正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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インドネシア国立英雄墓地に祀られた日本人たち

インドネシア独立戦争


■1.カリバタ国立英雄墓地に祀られた日本人■

ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地は、日本軍降伏後、
4年5ヶ月におよんだイギリス、オランダとの独立戦争で、
特別な功労を立てて戦死した人々が祀られている。
この中に11名の日本人が一緒に手厚く葬られている。[1]

1945年8月15日の日本軍降伏後も現地に残留して、
インドネシア独立義勇軍に身を投じた人々は、
1~2千人程度と推定されている。
400名程度が戦死され、
そのうちの32名が各地区の英雄墓地に祀られている。
また独立50周年となった平成7年、残留日本兵69名に対し、
渡辺インドネシア大使から感謝状が贈られ、
スハルト大統領は官邸に招いて、お礼を述べられた。[2,p109、3]

これらの人は、何を思って、異国の地に留まったのだろうか。

■2.独立への願い■

インドネシアがオランダの植民地となったのは、1605年、
それ以来、3世紀半にわたって、
人口わずか0.5%のオランダ人が
全生産額の65%を独占するという収奪が続く。

1905年に、日本がロシアを破ったことは、
アジア人もまた、西洋をうち負かすことができるほど
強くなれるという信念を強化させた。
それ以降、インドネシア人は、大国として発展する日本に
いっそうの注目をそそぎはじめた。
(インドネシアの歴史家サヌシ・パネ、[4,p242])

独立を願う民衆の間には、いつしか、
「いつか北から同じ人種がやってきて、
とうもろこしが芽を出して実をつけるまでに
(約3ヶ月半)インドネシア人を救ってくれる」という予言が生まれた。

■3.独立を戦いとれる実力を■

その予言は、1942年3月1日に現実のものとなった。
今村均中将率いる第16軍は、総兵力5万5千をもって、
ジャワ上陸を敢行した。
攻略は上陸後3ヶ月を要するだろうと予想されていたが、
わずか10日後には、オランダ軍司令官は全面降伏した。
予言を信じた現地人が、
オランダ軍が築いたバリケードなどの邪魔物を取り除くなど、
積極的に日本軍の進撃を助けたからだ。

独立運動の指導者スカルノ、ハッタの情熱に感銘を受けた今村中将は、
次のように言って、彼らを支援した。

「独立というものは、与えられるものではなく、
つねに戦い取るべきものだ。かれらが戦い取ることのできる実力を
養ってやるのが、われわれの仕事だ、、、」[4,p263]

それから、独立国への準備が始まった。
300近い言語をインドネシア語に統一する、
州の長官、副長官などに現地人を登用し、州や市の参議会を作って、
行政や議会運営を習得させる、さらにインドネシア義勇軍を編成し、
3万5千もの将校、兵士を育成した。
これらの人々が後の独立戦争の主役となっていく。

■4.植民地復活を狙うイギリス、オランダ■

日本軍が降伏した1945年8月15日の二日後、スカルノとハッタは
すかさず独立宣言を行う。
18日には、インドネシア共和国憲法を採択し、
それぞれ大統領、副大統領に就任した。

しかしイギリスとオランダは、植民地の復活を狙い、
「日本軍は連合軍が進駐し、交代を命ずるまで、現状を維持し、
治安を確保すべし。
そのために必要なる武器は保持してもよろしいから、
暴動は必ず鎮圧すべし」と命令した。
さらに「原住民の集会禁止、武器の携帯、民族旗の掲揚を取り締まるべし。
これがためには、兵器の使用も可である。」との命令が来た。
降伏した日本軍を使って、独立運動を阻止しようというのである。

一方で、インドネシア側は、来るべき独立戦争に備えるためにも、
何としても日本軍が保有している武器が必要であった。
今まで日本軍に協力してきた幹部達は、必死に日本軍に支援を訴えた。

独立運動で暴徒化したインドネシア群衆が、武器を要求して、
日本軍の施設を襲う事件も起きた。
日本軍は断じて「撃つな、指導者と話し合え」と厳命を下した。
暴徒に銃殺された日本人のなかには、
「インドネシアの独立に栄光あれ」と自らの血糊で
壁に書き残した人もおり、現地人に多大の感銘を与えて、
今も記念として残されているという。[4,p290]

■5.独立戦争への支援■

日本軍には、オランダ軍の目を盗んで、
インドネシア側に協力する人々が現れた。
中部ジャワ地区の馬淵逸雄少将は、廃兵器処理の許可を得るや、
それを拡大解釈して、トラック何台分もの武器を
チレボン河の河原に捨てた。
対岸で待機していたインドネシア側がこれをごっそり手に入れた。

こうしてインドネシア側に、小銃3万5千挺、戦車、装甲車、
自動車など200台、中小口径砲など多数と、
ジャワの日本陸軍の装備の半分以上が手渡された。[4,p289]

自ら、軍籍を離脱して、インドネシア軍に身を投じた人々も多かった。
その一人古閑正義中尉は、熊本県出身、
明治大学で柔道とラグビーの名選手だった。
スマトラのアチエ州で、地元の青年達を
「何が何でも独立を勝ち取れ」と教育していた。

昭和天皇の終戦の詔勅の中の「東亜解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ、
遺憾ノ意ヲ表セザルヲ得ズ」という言葉から、
インドネシア人を見捨てて、日本に帰る気持ちにはなれず、
同じ部隊の少尉4名とともに、独立軍に参加した。
戦闘に慣れないインドネシア人を率いて、
常に先頭に立って、指揮をした。[2,p94]

オランダとの独立戦争は1949年12月までの4年5ヶ月も続いた。
兵員こそ200万人もいたが、
武器は日本軍から手渡された数万挺の小銃が中心である。
オランダ軍は都市への無差別爆撃なども行い、
80万人もの犠牲者、1千万人を超える負傷者が出たと言われる。
インドを始めとするアジア諸国がオランダを非難し、
国連安保理事会や米国議会も撤兵勧告を行った。
全世界の世論に押されてオランダは再植民地化を諦めたのである。[5]

■6.命を捧げてくれた日本青年を偲ぶ■

平成7年5月29日、戦後50年を記念して、
「アジア共生の祭典」が開かれた。
ちょうど、独立50周年を迎えたインドネシアからは、
スハルト大統領特使として、陸軍大学長、駐日大使などを
歴任したサイデマン外務省上級大使が参列された。

サイデマン大使は、約1万人の参列者に対して、
次のような挨拶をされた。

第2次大戦中、あるいはその直後、植民地の独立のために、
外国の人々が力を貸してくれるということが見られました。
私の国インドネシアの場合、多くの日本の青年たちがインドネシアを自由に
するために独立の闘士たちと肩を並べて戦ってくれました。
そして多くの日本の青年がそのために命を捧げてくれました。
今日このアジア共生の祭典において、
私たちの独立のために命を捧げてくれた
これらすべての若者たちを偲びたいと思います。[6]

「かれらが(独立を)戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、
われわれの仕事だ」という今村均中将の言葉は、現実となったのである。

[参考]
1. 独立50周年のインドネシアを訪ねて、日本の息吹、H7.10
2. アジアに生きる大東亜戦争、ASEANセンター編、展転社、S63
3. インドネシアで顕彰される元日本兵たち、祖国と青年、H7.11
4. アジア独立への道、田中正明、展転社、H3
5. オランダの戦争責任、祖国と青年、H6.10
6. 日本よ、勇気と自信を回復せよ-サイデマン外務省上級大使
  との対話、祖国と青年、H7.7
7. JOG(2) 国際社会で真の友人を得るには
 インド独立50周年を記念して、昨年8月に代々木公園野外ステ
ージで開催された「インドの夕べ」では、インド側代表の最高裁弁
護士ラケッシュ・デヴィーディ氏が「インド独立の為に日本人が共
に血を流してくれたことを忘れません」と、語った。インド解放を
狙ったインド国民軍と日本軍合作のインパール作戦からインド独立
までのあゆみを紹介。

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国際派日本人養成講座 Japan On the Globe (36)より転載
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog036.html

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インドネシア独立を担った人々が語る日本人との心の交流。

■1.二人のインドネシア人■

大東亜戦争というものは、本来なら私たちインドネシア人が、
独立のために戦うべき戦争だったと思います。

もしあの時私たちに軍事力があったなら、
私たちが植民地主義者と戦ったでしょう。
大東亜戦争はそういう戦いだったんです。

1950年8月に成立したインドネシア共和国の首相
モハマッド・ナチールはこう語る。

もう一人、日本軍の設立した青年道場で軍事訓練を受け、
義勇軍設立と幹部教育に尽力し、
独立戦争中は情報面の責任者として
活躍したズルキフリ・ルビスの言葉を聞こう。

オランダに再植民地化をあきらめさせる中心となったのは
義勇軍出身者でした。
日本がインドネシアにもたらしたもの中で、
最も素晴らしかったことは訓練ですが、
それがインドネシアの独立にとって最も重要な要素となったのです。

...もし義勇軍がなかったならば、
インドネシアの独立は南米のスリナム共和国のように
長期間かかっていたかもしれません。
スリナム共和国は、オランダから独立するのに
インドネシアの独立からさらに30年もかかりましたから。

インドネシアが独立の夜明けを迎えるのに、日本軍は大きな役割を果たした。
それがどのようなものだったのか、この二人の証言を聞いてみよう。

■2.日本軍にびっくり■

ルビスは大東亜戦争開戦時はジャワ島中部の
ジョグジャカルタの高校生だった。

当時のほとんどの家庭は子供を学校に通わせる余裕はなかったが、
裕福な旧家に生まれたルビスは限られた例外の一人だった。

1942年3月、突然、日本軍がジャワ島に攻めてきました。
町が急にあわただしくなってきました。

それまでオランダ植民地政庁はインドネシア人にとって
絶対的な力を持っておりましたから、
たとえ日本軍が攻めてきたとしても
微動だにしないものだと思われていました。

しかし、ジョグジャカルタがあわただしくなって数日もしないうちに
オランダ植民地政庁は日本軍に降伏してしまいました。
ジョグジャカルタでは戦闘もなく、
あまりにも簡単にオランダが降伏したので、
私たちはびっくりしてしまいました。

インドネシア総督のチャルダは逮捕され、
町にいたオランダ人たちもどこかに逃亡した。

それまでインドネシアを支配していたオランダ人がいなくなり、
インドネシア人ははじめて自由というものを感じました。
大人も子供も訳もなくオランダが敗れたことを喜び、興奮し、
やがて日本軍が町や村へ来ると大歓迎しました。
インドネシアでこれほど歓迎された外国人は、これまでなかったでしょう。

ところが、ジョグジャカルタにやってきた日本軍を見ると、
どの日本人も私たちと同じように小柄で、同じ色の肌をしているので、
さらにびっくりしました。

■3.画期的な教育政策■

日本軍がやってきた時、ナチールは33才、
イスラム協会の会長として社会改革運動に従事していた。
日本軍はオランダ植民地政庁を倒してくれたが、
単に支配者が交替しただけかもしれない、と疑っていた。

しかし、日本軍はナチールの予想もしなかった事を次々と始めた。
第一に幽閉されていた独立運動の指導者スカルノ、ハッタを解放し、
インドネシア側代表の位置につけた。

第二にイスラム教に対する制約を撤廃し、
マシュミ(インドネシア回教連合会)を作って、
イスラム教の指導者達が初めて直接話ができるようにした。

日本軍のやったことで三番目に注目すべきことは、
インドネシアの教育に力を入れたことでしょう。

これもオランダの政策とまったく違っていました。
オランダの植民地政庁は長い間愚民政策を採ってきました。
インドネシア人を教育すると、
目覚めてオランダに反抗するかもしれませんし、

また、農業に従事するだけなら教育は必要ありません。
・・・学校に通うことのできるインドネシア人は
全体の数%くらいではなかったでしょうか。・・・

ところが日本軍は、やって来ると、さっそく教育に力を入れ始めました。
戦争でいったん休校になった学校を再開し、すぐに3年間の初等国民学校と、
その上にさらに3年間勉強できる国民学校作りました。

・・・日本軍がきてわずか1年あまりで、
それまでの倍近くの子供が学校に通うようになりました。

日本軍は行政機構への現地人登用を進め、
ナチールはバンドン市の教育部長に任命された。
そして権限を与えられ、仕事を任せられた。
これもオランダ時代にはなかった画期的なことだった。

教育に関する日本軍からの命令は、
オランダ語の禁止と、日本語、唱歌、教練を含めることだけだったので、
ナチールはインドネシア人としての
自覚を持たせるようなカリキュラムを組んだ。

本格的にインドネシアの歴史を教えるようにしたが、
これもはじめてのことだった。

また日本軍からインドネシア語の外に地方語の教育も勧められていたので、
バンドンで広く使われていたスンダ語の授業を取り上げた。

■4.熱心に仕事をする以外に独立を実現する道はない■

半年ほどもすると、バンドン市の属するプリアンガン州の
内政部長として姉歯準平が赴任してきた。
戦前に長くスラバヤやジャカルタの総領事を務めて、
インドネシアとは関係の深い外交官だった。

姉歯はよくナチールや市の有力者数人を集めては
日本軍の軍政に関する意見を聞き、また自身の考えを語った。

日本がインドネシアにやって来た目的は、
インドネシアの独立を支援することで、
日本人がここにいるのはあとわずかだろう。
まずこれをしっかり頭に入れてほしい。

次に、将来、インドネシアが独立したなら、
インドネシア人の中で首相が選ばれるだろうが、
私は皆さんの中から首相が出ることを期待している。

そう述べた上で、朝7時から午後2時までの定時間を務めれば
すぐに帰ってしまうナチールらを注意した。
姉歯は6時頃まで仕事をし、
さらに書類を家に持って帰って仕事を続けていたのである。

インドネシア人は独立、独立と叫んでいるようだが、
熱心に仕事をする以外に独立を実現する道はない。
独立してもきちんと行政ができるように今から準備すべきで、
そうでなければ、独立国としてやっていけないだろう。
他の人はどうあれ、まずみなさんが率先しなければならない。

ナチールは恥ずかしい思いをすると共に、姉歯の考え方に共鳴した。

■5.「青年道場」■

ジョグジャカルタに日本軍がやってきて数ヶ月した時、
日本の青年訓練所でインドネシアの青年に軍事訓練を施すから
希望者は集まれ、というビラが貼り出された。

日本軍がオランダ植民地政庁を倒すのを見て、
独立のためには自らの軍隊を持たねばならない、と考えていたルビスは、
絶好の機会だと思って、すぐ応募した。

数百名の希望者の中から選抜で90名が選ばれ、ルビスも無事合格した。
そこで3ヶ月の軍事訓練を受けた後、
昭和18(1943)年1月、ルビスと3名はより本格的な訓練を受ける為に、
ジャカルタ近郊のタンゲランに新しく設置された「青年道場」に派遣された。

青年道場には、インドネシア各地の青年訓練所から
選りすぐった二十歳前後の青年47名が第一期生として入学し、
現場の責任者の柳川宗成中尉の訓示を受けた。

訓示の内容は、アジアを解放するために日本軍はインドネシアに来たが、
独立は自分の力で成し遂げるものである。

しかしインドネシアは教育や軍事などあらゆる面で遅れているので、
いますぐ独立はできないだろう、
日本軍は知っていることをすべて教えるので、
一日も早く学んで立派に独立してほしい、というものでした。

訓示の中で、悠長に構えている暇はないと度々強調されましたので、
私たちの間には、緊張感が漲り、一刻の猶予もないのだ、
とにかく早くいろいろなことを
習得しなければならないという思いがいっぱいになりました。

■6.日本軍の率先垂範教育■

青年道場では、朝5時から夜10時まで、軍事訓練、精神訓話、
体育訓練、実地訓練などが行われた。
精神訓話では、「正直であれ」、「勇気を持て」、「常に前進せよ」
の3点を厳しく叩き込まれた。またインドネシアの歴史を初めて学んだ。

実地訓練は、教官が自ら率先してやってみせる、という教え方がとられ、
自営農場での農作業では、柳川中尉自らふんどし姿で肥おけをかついだ。
中上流の家庭出身者が多い訓練生たちは農作業の経験もなく、
臭くていやがったが、やりながら自分のものにしていった。
こうして教官と生徒の間の一体感も生まれていった。

ある時、午前中の野外訓練が終わった時、厳しさが欠けているというので、
一人の小団長候補生が銃を持って立っているように命令された。
午前中だけでもくたくたになり、
その上の炎天下で直立不動というのは、大変な罰だった。

その時、中隊長の土屋競中尉が、何も言わず、
小団長候補生の隣で同じように直立不動で立ち始めた。
二人は一時間ほど、午後の訓練の合図まで立ち続けた。

私たちはそれをずっと見ていましたが、すばらしいことだと思いました。
これまでインドネシアでこのような教育をする人はいませんでした。
・・・インドネシアの若者全員に知れ渡り、全員感動しました。

土屋中隊長は、まだ20代半ばで、
私たちとそれほど年齢は離れていませんが、
常に私たちのことを考えていたと思います。
訓練期間中、苦しくて倒れそうになると、
いまはインドネシアが独立したときの要人を育成しているのだとか、
インドネシア国軍が創設されたとき中心になる軍人を育成しているのだ、
といって私たちを励ましてくれました。

同じ中隊にいたスハルトも土屋中隊長からは深い感銘を受け、
大統領に就任してはじめて日本に行ったとき、
土屋中隊長にだけはぜひ会いたいといって探してもらい、
20数年ぶりに会っています。

ルビスは日本軍から受けた教育を次のように総括している。

そこでの教育はインドネシア人の民族精神を改革した
画期的なものといえるのではないでしょうか。

まず愛国心を育てたことであり、次に死を恐れぬ精神を植え付けたことです。
さらにいえば、向上心を涵養したことなどもあげられると思います。

■7.「ムルデカ17805」■

ナチールは独立後の首相となり、
またルビスの青年道場での同期生スハルトは第2代大統領となった。

独立は自らの力で勝ち取るものであり、
そのための人材育成こそが急務であるという日本軍の方針は、
見事に奏効したと言える。

この二人の証言に共通しているのは、姉歯準平氏、柳川宗成中尉、
土屋競中尉らとの心の通った人間関係である。
インドネシアの独立を願うこれらの日本人のまごころは、
ナチールやルビスに伝わったのである。

日本軍の降伏した2日後、
1945年8月17日に後の正副大統領スカルノとハッタは
急遽インドネシア独立を宣言する。

しかしオランダは再植民地化しようと軍隊を送り込み、
インドネシアは4年5ヶ月もの独立戦争を戦わねばならなかった。

この中心となったのが、ルビスら、日本軍によって鍛えられた義勇軍だった。
日本軍は彼らに大量の武器を渡し、また1~2千名の日本兵が、
独立軍に身を投じて一緒に戦い、そのうち400名ほどの人々が戦死した。

ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地にも
インドネシア独立の戦士たちとともに11名の日本人が手厚く葬られている。

インドネシア独立に命を捧げた日本人将兵らは、
映画「ムルデカ17805」に描かれている。
ムルデカとは「独立」、17805とは独立宣言の日付で、
皇紀2605(西暦1945)年8月17日の事である。
日本軍の独立支援への感謝として年号を日本の皇紀で表したのである。

我々の父祖の世代が、どのような思いでインドネシア独立に
身命を投じていったのか、この映画を通じて偲ぶことができる。

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国際派日本人養成講座 Japan On the Globe(193) より転載
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog193.html

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インドネシア独立戦争の記憶

2006年に米メリーランド大学と英BBCが共同で行なった調査で、
「世界に最も良い影響を与えている国は日本」という結果が出ました。

その中でも、日本肯定派が一番多かったのはインドネシア。
「日本が好影響を与えている」とする回答が85%にも上っています。

東南アジアの親日国、インドネシア。
台湾が親日である理由と同じく、
戦後の反日主義にどっぷり染まった人にとっては
「アジア=日本侵略の被害者」という図式が刷り込まれているので、
この結果が理解できないかも知れません。
せいぜい「戦後の経済力で援助をしたからかな?」
くらいの理由しか想像できないでしょう。

インドネシアと日本との間には、短いながらも、
かつての台湾と同じように共に歩み、苦難を乗り越えた歴史があるのです。

◆オランダによる350年の圧政

1602年、オランダはジャワ島に東インド会社を設立し、
植民地経営を始めました。
首都のジャヤカルタはバタヴィアに改称され、
以降350年間に渡って、オランダは東ティモール以外の領土を支配します。

第一次大戦後、1930年前後からインドネシアにも
独立を希求する民族運動が発生しましたが、
オランダはこれを厳しく弾圧しました。

オランダは、徹底的した愚民政策で狡猾にインドネシア全土を支配しました。
100以上ある部族を互いに敵対させておくようにし向け、
一部のオランダ人に従順な部族を警官として雇い、経済は華僑を利用し、
現地人の反感がオランダ人に直接向かわないようにしたのです。

統一言語ができると抵抗運動がおきるので、
部族間の言葉はバラバラのままにさせ、
道ばたで3人以上のインドネシア人が話していると
処罰するほど徹底した支配でした。

◆日本軍の快進撃、予言の神兵

ところが、大東亜戦争が勃発、世界情勢は風雲急を告げます。
蘭印にも日本軍がやってくるらしいという噂が流れ始めたある日、
インドネシア人が爆音に空を見上げると、空にいくつもの白い花が咲き、
戦士達が降下してきました。我らが空の神兵、日本軍の落下傘兵です。

これこそ、予言に謳われた黄色い人々ではないか!
インドネシア人は驚き歓迎しました。
彼らの協力も得て、落下傘部隊、銀輪部隊は
すさまじい勢いでインドネシアを進撃し、
オランダ軍はわずか9日間で完敗することになります。

インドネシアには、
古くから伝わる『ジョヨボヨ王の予言』という伝承がありました。

「我らが王国は、白い人びとに支配される。
彼らは離れたところから攻撃する魔法の杖を持っている。
この白い人の支配は長く続くが、
空から黄色い人びとがやってきて白い人を駆逐する。
この黄色い人びとも我らが王国を支配するが、
それはトウモロコシの寿命と同じくらいの期間だ。」

これは12世紀前半、東ジャワのクディリ王国のジョヨボヨ王が書き記した
『バラタユダ』 という民族叙事詩(いわばジャワ版『マハーバーラタ』)
の一説です。

自分たちが350年間抵抗し続け、そのたびに全滅させられてきたオランダを、
9日間で駆逐してしまった黄色い人びと。
これはまさに予言の実現であることを知ると共に、
インドネシア人は、白人が決して全能の神ではなく、
アジア人が彼らの奴隷ではないことに気付き始めたのです。

◆日本軍政時代

以後、インドネシアは日本軍政の支配下に置かれました。
このとき、国名は蘭印からインドネシアに、
オランダ名だった首都バタヴィアは、
古インドネシア王国のジャヤカルタに倣ってジャカルタに改称されます。

さらにオランダ語は廃止され、
新たな国語としてインドネシア語が作られました。
(当時、ジャワ語の分かる日本人がおらず、
特務機関で学習されていたマレー語が採用された)
また公的機関にもインドネシア人が雇用されるようになり
インドネシア人の組織化、社会参加が進みました。

さらには、日本は将来のインドネシア独立を見越して、
インドネシア人の若者からなる祖国独立義勇軍(PETA)を組織し、
日本軍式の軍事教練を施しました。
このPETAが、独立戦争の中心戦力となり、
後のインドネシア国軍の母体となったのです。

今でもPETA出身の軍高官は
「日本精神のおかげでオランダに立ち向かうことができた」と語っています。

◆インドネシア独立戦争

日本は、1945年の9月にインドネシアの独立承認を約束していました。
ところが8月15日、日本は敗戦を迎えます。
日本の軍政は3年半。
これは奇しくもトウモロコシが育つまでの期間と同じでした。

ともあれインドネシア人達は、これで独立かと喜びましたが、
再びインドネシアを植民地支配するために、
イギリス軍とオランダ軍が戻ってきました。

しかし、日本の統治によって、
「インドネシア人は猫から虎に変わっていた」のです。
日本軍は、ポツダム宣言受諾以降、
連合軍が来るまでの現地の治安維持と武器の管理を命じられていましたが、
秘密裏に武器を流すなどして、自らが育てた義勇軍を支援します。

武器庫の番をしていたある日本兵は、
暴徒と化したインドネシア人に殺されますが、
彼は自らの血で「インドネシアの独立に栄光あれ」と壁に書いて息絶え、
こうした日本人の姿勢もインドネシア人に衝撃を与えました。

さらには、2000人以上の日本軍将兵が、現地に残ってPETAと運命を共にし、
4年にも及ぶ独立戦争を戦い抜いたのです。
PETAは厳しい訓練を乗り越えたとは言え、実戦の経験はありません。
彼ら歴戦の日本軍将兵は、
インドネシア人を指揮して常に最前線で戦ったので、
死亡率も非常に高かったと言います。

残った将兵達の動機は個別に見れば様々でしょうが、
彼らは玉音放送における

「朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ
遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス」

(私は日本と共に、終始東アジアの解放に
協力してくれた諸盟邦に対してすまなく思う)

との昭和天皇の大御心を代わりに果たし、
インドネシアの独立の礎となったのです。
日本の敗戦後にも世界のあちこちでアジア独立のために遂行されていた戦い。
これもまさに大東亜戦争だったのではないでしょうか。

そんな英霊達の御霊は、
ちゃんとジャカルタにある国立英雄墓地に祀られています。

◆インドネシアに残ったもの

8月17日には、後の初代大統領スカルノによって、
独立宣言文が読まれました。
その宣言文の日付は170805(05年8月17日)、
05年とは西暦ではなく皇紀です。

この日には、毎年盛大な独立記念祭が行なわれます。
そこで華々しく行進するインドネシア国軍のパレードで使われているのは、
PETAマーチです。

「祖国防衛義勇軍(PETA)マーチ」(斉藤守氏訳)

1、
アジア すでに敵に向かい 蜂起せり
己を捨てて 全力を尽くす 連合国を粉砕せんと
玉散ることもいとわず 進め進め 義勇軍
アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ

2、
古きアジア 不幸に苦しむ列しき圧制に 
幾世紀も忍ぶ 大日本 雄々しく立てり
アジアを救い 我らを守る 進め進め 義勇軍
アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ

パレードのクライマックスでは、インドネシア人の男女二名と、
日本陸軍の紛争をした男性による三名で、
インドネシアの国旗を掲揚するのです。

台湾や朝鮮の統治と違い、3年半しか統治できなかったインドネシアには、
日本が建設した建物は何も残っていません。
独立戦争に身を投じた日本人将兵たちも、多くは帰らぬ人となりました。
しかし、日本への敬愛の情と、国家の誇りと独立にかける情熱は残りました。

戦後の日本人が忘れてしまった物語が、
インドネシアには建国の神話として残っています。
戦前の日本人が持っていた理想が結晶した国、それがインドネシアなのです。

―――――――

『朱雀式』様より転載
http://www.suzaku-s.net/2008/08/indonesia_merdeka.html

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以下、『インドネシアの人々が証言する日本軍政の真実』より引用

親日インドネシア人

◆1919年生まれのM・ユスフ・ロノディプロ氏の体験

オランダによってインドネシアは十七世紀以来、
三百五十年も占領されていました。

オランダの統治時代の生活は酷いものでした。
というのは、オランダがこの地に来たのは、
この国で生産されたものをヨーロッパに持っていくためだったからです。
それが、植民地主義の始まりでした。

今私が住んでいるのはジャカルタ市の中心地ですが、
オランダ時代は、インドネシア人は住むことが出来ない地区でした。
殆どの人々には教育の機会がなく、
読み書きが出来ない子供たちも沢山いました。

それはインドネシア人を無知蒙昧のままにしておくという
オランダ政策の一つだったのでした。
オランダ人は原住民であるインドネシア人に対して、
はっきりと下等階級という扱いをしていました。

小さい頃の私をもっと傷つけたのは、
町の中心地にあったスイミング・プールでした。
プールの入り口には大きな看板があり、
「犬とインドネシア人の立ち入り禁止」と書かれていました。

第二次世界大戦前、アジアのほとんどの国は
白人たちの植民地となっていました。
それを、日本が白人たちと戦うことによって
解放したということは間違いのない真実です。

それは始まりからそうだったのです。
つまり、それは1904年の日露戦争からでした。
私は第二次世界大戦前から、日本がロシアに勝ったことを知っていました。
そして、日本の発展していく様を見てきました。

当時私は、日本はアジアを代表する国だと思いました。
日本のお陰で、白人だけが強いのではない、
私たちもまた強くなれるのだと思うことが出来たのです。
日本の日露戦争の勝利は私たちを非常に勇気付けたのです。

日本は、当時アジアで唯一白人と対等だった国でした。
私たちインドネシア人はきちんとした教育も受けられず、何の権利もなく、
白人に対して自分たちは劣っていると考えていました。
自分たちが白人と対等になれるとは思っていませんでした。

そしてまた、日本以外の一体誰が
アメリカを攻撃しようなどと思ったでしょうか。
それを実行したのは唯一日本でした。
日本だけが、アジアを支配し続ける白人に立ち向かっていったのです。

日本がインドネシア人に行った訓練は非常に重要なものでした。
それは肉体的に鍛えただけではなく、
インドネシア人を精神的にも鍛えたのです。
そして私たちは大きな成長を遂げました。

もし日本がいなければインドネシアの独立までには、
さらに百年かかっていたかも知れません。
それを、日本はたったの三年半に縮めたのです。

◆1922年生まれ、R・H・M・ハッサン・ラハヤ氏の体験

私は、大東亜戦争中、日本の軍政監部の指導の下で
色々なことを学ばせて頂き、さらには、日本に留学までさせて頂きました。
それによって、私は成長させて頂き、人生が拡がっていきました。
ですから、私は日本に大変感謝しています。

歴史上初めてアジア人が白人に勝ったという1904~5年の日露戦争の
ことについては高等師範学校時代に本を読んで知りました。
私は歴史が好きでしたから、ジャカルタの高等師範学校に入った後に、
そういう日本についてのことを知るようになりました。

インドネシアではオランダがそういう情報をストップしていて、
自分たちに都合のよいことばかりを流していました。
それでも私たちは、アジア人で一番初めに白人を負かしたのは
日本だということを知ったのでした。

真珠湾攻撃の翌年、1942年1月に日本はオランダに宣戦布告をしました。
香港を取り、フィリピンを取り、それからマレーシアを取り、
そして、いよいよインドネシアにも上陸する、ということになりました。
私たちは非常に希望を持っていました。

日本がオランダを追い出し、インドネシアを解放してくれるという期待が
日ごとに現実味を増してきたからです。
どうしてもオランダ人を追い出さなければいけない、
というのが私たちの気持ちでした。
特にイスラム教徒はそうでした。

日本が攻めてくるということは本当に有り難かったです。
日本人によってオランダ人が追い出されるのですから、
私たちは大喜びしました。

日本軍はジャカルタを占領すると、
オランダ軍司令部のあるバンドゥンに向い、
1942年3月9日にインドネシアのオランダ軍は
日本軍に降参したのです。
それはたった一週間のことでした。
三百五十年もの間インドネシアを支配していたオランダが、
たった一週間で降参したというのは本当に信じられないことで、
私たちはなかなか理解出来ませんでした。

日本人、つまり私たちと同じアジア人が
白人を大東亜から追い出すことが出来たのは、正に大勝利でした。
私たちは日本国民に大変感謝しました。
また、それは神様の恵みでもあると理解していました。

インドネシアから日本によってオランダが追い出され、
インドネシアが独立するということは神様の恵みなのです。
その部隊は二週間ぐらい村に駐屯していましたが、
その間に、私は兵隊さんたちと色々と話をしました。

彼らはみな優しくて、私の家へ遊びに来るようになりました。
私の母は朝から晩まで一生懸命に色々なお菓子を作ったり、
ナシゴレン(インドネシア風チャーハン)などを作って食べさせていました。
兵隊さんたちは母のことを「お母さん」と呼んで、
家にやって来ては「お母さん、ライスを作って下さい」などと頼み、
母が張り切って作っていました。

また兵隊さんたちは律儀にそのお礼にお金を払おうとするのでした。
私は「ノー、ノー、いらない、いらない」と言うのですが、
みなきちんと払っていました。

◆1927年生まれ、プロボ・S・スウォンド氏の体験

私のオランダの友人である将校の息子たちは、
みな日本軍など来ない(インドネシアへ)だろうと話していました。
また、来たとしても自分たちが反撃すれば必ず勝つと息巻いていました。
彼らはみなオランダのプロパガンダを信じ切っていたのです。

しかし、戦争が始まると、日本がどんどん進撃していき、
事実はオランダの話とは全く違っていました。
これは後に軍事について学んで知ったことですが、
ジャワ島の上陸に先立って行われた、
スラバヤ沖海戦における日本軍の戦いは素晴らしいものでした。
日本海軍は非常に高度な技術を持っていました。

ジャワ海はオランダやアメリカ、イギリス、オーストラリアの
連合軍艦艇で一杯でしたが、
その中で日本海軍は連合軍艦隊を打ち破ったのです。
艦から艦への攻撃は難しいものです。日本の攻撃は傑出していました。

日本はたったの九日間でインドネシアのオランダ軍を撃退しました。
そのことを知って、私は軍隊の訓練などを受けるにはまだ小さかったので、
戦争の戦術とか戦略といったものは全く分かりませんでしたが、
どうも話が違うと思いました。

1942年に日本軍がインドネシアの学校を再開し、
私はその学校へ通い始めました。先生はみなインドネシア人でした。
そこで、私は真の民族主義者となっていきました。
それは一つには、私たちはその学校に通わなければいけないとされ、
そして、そこでインドネシア語を習ったからです。

それで、私は初めて自分がインドネシア人だと実感したのです。
それまで、私は一度もインドネシア語を習ったことがなく、
日本の占領下で初めてインドネシア語を勉強したのでした。
私がPETA(郷土防衛義勇軍)に入ったのは、
インドネシアの高校を卒業してすぐのことで、
PETAの試験を受けた者の中でも年齢が一番下でした。

私はPETAの将校になるために、ほぼ一年間、
郷土防衛義勇軍幹部教育隊で訓練を受けました。

その時の私たちの中隊長のことを、生徒全員が尊敬していました。
私も非常に尊敬していました。それは進藤一馬中尉殿のことでした。
その中隊の指導者たちはみな実際に中国戦線で戦った歴戦の勇士たちで、

また、中尉殿は私たちに対して一度も罵声を浴びせることもしませんでした。
生徒たちと一緒に苦しみを分かつという教え方で、
指導中は自ら率先して見本を示していました。

私たちは彼のことを父と感じていました。
彼は、私たちが良い将校になることを願っていました。

日本が敗戦した後、私はインドネシア国軍に参加しました。
そして、最後には中将にまでなることができました。
インドネシア軍は、日本軍が持っていた武器を何とか手に入れようとし、
地域によっては日本軍から略奪するところもありました。

マランでは、大変うまくことが運び、
私たちは武器を日本軍から譲り受けることができました。
もちろん、公式にはそのようなことは出来ません。
私たちは日本軍の司令官と密かに交渉したのです。
日本軍は武器庫の鍵をどこかに置き忘れてしまい、
私たちがそれを拾ったのでした。

◆1917年生まれ、スリオ・ウィリオハディプトロ氏の体験

インドネシアには三百以上の言葉があります。
スマトラ島だけでも二十以上もの言葉があります。
オランダ政府はこれらのインドネシアの言葉を統一することをさせず、
そのために、おたがいの意思の疎通を図ることは大変に困難でした。
それによって、インドネシア人同志の団結を阻み
民族主義運動を起こさせないようにしていたのです。

また当時は、オランダ当局者が路上で三人以上のインドネシア人が
話をしているのを見ると、
インドネシア解放のための集会をしていると見なして、
すぐにやってきて解散させました。
そうやってオランダ政府は徹底的に独立運動を阻んでいたのです。

インドネシアが日本軍によって占領されたことは、
私たちにとって幸運でした。
さもなければ、インドネシアの独立は遅れていたことでしょう。
日本の占領がなかったとしても、恐らく独立は出来たと思います。

しかし、果たしてどのくらいそれが遅れていたか、私にはわかりません。
それ故に、私は日本軍に感謝しています。
もちろん彼らがインドネシア人に対して荒々しく、
粗暴だったことも事実ですが。

軍事訓練においても、何かミスをすればすぐに殴られました。
ただ、戦場において何かミスをすれば、それは死につながります。
だから、そのように厳しかったのでしょう。

そして私たちインドネシア人は、日本軍の占領時代の厳しい訓練を通じて、
戦う精神を得ることができました。
戦争前のオランダ時代は、私たちは支配者であるオランダ人の言うことに、
ただ「イエス。イエス」としか言えませんでした。
しかし今、私たちは「ノー」と言うことが出来ます。
なぜならば、私たちには誇りがあるからです。

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インドネシア独立史
http://photo.jijisama.org/indonesia.html

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以下、下記サイトより引用
http://aizax.fc2-rentalserver.com/repo4/045815.html

インドネシアに学校を!

大東亜戦争中、日本は占領地に民生部を置き統治を行ったのだが、
他国と一番異なる点は、そこに「文教課」を設けたところと
いわれている。---字のごとく教育に携わる部署である。

「教育」とはいうものの「占領地を日本化するための教育機関」と
いう批判がありそうだが、そう単純なものではない。

昭和17年7月、インドネシアに一人の男が降り立った。

民生部文教課長「鈴木政平」である。

海軍の司政官である鈴木は、昭和19年12月までの2年半、
インドネシアの教育改革にあたる。

最初にインドネシアの教育事情を聞かされた鈴木は驚いた。
学校と呼べるものがほとんどない。本屋すらない。さらには共通語がない。

学校の授業内容を見ても、歴史教育がない。
神話、民話、童謡すらほとんど教えられない教育。
バリ島においては、歌の「ドレミファソラシド」の使用は許されなかった、
現地の音階のみである。要は歌うことさえままならなかった。
唯一の例外は「オランダ国歌」。

絵画もバリ風の伝統的手法のみ許され、風景画、遠近法、図案など、
一般的な絵の手法を用いたものは焼却処分となった。

入学式、卒業式、運動会、学芸会、遠足なども禁止であった。

「読み書き算盤」以下の教育がインドネシアの実情、「土人は常に
土人であるべし」それが数百年に渡るオランダ統治の現実であった。

鈴木を一番驚かしたのは、卒業証書、官吏・教員の辞令にまで
税金を掛けることであった。

印紙を購入しなければ紙一枚手に入れられなかったのである。
この風習(?)は今でも一部残っている。 金が無ければ何も
出来ないということであり、
実質インドネシア人に金を持たせない政策であろう。

鈴木は最初に授業料の廃止を手がけ、6年間の男女平等の
初等教育を目指したのだが、余りにも学校の数が少なく、
またインドネシア人教員も少なかった。

そこで、学校建築を進めるとともに師範学校を設立し教職員の充実を計った。

即製では限界があるものの、インドネシア各地に学校が建てられ、
昭和19年4月には、バリ島だけで500に及ぶ小学校が
設けられたと言われる。校庭を作り体育を教科に採り入れ、
運動を通して体力と連携の大切さを学ばせた。

女子児童数も、昭和17年4月では僅か数パーセントだったのが、
19年には42パーセントと激増している。

さらに鈴木は、将来国家を担う人材育成の為、農業・漁業・
造船・工業・医学などの専門、または訓練学校を創り、教師として
多くの日本人を投入、統治初期、約600人程度だったといわれる
インドネシア知識層が、終戦直前には約10万人程度まで増えたと
いう記録もある。---独立後国家建設の中心となった人材は、
ほとんど日本の学校で学んだ人であった。

鈴木は教育改革をスタートさせるにあたり、数少ないインドネシア
教師に次のように語った。

「教育とは、知識を授けたり技術をみがいたりするだけのものじゃあない。
読み書き算盤などは、教育のほんの一部分でしかない。
教育とは人間をつくるものである。」

そこから、当時共通語となりつつあったムラユ語(現インドネシア語)を
教育用語として採用、その次に高度な知識を理解させるため
日本語教育へとつなげていった。

多民族国家であるインドネシアに、言葉を通じてアイデンティティーを
持たせその後の独立戦争への足がかりとなっていったのである。

「日本語教育をした」ということで朝鮮・台湾と同じように批判する人が
いるが、それまで共通語さえ持たされなかったインドネシアで、
初めて国語を手に入れることができた事実は、
インドネシアでも高く評価されている。

終戦後、インドネシア人に「日本がした良いこと・悪いこと」を聞いた
ところ現地の人は口を揃えて次のように答えたという。

「悪いことは、私たちを無理やり学校に行かせたこと。
そして良いことは、それでも無償で私たちに教育の大切さを
教えてくれたこと」

戦前日本は、どの地に行っても
国家建設の基本である「教育」を重視した。

戦前戦後を通じ、所謂占領地で学校教育を施政の中心としたのは
世界広しと言えども後にも先にも日本以外にはないのである。

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1945年12月13日、いわゆる「デビンティンギ事件」の真相。

スマトラ島南東部のパレンバン市の南西部バリサン山脈の山すそに、
デビンティンギ市がある。この市には終戦の年の日本とインドネシアの
衝突事件の記念塔が立っている。この記念日の特集として
インドネシアタイムス(英字新聞)が、1976年春、次のような記事を載せた。
―――――――――――――――――
終戦の年の12月13日、テビンティンギ市で女子供を含めた数千人の
インドネシア人が虐殺された。殺したのはイギリス軍でもない。
オランダ人でもない。日本軍だ。
理由もなく突然多数の戦車を先頭に立てて乱入して殺戮した。
―――――――――――――――――
この記事に対して、当時、近衛師団渉外部のインドネシア係としてこの事件の
収拾に当たった当時者である総山孝雄氏が、
「一部終始を詳細に知っているが、これはまったくの虚報である」と反論。
また、同時にこの報道にはインドネシア側の歴史家も疑問を提示した。
独立戦争の勇士で、戦後スマトラのメダン地区独立戦老兵会の会長であり、
独立戦史を研究していたニップカムリ氏である。
そこで、このインドネシアタイムスで、この報道をした責任者であり編集者の
ユヌマ氏も参加し、このデビンティンギ事件の真相を究明する作業が
すすめられ、その真相が次の書物にまとめられた。


『北スマトラにおけるインドネシア独立戦史』 北スマトラ州戦史編集検討会

要約

インドネシアでは戦後独立を宣言し、
スマトラ島でもメダンにおいて独立が宣言がされていた。

だが独立を認めないオランダ軍とそれを支援するイギリス軍が迫っており、
インドネシア共和国軍やインドネシア青年党は、
それらと戦うために武器を必要としており、
降伏した日本軍の持っている武器をぜひ手に入れたいと考えていた。

こうした情勢下で、1945年12月13日に
テビンティンギ事件が発生したわけである。
1945年の12月初め英軍司令官の命により、中島司政長官、メダン市長、
北スマトラ宗務部長、鉄道部長と薄金文化部長等が家族同伴で
列車に乗ってキサラン近くの農園に向かった。

テビンティンギのプシンド(都市地域武装社会主義青年党の略称)
の指導者は、テビンティンギ駅でその汽車を止めて武器を奪う計画を立てた。
12月11日、汽車が到着すると、武装した青年たちが、その列車を阻止した。
武器を渡すように要求したが、日本の指揮官はこれを拒否した。

だが長時間の対峙のあと、15時に日本軍は降伏し、
15時30分すべての武器が引き渡された。
日本の将校4人を人質としたが、
青年たちはその一人深尾大尉を殺してしまった。

この日の夕方、宮川中尉により警備されていたグヌンパメラの食料倉庫が
青年たちに取り囲まれた。彼らは見知らぬ他所者に指導されていた。
青年たちが迫ってくるので、宮川中尉はバヒランの連隊長に電話して、
暴徒に対する射撃の許可を要請した。

電話で沢村少将は「話せば判る。われわれの兄弟であるインドネシア人を
殺してはならん。話し合いで解決せよ」と答えた。
この二人の会話がまだ終わらない前に、
青年たちは電話線を切断してしまった。

宮川中尉は部下に、武器を下に置くように命令した。
青年たちは武器を取り上げて、蛮刀と槍で、一斉に宮川隊に襲いかかり、
宮川中尉以外の日本人をすべて殺した。

宮川中尉は頭をたたきわられたが、瀕死の状態で倒れていたところを
翌朝、農民に助けられた。

12月12日午前9時、前日の列車阻止での指導していた
アミルタアトナスティオン(テビンティンギのプシンドの長)は、
ほかの指導者とともに、バラヒンの沢村少将に会いに来た。

アミルタアトティオンは
「所有する武器全部を渡して貰いたい。さもないと2千人のインドネシアの
青年たちは、このバラックを攻撃し、皆殺しにします」

これを沢村少将の部下中村副官は、拒否して、
昨日のテビンティンギ駅での彼らの略奪に抗議し、
その列車の深尾大尉ら40人の兵士がどうなったかを尋ねた。

アミルタアトは、もう殺してしまっているのだから答えない。
ここで日本軍もテビンティンギの様子を探ると、
昨夜グヌンパメラの農園で日本人16人が殺害されたことを知るにいたり、
さらに町の日本人全てが殺されたという噂も得てしまった。

無線は通じず、電話線は切られており、第三大隊の妹尾孝泰少佐は、
連帯本部になにか異変がおきたのではと心配し、全兵士を非常呼集して、
連帯本部まで20キロを駆け抜けた。

12月13日朝、彼らは連帯本部に息を切らして到着した。
沢村少将は、自らの命令に従ったために抵抗することもできずに
殺されて行った部下のことを思い、今この報復を行わないと、
また無限に日本人が殺戮されていくことを深く怖れ、
妹尾少佐に、テビンティンギのプシンドに対する報復攻撃の準備を命令した。

師団長の許可を仰ぐため無線により電報を打った。
驚いた師団では、攻撃をやめさせるために
先任参謀の室本中佐を急いで派遣した。

現地にきて詳しく調べてみると、警告のために報復攻撃が必要であるとの
結論に達し、攻撃が許可された。
午後2時、数個の小部隊を町から出る4つの出口に伏せた後、
歩兵1個大隊が前面に2台、背後に1台の戦車を伴って、
南の方向から町の中に進撃した。
大砲もあったが一般市民が犠牲になるのを防ぐために使用しなかった。

攻撃はこのように用心深く行われたが、
やはり錯誤による犠牲は避けられなかった。
日本軍は果敢に攻撃し、至るところで女子供までが犠牲になった。

―――――――
※これは、あくまでインドネシア側の記録であり、総山氏は、
「至るところで女子供まで」は事実ではないと主張している。
―――――――

プシンドは簡単に敗北した。
過激な指導をした者が、ジャワから来た煽動者だったことを
市民から伝えられたプシンドは一斉に町から逃げ出してしまった。

やがて、テビンティンギを奪回するために
青年たちが戻ってきて日本軍と戦った。
戦いは17日まで続き、多くのインドネシア青年が亡くなった。

12月14日、日本軍渉外部の総山孝雄はインドネシアの
総督代理マハラジャソアンクポンと会い、事態の収拾を協議した。
この不幸な事件で利益を得るのは、
オランダのみだということで意見の一致を見た。

そして、事件をすぐ終わらせるために、
全党派の会合の必要であるということになり、
まずは、インドネシア政府の代表と、諸党派の代表と、
日本軍の代表としての総山が、
事態収拾のためにテビンティンギへ行くこととなった。

だが、日本軍の沢村少将は、彼の無抵抗命令を忠実に守って
殺されていった部下に対してプシンドがやった残忍な処置を
許せなかったので、この代表たちは沢村に何も言うことができなかった。

そこで総山が夜半単独で、沢村と会い説得した。

「閣下には報復せねばならぬ理由がある事を私は判っています。
日本の兵士に対する殺戮を憎むことは私も閣下と同じです。
しかしながら、もし閣下がこの報復を続けて独立運動を妨げるなら、
インドネシア国民はこの事件が起こった本当の理由を
自国民には報道しないで、閣下が一方的に残酷な殺戮を行なったという
報道を流すでありましょう。
そうなったら、彼らはいつまでもわれわれ日本人を、恨むことになります。
わが民族の悠久の大義に基づいて今後の永い友好関係のために、
閣下の怒りを静めて下さい。
インドネシア青年たちがこれ以上日本人を殺さなければ、
日本軍は報復を止めるという事を布告してください。
われわれは心の中ではインドネシアを愛し続けているけれども、
敗戦により禁じられているわれわれは、公然と独立を助ける事はできない。
われわれはインドネシアの独立を助けたいのだが、
必死に我慢しているのだという事を告げて下さい。
われわれは、インドネシア人がこれ以上日本人を殺さない限り、
インドネシア人を攻撃したり、インドネシアの独立を妨げる事は
決してない事を、布告してください」

こうした総山の必死の言葉に、沢村少将は、これを納得した。
12月17日、東スマトラ代表の命令として、
トンクハファスはテビンティンギの青年党に戦闘の停止を命令した。

このまことに残念な事件は、実際は度を越えた革命精神により
起こったのであって、その結果却って共和国の大切な国民保安隊や青年党が
大打撃を受け、革命精神の性急さのために却って革命が
打撃を受けてしまったのである。

大戦に敗れ降伏した後にも、
日本軍はインドネシアの独立戦争に同情していた。
にも拘わらず、インドネシアの青年の一部により残酷な方法で
仲間が殺されると、彼らは我慢できなかったのである。

メダンの共和国の指導者たちは、
当初この事件をそれほど重大視していなかったが、
12月18日になって、その全容が判ると、大きなショックを受けてしまった。

共和国政府は、政府の同意を求める事なく、
勝手に行動した共和国の青年たちを非難した。
また東スマトラインドネシア国営通信社は、
テビンティンギの青年たちは、強盗の刑事犯であるとの声明をだした。

日本軍はインドネシア人の敵ではないから、
事件が起ってもインドネシア人との争いの激化を望まないという事を、
われわれは確信せねばならない。
この日本によって与えられた好意を勝手な行動で裏切らないように、
東スマトラの全インドネシア人は肝に銘しなければならない。

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英国軍と戦った99歳の日本兵の手を握るインドのモディ首相 2014年9月2日
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終戦後、日本兵600名がベトナムに残り、独立運動組織に参加して貢献した!
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オランダの有色人種蔑視
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2009/11/24 09:00|年表リンク用資料
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