正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1587年、バテレン追放令

『西洋とどう付き合うか』という問題が秀吉に重くのしかかった。

1543年、ポルトガルが来航し、多くの西洋文明が日本に伝わる。
「鉄砲」・「西洋のよろい」・「世界地図」・「望遠鏡」などだ。

当時の有名な武将たちである信長・秀吉・家康らは、
これら西洋文明を積極的に受け入れた。

そして、日本に伝わったのは、そういった文明だけではなかった。

1549年、「キリスト教」の伝来である。

聖徳太子のときは、仏教(中国文化)だったが、それから約1000年後、
今度はキリスト教(西洋文化)が日本にやってきた。

この時、日本を統一していたのは、豊臣秀吉であった。
秀吉は低い身分から、知恵と工夫で日本のトップに昇りつめた人物だ。

そんな秀吉を悩ませた問題が、
この「西洋(ポルトガル、スペイン)とどう付き合うか?」であった。

●秀吉の考え
 
主な問題は次の2つだ。

①貿易問題
②宗教問題

秀吉は、①の貿易をぜひ続けたかった。
西洋の技術や産物は日本にとってとても魅力的だからだ。

そして、②のキリスト教についても、秀吉はたいへん好意的であった。
秀吉の身近な者にもキリストの信者が少なくなかったそうだ。

また、民衆の中にもキリスト教の信者が増え、
当時数十万人も信者がいたといわれている。

日本人には、新しいものや外国からの文化を差別せず
広く受け入れるという民族性が、
この頃にすでに根付いていた。これはまさに聖徳太子が願ったことだった。

しかし、ここで問題が起こる。

キリストを信じるようになった大名(キリシタン大名)が、
自分の領地の民衆に
「キリスト教を信じろ」と強制するようになったのである。
しかも、領内にある神社やお寺を破壊し始めた。

そこで、秀吉は1587年に次のような法律をつくる。

◆キリストを信じるかどうかは、個人の自由とする
◆キリシタン大名は、
領地の民衆にキリシタンになることを強制してはならない。

この法律は聖徳太子の方針と似ている。
秀吉は、この法律をキリシタン大名の高山右近と
宣教師のコエリョに見せ、意見を求めた。

しかし、二人はこの法律に猛烈に反対した。

なぜなら、キリシタンにとっては、
自分の信じる神が絶対の善であって、他の神は悪だからだ。

日本はもともといろんな神様がいて良いという考えである。
だから、神も仏もまつったのだが、キリスト教はそれを許さない。
信じたい人が信じればいいのではなく、
みんながキリスト教を信じなければならない。
(*もちろん、これは当時のキリスト教の話である。)

これは聖徳太子のときの仏教伝来とは、質の異なる問題だった。

では、秀吉はこの法律に反対されて、どうしたのだろうか。

■豊臣秀吉VSフェリペⅡ世

秀吉は、この法律をいったん白紙にした。
なぜなら、とてもバランスが取れていると思えるこの法律に、
しかも、主人である自分に猛烈に反対するとは、
これは手ごわいと考えたからだ。

つまり、秀吉はこんな緩いルールでは早晩、
日本の神や仏が滅ぼされてしまうと危惧したのだった。

そこで、次のように法律を改めた。

◇日本は神と仏の国であり、キリストこそ邪悪である。
◇大名はキリスト教を民衆に強制してはならない。
また、神社や寺を壊してはいけない。
◇キリスト教の宣教師(バテレン)は日本から追放する。

これが有名な「バテレン追放令」である。

秀吉は『あれもこれも、いいものはいいだろう』と考えていたが、
キリシタンの猛烈な宗教心に
オチオチしていられないと覚悟を決めたのだろう。

この法律は、最初の法律を高山右近らに見せた翌日に作られた。
これは、秀吉の頭の回転の速さと決断力を伝える
エピソードの一つと言えるだろう。

しかし、この法律はきちんと実行されずにあいまいにされた。

なぜなら、フェリペⅡ世が登場するからだ。
フェリペⅡ世は当時のポルトガルとスペインの両方を
支配していた王様である。
つまり、このキリスト教問題は、
「秀吉VSフェリペⅡ世の戦い」ともいえるのである。

当時、ポルトガルとスペインは大航海時代を向かえ、
世界の海に乗り出した。
地球は丸いという発見をし、地球は一周できることを知った。
彼らの勢力は世界中におよび、フェリペⅡ世の領土をたどれば、
世界一周ができると言われていた。

秀吉が相手にしていたのは、この当時世界最強の国だったのである。

そのフェリペⅡ世が、「お前が宣教師を追放するならば、
われわれはお前たちとの貿易を止める」と脅してきた。

そのせいで、秀吉はバテレン追放令を厳しく実行することができなかった。
貿易はしたいがキリスト教は入れたくはないという
秀吉の苦悩が想像できる。

その後、秀吉はスペインの船乗りからこんなことを聞いた。

「スペインはまずその国にキリスト教を広めて信者を増やす。
仲間を増やして団結するためだ。
そうして、最後には軍隊を送り込んでその国を支配する。
日本もいずれそうなるだろう。」

これは、今から見ればアメリカ大陸や
アフリカ大陸の歴史にぴったりと付合する。

秀吉はギクリと唾を飲み込んだに違いない。
そこでスペインへの牽制として、長崎でキリシタン26人の処刑を実行した。

また、この頃日本の宣教師がフェリペⅡ世に宛てた手紙が見つかる。
手紙には以下のように書かれていた。
『スペイン艦隊の基地を天草に置く。日本の海軍は弱い。
九州と四国を占領するのは簡単だ。』

これは、スペインの船乗りが言っていたことを決定付けるものである。

その後、この計画はどうなったであろうか。
今日まで九州も四国も、スペインやポルトガルに征服されたことはない。

それでは、このフェリペⅡ世の日本征服計画が頓挫した理由は、
一体何だったのだろうか?

秀吉がフェリペⅡ世と戦争して勝ったからか。
しかし、そんな戦争をしたという歴史はない。
では、どういったことなのであろうか。

その理由は、フェリペⅡ世が死んでしまったからだった。死因は病死。
しかも、フェリペⅡ世の死んだ五日後に、
なんと、秀吉も亡くなるのである。

こうして、ひとまずスペインの日本征服計画は流れ、
日本は「西洋とどう付き合うか」という問題は、
次の日本のトップである徳川家康へと引き継がれることになる。

なお、当時の日本は鉄砲を国産していて、
鉄砲の保有量がスペインの保有量を超えていたそうである。
日本の鍛冶職人が鉄砲を見ただけで、いっぱい作ってしまったそうだ。
日本の職人技術がこの頃から高かったのが分かる。

一方、そのことはスペイン・ポルトガルからすると、
日本はアフリカ大陸やアメリカ大陸の先住民と違って、
軍事力があり、あなどれない相手として映ったであろう。

そういった背景も日本征服の歯止めになった一因である。

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ブログ『日本よ日本たれ!』より引用
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2010/04/15 07:00|年表リンク用資料
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