は、
命だけをようやく日本へ運んだということになったのだった。
(常松泰秀)

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「平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦12」
平成14年 平和祈念事業特別基金発行
(灰色文字は管理人注)
私の三十八度線突破記録  梶山緑

(筆者の家族は朝鮮北部の咸境南道元山市郊外にある文坪
という町に住んでいた。)
8月15日(終戦日)を境にして、
それこそ天地がひっくり返ったようになり、
いく先の運命は段々と暗くなっていった…
文坪の町も日に日に治安が悪くなっていた。

しばらく鳴りを潜めていた朝鮮過激分子の跳梁が始まってきた。
元山でも朝鮮人が暴徒と化して、
日本人経営の店や住宅にまで押しかけて
暴行、略奪を始めたという噂が入ってきた。
私たち文坪在住の日本人も、このままでは危ない、
何か対策をたてないとということで相談を始めたところに、
朝鮮保安隊(朝鮮人による警備隊)から指示があった。

その内容は、
「日本人は町中の一ヵ所に集め、集団生活をさせることとなった。
2世帯か3世帯が一緒になって同居のような形になる」
というような内容だった。
態度を豹変させた保安隊員は、指示により他に移り住む人々を、
まるで囚人を追い立てるかのように家から追い立てていた。
まだ移転する準備もできずに家財道具も整理していないのに、
小銃などで追い出していた。
私の家も追い立てられて、よその人の家に同居することになった。

そのうちに、ソ連軍が進駐してきた。
ソ連兵は保安隊員の先導で日本人の住宅地区にやってきて、
家中を物色しありとあらゆる家財道具を略奪し始めた。
その内のめぼしい物がなくなってくると今度は、
「女!女!」と言って若い女性を連れ出すようになってきた。

私たち若い女性は、頭髪をぷっつり切り落とし丸坊主になり、
貧しい男の子のように薄汚れた服を着るようにした。
ソ連兵や保安隊員が来ると、いち早く床下に隠れたり、
前もって準備して掘った穴に身を潜めた。
時には敗戦後も親しく付き合っていた近所の現地民の家に
かくまってもらったりもして難を逃れていた。

こんなに恐ろしいことになったのも、
それまでは日本の警察官補助者として忠実に治安維持の仕事に
就いていたのに、日本の敗戦と共に治安維持体制が根本から崩壊し、
指導者であった多くの警察署長や上級の警察官が、
自らの手で自らの命を絶つような行動をとり、
最後まで残った日本人を保護するという体制がなくなり、
警察官補助者であった者が保安隊員となって報復心しか
持っていなかったことが原因ではなかったかと思う。

命を削り取られるような不安におののく毎日であった。
男の子のような姿になっていても、
顔見知りの保安隊員に見つかるとすぐにソ連兵に密告され、
ソ連兵の先導として襲ってきた。

保安隊員は、あたかも手柄をたてたような顔をしていた。
ソ連軍の将校クラブができて、
そこにも日本女性が数人ずつ毎日のように連行されていった。
私の住んでいた集団住宅にも度々、
ソ連兵が銃を片手に構えて略奪にやってきたが、
私は幸いに発見されなかった。
(中略)
そのうち満州におけるソ連軍の不法侵入によって終戦前から避難行を
開始していた開拓団員などの人々が、
乞食同然の身なりで鴨緑江をなんとか渡って、ここ文坪にもやってきた。

十数日間、食べるものも食べられず、
わずかな荷物を持って逃げてきたので衰弱がひどく、
寒さよけにタオルを首に巻いていたが、そのタオルが重いと言っていた。
しかし文坪でもそれらの人々を暖かく迎えることはできなかった。
かわいそうだという気持ちだけで、食べ物も満足には渡されなかった。
このときの惨めな思いはそれから当分頭から離れることがなかった。

秋がやってくると、この北朝鮮は寒さが身にこたえてくる。
こうなると無謀な脱出はできなくなるので、
時期が来るまでここで避難生活を続けて越冬をすることとなった。
しかし治安は相変わらずで、保安隊員とソ連兵の行動に一喜一憂していた。

あるときは、保安隊員がやってきて、
「日本人は全員帰国することが許されたので、本日の午後3時までに、
駅前広場に身の回りの最小限の荷物だけを持って集合せよ」
と言って回った。

突然の話でびっくりしたが、やっと日本に帰れるという喜びが先走りして、
疑うこともなく一同小躍りして喜び、早速に荷造りを開始した…
両手には当座の食糧をこれまた持てるだけ持った。
準備ができて全員いそいそと駅前に向かった。
あとのことは知人の朝鮮人に頼んでいた。

もう帰国することだけが頭にあった。元山駅に向かって歩き出した…
数時間歩いただろうか、夜も更けていた。突然に保安隊員が走ってきて、
行列を停止させて、「今夜の引揚げは都合により中止になった」と、
いとも平然とした態度で言い放った。
みんな放心したようになってその場にへたへたと座り込んだ。
しかしここで座り込んでいてはどうにもならないので、
お互いに励まし合って、
またもとの道をトボトボと引き返して家に戻った。

戻ってみてびっくりした。
家の中がひっくり返ったように荒らされていた。
タンスの中に残してあった母の着物や、
私の赤いチャンチャンコなどがどこにも見当たらなかった。

実は、これは引揚げのために元山に向かうといって
日本人を家から出して、その間に空き家になった家に入り込み、
残っている物を略奪するための手段だった。
その上に今度は、住居まで替えられて棟割長屋に数所帯が
押し込められてしまった。
リュックサックに詰め込んだほんの身の回りの品だけが
財産となった…
布団などは、前の家に取りに行くことは許されたが、
残っているのは古い汚れた物ばかりだった。

厳寒の冬になると、集団生活をしている者の中にも発疹チフスなどの
伝染病が蔓延し、老人や赤ん坊などが次から次ぎと死んでいった…
薬もないし医者もいないので、
そのうちに若い人たちも高熱を出して死んでいった。

不安は日に日につのるばかりだが、
冬の間はここから脱出することもならず、
なすすべもなくただ過ごすほか策はなかった。

ソ連兵や保安隊員の傍若無人ぶりは、相変わらずであった。
女性に対する暴行事件も後を絶えず、
暴行を受けた人の中には自ら死を選んだ人も多かった…
死者が出ても葬式をだせるはずもない…
なんとかしなければと有志の人たちが、
保安隊の幹部に申し入れてやっと許可を得た…
深さ1.5メートル、幅2.5メートルぐらいの穴を掘り、
そこに山から風倒木を運んできて薪をつくり、
それを土の上に敷き並べて、さらにその上に遺体を数体ずつ置き、
石油をかけて四方から火をつけて荼毘(だび)に付した。

家族の者や作業をしていた人だけが手を合わせて野辺の送りをしたが、
運命とはいえ、悲しく、かつわびしい有り様でした…
保安隊では、お骨を持って帰ることを許さなかった。
噂話で聞くところによると、遺体が灰になった後、
金歯などの貴金属を探して持っていったということだった。
(中略)
昭和21年の正月を収容所で迎えた。その頃になると満州の奥地から、
また、鮮満国境地帯から元山を目指して避難してくる人が増えてきた。
…相変わらず発疹チフスは猛威を振るっていて、
やっとここまでたどり着いたが、ここで発病して死んでいく人も多かった。

…収容施設も超満員となった。これ以上の人が入ってきて、
いつまでもこの状態でいたら全員共倒れとなってしまうだろう
という話になり、
ここから歩いて元山に向かって脱出しようという相談が始まった。
…やっと綿密周到な、「集団脱走計画」が完成した。
決行日は、昭和21年4月3日の夜と決定された…
北朝鮮からは今日に至るまで、日本人の正式な引揚げというものは全く、
行なわれていない。

命からがら38度線を越えて日本にたどり着いた人々は全員、
それぞれその個人の労苦と努力によって38度線という関所を、
ソ連兵や保安隊のすきをみて突破・脱出してきたのである。
それに失敗した多くの同胞は、途中の鉄原辺りでソ連兵などに見つかり、
銃殺されたり、または、
国境近くの河を渡る寸前で捕まっておくり返されたりしてしまった。

いずれも暗夜に乗じて決行したが半分以上の人々が
失敗してしまったらしい。
元山から多額の金を払って船を雇い、集団で脱出しようとしたが、
途中の38度線近くの江原道付近で、
だまされて上陸させられたということもあったらしい。
それこそ死を覚悟しての38度線突破以外に、
南朝鮮にたどり着く方法はないということになった。

私たちの脱出グループは70人ぐらいで、
老若男女入り交じった集団だった。
もうあまり残っていない身の回り品をリュックサックに詰めて
当座の食糧も入れて背負った。

ソ連兵や保安隊員の目につかないように、
あらかじめ集合場所として定めていた文坪西側の山中に、
三々五々と集合した…
闇夜の中を異様な姿の列が、南に向かって進み出した。

38度線突破行の第一歩がこうして始まった…
東海岸沿いの山中の間道を歩いた。
夜は主に野宿をしたり、好意的な朝鮮人の家の庭先や、
納屋に分散して泊めてもらったりした…
大きな集落を通ると、村人が出てきて通行料を要求された。

通行料は10円ぐらいだったと記憶している。
そのほかに荷物検査料とか、何とか名目をつけては、
2、30円は取られていた…
38度線近くになると、ソ連軍側の警戒も厳しくなってきたので、
昼間は人目につかないようにして休息をとり、
暗くなってから歩き出すようになった。
4月とはいえ、北朝鮮はまだまだ真冬並みの気候だった。

特に晴れ上がった夜半などは寒気が身にしみて、
歩くことも容易ではなかった…
行列の前後左右を絶えず注意しながら行軍していたが、
それでも保安隊員に発見されて荷物検査されたが、
寄付金名目でお金を渡すと、黙って解放してくれた。

…連日連夜の行軍に、老人や女、子供の中には疲労が蓄積されて
歩くのも困難になった人が出てきた…
ある女性は、2歳ぐらいの女の子の手を引き乳飲み子を抱きかかえ、
荷物を背負って歩いていたが、とうとう体力の限界がきて、
もうこれ以上歩けないからここに残ると言い出した。

しばらくは周りの人が交代で助けていたが、ある部落にたどり着いた時に、
とうとう2歳の女の子を朝鮮人の家に預けてしまった。
それからはその女性は、魂の抜けたようになって、
話もせずにただ列について歩いていた。
みんなも、自分のこと、子供のことだけで精一杯の極限状態だったので、
だれ一人としてこれを助けるということもしなかった。
致し方ないことであった。

私は、最近テレビなどで、
中国残留孤児の問題を見たり聞いたりするたびに、そのことを思い出して、
あの女の子はあれからどうなったのだろうかと、
胸を締め付けられるような思いをする。

…3歳になったばかりの妹は私が背負い、10歳の弟と一緒に歩いていた。
父母と私は地下足袋を履き、
弟と妹は足首のところから上を切り取ったゴム長靴を履いていた。
歩いている人の中には、藁沓(わらぐつ)を履いていて底が擦り切れ、
はだし同然になって、擦り傷をつくり血を流しながら歩く人もいたが、
助ける手段もなかった。

…国境近くになると警戒が一段と厳重になって。
保安隊員が組を作ってあちらこちらに立っていた。
…疲労が重なってくると、列がだんだんと伸びてくるので
監視の目を逃れることが次第に難しくなってきた。

保安隊員に感づかれて懐中電灯で照射された時は、
背筋に氷が走るような気持ちになり、もうここで終りかと観念したが、
相手は気付くこともなくそのまま立ち去り、
ほっと安堵の胸をなで下ろした。

38度線上の山々は、標高が400メートル前後で山肌は
むき出しているような峻険な姿であった。
この峻険な山を登ることは、普通ではとてもできない無理なことであった。
特に老人、女、子供の一団では考えられないことであったが、
しかしこれを突破しなければ脱出できないと思うと、苦にはならなかった。
1日でも半日でも早く南に行きたいという気持ちが体中に満ちていた。

いよいよ明日は、38度線を突破するという日の夜に、
全員が集められて細かい注意事項が示された。
「夜明けの突破になるので声を絶対に立てないように。
特に幼児は泣かさないように」と、厳しく申し渡された。
そしてさらに、
「 …最後は走るようになるから履物が脱げないように上から
結びつけること。荷物はなるべく捨てること」などが達せられた。
荷物に未練がある者は、無事に脱出することはできないということだった。
…ただ、ただ日本に家族全員が無事に帰るという最終目標の達成だけが
全てであった。
これから先のことを考える余裕もなく、言われるままにした。
どの人の顔をみても必死の形相で、それは凄まじいものがあった。

夜半の12時に行動が開始された。
やはり若くて元気な人が先頭に立ち、老人、女、子供が続き、
最後を男の人が歩き落伍する人を監視、激励していた。
深々として寒気が身にしみ込んできたが、
極度の緊張のためかあまり寒さを感じなかった。

ただ、サクサクと踏みつぶしていく霜柱の音だけが、
耳に響いていたことを覚えている。
息を殺して歩いていたが、38度線の山の頂上にはなかなか出ない。
歩きながらだんだんと焦燥感が襲ってきた…
そんな時に、牛を連れた家畜商人らしい者に出会った。

世話人が案内料を払って国境までの案内を頼んだ。
みんなは、ほっとしてちょっと気持ちが落ち着き足に力が出てきた。
無言の行進が続いた。
しばらく歩いている時に、家畜商人が
「あの丘の向こうが38度線だ」と、指差した。
勇気百倍し渾身の力をふるってまた歩いた。
しかし、歩けども歩けども国境線らしきところには着かない。
はじめてだまされたことに気付いた。
みんなはそれを知って、
一遍に疲れが出てその場にへたへたと腰をおろしてしまった。

今までの張り詰めていた気持ちが一度に消えて、
動く気力もなくなっていた。
その夜は特に寒さが厳しかった。
腰をおろしている間にも霜が降りてきて、
髪の毛までざくざくになったと母が話していた。
世話人の話し合いがあり、
「このまま、ここにいても凍死するばかりだから、一か八か前進しよう」
ということになり、みんなは気持ちを持ち直して出発することとなった。

…夜はもうとっくに明けて、太陽が上がってきた。
…しばらく歩いていると、急に目の前が開かれたように明るくなった。
山頂に出たのだ。
見下ろすと川が見えた。みんなは急に元気が出て山を下った。
紛れもなく三十八度線を流れている川であった。
一同は、なんの抵抗もなく急いで渡った。

弟が一番先に渡り、向こう岸から母に向かって、
「お母さん!早く、早く、こっちにおいでよ」と叫んでいた。
疲れきって歩くことも難儀になって列の後ろの方で、
父に助けられながらなんとかここまでたどり着いた母は、
力なくてを振って、熱のまだある体で川を渡り、弟と抱き合った。

岸には鉄条網が張り巡らされていたが、
みんなはその隙間から入り込んで、草むらにひっくり返ってしまった。
本当に命懸けの渡河だった。
無我夢中とはこんなことをいうのだろうと、後になって思った。
蓄積していた疲労が一度に吹き出し、体が全然動かなくなった。

どのくらいそんな状態でいたのか思い出せないが、
それこそ虚脱状態だったのだろう。
自動車の音で、みんな我に帰って立ちあがった。
よく見ると赤十字のマークのついた車だった。
最初は半信半疑だったが、
だんだんと近づいてくるのを見て間違いないことを知りほっとした。

すると自然に涙が流れてきた。
あとからあとから、ぬぐってもぬぐっても流れ出てきた。
とうとう38度線を越え、北朝鮮から脱出できたのだった。
アメリカ軍の看護婦さんが車から降りてきて、
病人らしき人々を見て回っていた。

そのうちにアメリカ軍のトラックがきて、病人や子供を乗せていった。
母も弟も乗せてくれた。私はなんとなくほっとした気持ちになった。
(その後、筆者は2、3日収容所で過ごした後、
京城から列車で釜山へ行き帰還船に乗って無事に故郷へ帰った。)
戦争は、本当に怖く悲しいものである。

アルバム一つ残せなかった私たちですが、
しかし、家族が一人も命を落とさなかったことが唯一最大の救いでした。
帰国が果たせなかった多くの人が、
異郷の地で死んでいったその怨念を忘れてはならない。
謹んで哀悼の意を表したいと思う。

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「朝鮮戦争の真実 -元人民軍工兵将校の手記-」
朱栄福 1992年 悠思社
(灰色文字は管理人補足)
(1945年8月8日、ソ連が日ソ中立条約を破って対日宣戦を布告し
満州と朝鮮に侵攻してきた。)
15日の夜、(朝鮮半島北部にある)羅南の(日本)軍当局は
最後の破壊作戦に出て、全市の軍事施設に火をかけて焼いた。

その夜、ぼくは鏡城の北にあたる山の上から、
炎上する羅南の赤い空を眺めていた。
…36年、わが国を軍靴で踏みにじってきた
侵略者の断末魔の光景であった。
朝鮮の農民たちは、15日(終戦日)が過ぎても何が起こっているのか
正確には知らないでいた。

ただ、津波の引き去るように逃げてゆく日本軍、警察、一般日本人が、
もう二度と戻ってこないようにと願いながら、そのさまを眺めていた。
(中略)
羅南の軍事施設が燃えた晩、市内は無人地帯であった。
数千人の日本人は、臨時疎開して、
すぐ帰るつもりであったかもしれぬが、市が燃え尽きても、
ついに一人も戻らなかった。日本人は永遠に去ったのである。

帰ってきたのは全部朝鮮人であった。
彼らは、防空壕からはい出し、あるいは郊外の避難先から、
続々戻ってきた。
火災の翌日、いたるところに余燼のくすぶる市内で、
物資あさりの騒乱が始まった。
窓も門も開け放しのまま去った日本人の空き住宅、商店、倉庫などに
アリのように人間が群がった。
家財、衣類、食器、装飾物、楽器、娯楽品、靴、傘、書籍、自転車、
あらゆるものをかっさらい運び出すのに忙しかった。
町全体が怒鳴り合い、奪い合い、誰もが目を皿のようにして走っていた。

ある人はトランクを担いで逃げる。
ある人は自分の体よりも大きい布団袋を引っ張って走る。
ある人はリヤカーに山ほど積んで汗を流しながら家に急ぐ。
ある婦人は衣類をいっぱい頭に載せオーバーを抱えて土手にのぼる。
ある老人はチゲ(背中に荷物を担ぐ時に用いる木製の背負子)の上に
衣類ダンスを担いで走る。みな走る、ぶつかる、ののしる、宝物を求めて、
より大きい高級住宅に入る。

先着の略奪者は血相を変えながら部屋から部屋に出入りする。
集めた品物から目を離したとたん、別の者が担いで逃げる。
家に持って帰っても、また出ていくと、その間に誰かが来て持ち去る。
こういう時には誰も安心できない。
隣り近所、みな疑心暗鬼である。

避難先から帰りの遅れている肉親をののしる。
だからといって呼びに行く暇もない。
――あのとんま野郎!こういう重大な時に家にいさえすれば、
いっぺんに大金持ちになれるのに・・・!
二、三千軒の日本人民間住宅と商店、数百件の焼け残りの軍用官舎は、
わずか五、六時間でスッカラカンになった。

ぼくが羅南に着いた時は、
そういう"敵産の分配"が終わってから一週間もたっていた。
残るのは日本人の不動産である。

日本人の家屋、商店、車庫、倉庫の壁や門に、色とりどりのペンキで、
大小さまざまに、ハングルや漢字で所有者の名前が書かれていた。
"李XXの家"と書いた反対側には、もっと大きな文字で"金XXの
ジップ(家)"と書いたり、
前に書いた文字を消して一尺もある大きさの漢字で
"この土地は40年前のわが祖先の土地なり"と書いてあったり、
"この建物では近き将来平和食堂開業予定"
"まもなくアリラン床屋になります"
"この建物の主、日本人某は一週間前、小人(自分)に移譲せり"等々、
何とかして自分のものにする口実を書きつけていた
(まもなく敵産家屋、土地、軍事施設は全部登録され、
政府または全人民の所有になった)。

ぼくの伯父が住んでいた初瀬町のはずれの谷間の入り口に、
小玉(こだま)氏経営のよく手入れした農園があった。
解放前には周辺の朝鮮人は皆、小玉さんを尊敬していたが、
世の中が逆さまになって、皆、彼を"日帝の悪質地主"とののしった。
今度の騒動で、小玉邸も無疵なはずはなくサジ一本、畳一枚残さず、
すっかり群衆に没収された。

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「大東亜戦史8 朝鮮編」池田佑編 昭和46年 富士書苑
夜明けの舞台裏 中保与作(元京城日報主筆) (灰色文字は管理人注)

(終戦とともに)朝鮮人は、全鮮各地で、
公然と日本の諸機関や日本人の財産の接収を始めだした。
京城では、総督府に近い中心の鍾路をはじめ幾つもの警察署が
朝鮮人の手に帰した。
ピストルを狙って襲撃する者もある。
警察官にも襲撃者側にもぞくぞく死傷者が出た。

ほとんど、どの駐在所からも巡査が姿を消してしまった。
駐在巡査の大部分は朝鮮人であったが、職場を守ろうにも、
大勢で襲撃されるので2人や3人では守っていられなくなったのである。

このように警察が力を失い出した矢先、安在鴻の放送があった
(朝鮮の建国準備委員会が政治の実権を握ったかのように放送した)ので
日本人に日頃恨みを抱く者や泥棒は、この時とばかり、
目ぼしい日本人の家へ押しかけた。

泥棒はたいていピストルか刃物を持っているので、街々にはあちらでも、
こちらでも、たまげるような悲鳴が起こった。
「助けて!」と呼んでも呼んでも、誰も表へ出るものがなかった。
日本人はもう互いに助け合わないと知ると、
今度は3人、5人と組む集団強盗が横行した。
(中略)
(米軍進駐後、筆者の勤める京城日報社は
米軍の管理下に置かれることになった)
米軍政府は間もなく朝鮮人李相哲を管理人に指名した。
江原道で鉱山の仕事をしていた李にこうした任務を与えたのは、
米軍政長官の側近にいる知り合いの旧宣教師が斡旋したから
であると言われた。
「あなた方は、運悪く、とんでもない悪党に、
管理されることになりましたね」と李の甥にあたる、
毎日申報幹部が私たちに同情した。

(中略)当時の米軍政庁は、英語さえできれば、
どんな朝鮮人でも重用し、一々その言うことに従った。
一般の朝鮮人はそれを「通訳政治」だといってあざ笑った。
英語を話したり、米軍に好意を寄せるものは、
たいてい極端な反日家である。

これらの人々は、何事につけ、
日本人を極悪非道の人間に印象づけようとし、
朝鮮にある日本人の財産は全て搾取し
略奪したものであると言い続けたのである。
(中略)
李管理人は、1年前からの伝票を取り出して一々収支を調べさせ
備え付けの写真機などの比較的値段の高いものはもちろん、
1冊の書物、紙片1枚に至るまで猜疑の目を光らして点検した。

足りないと思うものについては一々弁償を要求した。
私ども社長、副社長に対する解散手当ても前年度の賞与も
不当であるといって返還を迫った。
日本人社員が引揚げ後、生活の道を得るまで、
補助機関として設けた京日互助会の基金50万円も取上げてしまった。

私はそれをよこせという要求を受けたとき、
「それは、互助会のものである。
君は互助会までも管理しに来ているのではない」と拒んだが、
私の留守に米兵を連れてきて金庫を開けさせ、
それをどこかへ持って行ってしまった。
当時の50万円といえば、300倍に計算しても
今の1億5千万円である。

李は、彼が雇い入れた朝鮮人たちを使って、
「日本人の幹部連は隠していた50万円を、
それぞれ山分けしてふところに入れた」と宣伝させた。
どの団体も、どの会社も多かれ少なかれ
これに似た災難にあったのである。

中には帳尻が不明だというだけの理由で投獄されるものさえあった。
自宅の畳の下や、便所の上に2、3万円の金を隠していたということで
拘引される者もあった。

本社の地方部長なども北緯38度線以北から南下する支局員たちの
給料や解散手当てを預かっていたのをみんな取上げられてしまった。
猜疑心の深い李は刑事を使ってまで私たちを脅迫した。
20代のその刑事は「きょうは、留置場入りの用意をして来るように」
と家へ電話したこともあった。
(中略)
ここでは京城日報だけを挙げたがこれは、
ひとり、京城日報だけのことではない。
30年、40年、親子2代、3代にわたって営々と築いた血と汗の結晶も、
およそ目ぼしい日本人の財産はことごとく強奪されたのだ。

後で記すように、託送荷物までもことごとく取上げてしまったのである。
日本人の土地、日本人の家屋、全ての日本人の不動産は朝鮮人に
直接売ることを禁じられた。
それは、事実上その代金を朝鮮人から受け取ることを禁じたのである。
(中略)
日本人の預金は全部凍結された。
1家族1ヶ月千円払い戻されるだけになった。
どんな財産を持っていた者もこの千円が、最後の命の綱となったのである。

引揚げにはリュックサック1つしか許されない。
なまじ家財らしい物を持っていると強盗に付け狙われるのである。
むしろ、それを売って金に換えたほうが始末がいい…というので、
思い出のこもった家具も什器もいっせいに街頭へ並べ出した。

8月16日以来、日本人はみんな古道具屋さんになったのである。
朝鮮人たちはそれを二束三文に値切っている。
中には、「いずれ遠からず、戻ってくるから… 」と、
家も家具も什器も、全てを懇意な朝鮮人に預けて
日本へ帰った人もあったが、大抵の日本人はもはや、
リュックサック一つが唯一の財産になってしまった。
それでも、2人、3人と組んだ強盗が宵の口を狙って、
最後の金、最後のリュックサックまで持って行った。

米軍の保護は、少しも日本人には及ばなかった。
日本人がどんな被害を受けても、それを取り調べようともしない。
言葉という不自由な障壁があるせいもあるが、
どこまでも日鮮双方の争いに割り込みたくないという態度である。
目の前で行なわれる暴力沙汰は一応抑えるが、
「いま、強盗が入ったから… 」と、
MP(米軍憲兵)の駐在所に訴えても、駈けつけてくれはしない。
知ってか知らずか、家を強奪しようとする朝鮮人に同行している
米軍大尉もあった。

U総務局長の建てたばかりの住宅を、
タダで引き渡せといってきた朝鮮人があったが、
米軍大尉は、その男の横に腰をかけて時々、
英語で話しかけるその男の言葉に耳を傾けた。
Uは、「どういうわけで、私があなたに私の家を
提供しなければならないのか」となじると、
「まあ、僕に見つかったのが災難と思って、あっさり渡すことですナ」
と言って、また米軍大尉に耳打ちするのであった。

「日本人は、無警察の国というより、強盗国のまん中に、
座っているようだね」と私たちは語り合った。
1日1日、昼でも、街のひとり歩きが危ぶまれだした。

〃倭奴、早く帰れ〃 という宣伝ビラがまかれてゆく。
それには、「船便がなければ、泳いで玄海灘を渡れ」とも書いてある。
「俺は、ここで骨を埋めるつもりで来たんだから、帰化してもここに残る」
と固い決心をしていた人々も、「もはや、これまでだ」と言い出した。
「親兄弟の墓を守りたい」と思っていた人々も、
墓石をバラックの土台とし、
その上で焼酎屋やヤキトリ屋を開いているのを見て、
やはり、引揚げのリュックサックを買うことにした。

親たちや、夫や妻や、わが子わが兄弟の遺骨が土足に踏みにじられ、
不浄なものさえかけられているのは、とても見るに忍びないのである。
(中略)
私は、毎日のようにバルコニーへ出て、
引揚げ列車が無事に漢江の鉄橋を渡りきるのを見送った。
やがて、私自身も暮れ近い鉄橋を、引揚げ列車で渡った…
引揚げ列車といっても貨車にむしろをひいたものである。
隙間から研ぎ澄ました刃のような寒風が入るのである…
危険なのは、途中で汽車をすめることである。

停車すると、たちまち群衆が押し寄せて金をせびり、
女を引きずり出そうとした。
機関手や車掌が3万円、5万円というチップ要求し、
誰もそれを出さぬと、「機関車が故障を起こした」といって
山中や野原で、ガタンと車を停めたこともあった。
(中略)
引揚げ列車が出る竜山駅へ、くる日もくる日も、
延々と長蛇の列が続いている。

ひとり者のBのお婆さんが、
竜山へ出かけたばかりなのにあわただしく帰って来て、
ガラン洞の我が家で泣いていたこともあった。
訪ねてゆくと、「私はもう、国へ帰れない」と言って、
身もだえしているのである。

「婆さんしばらく、あんたも帰るんですか」と
なれなれしく近寄る若い男があるので、
「ながながお世話さまで」と挨拶すると、
「その荷物、私が担いで上げましょう」と親切気に取り上げて、
その男は間もなく人ごみの中へ姿を消してしまったのであった。
もしや元の家へ戻ってはいはせぬかと来てはみたが、
「もう誰もいやしません」と、
身寄りのないこのお婆さんはサメザメと泣き伏した。

駅前で用を足している間に、
最後の財産であるトランクを盗まれてしまった人もあった。
血まなこになって走り回ると、2、3町先の路傍でそれを開いて、
セリ売りを始めている男がある。

「それは僕のものだ」と言い寄ると、
その男は「ナニッ!なんの証拠があって、
そんな言い掛かりをつけるのか」とつかみ掛かるのであった。
群集が、「なんだ、なんだ」と取り囲むと、打つ、殴る、蹴るの狼藉。
――たちまち、顔も手も血と泥にまみれて動かなくなってしまった。

路傍では、ツギのあたったあわせや、
赤子のオシメを指でつまみながら売っているのを見たこともある。
「こんなものまで盗らなくてもよさそうなものだ」と思った。
それと同時に、こんなものをせめてもの財産として大事に
持って帰ろうとした人には、
どんなに深刻な痛手であろうと思うと、
とめ度もなく涙が溢れ出るのであった。

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「ぢぢ登場の巻」の補足資料
「敗戦による朝鮮半島引揚げの惨事」より転載
http://norikura.fc2web.com/rekisi2.htm

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『竹林はるか遠く ― 日本人少女ヨーコの戦争体験記』 ハート出版
(監訳)ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ(原著)Yoko Kawashima Watkins
(翻訳)都竹 恵子
http://www.amazon.co.jp/%E7%AB%B9%E6%9E%97%E3%81%AF%E3%82%8B%E3%81%8B%E9%81%A0%E3%81%8F%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E5%B0%91%E5%A5%B3%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E4%BD%93%E9%A8%93%E8%A8%98-%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AF%E3%82%B7%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%88%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%BA/dp/4892959219

原題「So Far from the Bamboo Grove」
1986年にアメリカで刊行後、数々の賞を受賞。
中学校の教材として採択された感動秘話。
邦訳が熱望されていた名著、待望の日本語版。

大戦末期のある夜、小学生の擁子(ようこ・11歳)は
「ソ連軍がやってくる」とたたき起こされ、
母と姉・好(こう・16 歳)との決死の朝鮮半島逃避行が始まる。
欠乏する食糧、同胞が倒れゆく中、
抗日パルチザンの執拗な追跡や容赦ない襲撃、
民間人の心ない暴行もかいくぐり、祖国日本をめざす。

終戦前後の朝鮮半島と博多、京都で引揚者が味わった壮絶な体験を
赤裸々に綴る、息もつけぬ、愛と涙のサバイバルストーリー。

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カワシマ一家5人は朝鮮半島東北部の町ナナムで、
戦時下ではあるが、それなりに平和に暮らしていた。

1945年のある日(4月以降)、ヨーコとコウは慰問に訪れた軍病院で、
負傷兵マツウラ伍長と知り合う。
数週間後、マツウラ伍長はカワシマ家をお礼に訪れ、
その後もたびたび訪れ、カワシマ一家と親密となる。

この頃、朝鮮半島北部にもB-29が爆撃に時々現れ、
また、日本敗北の気配を読み取って、
半島内に反日朝鮮人共産主義同盟、朝鮮共産党軍が組織されつつあった。

1945年8月9日深夜、マツウラ伍長がソ連軍が侵攻してくることを一家に伝え、
すぐに町を脱出することを勧める。
父とヒデヨは不在だったが、ソ連軍は既に近くに迫っており、
2人に連絡する時間はもはやなく、書置きを残して、
母とヨーコとコウの三人は最低限の荷物と財産を持って、
マツウラ伍長の勧めどおり病院列車に乗ってナナムを脱出した。
列車はその後ソウルまで45マイルの地点で爆撃に遭い、
機関車が破壊されたので、三人は列車を降り、徒歩にてソウルを目指す。
『しかし半島内は既に、ソ連軍と呼応した朝鮮共産党軍によって、
日本人は片っ端から虐殺され、 日本人の遺体は金歯を抜かれ
身ぐるみ剥がされ、日本人の土地家屋財産一切は奪われ、
日本人女性は幼女から若い女まで
手当たり次第に強姦されるという地獄絵図と化していた』

YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=OvpMNB9dnnY
ニコ動
http://www.nicovideo.jp/watch/sm21001537

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ソ連軍による強姦被害を受けたドイツ人は、
200万人以上、ベルリンだけでも、13万人と言われている。

「カラーで見る第二次大戦・勝利と絶望」1999年12月10日、NHK教育放送

ドイツ戦線でのソ連軍将兵の素質の悪さは定評があった。
ドイツでは老女から4歳の子供に至るまで、
エルベ川の東方で暴行されずに残った者はほとんどいないと言われている。
しかもその残虐行為は上からの指示によるとも伝えられている。

ソ連軍がベルリンに突入して制圧した際、スターリンは兵士に対し
「ベルリンはおまえたちのものだ」といい、3日間の祭りを許可した。
ベルリンの女性のほとんどがソ連兵によりレイプされ、
連合軍に届けられたものでも10万件を越えた。
また暴行による自殺者は6000人を数えた。

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「ベルリン陥落1945」
著者:アントニー・ビーヴァー、出版社:白水社 
(一部抜粋)
600頁からなる大作です。
ヒトラーのユダヤ人大虐殺をはじめとするファシズムの暴虐は
絶対に許すことができませんが、
この本は、スターリン指揮下のソ連赤軍の信じられないほど
大がかりな蛮行をも明るみに出しています。
ベルリンでソ連軍によってレイプされた犠牲者は13万人
(うち1万人が自殺した)、
全ドイツで少なくとも200万人のドイツ女性がレイプされたという。

ただ、これも、ナチス・ドイツの捕虜となった赤軍兵士が
英米軍人の捕虜とは差別され、まったくケダモノ同然で虐殺されていたこと
への反動だった側面も否定できないと指摘されている。
もちろん、だからといって報復レイプが許されるわけでは決してない。

生きのびたドイツ共産党員がソ連軍を歓迎したところ、
その妻や娘までもソ連軍にレイプされてしまった。

その結果、多くのドイツ女性が性病にかかって
治療を受けなければならなかった。
これでは東ドイツでソ連の評判が悪かったのも当然だ。
多くのソ連将校がドイツに占領地妻をかかえ、
帰国のときソ連国内にいた妻の憤激を買った。
もちろん、ドイツ人の男性も無事だったわけではない。
捕虜としてソ連へ連行されて強制的に働かされた。
生きて帰ったのは3分の2のみ。

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尼港事件
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昭和2(1927)年3月24日の南京事件
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漢口事件
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済南事件
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通州事件
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アメリカ軍やオーストラリア軍の蛮行
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終戦~日本人 引き揚げの悲劇
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終戦~日本人 引き揚げの悲劇_2
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敗戦後の惨状
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東京大空襲 ~ その投下方法
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2009/11/25 09:00|年表リンク用資料
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