正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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これで分かる東京裁判

産経新聞 2005/08/01

終戦から六十年を迎える今も、日本人の意識は「過去の日本=悪」と
みなす東京裁判史観から脱却できず、
その思考パターンが外交や安全保障、教育など
さまざまな分野に影響を及ぼし続けている。

それほどまでに日本を呪縛してきた極東国際軍事裁判(東京裁判)とは一体、
何だったのだろうか。

東京裁判を実行した連合国軍総司令部(GHQ)幹部や戦勝国の判事ですら、
やがてその正当性と意義を疑うに至った「勝者」による「報復の裁き」
を検証する。(阿比留瑠比、加納宏幸)

■パール判事の慧眼/「真実探求」、無罪を主張
東京裁判の判事で唯一の国際法専門家だったインド代表の
パール氏は判決文(意見書)の最終章である「勧告」で、
「本官は各被告はすべて起訴状中の各起訴事実全部につき無罪と
決定されなければならず、
またこれらの起訴事実の全部から免除されるべきであると強く主張する」
と全員無罪を主張した。

「裁判を仕組んだ側の連合国当局の驚愕と狼狽は言語に絶した」
(日本側弁護団副団長の清瀬一郎氏)とされるパール判決文と
日本での講演から、主要な部分を抜粋する。

【パール判決文】
「時が熱狂と偏見をやわらげた暁には、
また理性が虚偽からその仮面をはぎとった暁には、
そのときこそ、正義の女神は、そのはかりを平衡に保ちながら、
過去の賞罰の多くに、そのところを変えることを要求するだろう」

「戦勝国は、敗戦国に対して、憐憫から復讐まで、
どんなものでも施し得る立場にある。
しかし、戦勝国が敗戦国に与えることのできない一つのものは正義である。
少なくとも、もし裁判所が法に反し、政治に根ざすものであるならば、
その形や体裁はどう繕っても、正当な裁判とはいえない」

「もし非戦闘員の生命財産の無差別破壊というものが、
いまだに戦争において違法であるならば、
太平洋戦争においてはこの原子爆弾使用の決定が、
第一次世界大戦中におけるドイツ皇帝の(無差別殺人の)指令、
および第二次世界大戦中におけるナチス指導者たちの
指令に近似した唯一のものである」

「本件の被告の場合は、ナポレオンやヒトラー(など独裁者)の
いずれの場合とも、いかなる点でも、同一視することはできない。
日本の憲法は完全に機能を発揮していた。
元首、陸海軍および文官は、すべての国家と同様、常態を逸しないで、
相互関係を維持していた。
(中略)
今次行われた戦争は、まさに日本という国の戦いだった。
これらの人々は、なんら権力を簒奪したものではなく、
国際的に承認された日本国の機構を運営していたにすぎなかった」


【日本での講演】
「私は日本に同情するがため、かの意見を呈したのではない。
私の職務は真実の発見である。真実を探求した結果、かような結論になった」
(昭和二十三年、東京弁護士会での講演)
「日本とドイツに起きたこの二つの国際軍事裁判を、
他の国の法律学者がこのように重大問題として真剣に取り上げているのに、
肝心の日本において、
これが一向に問題視されないというのはどうしたことか。
これは敗戦の副産物ではないかと思う。

米国の巧妙なる占領政策と、戦時宣伝、心理作戦に災いされて、
過去の一切があやまりであったという罪悪感に陥り、
バックボーンを抜かれて無気力になってしまった」
(二十七年、大阪弁護士会での講演)

「一九五〇年の英国の国際事情調査局の発表によると、
東京裁判は結論だけで、理由も証拠もないと書いてある。
(中略)
私一人は無罪と判定した。
私はその無罪の理由と証拠を微細に説明した。
しかるに他の判事らは、有罪の理由も証拠もなんら説明していないのである。
おそらく明確にできないのではないか」(同年、広島弁護士会での講演)

「米国は原子爆弾を投下すべき何の理由があったであろうか。
日本はすでに降伏すべき用意ができていた。
(中略)
これを投下したところの国から、
いまだかつて真実味のあるざんげの言葉を聞いたことがない」
(同年、広島での世界連邦アジア会議での演説)


ラダ・ビノード・パール氏

1886年、インド・ベンガル州に生まれる。
カルカッタ大を首席で卒業後、インド連合州会計院勤務、
アンナダモハン大数学教授などを経てカルカッタ大法学部教授(後に総長)。

1946年にネール首相の指名により極東国際軍事裁判(東京裁判)の
インド代表判事に任命された。
裁判終了後はカルカッタで弁護士を務めたほか、
ハーグの国際仲裁裁判官、ジュネーブの国連司法委員会議長などを歴任。
日本政府からは勲一等瑞宝章を受けた。

1967年1月、カルカッタの自宅で亡くなった。

■開廷までの経緯
連合国側の米英中三カ国は昭和二十年七月二十六日、
ポツダム宣言を発表し、日本に降伏を迫った。
日本政府は八月十四日にこれを正式受諾。
同宣言の「吾等の俘虜(捕虜)を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に
対しては厳重なる処罰を加へらるべし」という規定に基づいて、
戦犯裁判が行われることになった。

日本に進駐したGHQは同年九月十一日、
日米開戦時の首相だった東条英機氏ら三十九人の逮捕を
命令したのを皮切りに、同年中に百人以上の戦犯の拘束を行った。

捕虜虐待や非戦闘員の殺害など、
戦争法規・慣例に違反した通常の戦争犯罪行為を裁くBC級戦犯の裁判は
同年中にフィリピンなど各地で始まった。

東条元首相らA級戦犯に対する東京裁判は、
二十一年一月、GHQのマッカーサー総司令官の命によりつくられた
極東国際軍事裁判所条例に基づき実施された。
同条例は通常の戦争犯罪以外に、共同謀議をして侵略戦争を行い
世界平和を攪乱(かくらん)したとして、
国際法にも慣習法にも根拠のない「平和に対する罪」や、
民間人に対する大量殺戮(さつりく)など非人道的行為に対する
「人道に対する罪」についても規定した。

これにより、四人の元首相を含む政府首脳、
陸軍指導部などの計二十八人がA級戦犯容疑者として指名され、
同年五月三日、東京・市ケ谷台の旧陸軍士官学校跡に
設置された同裁判所で東京裁判が開廷した。

一方、日本側は二十一年九月十二日の閣議で、
独自に戦争犯罪を早急に調査し、自主的な裁判を行うことを決定。
重光葵外相がGHQのサザーランド参謀長に
要請したが拒否された経緯がある。


ポツダム宣言
1945年7月26日、トルーマン米大統領、チャーチル英首相、
対日参戦前のスターリン・ソ連首相がドイツ・ベルリン郊外のポツダムで
協定した対日降伏勧告文書。

後に蒋介石・中国総統の同意を得て、4主要連合国の宣言となり、
日本は8月14日にこれを受諾した。
日本に無条件降伏を迫った文書との誤解があるが、
実際は「われらの条件は、左のごとし」と降伏条件を提示しており、
「全日本軍隊の無条件降伏」を求めたものと解釈される。

また、連合国による占領、日本の領土制限、戦争犯罪人の処罰などのほか
「言論の自由の尊重」もうたっているが、
これはGHQ自身が検閲を実施したことで破られた。

■弁護側資料は却下/「対ソ侵略」糾弾も
東京裁判の判事は、戦勝国のうち日本の降伏文書に
調印した米、英、仏、中、ソ、オランダ、オーストラリア、カナダ、
ニュージーランドと、戦勝への貢献でインド、フィリピンを加えた
計十一カ国から一人ずつ任命され、
オーストラリア代表のウェッブ判事が裁判長に選ばれた。
公正な審理が比較的期待できる中立国からは、一人も選ばれていない。
検察側は米国のキーナン首席検事のほか各国代表の十一人。
弁護側は、鵜沢総明氏が弁護団長、清瀬一郎氏が副団長に選任され、
二十五人の米国人弁護人も加わった。

審理対象となったのは、昭和三年一月一日から日本が降伏文書に
調印した二十年九月二日までの期間の
「侵略戦争遂行の共同謀議」「対中侵略戦争遂行」「対米侵略戦争遂行」
「(日ソが軍事衝突した)ノモンハン事件遂行」-など。

日ソ中立条約を一方的に破って対日参戦し、千島列島や樺太を奪い、
約六十万人をシベリアに抑留した側のソ連が裁判官席、検察官席に座り、
日本による「対ソ侵略」を糾弾するという奇妙な裁判でもあった。

また、東京裁判開廷の根拠となった極東国際軍事裁判所条例は、
「被告人に対する公正なる審理」を保証していたが、
実際は弁護側が提出した証拠文書などは大部分が却下された。
反対に、検察側の証拠は「通例なら伝聞証拠として
却下されうるような材料をも受理した」(パール判事)。
このため、仏代表のベルナール判事は
「条例は被告に弁護のために十分な保障を与えることを許していると
自分は考えるが、実際には、この保障は被告に与えられなかった」と、
裁判を批判した。

■国際法に根拠のない「新法」で裁く
法なくして罪なしとする「罪刑法定主義」や、
過去にさかのぼって犯罪を処罰するため法律を制定する
「事後法」の禁止は近代法の大原則だが、
東京裁判はこうした原則を逸脱していたことから、
日本側弁護団から多くの疑義が呈された。

東京裁判開廷十日後、弁護団副団長の清瀬一郎氏(後に衆院議長)は
裁判管轄権に関する動議を行った。
連合国側が訴因とした
「平和に対する罪」「人道に対する罪」は日本が受諾したポツダム宣言には
明記されていない事後法に当たるため、
両罪について裁く権利はないというものだが、こうした主張は却下された。

しかし、ポツダム宣言に明記されている戦争犯罪は捕虜虐待だけ。
連合国側は一九二八年(昭和三年)のパリ不戦条約で
「戦争の違法化」が行われたことをもとに、戦犯が共同謀議で戦争を開始、
遂行したとして「平和に対する罪」を犯したとしたが、
共同謀議は結局、明確にはされなかった。

また、国家が正当な手続きを踏んで行った戦争について、
個人の戦争責任を問うたことにも異論は多かった。
オーストラリア代表のウェッブ裁判長も
「平和に対する罪は事後法であるから、これだけで死刑は適当ではない」
と意見を述べている。

一方、法理論上の疑義だけでなく、
連合国側の一方的な「勝者の裁き」について
「法律的外貌をまとってはいるが、
本質的には政治的である目的を達成するため
(極東国際軍事裁判所が)設置されたにすぎない」
(インドのパール判事)との批判を招いた。

■ナチスドイツより厳しく裁かれた日本
東京裁判が開廷する半年前の一九四五年(昭和二十年)十一月から
翌年十月にかけ、ドイツのニュルンベルクでナチスの戦争犯罪を裁く
国際軍事裁判(ニュルンベルク裁判)が開廷した。

この裁判では、初めて「平和に対する罪」や「人道に対する罪」が
訴因として採用され、
東京裁判はニュルンベルク裁判の法的枠組みをほぼ踏襲した。
ただ、訴因についてはニュルンベルク裁判が四つだったのに対し、
東京裁判では「タイ王国に対する戦争の計画準備」など
不可解なものを含めて個別事案が対象とされたため、
訴因は五十五にも膨れ上がった。

また、東京裁判や千人以上が処刑された世界各地でのBC級戦犯裁判など、
日本に対する裁判の方がより厳しく刑罰が科せられたといえる。
ニュルンベルク裁判では二十四人が被告とされ、
自殺などで審理から外れた二人を除く二十二人に対し、絞首刑十二人、
終身刑三人、有期刑四人、無罪三人の判決が出された。

一方、東京裁判では二十八人が被告となり、
審理から外れた三人を除く二十五人が全員有罪となり、
絞首刑七、終身刑十六、有期刑二の判決が下された。
ユダヤ人に対するホロコースト(大虐殺)などドイツの残虐性はより高く、
死刑はニュルンベルク裁判の方が多いが、有罪の人数は東京裁判の方が多い。
また、ニュルンベルク裁判で死刑判決を受けた十二人はいずれも
「人道に対する罪」が問われたのに対し、
東京裁判では誰も同罪では有罪とならなかった。

オーストラリア代表のウェッブ裁判長は
「ドイツと異なる基準を用いない限り、日本人は死刑にならない」
「起訴されたドイツ人の罪は、日本被告人の罪に比べてはるかに凶悪であり、
多様であり、範囲も広かった」と率直に認めている。

■検閲…許されない批判
日本が受諾したポツダム宣言には、
「言論、宗教、思想の自由、そして基本的人権が確立されねばならない」
とあるにもかかわらず、
GHQのマッカーサー総司令官は昭和二十年九月十日、
「報道・思想の自由」に関する指令を発し、新聞、
ラジオその他メディアの検閲に乗り出した。

GHQは東京裁判に対する「一切の一般的批判」について、
厳しく削除または掲載・発行禁止処分を行った。
また、これを恐れるあまり、日本側メディアも報道内容の自主規制を行い、
必要以上に東京裁判批判を抑制したのも事実のようだ。

自身もA級戦犯容疑者とされて獄中生活を送った岸信介元首相は、
二十一年十一月十四日、パール判事の全員無罪の意見書を
日本タイムスの報道で知り、
同紙以外が一部しかこれを報じなかったことについて、
次のような感想を記している。
「之れは各新聞社の卑屈か非国民的意図に出づるものである。
之等の腰抜共は宜しくパール判事の前に愧死(きし)すべきである」
(獄中日記)

■昭和天皇「戦犯」に深い同情/天皇誕生日に刑執行の"演出"
昭和五十三年に靖国神社がA級戦犯を合祀(ごうし)したため、
昭和天皇が靖国参拝を以後とりやめたとの見方がある。
しかし、昭和天皇の東京裁判をめぐる発言をみると、
昭和天皇は東条英機元首相をはじめとする
A級戦犯に深い同情を寄せており、
「戦争犯罪人」という認識は持っていなかった。

東京裁判で証拠資料として採用された昭和天皇の側近、
木戸幸一内相の「日記」によると、終戦直後の昭和二十年八月二十九日、
昭和天皇は次のように話している。
「戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、
自分が一人引受けて退位でもして納める訳にはいかないだろうか」
九月十二日には、「敵側の所謂戦争犯罪人、
殊に所謂責任者は何れも嘗(かつ)ては只管忠誠を尽したる人々」
と述べている。

また、木戸が戦犯容疑者とされた後の十二月十日の項には、
昭和天皇は「今回は誠に気の毒ではあるが、どうか身体に気を付けて」と
木戸をねぎらい、自らが政務室で使用していたすずりを贈ったとある。
現代史家の秦郁彦氏の研究によると、
昭和天皇は東京裁判の判決直前にも退位の意思を示したが、
GHQの慰留により思いとどまったという。

東京裁判では、昭和天皇と現天皇陛下のそれぞれの誕生日と、
裁判の節目となる行事を意図的に重ね合わせ、
「日本の『聖なる日』に十字架を負わせようとした」
(大原康男国学院大教授)とみられている。
GHQが東京裁判の起訴状を交付し、
A級戦犯の被告二十八人の名前を発表したのは昭和二十一年四月二十九日、
昭和天皇誕生日のこと。

また、絞首刑が宣告されたA級戦犯七人への刑執行は
二十三年十二月二十三日、皇太子さま(現天皇陛下)の誕生日に
合わせて実行された。

このほか、開戦時のフィリピン攻略軍の司令官で、
B級戦犯として起訴された本間雅晴中将の銃殺刑が宣告されたのは、
二十一年二月十一日の紀元節(現建国記念の日)。
処刑が実行されたのは同年四月三日の神武天皇祭で、
GHQの日本の祝日に対する執拗(しつよう)なこだわりがうかがえる。

■一貫性欠く政府の姿勢/相次ぐ異議、沈静化図る
戦後六十年の節目を迎える今年、
自民党内から東京裁判への批判が相次いでいる。
政府はその内容について「政府の公式見解ではない」(細田博之官房長官)
と火消しに躍起だが、長年日本人の心に潜在してきた
「東京裁判はどこかおかしい」という疑問はいまなお解消されていない。

五月二十六日の自民党代議士会。
森岡正宏厚生労働政務官(当時)は「私の思いを聞いてほしい」
と問題提起した。
「A級戦犯だって、B級戦犯だって、C級戦犯だって、
それぞれ絞首刑にあったり禁固刑にあったりして罪を償った。
日本の国内ではその人たちはもう罪人ではない」
発言には「正論を述べた」(平沼赳夫元経産相)と多くの拍手が送られた。

森岡氏はその後も同様の発言を続け、
官邸サイドは「日本は平和条約(サンフランシスコ講和条約)により、
極東国際軍事裁判所の裁判を受諾しているから、
不法なものとして異議を述べる立場にはない」(細田官房長官)
と事態の収拾に追われた。

だが、森岡氏の意見は少数派というわけではない。
中曽根康弘元首相も
「私の考えは、東京裁判は認めない。東京裁判は戦争の延長で、
講和条約で終わりだ。
戦犯といわれる方々が、犯罪だとか罪だとかの考えは毛頭ない」
と表明しており、亀井静香元政調会長は
「日本は東京裁判の歴史判断まで認めたわけではないのは明確だ」と訴えた。
また森岡氏の主張は、戦後一貫した政府の見解に
沿ったものだったともいえる。

昭和二十六年十月、サンフランシスコ講和条約などについて審議する
衆院特別委員会で、外務省の西村熊雄条約局長は
「平和条約の効力発生と同時に、
戦犯に対する判決は将来に向かって効力を失う」との国際法の原則を示し、
講和条約一一条は「日本が判決執行の任に当たる」ために設けられた条項
であると強調した。

同年十一月の参院法務委員会では、大橋武夫法務総裁(現在の法相)が
「(戦犯は)国内法においてはあくまで犯罪者ではない。
国内法の適用において、これを犯罪者と扱うということは適当ではない」
と答弁。
翌年五月には木村篤太郎法務総裁も通達で、
戦犯を国内法上での犯罪人とはみなさないとした。

しかし、最近では
「一一条の受諾は単に刑の言い渡し、センテンス(刑の宣告)だけを
受諾したものではない」(平成十年三月の竹内行夫・外務省条約局長の答弁)
として、講和条約で東京裁判の判決だけを
受け入れたのではないような見解をとっている。
その延長線上に「東京裁判を受諾している。
(A級戦犯は)戦争犯罪人だという認識がある」という
小泉純一郎首相の国会答弁(六月二日の衆院予算委)もあったとみられる。

しかし、政府は東京裁判で被告の全員無罪を主張したインド代表の
パール判事や、A級戦犯として収監された重光葵元外相に
大勲位に次ぐ名誉である勲一等を授与している。

東京裁判に対する姿勢に揺れがみられるのは事実だ。
東京裁判を事実上、主宰したGHQのマッカーサー総司令官自身も、
一九五一年(昭和二十六年)五月、米上院軍事外交合同委員会で
「日本が戦争に突入した目的は、
大部分が安全保障上の必要に迫られてのことだった」と証言し、
先の戦争は日本にとり「自衛戦争」だったとの認識を明らかにしている。
この発言について河相周夫北米局長は「注目に値する」と指摘している。
東京裁判をめぐる論争はまだまだ続きそうだ。


サンフランシスコ講和条約11条

日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内
および国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、
かつ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が科した刑を
執行するものとする。

これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、および仮出獄させる権限は、
各事件について刑を科した一又は二以上の政府の決定
および日本国の勧告に基づく場合の外、行使することができない。

極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、
この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定
および日本国の勧告に基づくの外、行使することができない(外務省訳)


A級戦犯
一般に、「A級戦犯」は最も罪が重い人という意味に誤用されているが、
A、B、Cの区別はランク付けではなく、

GHQが戦犯を選定する際に用いた便宜的な犯罪のカテゴリーを示す。

Aは侵略戦争を遂行した「平和に対する罪」、
Bは戦争法規・慣例に違反した「(通常の)戦争犯罪」、
Cは民間人に対する迫害や殲滅(せんめつ)を実行した「人道に対する罪」

-という区分けだが、明確な法的根拠はなく、
「A級戦犯」という呼称は「通称」にすぎない。

■「戦犯」、生存者は名誉回復
東京裁判の起訴状で、二十八人のA級戦犯は
「昭和三年から二十年に至るまでの期間において、
共通の計画、または共同謀議の立案または実行に指導者、教唆者、
または共犯者として参画した」とされたが、
実際には互いに一面識もない者同士もいた。
A級戦犯の人選は「日本人から見ても、そんなに非常識な線ではなかった」
(現代史家の秦郁彦氏)とされるが、
裁いた側の評価も量刑などをめぐって割れている。

法廷で一切の弁明を行わず、文官でただ一人、
死刑となった広田弘毅元首相については判決後、
助命を求める署名運動が起こり、十万を超える署名が集まった。

オランダ代表のローリング判事は
「中国側の要求で、広田は『南京虐殺』と日本側の不法行為に責任あり
として裁判にかけられ、死刑判決を受けた。
私は、広田は『南京虐殺』に責任ありとは思わない。
生じたことを変え得る立場ではなかった」と述べている。
キーナン首席検事ですら「松井石根(陸軍大将)、広田の死刑は不当だ」
と述べている。

キーナン検事は元駐ソ大使で、
ソ連代表団の強い要求で起訴された重光葵元外相についても
「私は重光氏が有罪の判決を受けたこと、
さらに彼が裁判にかけられた人々の中に含まれたこと自体に対して、
深き遺憾の意を表した」と手紙に書いた。

重光氏は釈放後、副首相兼外相となり、
日本の国連復帰の場面にも立ち会った。
対中戦争と対米戦争の遂行に積極的に従事したとして
罪を問われた賀屋興宣元蔵相も釈放後、法相となって名誉を回復した。

A級戦犯容疑者とされたが不起訴となった岸信介元商工相は釈放後、
首相として活躍しており、
「死んで靖国神社に祭られたA級戦犯だけを犯罪人呼ばわりするのは
筋が通らない」(自民党幹部)との指摘は根強い。
開戦時と終戦時に外相を務め、米国との交渉で指導的な役割を演じたとして
断罪された東郷茂徳元外相に関しても、
戦犯と見なすのはおかしいとの見方は少なくない。

東郷氏は獄中で書き上げた著書『時代の一面』の中で
「東条内閣を以って直ちに戦争に突入すべき内閣と観察したものが
あるようであるが、
その見解に同意し得ざると共に少なくとも予に関する限りは
戦争突入よりも戦争防止に努力するための入閣であった」と記している。

■東条元首相…「自衛戦争だが敗戦の責任は私に」
東京裁判では被告たちは専ら、侵略戦争を企てたとする開戦責任を問われた。
「戦勝国が負けた相手に敗戦責任を問うわけがない」
(現代史家の秦郁彦氏)ためだ。

ただ、東条英機元首相自身はというと、
昭和二十二年十二月十九日付の口述書で、
日本の戦争の正当性を主張する一方で、
自らの敗戦責任については明確に認めている。

東条元首相は、先の戦争の位置づけについては
「日本帝国の国策ないしは、当年、合法にその地位にあった官吏の
とった方針は、侵略でもなく、搾取でもなかった。
(中略)
私は最後までこの戦争は自衛戦であり、
現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張する」と述べている。
そのうえで、大きな損害を受けた国民に対しては
「敗戦の責任については、当時の総理大臣たりし私の責任である。
衷心より進んでこれを負荷せんことを希望するものである」と語っている。

■オランダ判事「裁判誤り」、竹山道雄氏に後年吐露
小説『ビルマの竪琴』の作者として知られるドイツ文学者の
竹山道雄氏(故人)は昭和二十二年に偶然、東京裁判のオランダ代表判事、
ローリング氏と知り合い、裁判について親しく意見を交わすようになった。
竹山氏の著作『昭和の精神史』などによると、
ローリング氏は「東郷をどう思うか」とA級戦犯とされた東郷茂徳元外相に
ついて意見を求めたり、裁判への疑問を述べた竹山氏に対し、
「いまは人々が感情的になっているが、やがて冷静にかえったら、
より正しく判断することができるようになるだろう」と漏らしたりしている。

ローリング氏は二十三年十一月の東京裁判の判決時には、
オランダ政府の意向に逆らい判決内容に反対する意見書を提出。
意見書は被告全員を有罪とした本判決とは異なり、畑俊六、広田弘毅、
木戸幸一、重光葵、東郷茂徳の五被告に無罪判決を下した。
それから八年後の三十一年、オランダを訪問した竹山氏に対し、
ローリング氏は「あの裁判は誤りだった」と東京裁判を批判。

さらに「もしあの裁判がいま行われれば、
あのようには考えられないだろう。
俘虜虐待などの通常の戦争犯罪は別として、
政策の結果として起こったことに対しては、
ああいう結論にはならなかっただろう。
おおむねインド人のパールのように考えただろう」と振り返っている。

■原爆投下、完全にタブー視
東京裁判の公判第五日の昭和二十一年五月十四日、
米国人のブレイクニー弁護人の弁論が途中から日本語に通訳されない
という珍事が起きた。

ブレイクニー弁論は日本文速記録でも「以下通訳なし」とされて
明らかにされず、英語能力に乏しい日本人には中身が伝わらなかった。
実は東京裁判でタブーとされた米国による原爆投下に言及したため、
通訳が止められたもので、
連合国側が原爆問題に神経質になっていた様子が分かる。

ブレイクニー氏は
「国家の行為である戦争の個人責任を問うことは、法律的に誤りだ」
「戦争は合法的だから、戦争での殺人は罪にならない」と指摘。
そのうえで、「(訴因の一つの)真珠湾爆撃による米軍人の死が殺人罪に
なるならば、われわれは広島に原爆を投下した者の名を挙げることができる。
(中略)
何の罪科で、いかなる証拠で、戦争による殺人が違法なのか。
原爆を投下した者がいる。
この投下を計画し、その実行を命じ、これを黙認した者がいる。
その人たちが裁いている!」と訴えた。

通訳が止められた件については、清瀬一郎弁護人が抗議し、
ウェッブ裁判長は「必要な翻訳は、できるだけ早い機会に提供する」
と答えたが、その後も翻訳文は配布されなかった。
東京裁判ではこのほか、原告団のソ連への配慮からか
「共産主義の脅威」もタブーとされた。

■「偽書」の征服計画を基に追及
東京裁判は、先の大戦は日本の軍国主義者たちの共同謀議に基づく
侵略プログラムに沿って実行されたという見方を前提として始まった。
検察側は、それを立証するために日本の世界侵略計画を記した
「田中上奏文」なるものを持ち出したが、
裁判途中でどうも偽書らしいと気付いて追及をやめている。

田中上奏文は、昭和二年の東方会議後に
田中義一首相が昭和天皇に上奏した内容という触れ込みで、
昭和四年ごろから中国で出回り、
日本政府は偽書として取り締まりを申し入れていた。

内容は「支邦を征服せんと欲せば、まず満蒙を征せざるべからず。
世界を征服せんと欲せば、必ずまず支邦を征服せざるべからず…」
という荒唐無稽(むけい)なものだが、
中国の高校教科書には「日本の侵略政策」として事実として記載されている。

≪国際日本文化研究センター助教授・牛村 圭氏≫

■短絡的な被告指弾は知的怠惰
東京裁判がキーナン首席検事の冒頭陳述にあるように
「文明の裁き」だったかというと、答えは否である。
キーナンは、自分が文明的考察を加える気持ちはおよそなく、
自分たちを理想化するため「文明」を持ち出したのであり、
非常に政治的な枠組みの言葉だった。

東京裁判はまた、「勝者の裁き」と形容される。
(1)勝った側が負けた側を裁いた
(2)裁判官はすべて勝った側だった
(3)勝った側の戦争犯罪は裁かれなかった
-という意味で、これはその通りだ。

「A級戦犯」とは、あくまでも連合国の政治的な枠組みに過ぎない。
ちなみに、日本がサンフランシスコ講和条約一一条で受諾したのは、
東京裁判の「判決」で、政府がいうような「裁判」そのものではない。
フランス語の条文をみれば一目瞭然、判決としか読めない。
これは当時の外務省の誤訳である。

幸い、小泉純一郎首相が何度も靖国神社を参拝し、
ニュースや活字で誰もがA級戦犯という言葉を知るようになった。
今こそ、良くも悪くもすべてをさらけ出し、
国民一人ひとりに判定してもらう良い機会だと思う。
ある人は「この人がもう一歩何か働いていたら…」と、
ある人は「こんな人が裁かれていたとは政治的な策動だ」
と思うかもしれない。
被告を十把一からげに極悪人として指弾するのは、知的怠惰である。(談)

≪伊藤忠商事元会長・瀬島龍三氏≫

■「負ければ賊軍」しみじみ実感

東京裁判の本質は、勝者が敗者を腹いせや、
復讐のために裁いたにすぎなかった。
いわゆるA級戦犯の方々は、国家の責任を背負われたのだと思う。
昭和天皇は被告の方々を「忠誠を尽したる人々」と言われたが、
その通りだと思っている。

私はシベリア抑留中の昭和二十一年十月、
旧ソ連によって東京裁判に証人として出廷させられた。
法廷は極度に緊張した雰囲気だったが、被告の方々は泰然としていた。
キーナン首席検事の尋問も受けたが、
いかにもやり手だなという感じを受けた。

法廷で最も痛ましいと思ったのは、被告席にいる東条英機大将をはじめ、
かつての指導者、大先輩たちの姿だった。
少なくとも「国のためによかれ」と指導にあたったにもかかわらず、
戦いに敗れ、その責めを一身に負い、追及されていた。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」のつらさをしみじみと考えさせられた。
今になって、A級戦犯や東京裁判に対する国内の評価が割れているのは、
裁判の結果に対する日本政府の対応がまずかったのではないか。

政府が早い時期に
「東京裁判の判決は受諾したが、
裁判は法に基づく適正な運用がなされたものではなく、
被告の方々は国家を代表して責任をとらされたものだ」などと
締めくくりを行っていた方が、処理しやすかっただろう。(談)
2009/11/21 09:00|年表リンク用資料
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