●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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簡単に作れそうだったのでブログで この正統史観年表を作成しました。 ブログなので各記事の一番右下に 日付が表示されてしまいますので、 適当な日付を指定しながら記事を 作成していきました。つまり各記事 の一番右下の日付はブログを書いた 日付ではなく、適当な日付です。 まぎらわしくて申し訳ありません。 |
『 歴史街道 』 2005年11月号・20-21ページより
迫り来る列強、西洋のアジア浸食 欧米列強によるアジア侵食年表 1842~1894年 日清戦争まで 1842年 イギリス、アヘン戦争で清に勝利し、清より香港島を割譲 1848年 オランダ、バリ島を征服・植民地化 1853年 アメリカ、日本へペリーを派遣し開港を求める 1856年 英仏連合軍が清へ侵攻、アロー戦争(第二次アヘン戦争) 1858年 フランスがベトナムへ侵攻、仏越戦争勃発 1860年 イギリス、清より九龍市を割譲。 1860年 ロシア、清より沿海州を獲得し ウラジオストック(東方を支配せよ)を建設 1861年 ロシア、対馬を占領する(半年後に撤退) 1862年 フランス、ベトナムよりサイゴン等を獲得 1873年 オランダ、スマトラ島のアチェー王国へ侵攻(アチェー戦争勃発) 1877年 イギリス領インド帝国成立 1883年 フランス、全ベトナムを保護国化。 清・朝鮮と不平等条約を結び実質的な属国化を開始 1884年 清仏戦争勃発。 1885年 フランス、清にベトナムに対する宗主権を放棄させる 1885年 イギリス、朝鮮の巨文島を占領(2年後に撤退) 1885年 イギリス、ビルマに侵攻。第三次ビルマ戦争勃発 1886年 イギリス、ビルマをインド帝国へ併合 1887年 ポルトガル、マカオの統治権を獲得。 1887年 フランス領インドシナ成立 1888年 イギリス領ボルネオ成立 1891年 ロシア、モスクワとウラジオストックを 結ぶシベリア鉄道の建設に着工(1904年完成) 1893年 ハワイでアメリカ人によるクーデターが発生。 ハワイがアメリカ併合の危機に陥る。 (東郷平八郎が軍艦「浪速」でホノルルへ急行) ――――――― 『 異なる悲劇、日本とドイツ 』 西尾幹二著より アメリカの侵入 西洋諸国は、1800年には地球の陸地の35%を支配するに至った。 更に第一次世界大戦の開始した1914年には84%にまで拡大している。 日本が日清戦争(1894~1895年)に勝利を収めたその頃、 当時、フィリピンを領有していたのはスペインであった。 1898年のアメリカ・スペイン戦争で、アメリカ太平洋艦隊は フイリピンのマニラ湾でスペイン艦隊と戦って、これを破り、 フイリピンを領有した。 アメリカは、この勝利により初めて世界の大国の仲間入りをしたのである。 もし、中国への進出で日本が侵略国家と呼ばれるのなら、 アメリカもまた疑いもなく、堂々たる侵略国家であった。 アメリカがフイリピンを手に入れたのは、 日本がロシア・フランス・ドイツの「三国干渉」で屈辱を 強いられた三年後の1898年だ。 日本が涙を呑んで清国に返した遼東半島を、 この同じ1898年には、まんまとロシアが租借に成功した。 ロシアは旅淳に要塞を築き、大連を貿易港とすることになる。 ロシアの狙いが全満州から朝鮮までを 勢力下に置くことにあったのは明らかだった。 他方、イギリス、フランス、ドイツも中国に乗り出し、これを蚕食していた。 日本の周りは風雲急を告げていたのである。 アメリカはハワイ、フイリピンを手中に収めた後、 グアム、ウェーク、サモアを併合し、日本の南方洋上に急接近してきた。 そして、ハワイからグアム、フイリピンを結ぶ線を アメリカは自らの「新国境」と定めた。 同じ頃、イギリスは西太平洋に於けるアメリカの支配的地位を認め、 その水域からイギリス艦隊を撤収した。 アメリカは中国分割には、まだ直接加わらなかったが、 1899年には国務長官ジョン・ヘイが中国の門戸開放の覚え書を イギリス・フランス・ロシア・ドイツ・イタリア・日本に通告するなど、 中国進出に意欲を示し始めていた。 それから間もなくして起こる日露戦争(1904~5年)、 ことに日本海海戦が日本にとって、どうしても負けられない戦争- もし負ければ日本列島が目の前に殺到している列強の 餌食になるところであった事は、切迫する状況から推してよく理解できる。 ――――――― 『 歴史を裁く愚かさ 』 西尾幹二 著より 近代日本史・3つのポイント 近代日本史は東アジアの国際情勢と密接不可分な関係にあった。 以下に述べる三つのポイントを前提として踏まえなければ、 歴史はそもそも叙述できない。 まず第一は、近代日本の出発点には、イギリス・フランス・アメリカ ・ロシア・オランダなど列強の迫り来る具体的な武力脅威があったことだ。 アジアでは当時、国境は名ばかりで、塀も柵もない荒れた原野を 野盗の群れが走り回っていたに等しい。 則ち欧米の植民地支配は無制約で、 それは明治維新の以前に完了していたのではなく、 近代国家としての日本の独立維持の 永い努力のプロセスにおいて、進行中であった。 イギリスのインド支配の完成は明治維新の約10年前(1855年)だが、 ビルマのそれは明治19年(1886年)、 マレー半島の完全な植民地化は明治42年である。 フランスが清・仏戦争で清から ベトナムを奪うのは明治20年前後(1887年)。 インドネシアが正式にオランダ領となるのは、 明治37年(1904年)である。 そして、南からはアメリカが北上してくる。 アメリカによるハワイの侵略が明治26年(1893年)、 フィリピン奪取が明治31年(1898年)であった。 つづいてグアム、ウェーク、サモアがアメリカ領となる。 他方、北からは不凍港を求めて南下してくる最大の脅威ロシアがあった。 明治の日本人は、どんなに心細かったであろう。 そもそも、この心細さが歴史の全ての話の基本でなくてはならない。 次いで、そのような不安な時に、頼りになるべき中国(清)が、 自国の領土の保全もままならない官僚的老廃国で、 朝鮮はその属国に過ぎなかった。 これが第2のポイントである。 朝鮮半島は、北からの脅威のいわば吹き抜けの通路であった。 明治日本は、自衛のためにも朝鮮の清からの独立と近代化を願い、 事実、そのためにも手を貸したが、 朝鮮半島はいつまで経っても目が覚めない。 自国さえ維持できない清に、朝鮮半島を牛耳ったままにさせ、 放置しておけば、半島はロシアの物になるか、 欧米諸国の草刈り場になるだけであったろう。 次に起こるのは、日本の独立の喪失と分割統治である。 日本は黙って座視すべきだったろうか? 近代日本の選んだ道以外の、どんな可能性が他にあったであろうか? 江戸時代を通じ武家社会であった当時の日本人は、 中国と朝鮮の両国人に比べ、危機意識に格段の差があった。 今日、日本があるのは、そのお陰である。 第3のポイントは、 中国と朝鮮は、無力であったにも拘わらず、日本に理由なき優越感を示し、 扱いにくい、面倒で、手に負えない存在であったことである。 両国はともに古色蒼然たる東夷思想・中華思想に閉ざされていたために、 「小癪なる東夷・日本」という侮日感情を最初から抱いていた。 彼らとの今日に及ぶ感情的もつれの原点である。 両国は、欧米の進出には比較的寛大に振る舞いながら、 我が国の進出にだけは、新参者・日本は小癪な、 許しがたいという感情を抱いていた。 日清衝突の原因は、清が日本の台頭を近代化の成果、文明への努力と見ないで、 自らの中華秩序を乱す者とだけに、捉えたことである。 幕末から明治期に日本を襲った この三つの危機のポイントと、それに対する日本人の苦心惨憺の思いを、 歴史教科書の近現代史の前提としてきちんと書かなかったら、 歴史は叙述できないのではなかろうか。 ――――――― 日清・日露戦争前後のロシアの脅威に、日本が抱いていた危機意識 『 新しい歴史教科書 』 より 東アジアの地図を見てみよう。 日本はユーラシア大陸から少し離れて、海に浮かぶ島国である。 この日本に向けて、大陸から一本の腕のように朝鮮半島が突き出ている。 当時、朝鮮半島が日本に敵対的な大国の支配下に入れば、 日本を攻撃する格好の基地となり、後背地を持たない島国の日本は、 自国の防衛か困難になる、と考えていた。 この頃、朝鮮に宗主権を持っていたのは清国であったが、 それ以上に恐ろしい大国は、不凍港を求めて 東アジアに目を向け始めたロシアだった。 ロシアは1891年にシベリア鉄道の建設に着手し、 その脅威は差し迫っていた。 日本政府の中には、ロシアの力が朝鮮に及ぶ前に、 朝鮮を中立国とする条約を各国に結ばせ、中立の保障のために 日本の軍備を増強しなければならない、と言う考えもあった。 (中略) ロシアは、日本の10倍の国家予算を持っていた。 ロシアは満州の兵力を増強し、朝鮮北部に軍事基地を建設した。 このまま黙視すれば、ロシアの極東における軍事力は、 日本が到底、太刀打ちできないほどに増強されるのは明らかだった。 政府は手遅れになる事を怖れて、ロシアとの戦争を始める決心を固めた。 ――――――― 『 朝鮮半島をどう見るか 』木村 幹 著より 日本と朝鮮、近代化の分かれ道 日本と朝鮮が、西洋の列強への「開国」を迫られていた頃、 アジアは西洋からはるかに遅れた地域に過ぎなかった。 かつて、二度にわたってウィーンを包囲したオスマン=トルコも、 インドを統一し輝かしい黄金時代を演出したムガール帝国も、 そして事実上の世界帝国であったモンゴル帝国を除けば、 中華帝国で最大の版図を誇った清朝も、西洋の列強の前に敗北した。 (しかも、あっけなく) アジア諸国と西洋列強の力の差は歴然としており、その状況を放置すれば、 植民地化が始まる事は火を見るよりも明らかだった。 日本は、ここから「近代化」に着手した。 私達は以下の事に気づかなければいけない。 私達は歴史の後知恵で、日本の「近代化」が成功する事を知っている。 だから私達は、それが成功して当たり前だと思いがちだ。 しかし、当時の日本人や朝鮮人はそうではない。 彼らと西洋の列強の間の格差はあまりにも大きく、 彼らの前に「近代化」を果たした非西洋諸国は存在しない。 方法も成否も定かではなく、実現までの道は、はるかに遠い。 だから当時の人々が、ここで「近代化」に乗り出す事は 決して当たり前の事ではない。 むしろ、その困難さを考えるなら、ほかに自分たちの国を守る事が 出来る方法があるならば、彼らにとっては、そちらの方がはるかに 「当たり前」の選択だったに違いない。 この「当たり前」の道を辿ったのが朝鮮だった。 当時の朝鮮半島の人々の導きの糸となったのは、中国の存在だった。 ---あの強大な中国でさえ、西洋列強に簡単に敗れた。 中国は、その後も様々な立て直しのための試行錯誤をしているが、 どれもあまり成功しているようには思われない。 むしろ、その後の中国の国内は混乱へと向かっているように見える。 中国でさえ、西洋列強に軍事的に対抗して、 西洋列強に倣って改革を進める事が出来ないならば、 中国よりはるかに小さな朝鮮に出来るはずがない。 今、必要なのは、そのような無謀な改革に乗り出す事よりも、 国内を安定させ、外交の術策を尽くして生き残る事だ。 朝鮮半島の人々は、そう考えた。 しかし、日本人は、そうは考えなかった。 ---中国は滅亡の危機に瀕している。 日本も早く手を打たなければ、彼らのようになってしまう。 そのためには、すべてをかなぐり捨ててでも、 改革に今、乗り出さなければならない。 背景にあったのは、両国の中国に対する考え方や、 当時の国際社会における、自国の位置に対する理解の相違だった。 朝鮮半島の知識人は、自分たちの国を「大国」中国とは、 性格を異にする「小国」だと考えていた。 そのため、彼らは中国に出来ない事が、朝鮮に出来るはずがないと考えた。 これに対して、幕末の日本人は、 自分達の国を、中国と同格の存在だと考えていた。 だからこそ、彼らは中国の敗北を、 日本の必然的な敗北を意味するものとしてではなく、 単なる改革の失敗の事例として受け止める事が出来た。 当時の日本人や朝鮮人にも、自分の国や国際社会に対する ステレオ・タイプが存在した。 そのステレオ・タイプのあり方の違いこそが、両国の その後の運命を分けていったのだ。 ――――――― 『禁忌破りの近現代史』渡部昇一、谷沢永一 著 ビジネス社 ロシアの韓国保護国化と半島南下政策 併合批判の前提はロシアか日本か?である。 日韓併合を批判するのなら、 当然に、それ以外に道があったかという前提をクリアーしなければならない。 閔妃政権は、1885年(明治17)に韓露密約を結び、 ロシアから軍事教官を招き、 ロシア海軍に元山の基地を提供することを約束した。 だが、ことは露見し、清国の反対に遭い中止となった。 この結果、韓国は、僅か数年のうちに、 ロシアの保護領同然になってしまった。 つまり、朝鮮半島はトルキスタンなどのように、 いわばロシア領コリアスタンの如くになったいうわけである。 ロシアは、北朝鮮の鉱山採掘権を取り、 鴨緑江あたりの森林を伐採する権利を得たりしている。 韓国皇帝が、ロシア公使館内で暮らすようになったのは、 その象徴とも言うべき出来事であった。 日本にとって最大の問題は、ロシア軍が韓国領内に 戦略拠点を築きだしたことである。 もともとロシア海軍は、沿海州のウラジオストック (東方を征服せよというロシア語が由来)に 基地を構えていたが、この軍港は冬季になると 凍結してしまうという欠点があった。 そこで、冬でも利用できる不凍港を求めていたのであるが、 韓国を事実上の保護国にしたことで、 その念願がかなうことになったのである。 1903年、ロシアが手に入れたのは、鴨緑江河口の龍岩浦(りゅうがんぽ) という漁港であった。 彼らは、これをポート・ニコラスという軍港に仕立て上げた。 この軍港によって、ロシア海軍は遼東半島沿岸や朝鮮の西海岸付近の 制海権を握ったことになる。 これは日本の防衛にとって、大変な脅威であった。 そうして、さらに北朝鮮の森林伐採県と鉱山発掘権を奪ったのだが、 そこまでは日本も我慢をしていた。 「満州までは認めるが、朝鮮には入らないでくれ」と必死に頼むのである。 だが、ロシアは聞く耳を持たない。 ところが、ロシアは龍岩浦だけでは満足しないで、 さらに朝鮮半島南部を虎視眈々と狙っていた。 朝鮮海峡に面した馬山浦や鎮海湾がその目標である。 ロシアは、鎮海湾に軍港を作りたいと、言い出してきた。 ここから日本までは、もう目と鼻の先と言ってもいい。 かつてフビライ・ハンのモンゴル軍が日本を襲った時(元寇)も、 この周辺の港から出発し、対馬・隠岐を侵して北九州に上陸した。 もし、巨大海軍を誇るロシアが、朝鮮南部に拠点を得れば、 元寇が再び繰り返されることになるであろう。 それに、もうしばらくするとシベリア鉄道が完成して、 ロシアの兵員・物資の移動が物凄くよくなる。 そうなると日本はお手上げである。 シベリア鉄道が完成する前に、 なんとしてでもロシアを叩かなければならない。 こういったロシアの動きに対し、三国干渉以来、 日本国内で「ロシア討つべし」という世論が ますます強くなったのはいうまでもない。 ロシアは朝鮮南部の鎮海湾に基地を作ることに半ば成功したが、 反発したイギリスが巨文島を占領し基地の建設を始めると言う事態を招き、 李氏朝鮮は日本・イギリス・アメリカの不信感を高めた。 この年にロシアはシベリア鉄道の建設に着手している。 ロシアはウラジオストック軍港の建設を始めていたが、 日本人はロシア語でこの軍港の名が 「東方を征服せよ」つまり「日本征伐」を含意することを知り、 緊張の度を高めていった。 結果論として言うのではないが、日露戦争に日本が負けていたならば、 日本列島はロシア領となって日本人などは「マカーキー(猿)」と呼ばれ、 哀れな少数民族として余喘を保ちえていたであろうか? 朝鮮半島の民は、今日のロシア内の少数民族の運命がそのまま見本であろう。 日本人も朝鮮人もシベリア鉄道の建設に駆り出され、 無数の骸をツンドラ(凍土)に曝したであろう。 この事態を救ったのは日露戦争の日本の勝利である。 ――――――― 『 渡辺昇一の日本史』 より 当時の国際情勢の視点では、日露戦争は祖国防衛戦争と言える。 昭和20年の敗戦以後、 日露戦争は「日本が起こした侵略戦争」とする見方が急速に高まった。 しかし、その本質は、侵略戦争というよりも 「祖国防衛戦争」と見るのが実態に近い。 確かに、朝鮮半島やシナ大陸を主戦場にして勢力圏を争うという 行為自体は「侵略」と定義しうるかもしれない。 だが、日本が侵略を行ったというのであれば、 当然ながら、その相手である清国やロシアの「侵略行為」をも 問題にするのが筋であろう。 清は朝鮮を自分の庭にしてきたし、 またロシアは、その深刻から領土を奪い取っているではないか。 この十九世紀末から二十世紀前半の国際社会は、 「侵略は是」とされた時代であった。 この時代の思想を簡単に表現するならば、 「弱肉強食」あるいは「適者生存」という 言葉を使うのが最もふさわしい。 言うまでもないが、このキー・ワードは ダーウィンが提唱した進化論に由来する。 もちろん、植民地主義や帝国主義を正当化するために ダーウィンは進化論を作ったわけではない。 本当の進化論は「自然淘汰による種の発生」を説明するという、 動植物学に関するものである。 だが、1859年に進化論が発表され、科学として認知されると、 そのアイデアは通俗的な形となり、 爆発的な勢いで社会に広まっていった。 欧米の植民地政策は、ダーウィニズムによって、 ”お墨付き”を、もらったようなものであった。 なぜなら、「優れた白人が、劣った有色人種を征服することは 自然の摂理なのだ」ということになったからである。 まさに、進化論は人種差別の道具になってしまったのである。 しかし、当時は、進化論を持ち出せば何でも正当化できるという雰囲気が、 欧米社会に充満していたのである。 このような「弱肉強食」を是とする国際社会の中で、 日本がその生存と独立を維持しようとすれば、 同じように弱肉強食論理に従わざるをえなかった。 ヨーロッパの植民地帝国は言うまでもなく、「全ての人間は平等に作られた」 という独立宣言を持つアメリカも、黒人を奴隷にし、 インディアンの土地を奪い、 ハワイ王国を併呑したばかりの国際情勢であった。 ――――――― 禁忌破りの近現代史 渡部昇一 谷沢永一 著 ビジネス社 韓国・中国「歴史教科書」を徹底批判する 勝岡寛治 著 小学館より 2005年1月15日 2005年5月08日改 ■日本については「侵略」だが、 清国の行為は「内政干渉」という韓国の意識 甲申事変(甲申政変)で日本の後押しした開化政策が挫折すると、 今度は一転して、韓国の教科書では、 以下のように日本の「侵略」を云々し始める。 「我が国の農民達は、日本の経済的侵略に強い反感を持つようになり、 次第に日本を排斥する機運が広がっていった。 (中略) 清が軍隊を派遣すると、 日本も朝鮮にいる日本人を保護するという口実で軍隊を派遣した。 (中略) この時、日本が景福宮に侵入し、国王を威嚇する侵略的行為を犯した。 そこで東学農民は、日本の侵略を食い止めるために、再び立ち上がった。 東学農民運動をきっかけに、軍隊を派遣した日本は、 この機会に侵略の足がかりを得ようと武力によって 朝鮮政府を脅かして内政改革を要求し、清日戦争を挑発した。」 日本に対するこうした記述を、清国のそれと比べてみよう 「壬午軍乱後、朝鮮は清の内政干渉を受けるようになり、 政権についた閔氏勢力は、開化政策に消極的になり、 近代的改革がきちんと進められなくなった。(中略) 東学農民の勢力が次第に大きくなると、 これを鎮圧する自信をなくした政府は 清に軍隊を派遣してくれるように要請した。」 日本につては「侵略」だが、清国の行為は「内政干渉」である! この意識を推測すれば、「日本は、よそ者の強盗」、 しかし「清は、身内のいらないお節介」といったとこなのだろう。 つまり、日本は甘い言葉を弄して言い寄ってくる追いはぎ、 清国は小うるさいが、いざという時には頼りになる父親という感じなのだ。 韓国は近代史を今でも、そのように理解しているのだろう。 そうでなければ、教科書にまで、 このような言葉の使い分けをするはずがない。 日清戦争は、その「追い剥ぎ」が、 いよいよ牙を剥きだして本性を現したと言う事なのだろう。 「日本は、この機会に侵略の足がかりを得ようと 武力によって朝鮮政府を脅かして内政改革を要求し、清日戦争を挑発した」 という話しぶり・くちぶりからは、 そのような悪意しか感じられないのである。 ■朝鮮の「自主独立」のために戦った日本 もし、本当に日本が朝鮮を「侵略」するつもりであったならば、 フランスが清仏戦争に勝利して、ベトナムを植民地にしたように、 日清戦争に勝利した時点で朝鮮を植民地にしても良かったはずである。 だが、日本は、そうしなかった。 何故か? 日本の戦争目的は、清国と朝鮮の宗属関係を断ち切り、 朝鮮に本当の意味での自主独立国になってもらいたかった。 これ以外になかったからである。 したくなかった戦争を、それでも、なぜ決意をしたかについては、 陸奥宗光の「蹇蹇録」(けんけんろく)にも詳しく述べられている。 日本としては、日清戦争が一番最初の大きな進出となるのだが、 そのとき明治天皇の「宣戦の大詔」 (明治27年・1894年8月1日)というのがある。 清国は「朝鮮は清国の属国だ」と言って聞かないから、 そうではなく独立させるのだというものである。 これこそ、天皇の名において出された 日本の基本的な立場を、もっとも端的に示すものである。 以下、肝心の部分を引用しておく。 朝鮮は帝国が其の始めに啓誘して 列国の伍伴に就かしめたる独立の一国たり 而して清国は毎に自ら朝鮮を以って属邦と称し 陰に陽に其の内政に干渉し 其の内乱あるに於いて口を 属邦の拯難に籍き兵を朝鮮に出したり・・・・・ この部分の大意は、 「朝鮮は日本が啓蒙して独立国の仲間入りをさせてやったのに、 清国は朝鮮を属国だと言って内政干渉し、 内乱が起こると自分の属国を助けるのだと言って 軍隊を出してきた・・・・」というのである。 それ故に、下関条約の第一条には、 「清国は、朝鮮国の完全無欠なる独立・自主の国である事を確認する。 よって右独立・自主を損う朝鮮国より 清国に対する貢献・典礼等は、将来、全く之を廃すべし」 と、明記されたのである。 これにより、清国への朝貢は全て廃止され、 千数百年にわたり朝鮮を従属国の位置に貶め、 その自主・独立を蝕んできた元凶としての中華秩序は、 初めて音を立て瓦解するに至ったのである。 日本は朝鮮の独立のために戦ったのに、 その事実を教科書に一言たりとも書いていない。 (中略) これは何と言う事だ。 そして当時の朝鮮もまた、 朝鮮の「自主独立」のために戦った日本の努力を嘲笑うかのように、 あろうことか今度はロシアに接近し、 その勢力を国内に自ら引き入れたのである。 ――――――― 日韓共鳴二千年史(名越二荒之助編著)をもとに改編 2005年1月15日 内乱を自力で収拾できず安易に外国の勢力に頼んでいた朝鮮 日清戦争・日露戦争と、 半島が戦場になり迷惑をかけた事に、文句を言う人もいる。 しかし、この問題を言うなら、清国やロシアの責任も問う必要がある。 そして、韓国自身が、独立国としての条件を整えていたか、どうか? を検討するべきであろう。 大院君のクーデターである壬午軍乱(じんごぐんらん) 金玉均によるクーデターの甲申事変(こうしんじへん) そして、東学党の乱 これにしても、韓国内に起こった内乱の収拾を、 清国に依頼した事が、事変の発端であった。 東学党の乱をきっかけに、 他国(朝鮮半島)を舞台に、日清戦争を行い、朝鮮国民に迷惑を掛けた 、、、と言うが、果たして、どうなのだろう? やはり、安易に外国の勢力を引き入れる朝鮮自身の責任を、 明確にしておくべきだ。 日清戦争の原因は、 東学党の乱を、朝鮮国が自力で収拾できなかった点にある。 そして、こともあろうに、天津条約という国際条約の存在を無視して、 鎮圧を清国軍に依頼したことにある。 これが、朝鮮を戦場にして、日清両国が戦うようになった最大の原因。 (天津条約-明治18年=日清間で結ばれた条約で、 将来、朝鮮に出兵する際は相互に通告することになっていた。) 内乱を自力で収拾できなかった事が、自国の戦場化にも繋がったのである。 ここを指摘しないで、お詫びをしては、韓国のためにもならない。 韓国のような半島国家が独立と安全を保つには、どうすればよいのか? 当時の苦渋に満ちた時代を、教訓化する事こそ大事である。 ――――――― enjoykoreaより引用 http://s04.megalodon.jp/2009-0201-1405-55/bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&page=35&nid=102515&start_range=102416&end_range=102577 韓国人曰く「日本が朝鮮の独立と自立近代化の道を邪魔した」と言うが、 現実は・・・ 韓国人は自ら、独立も自立した近代化の道も閉ざした。 ――― 日清戦争後の下関条約 第一条 清国は朝鮮国が完全無欠の独立自主の国であることを確認する。 よってその独立自主を侵害するような朝鮮国から清国への 貢納や臣下の儀礼などは,将来全く廃止すること。 ――― 下関条約によって清国の冊封体制から朝鮮は独立。 独立後の朝鮮には、独立をして、防波堤となることを 期待した日本の願いとは裏腹に親ロシア派内閣が成立した。 しかし、その政権の下では、腐敗はさらに進み 朝鮮半島の莫大な利権は欧米諸国に売り渡されることになった。 1896年 【ロシア】 咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権 鐘城の石炭採掘権 豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権 【アメリカ】 京仁鉄道敷設権 雲山金鉱(平北)採掘権 【イギリス】 財閥顧問の派遣と海関管理権 【フランス】 京義鉄道敷設権 1897年 【ロシア】 財政顧問の派遣と海関管理権 【ドイツ】 江原・金城、金鉱採掘権 1898年 【アメリカ】 ソウルの電車・電灯・水道経営権 【日本】 京釜鉄道敷設権 【イギリス】 平南・殷山金鉱採掘権 1899年 【ロシア】 東海岸における捕鯨権 1900年 【ロシア】 慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権 【日本】 京畿道沿海の漁業権 1901年 【フランス】 平北・昌城金鉱採掘権 1903年5月、ついにロシアは朝鮮北部の龍岩浦に軍港を建設。 シベリア鉄道の完成も近づき、極東アジアの情勢は著しく悪化した。 ロシアの極東南下で満州の一部は侵略支配されロシア沿海州になった。 結局、全てを売り払い破綻した無策な朝鮮は、 日露戦争の直接的な原因を引き起こした後、 日本に外交権を没収され保護国となって出直すことになった。 しだいに朝鮮国内では併合賛成派と反対派の声が高まり 朝鮮の指導者たちは日本に併合を要請することになった。 そして、売り渡された利権は日本が買い戻すことに... 結局、併合…(@Д@;; ――――――― 正論2005年6月号 『「反日の連鎖」を打ち破るための理論武装入門』 新田 均 著より 韓国人に、どう語ろう 「日帝支配」史観によって傷ついた韓国人に、どう語ろうか 韓国人が教え込まれている「日帝支配」史観も、 日本の「自虐史観」も、「祖先蔑視史観」という点で全く共通だ、 ということである。 いくら「3.1独立運動」などの部分的な抵抗史を強調して見ても、 日本の支配を自らの手で打ち破ることができなかった事実は 変えようもない。 だから、日本の悪逆非道を強調すればするほど、 国民を挙げて戦わなかった先祖の不甲斐なさに 韓国人のプライドは深く傷ついていく。 それは日本の謝罪などでは癒されようもない。 この心理は、米国と激しく戦った日本人が、 米国人に対して存外に親しみを感じていることからも察しがつく。 そこには、無論占領政策の影響もあるわけだが、勝敗はともかく、 いざとなれば戦える勇敢な民族なのだと証明してくれた先祖のおかげで、 日本人の誇りは、深層意識において満たされている。」 従って、「日帝支配」史観によって深く傷ついて しまっている韓国人の深層意識を癒す物言いが必要なのだ。 朝鮮人がこぞって日本に立ち向かわなかったのは、 決して韓国人の先祖が不甲斐なかったからではない。 できなかったのではなくて、 そこまでする必要がない程度の統治だったから、 そうしなかったまでではないか、私は呉善花女史の 『生活者の日本統治時代』(三交社)などの著作から、 そう解釈している。 「従軍慰安婦」については、どう語るべきだろうか。 「従軍慰安婦」「強制連行」「創始改名」については、 どう語るべきだろうか。 「従軍慰安婦狩り」や「強制連行」が史実ではないことは、 もうはっきりしている。 問題は、韓国人が「そうかもしれない」と思えるようにするには、 どう語ったらいいかということだ。 私達は、当時の朝鮮人のことを考える時に、彼らが在日朝鮮人のように、 多くの日本人に取り囲まれて暮らしていたかのように 思い込んでいるのではないだろうか。 ところが、朝鮮の人口に占める日本人の割合は、 大正期までは1%足らず、昭和六年でも2.5%にすぎなかった。 つまり、日本人は、圧倒的多数の朝鮮人に 囲まれて暮らしていたのが実状だった。 その上、警察署長、裁判所の判事・検事、 朝鮮総督府の局長・部長・課長に朝鮮人がおり、 道知事や軍人にも朝鮮人がいた。 このような状況の中で、「慰安婦狩り」などできただろうか。 できたとすれば、よほど朝鮮人というのは臆病な人々なのだと 解釈をせざるをえないが、勿論、そんなことはない。 呉善花女史が取材した日本人の証言がそれを裏付けている。 「強制的に連れていかれる娘を見ながら、 そのままほっておくような卑怯な朝鮮人がいたとは思えません。 田舎であればあるほど、 生活者の連帯意識も民族意識も強くて、 そんな彼らが我慢して黙って見ているわけがありません。 彼らの民族愛がいかに強かったかは、 私はいろいろな場面で見てきていますし、今でも鮮明に覚えています。 そんな世界で女狩りなんかできるはずがないんです」 (『生活者の日本統治時代』) 「強制連行」についてはどう語ろう 「朝鮮人強制連行」なるものは、 国家総動員法に基づく国民徴用令が内地で施行されて以来、 朝鮮人が内地へと労働動員された事例を歪曲したもので、 その実態は、昭和14年から16年までの「募集」、 昭和17年から19年9月までの朝鮮総督府による「官斡旋」、 それから昭和19年9月から20年3月までの「徴用」に分かれる。 この内、真に「強制」と言えるのは、 わずか7ヶ月だけ行われた「徴用」だけだ。 この「徴用」以前に”人さらい” まがいの「強制連行」がなかったことは、 当時の日本が朝鮮からの密入国者に悩まされており、 昭和14年から17年までの間に、 1万9千人を朝鮮へ強制送還している。 (しかも、一人あたり2円とか3円とかの費用を使って) 事実から明らかだ。 (岡田邦宏『朝鮮人強制連行はあったのか』) 勝手に密入国してくる朝鮮人が多数いるのに、 わざわざ朝鮮で”人狩り”などする必要などない。 朝鮮で”人狩り”をしながら、 他方で密入国者を強制送還していたなどということがあろうはずがない。 「徴用」を「強制連行」と言いたいのなら言えばいいが、 日本の内地では昭和14年から 「徴用」が実施されていたということを忘れてもらっては困る。 つまり、「徴用」を「強制連行」というなら、 内地の日本人は昭和14年から6年間も 「強制連行」されていたことになる。 それに対して、朝鮮人はわずか7ヶ月だけだった。 これでは「朝鮮人強制連行」ではなく「日本人強制連行」であり、 朝鮮人については、 むしろ「強制連行猶予」だったと言う話になってしまう。 そもそも、労働動員というものは、日本人の若者を 戦場へたくさん連れて行ってしまったために 生じた労働力の不足を補うためだった。 つまり、日本の若者を強制的に戦場に連れていかれていた時代に、 朝鮮人は日本の職場に強制的に連れてこられたと言う話に過ぎない。 いくら炭鉱など職場が過酷であったとしても、 玉砕が続いた南方の戦場とは、比べ物にならないだろう。 だから、朝鮮人の労働動員を日本の中学生の教科書に、 わざわざ書き込む必要などないのである。 「創氏改名」については、どう語るべきだろうか。 「創氏改名」については、杉本幹夫氏の研究を教えてあげれば良いだろう (『歴史と教育』78号) この問題を理解するには、韓国人の「姓」と、 日本人の「氏(苗字)」は違うということを先ず知らなければいけない。 朝鮮人の「姓」は男系の血統を表す名で、 だから夫婦別姓ということになる。 これに対して、日本の「氏(苗字)」は家族の名なので、 夫婦は「同じ氏」(同苗字)ということになる。 このように「姓」と「氏」は違うものなので、 日本式の「氏」を新たに作ったからと言って、 「姓」を廃止しなければならないというものではない。 したがって、「創氏」というのは、 朝鮮人の「姓」を奪ったのではなくて、 それとは別に、新たに日本式の「氏」を持たせた、 つまり、朝鮮人は「姓」と「氏」の両方を持たなければ ならないことにした政策だったと、杉本氏は言っている。 しかも、朝鮮総督府では、三橋警務局長が 朝鮮人に日本名を名乗らせると日本人か朝鮮人か 分からなくなるから困ると言って大反対し、 南次郎総督から「創氏改名」は強制しない、 警察も協力しなくともよいという言質をとっている。 さらに地方行政のトップであった道知事は 13人中5人が朝鮮人だったが、その内の2人は朝鮮名のままだった。 このように、警察も協力しなければ、 地方官僚のトップも従わないという状況であったわけで、 これでは「創氏改名」を強制できるはずはなかったのである。 ━━━━━━━━━━ 欧米列強のアジア侵略はいかにして行われたか http://s03.megalodon.jp/2009-0205-1430-48/specific-asian-flash.web.infoseek.co.jp/oubeishokuminchi.htm 我が子に伝える誇りある近代史 http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/kindaishi.htm#1_1 アジアの主な植民地 http://s03.megalodon.jp/2008-1211-1203-11/homepage3.nifty.com/asia-kenbunroku/Shokuminchi.htm 植民地政策は次の3つのタイプに分類できます。 ●本国の経済的利益を図るために、植民地を従属させるタイプ。 欧米がアジアでとったもので、貿易ルートを独占したり、 強制栽培制度を押しつけたりするタイプ。 ●植民地の制度、風俗、習慣を本国のものに同化させて 植民地を本国の一部のように統治するタイプ。 フランスが北アフリカでとったり、日本が朝鮮半島でとったタイプ。 ●他国(植民地)に移住した自国民の利益を図るために、 植民地を支配しつつ、移住した自国民に自治権を与えるタイプ。 植民地政策の中では新しいタイプで、 イギリスがカナダやオーストラリアにとったタイプ。 ――――――――――――――――― アメリカ西進の軌跡 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-538.html |
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