正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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竹島が日本の領土である根拠

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とにかく、大東亜戦争の戦後処理条約である1952年4月28日発効の
サンフランシスコ平和条約(49ヵ国が署名)で竹島は日本の領域だと
確定されていると主張すればいいだけのことです!
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■1618年、幕府が鬱陵島での独占的漁業権・林業権を
鳥取藩(米子)の町人 大谷家と村川家に許可。
鬱陵島へ渡る途中の寄港地として、また漁猟地として竹島を利用。

■1656年、幕府は松島(現在の竹島)に対する渡航を許可。

■1696年、幕府は鳥取藩主に対し、鬱陵島への渡海を禁止。

■1905年1月28日、日本政府は閣議において同島を
正式に竹島(旧名・松島)と命名し、島根県隠岐島司の所管とする旨を決定。
2月22日、島根県知事は島根県告示第40号をもってその内容を公示。
島根県告示により竹島を島根県に編入し、
竹島を領有する意思を再確認。
(これに対して韓国は何も抗議をしていない。)
隠岐国四郡の官有地台帳への登録。
漁業取締規則によるアシカ漁業の許可。
仮設望標の設置。
知事の視察。
明治三十八年 島根県告示
島根県告示第40号
■1951年、大東亜戦争の戦後処理条約の草案起草過程において、
韓国が米国に対して、日本が放棄する地域に竹島を入れるよう要求したが
拒否され、竹島が日本領として残される事が決定→サンフランシスコ平和条約

■1952年1月18日、大韓民国大統領・李承晩が「李承晩ライン」といわれる
領海水域を一方的に設定して竹島を占領。

日本は敗戦と日本国憲法で軍隊を持っていなかったため何もできなかった。
アメリカやイギリスは韓国の横暴を一応、言葉で非難。
日本は国際司法裁判所に提訴したが韓国側は応じなかった。

■1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約発効。(大東亜戦争の戦後処理条約)

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1952年(昭和27年)1月18日、大韓民国大統領・李承晩が、
竹島は韓国の領土であると一方的に宣言して竹島を占領。
近海を含む「李承晩ライン」を設定し、
朝鮮半島周辺(最大200マイル)の水域内に存在する全ての天然資源、水産物
を利用する権利を主張した。

当然ながら日本は「李承晩ライン」を認めなかった。

1953年1月12日、韓国政府は李承晩ライン内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を
指示し、このラインを越えた日本漁船と乗組員に対して銃撃を開始。
2月4日には日本漁船「第一大邦丸」の漁労長・瀬戸重次郎氏(34)が
韓国艦の銃撃によって射殺される『第一大邦丸事件』が起きるなど、
その後も韓国艦による日本人漁師の殺害、漁船の拿捕、
乗組員の拉致、監禁などが続いた。

1965年(昭和40年)6月22日の日韓基本条約・日韓漁業協定の成立までに、
・死傷者44人(うち死者8人、負傷者36人)
・拉致、監禁された日本漁民3929人(最長13年)
・強奪された船舶328隻
にのぼった。

韓国(朴正煕政権)は不当に拿捕して抑留した日本人漁民3929人を人質とし、
拉致した日本人漁民たちの釈放を条件としながら、
日韓基本条約や日韓法的地位協定の交渉を有利に進めた。

韓国による竹島不法占拠に伴い、
周辺の広大な排他的経済水域内で竹島が無いものとして
日韓両国の中間線を基準に日韓暫定水域が設定されているが、
日本側が大幅に譲歩した内容となっている。

日韓法的地位協定によって在日韓国朝鮮人は、
その子孫までも永住許可を得ることとなった。

また、韓国は日本国内の在日朝鮮人犯罪者472人の釈放を要求したが、
韓国は彼らの受入れを拒否したので
日本政府は彼らを釈放して在留特別許可を与えた。

1981年になると特例永住によって、
韓国籍の者と同様に朝鮮籍の者にも永住許可が与えられた。

1991年、「歴史的な経緯と、日本での定着性を踏まえた配慮」ということで、
「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の
出入国管理に関する特例法」(入管特例法)が定められ、
すべての在日韓国朝鮮人が特別永住者として認められた。

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下記の『自民党議員団が「竹島資料室」を視察(2012.2.22)』の動画では、
日本人死亡者数は外務省の資料で8名とありました。
http://www.youtube.com/watch?v=Onaf6qQW2V0

私はWikipediaなどで日本人死傷者が44名であることは知っていましたが、
上記URL動画を見ていて偶然、日本人死亡者数が8名であった事を知りました。
つまり負傷者は36名ということになります。
外務省・防衛省・海自・海保・島根県など公的機関のホームページには、
竹島が侵略された時の日本人の死者数、負傷者数、
その年齢、性別などの内訳や、漁船の被害の内容はおろか、
海上保安庁の船に、どのような武力攻撃がなされて、
どのような被害があったのか、まったく公表されていません。
自国の領土が侵略され、その際、自国民に死者まで出ているのに、
その被害側の国民が、その内容を正式には知らされていないわけです。
「興味があるなら自分で当局の資料室に行って調べればいいじゃないか」
という人がいますが、
これは個人的に興味があって調べてみるという事案ではありません。
たとえば現在の毎日のニュースを見ても、
殺人事件があれば被害者の氏名にいたるまで詳細に報道されています。
自国の領土が侵略されたという極めて大きな事案なのに、
なぜ公的機関のホームページにおいて
自国の被害を国民に知らせないのでしょう?
マスコミも報道しません。
多くの国民も関心がないように思えます。
自国の領土が侵略され、自国民に犠牲者が出ているにもかかわらず、
自国民が何人殺害されたのかさえ自国民が知らないというのは、
まったく、おかしな話ではないでしょうか?

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李承晩ラインで韓国に強制連行され拷問を受け顔を焼かれた第三興洋丸の乗組員
李承晩ラインで韓国に強制連行され拷問を受け顔を焼かれた第三興洋丸の乗組員

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【追記】
いつの間にか公開されていた資料から
見つけ出して関連部分を少し抜粋してみました。

国立国会図書館デジタルコレクション
『海上保安庁 海上保安の現況 昭和41年5月』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3040752
海上保安庁 海上保安の現況 昭和41年5月
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-767.html

『海上保安庁 海上保安の現況 昭和41年5月』

『第1章 海上保安行政の現状と課題』
「第4節 日韓漁業協定の成立」より抜粋
P25~26(コマ番号20~21/84)
・・・
条約の発効までに韓国海軍および内務部海洋警察隊により だ捕された
わが国漁船は327隻に及び、うち3隻は連行中に沈没し、
182隻は沈没されたままとなっている。
また、乗組員は3911人が抑留された。
船舶だ捕等の直接の被害のほか、だ捕による経営の困難や、
働き手を抑留された家族の苦痛など有形無形の損害は大きなものであった。
・・・
巡視船は韓国警備艇の動静を監視し、これが出動するや附近で操業中の
漁船に対し警報を発し避難させた。警備艇が漁船を追跡したときは、
巡視船は現場に急行し、煙幕をはり あるいは警備艇と漁船との間に入り、
ときには漁船を横抱きし、また漁船員を巡視船に移乗させて漁船を
えい航するなど できる限りの方法を講じて だ捕の防止に努めた。
警備艇に だ捕されるに至らなかったが追跡を受けた漁船は、34年以来でも
196隻にのぼるが、このなかには、巡視船の このような果敢な行動により
だ捕を免れたものが少なくない。警備艇の乗員は時には巡視船が えい航中の
漁船に移乗し、ロープを切断し、これを連行することもあった。
あるいは だ捕を免れようとする漁船に対して銃撃を加えたことも再三であり、
保護に向った巡視船にも銃撃を加えることがあった。
このような韓国警備艇の不法な行動に対し、巡視船は日韓間の国交の
正常化を期待して隠忍自重し、警備艇の銃撃を受けて乗組員が危険に
さらされても実力を行使することなく、あくまでも警備艇との紛争を
避けつつ漁船の脱出に努めてきた。また、不幸にして漁船が
だ捕されたときは、警備艇に対して ねばり強く その不法を訴え、
釈放を要求し、事態の平和的解決に努力してきた。
・・・

『第5章 海上における治安の維持』
「第3節 日韓漁業協定の成立と海上警備」
「3.韓国周辺海域における海上警備の推移」より抜粋
P133(コマ番号78/84)
・・・
韓国による日本漁船の だ捕は、22年から始まっているが、当時わが国は
連合国軍の占領下にあり、連合国軍の設定した いわゆるマッカーサーライン
をこえて日本漁船が操業することは禁止されていた。
韓国による日本漁船の だ捕はマッカーサーラインの越境を主たる理由と
していたものと思われる。22年から26年までの間に韓国に だ捕された
日本漁船の隻数は計94隻であるが、うち9隻が いまだ帰されていない。
なお26年には、朝鮮動乱の発生に伴い韓国の警備が強化されたため、
1年間に45隻という多数の漁船が だ捕されている。
平和条約の発効に伴って、それまで日本漁船の操業区域を制限していた
マッカーサーラインの撤廃が予測されるや、韓国の李承晩大統領は、
27年1月18日 海洋主権宣言(いわゆる「李ライン」宣言)を行ない、
同ライン内で操業する日本漁船を李ライン侵犯を理由に だ捕し始めた。
このため、27年以降も だ捕事件の発生が続き、なかには漁船の乗組員が
銃撃されて死亡するというような不幸な事件も起こった。なお、27年以後
40年までに だ捕された漁船は233隻あったが、うち帰されたものは
わずかに49隻で、27年以降の だ捕は26年以前と様子を異にしている。
・・・

P134(コマ番号79/84)表
P134 表

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竹島

なんだ、「独島」ってやっぱ日本の「竹島」じゃん!根拠付動画 拡散
http://www.youtube.com/watch?v=CqYRGg-m5HA

サンフランシスコ講和条約 (大東亜戦争の戦後処理条約)
(日本国との平和条約、1951年9月8日に49ヵ国が署名、1952年4月28日発効)
第二章 領域
第二条(a) 日本国は、朝鮮の独立を承認して、
斉州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対する
すべての権利、権原及び請求権を放棄する。

外務省のホームページより 「サンフランシスコ平和条約 第二章 領域 第二条」
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/pdfs/g_sfjoyaku01.pdf
サンフランシスコ平和条約
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-576.html

「竹島」が日本のものだと書いていないから韓国のものだというのなら
九州、四国、北海道、沖縄なども
韓国のものだということになってしまいます。

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1951年7月19日 韓国大使(ヤン)から米国務長官への書簡。

1951年7月19日 韓国大使(ヤン)から米国務長官への書簡

一、大韓民国政府は、第二条a項の「放棄する」という語を、
「朝鮮ならびに済州島、巨文鳥、欝陸島、ドク島
およびパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に
朝鮮の一郡であった島々に対するすべての権利、権原および請求権を、
一九四五年八月九日に放棄したことを確認する」
と置き換えるよう要望する。

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1951年8月10日 米国務次官補(ラスク)から韓国大使への回答。

1951年8月10日 米国務次官補(ラスク)から韓国大使への回答_1

1951年8月10日 米国務次官補(ラスク)から韓国大使への回答_2

1951年8月10日 米国務次官補(ラスク)から韓国大使への回答_3

草案第2条(a)を日本が「朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、
ドク島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に
朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を、
1945年8月9日に放棄したことを確認する」と改訂するという
韓国政府の要望に関しては、合衆国政府は、
遺憾ながら当該提案にかかる修正に賛同することができません。

合衆国政府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が
同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式
ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を
条約がとるべきだとは思いません。

ドク島、又は竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、
この通常無人島である岩島は、我々の情報によれば
朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、
1905年頃から日本の島根県隠岐支庁の管轄下にあります。
この島は、かつて朝鮮によって領土主張がなされたとは思われません。
http://ameblo.jp/lancer1/entry-10012957524.html

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このように韓国は、日本が放棄する地域に竹島を入れるよう
連合国へ要求していたが拒否され、竹島が日本領として残されることを
決定したサンフランシスコ講和条約発効直前の
●1952年(昭和27年)1月18日、大韓民国大統領・李承晩が李承晩ラインを
一方的に設定して竹島を占領。
●1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ平和条約発効。

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ハーグ陸戦条約 第五五條

占領國ハ敵國ニ屬シ且占領地ニ在ル公共建物、不動産、森林
及農場ニ付テハ其ノ管理者及用益權者タルニ過キサルモノナリト考慮シ
右財産ノ基本ヲ保護シ且用益權ノ法則ニ依リテ之ヲ管理スヘシ
―――――――――――――――――

つまり、韓国が日本固有の領土である竹島を不法占拠したとき、
日本は米国を筆頭とする連合国の占領下にあった。

連合国の筆頭であり連合国・GHQを代表するアメリカには、
占領側として被占領国の領土・占領国民の私有財産や不動産を
保護する義務があったのである。

管理をゆだねられていた日本の領土を第3国に奪われたのだから、
竹島の返還義務は第一に米国にあり不法占領は日韓関係の問題ではなく、
米韓関係の問題となる。

したがって米国内で米国政府を被告として竹島の返還を求める訴訟を
米国内で起こすことが可能である。

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ヴァン・フリート使節団報告書 1954年

ヴァン・フリート将軍
ヴァン・フリート将軍

1954年 ヴァン・フリート使節団報告書

ヴァン・フリート使節団報告書 1954年

極東へ赴いたヴァン・フリート使節団の報告書は、
米国の特別使節大使の任に着いたジェームズ・ヴァン・フリートの
手による秘密報告書です。
韓国、日本、台湾、フィリピンを視察した後に書かれ、
1954年に第34代米国大統領ドゥワイト・アイゼンハワー大統領の
元に送られました。

独島という島(またはリアンクールや竹島とも呼ばれる)は
韓国と日本の本州のほぼ中間地点の日本海にある。
(東経131度80分、北緯36度20分)
この島は実は、無人で不毛の岩の集まりに過ぎない。

日本との講和条約の草案が作られた時、
大韓民国が独島の領有権を主張したが、
米国はこの島は日本の主権下に残るものと結論した。

そしてこの島は講和条約下で
日本が所有権を放棄した島々には含まれなかった。
大韓民国にはこの島に関する米国の立場を秘密裏に伝えたが、
米国の立場は公には発表されなかった。

米国はこの島は日本領だと考えているが、
紛争に干渉することはこれまで断ってきた。
米国の立場は紛争は適切に国際司法裁判所(ICJ)に
委ねるのが良いとするもので、
このことは非公式に大韓民国に伝えられた。
http://jiten.biglobe.ne.jp/j/ca/4e/16/f58cb48bc02adb62ad3fe5d236c4543f.htm

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竹島は東経131度52分に位置する島です。
竹島は東経131度52分に位置する島

1874年 シャルル・ダレ「韓国の教会の歴史」
韓国の領域は東経130度50分まで。
1874年 シャルル・ダレ「韓国の教会の歴史」  130度50分

1876年 瀬脇寿人「鶏林事略」
韓国の領域は東経130度35分まで。
1876年 瀬脇寿人「鶏林事略」  130度35分

1887年 小松運「朝鮮八道誌」
韓国の領域は東経130度35分まで。
1887年 小松運「朝鮮八道誌」 韓国の領域は130度35分まで。

1890年 高木怡荘「外国地理」
韓国の領域は東経130度まで。
1890年 高木怡荘「外国地理」  130度

1891年 谷口流鶯「受験応用万国小地誌」
韓国の領域は東経130度まで。
1891年 谷口流鶯「受験応用万国小地誌」  130度

1893年 ラニエ・ルシアン(Lanier Lucien)「L'Asie」
韓国の領域は東経129度34分まで。
1893年 ラニエ・ルシアン(Lanier Lucien)「LAsie」  129度34分

1894年~1897年 イザベラ・バード「朝鮮紀行」
韓国の領域は東経130度33分まで。
1894年~1897年 イザベラ・バード「朝鮮紀行」  130度33分

1895年 白南奎・李明翔「士民必知」
韓国の領域は東経131度まで。
1895年 白南奎・李明翔「士民必知」  131度

1899年 玄采『大韓地誌』(大韓帝国の最初の地理の教科書)
1899年『大韓地誌』(大韓帝国の最初の地理の教科書)

訳)大韓帝国の領域は、
北緯33度15分~42度25分。東経124度30分~130度35分。
竹島(独島)は東経131度52分です。
つまり、「鬱陵島までが韓国の領土」と書いています。
1899年は下関条約の4年後、乙巳保護条約の6年前、
韓国が完全に独立していた時期の教科書です。
よく確認してみると何度も「日本海」表記までされています。

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1906年 張志淵など『大韓自強会月報』第3号 光武10年7月1日発刊
韓国の領域は東経130度35分まで。
1906年 張志淵など『大韓自強会月報』第3号 光武10年7月1日発刊 130度35分

さらに1907年、1908年の『大韓新地誌』でも同じ事が書かれています。

1907年 安鍾和「初等大韓地誌」
韓国の領域は東経130度58分まで。
1907年 安鍾和「初等大韓地誌」  130度58分

1907年 張志淵「大韓新地志」
韓国の領域は東経130度58分まで。
1907年 張志淵「大韓新地志」  130度58分

1908年 安鍾和・柳瑾「初等大韓地誌」
韓国の領域は東経130度58分まで。
1908年 安鍾和・柳瑾「初等大韓地誌」  130度58分

さらに、日本が敗戦後(1945年以降)の史料に至っても、

1947年 崔南善『朝鮮常識問答』(韓国の常識Q&A)
1947年『朝鮮常識問答』(韓国の常識Q&A)

韓国の領域は、東経124度11分~130度56分23秒と書いています。
繰り返しますが、竹島(独島)は東経131度52分です。

さらに、さらに、

1948年 崔南善『朝鮮常識』(韓国の常識)
1948年『朝鮮常識』(韓国の常識)

「韓国の最も東の島は東経130度56分23秒の竹嶼(チュクド)だ」
と書いてあります!

※チュクド(Chukdo)は鬱陵島の北東にある小さな島。
※漢字で「竹島」と書いてあるのが、
チュクド(Chukdo,チュク島)の事です。独島ではありません。

何度も繰り返しますが、竹島(独島)は、東経131度52分にある島です。
http://s03.megalodon.jp/2007-1216-0107-48/bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=teconomy&nid=3300233&st=title&sw=%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8

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■韓国の古文書『東国與地勝覧』(1530年)に記載された『八道総図』。
韓国の古文書『東国與地勝覧』に記載された『八道総図』。

韓国では昔は「独島(竹島)を于山島と呼んでいた」というが、
図を見ると鬱陵島の西側に于山島が記載してある。
しかし実際には鬱陵島の東側に竹島(独島)は位置している。

ちなみに韓国 鬱陵島の独島博物館の入り口に、上記『八道総図』のレリーフ
があるが、鬱陵島と干山島の位置が『八道総図』とは逆になっている。
2007年に日本からの抗議を受けて韓国は、このレリーフを撤去すると
発表していたが、現在(2011年8月8日)も撤去や修正はされていない。

チャンネル桜「韓国・鬱陵島レポート」[桜H23/8/8]より
http://www.youtube.com/watch?v=SWD81-c3Ys4
鬱陵島の独島博物館の入り口にあるレリーフ

■韓国の古文書『高麗史地理志』
「鬱陵島は新羅時代には于山国と呼ばれていた」 

■韓国の古文書『太宗実録』
「于山島には86人が住み、15戸の家があり、畑があった」

当時、あの岩の島、独島(竹島)に86人もの人が住むことは不可能なので、
韓国の古文書に書いてある「于山国」や「于山島」とは
鬱陵島の事だと考えるのが妥当である。【于山島=鬱陵島】

■19世紀末のフランス人宣教師シャルル・ダレの著書「朝鮮事情」。
(1866年にソウルで処刑されたダブリュイ主教が収集した資料を基礎に編纂)
朝鮮の学者は、自国の文献を全く信用していない。
また決して研究対象にする事は無い。
中国の歴史書だけを読む事にしている。
時々、朝鮮語で書かれた簡略な歴史本を見かける事もある。
しかし、それは女や子供が気晴らしの為に読む、
真偽が混ざった玩具のような本である。
学者達は、それを開いて見る事さえ恥辱だと思っている。
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李氏朝鮮には鬱陵島の正確な地図さえ一枚も存在していない。
独島(竹島)に関しては不正確な地図でさえ一枚もない。
無人島政策を行なっていたので
島の地理を正確に把握していなかったものと思われる。


1724年の日本の地図
『竹嶋考図説』所収「竹島松島之図」(1696年の写し)島根県図書館蔵
1724年の日本の地図『竹嶋考図説』所収「竹島松島之図」(1696年の写し)島根県図書館蔵


日本の1779年の地図。竹島(独島)をしっかり明記。
日本の1779年の地図。竹島(独島)をしっかり明記。


日本の1837年の地図
日本の1837年の地図


于山島=鬱陵島?Chukdo?独島?
http://s02.megalodon.jp/2009-0405-2024-32/mouse99.hp.infoseek.co.jp/masai/masa.htm

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『大韓新地誌附図』
『大韓新地誌附図』

『大韓新地誌附図』の鬱陵島付近の拡大図→于山島がありません。
『大韓新地誌附図』の鬱陵島付近の拡大図→于山島がありません。

『大韓新地誌』のなかの慶尚道の地図(独島は慶尚道に所属するといわれている)
『大韓新地誌』のなかの慶尚道の地図
(独島は慶尚道に所属するといわれている)
鬱陵島の拡大図が慶尚道の地図の左下に記載されていますが、
これにも「于山島」はありません。
併合前の地図にも記載されていない竹島を、
なぜ韓国領土と言えるのでしょうか?
『大韓新地誌』の文章には「鬱陵島の南東に于山島がある。」と一行だけ
記述があるのは事実ですが、経度の記載から考えれば竹島は該当しません。

毎日申報 1913年6月22日 無人島の探検中止
毎日申報 1913年6月22日 無人島の探検中止
鬱島郡西面在住の金元俊さんが、鬱島(=鬱陵島)東北40-50里の位置にある
于山島という無人島があるとして、即ち、この○○○見していた鬱陵に
移住する計画で、○○者を募集して、その費用が毎人○○○金四・・・・・
約百余で帆船を借入れた後、三人乗組んで捜索しようと、出資○○決定して、
賛成者が30名に達したのだが、右の于山島はその実在の謎題あって、
○○10数年前に同地内の鮮人が共同で探索しようとしたものの、
発見できなかったということです。
近年に航海路が頻繁になったのに、その現認したということが無く、
また、その島は海図に記されておらず、
仮に存在したとしても発見は容易ではなく、
反って無益に費用を消費すると不遇だと、中止したそうです。
―――――――
『杉野洋明 極東亜細亜研究所』より引用
http://ameblo.jp/nidanosuke/entry-10086146451.html

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韓国は下記の『大韓帝国勅令41号』を大韓帝国政府は公示して
「正式に」独島を韓国領土に編入していたと主張しているのですが、

大韓帝国勅令41号

―――――『大韓帝国勅令41号』―――――

鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守に改正するの件

第一条
鬱陵島を鬱島と改称し、江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、
官制に編入し、郡等級は5等にすること。

第二条
郡守は台霞洞に置き、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄すること。

―――――

下記の皇城新聞記事で、鬱陵島の所属島嶼の管轄範囲は、
「東西が六十里で南北が四十里」とされています。

皇城新聞 1906年7月13日 鬱島郡の配置顛末

―――――皇城新聞 1906年7月13日 鬱島郡の配置顛末―――――

統監府から内部に公照された江原道三陟郡管下に所在する鬱陵島の所属島嶼と
郡廳設始月を示明せよとの故に答酬され、
光武二年五月二十日に鬱陵島統監として設證され、
光武四年十月二十五日に政府会議を経由して郡守を配置したが、
郡廳は台霞洞に置き、該郡所管島はチュク島と石島で、
東西が六十里で南北が四十里なので、合せて二百余里だという。

―――――――

当時の韓国の里法では1里=0.2km、若しくは1里=0.4kmです。
ここでは、0.4kmと仮定します。

下記の図は韓国で使用されている英文地図です。
鬱陵島周辺の赤い枠内が、「東西が六十里で南北が四十里」です。
その右下にあるのが現在の竹島の位置です。

よって現在の竹島は鬱陵島の所属島嶼の範囲外です。
当時の名称の「竹島」、「石島」は、
鬱陵島のすぐそばにあった島の事であったことがわかります。
現在の竹島は韓国の領土ではないのです。

韓国で使用されている英文地図
韓国で使用されている英文地図

『杉野洋明 極東亜細亜研究所』より引用
http://ameblo.jp/nidanosuke/entry-10059918345.html

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韓国側が、上記の「皇城新聞 1906年7月13日」は鬱陵島の管轄範囲を書いた
ものではなく、鬱陵島の大きさを書いたものだと反論しているのだが、
鬱陵島の大きさについては1899年に書かれた地理書である「大韓地誌」を
引用する形で、同じ皇城新聞の1899年9月23日付に「百里」と書かれている。
「二百余里」ではない。「二百余里」は鬱陵島の管轄範囲である。

皇城新聞 1899年9月23日
「大韓地誌曰く鬱陵島は古ウサン国であり、地方は百里である」
皇城新聞 1899年9月23日 「大韓地誌曰く鬱陵島は古ウサン国であり、地方は百里である」

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東亜日報 1928年9月8日の内容から、「石島」=「観音島」だと考えられる。
東亜日報 1928年9月8日の内容から、「石島」=「観音島」だと考えられる。

「石柱優恵(?)観音島」という小見出しの後、赤線部分に
「その中には石仏形状の岩が幾つかあるとのことで、この島を観音島という」
という記述が見られる。

つまり
「石仏形状の岩が幾つかある島」

「石仏の島」

「石島」

「観音島」
だと考えられる。
―――――――
『大韓帝国勅令四十一号』の第一条。
鬱陵島を鬱島と改称し、江原道に所属させ、
島監を郡守に改正し、官制に編入し、郡等級は5等にすること。
―――――――
このように「鬱陵島」の「陵」を削除し、簡略化して「鬱島」と改称された
具体例があるので、その附属島嶼の「石仏島(?)」も「仏」を削除して
「石島」になったと考えるのが自然である。

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竹島年表
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/06/blog-post_23.html
竹島.com
http://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/

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連合軍最高司令官総司令部覚書 「SCAPIN」第677号(抜粋)
これをもって竹島の所有権を言う韓国人がいますが、6の項目が重要です。
http://s04.megalodon.jp/2008-0408-0054-03/bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=ttalk&nid=931279
日本の竹島(独島)領有の根拠
http://s02.megalodon.jp/2008-0408-0052-53/bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=ttalk&nid=906048
1602年、日本海(Sea of Japan)「坤輿萬國全図」 など
http://s04.megalodon.jp/2009-0210-1800-16/photo.jijisama.org/dependency.html
李承晩ラインによる韓国の非道
http://s04.megalodon.jp/2008-0408-0056-41/bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=ttalk&nid=955562
なぜ竹島が「韓国領土」になったのかわかる韓国のニュース記事
http://s02.megalodon.jp/2008-0408-0054-13/bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=ttalk&nid=919893
竹島は歴史的にも国際法的にも完全に日本領土です。
http://s02.megalodon.jp/2008-0408-0056-58/bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=ttalk&nid=935517
独島は日本の地です。韓国政府の洗脳から目覚めてください。
http://s04.megalodon.jp/2008-0408-0052-29/bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=ttalk&nid=924952
SF条約に対する韓国の図々しい要求の数々
http://s03.megalodon.jp/2008-0408-0054-01/bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=ttalk&page=9&nid=384556

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竹島は「日本」明示 19、20世紀の独仏地図
産経ニュース 2009.10.16_05:52
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091016/plc0910160554003-n1.htm

竹島(円内)の西欧名の下に日本領を示すJapの表記がある仏製地図(島根県竹島資料室提供)

わが国固有の領土で韓国が不法占拠する竹島が、
19、20世紀初めのドイツとフランス製の世界地図で、
日本領と明示されていることが15日、
島根県の竹島資料室の調べで分かった。

国や県が主張する「竹島は17世紀から日本に領有権があった」を
補強する資料。
竹島資料室が9月下旬、
隠岐の島町の男性が所蔵する世界地図など約50点を調査して判明した。

ドイツ製は1872年、
フランス製は1902~04年ごろに作製されたとみられる。
ドイツ製では、リアンクール島など表記されている「竹島」と、
松島と表記されている
「鬱陵(うつりょう)島」が並ぶが、
鬱陵島と朝鮮半島との間に境界線があり、日本領としている。
フランス製では、竹島と鬱陵島の西欧の島名に続き、
日本の領有を示す「Jap」の記述がある。

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19世紀ドイツの地図も「竹島は日本領」明記、複数現存
産経ニュース 2010.1.20_14:14
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100120/acd1001201416004-n1.htm

大阪大付属図書館に所蔵されていた竹島を日本領に含んだ1870年の地図(藤谷茂樹撮影)

竹島(島根県)と朝鮮半島の間に境界線を引き、
日本領とした19世紀後期のドイツ製の地図が
複数現存していることが20日、島根県竹島資料室の調べで分かった。
大阪大付属図書館ではこのうち最も古い1870年製の地図を所蔵。

これまでにも竹島を日本領とする19世紀の西洋製地図は見つかっているが、
さらに複数の地図が確認されたことで、
日本の領有権確立を補強するとともに、
韓国側の主張への反論材料になるという。

竹島資料室によると、大阪大のほか、
海外の大学や古書店などへの調査で印刷時期の違うドイツの
「シュティーラー地図」の所蔵を確認。
1870~1899年の間に作製された約10枚で、
竹島が日本領とされていた。

竹島資料室では、
これまでに島根県隠岐の島町の男性が所蔵する1872年の
シュティーラー地図を確認。
この地図上で、西洋名で書かれた竹島と朝鮮半島の間に
境界線が引かれていた。

シュティーラー地図は、日清戦争後の1896年版では、
台湾と中国大陸の間に境界線を引くなど、当時の国際情勢を反映。
だが、現在は韓国領の鬱陵島を日本側に含むのは、
日本人が同島に渡り活動していた影響とみられ、
その経緯を詳しく検証する必要があるという。

韓国側研究者は
「1920年代まで西洋地図では独島(竹島の韓国名)を
韓国領に属すると分類していた」と主張している。

竹島資料室の杉原隆竹島研究顧問は
「国際的に認められてこの内容で発行が続いたとみられ、
さらに分析を進めたい」としている。

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竹島問題で韓国側の論拠崩す公文書発見
産経ニュース 2010.2.23 06:52
http://sankei.jp.msn.com/life/education/100223/edc1002230654001-n1.htm
日本と韓国が互いに領有権を主張する竹島問題で、
韓国側が論拠としている「竹島はわが国と関係ない」
とする明治政府の文書「太政官指令」の内容は、
現在の竹島(韓国名・独島)を示すのではなく、
朝鮮半島沖にある「鬱陵島(うつりようとう)」と判断できる島根県の
行政文書が見つかったことが22日、竹島問題研究会への取材で分かった。
研究者は「韓国側の主張が崩れる貴重な資料」と注目している。

太政官指令は明治10年に作成され、
「竹島ともう一つの島はわが国と関係がない」と記述しているため、
韓国側は「日本が領有権を放棄した」と主張。
しかし、明治政府発行の当時の地図では現在の竹島の位置に何もなく、
朝鮮半島沖にある鬱陵島が「竹島」「松島」の2つの名前で
書かれていることから、
太政官指令での竹島はこれまでも鬱陵島を指すとみられていた。

今回見つかった行政文書は島根県が所蔵し、
太政官指令の5年後に作成された明治15年1月31日付の「県治要領」。
杉原隆・県竹島研究顧問(71)が
当時の外務省関連文書などを調べる過程で見つけた。

この県治要領では、地元の士族が島根県に出した
鬱陵島とみられる「松島」の開拓願いについて、
内務省が「松島は朝鮮領」として不許可にした経緯を記述。
そのなかに「前に指示した通りわが国に関係ない」という趣旨の
記述があった。

太政官指令と重なり合う内容であることから、
太政官指令で表記された竹島は、県治要領で示す松島、
つまり現在の鬱陵島とみられる可能性が一層強まったという。

この問題では現在の竹島が日本領であることを示す19世紀の
ドイツ製の地図も複数見つかっている。

同研究会座長を務める下條正男・拓殖大教授は
「韓国側が太政官指令を頼りにしてきた論拠が崩れた」と評価している。

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韓国の「中等国史」1947年 崔南善著
韓国の「中等国史」1947年 崔南善著

韓国の「中等国史」1947年 崔南善著 「日本海」と記載されている&竹島が記載されていない。
「日本海」と記載されている&竹島が記載されていない。

1954年9月7日の東亜日報で「日本海」という名称が使われている。
1954年9月7日の東亜日報で「日本海」という名称が使われている。

独立後も「日本海」という名称が韓国でも使われていたことがわかる。

隆煕2年(1908年)大韓帝国 9月8日の官報

隆煕2年(1908年)大韓帝国 9月8日の官報 2ページ目の右端に「日本海」と書かれている。
隆煕2年(1908年)大韓帝国 9月8日の官報
2ページ目の右端に「日本海」と書かれている。

光武5年(1905年)6月5日の皇城新聞にも「日本海戦」と書かれている。
光武5年(1905年)6月5日の皇城新聞にも「日本海戦」と書かれている。


韓国に竹島を描いた古地図は存在するか: 日韓古地図の比較
http://www.youtube.com/watch?v=_w7wHekOQM8
Does there exist any old Korean map which depicted Takeshima/Dokdo?
http://www.youtube.com/watch?v=H91QN6ho8jU
¿Existe algún mapa antiguo coreano en el que esté representado Takeshima/Dokdo?
http://www.youtube.com/watch?v=2eHieSfEnPE
한국에는 타케시마를 그린 고지도는 존재할까?: 일한 고지도의 비교
http://www.youtube.com/watch?v=P_hWLuCUvwY

韓国人にとって特別な二つの場所 2012
http://www.youtube.com/watch?v=Mt-KIdvvUQs
Two Special Places for Koreans 2012
http://www.youtube.com/watch?v=k3_H5YFm5lU
한국인에게 특별한 두 장소 2012
http://www.youtube.com/watch?v=KYskPrhEB-s

竹島はなぜ日本領なのか: サンフランシスコ講和条約とラスク文書
http://www.youtube.com/watch?v=hcbny3RmPE0

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竹島の実測原図 旧日本軍、明治41年に測量

産経ニュース 2012.4.11 07:03
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120411/trd12041107150000-n1.htm

島根県竹島(韓国名・独島)を旧日本海軍が
明治41(1908)年に測量した実測原図が海上保安庁に
所蔵されていることが10日、同県竹島資料室の調査で分かった。

原図は、旧日本海軍水路部が経緯度を実測した記録「本標 経緯度実測原簿」
(縦30センチ、横21センチ)。
竹島資料室が今年3月、海上保安庁海洋情報部(東京都)の資料を調査し、
新たに見つかった。
測量時の竹島経緯度が記された経緯度表も初めて確認された。

原図の縮尺は、1万8204分の1。
旧日本海軍が明治41年8月4、5日の2日間、竹島周辺を測量し作製した。

竹島の西島を「男島」、東島を「女島」と記載。
島名を含む地名9カ所が記載されており、西島南西の「南西岩」や、
西島と東島の間にある「洞岩」、東島北東の「洞湾」など6カ所は、
今回初めて確認された地名だった。

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「竹島は日本領」江戸時代に定着
複数の学者、地図に記載 「日本海」表記も

産経ニュース 2014.1.22 07:29
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140122/trd14012207330000-n1.htm

「華夷一覧図」の日本部分。隠岐諸島の上方に「松シマ」「竹シマ」と
記された竹島と鬱陵島が日本領として赤く塗られている(島根県提供)
「華夷一覧図」の日本部分。隠岐諸島の上方に「松シマ」「竹シマ」と記された竹島と鬱陵島が日本領として赤く塗られている(島根県提供)

江戸時代後期に作製された複数の地理学者らによる地図5点に、
いずれも竹島が日本領として記載されていることが21日、
島根県の竹島問題研究会の調査で分かった。

政府は、竹島が記された初期の日本地図
「改正日本輿地路程(よちろてい)全図」
(1779年初版、長久保赤水作製)
などをもとに「遅くとも17世紀半ばには竹島の領有権を確立した」
と主張しているが、
長久保以外の学者も竹島を日本領としていたことが裏付けられ、
当時から認識が広まっていたといえそうだ。

研究会が、全国の図書館や博物館で確認したのは、
寛政2(1790)年作製の
「蝦夷風俗人情之沙汰付図(えぞふうぞくにんじょうのさたふず)全図」と
「蝦夷草紙(えぞそうし)全図」(2点の内容は同じ)、
寛政8(1796)年の「寛政亜細亜(かんせいあじあ)地図」と
「日本並北方図(にほんならびほっぽうず)」(同)、
文化3(1806)年の「華夷一覧図(かいいちらんず)」の5点。

研究会によると、「蝦夷」2点は幕府の蝦夷地調査隊に参加した探検家、
最上徳内(もがみとくない)(1754~1836年)が作製し、
現在の竹島と鬱陵島を日本領として茶色に彩色。
「沙汰付図」には紀州徳川家の文庫「南葵(なんき)文庫」の蔵書印があり、
地図を入手したことが分かるという。

「寛政」と「日本並」は地理学者、本多利明(としあきら)
(1744~1821年)によるサハリンや朝鮮半島などの東アジア地図で、
竹島を「松島」、鬱陵島を「竹島」と記し日本領としている。

地理学者の山村才助(1770~1807年)の「華夷」は
アジアや欧州が描かれ、竹島を「松シマ」、鬱陵島を「竹シマ」と示し
日本領として赤く彩色。同時代の地図には珍しい「日本海」の表記も。

研究会は「当時の著名な地理学者らの地図で共通して
竹島を日本領としており、幕府や主要な藩、
知識人に認識が広まっていたことが分かる」としている。

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竹島より韓国側の島も「日本領」明の役人が記載

YOMIURI ONLINE 2015年03月21日 14時42分
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150320-OYT1T50153.html

李氏朝鮮の宗主国だった明の役人が日本の地理について
まとめた「日本図纂」(1561年)に、
韓国領の鬱陵島が日本領として記載されていることが、
島根県竹島問題研究会の調査で分かった。
韓国が不法占拠を続ける竹島(隠岐の島町)は、
鬱陵島より日本側にあることから、同研究会は
「明は竹島も日本領として認識していた可能性が高い」としている。
同研究会によると、日本図纂は倭寇対策などの一環として、
地理学者でもあった明の役人が編集した。掲載された地図には、
当時は「竹島」と呼ばれていた鬱陵島が、「因幡」と「伯岐(伯耆)」
(いずれも現在の鳥取県)の北の日本海に記載されている。
一方、同じ役人が1562年頃に李氏朝鮮の地理を
まとめた「朝鮮図説」には、
朝鮮半島の周囲に済州島や珍島などの記載はあるが、鬱陵島はない。
日本図纂の地図では、鬱陵島の西側に「隠岐」が描かれており、
実際の位置関係とは異なる。
当時は鳥取の住民らが鬱陵島に渡航していたこともあって、
因幡や伯耆の近くに鬱陵島を描いたのではないか、と同研究会はみている。
鬱陵島について、韓国側は512年に新羅に編入され、
竹島とともに領土になった、と主張している。
1696年、江戸幕府は鬱陵島への渡航禁止令を出したが、
それ以前は、幕府が鳥取藩主に鬱陵島への渡航を認めていた。


竹島と呼ばれていた鬱陵島が描かれた「日本図纂」の地図




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韓国の検定教科書で“墓穴” 教科書「わが国の地理」で竹島が“範囲外”

zakzak 2015.04.06
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20150406/frn1504060830001-n1.htm

韓国が、不法占拠を続ける島根県・竹島(韓国名・独島)について、
大きな墓穴を掘ったといえる検定教科書を出版していた。
自国の東端を、竹島より西側として記述しており、
竹島を自国領から除外していたのだ。
日本政府が国際司法裁判所(ICJ)に提訴する際、
韓国のウソを打ち破る補完証拠になるのか。

注目の教科書は、
1957年に発行された中学生用の社会生活科の教科書「わが国の地理」。
現在もソウル市内にある教科書出版社「一潮閣」から出されたもので、
「韓国文教部(現・教育部、日本の文科省に相当)検定済み」
と表紙や前書きに明記されている。

領土問題に関心がある西日本在住の男性が
大阪市内の古書店で発見し、2000円で購入した。
「朝鮮大学校蔵書」という印もあり、
北朝鮮系の朝鮮大学校(東京都小平市)から流出したようだ。

教科書では「わが国(韓国)の位置」を
「東端…東経130度41分22秒」と記載していた。
つまり、韓国が現在、東端と主張する竹島の位置(東経131度52分)
から約130キロも西側(韓国寄り)が、自国の東端と教えていたわけだ。

この教科書が注目されるのは、
韓国の李承晩(イ・スンマン)大統領=当時=が
日本海に一方的に「李承晩ライン」
をひいた52年から5年後に出版されていることだ。
韓国政府は54年に海洋警察隊を島に常駐させ、
現在に至る不法占拠につなげているが、
57年の出版時点でも、韓国は「竹島領有」を
子供たちに教えることに自信がなかったとも受け取れる。

朝鮮半島の地図は約20枚使用されているが、竹島が出てくるのは、
日本の漁船の操業禁止区域を示した地図1枚のみ。
地誌の説明もあり、わずか4行だが「独島」という項目もあった。

そこには、「昔からわが国の領土であることが確かにもかかわらず、近海の
漁場を狙う日本人どもが自分たちの土地だと主張して問題になっている」
という説明に続き、「この島は人の住まない2つの岩に過ぎない」と、
あまり重要でもなさそうな記述になっている。

現在、韓国は官製パンフレットで「わが民族誇りの地」
「先祖の魂をそっくりそのまま宿している、われわれの希望の拠り所」
などと、太古の昔から聖地だったかのように仰々しく崇めている。
同じ国の政府が認めた記述とは思えない価値観の変貌ぶりだ。

竹島問題に詳しい拓殖大学の下條正男教授は
「韓国は当時、竹島を占拠して、自国領という捏造工作を進めていた。
こういう(墓穴を掘ったような)資料はたくさんあり、
この教科書も失敗作の1つだ。
問題は、日本政府が適切に反論してこなかったこと。
日本漁船が拿捕され、日本人漁師が抑留された背景もあったのだろう。
ただ、国家主権では妥協してはならない。
韓国を論破する戦略・戦術を整えるべきだ」と語っている。



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韓国人が世界中の図書館で地図の「日本海」の上に「東海」シール貼り
http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-1591.html

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当初、特許庁は観光土産の饅頭「竹島ものがたり」の商標登録を拒否した!

観光土産「竹島ものがたり」特許庁が商標登録拒否(H19.1.26)
http://www.youtube.com/watch?v=gZmXrtK7NrE

産経朝刊 2007年1月30日 大阪版

土産「竹島ものがたり」商標登録 特許庁、一転認める

日本固有の領土・竹島(島根県隠岐の島町)を冠したまんじゅう
「竹島ものがたり」をめぐり、「日韓両国に無用の混乱を招く」として
商標登録を認めていなかった特許庁が、
一転して登録を認めていたことが29日、わかった。

出願者の反論を前に、自ら調べをやり直すことは異例で、
同庁は「調査不足だった」と審査の不備を認めている。

申請したのは東京の菓子みやげ問屋「大藤」で昨年12月下旬、
日韓両国に混乱を招くため商標登録できないとする
拒絶理由通知書を特許庁から受け取っていた。

通知に対する反論の意見書は1月末が提出期限で、
同社が反論の準備を進めていたところ、
29日までに登録を認める「登録査定」が送られてきた。

登録査定には「拒絶の理由を発見しない」として、
「登録すべきものと認める」と当初と異なる内容が書かれていた。

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19世紀のドイツ製地図に竹島 日本領記載 島根大・舩杉准教授が初確認

産経ニュース 2020.1.22 20:13
https://www.sankei.com/life/news/200122/lif2001220036-n1.html

竹島を日本領と認識し1880年に作られたドイツ製日本地図。
左上の英語名「ホーネット島」の文字の下にある複数の点が竹島
竹島を日本領と認識し1880年に作られたドイツ製日本地図。左上の英語名「ホーネット島」の文字の下にある複数の点が竹島

韓国による不法占拠が続く竹島(島根県隠岐の島町)が
日本領として記載された19世紀のドイツ製日本地図を、
島根大学の舩杉力修(ふなすぎりきのぶ)・准教授(歴史地理学)が確認した。
同様の地図はイギリスで確認されているが、ドイツ製のものは初めて。
1905年に島根県に編入される前から竹島が
国際的に日本領と認識されていたことを改めて示す貴重な資料という。
地図は、独政府から委託を受けて調査のために
1873年~75年に来日した地理学者、
J・ライン博士(1835-1918年)が日本の産業について
まとめた記録本(1881年発行)の付録資料として収録。
1880年製作と表記された「日本地図」で、
竹島は「ホーネット島」(竹島の英語名)として
日本海上に日本領として描かれていた。
舩杉准教授が東京都内の古書店で発見。
調査の結果、日本の国会図書館にもこの地図の
1903年の改訂版が保存されていたことも分かった。
改訂版では、竹島の地形がより正確に描かれていた。
日本では古くから竹島の存在を認識しており、
江戸時代には幕府公認で漁業を営むなどの経済活動も実施。
1905(明治38)年1月の閣議決定で、竹島を島根県に編入した。
舩杉准教授によると、韓国側は自国に不利な地図は
意図的に排除しているといい、
「竹島が国際的にどう認識されていたかを示す重要な資料だ」と話している。

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「竹島は日本領」米政府作製の航空図に明記…サンフランシスコ講和条約を反映

読売新聞 オンライン 2020/11/02 09:18
https://www.yomiuri.co.jp/national/20201031-OYT1T50281/

1953年の航空図。竹島と鬱陵島の間の点線を「国境線」としている
(米国立公文書館所蔵、日本国際問題研究所提供)
1953年の航空図。竹島と鬱陵島の間の点線を「国境線」としている(米国立公文書館所蔵、日本国際問題研究所提供)_縮小版

1954年の航空図。53年のものと同じように竹島と鬱陵島の間に点線がある
(米国立公文書館所蔵、日本国際問題研究所提供)
1954年の航空図。53年のものと同じように竹島と鬱陵島の間に点線がある(米国立公文書館所蔵、日本国際問題研究所提供)_縮小版

領土問題などの研究を行う「日本国際問題研究所」(東京)は、
1953年、54年に米政府が作製した竹島を
日本領と記した航空図2点を発見したと発表した。
航空図は52年のサンフランシスコ講和条約の発効直後に作製されており、
調査した島根大法文学部の舩杉力修准教授(歴史地理学)は
「条約を起草した米国の認識を示す重要な資料だ」としている。(林興希)
委託を受けた調査会社が2019年度、米国立公文書館で調査。
約100点を舩杉准教授が分析した。
見つかったのは、53年発行の縮尺50万分の1の航空図と、
54年発行の同200万分の1の航空図。
いずれも米空軍作製で、防空識別圏(ADIZ)を示す線とは別に、
竹島の欧米などでの名称「リアンクール岩礁」と、
韓国・鬱陵島の間に点線が引かれている。
航空図に付された凡例などは点線について、53年作製は「国境線」、
54年作製では「島の主権の境界線」としている。
同講和条約の発効前に作製された50、51年の航空図では、
線は記されていなかった。
日本の領土が法的に確定していなかったことが理由とみられる。
日本が放棄する領土は、同講和条約で確定した。
交渉では、韓国が起草国の米国に対し、
竹島の帰属を明記するよう求めたが認められず、
日本が放棄する領土には含まれなかった。
ただ韓国側は「竹島に領土問題は存在しない」とする一方、
「鬱陵島の属島であり、韓国領だ」と主張している。
舩杉准教授によると、同講話条約の締結直後に
竹島を日本領とした米国製の地図が見つかるのは初めて。
舩杉准教授は「講和条約の前後で表記が変化していることからも、
新たに見つかった航空図は、条約の内容を反映していると考えられる。
条約起草国の米国の地理的認識も示しており、
韓国の主張を否定する重要な根拠になる」と述べた。
航空図の複製版は、島根県庁第3分庁舎の竹島資料室で展示されている。

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米政府が1952年発行した海図に
「Take Shima」…「竹島を日本領と認識」

読売新聞 オンライン 2021/02/22 10:42
https://www.yomiuri.co.jp/national/20210221-OYT1T50211/

「Take Shima(竹島)」と日本名で記載された1952年発行の海図。
「Oki Gunto(隠岐群島)」などの地名も見える=舩杉准教授提供
「Take Shima(竹島)」と日本名で記載された1952年発行の海図_縮小版

領土問題などを研究している「日本国際問題研究所」(東京)は、
竹島が日本領と記載された米政府が1952年に発行した海図を、
新たに発見したと発表した。16回目を迎える22日の「竹島の日」を前に、
島根県庁第3分庁舎の竹島資料室で複製を展示している。
研究所の依頼を受け、島根大法文学部の舩杉力修准教授(歴史地理学)が
調査し、昨年秋から米、英の海図や航空図を約30点収集。
うち米国の古書店で購入した52年10月発行の縮尺約647万分の1の
海図「北太平洋 北西部」に、
「Take Shima」と日本名で記載されていた。
今回の海図に国境線は記されていないが、日韓境界付近の地名を見ると、
日本側の島々は日本名、朝鮮半島側は現地名で記されており、
舩杉准教授は「米政府が当時、竹島を日本領と認識していた」とみている。
また、海図は、日本の放棄する領土を確定したサンフランシスコ平和条約が
同年4月に発効した直後に作製され、
「条約の内容を反映していると考えられる」とした。
竹島を日本領と記した米政府の航空図はこれまでにも複数見つかっており、
舩杉准教授は「日本の主張を補強する資料が見つかった。
竹島の日に合わせて、広くアピールしていきたい」と話している。

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「竹島は日本領」示す米国製の地図発見 島根編入前の1897年発行
【朝日新聞デジタル 2022年11月6日 10時15分】
https://news.livedoor.com/article/detail/23150597/
日韓が領有権を争う島根県隠岐の島町の竹島(韓国名・独島)を
日本領と表示した1897年発行の米国製の地図が見つかったと、
島根大学の舩杉力修(ふなすぎりきのぶ)准教授(歴史地理学)が明らかにした。
竹島が島根県に編入される1905年以前から、
国際的に日本領と認識されていたことを裏づける資料だという。
地図は米ニューヨークの百科事典製作会社が発行したもので、
隠岐の島町在住の個人が所蔵していた。
地図では日本領は黄色、韓国領はピンク色で表示。
竹島は日本領と同じ黄色で、英国での名称「ホーネット島」や
フランスでの名称「リアンクール岩」と表記し、
いずれも地図の索引に日本領と記載している。
舩杉准教授によると、竹島が日本領であると表示する1905年以前の地図が
見つかったのはイギリス、フランス、ドイツ製の地図に続くという。
舩杉准教授は「竹島が島根県に編入される1905年以前に、米国内では
日本領であると認識されていたことを示す貴重な地図だ」と話している。
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竹島を日本領として表示した米国製地図(部分)
=個人蔵、舩杉力修・島根大准教授提供
竹島を日本領として表示した米国製地図(部分)=個人蔵、舩杉力修・島根大准教授提供

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1905年(明治38年)1月28日に日本の明治政府が竹島を島根県に編入の
閣議決定をして竹島は国際法的にも日本の領土となりました。

そのまえの1904年2月23日締結の日韓議定書は、
日本では2月27日に官報で公表、韓国では3月8日に官報で公表され、
3月20日に韓国皇帝から、
「日韓議定書の主義を確守し、之と一致の方針を執る」
という誓約を得ています。

1904年8月22日締結の第一次日韓協約は、8月22日に韓国皇帝の裁可を得て、
9月5日に日本の官報で、9月9日には韓国の官報で公表されています。

これらは正式な条約です。
あとになって「あの時は異議を唱えにくい政治状況だったから・・・」
と言っても、そのときは、そういう状況だったので通用しません。

「条約」は侵略ではありません。「条約」が侵略だというのなら、
たとえば日米安全保障条約は侵略なのでしょうか?
日本にアメリカ軍の基地はありますが、
アメリカには自衛隊の基地はありませんし、
有事の際、自衛隊はアメリカ軍の指揮下に入ります。
日米安全保障条約で日本の領土にアメリカ軍が駐留しているからといって、
日本の領土だからといって自衛隊はアメリカ軍を攻撃していいのでしょうか?

条約というものは、いつも対等、公正に結ばれるとは限らないのです。
軍事力を背景にしていない国など存在しません。

「あの時は異議を唱えにくい政治状況だったから・・・」
というものを考慮してたいら世界は紛争地だらけになります。

インディアンは異議を唱えにくい政治状況にあった、
だからアメリカはインディアンのものだ・・・

ハワイ人は異議を唱えにくい状況にあった、
だからハワイはハワイ人のものだ・・・

コサック人は・・・アイヌ人は・・・満洲国は・・・

どれかを認めれば、それにより不利益を受ける人の新たな問題が発生します。

法の経済を考慮するなら、
そんな細かいところを国際法で考慮するのは論外です。
国と国、国際的に認められた条約なり証文なりの存在が優先されます。
たとえ、どんなに不平等であってもです。

アラスカは昔、ロシアからアメリカへ720万ドルで売り払われました。
それについて、あの時はロシアの経済が苦しく不公平な状況で売買された、
国際的に異議を唱えにくい状況にあった・・・
などと今になってロシアがアメリカに文句をつけられるのでしょうか?

国際的に約束され、承認された事柄は覆せないのです。
無理に覆せば、それは正統ではなく違法な行為となります。

当時、世界中が認めた事を、
今の人々の感情で不当に覆すなら、それは不法となるのです。

【English sub】 竹島は韓国領?
http://www.youtube.com/watch?v=-n-w1F7CcJI

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韓国は侵略国 日本人虐殺・拉致事件
http://www.nicovideo.jp/watch/sm18849205

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竹島- 国際司法裁で日本勝利へ [Takeshima/dokdo] to International Court. 谷山雄二朗
http://www.youtube.com/watch?v=khPy_1XK228
http://www.youtube.com/watch?v=j-z___pqPu8

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米国製航空図一覧
https://www.jiia.or.jp/jic/takeshima_collection/list_3.html
竹島が日本の領土であるというマッカーサーの電報
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-659.html
りやんこ島
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-635.html
1965年(昭和40年)6月22日、日韓基本条約
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-589.html
★もっと超簡単に!大東亜戦争にいたる流れの説明
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-553.html
慰安婦_資料
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-147.html
日韓併合の前後
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-317.html
日韓併合
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-101.html
日韓併合_関連資料
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-323.html
先帝陛下(昭和天皇)に戦争責任はない。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-263.html
強制連行_資料
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-146.html
尖閣諸島が日本の領土である根拠
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-86.html
2009/11/16 09:00|年表リンク用資料
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