正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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アメリカ軍やオーストラリア軍の蛮行

沖縄本島には千二百隻の艦船に分乗する十七万人のアメリカ軍が来攻した。
わが軍と陸海空において、凄惨な血戦が繰りひろげられた。
―――――――
以下、マックス・ヘイスティングス著(イギリスの歴史作家)
「ネメシス 日本との戦い 1944―45年」
ハーパースプレス社、ロンドンからの引用
―――
一般住民がさまよう戦場では、身の毛がよだつようなことが起こった。
とくに沖縄戦がそうだった。
クリス・ドナー(アメリカ軍兵士)は、こう記録している。

地面に十五歳か、十六歳と思われる、少女の美しい死体が横たわっていた。
全裸でうつ伏せになって、両腕を大きく拡げていたが、
やはり両脚を開いて、膝から曲げてあがっていた。
仰向けると、少女の左乳房に銃弾が貫いていたが、
何回にもわたって強姦されていた。日本兵の仕業であるはずがなかった。

しばらく後に、ドナーの分隊の何人かが、
丘の上から敵によって狙撃されて、倒れた。

その直後だった。赤児を抱きしめている日本女性に、遭遇した。
兵たちが口々に、
「あのビッチ(女)を撃て! ジャップ・ウーマン(女)を殺せ!」
と、叫んだ。

兵がいっせいに射撃した。
女は倒れたが、渾身の力を振りしぼって立ち上がると、
手離した赤児のほうへ、よろめきながら進んだ。
兵たちは、さらに銃弾を浴びせた。女が動かなくなった。

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■オークラ出版「拉致と侵略の真実」『沖縄の受難史』恵隆之助
■小学館「沖縄論」小林よしのり(著)
■沖縄戦関係資料閲覧室 証言集
http://www.okinawa-sen.go.jp/testimony_data/shogen02-05/index.djvu

◆仲地文子さん

羽地でも、真喜屋あたりへ食糧を探しに行く途中で、
米兵に襲われた女性が何人かいた。
だから、米兵の目をごまかすために、女たちはわざと顔に鍋墨を塗り、
薄汚いなりをして歩いたものだった。
また、深夜に突然米兵が現れると
空き缶やバケツなどをガンガン叩いて追っ払ったものである。

◆山里宗富さん

戦前私の近所に照屋松助という頑丈な男がいた。
当時彼は家族と別れて一人で瀬底に避難していたが、
その日はたまたま健堅に戻って来て家族とともにウイバルにいた。
すこし体のぐあいが悪いということで寝ていたのである。
そこへ突然銃を持った二人の米兵が現れ、妻子に乱暴しようとした。
たまりかねた彼は起き上がってきて米兵の前に立ちはだかり、
『私も海軍にいたことがあるが、
君たちのように非道なことをしたことはない、ささっさと帰りたまえ』
と怒鳴りつけた。
言葉は通じなかったもののその場は何事もなく収まり、
米兵らはいったん引き上げたかに見えた。
ところが間もなく米兵らが戻って来て、彼をたたき起こし、
銃をつきつけて前へ歩くように明治、
前の原っぱに連れ出していきなり射殺したのであった。

◆末吉カメさん

普通の米兵はとくに悪いことをするようでもなかったので、
私達は安心していた。
ところがそのなかに、住民から鬼のようにこわがられている者がひとりいた。
やせっぽちのシビリアンと呼ばれていたが、彼はいつも銃を持ち歩き、
男という男はかたっぱしから捕まえてひっぱっていったし、
若い女性には乱暴をはたらくなど、非道のかぎりをつくしていた。
事実彼によって何人かの男たちが殺されてしまった。
そいつが村に入って来るのを見て、すばやく若い女性を逃がしたために、
原っぱに連れ出され、正座を命じられて射殺された男もいた。
米軍は寛容で親切だったなんてことはまったくなかったのです。
自決せず投降して助かった人が幸せだったとはいえないでしょう。
こうした米軍の蛮行を見て戦時中
「米軍は女性を陵辱し、男性は戦車でひき殺される」
というフレーズが思い出す人もおり、自決した友人達を羨んだといいます。

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【サイパン】米兵、婦女子らに残虐行為
昭和19年7月9日、元陸軍大尉(独立混成第47旅団)の
田中徳裕(のりすけ)氏らが山の中腹の洞窟から眼下の
バナデル飛行場で繰り広げられた惨状を証言
『我ら降伏せず サイパン玉砕戦の狂気と真実』田中徳裕著(立風書房 昭和58年)
http://amzn.to/1czuIJ9

昭和19年6月15日午前8時45分、チランカノアの海岸に、
約3個師団と推測される敵兵が上陸してきた。
そこからサイパン島の陸上戦が始まった。

当時はサイパン島には砂糖工場があり日本人も居住していた、
民間人がいたことでかなり悲惨な結果になってしまった。

7月9日、このころには日本軍の組織的な抵抗は無くなり
掃討戦の様相をあらわしてきた。

敵は流ちょうな日本語でジャングル地帯に童謡を流し
投降を促す放送を流し始めた。
日本軍は組織的な抵抗は捨て、
洞窟に、数人、あるいは数十人ぐらいが生き残り潜んでいた。

米軍は日本人に対し、戦争が終わりサイパン島は米軍の手に落ちたこと、
隠れている日本人に投降を勧めました。
「投降すれば、立派な衣服や、美味しい食料も充分に与えます。
もはや犬死にすることはない、
今や死んでも花実は咲きません。みなさんの投降を待っています」

その後に、兎追いしかの山、と続く童謡を流し始めました。
これには潜んでいた日本軍も参ってしまった、
その後、桃太郎、天然の美、荒城の月などが流されたそうです。
「米軍は虐待しません。命が大切です。早く出て来てください。」

投降を勧める放送は再三繰り返されたが日本軍は、
その放送を頭から否定した。むしろ敵愾心がわいてきたそうです。

投降呼び掛けの放送とはうらはらな、
人道上許し難い残虐な行為をしだした。
日本軍はバナデル飛行場を見下ろせる洞窟にいて、
その距離1キロ位先で展開された。

そこへ、三方から追い込まれた数百の住民が逃げ込み、捕われの身となった。
幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ追いやられた。
婦女子が全員、素っ裸にされた。

そして、無理やりトラックに積み込まれた。
そして無理矢理積み込まれた順にトラックは走り出した。
婦女子全員が、トラックの上から
「殺して!」「殺して!」と絶叫している。

その声がマッピ山にこだまし、
次つぎとトラックは走り出し、彼女たちの声は遠ざかっていた。
なんたることをするのだ、
小銃だけではどうすることもできず、此方の位置も知れてしまう。
この悲劇をただ見守るしかなかった。
(この婦女子はその後一人として生還しなかった)

婦女子が連れ去られたあと、
こんどは滑走路の方から、子供や老人の悲鳴があがった。
ガソリンがまかれ、火がつけられた。
飛び出してくる老人子供たち。
その悲鳴。

「米軍は虐待しません、命が大切です。早く出てきなさい」
の投降勧告の意味は一体なんだったのか。

常夏の大空をこがさんばかりに燃え上る焔と黒煙。
幼い子供が泣き叫び、絶叫する。断末魔があがる。
残虐な行為は凄絶をきわめた。

火から逃がれ出ようとする子供や老人を、周囲にいる敵兵は、
ゲラゲラ笑いながら、また火の中へ突き返す。
かと思えば、死に物狂いで飛び出してくる子供を、
再び足で蹴り飛ばしたり、
銃で突き飛ばしては火の海へ投げ込んでいる。

二人の兵隊が滑走路のすぐ横の草むらに
置き去られて泣いている赤ん坊を見つけ出し、
両足を持って、真二つに引き裂いて火の中へ投げ込んだ。
「ギャッ」という悲鳴。
人間がまるで蛙のように股さきにされ殺されてゆく。

彼らは、それをやっては大声で笑った。
無気味に笑う彼らの得意げな顔が、鬼人の形相に見えた。

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連合軍が日本兵を捕虜にせず殺害しまくった例は枚挙に暇がない。

カリフォルニア大学のダワー教授はその著『人種偏見』において、
連合軍側の虐殺行為を詳しく紹介している。

例えば、すでに米軍の支配下にあった島に、
仲間とはぐれた日本兵を一人放ち、
その兵士が身の安全を求めて
狂ったように駆け出すところを銃の標的として楽しんだ。

ペリリュー島や沖縄の激戦地で、
米軍兵士は日本兵の死体から
手を切り取って戦果のトロフィーとする、金歯を漁る、
死体のあいた口めがけて小便をする、恐れおののく沖縄の老女を撃ち殺し、
「みじめな生活から逃れさせてやっただけだ」と気にもとめない、
といった具合である。

太平洋地域担当の従軍記者エドガー・L・ジョーンズは、
一九四六年一昭和二十一年一の『アトランティック・マンスリー』誌に、
「われわれは捕虜を容赦なく撃ち殺し、
病院を破壊し、救命ボートを機銃掃射し、
敵の民間人を虐待、殺害し、傷ついた敵兵を殺し、
まだ息のある者を他の死体とともに穴に投げ入れ、
死体を煮て頭蓋骨をとりわけ、
それで置き物を作るとか、
または他の骨でぺーパーナイフを作るとかしてきたのだ」と書いた。

これらの陰湿な虐殺行為は政府によって公認されたこともあった。

ジョン・ダワー教授はいう。
「ブーゲンビルで投降しようとして殺された負傷兵の場合のように、
日本兵殺害の中には上官の命令下に行なわれたもの、
あるいは少なくとも上官が事後承認を与えたものがあった。
たとえば日本の輸送船を沈め、その後一時間以上もかけて何百何千という
生き残り日本兵を銃で撃ち殺したアメリカの潜水艦艦長は、
この虐殺をその公式報告書に記録し、
しかも上官から公の賛辞を与えられている。」

さらに、ダワー教授はこう述べる。

「連合国側の虐殺行為は何ら罪を問われず、免責されたままだ。
そして、補虜虐待について言えば、それでなくとも物資不足に喘ぎ、
補虜を受け入れるだけの設備も食糧も不足していた日本側が
それでも交戦法規を忠実に守って、
大量に投降してくる敵兵を捕虜にしたからこそ
様々な問題が生じたのである。 」

―――――――

無抵抗の特攻隊員を殺害・ハーグ陸戦条約・第23条違反の疑い
http://www.youtube.com/watch?v=jqMSh2iLr9Y
http://www.youtube.com/watch?v=IiZ2ig8QUaI

アメリカ軍による日本内地への機銃掃射
http://www.dailymotion.com/video/xmbwct_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%AC%E5%9C%9F_news

『大和と運命を共にした第2艦隊司令長官』 伊藤整一 著

昭和20年 ( 1945年 )4月7日、
沖縄への海上特攻に赴いた戦艦大和をはじめ
巡洋艦矢矧 ( やはぎ )など2隻、
駆逐艦3隻が敵の空襲を受けて沈没しました。

「現場の海面で浮遊物につかまり漂流中の無抵抗な乗組員に対して、
空母を飛び立った米軍戦闘機の群が執拗に来襲しては
情け容赦もなく機関銃を撃ちまくり殺戮した。」
( 矢矧の原艦長の証言 )
「 この悲惨な状況をあざ笑うかのように、 米軍機は何時間にもわたって、
無抵抗の漂流者に執拗な機銃掃射を加え続けた 。」

―――――――

『容赦なき戦い』 ジョン・ダワー著

同様な残虐行為は ニューギニア近海でもおこなわれました。
昭和18年3月3日に起きた ビスマルク海戦 ( 空襲 )の結果、
陸軍の兵士を乗せた輸送船8隻と駆逐艦4隻が
敵機の攻撃により沈められましたが、

沈没した日本の艦船からボートや筏で逃れ、浮遊物につかまり
漂流中の千名の兵士達に対して 、
アメリカとオーストラリア軍の飛行機が低空から機銃掃射をおこない、
機関銃の弾を撃ち尽くすと基地に戻り弾を補給し、
映画撮影のカメラマンまで乗せて
何度も弾の補給に往復しては攻撃を続けました。

「 決して男らしいやり方ではなかった 」 と
第5爆撃隊のある少佐は戦闘記録の中で報告していました。
「 隊員の中には気分が悪くなる者もいた 」。
救命ボートやその周辺を文字どおり血の海に変えた。

その殺戮の様子を、機上から撮影した実写フィルムが
10年ほど前にオーストラリアの テレビ局から放映されて、
国民に大きなショックを与えました。
「我々はフェアーな戦をしたと思っていたのに.....と」。

―――――――

『ヤンキー・サムライ』 ジョセフ・ハリントン著

ルーズベルト大統領の息子で海兵隊大尉のジェームズ・ルーズベルトも
加わっていたカールソン襲撃隊は、戦死した日本兵の 死体を切り刻み、
男根と睾丸とを 日本兵の口中に詰め込んだ 。

太平洋戦争について熱心な研究者で著書もあり、
またテレビの連続番組( 戦線、Battle-Line )の
プロデューサーであるシャーマン・グリンバーグが、
20年後にカールソン隊員の1人にその時の模様を
( テレビ で)詳細に語らせている。
その隊員は戦友たちのやった蛮行を写真に撮っていた。

―――――――

『マキン、タラワの戦い、独立陸戦隊』 中隊長谷浦英夫著

マキン島へ救援に赴いた私( 谷浦中尉 )は、
戦場で妙なことに気が付いた。
どういうものか仰向けになった屍体が15~6あり、
しかもすべて下腹部を露出している。
死後1週間経っていたため原形は完全に崩れていて、
顔の穴という穴はすべて蛆で真っ白である。
どうしてこんな格好をしているのだろう。
被弾して苦痛のあまり無意識にズボンをずり下げたのか?
アメリカ兵といえばキリスト教徒であり、日本人以上に文明人とみなされ、
しかも選りすぐった精兵とこの種の蛮行を結びつけることなど、
遺体収容作業に当たった誰一人として思いつく者はいなかった。
戦後50年経って意外な事実を知り、愕然とした。
それはマキン襲撃の際に行われた 海兵隊の蛮行を物語る、
翻訳された出版物を読んだからである 。

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作家上坂冬子の著書によれば、
硫黄島の洞窟内から戦後米兵により
持ち去られた日本兵の頭蓋骨は1千個 にもなる。
彼等はそれでロウソク立て、灰皿や ペン皿を作ったといわれ、
また硫黄島で戦死した日本兵の頭蓋骨と称するものが、
ロサンゼルスの骨董店で一個 25ドル で売られていた。
( 硫黄島いまだ玉砕せず )

日本兵の頭部を煮るアメリカ兵(1944年)。
頭蓋骨は一体につき35ドルで販売されていた。
日本兵の頭部を煮るアメリカ兵(1944年)。頭蓋骨は一体につき35ドルで販売されていた。

―――――――

1927年( 昭和 2年 )に
チャールズ・リンドバーグはニューヨークからパリへ、
史上初の大西洋横断、単独無着陸飛行に成功した。
彼は1944年( 昭和19年 )に
ニューギニアの米軍基地で陸軍将校として4ヶ月過ごしたが、
その体験を日記に記して後に
「 第2次大戦日記上巻、下巻 」として出版した。
―――
1944年( 昭和19年 )6月21日の日記には、
日本人捕虜に タバコをやり、気がゆるんだところを後ろから押さえ、
のどを「 真一文字にかき切った 」というのを、
日本兵捕虜殺害の一例として教えてくれた
ある将軍との会話を要約している。

残虐行為に対するリンドバーグの異議は、
嘲笑と 「 あわれみ 」をもって軽くあしらわれた。
6月26日の彼の日記には日本兵捕虜の虐殺、
および パラシュート降下中の日本航空兵の射殺について述べている。
降伏し捕らえられた2千数百人という日本兵捕虜のうち、
捕虜収容施設に引き渡されたのは僅か百人か2百人に過ぎなかった 。

残りの者たちは殺害されたが、事故に遭ったと報告された。
「仲間が降伏したにもかかわらず機関銃で撃たれたという話が
日本兵に広がれば、投降しようという者などまずいなくなるだろう 」
とリンドバーグは聞かされた。
つまり黄色い猿に過ぎない捕虜を取り扱う、
余分な手間や面倒がはぶけるという理由からであった。

7月13日の日記では、
「 われわれの兵士たちは、日本人捕虜や降伏しようとする兵士を
射殺することをなんとも思わない。
彼等はジャップに対して、動物以下の関心しか示さない 。
こうした行為が大目にみられているのだ。」と記されていた。

8月30日にリンドバーグは、
中部太平洋ギルバート諸島にあるタラワ環礁を訪ねた。
そこでは日米の激戦が行われ米軍も甚大な死傷者が出たのだが、
日記には、捕虜になった数少ない日本兵を一列に並べ、
尋問に英語で答えられる者だけを残し、
あとは全て殺させた海軍士官のことが出てくる。

ある仲間のパイロットから直接聞いた話によれば、
後ろ手に縛られた日本人捕虜達を輸送機に乗せて
収容施設のある地域に輸送する際に、
彼等を飛行中に突き落とす行為がおこなわれた 。
そして報告書には捕虜全員が自分から飛び降りたと記録された。
( 以上、第2次大戦日記、チャールズ・リンドバーグ著 )

日本兵の頭部で遊ぶ米軍中尉。
(1944年4月30日、ニューギニア、アメリカ海軍魚雷艇341甲板にて)
日本兵の頭部で遊ぶ米軍中尉。1944年4月30日、ニューギニア、アメリカ海軍魚雷艇341甲板にて

ニューギニア戦線でのオーストラリア軍や
マッカサー指揮下の第41師団は、「 捕虜を取らない 」
つまり武器を捨て両手を上に挙げて降伏しようとする日本兵や、
既に降伏した日本兵を殺すので有名だった 。

軍事歴史家デニス・ウォーナーは1982年に出版した
日本の特攻隊に関する本の中で、
ブーゲンビル島での自らの体験を紹介している。
そこで彼は、投降しようとした日本の負傷兵を、
オーストラリア軍の司令官が射殺するように命じるのを目撃する。
「 しかし彼等は傷つき、おまけに降伏を望んでいます」と、
日本軍の大規模攻撃が失敗に終わったあとの戦場で、
部下の大佐が司令官に反論した。

「 私の言うことが聞こえただろう 」 と、
両手を挙げた日本兵から
わずか数ヤード離れただけの少将( 司令官 )は答えた。
「 捕虜はいらない。全員射殺してしまえ 」。そして彼等は撃たれた。
日本軍も負傷兵や捕虜に対する連合国側の殺害に関する情報をつかんでいて、
戦時中の日本からの対米宣伝放送( 東京ローズ )では、
第41師団のことを「 屠殺者、Slaughterer 」と呼んでいた。

終戦直後ある米陸軍大尉が公表した記事には、
第41師団、捕虜を取らず という堂々たる見出しが付けられていた。
この師団が例外的に日本兵を捕虜にしたのは、
軍事情報の収集のために捕虜が必要な場合だけであった。
―――
容赦なき戦争、副題太平洋戦争における人種差別、
カリフォルニア大学教授ジョン・ダワー著

―――――――

■病院に対する爆撃
昭和19年( 1944年 )5月24日に
ブーゲンビル島 ラバウル基地にあった第8海軍病院が、
米軍機による攻撃を受けて、患者、看護婦、医師ら1千4百名が死傷した。
病院の屋根には国際法の定めに従い、上空からよく見えるように
赤十字の標識 を大きく塗装していたにもかかわらず、
それを無視して病院の建物に対して爆撃や銃撃を加えるという
国際法違反の非人道的攻撃をおこなった。
それ以後日本軍は病院施設に対する国際法違反の攻撃を防ぐために、
地下壕や洞窟内部に病院を設営することにした。

■遺体を損壊する行為
日本兵を自分達と同じ人間とは見なさない連合国兵士による、
死体や死にかけた日本兵から金歯、耳、骨、頭皮、頭蓋骨などを収集し、
戦果の証とする堕落した行為が広く行われていたことも、
米国民の間で戦時中からよく知られていた。

日本軍との戦いを前にして武勇自慢をし合う若い兵士達の会話を、
ジャーナリストのリチャード・トレガキスが記録している。
「 ジャップは金歯をたくさん入れているそうだが、
それを頂いてネックレスでも作るかな 」と一人が言う。
「 おれは奴らの耳を持って帰るよ 」ともう一人が宣言する。
「 塩漬けにしてな」。( ガダルカナル日記、1942年 )

戦後出版された水兵の日記の1944年( 昭和十九 年)7月の記述に、
すでに 17個の金歯を集めた海兵隊員がいて 、
その最後の金歯はサイパンで負傷してまだ手を動かしている日本兵の頬を、
ナイフで切り裂きほじくり出して取ったものだ、
と事もなげに述べられている。
( 容赦なき戦争、ジョン・ダワー著 )

吊るされる日本兵の首。(1945年ビルマ、アメリカ軍撮影とされる)
吊るされる日本兵の首。(1945年ビルマ、アメリカ軍撮影とされる)

―――――――

太平洋の激戦地ペリリュー島および沖縄で、
日本兵の死体から手を切り取って戦果の トロフィーとする、金歯をあさる、
死体の空いた口を目がけて小便をする、
恐れおののく 沖縄の老女を撃ち殺し 、
「 みじめな生活から、解放してやっただけだ 」
と気にも留めない海兵隊員の様子を目撃した。
( E・スレッジ、生物学者、1981年に出版の回想録 )

―――――――

フィリピンの ラグナラ州 カランバには
日本兵を収容するルソン第一捕虜収容所があったが、
ここはフィヒリピンにおける最大規模の収容所であった。

米軍の発表によれば収容された捕虜のうち、
戦争が既に終了した昭和20年( 1945年 )末までに、
栄養失調で死亡した日本兵捕虜は1万2千人 にものぼった。

もし日本側の捕虜収容所がこのような米兵の大量死を起こしていたら、
原因や経過はどうであれ、B C 級戦犯裁判に掛けられて多数の責任者、
兵隊が絞首刑になったことは間違いない。

しかしここの米軍責任者は誰も罪を問われなかった。
そこには「 バターンの死の行進 」に対する復讐の意図から 、
敗戦後も栄養失調状態であった多数の捕虜に対して
必要な食糧補給をしなかったからである。
―――
「人種蔑視に基づく残虐行為」より
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/genbaku-1a.htm#zangyaku

■『孤高の鷲 リンドバーグ第二次世界大戦参戦記 上・下』
チャールズ・リンドバーグ 新庄哲夫訳 学研M文庫 より

●リンドバーグ日記にみる日本兵と米兵

◆1942年5月20日 水曜日

クリ―ア大佐はバターン半島の激戦、
コレヒドールの爆撃を大いに体験した俊敏で、見識ある精神の持ち主だ。
クリ―ア大佐の話によれば2、3機の零戦が兵舎を狙って
まっしぐらに降下したそうである。

第1日目の空襲で、われわれは大半の軍用機を失い、
多数のパイロットを殺された。

日本軍は米袋の中に通信文を入れて投下した。
明日、病院に隣接する放送局(発電所?)を爆撃するので、
病院を引き払うようにと勧告してあった。
患者は連れ出され、放送局は爆撃を受けた。

勿論、本国の新聞に掲載された病院爆撃の記事で、
警告文の投下が抜けていたことは断るまでもない。
少なくとも自分の読んだ新聞記事には、
そのような話はかけらも出ていなかった。

【以下1944年】

◆1944年6月21日 水曜日

合衆国軍、シェルブールを孤立化させる。ドイツの対英ロケット爆撃が続く。

日本軍兵士殺害に関する将軍の話

数週間前のことだが、最前線のさる技術科軍曹が、
もう2年以上も太平洋地域で戦闘部隊と行動を共にしながら、
ついぞ実践に参加した経験がなく・・・・・

帰国する前にせめて一人だけでも日本兵を殺したいと不平を漏らした。
軍曹は敵の地域内に侵入する偵察任務に誘われた。
軍曹は撃つべき日本兵を見つけられなかったが、
偵察隊は一人の日本兵を捕虜にした。
今こそ日本兵を殺すチャンスだと、その捕虜は軍曹の前に引き立てられた。
「しかし、俺はこいつを殺せないよ! やつは捕虜なんだ。無抵抗だ」
「ちぇっ、戦争だぜ。野郎の殺し方を教えてやらあ」

偵察隊の一人が日本兵に煙草と火を与えた。
煙草を吸い始めた途端に、日本兵の頭部に腕が巻きつき、
喉元が「一方の耳元から片方の耳元まで切り裂かれた」のだった。

このやり方全体は、話をしてくれた将軍の全面的な是認を受けていた。
私がそのやり方に反対し、
どうしても捕虜を殺さねばならないのなら疚しくない、
蛮行に非ざる方法に訴えるべきだと主張すると、
私は悠然たる侮蔑と哀れみの態度に接した。
「野郎どもがわれわれにやったことだ。やつらを扱うたった一つの方法さ」

◆6月26日 月曜日

8時38分、第三滑走路からP38で離陸し、
ニューギニアの密林を越えてボランデイアヘという
直線コースの針路をとる。天気良好。

・・・・小屋の壁の一つに、絹地の日本国旗が3枚かかげてあった。
日本軍兵士の死体から取ったものだという。

その一枚は記念品(スーベニア)として十ポンド(33ドル)の値打ちがあると、
ある将校は説明した。

日本軍将校の軍刀を所持する男は250ポンドなら譲ってもよいと言った。

談、たまたま捕虜のこと、

日本軍将兵の捕虜が少ないという点に及ぶ。
「捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることが出来る」と、
将校の一人が答えた。

「ところが、わが方の連中は捕虜をとりたがらないのだ」
「*****では2千人ぐらい捕虜にした。

しかし、本部に引き立てられたのはたった100か200だった。
残りの連中にはちょっとした出来事があった。
もし戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、
投降を奨励することにはならんだろう」
「あるいは両手を挙げて出て来たのに撃ち殺されたのではね」と、
別の将校が調子を合わせる。

「たとえば***隊だが、
かなり残酷なやり方で切り刻まれている隊員の遺体を発見した。
それ以来、連中は日本兵を
さほど多く捕虜にしなくなったと考えて間違いない」

話は次いで空中戦や落下傘脱出に移る。
一座の操縦士は一人残らず、
落下傘で降下中のパイロットを撃ち殺して差し支えないと主張した。

「これも、最初はジャップの方からやり出した。
やつらがその手を使いたければ、
われわれにだって同じ手が使えるということだ」落下傘にぶらさがったまま、
日本軍に撃ち殺されたアメリカ軍パイロットの話が幾つか披露された。

◆6月28日水曜日

第475飛行連隊の将校連と夕食、夜を共に過す。
話題は今夜もまた、戦争や捕虜、記念品のことに及ぶ。
わが将兵の態度に深い衝撃を覚えた。
敵兵の死や勇気に対しても、また一般的な人間生活の品位に対しても、
敬意を払うという心を持ち合わせておらぬ。
…略奪したり、ある議論の最中に私は意見を述べた。

日本兵が何をしでかそうと、
われわれがもし拷問を以て彼を死に至らしめれば、
われわれは得るところが何一つ無いし、
また文明の代表者と主張することさえ出来ないと。
「ま、なかには奴らの歯をもぎとる兵もいますよ。
しかし、大抵はまず奴らを殺してからそれをやっていますね」と、
将校の一人が言い訳がましく言った。

◆7月21日 金曜日

今朝、ビアク島の断崖にたてこもる日本軍の強力な拠点に
再度の攻撃を加えることになった。
数百の日本兵が幅三百ヤード、全長千百ヤードの地域にわたり、
洞窟や岩の割れ目に身を潜めているのである。

激しい砲火は樹木の枝葉をもぎとり、
尾根そのものは稜線がくっきりと青空に浮かび上がるほどになっている。
オウィ島に来て以来、昼夜を分かたず、
この日本軍の強力な拠点に間断なく加える砲撃の轟きが海上を伝って届く。

今日の午後、断崖の上に佇み
(発疹チフスに罹る恐れもあるので地面にはとても坐れぬ)、
砲撃が尾根に撃ち込まれるのを眺めやった。

もう何週間も、250名から700名の間と推定される
いわば一握りの日本軍は圧倒的な強敵に対して、
また充分に補給された火器が撃てる限りの猛砲撃にも、
その拠点を死守し続けて来たのだ。

仮に攻守ところを変えて、
わが方の部隊がかくも勇敢に立派に拠点を死守したのであれば、
この防衛戦はわが国の歴史上、
不撓不屈と勇気と犠牲的精神との最も栄光ある
実例の一つとして記録されたに相違ない。

が、安全でかなり贅沢な将校クラブに坐しながら、
これらの日本軍を「黄色いやつらは」と表現する
アメリカ人将校の言に耳を傾けねばならないのである。

彼らの欲求は日本兵を無慈悲に、むごたらしく皆殺しにすることなのだ。
オウィ島に来て以来、
敵に対する畏敬の言葉も同情の言葉も聞いた憶えは全くない。

自分が最も気にしているのは、わが将校の側にある殺戮の欲望ではない。
それは戦争に固有なものである。
問題は敵の尊敬に値する特質にさえ敬意を払う心を欠いていることだ

・・・・・・勇気、艱難、死、信念に殉ずる覚悟、
卓越した訓練と装備にもかかわらず
次々と殲滅されて行く部隊等に対し敬意を払う心が全くない。

われわれには勇敢な行為であっても、
彼らがそれを示すと狂信的な行為ということになる。
われわれは声を限りに彼らの残虐行為をいちいち数え立てるが、
その一方では自らの残虐行為を包み隠し、
ただ単なる報復措置として多目に見ようとする。

アメリカの兵の首を斬り落とす日本兵は
”どぶネズミ以下”の東洋流の蛮行だ。
日本兵の喉下を切り裂くアメリカ兵は
「ジャップが戦友に同じような真似をしたのを知っていたからこそ、
同じようなことをやってのけたまでの話だ。」

東洋流の残虐行為がしばしばわれわれのそれより
極悪であることを問題にしているのではない。
結局のところ、われわれは自分にも、また耳を傾けてくれる人たちにも、
われわれがあらゆる”善”と文明の擁護者だと
絶えず言い聞かせてきたと言うことでもある。

私は突っ立ったまま、密林の焼け焦げた跡や、
日本軍が身を隠している洞窟と思しき断崖の黒点を眺めやる。
あの焼けただれた地域の地表下に極度の苦悶が隠されているのだ・・・・

飢餓、絶望、そして死体や死に瀕した男たち。
ただ祖国愛と信ずるもののために耐え、
よしんば心底で望んだとしても敢えて投降しようとはしない。
なぜならば両手を挙げて洞窟から出ても、アメリカ兵が見つけ次第、
射殺するであろうことは火を見るよりも明らかなのだから。

しかし、われわれは彼らに爆撃を加えて洞窟からいぶり出さねばならぬ。
戦争だからである。

もしわれわれが彼らを殺さねば、
われわれが投降の可能性を無くしたが故に彼らはわれわれを殺すであろう。

それにしても、われわれがもし日本兵の遺体の歯をもぎとったり、
ブルドーザーで遺体を穴の中に押しやり、
浚った土をかぶせたりする代わりに、
人間にふさわしい埋葬を営んでやることが出来るのであれば、
私はわが国民性にもっと敬愛の心を抱けたに相違ない。

ブルドーザーで片付けたあとは墓標もたてずに、こう言うのである。
「これが黄色いやつらを始末するたった一つの手さ」と。

◆7月22日 土曜日

・・・・今朝爆撃された地域に関する報告が入って来る。
爆撃、砲撃に続いて歩兵部隊が出動した。
彼らは「一弾も撃たずに」同地域を占領した・・・・

ある洞窟では日本兵の死体が約40個も発見され、
「それよりかなり多数の身体の一部分」が散乱していた。
わずかな生存者は茫然自失の状態で坐るか横になっているかして、
アメリカ兵を目にしても身じろぎさえしなかった。

第一報では一名だけ捕虜にしたとあったが、
後刻、歩兵部隊の佐官将校が私に語ったところによれば、
「一名も捕虜にとらなかった」という。
「うちの兵隊ときたら全然、捕虜をとりたがらないのだ」

◆7月24日月曜日

…10分後、ビアク島のモクメル飛行場に着陸。
…午後、クロード・スタップス少佐ら数人の将校と
ジープでモクメル西方の洞窟へ出掛けてみる。
日本軍が最も頑強に堅守した拠点の一つだ。

丘の斜面を降りて行くと、峠に差し掛る。
そこには一人の日本軍将校と、10人か12人の日本軍兵士の死体が、
切り刻まれた人体だけが見せるような身の毛もよだつ姿勢で
四肢を伸ばしたまま、横たわっていた。

彼らは峠の防衛戦で倒れ、死体は埋めずに放っておかれたのである。
戦闘は数週間前に行われたので、
熱帯地の暑気と蟻とがそれぞれの働きをなしていた。

…頭蓋骨を覆う僅かな肉片だけが残っている。
ある場所では一個の遺体に二つの首が並んでいるかと思えば、
他の場所では遺体に首が無かった。

なかには四肢がバラバラになり、
身体のかけらしか残っておらぬ死体もあった。
そして同行の将校が言ったように、
「歩兵はお得意の商売にとりかかったようだ」。
つまり、戦利品として金歯を悉くもぎとったというのである。

洞窟群へたどり着くまでには山道を横切り、
もう一つの丘を登らねばならぬ。
山道の片側にある爆弾で出来た穴の縁を通り過ぎる。
穴の底には5人か6人の日本兵の死体が横たわり、
わが軍がその上から放り込んだトラック一台分の
残飯や廃物で半ば埋もれていた。

同胞が今日ほど恥ずかしかったことはない。
敵を殺す、これを理解できる。戦争の欠くべからざる要素だ。
敵を殺戮する最も効果的ないかなる方法も正当化されるだろう。

しかし、わが同朋が拷問によって敵を殺害し、
敵の遺体を爆弾で出来た穴に投げ込んだ上、
残飯や廃物を放り込むところまで堕落するとは実に胸糞が悪くなる。

丘を登りつめるまでに、われわれはもっと多くの日本軍将兵の死体を
またいで歩かねばならなかった。
どうやら日本の海兵隊員に違いない・・・・・

◆7月26日 水曜日

夕食後、マクガイヤ少佐と車で、
日本軍の使用していた洞窟がある近くの断崖の麓へ・・・・
断崖の三分の二のところに大きな入り口があり、
周辺の珊瑚石灰岩は爆弾の跡だらけ。

険しい小途を登り、日本軍の補給物資集積所や数十個の砲弾の薬莢、
アメリカ製火焔放射器のホースと思われる物品等の横を通り過ぎる。
付近のあらゆる樹木は裂け、枝の葉がもぎとられている。

洞窟の入り口では日本製の壊れた機関銃が数挺、
弾薬が数箱、衣服の切端などが転がっていた。
入り口を入ったところで、日本兵の死体に出くわした。
直立不動の姿勢のまま、縄で柱に縛りつけられてあった。

◆8月6日日曜日

・・・・テントの中央には掲示板があり、
告知事項や情報部の各地図が掲げてある。
片隅の黒板には出動要員の操縦士一覧表、
使用機種、飛行命令等が張り出してある。

黒板の下方にはチョークで横臥ヌードが描いてあった。
真上から日本兵の白く光るシャレコウベが吊り下げてあった。

明りのいくらか貧弱なテント内で空箱や簡易ベッドの端に腰掛けたまま、
日本人捕虜の問題を語し合った。
私は自分の考えを述べた原文は、だが誤植だと思われるので。

でもよい相手を捕虜に出来るいつ如何なる時でも
投降を受け容れないのは間違いだ、
投降を受け入れればわれわれの進撃は一段と速くなり、
多くのアメリカ人の生命が救われるであろう。
とにかく投降した場合は必ず殺されると考えるようになれば、
彼らは当然踏みとどまり、最後の一兵まで戦い抜くだろう
そして機会があるごとに捕虜にしたアメリカ軍将校を殺すであろう、と。

大多数の将校は私の意見に同意したが
(さほど熱烈に同意したわけではないが)、
しかし、わが方の歩兵部隊はそのように考えてはおらぬようだと言った。
「たとえば第42連隊だ。連中は捕虜を取らないことにしている。
兵どもはそれを自慢にしているのだ」

「将校連は尋問するために捕虜を欲しがる。
ところが、捕虜1名に付きシドニーヘ2週間の休暇を与える
というお触れを出さない限り、捕虜が一人も手に入らない。
お触れが出た途端に持て余すほどの捕虜が手に入るのだ」
「しかし、いざ休暇の懸賞を取り消すと、捕虜は一人も入って来なくなる。
兵どもはただ、一人もつかまらなかったよとうそぶくだけなんだ」

◆8月11日 金曜日

「たとえば第42連隊だ。連中は捕虜を取らないことにしている。
兵どもはそれを自慢にしているのだ」

「将校連は尋問するために捕虜を欲しがる。
ところが、捕虜1名に付きシドニーへ2週間の休暇を
与えるというお触れを出さない限り、捕虜が1人も手に入らない。
お触れが出た途端に持て余すほどの捕虜が手に入るのだ」

「しかし、いざ休暇の懸賞を取り消すと、捕虜は1人も入ってこなくなる。
兵どもはただ、1人もつかまらなかったよとうそぶくだけなんだ」

「オーストラリア軍の連中はもっとひどい。
日本軍の捕虜を輸送機で南の方に送らねばならなくなったときの
話を覚えているかね?あるパイロットなど、僕にこういったものだ。
捕虜を機上から山中に突き落とし、
ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ」

「例の日本軍の野戦病院を占領したときの話を知っているかね。
わが軍が通り抜けたとき生存者は一人ものこさなかったそうだ」

「ニップスも、われわれに同じことをやってのけたのだからね」

「オーストラリア軍ばかりを責めるわけにはいかない。
性器を切り取られたり、
ステーキ用に肉を切り取られたりした戦友の遺体を発見しているのだ。」

「オーストラリア軍はジャップが
本当に人肉を料理していた場所を占領したことがある。」 

◆8月14日 月曜日

・・・・戦闘飛行連隊管制班の連中が自発的にパトロールを実施し、
相当数の”ニップス”を殺したと将校達は語る。
そのリーダー格は管制班に所属する
チェロキー・インディアンの混血であった。
「連中はちょいちょい、自分たちで殺したジャップの大腿骨を持ち帰り、
それでペン・ホルダーとかペーパー・ナイフとかいったような
品を造っている」
当地の将校達は、P47の行動半径内に
日本軍の抵抗がないと腿肉の嘆をかこっている。

◆8月27日 日曜日

・・・・地面の至るところに弾薬箱が散乱し、
アメリカ軍の墓地ができている。白い十字架が立つ墓地もあった。
墓標前の土盛りには海兵隊の鉄兜が置いてある。
日本軍将兵・・・・数千人の墓地には墓標らしきものさえ立っておらぬ。
死体はブルドーザーがさらって穴の中に放り込み、
その同じブルドーザーがかき集めた石灰岩で上から蔽ったのである。
島が小さかったので、敵の死体さえ埋めねばならなかったということだ!

◆9月9日 土曜日

・・・・アメリカ軍の戦死者は個別的に埋葬されたが、
日本軍の戦死体はトラックに積み込み、
ブルドーザーが掘り返した大きな穴に放り込んだ。

原住民が主として死体の処理に当たり、
彼らは多くの死体を”臭気”で見つけ出したそうである。

将校の話によれば、穴の中の遺体を「ブルドーザーにかける」前に、
何人かの海兵隊員が遺体の間に分け入り、ポケットを探ったり、
金歯探しに棒で口をこじ開けたりした。

金歯を仕舞い込む子袋を持っている海兵隊員さえいた。
その将校はさらに耳や鼻を切り落とされている日本軍の
戦死体を幾つか見たとも言った。

「平が耳や鼻を切り取るのは、面白半分に仲間に見せびらかすためか、
乾燥させて帰還するときに持ち帰るためですよ。
日本兵の生首を持っている海兵隊員まで見つけましてね。
頭蓋骨にこびりつく肉片を蟻に食わせようとしていたのですが、
悪臭が強くなりすぎたので、首を取り上げねばなりませんでした」
行く先々で聞かされる似たり寄ったりの話だ。

―――――――

戦後GHQの統制で占領軍に不利な記事は
全て封印してきたことが米軍の占領政策を成功に導いている。
しかし日本人は戦争の真実を知らなければならない。
欧米の人種差別がいかにひどかったか。
そして日本人捕虜を犬畜生のごとく扱った事実を知らなければならない。
そこから人間の本質が見えてくる。

―――

米豪軍の日本兵に対する残虐行為(リンドバーグの衝撃証言から)より
http://depot3.blog75.fc2.com/blog-entry-12.html
資料集 2003年5月14日 リンドバーグ日記にみる日本兵と米兵
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Dice/7371/siryou/2003_05_14_siryousyu.html#Lindbergh

■日本兵の骨を持ち帰る米兵

天人怒る鬼畜の米兵 英霊の神骨を冒涜 紙切ナイフ作って大統領へ贈る

【チューリッヒ2日発同盟】

ガダルカナル島戦闘以来米国兵の残虐性については
亜欧戦線において幾多の実例がみられるが、
ワシントン情報によれば最近米国内において目下太平洋戦線に出動中の
米軍兵が記念品として不埒にも戦死した日本軍将兵の頭蓋骨
その他の骨を本国に送付した事実があり死体冒とくの理由で
米国内でも重大問題となっているといわれる。

即ちミズリー州のカトリック教大司教管区内の一教徒が
友人の家の子供が南太平洋戦線に従軍中の兄から
送ってきた日本人の頭蓋骨を玩具にしているのを見て、
その旨教会へ通知したのが端緒となり死体冒涜問題が重大化するに至った。

更にワシントン・メリ・ゴーラウンドの執筆者として
また政界通として知られるドリュー・ピアソンも
ペンシルヴァニア州選出下院議員フランシス・ウォルターが
ルーズヴェルトに太平洋戦線で戦死した日本兵の白骨で作った紙切小刀を
送った事実を暴露しており同様の事例は枚挙に遑がない様子である。

なおミズリー州のカトリック教会は太平洋戦線の兵隊から記念品として
日本兵の頭蓋骨やその他の骨を貰いうけることについて
米人に厳重警告したが、同教会の機関週報『アーチ・ディオシイス』誌は
教会の掟は〈邪悪な目的をもって死体を冒とくすることを禁じている〉こと
を宣言し次の通りに述べた
〈死後人間の身体に当然払われるべき節義として
頭蓋骨は適当に埋葬されなければならない、
この国においてはいずれが敵の身体の一部であるという
事実に差別をつけない〉

この週報の警告は友達の家の小さい子供達が南太平洋から
兄が送って来た日本人の頭蓋骨を
玩具にしていたことを知らせた手紙に対する回答であった。

■米に『首狩時代』再現・独外務省 髑髏写真を披露【ベルリン4日発同盟】
アメリカの雑誌「ライフ」1943年5月号に掲載された写真。
アメリカ兵の恋人が記念品として贈られた日本兵の頭蓋骨を笑顔で見ている。
当時のアメリカ白人の日本人観は「日本人=東洋の猿」程度の認識だった。
1943年5月号のアメリカ雑誌ライフ誌に掲載された写真
アメリカ雑誌ライフの5月号に掲載された問題の日本兵頭蓋骨写真は
早くもドイツ外務省の入手するところとなり
四日の外国新聞記者団会見に披露された。

その写真はアメリカの一少女が机の上におかれた人間の頭蓋骨を
眺めているところを撮影したもので写真の説明に曰く

これは日本兵の髑髏でアメリカ兵が記念品として
この少女に送って来たものだ。
彼女は今この髑髏の寄贈に御礼の手紙を書こうとしている。

とあり、
ドイツ外務省当局はこの写真を披露するとともにつぎの見解を発表した。

かかることはドイツ人の考え方をもってしては
到底想像もつかぬことでアメリカの道義が如何に頽廃しているかを
もっとも明らかに示すものといえよう。正に〈首狩り時代)の再現である。

アメリカが往昔の食人時代に
復帰していることを物語るものにほかならない。

右のライフに掲載された写真が
ミズリー州カトリック教機関週報アーチ・ディオシースの
取り上げた事件と同一のものであるか否かは判明しないが
この外にドリュー・ピアソンの暴露した〈紙切ナイフ〉事件もあり
以上から推察すると日本兵の神聖なる死体を冒涜する蛮行は
正にドイツ当局の指摘する通りアメリカが〈首狩り時代の昔に還って〉
アメリカ国民間の流行となっていることを物語るものとして見てよかろう。

『信濃毎日新聞』昭和十九年八月四日、橋川文三『黄禍物語』より抜粋
資料集 2003年5月14日
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Dice/7371/siryou/2003_05_14_siryousyu.html#bone

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1945年、戦艦ニュージャージー甲板にて。日本兵捕虜虐待の疑いがある写真。
世界写真全集の第3巻『フォトジャーナリズム』より。
(報道カメラマン フェンノ・ヤコブス撮影)
1945年、戦艦ニュージャージー甲板にて。日本兵捕虜虐待の疑いがある写真。世界写真全集の第3巻『フォトジャーナリズム』より。(報道カメラマン フェンノ・ヤコブス撮影)

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『従軍看護婦たちの大東亜戦争』 より引用

【ぶえのすあいれす丸の沈没】 原田初枝(主婦・元大津赤十字病院婦長)

◆爆撃を受けた病院船

昭和18年9月、私は三度目の招集令状を受取り、
宇品港より『ぶえのすあいれす丸』に乗船して出発、
10月2日ラバウルに上陸した。

ニューブリテン島のラバウル赤根岬にある第94兵站病院に勤務していたが、
やがて日増しに戦が激しくなり、
毎日爆撃があって、最早女性の勤務するところではなくなり、
ニューアイルランド島への転属命令が下された。
再び懐かしい『ぶえのすあいれす丸』に乗船した。

・・・略・・・

部屋では食後のひとときをそれぞれ思いのままに楽しんでいた。
私は一人でトランプ占いをしていたが、
今日は少しもついていないと言いながらトランプをめくっていた。

その瞬間ピンピンピンと、船が何かに突き当たったような、
また地震のような揺れを感じた。

「やられた!」と誰かがいった。
エンジンの音が止まり、隣の将校病室からどやどやと患者が出てきた。
襲撃された瞬間に全員の荷物が放り出され、足の踏み場もない有様となった。
爆音が遠く聞こえる中、思わず救命胴衣に手が届く。

・・・略・・・

その時兵士に「看護婦さん、早く!何しているのだ」
とせき立てられて慌てて左舷の中甲板に出た。
見ればすでにボートは全部降ろされ、海上はボートと人で一杯だ。

通路には、これまた多くの将校患者がいる。
我先にと船の手すりにつかまりながら昇ってくる。
幾本もの縄梯子がおろされた。見るも恐ろしい。

私は「さあ、早くしっかり縄をつかんで降りなさいね」と言いきかせつつ、
患者の帯を後ろより持って一人ひとり降ろしていった。
覗き見ると、大きなギプスや飛行機材で作った
副木をつけた人が無事に海面に浮いていた。

・・・略・・・

海水が膝まで覆ってきた。40度くらいの傾斜があり、
中川が足を取られて甲板上で沈み、
彼女を引き上げ二人で左舷に行こうとしたが、
またしても中川が今度は投身よけの網に靴を引っ掛け、なかなか抜けない。
ようやく靴が脱げ二人は船の外に泳ぎ出た。

私は琵琶湖畔で育ったため泳ぎには自信があった。
二人で肩を組み、船に巻き込まれないように沖へと泳いだ。
「死ぬ時は二人で死のうね」と言いながら20メートルほど泳いだとき、
目の前に幅5、6寸、長さ一間ぐらいの板が
ぽかぽか浮いているのを見つけた。

板に泳ぎついて、二人でその板につかまり泳ぎ続ける。
海面は一面浮遊物、人、ボート、ブイでいっぱいだった。
「船が・・・船が沈む」の大声に振り向くと、
船は次第に船尾から水没しかけていた。

・・・略・・・

海水と油で顔はぬるぬるするばかりか、油が目にしみて痛い。
ブイに引き寄せられたが、すでに4、5人がつかまっていた。

真っ白い船体、緑の横線、船上の赤十字のマークも鮮やかに、
船尾よりブクブクと船が沈んでいった。

・・・略・・・

ボートには140人か150人くらい乗っていたと思うが、
そのうち看護婦は11人いた。

・・・略・・・

19時頃、爆音が聞こえた。
友軍機か?いや、まぎれもなく米軍機コンソリーの音だ。
いっせいに鳴りをひそめていると、近づくこともなく遠くに去った。

海の中の兵が元気付けに軍歌を歌っていた。
夜は潜水艦が浮上するから「静かに、静かに」の声がする。
恐ろしく、悲しい、長い夜だった。
こうして救助船を待ち続ける日々が過ぎていった。

・・・略・・・

午前8時ころか、また爆音が聞こえた。
敵機が空から私たちを“お見舞い”にきたのだと思った。
「こしゃくな飛行機めっ」と誰が言うともなく叫ぶ声が聞こえる。

毎日のように遭難の様子を見にやってくるのか、
あるいは救助船爆撃の目的か。多い日は2、3回偵察に来た。

・・・略・・・

また爆音がして雲間からコンソリー機が遭難ボート頭上を低く飛び、
ボート目がけて機銃掃射、曳光弾を落とす。
悔しくて、思わず「血も涙もない米機のヤツ」と叫んでいた。

艦長以下全員海に飛び込む。
それと同時に海中目がけて30発ほどの曳光弾、
ボートにも5、6発命中してしまった。海には多くの兵が潜っていた。

大きな機体は頭上30メートルほど上にある。
機体に描かれた星のマークも鮮やかに見え、
双眼鏡で覗いている米兵の姿や飛行帽、
笑っている顔まではっきりと見えるではないか。
超低空飛行で頭上真上を過ぎるときの恐怖は耐え難いものだった。

私は救命胴衣を頭に載せ、
船縁にピッタリ身を寄せて、南無阿弥陀仏と唱えていた。
コンソリー機は2回“旅回り”して再び向ってきた。
今度こそ駄目だと目を閉じた。

今にも機体ごと落ちてくるのではないかと思われたほどだった。
恐怖で生きた心地もしない。
私はボートの底で友としっかり手をつないでいた。

そのとき、まさに天佑か!にわかに一天かき曇り、
コンソリー機はスコールに追われて逃げていった。
嬉し涙が頬をつたって流れた。待ちに待ったスコールだった。
「早く受けぬと駄目だぞー」の声に、
我もわれもとボートの上にあがり、雨を受けた。

―――引用おわり―――――

船の上に赤十字のマークがあって、船体は白色の塗装で、
緑色の横線が書かれている船は世界共通の病院船です。
病院船を攻撃することは戦争犯罪ですし、ましてや病院船から降りて
漂流している人たちを機銃掃射するなど、言語道断の犯罪行為です。

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『日本の反論』米田健三著 P171~172 より
※米田氏は『軍事史学 第三五巻第二号』喜多義人論文より引用されています。

ブーゲンビル島トロキナでは、
オーストラリア軍によって、日本軍捕虜に「死の行進」が課せられた。

ナウル島とオーシャン諸島を占領していた日本軍は、
1945年9月、オーストラリア陸軍の捕虜となった。

同月20日にナウルの日本兵約2000名が
トロキナの仮収容所に移送されることとなったが、
栄養失調と疫病で衰弱しきっているにもかかわらず、
気温35~38度の中を10マイル行進させられた。

翌日、到着の1250人も同様であった。
豪州軍の警備兵は行軍の速度をゆるめることを許さず、
水もほとんど与えられなかった。死亡者が続出した。

体験者の回想によれば、川を見つけた日本兵が水を求めて駆け寄ると、
川の両側に並んだ豪州軍将校たちが水を飲ませまいと、
足で水をかき混ぜて泥水にし、そのうえ銃を向けて威嚇した。

10月8日に着いたナウルからの700人と
オーシャンからの513人も同じ扱いを受けた。

くわえて、10月末にファウロ群島の常設収容所に移動させられた時には、
マラリヤに多数が感染したが、豪州軍は予防薬を支給しなかった。
捕虜のほとんど全員が感染、約700名が死亡したとみられる。

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『アーロン収容所』会田雄次 中公文庫

英軍はひどいことをします。私たちは、
イワラジ河のずっと河下の方に一時いました。
その中州に戦犯部隊とかいう鉄道隊の人が、百何十人か入っていました。
泰麺(たいめん)国境でイギリス人捕虜を虐待して
多数を殺したという疑いです。
その人たちが本当にやったのかどうか知りません。
イギリス人はあの人たちは裁判を待っているのだと言っていました。

狂暴で逃走や反乱の危険があるというので、
そういうところへ収容したのだそうです。
でもその必要はありませんでした。

私たちは食糧が少なく飢えに苦しみました。
ああ、あなたたちもそうでしたか。
あの人たちも苦しみました。
あそこは毛ガニがたくさんいます。
うまい奴です。それをとって食べたのです。

あなたもあのカニがアミーバ赤痢の巣だということを知っていますね。

あの中州は潮がさしてくると全部水に没し、一尺ぐらいの深さになります。
みんな背嚢を頭にのせて潮がひくまで何時間もしゃがんでいるのです。

そんなところですから、もちろん薪の材料はありません。

みんな生のままたべました。

英軍はカニには病原菌がいるから生食いしてはいけないという
命令を出していました。
兵隊たちも食べては危険なことは知っていたでしょう。

でも食べないではいられなかったのです。

そしてみんな赤痢にやられ、血便を出し血へどを吐いて死にました。
水を呑みに行って力つき、水の中へうつぶして死ぬ。あの例の死に方です。

看視のイギリス兵はみんなが死に絶えるまで、
岸から双眼鏡で毎日観測していました。

全部死んだのを見とどけて、「日本兵は衛生観念不足で、自制心も乏しく、
英軍のたび重なる警告にもかかわらず、生ガニを補食し、
疫病にかかって全滅した。まことに遺憾である」と上司に報告したそうです。
何もかも英軍の計算どおりにいったというわけですね」

とにかく英軍は、なぐったり蹴ったりはあまりしないし、
殺すにも滅多切りというような、
いわゆる「残虐行為」はほとんどしなかったようだ。
しかし、それではヒューマニズムと合理主義に貫かれた態度で
私たちに臨んだであろうか。そうではない。そうではないどころか、
小児病的な復讐欲でなされた行為さえ私たちに加えられた。

しかし、そういう行為でも、つねに表面ははなはだ合理的であり、
非難に対してはうまく言い抜けできるようになっていた。
しかも、英軍はあくまで冷静で、
「逆上」することなく冷酷に落ち着き払ってそれをおこなったのである。

ある見方からすれば、かれらは、たしかに残虐ではない。
しかし視点を変えれば、これこそ、
人間が人間に対してなしうるもっとも残虐な行為ではなかろうか」

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『世界戦争犯罪事典』文芸春秋

「英軍についていえば、1944年6月22日、
インド・アッサム州のミッションで、
100人以上の日本軍傷病兵が、英軍兵に焼き殺された」

英軍は国際法が定める捕虜の待遇を与えないために
「降伏日本軍人」という新たな身分をあみ出した。
その日本軍人に対して、粗末な給養で、危険な、
あるいは不潔な労働を強いたのである。
この問題については『軍事史学』(第35巻第2号)に
掲載された喜多義人論文に詳しい。
それによると、10万6,000名もの将兵が昭和21年7月以降も
「作業隊」として東南アジアに残され、
昭和23年1月の送還完了までに9,000人近い死者がでたという。
日本軍将兵が課せられた作業は、
「弾薬の海中投棄、採石、樹木の伐採、下水掃除、糞尿処理、
炭塵の立ち込める船倉内での石炭積載作業、100キロ入り米袋の運搬」
などで、明らかにハーグ陸戦法規と1929年の捕虜条約が禁じた、
過度で、不健康、危険な労働であった。
まさに、緒戦で日本軍に敗れた怨念を晴らすため、
後々問題とならぬよう直接の暴力は振るわないが、
残虐極まりない復讐手法であった。

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アメリカを彷徨う『旧日本兵の遺骨』!!
全米各地で『頭蓋骨トロフィー』を続々と発見!!

SAPIO 2010年9月29日号 【2010年10月11日(月)配信】 より抜粋

(前略)

■トロフィー・スカル

敵の遺留品を持ち帰るのは日本兵もやったことだ。
インパール作戦で連合軍に撃たれ、
九死に一生を得た傷痍軍人である筆者の父も
英軍のフォークを持ち帰っている。

しかし人の頭蓋骨や遺体の一部を
持ち帰った米兵がいることには驚かざるを得ない。

第2次大戦最中の1944年、5月22日付のライフ誌に
女性が頭蓋骨を眺めている写真が掲載された。
日本と戦っている恋人の米兵からプレゼントとして
贈られた日本人の頭蓋骨を眺めている写真だ。
英語でトロフィー・スカルと呼ぶが、
頭蓋骨を勝利のトロフィーとして贈ったのだ。

米兵の中には戦死した日本兵の鼻や耳たぶ、頭蓋骨などを
戦争の記念品とした者がいた。

戦車に日本兵の首をぶら下げたり、
日本兵の歯でネックレスを作ったなどの話は
当時の米国の新聞などで報道されている。

世界初の大西洋横断単独無着陸飛行に成功したことで有名な
チャールズ・リンドバーグは当時の米兵の残虐行為を日記に残しており、
耳や鼻がそぎ落とされた日本兵の死体を見た海兵隊員の話などを記している。

頭蓋骨トロフィーを作るために切断した首の肉や脂肪をそぎ落とすため、
鍋で煮ているという写真も残っている。

こうした行為を非難する米国市民はもちろんいたし、
米軍は、厳格に対処し違法行為として
懲戒処分の対象にすると指令を出している。

しかし、「太平洋戦争での頭蓋骨トロフィー」などの論文を
書いているサイモン・ハリソン氏は
「指令は一部でしか実行を伴っておらず、かなり広範囲に行なわれた」
と推測している。

戦後、マリアナ諸島から日本に送還された日本兵の遺体の
約60%に頭部がなかったことなどを指摘し、
「忘れ去られた歴史的事実の一つだ」と述べている。

では、それらの頭蓋骨はその後どうなったのだろうか?
荷物になるし大戦末期は持ち物検査がうるさくなったため、
帰還の際、相当数が海に捨てられたともいわれる。

しかし、米国内で少なからず頭蓋骨トロフィーが発見されている。
最近の例を紹介する。

■頭部に「ジャップ」の文字

2003年6月、コロラド州プエブロで、警官が麻薬捜査で家宅捜索したところ、
麻薬は見つからなかったが、ベッドの下から小さいトランクを発見した。
なかには人間の頭蓋骨があり、表面に「ガダルカナル」
「1942年11月11日」「これはいいジャップだ」「J・パパス」
などと書かれていたほか、
中佐を含む36人もの軍人の寄せ書き(サイン)があった。

保安官の調べに対し、
所持者であるレイモンド・フランクリン氏(当時41歳)は
「これは曾祖父のジュリアス・パパスから受け継がれてきたもので、
ガダルカナル島で曾祖父の親友を殺した日本兵を曾祖父が殺し、
トロフィーとして持ち帰ったと聞いた」と供述。

パパス氏の姪も若い頃、同じ話を聞かされていたことが分かり、
また現地の新聞、プエブロ・チーフテン紙が
42年当時にこの頭蓋骨トロフィーのことを記事にしており、
その話とも一致した。
パパス氏は長らく海兵隊員を務めた人物で1960年に死亡している。

当地の検死官事務所は国防総省及び海兵隊、FBI、
州の上院・下院の各議員らに連絡を取り対応を練った。
遺骨は検死官事務所からホノルルにある米陸軍の
中央鑑識研究所(CILHI)に移送され、
年齢は25歳から35歳の日本南部出身の男性、
死亡年は1942年頃との鑑定結果が出た。

これを受けて海兵隊の報道官は
「死者に対し、非難に値する不法な行為があったことに衝撃を受けている。
戦場から人骨を取った軍人は処罰対象となる可能性がある。
しかし時間が経っており、地元の検察官が問題とするかどうかによる」
との声明を出した。プエブロ郡の検察はそれ以上は追及しなかった。

この遺骨は元日本兵である可能性がきわめて高いことから、
その後ハワイの日本国総領事館を通じ厚生労働省に送還されている。

2005年6月、メイン州ホールデンで銃や軍用品などを
売買する元海兵隊員(ベトナム戦争時)のラルフ・マクラウド氏(61歳)は
同業者仲間から人の頭蓋骨を購入した。

頭蓋骨の頭部には「1945」「ジャップ・スカル」「オキナワ」
などの文字が刻み込まれていた。その同業者は数か月前に、
ある遺品処分セールで箱の中から見つけ、買ったのだという。

日本兵の頭蓋骨に違いないと思ったマクラウド氏は、
日本に返すべきだとその知り合いから50ドルで購入し、
ワシントンの日本大使館やボストン総領事館に連絡を取った。

06年にメイン州検死官事務所による検死結果が出て、
18歳~25歳くらいの女性で、日本南部、おそらく沖縄出身者と推定された。

ただし死亡推定年を第2次大戦中と判断はしておらず、
それ以前の可能性を排除していない。
同年11月にボストン総領事館が受け付け、
検死結果が日本の厚生労働省に伝えられた。

厚生労働省は昨年秋、
「日本兵かどうかは分からないが、
戦時中に亡くなった日本人の可能性は限りなく高い」
として骨を日本に送還すべきとの判断を決定、
今年8月末に職員を派遣した上で、日本へ送還されることになった。
本誌が出る頃には日本に帰っているはずだ。

「頭蓋骨トロフィーは道徳的に間違っている」
と語っていたマクラウド氏に返還が実現したことを電話で伝えると、
「返すことが出来て大変嬉しい」と喜んでいた。

イリノイ州では2000年2月、水位の下がったスプリングフィールド湖で
金色の模様が施された頭蓋骨が発見された。
18歳の少年が名乗り出て、第2次大戦の記念品として家に伝わるものだが、
祟りがあるかも知れないと怖くなって湖に捨てたと明かした。

当地の検死官事務所にその後どうなったか聞いてみると、
立件はされず現在はイリノイ州博物館に保管されているはずだと言う。
博物館に問い合わせたが、
本稿締め切りまでに保管の有無は確認できなかった。

■大学倉庫にたな晒し

昨年8月、カリフォルニア大バークリー校の人類学博物館の倉庫に
第2次世界大戦での日本人の遺骨と思われるものが収蔵されたまま、
いわば、たな晒しになっていることを地元の
サンフランシスコ・クロニクル紙がすっぱ抜いた。

「サイパン」「米軍の進攻の際に自決を遂げた日本人」
と明記された木箱の中には頭骨を含む3体と
頭骨のない3人分の人骨が収納されていた。

博物館によると、海軍医(故人)から1974年に寄付されたもので、
それ以前はその医師が個人的に保管していたらしい。

国際法や人類学の専門家らは、
法的にも道徳的にも遺骨を日本に返還すべきであると大学を強く非難し、
戦争犠牲者の保護を定めたジュネーブ条約違反の可能性もあると指摘。

カリフォルニア州のグロリア・ロメロ上院議員は
「人間の尊厳を冒すものだ」と、日本への謝罪と遺骨の返還を求めた。

大学は日米両政府と連絡を取り、
その後、厚生労働省が一部の遺骨については日本人の可能性が高いと判断。
現在、遺骨を日本に早期に送還するべく調整中だ。

日本に送還された遺骨はその後どうなるのか。
厚生労働省社会・援護局援護企画課外事室の話では、
シベリア抑留で亡くなった人のように
氏名と埋葬場所が特定出来る場合は確認のため
DNA鑑定をすることがあるが、
米国のケースでは、遺族がどこにいるかも調べようがないため、
無名戦没者の墓である千鳥ヶ淵戦没者墓苑に遺骨は安置されるという。

米国で発見された遺骨についてどう考えるか
日本大使館に問い合わせをしたところ、
日本政府から次のような回答があった(一部抜粋)。

「国に殉じて亡くなられた方の遺骨を本邦に送還することは、
昭和27年以降、国の責務として実施してきたところであり、
その考えは現在も変わっていません。
また、悲惨な歴史を繰り返さないためにも、
若い世代にも伝えていくことが必要です。
このような姿勢をもとに、今後も国の責務として、
1柱でも多く我が国に送還し、ご遺族への慰藉に努めたいと考えています」

先のマクラウド氏は、返還できたもの以外にも
4つほどの頭蓋骨トロフィーを見聞きしていることを明かした。

テネシー州モーガン郡でも1973年、
日本兵と思われる頭蓋骨が見つかっている。
遺品のみならず、元日本兵の遺骨が米国で今も彷徨っているのである。

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『戦争プロパガンダの嘘を暴く』三好誠著 展伝社 平成17年刊 P118~119より

日本軍における捕虜の待遇

品目……捕虜g……兵士g……重労働g……軽労働g……一般g

主食……705………705…………570………390……………330
肉…………5………10……………0…………0………………0
魚………30…………30…………10…………10……………10
野菜……400………400…………200………200……………200
味噌……50…………50…………50…………50……………50
油………15…………10…………0……………0………………0
砂糖……5……………7…………0……………0………………0
牛骨……100…………0…………0……………0………………0

kcal……3000………3000………2200………1800…………1400

捕虜給与規則(昭和17年2月20日 陸軍大臣通達 第8号)

捕虜給料、糧食、被服の貸与、補修費、薪炭、埋葬料、労働賃金まで規定。

署名は陸軍大臣 東條英機。

表は昭和20年、大阪俘虜収容所における比較表。

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アメリカによる日本占領中の実態。

参考:『戦後性風俗大系』 広岡敬一著

RAAは1945年8月18日内務省警保局長通牒
「外国駐屯地における慰安施設について」に基づいて作られた、
日本政府による占領軍性犯罪防止の為の慰安所ですが、
占領軍の性犯罪はその程度のもので緩和されるものではなく、

(例:1945年8月30日一日の、
神奈川県下のみで発生したアメリカ兵による強姦事件315件)、

9月28日にGHQ軍医総監が
東京都衛生局に対して慰安施設の増設を指示しています。

占領軍兵士向けに日本政府が慰安所を作ったというのは最初のものだけで、
慰安所の多くはGHQの指示(実態は命令)によって作られた物です。

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産経新聞 正論 1994年9月17日

地域改善啓発センター理事長・磯村英一

日本軍だけでない慰安婦問題  命令された娯楽施設の怪

(一部抜粋)

直接その問題にはかかわりがない私が発言をするのは、この慰安婦の問題は、
決して日本の軍隊だけでなかったという事実を、
私自身が経験しているからである。

日本の終戦直後、私は東京都の渉外部長で、占領軍司令部の命令に、
"サービス"を提供する役割を課された。

戦勝者の命令は絶対である。

僅か一、二週間の間に占領軍の兵隊のために
ワシントン・ハイツ等という名の宿舎の建設が命令され、
将校たちのためには、洋式のトイレの住宅を接収し、提供した。

敗戦の年のクリスマス、
司令部の将校から呼ばれて"ヨシワラ"の状態の報告を命ぜられた。
もちろん、その地区は焦土と化していた。

命令は宿舎を造って、占領軍の兵隊のために、
"女性"を集めろということだった。

命令は英語で"レクリエーション・センター"の設置である。
最初は室内運動場の整備だと思ったが、そうではない。
旧"ヨシワラ"のそれであった。

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占領時、米軍も「慰安婦」調達を命令 「旧日本軍は強制」ホンダ議員言明
【2007年5月6日 産経新聞】
終戦直後の日本国内で占領米軍の命令により売春施設が多数、開かれ、
日本人「慰安婦」数万人が米軍に性の奉仕をして、
その中には強制された女性もいたことが米側にいまになって伝えられ、
米議会下院に慰安婦問題で日本を糾弾する決議案を出した
マイク・ホンダ議員は4日、議会調査局に調査を依頼した。
(略)
AP通信の4日の報道によると、終戦直後の1945年9月、
日本当局が占領米軍からの命令で東京都内などに
多数の米軍用の売春施設を開き、合計数万人の日本人「慰安婦」が雇用、
あるいは徴用されたことを証する日本側書類が明るみに出て、
ホンダ議員は米軍用慰安婦に関して米軍自体が
どんな役割を果たしたかなどの調査を議会調査局に依頼したという。
(中略)
AP通信は4月26日、東京発で米占領軍が進駐直後、
日本の政府や旧軍当局に売春婦の調達や売春施設の開設を
命じた一連の日本語書類が発見されたと報じ、その内容として
(1)1945年8月末から9月にかけ、米軍の命令を受けて
日本政府の内務省などが東京はじめ茨城県などの地方自治体に
「慰安婦」集めを指示し、合計7万人以上の女性が売春に従事した
(2)米軍当局はそれら女性の一部は強制徴用されたという報告が
あることを知りながら、慰安所開設を認め、
連日連夜、米軍将兵が詰めかけることを許した、
と報道した。同報道はこの米軍慰安所にかかわって
当時の日本側関係者数人を実名で紹介し、その談話をも引用した。
(以下略)

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専用「売春」施設も…米軍が慰安婦を買い漁った過去

livedoor NEWS 2013年5月27日7時00分
http://news.livedoor.com/article/detail/7711871/

橋下徹大阪市長の「慰安婦容認」発言が世界中で大騒動を巻き起こしている。
韓国が「女性の権利に対する尊重と歴史的認識を著しく欠いている」
と批判すれば、中国も「驚きと怒り」をいち早く表明。
わが安倍首相までが「安倍内閣、自民党との立場とはまったく違う」
と突き放した。そして異様なまでに激しく反応したのがアメリカだった。

全方位から集中砲火を浴びている橋下氏。
だが、「たしかに舌足らずの部分があるが、
言わんとするところは大筋で正しい」
と現代史家の秦郁彦氏(80)は擁護する。
慰安婦問題の代表的な論客である秦氏が、特に大きく肯いたのは
「日本軍だけじゃなくて、世界中のいろんな国の軍で
慰安婦制度を活用していた」という橋下氏の主張だ。

「米軍も例外ではありません。
日本では米兵によるレイプ事件が多発するのを心配して、
米兵から『良家の子女を守るため』に、内務省の発案で
有力業者に話をつけて『特殊慰安施設協会』(RAA)が組織された。
終戦からわずか3日後の’45年8月18日のことでした。
アメリカが設置を求めたという場所もあります」

大蔵省の緊急融資を受けて東京大森に最初の施設が開設されたのが8月27日。
朝日新聞などに出た
「急告 特別女子従業員募集 衣食住支給、前借にも応ず」
という募集広告に応じて、戦争未亡人など千数百人もの女性が集まった。
当初、女性1人につき、
1日15人から多いときで60人の米兵を相手にさせられたが、
ピーク時には全国で7万人もの女性が集まり、
ようやく人手不足は解消されたという。

米軍は自ら慰安所を持たなかったが、
その役割を日本に肩代わりさせていたのである。
「戦場と性」は切っても切り離せない関係にあると秦氏は言う。

「第2次大戦中の日独は軍が管理する慰安所型、
米英は民間経営の売春宿利用型、そしてソ連はレイプ黙認型でした。
このなかで、日本の『従軍慰安婦』だけがいまも問題視されていますが、
じつは日本軍の従軍慰安婦問題をもっとも激しく非難しつづける韓国にも、
朝鮮戦争当時、慰安婦が存在したのです」

韓国軍特殊慰安婦の存在は2002年2月、
立命館大学の国際シンポジウムで
韓国の女性問題研究者・金貴玉氏によって初めて明らかにされた。
「特殊慰安隊」と呼ばれた韓国軍慰安所は
朝鮮戦争が膠着状態に入った1951年ごろに設置され、
休戦に入った1954年3月に廃止。
だが、その後も兵士相手の売春婦は存在しつづけた。
そして、占領下の日本でそうだったように、
韓国でも慰安婦の上客だったのが米兵だった。
2009年1月7日付の『ニューヨークタイムズ』には、
米兵相手の慰安婦だったという女性の次のような談話が掲載されている。

「韓国政府は米軍相手の大手売春あっせん業者でした。
政府はGI相手にできるだけたくさん商売するよう熱心に奨励し、
私たちを“ドルを稼ぐ愛国者”として賞賛したのです」

当然ながら、米軍もまたほかの国の軍隊と同じように、
戦場で他国の女性をレイプし、慰安婦や売春婦を買い漁ってきたのである。
橋下発言をきっかけに、はからずも『戦場と性』に対する
後ろ暗い真実が露呈してしまったことが、
アメリカが怒った本当の理由ではないか。

(週刊FLASH 6月4日号)

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文藝春秋 2009年2月
「大韓民国の物語」大韓民国の物語 李榮薫著 永島広紀訳 P156~158
―――――
『朝鮮戦争当時の韓国軍や米軍向けの韓国人慰安婦』 「慰安婦の輸送方法」
慰安婦は前線に送られる際には、ドラム缶にひとりづつ押し込めて
トラックで移送し前線を移動して回り、米兵も利用した。

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封印された占領下の米兵「日本人婦女子凌辱事件ファイル」
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-668.html

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原爆開発者であり、エノラゲイに搭乗して原爆投下に立ち会い、
それを撮影者したハロルド・アグニュー博士が被爆者に対して、
「謝らない。むしろ謝れ。」
http://www.youtube.com/watch?v=RSHg2gA3EX4
http://www.nicovideo.jp/watch/sm18400292

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いわゆる「バターン死の行進」
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-586.html
尼港事件
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-105.html
昭和2(1927)年3月24日の南京事件
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-107.html
漢口事件
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-108.html
済南事件
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-109.html
通州事件
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-121.html
アメリカ軍やオーストラリア軍の蛮行
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-162.html
終戦~日本人 引き揚げの悲劇
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-154.html
終戦~日本人 引き揚げの悲劇_2
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-155.html
敗戦後の惨状
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-575.html
東京大空襲 ~ その投下方法
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-153.html
奴隷貿易
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-9.html
慰安婦_資料
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-147.html

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日本人女性 米・田舎の白人ばかりの店で注文取ってもらえず

NEWSポストセブン 2011.08.04 07:00
週刊ポスト2011年8月12日号 「ニッポン あ・ちゃ・ちゃ」第155回より抜粋
http://wk.tk/WzzJ74
http://www.news-postseven.com/archives/20110804_27314.html

おぐにあやこ氏は1966年大阪生まれ。
元毎日新聞記者。
夫の転勤を機に退社し、2007年夏より夫、
小学生の息子と共にワシントンDC郊外に在住。
著者に『ベイビーパッカーでいこう!』や
週刊ポスト連載をまとめた『アメリカなう。』などがある。
おぐに氏が、アメリカにおける「マイノリティ感覚」について解説する。

突然ですが、この夏、日本に引っ越すことになりました~。
そんなわけで、アメリカの友人たちが送別会を開いてくれた。

友人のアンに
「機会があったら、今度はアメリカのどの街に住みたい?」
と聞かれたので、
「今度もワシントンDCの郊外かな。外国人が多くて国際色豊かだから、
マイノリティでも暮らしやすいし」
としごく当たり前の返事をしたんだけど……。

アンは、驚きで目を丸くしながら、
「えーっ、あなた、自分のことを『マイノリティ』って感じてたの?」
だって。

おいおい、何を今さら!
見てよ、この髪、この肌。どこから見ても完璧なアジア人。
おまけに英語は下手だし、市民権もない。
もう、この国じゃ正真正銘のマイノリティよ。

だいたい、英語に不自由ない、
アメリカ生まれの高学歴のアジア系アメリカ人ですら、
「ガラスの天井」ならぬ「バンブーシーリング」
(竹の天井。竹はアジアのイメージらしい)のせいで、
出世も頭打ちになるって言われてるのに。

つい熱っぽく語っちゃった。
「私だって、白人ばかりの片田舎でレストランに入ったら完全に無視され、
注文すら取ってもらえなかったこともあったよ。

アメリカ人の夫を持つ日本人の女友達なんか、
『DC界隈ですら、夫と一緒の時と夫がいない時では、
レストランでの扱いが違うのよー』って腹立ててるもんね」

アンは「移民大国アメリカは外国人に受容的なはず」と信じてたみたい。
おまけに彼女にとっての「マイノリティ」は、
アメリカに到着したばかりの貧しい移民や、
人種差別された長い歴史を持つアフリカ系(黒人)であって、
自分と仲良しで能天気な日本人駐在妻(つまり私)までが、
自分を「マイノリティ」と感じて暮らしてるとは思わなかったんだって。

アンは申し訳なさそうに
「私たち白人って、自分がそういう嫌な目に遭ったことがないから、
気付くことができないのね……」。ちょっと意外だった。

常々、違う人種・民族のホンネに触れられるのが、
多民族国家アメリカの面白さだと感じてきたのに。
案外、お互いに見えないことも多かったのね~。

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GHQに奪われた阿蘇神社の名刀を復元! 600年受け継がれた名刀『蛍丸』 http://bit.ly/2bt6rKJ
http://www.kkt.jp/matome/hotarumaru/

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2009/11/18 09:00|年表リンク用資料
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