●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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大東亜戦争は無謀な戦争だったのか
太平洋戦争は無謀な戦争だったのか?[桜H22/1/11] ■1.「正しい時期における正しい戦争であった」 アメリカの歴史学者ジェームズ・B・ウッド教授(ウィリアムズ大学) による『「太平洋戦争」は無謀な戦争だったのか』と題された刺激的な 研究書が出版された。 ウッド教授は、この書の冒頭で次のように述べている。[1,p28] こうなった[JOG注: 日本が敗北した]ことを以って、 日本が1941年末に西欧列強と戦争しようと決断したこと自体が 間違いであったという証明にしばしば利用されている。 本書は逆に、連合国軍相手の戦争は、 日本にとって正しい時期における正しい戦争であったと主張する。 ここでの「正しい」とは、「戦略的に合理性がある」ととるべきだろう。 すなわち、勝利の可能性のあった戦いだった、ということになる。 ウッド教授はこうも言っている。 また忘れてはならないのは、日本が欧米列強を相手に 戦争をしようという決断は、 長い時間をかけて熟慮した結果であるということだ。 それは決して思いつきの行動ではない。 その決断は恐れと日和見主義の両方に影響されてはいたが、 それはまさしく計画された賭だった。[1,p29] ■2.長期不敗、自給自足の態勢を目指す 「計画された賭」に勝つ方法はあった。 そして、日本は開戦当初、まさしくその戦略を考えていた、 とウッド教授は指摘している。 昭和17(1942)年3月、東条首相は「今後とるべき戦争指導の大綱」を 天皇に上奏した。 開戦から4カ月、真珠湾攻撃に成功し、シンガポールを攻略して、 国民が緒戦の勝利に酔いしれていた時期である。 そこには戦争の第二段階に向けて、極めて冷静な戦略が述べられていた。 [1,p96] 1.英を屈服し、米の戦意を喪失せしむるために、 引き続き既得の戦果を拡充して、 長期不敗の政戦態勢を整えつつ機を見て積極的の方策を講ず。 2.占領地域および主要交通路を確保して、 国防最重要資源の開発利用を促進し、 自給自足の態勢の確立及び国家戦力の増強に努む。 日本が目指していたのは、ワシントンに日の丸を立てる、 というような空想ではなく、「長期不敗」の態勢を作って、 アメリカの戦意を喪失させ、機を見て講和に持ち込むことであった。 そのためにはインドネシアの石油資源を確保し、 フィリピンや台湾の西側を経由する安全な輸送ルートを確保して、 「自給自足の態勢」を作る。 日本が戦争に追い込まれた直接の原因は、 アメリカなどの石油禁輸措置により国家の生存が脅かされたことで あったから、こうした「自給自足の態勢」を確立した上で、 「長期不敗の政戦態勢」を実現することは、 「自存自衛」という戦争目的そのものであった。 ■3.アメリカも太平洋は「防御」 そんな「長期不敗」の戦略など、アメリカの巨大な生産力に 物を言わせた物量作戦の前には風前の灯火だ、というのが、 戦後の「常識」であるが、ウッド教授は双方の目論みや生産能力を具体的、 定量的に分析して、それが現実的な戦略であったことを実証していく。 まず、アメリカ側も、日本と同様、太平洋では防衛を主としていた。 ドイツを打ち破ることを優先するためである。 戦前のアメリカの構想では特に1940年のフランス陥落の後では、 日独双方を相手の戦争では、太平洋においては防衛にとどまり、 ヨーロッパの戦勝に総力を結集するつもりであり、 このいわゆる「対ドイツ最優先」構想は、 真珠湾直後にルーズベルトとチャーチルによって再確認された。[1,p44] そもそも、ルーズベルト大統領が石油禁輸や、ハル・ノートによる 中国大陸からの撤退要求などによって日本を追い詰めたのは、 ドイツとの戦いに参加するためであった。 大統領選では「絶対に参戦しない」と公約して当選したのだが、 その公約を破らずに参戦するために、日本を挑発し、 日本から戦端を開かせる、という手段をとった。 当時の共和党下院リーダー、ハミルトン・フィッシュ議員は、 「ルーズベルトは、われわれをだまし、いわば裏口から われわれをドイツとの戦争にまきこんだのである」と批判している。[a] とすれば、日本の開戦によってルーズベルトはすでに参戦の 目的を果たしたわけで、日本がハワイやオーストラリアを脅かさない程度の 「自給自足の態勢」に留まっていれば、 米国がドイツとの戦争に集中している間は、 太平洋では防御に徹することは、ごく合理的な戦略であった。 そして、このアメリカの「対ドイツ最優先」の戦略を、 日本も見通していたので、 「長期不敗の政戦態勢」を方針として掲げたのである。 ■4.国防圏から踏み出さなければ 緒戦の勝利から、敗戦への転換点は、ミッドウェー海戦(昭和17年6月) とガダルカナル島の戦い(同8月)だった。 ミッドウェー海戦では、日本海軍は機動部隊の中核を なしていた空母4隻を失った。ガダルカナルの戦いでは、 2万5千人もの戦病死者を出すと共に、 多数の戦闘機と優秀なパイロットを失った。 両方とも、国防圏のサイパンから、3、4千キロも離れ、 ハワイやオーストラリアから至近の距離にあった。 すなわち、日本軍は「長期不敗、自給自足の態勢」を大きく踏み出して、 敵地の近くで戦闘を挑み、その結果、戦力のかなりの部分を失って、 以後、坂道を転げ落ちるように敗北に向かっていった。 ミッドウェーでは、米軍は暗号解読と無線交信の分析により、 日本軍を待ち構えて撃破したのだが、 当初はミッドウェー攻撃はなんら軍事的妥当性を持たないと、 予想もしていなかった。 またガダルカナル島には、 連合軍は海兵隊1個師団を送るのが精一杯だった。 どちらも日本軍から仕掛けなければ、戦いは起こらなかっただろう。 形勢反転後、連合軍は太平洋の島伝いに侵攻していったが、 日本軍が地下要塞を築いて迎え撃つゲリラ戦法には手を焼いた。 今村均将軍は、ラバウルで陸軍将兵7万人による巨大な地下要塞を作り、 自給自足の体制を敷いた。マッカーサーはこの地の攻略を諦め、 迂回して侵攻を続けた。[b] ペリリュー島(現在のパラオ諸島)では、 1万1千人の守備隊のほとんどが玉砕したが、 地下要塞とゲリラ戦法で米軍の攻勢を2ヶ月半も押しとどめ、 戦死傷1万人弱の損害を与えた。 硫黄島でも同様の戦法で、2万余の日本軍が36日間持ちこたえ、 米軍に死傷者2万6千人近い大損害を与えた。 これは実質的には敗戦ではないか、という議論が米国内で巻き起こった。 [c] 戦争の第二段階で、日本軍がミッドウェーやガダルカナルに 討って出るのではなく、太平洋の島々に ラバウル並の堅固な防御態勢を築いていれば、 連合軍の侵攻もはるかに多大な時間と犠牲を伴うものになったはずである。 そして日本としてはサイパン島を守っていれば、 そこからB29が飛び立って、日本本土空襲と原爆投下を行う、 という事態も防ぐ事ができた。 ■5.1945年末まで日本が戦力を温存していたら 1943(昭和18)年8月における連合軍の戦争構想でさえ、 ドイツの降伏を1944年10月と仮定しても(実際には、1945年4月)、 それから1年以内に日本を降伏させる見込みは全くないとし、 対日勝利の目標時期を1948(昭和23)年までとした。 仮に日本が国防圏を守って、1945年末まで戦力を温存していたら、 その頃には、ソ連が東ヨーロッパの占領地に鉄をカーテンを降ろし、 米ソ冷戦が始まっていた。[d] アメリカとしてはソ連が東ヨーロッパを囲い込むのを傍観しつつ、 あえて何万という多大の犠牲を太平洋の各島で出しながら、 日本を降伏に追い込もうとする余裕も必要性もなかったろう。 逆に、無傷の日本とは早々に講和を結び、 ソ連と対峙してヨーロッパを守る方が、 はるかに合理的な道だったはずである。 また、ソ連にしても、日本の敗戦直前に火事場泥棒のように 満洲になだれ込んだが、 日本軍が健在だったら、そんな真似はできなかった。 日本が国防圏を維持して、戦力を温存していたら、 勝ちはしなくとも不敗のままアメリカとの講和を結ぶ可能性は 十分にあった、というのが、ウッド教授の結論である。 ■6.インド洋作戦こそ鍵だった ウッド教授は触れていないが、訳者の茂木弘道氏は インド洋作戦の重要性を前書きで指摘している[1,p2]。 私は、インド洋作戦こそが、第二段階作戦の中心であり、 それによって英本国への豪・印からの原料・食料などの補給遮断、 スエズ英軍への米からの武器補給遮断、カルカッタ-アッサムから 重慶[JOG注: 蒋介石の国民党軍]の遮断、 さらには対ソ米軍事援助の中心補給路(7割以上を占めていた)の遮断、 などの莫大な効果をあげることができる、と結論づけていた。 この場合、対米作戦は前方決戦を避け、防御に徹していれば、 少なくとも昭和18年後半までは、十分反撃できる、 と考えていたのであるが、本書はまさに、 それをきわめて本格的な分析によって証明してくれている。 ウッド教授は、昭和17~18年に、 インド洋でマレー半島のペナンから出撃した 日本の伊号潜水艦数隻が百隻近い連合軍の船舶を撃沈、または損壊させ、 その損失は船舶量にして数十万トンに達した事実を指摘している [1,p155]。 日本は開戦時に42隻の伊号潜水艦を所有していたから、 茂木氏の主張するインド洋での補給路遮断は、十分に可能だったのである。 ■7.インドの独立を後押ししていれば また弊誌の私見では、英国にインドの独立を迫る戦略も 有効だったと考える。 昭和18年7月には、日本の支援のもと、 インドの独立運動家チャンドラ・ボースが英軍から投降した インド兵1万4千人を率いて、 シンガポールでインド国民軍を結成していた。[e] 日本の敗戦後、イギリスがこのインド国民軍の指導者たちを 反逆者として軍事裁判にかけた時、 インド全土で憤激した民衆が暴動を起こし、 これがインド独立につながった。 もし、昭和18年時点で、戦艦大和率いる連合艦隊が インド国民軍をインドの主要港に送り届けて、英国植民地政府に インド開放を要求していたら、インド国民は歓呼して迎え、 孤立した英軍は、なすすべもなかったろう。 そうなれば、インド経由の英米の援助に頼っていた蒋介石の国民党政権も 抵抗を諦め、日本が後押しする汪兆銘政権と和解していただろう。 昭和18年末、東京で満洲国、中華民国、タイ、フィリピン、ビルマ、 自由インド仮政府の代表が集まって、大東亜会議が開かれている[f]。 日本が国防圏を維持し、インドを英国から開放し、 そして中国の平和的統一が実現していれば、この大東亜会議は真に アジアの独立を謳い上げた会議になっていたはずである。 ■8.「無謀な戦争」とは戦後のプロパガンダ 「太平洋戦争とは、日本が仕掛けた無謀な侵略戦争だった」 というのが、戦後、広く我が国を覆っている「常識」である。 そして、この「無謀な侵略戦争」は「狂信的な軍国主義者」 たちが仕掛けたもので、国民はその被害者だった、と、 この「常識」は続く。 そこには「軍部に騙された無知なる国民」という、 当時の国民全体への侮蔑も潜んでいる。 ウッド教授の研究は、この「常識」が、戦後に広められた 一種のプロパガンダであることを明らかにしている。 日米戦争は、ルーズベルト大統領が 「裏口からアメリカををドイツとの戦争に巻き込むために」 日本を追い詰め、 日本が国家の生存を賭けて立ち上がった戦争である。 そして、その戦略は冷静に計算され、 今日から見ても合理性のあるものだった。 その戦略を貫徹すれば、日本が自存自衛、長期不敗の生存圏を確保して、 アメリカとの講和に持ち込む、という可能性は確かにあったのである。 ただ、緒戦の勝利があまりにも鮮やかだったために、 より防衛的境界線を遠ざけようとする、 ウッド教授の言うところの「勝利病」が、当初の戦略から逸脱させ、 それが敗因となった。 「勝ち負けは戦のならい」である。 負けたから「無謀な戦争」、ということにはならない。 こうした事実を省みることなく、 「無謀な侵略戦争を仕掛けた軍国主義者と彼らに騙された無知なる国民」 と先人を嘲る我々の方が、 実は「他国のプロパガンダに騙された無知なる国民」に なっているのではないか。 (文責:伊勢雅臣) 国際派日本人養成講座 Japan On the Globe(634) 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 「日本は負けていない」 アパグループ第4回「真の近現代史観」懸賞論文 優秀賞(社会人部門) 「日本は負けていない」 ~超経験者しか知らない史実~ 中松義郎 博士(ドクター中松) http://www.apa.co.jp/book_ronbun/vol4/yushu2011japan.html http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1373.html 本論文はフィクションではなく 本筆者が自ら直接見聞きした事実に基づく真の近現代史である。 昭和二十年八月十五日正午、その日は東京天文台(戦後は気象庁)によると 三十三度で特に暑かった。 突然「第二種軍装(夏用麻製仕立)ノ正装ニテ至急整列スベシ」 との館内モールス信号で校庭に集合し 直立不動で汗を流しながら待つ我々帝国海軍機関学校最後の 海機五十八期生(昭和二十年に海軍兵学校と合併)は、 最後の帝国海軍将校生徒として整列しラジオから流れる玉音放送を聞いた。 海軍機関学校の入学試験の体格検査で七十五センチだった胸囲が 入校後の猛訓練と猛鍛錬で僅か三ケ月で百四センチになった巨大な胸が 歴史上初めての玉音放送に大きく高鳴った。 しかしラジオの雑音が多く、よく聞き取れない。 「本土決戦が近いので頑張るようにとの天皇陛下御自らの激励のお言葉」 と全員が受け取った。 当時の日本人は全国民が 「歴史上敗れたことがない神国日本は最後には必ず勝つ」と信じており、 全国民誰一人として日本が負けるなどと考える者はいなかった。 特に軍は全軍士気旺盛だった。 現に私のいた舞鶴軍港は二十四時間軍艦を造るリベット音が絶えず、 食糧、武器、弾薬が豊富で、 いつでも敵を迎え撃つ準備が連日連夜進められていた。 原爆研究については陸軍が東京帝大の仁科博士と理研に開発を依頼した 「二号研究」(海軍は京都帝大と「F研究」)として行い 濃縮ウランは海軍が潜水艦でドイツから運ぶ手配がされ、 出来た原爆の第一弾をハワイに落とす作戦を 杉山参謀総長は陛下に上奏したが、 陛下は「原爆という非道なものは使うべきでない。 特にハワイには日本人が多いので却下する。」 となり杉山参謀総長は解任され、 東條首相が参謀総長を兼務することになった経過がある。 この様に非人道的爆弾と陛下が認識されていたものを 日本に落とされたのだから 陛下の衝撃は大きく終戦する一つのきっかけになったと思われる。 しかし杉山参謀総長は、原爆開発を継続したのだ。 軍人は戦争に勝つために打てる手を全て打とうとする。 しかしそれは陛下の御意向に反しているので原爆を造って勝っても、 原爆を造らずに敵に原爆を使われて負けても、 いずれの場合にも杉山参謀総長の責任なので切腹すると誓い 終戦直後に切腹した。 元来日本は武士道を基に戦争を行ってきたのである。 陛下は米の原爆に対し非道だと禁じた原爆で応じたのなら 「人類の文明が滅亡する」と終戦を御聖断された。 米が原爆を落とせば日本もこれに応じて米に原爆を落とす。 このことによって日米の多数の人が死に、 この原爆戦争が世界に及び世界中の人が死ぬ。 これを防ぐために米が日本に原爆を落とした時点で終戦にされたのであって、 日本が原爆を落とされたから、または負けたので終戦にしたのではない。 日本は負けていないのに終戦したのである。 これを文章にしたのが終戦の詔勅 「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ 頻ニ無辜ヲ殺傷シ 惨害ノ及フ所 眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ 尚 交戦ヲ継続セムカ 終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス 延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ 斯ノ如クムハ 朕何ヲ以テカ 億兆ノ赤子ヲ保シ 皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ」であって、終戦の理由は負けたからではない、 という意味である事を読み取ってほしい。 翌日の八月十六日には帝国海軍航空隊による 米本土突撃大作戦が予定されており、 その猛訓練が行われていたことを陛下はご存知なかっただろう。 この作戦が実行されていればドゥーリトルの東京空襲により ミッドウェー海戦の日が繰り上がったのと同じに米軍は、 十月予定の本土決戦を急濾九月に繰り上げた結果、 天候の条件も加わり日本が勝利する展開になったのではないか。 いつどこに敵が上陸するか、日本陸軍参謀本部と海軍軍令部の想定は、 時期は九月又は十月、上陸地点は九州南部 (「陸軍作戦名「決号・第6号」海軍作戦名「天号」)。 さらに翌年関東の九十九里浜に上陸。 この日本軍側推定は米軍上陸作戦計画 (米軍名「オリンピック作戦」(九州)「コロネット作戦」(関東)の 「ダウンフォール作戦」)とピッタリ一致して 日本は見事米軍の動きを見透していた。 陛下は侍従武官を九十九里浜に遣わして防衛体制を調べさせたが、 侍従の「防衛は全くされていません。」との報告をお聞きになったことが 終戦を決断された一因と伝えられる。 この時九十九里浜で訓練していた三千人の「伏龍」隊は シールドにかくれていて侍従武官に見えなかっただろうし、 又、米軍は九州を先に攻めると想定されたので、 日本軍の陣立は九州南部を先に固め、 そのあと九十九里を固めようとしたのであるので、 陛下に上奏された終戦を決定する情報の一部に 重大な誤りがあったのは残念だ。 これは開戦時の宣戦布告をワシントン大使館の怠慢により 米国務長官への提出が遅れ、日本の騙し討ちという口実を 与えてしまったことと同じ位に大きなミスだ。 本土決戦の火蓋がきって落とされた後をシミュレーションする。 先ず米軍は上陸地点の南九州に原爆を落とすだろう。 しかし陸軍参謀本部堀少佐率いる特殊情報部が 原爆コールサインを五時間前に傍受していたので、 近くの海軍大村基地の紫電改が発進し、B29を太平洋上で撃墜。 ついで艦砲射撃するため日本に近づいた米軍の日本本土上陸作戦に 対する日本軍の準備は、完成した三千機の特攻専用機「劍」が、 上陸しようと集まった敵艦艇に突っ込み、多くの敵艦を撃沈撃破する。 種子島海軍機関大佐が開発し石川島重工業製の 世界初のジェットエンジン搭載の双発ジェット戦闘機「橘花」もこれに続く。 水中からは千隻の特殊潜航艦「蛟竜」 (海軍兵学校校歌「江田島健児の歌」の「地に潜む「蛟竜」からとった名」 から泡の航跡が全く残らない日本海軍の世界に先駆けた発明 九三式酸素魚雷が発射されて敵艦艇は次々に轟沈する。 この猛攻撃からしぶとく残った敵艦に対し、 岩陰に隠れていた海軍兵学校六十九期満野功大尉率いる第六十七震洋隊 (江ノ浦─静岡三津浜)など三千隻の「震洋」爆突特攻艇が轟々と暁に発進し 残る敵艦や上陸用舟艇に勇猛果敢に体当たり。 それでも残る敵艦艇からかろうじて発進した敵の上陸用舟艇に対しては 波打ち際の水中に展開する五式撃雷を待って潜む予科練出身者や 海軍陸戦隊古兵の精鋭から成る三千人の「伏龍」隊が上陸用舟艇を 爆沈させて波打際に寄付けないようにする。 それでもかろうじて上陸した敵兵を五重の陣地で固めた世界最強の 本土決戦部隊が米戦車より強力な新開発五式重戦車と共に待ち構える。 敵戦車に対しては最新鋭の「ロタ砲」で、敵戦車M2を遠方から撃破し、 更に敵が近づくと「櫻弾」で厚い装甲を撃ち破り、 もっと近づくと決死隊がチビ(ガラス球に人った青酸ガス)を 戦車のスリット窓にぶつけて操縦者の目潰しをし、 次にキャタピラ破壊扁平爆弾を敵戦車のキャタピラの下に挿入して キャタピラを破壊し、敵戦車を動けなくし、 止まった戦車本体の下に戦車爆雷を挺身突撃隊が放り込んで擱座させる。 一方、上空の敵機には大東亜戦争決戦機として開発された世界最強 (戦後アメリカの実験で時速最大六百九十kmを記録し 最高傑作機と評価された。)の中島飛行機製二千馬力四式戦闘機「疾風」や ゼロ戦の次世代戦闘機堀越二郎設計の三菱製「烈風」が 敵グラマンF6F、ノースアメリカンP51を次々と撃ち落す。 更にB29キラーとして海軍空技廠設計九州飛行機先尾翼型で 機首に強力三十ミリ機関砲四門搭載の「震電」が時速七百粁以上という 米軍戦闘機、B29より早い世界最速スピードで敵戦闘機に追い付き 敵機を一撃で撃墜する。又、B29の前方上空に廻り込んで 四門の砲でアッという間にB29を撃墜する。 甲液「過酸化水素オキシノリン・ピオリン酸ソーダ」と 乙液「水化ヒドラジン・メタノール・銅シアン化カリウム」を 百対三十六でミックスした脅威の推進力で 今迄達しなかった一万二千kmの成層圏まで 従来型の飛行機では十数分かかったのを僅か三分五十秒で急上昇できる 時速九百粁の画期的無尾翼型ロケット戦闘機「秋水」が その先頭部に搭載する強力三十ミリ機関砲二門が火を吹き ボーイングB29を一撃で次々と撃ち落すとして行く。 又、陸軍四式爆撃機に百五十ミリ野戦砲を積んだ空飛ぶ大砲が ドカンとB29の編隊群に炸裂する。 運よく残ったB29も新開発の二万mに達する 五式新高高度高射砲で撃墜されて行く。 だがこれら最新戦闘機を動かす燃料はどうするのか? もそも大東亜戦争が始まったきっかけは軍艦や航空機に必要な石油を 米英蘭三国が対日輸出禁止して日本経済を窒息させようとし、 これに対してワシントンに交渉を行った甲案提示の野村海軍大将(大使)と 東郷外相の秘策乙案を持った来栖大使が追いかけて米側と交渉。 ほぼアメリカが合意し日米和平が実現しようとしたのに対し、 その翌日引っくり返り 「日本の全権益放棄とシナ大陸からの日本陸軍の全面撤退」 を要求する蒋介石の言い分を通した文章を共産主義者で ソ達のスパイであったアメリカ国務次官補が草稿を書き、 ハル国務長官がそれに署名した「ハル・ノート」の回答だ。 これでは日本は到底合意できないので 日本が大東亜戦争を始めたというのが第一の理由だ。 この戦争を始める理由になった燃料については、私の先輩で百歳の長寿を 全うした帝国海軍機関学校第四十期生木山正義機関中佐と、 又、私の先輩東京帝国大学工学部桑田勉教授の研究により 南方からの油を頼る事なしにパイン・ルート・オイルから 終戦直前十年分の燃料を創り出したのだ。 これに加えて更に「太陽と水と大地」があれば 永久に生産出来るバイオ燃料を創り出す事に成功した。 しかも空襲に耐えるため蒸留工場を全国に分散して建設し、ここで製造した。 この蒸留装置製造を実現できたのは海軍艦政本部が木山中佐の依頼に 全面的に協力し蒸留装置を急速に造り全国に設置したからである。 これで日本は永久に戦える燃料を終戦前に用意できたのである。 本土決戦では日本は必ず勝つとすべての陸海軍参謀は確信していた。 一方、アメリカ軍上陸攻撃隊司令官は戦後日本軍の陣立てを見て驚嘆し 「米軍は上陸に三回失敗しただろう。 上陸に三回失敗すれば米軍の戦力はほとんど消耗し、 戦争はベトナム戦と同様な状態となり、 アメリカ国内で戦争反対の世論が起こり ベトナム戦で米軍が負けたと同じく米軍は日本から敗退せざるを得ない。 もはや戦えないので日本に和睦(降伏)を申し出るしかなかったであろう」 と述べている。 ポツダム宣言を発した米国大統領トルーマンは、 急死したルーズベルトから戦争を引き継いだとき 「日本の国土の平野は僅か十四%しかなく大部分は山林等であり、 攻めるのが非常に困難な地形である。 しかも廻りは海で近づきにくい「不沈空母」である。 地形のみならず無傷の七百五十万の世界最強(マッカーサーが議会で証言) の日本陸軍が本土と東南アジアに展開し、 この敵とどう戦いどうやって打破する事が出来るか見当もつかない。」 と溜息して日記に書いている。 実は日本を空襲したB29から 「アメリカは鉄が不足して船をコンクリートで造りはじめたり、 男のパイロットが不足して女が飛行機に乗ったりしてアメリカは青息吐息だ。 日本人よ、もう少しでアメリカが参るから、ガンバレ」 というビラが撒かれた。 恐らく乗っていた日系二世が日本上空から撒いたと思われる。 一方、昭和二十年五月にベルリンに居た藤村義朗海軍中佐が スイスでルーズベルトの代理人キャノンと交渉し、 米側は「満州、朝鮮、樺太、千島列島(北方領土)は日本に残す。 台湾は蒋介石と交渉してくれ。 この条件で停戦しないか。和睦は急いでやりたい。」 と驚くべき提案をして来たが海軍軍令部はこれを受けなかったと 藤村中佐自身から私は聞いた。 これを継承したトルーマン大統領は、日本を降伏させるのは不可能で、 どうにも打つ手が無く、手づまりだから「ポツダム宣言」という フェイントのような宣言を出した。 これは又、原爆投下をする言い逃れにもしたのである。 なぜフェイントのようかというと戦後、ポツダム宣言の書類の実物を見ると、 トルーマンしか署名していない事が判った。 イギリスもシナも署名していなかった。 これから見るとトルーマンの一人芝居だったことが史実として判明した。 そしてドイツ攻撃用に急いで実験的に作ったファットマンとリトルボーイの 一つずつの二つしかない原爆を投下し、 更に数百個の原爆があるとウソの宣伝をして日本をおどした。 このフェイントのようなものに、 まんまとお人よしの日本政府は引っ掛かってそのままのんでしまった。 これにはろくな返事も来ないだろうと思っていたトルーマン大統領自身も ビックリした事だろう。 陸軍参謀総長、海軍軍令部総長という戦う陸海軍の責任者は 前述のように本土決戦は勝つ見込みが充分あるから、 天皇陛下の御前会議でもポツダム宣言受諾に絶対反対し 戦争継続を主張したのであるが、 天皇陛下が終戦の御聖断を下されたのである。 この会議室の入口で、特攻の海軍現場責任者の海軍軍令部次長の 大西滝治郎中将が「あと特攻機が千機あれば勝てます (実際は既に三千機が用意されていた)。」 と意見具申したが拒否されたので、大西中将はこれに抗議して切腹した。 切腹の介錯も頼まなかったのは怒りの表現であろう。 一方本土決戦の帝都の空の護りとして 厚木にある無傷の帝国海軍航空本土防衛隊は、 零戦設計者堀越二郎の新設計の四翼プロペラ延長回転軸式新型迎撃戦闘機 「雷電」や川西航空機製「空戦フラップ」付の新鋭機「紫電改」などの 一万機が厚木航空隊に温存され、 強くて米軍から恐れられたラバウル海軍航空隊などから 集められた歴戦のベテランパイロットが手ぐすねを引いて待っており、 厚木海軍航空隊小園司令は終戦命令に絶対反対で最後まで降伏しなかった。 右の如く終戦時には「日本は負けていなかった」のは歴史的事実である。 そして「終戦」の実態は「負ける」どころか「血気にはやり、戦いたい」 陸海軍や士気旺盛の国民に終戦を説得し抑えるのが 大変だったというのが歴史的事実である。 しかしポツダム宣言に対して日本政府は「これは敵から申し出た和睦の条約」 とまじめに甘く考えていてこれに乗ってしまったのである。 アメリカの新聞は大喜びで「日本は無条件降伏」 と事実とちがう報道を行った。 アメリカの提示したポツダム宣言自体、八つの条件付であり、 これに加えて日本政府は「国体護持」という条件付きで受諾したので、 計九つの条件付和睦で「無条件降伏」は事実に反するのである。 又、ポツダム宣言にも日本の国としての無条件降伏とは一字も書いていない。 戦後の日本人が洗脳されて「敗戦」だとか「日本が無条件降伏した」 と思っているのはまことに嘆かわしい。 さて日本は歴史上負けたことがなく、 前例が無いので終戦のやり方が非常にまずかった。 通常どんな契約でも必ずネゴをして味方の条件を良くするものだ。 現に藤村中佐のスイス交渉では、ルーズベルト大統領が 「満州、朝鮮、樺太、千島列島は日本に残す。 台湾は蒋介石と交渉してくれ。」と言っているのだから、 この線に戻すことは可能性大だったのだ。 だが今も昔も変わらぬ外国との交渉下手の日本政府はネゴをしなかった。 ところが和睦の条件の武装解除をして日本に武力を無くすると、 アメリカは次のステップとして、日本の陸海軍を廃止させた。 これはポツダム宣言に入っていない。 更にアメリカはハーグ国際条約に反して アメリカ原案の憲法を日本政府に呑ませた。 日本の政治家は一人として抵抗する「男」がいなかった。 これは今日迄続いている。 又、進駐の翌朝から進駐軍は軍政を敷き、B円という占領軍貨幣を使わせ、 日本経済をコントロールしようとしたが 重光外務大臣と側近の岡崎氏の命を懸けた交渉でこれだけは阻止した。 軍政と通貨は、ポツダム和睦条件に入っていないからだ。 あたかも徳川家康が大阪冬の陣の和睦条件に外堀を埋めることから、 人のよい豊臣方が呑んだら、内堀も埋められて、 次に難癖をつけられ夏の陣で滅ぼされてしまったのと同じ手法だ。 先に述べたようにアメリカは国際法で禁じられている行為、 占領軍による憲法制定を強引に日本政府に呑ませ、 占頷下で手も足も出ない日本政府は屈服した。 軍人は切腹したのに政治家は この不法行為に抵抗する「男」が誰もいなかった。 一方、ソ連は日本との不可侵条約が厳として存在しているのに、 日本が終戦の仲介を依頼しているのを知りながら ノラリクラリとこれを無視し続け、終戦直前に日本に宣戦布告をした。 樺太や千島列島の日本軍は上陸するソ連軍を撃退し、 又、関東軍と朝鮮軍は旺盛な士気で朝鮮半島北部で ソ連軍を待ち構えて撃退出来た。 しかしソ連軍は、終戦後不法に北方領土を占領したのみならず 支那大陸にいた六十万人もの純心な日本兵を 「帰国させる」と偽って貨車に乗せ、シベリアに拉致し、重労働させた上、 洗脳されないものは帰国させないと脅して共産主義教育を叩き込み、 共産主義に洗脳された兵のみ帰国させ日本の教育界、マスコミ界、 労働組合、演劇界にもぐり込ませた。 そしてGHQと共に日本を左傾させ、学生も勉学そっちのけで 革マル、中核、赤軍派など学生運動を繰り広げて この学生が今や成人して政治家となり 偏向した現政府の幹部となって日本を動かしている。 そして産業も沈滞し道徳は乱れ、 これらは現在日本が弱体化している基本的要素となった。 この「終戦」の実情、つまり 「戦意旺盛の陸海軍や頑張っている全国民をいかに説得してやめさせるか」 を終戦にするのは大変な事で、「敗戦」どころの状態ではないのである。 この実態を知らない最近の日本人は 「終戦」を「敗戦」と言い変えているのは史実に反する。 右に事実を説明したように実際に負けていない「終戦」と、 負けたという「敗戦」は全く違うのだ。 昭和一桁初期以降に生まれた若い人は右に述べた本当の歴史を知らない。 だから日本政府の正式名称であり理論的に正しい「大東亜戦争」 (太平洋だけでなく、ビルマ・インド等も含めた戦争) を米軍の言う「太平洋戦争」に言い換えたり、 日本政府の正式名称「支那事変」を「日中戦争」と言い換えたり、 国際間の正式国名の「チャイナ」又は「シナ」と言わず相手におもねって、 又はお世辞で「中国(世界の中心の国)」と言っている。 「支那事変」は日本政府が正式に国家間での戦争と認めていないのだから、 日本政府は「事変」と言っているのであり、 この事実に反しているのを知らないで「戦争」というのは 理論的にも誤っている。 又、「わが国」と言わず、他人の国のように「この国」と言っている人も 洗脳されている人である。 占領軍は日本占領中、新聞や手紙の検閲を行って 「大東亜戦争」の使用を禁止し、「太平洋戦争」を公文書に使うよう 強制したが日本は独立している今もって間違った表現の 「太平洋戦争」という名前を使って占領軍のトラウマに囚われているのだ。 さて終戦の詔勅の文章を協議する会議で詔勅原案の中に 「戦勢日に非にして」という文章があり、 某大臣から「日本は勝ったのか負けたのか?」と質問が出たのに対し 阿南陸軍大臣は「勝ち負けの定義を 「日本が支配している地域の大きさと兵の士気」とすれば、 日本が戦争を始めたときの面積と現在(終戦時)の面積を比較すれば、 現在(終戦時)の面積の方が大きい。 つまり日本はこの戦争で勝っていることになる。 しかも兵の士気は旺盛で日本は最後には必ず勝つと信じている。」 と答え詔勅原案「戦局日に非にして」は「戦局必ずしも好転せず」 と訂正された。 阿南大将は 「本土決戦をやれば日本は負けないので、本土決戦のあと講和を結ぶ」 との陸軍の主張が聞き入れられず、御前会議で終戦が決定されたので、 いさぎよく切腹した。 これは計画されていた大掛かりな陸軍のクーデターも抑える効果もあった。 介錯も断った見事な切腹だった。 この様な信念と責任感旺盛で主張が通らなければ 最後には自分の命を堂々と切腹して絶つという大臣は 現在の日本の大臣に誰一人いないのは、 日本人が終戦後いかに堕落してしまったかを示すものである。 右のように終戦時は日本軍に停戦を説得するのが大変で、 まして敗戦ではないのが事実だ。 終戦の詔勅について私の小学校も大学も同じ迫水久常書記官長 (現在の官房長官)と私は公私ともに非常に親しく、 迫水さんが出席した終戦の御前会議の模様など 色々重要な話を直接迫水さん本人から聞いた。 御前会議でおっしゃった天皇陛下のお言葉をラジオで全国民に伝える正式な 勅語の文章作成を迫水さんが任され、迫水さんが一高で教わった 漢文の先生である漢学者川田瑞穂に文章作成を依頼され原案を作成した。 これを大東亜省顧問の陽明学者安岡正篤が手を加え、 とくにこの詔勅の原文の中に「義命の存する所」という言葉が重要であった。 全大臣が終戦の詔勅の文章を協議する会議が十一日夜から十三日夜迄続き、 訂正箇所が四十ケ所もあり、特に重要だった「義命」という言葉が某大臣から 「辞書にないから「時運」にしよう」と提案があって書き直されてしまった。 そして「義命の存する所」が「時運の赴く所」に変更され 正式の終戦の詔勅になった。 私の名前は「義郎」だが、この「義」という意味は 「道徳に基づく、人として行うべき正しいこと」の意味で 「義命」とは「信以て義を行い、義以て命を成す」意味であり 『「義命」の存する所』とは普通にいわれる大義名分より もっと厳粛な意味を持っている。 国の命運は義によって造られて行かなければならない。 その義は列国との交誼においてもその治政においても信でなければならない。 その道義の至上命令に示す所によって終戦を選ぶのであり 敗戦ではないという意味である。 簡単に言えば『日本はこれからは道徳に基づく正しい方向を行くべきだ』 との意味であるが『「時運」の赴く所』は 「時の流れのままに」という意味で、全く違う意味になってしまった。 だから今日でも日本は「時運の赴く所」 つまり世に流されフラフラ流されてリーダーシップがなく 国是も定まらない誇りのない国になってしまった。」 と迫水さんが私に嘆いた。 又、終戦の御前会議で東郷外務大臣は陸軍が主張したソ連を 仲介者にするという案に猛反対し、仲介者を入れるなら 「蒋介石を仲介にしたらどうか」と提案をしたが 近衛文麿が「蒋介石を相手にせず」という声明を出し 「汪兆銘による南京政府」が日本によりつくられているので 「蒋介石仲介はまずい」と横槍が入り、 それではと不可侵条約を結んでいるソ連を仲介者にした。 結果はご存知の通り最悪で、ソ連は不可侵条約を結んでいる日本にかくれて ヤルタで米英支と日本をやっつける会談(ヤルタ会談)にこっそり参加し、 日本からの情報はソ連を通じ連合軍に筒抜けになっていた。 毛沢東の中共軍と戦っている蒋介石は中共に勝つため日本に助けてもらいたい ので日本に非常に有利な条件で仲介しようと考えていた。 戦後蒋介石は「なぜ自分に相談しなかったのか。 自分に相談したならもっとよい条件で日本が終戦出来たのに」 とくやしがったという。 先般あるテレビ番組で「中国戦線で敗走する日本兵」 というコメントと映像が出た。 私の記憶では支那事変で日本が負けた戦線は知らない。 そこでその担当者を呼び「どこの戦線で日本が負けたのか」と質問したが 返事がなくごまかすので再度追求すると、 結局「根拠がありませんでした」と白状し「おわび」が回答だった。 国の権威に関わる事実無根な「日本軍の敗走」を国民に誤報して、 これを放送で訂正せず口頭の回答で「おわび」でお終いにしている無責任さ。 歴史を知らないのである。 元大蔵大臣の塩じいこと塩川さんも支那大陸に従軍し 「支那戦線で武器を持っていなくても 日本軍の軍服を着ているだけで支那兵は逃げた」と体験談を話している。 ところで私は最後の海軍将校生徒であり、 又、最後の東京帝国大学生でもある。 戦時中の東大総長は世界に誇る一万トン重巡の 設計者平賀譲造船中将だったし、 東京都知事は陸軍教育総監の西尾寿造大将 (その長男は現在ドクター中松創研の取締役営業部長)だったが、 終戦時に日本のエリートは追放され、戦後の東大は左翼の南原総長になり、 占領軍によって、「ゼロ戦」を造った東大航空工学科、 世界一の戦艦「大和」を造った東大造船学科、 戦後の米軍テストで米最新型グラマン戦闘機より命中精度が高かった事が 証明されたゼロ戦の機関砲を造った西村教授の東大造兵学科など 日本を強く支えた研究の学科が強制的に廃止されただけではなく、 東京帝国大学正門にあった「菊の御紋章」がはぎ取られ、 名前も「東京大学」となり、「東京帝大」が「東大」になった。 名前だけではなくこの新制東京大学の学力レベルは 東京帝国大学よりも四年以上も学力レベルを下げてカリキュラムが組まれた。 麻布の成績が下の方の友人でも新制東京大学に入っている。 東京帝国大学では学生十人に対して二十人の教授、助教授、助手が取囲んで 最高レベルの教育をし、最高の実験装置を持つ東京帝国大学は 世界のトップレベルだったが、新制東京大学の世界ランキングは 昨年二十六位今年は世界三十位までに落ちている惨状だ。 又、東大の学生自治会は完全に左だった。 私は中立の丁友会理事として学生の左傾化を防止し健全化に努めた。 日本は軍隊の強さも世界一(マッカーサーが議会で証言)だったが 戦後経済でもスイス、イギリス、ドイツを抜き GDPはアメリカに次ぐ二位となり、次にアメリカも抜く勢いで、 アメリカでは日本を恐れて「ジャパン・アズ・ナンバーワン」 という本も出たのは御存知だろう。 そして一九九三年には日本人の個人所得はアメリカ人を抜き世界一になった。 戦争にもビジネスにも強かったのは当事の日本人が青年時代に兵隊に行き、 気力も体力も鍛えられ、又、まじめに高度な勉強をした昭和一桁初期の日本人 (これを私は「超経験者」と言っている)による努力の結晶なのだ。 しかし占領軍による日本弱体化政策により戦後育ちは勉強も怠り、 徴兵にも行かず、体力も気力も鍛錬されていないので、 体力的にも気力的にも弱く知識経験も少なく、国際競争に勝てない。 最近の日本の男はすぐ泣く。 山一證券倒産の時に社長が泣いたのはその象徴だ。 最近の若い男は草食系と言われ、やる気がなく泣き虫で、 私が教えているハーバード大学やMITに日本人留学生がいない。 最近の日本人は留学するファイトもないのだ。 シナや韓国人が多数外国一流大学に留学しているというのに。 そして日本のGDPも二位から三位に後退し日本人の個人所得も かつての世界一から現在二十七位に落ち込んでいる。 日本はこの状況から脱却せねばならぬ。 それには「超経験者」を指導者にして次世代の若者を 十五歳から全寮制で肉体と気力を鍛え、道徳修身を勉強させ 更に世界より高いレベルの教育をしてゆく事が日本再生の基本なのである。 戦争中、私の家の玄関ドアに鍵をかけなくても泥棒が入らなかった。 しかし終戦後、同じ私の家で厳重な鍵をかけても 何回も泥棒に入られたことでも判るように 戦時中立派だった道徳心が高い日本人に比べ、 修身を廃止した戦後の日本人の道徳の疲弊は驚くべきものがある。 もう一度言う。「日本は負けていなかった」 これを裏付ける賀川豊彦のマッカーサーヘの 終戦直後の手紙の一部を添付する。 『マッカーサー総司令官閣下 陛下の詔書の一分前まで全国民の戦意は燃えに燃え陸海空三軍の銃口が 一様に貴官各位の胸に向けられていた事も事実なのです。 貴官は去る28日の厚木進駐の指揮者から進駐が平和的に日本側の満足すべき 心づかいの中に先遣部隊の進駐を終了した報告を受けられたでしょう。 そして閣下は多数の日本人を眼前にされたでありましょう。 そしてまたその日本人が口をキッと結んでいる表情に 気がつかれたことと思います。日本人は最後まで戦うつもりでいました。 おそるべき原子爆弾がやがてわが身に落下するということを予想し 覚悟しなかった者は只一人もありますまい。 またたとえ身は焼かれても粉砕されても戦争は陛下の指揮のあるまで 続けてゆかなければならぬことを毛程も疑った日本人は 一人もなかった事も事実ですが、それが、陛下の詔書によって 戦争から平和へ完全に変向しました。 その決意の固さと新しい理想へ出発への努力が閣下の見られる日本人の キッと結ばれた口もとの表情なのです。 この様な民族が、国家が他に例を見ることができたでしょうか。』 最後に日本全国民が、もう一度「終戦の詔勅」を読むことを提案する。 そして負けていないのに終戦した無念さを思い起こし、 そこに書かれている陛下が示されたこれからの日本の指針 「総力を将来の建設に傾ける事」 「正しい道を進みその心を堅持」 「国体の真髄を発揚」 「世界の流れに遅れを取らぬよう」 を全国民が実行することが、 我が国を立派だった古き良き日本に甦らせることなのである。 繰り返すが今迄「敗戦した」と殆どの人が思っている事は間違いであり、 史実は「日本は負けていなかったのだ」という事を再認識し、 これからの各人の行動を百八十度転換する事が 日本再生の第一歩であることを確信し、 日本が立ち直る起爆剤にするために本論文を発表したのである。 |
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