正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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プロビュール氏(バングラディシュ)の親日演説 2010年11月6日


新・世界は日本をどう見ているか


【1】H・G・ウェルズ(イギリス、歴史学者)
「この大戦は植民地主義に終止符を打ち、
白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石をおいた。」
(名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)

【2】アーノルド・J・トインビー(イギリス、歴史学者)
第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、
むしろ戦争によって利益を得た国々のために、
偉大なる歴史を残したと言わねばならない。

その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に
含まれていた国々である。
日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、
アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、
過去二百年の間に考えられていたような、
不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。
(1965年十月二十八日、英紙「オブザーバー」)

英国最新最良の戦艦2隻が日本空軍によって撃沈されたことは、
特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。
それはまた永続的な重要性を持つ出来事でもあった。

なぜなら1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、
この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。
1941年、日本はすべての非西洋国民に対し、
西洋は無敵でないことを決定的に示した。
この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、
1967年のベトナムに明らかである。
(昭和43年三月二十二日「毎日新聞」)

【3】イギリス マウントバッテン大将
(イギリス軍・東南アジア総司令部司令官)
かつて不敗を誇った日本軍も半年の死闘に衣服や靴もボロボロとなり、
ささえるものは不屈の精神力だけであった。
日本軍はインパールにおいて、ついに敗れたが、そこには何かが残った。
それは歴史学の権威トインビーがいみじくも喝破したとおりである。
すなわち『もし、日本について、神が使命を与えたものだったら、
それは強権をわがもの顔の西欧人を、
アジアのその地位から追い落とすことにあったのだ』」
(ルイス・マウントバッテン『ビルマ戦線の大逆襲』)

【4】スリム中将(イギリス第十四軍司令官)
たたかれ、弱められ、疲れても自身を脱出させる目的でなく
本来の攻撃の目的を以て、
かかる猛烈な攻撃を行った日本の第三十三師団の如きは、
史上にその例を殆ど見ないであろう。(「敗北から勝利へ」)
かくの如き望みのない目的を追求する軍事上の分別を何と考えようとも、
この企図を行った日本軍人の最高の勇気と大胆不敵さは疑う余地がない。
私は彼等に比肩し得べき如何なる陸軍も知らない。(同書)

【5】エリック・ホプスバウ博士(英国ロンドン大学教授)
「インドの独立は、ガンジーやネールが率いた
国民会議派が展開した非暴力の独立運動に依るものでは無く、
日本軍とチャンドラ・ボースが率いるインド国民軍(INA)が協同して、
ビルマ(現ミャンマー)を経由し、
インドへ進攻したインパール作戦に依ってもたらされたものである。」
(エリック・ホプスバウ『過激な世紀』)

【6】ククリックド・プラモード (タイ国元首相)
「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。
日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、
産まれた子供はすくすくと育っている。
今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは、
いったい誰のおかげであるのか。
それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。
十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが
一身を賭して重大決意をされた日である。
我々はこの日を忘れてはならない。」
( 十二月八日、現地の新聞「サイアム・ラット紙」において )

【7】バ・モウ (ビルマ元首相 独立宣言より)
約五十年前ビルマは三回にわたる対英戦争の結果その独立を失えり、
英国側はアジアに対する掠奪的野望を以て此等の戦争を遂行せり。

英国はさらにその伝統的陰謀賄賂
及び想像し得るあらゆる詐欺及び術策の武器をしようせり。
・・・ビルマ人は徐々に搾取され時の進むに従い総ての国民的実質、
莫大なる物資的資源、機会、文化、言語、
さらに遂にはその生活様式までも失い・・・愛国者は挺身的精神をもって
鎮圧、入獄、流謫、拷問及びしばしば死そのものを甘受して突進して来れり、
これらの英雄はビルマの生存のため苦難を受け遂には斃れたり。

・・ビルマ人はアジアを結合せしめアジアを救う指導者を
待望しつつありしが遂にこれを大日本帝国に発見せり。
・・・ビルマ人はこのビルマに対する最大の貢献に対する
日本への感謝を永久に記録せんことを希望するものなり・・・
(一問に百答 日下公人 PHP研究所)

【8】バ・モウ (ビルマ元首相 ビルマの夜明けより)
「歴史的に見るならば、
日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。
真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、
1943年8月1日に行われたのであって、
真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、
東条大将と大日本帝国政府であった」 

【9】ダグラス・マッカーサー
(アメリカ、日本占領連合軍最高司令官・元帥)
日本の潜在労働者は、量においても質においても、
私がこれまで知っている中の最も立派なものの一つである。

しかし、彼らは労働力はあっても生産の基礎素材を持たない。
日本には蚕のほかに取りたてていうべきものは何もないのだ。
日本人は、もし原材料供給が断たれたら(経済封鎖されたら)
一千万から一千二百万が失業するのではないかと恐れていた。
それ故に、日本が第二次世界大戦に赴いた目的は、
そのほとんどが、安全保障のためであった。
(1951年5月3日米上院の軍事外交合同委員会の聴聞会における発言)

日本は、絹産業以外には、国有の産物はほとんど何も無いのです。
彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産物が無い、錫が無い、ゴムが無い。
その他、実に多くの原料が欠如していたのです。

もし、これらの原料の供給が断ち切られたら、
一千万から一千二百万の失業者が
発生するであろうことを彼らは恐れていました。
したがって、彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、
大部分が安全保障に迫られてのことだったのです。
(1951年5月3日 米国議会上院の軍事外交合同委員会の答弁にて
『東京裁判 日本の弁明』)

【10】ハミルトン・フィッシュ
(政治家「悲劇的欺瞞」(TragicDeception1983))
ルーズベルト大統領は、その絶大な権力を使って
遂に米国を日本との戦争に巻き込むことに成功した。
そのことは、米国を欧州における戦争に参戦させるという
彼の最終的な目的を達成させた。
(名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)

【11】ジョイス・C・レブラ女史(アメリカ、コロラド大学歴史学部教授)
大東亜戦争下、アジア諸国に進駐して行った日本軍政の最大の特徴の一つは、
各国の青年を教育し、組織し、独立精神を振起した点にある。

その遺産は戦後も様々な形で生き続けている。

日本の敗戦、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には
決定的な意味を持っていた。
今や真の独立が確固とした可能性となると同時に、
西洋の植民地支配の復活も、
許してはならないもう一つの可能性として浮かび上がってきたのである。

民族主義者は、日本占領期間中に(日本軍により)身につけた
自信、軍事訓練、政治能力を総動員して、西洋の植民地復帰に対抗した。
そして、日本による占領下で、民族主義、独立要求は
もはや引き返せないところまで進んでしまったということを
イギリス、オランダは戦後になって思い知ることになるのである。
(中略)さらに日本は独立運動を力づけ、民族主義者に武器を与えた。
日本軍敗走の跡には、二度と外国支配は許すまいという自信と、
その自信を裏付ける手段とが残ったのである。

東南アジアの人間は今や武器を手にし、訓練を積んでおり、
政治力、組織力を身につけ、独立を求める牢固たる意志に支えられていた。
(「東南アジアの開放と日本の遺産」秀英書房、256~7ページ)

東京で開かれた極東国際軍事裁判で、打ち出された一つのイメージ、
即ち、日本は世界で最も強欲な軍国主義国家の一つであったとする思想は、
太平洋の西側で、長い間再検討されないまま放置されていた。
公私の資料の入手難が解明を遅らせ、
太平洋戦争の幾つかの局面を暗闇に閉じているのが現状である。

又、日本の歴史家達は、
東南アジアに於いて日本が大東亜共栄圏に託した理念、
実現の方法等を吟味する事に、今日迄消極的であった。
ごく最近になって、アメリカ合衆国の学者は、
日本の戦争目的を再検討する事に着手し、これ迄の定説を修正し始めた。

(中略)再検討を志すアメリカ合衆国の学者達の意見に依れば、
太平洋戦争は、西欧資本主義流の帝国主義の単なる日本版では無く、
それにもまして西欧諸国の進出によって脅威を受けた日本が、
(自国の)存亡に関わる権益を防衛する為の戦いであったのである。
更にアジアを包含しようとする大日本帝国の野望として
従来は見なされていた、
大東亜共栄圏の理念も又再検討されて然るべきである。
(ジョイス・C・レブラ『チャンドラ・ボースと日本』原書房、1969年)

【12】ロスロップ・スタッタード(アメリカ、歴史学者)
すでに四百年の間、連続的勝利によって、
白人は本能的に自己の膨張は無限に継続するものと信ずるに至った。
1904年の日露戦争以前には、自己の膨張が停止するというような思想は
白人千人中の一人にも考えがおよばなかった。

(中略)1900年は、四百年間みなぎりきった白人潮勢の頂点であった。
白人はその時、威名と実力の頂上に達したのである。
その後わずか四年にして日本は猛然起って露国に抗し、
旅順港に巨砲弾を浴びせて世界を驚かした。
その刹那に白人の退潮が始まった。
(長瀬鳳輔訳『有色人種の勃興』政教社、147,151頁)

【13】ジョージ・S・カナヘレ
(アメリカ、ハワイ日本経済協議会事務局長・政治学博士)
日本占領軍がインドネシア民族主義のために行った種々の仕事の中で、
最も重要なものの一つは、正規軍及び准軍事組織を創設して、
それに訓練を与えた事である。(中略)

インドネシア人が軍事訓練を受けたことの意義は極めて重要なものであった。
これが後のインドネシア革命軍の大部分の将校と何千の兵士となり、
復帰してきたオランダ勢力と独立戦争を戦う際の基盤となった。
日本によって与えられたこのような機会がなかったならば、
戦後のインドネシア民族革命の経過は違ったものになっていたであろう。

こうして、日本の占領は、
インドネシアの民族主義勢力を、権力の戸口まで導いた。
(中略)(インドネシアの)民族主義者にとって、
日本の占領時代は、独立への、単なる序曲以上のものであったかも知れない。
(ジョージ・S・カナへレ
『日本軍政とインドネシア独立』鳳出版社、1977年)

【14】ニミッツ元帥(アメリカ 太平洋艦隊司令長官)
この島を訪れるもろもろの国の旅人達よ。
故郷に帰ったら伝えてくれよ。
この島を守るために、日本軍人は全員玉砕して果てた。
その壮絶極まる勇気と祖国を想う心根を!
(名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)

【15】米国戦略爆撃調査団
日本の指導部が、国家の存亡に関わる利益の為にと固く信じて、
(今次の)戦争を始めた事は明らかである。

これに対して、アメリカ合衆国は、
単に自分達の経済的優位と主義主張を押し付けようとしたのであって、
国家の存亡に関わる安全保障の為に戦ったのでは無いと、
アメリカ合衆国人は信じていた。
(米国戦略爆撃調査団団長ニッツから
トルーマン米国大統領に提出された報告書、1946年7月)

【16】ラグ・クリシュナン(インド、元大統領)
インドは当時、イギリスの不沈戦艦を
沈めるなどということは想像もできなかった。
それを我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈もした。
驚きもしたが、この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きた。
(昭和44年「日本経済新聞」)

【17】ラダ・ビノード・パール
(インド、極東国際軍事裁判判事・法学博士)
要するに彼ら(欧米諸国)は日本が侵略戦争を行ったということを
歴史にとどめることによって、
自分らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、
日本の一七年間(昭和3~20年、東京裁判の審理期間)の
一切を罪悪と烙印する事が目的であったにちがいない。

・・・・私は1928年から1945年までの一七年間の歴史を
二年七ヶ月かかって調べた。
この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。
それを私は判決文の中に綴った。

その私の歴史を読めば、
欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるということがわかるはずだ。
それなのに、あなた方は自分らの子弟に、
「日本は犯罪を犯したのだ」
「日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ」を教えている。
満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、
どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。

日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、
卑屈、頽廃に流されていくのを私は平然として見過ごすわけにはゆかない。
あやまられた彼らの宣伝の欺瞞を払拭せよ。
あやまられた歴史は書き変えなければならない。
(昭和二十七年十一月五日、広島高等裁判所での講演)

【18】インド ラダ・ビノード・パール判事
日本が戦争にふみきったのは侵略のためではなく、
独断的な現状維持政策をとる西洋諸国によって挑発された為であり
東京裁判は『正義の実現ではなく勝利者による復讐』である。

【19】グラバイ・デサイ(インド、インド弁護士会会長・法学博士)
このたびの日本の敗戦は真に痛ましく、心から同情申し上げる。
しかし、一旦の勝負の如きは必ずしも失望落胆するに当たらない。
殊に優秀な貴国国民においておやである。
私は日本が十年以内にアジアの大国として
再び復興繁栄する事を確信する。

インドは程なく独立する。
その独立の契機を与えたのは日本である。
インドの独立は日本のお陰で三十年早まった。

これはインドだけではない。
インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。
インド四億の国民は深くこれを銘記している。
インド国民は日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。
他の東亜諸民族も同様である。
(1946年、デリーの軍事裁判に参考人として
召還された藤原岩市F機関長に対する挨拶)

【20】ジャワハルラル・ネルー(インド、独立後の初代インド首相)
チャンドラ・ボーズが日本と協力してつくった
インド国民軍《INA》の裁判で、
弁護士として法廷に立ち「これら立派な若者達の主たる動機は、
インド解放への愛情であった・・・・
彼らの日本との協力は、インド解放を促進するための手段であった。
余はチャンドラ・ボーズ氏の独立への情熱を疑わない」と述べた。
(貝塚茂樹編『民族解放の星』講談社、253~4頁)

【21】アリフィン・ベイ
(インドネシア、ナショナル大学日本研究センター所長・政治学博士)
日本に占領された国々にとって、
第二次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進という形をとり、
他面では近代化した日本の精神的、技術的面との出会いであった。

日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、
アジアに残っていたのは外ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。
この遺産が第二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、
どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。

日本が敗戦国になったとはいえ、
その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。
その一つに、東南アジアの教育に与えた影響があげられる。
(中略)
(日本は)目標達成のためにどれほど
必死にやらなければならないかということを我々に教えたのであった。
この必死の訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。
(「魂を失った日本」未央社、57~65ページ)

【22】ブン・トモ(インドネシア、元情報・宣伝相)
我々アジア・アフリカの有色民族は、
ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。
インドネシアの場合は、三百五十年間も失敗が続いた。

それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を
我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。
我々は白人の弱体と醜態ぶりをみて、
アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。

一度持った自信は決して崩壊しない。
日本が敗北したとき、”これからの独立は自力で遂行しなければならない。
独力でやれば五十年はかかる”と思っていたが、
独立は意外にも早く勝ち取ることができた。
(名越二荒之助『世界から見た大東亜戦争』展転社)

「日本軍が米・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。
我々は白人の弱体と醜態ぶりをみて
アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。
一度持った自信は決して崩壊しない。
そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり、
我々がやらねばならなかった。そして実は我々の力でやりたかった。」
(昭和32年の来日の際の発言)

【23】アリ・ムルトポ准将(インドネシア)
日本はアジアの光である。
大東亜戦争は欧米人にアジア人の
勇敢さを示したものでアジア人の誇りである。
今、忽然として日本民族がこの地球上から消えたら韓国が一番困ると思う。

もし、日本がシンガポールの地点にあったら、
インドネシア人の成功は容易である。
つまり、日本の近いところに位置していることは、幸運なのだ。
経済的支援を連続的に受けていると言ってもよいくらいだ。
インドネシアが日本に近ければ、今のような貧弱なインドネシアではない。

つまり、我々インドネシア人は
『日本はなにもしてくれなくてもよい』と考えている。
日本は欧米と肩を並べて進歩しているだけで十分、
アジア・アフリカにつくしていると考えている。
だから、我々アジア人は外交面に弱い日本を支援したいと思っている。
(韓国人に向かって言った演説、名越二荒之助「世界に生きる日本の心」)

【24】サンパス元復員軍人省長官(インドネシア)
特にインドネシアが感謝することは
戦争が終わってから日本軍人約1000人が帰国せず、
インドネシア国軍と共にオランダと戦い、
独立に貢献してくれたことである。
日本の戦死者は国軍墓地に祀り、
功績を讃えて殊勲章を贈っているが、それだけですむものではない。

平成3年、村山首相がASEAN諸国を謝罪して回った時、
インドネシアの元復員軍人省長官で東欧大使を歴任したサンバス将軍は
「日本の戦争目的は植民地主義の打倒であった。
その目的の大半は達成したが、南アフリカ、アジアにまだ残っている。
そんな時に行った村山演説は、
植民地主義打倒の悲願を放棄したことになる。

村山さんは日本の果たしてきた歴史を踏まえ、
A・A(アジア・アフリカ)の悲願を代表して、
まだ残る植民地主義を攻撃すべきであった。
かつての日本は、スカルノ、
ハッタ、バー・モウ、ラウレル・アキノ、汪兆銘、
チャンドラ・ボース等を応援したのに、
たった一度の敗戦で大切な目的を忘れてしまったのは遺憾である」
となげいていた。
(『(中島慎三郎
「アラムシャ陸軍中将の大東亜戦争肯定論」『祖国と青年』1994年2月号)

【25】ジョージ・カナヘレ『日本軍とインドネシア独立』より
日本はインドネシア語の公用語を徹底して推進し、
インドネシア国民としての連帯感を人々に植え付け、
広域の大衆をインドネシアという国家の国民として組織した。
とくに若者に民族意識を植え付け、
革命の戦闘的情緒と雰囲気を盛り上げた。
またPETA(ペタ)の革命における意義は大きく、
これなくしてインドネシア革命はあり得なかった。

【26】インドネシア『祖国防衛義勇軍(PETA=ペタ)マーチ』
“アジア、すでに敵に向かい、蜂起せり 己を捨てて全力を尽くす
連合国を粉砕せんと 玉散ることもいとわず
進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ
古きアジア 不幸に苦しむ 烈しき圧制に 幾世紀も忍ぶ
大日本 雄々しく立てり アジアを救い 我らを守る
進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ”

【27】モハマッド・ナチール(インドネシア、元首相)
大東亜戦争というものは、本来なら私たちインドネシア人が、
独立のために戦うべき戦争だったと思います。
もしあの時私たちに軍事力があったなら、
私たちが植民地主義者と戦ったでしょう。
大東亜戦争はそういう戦いだったんです。

【28】ガザリー・シャフェー
(マレーシア、元外相、アセアン創設によりハマーシェルド賞受賞)
日本の某代議士の「過ぐる大戦において、
わが国は貴国に対しご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
という挨拶に対して、どうしてそういう挨拶をなさるのですか。

あの大戦で日本はよくやったではないですか。
マレー人と同じ小さな躰の日本人が、
大きなイギリス人を追い払ったではありませんか。
その結果、マレーシアは独立できたのです。
大東亜戦争なくしては、マレーシア人もシンガポールも、
その他の東南アジア諸国の独立も考えられないんですよ。

さらに続けて、
玉井顕治、名越二荒之助、中島慎三郎の三氏に対していわく。
私は威張る人も、ぺこぺこする人も嫌いです。
日本はもっと大きくアジアに眼を開いてください。
現在、日本は南方の発展途上国に対する援助額はダントツです。
押しも押されぬアジアの経済大国ではありませんか。

『ルック・イースト』『日本に学べ』という呼びかけは、
シンガポールやマレーシアだけではありません。
口に出しては言わないけれど、アジアの国々のこれは本音なんですよ。
かって反日感情の強かった国々にも、
次第に親日感情が起こりつつあります。

そうしたなかにあって、日本は欧米にばかり目を向けず、
アジアに対して責任を持つ国になって欲しいのです。
日本はかつてアジアに対して責任を感じ、
そのために、戦争であれだけの犠牲を払ったのです。
この尊い戦争の遺産を否定することは、
バックミラーばかり見ているようなものです。
自動車は前を見て運転しなければ、進路を間違えますよ。
(昭和六十三年七月十九日、於赤坂プリンスホテル)

【29】ラジャー・ダト・ノンチック(マレーシア元上院議員)
私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。
敗れて逃げてゆく英軍を見た時に
今まで感じたことのない興奮を覚えました。
しかもマレーシアを占領した日本軍は日本の植民地としないで
将来のそれぞれの国の独立と発展の為に、
それぞれの民族の国語を普及させ青少年の教育をおこなってくれたのです。

【30】ラジャー・ダト・ノンチック(マレーシア元上院議員)
この国に来られた日本のある学校の先生は
「日本軍はマレー人を虐殺したに違いない。
その事実を調べに来たのだ」と言っていました。
私は驚きました。
「日本軍はマレー人を一人も殺していません。」 と私は答えてやりました。
日本軍が殺したのは、戦闘で闘った英軍や、
その英軍に協力した中国系の抗日ゲリラだけでした。

マレーシア元上院議員 ラジャー・ダト・ノンチック
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/6646/vol4.html
http://s04.megalodon.jp/2009-0209-1611-43/www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/6646/vol4.html

『日本人よありがとう』

ラジャー・ダト・ノンチック 作詞
(南方特別留学生、ASCOJA初代会長、元上院・下院議員、ASEAN設立)
1、
みずからもひもじい時に 配給のわずかなパンを
持ってきてくれた乙女ら ああ日本は美しかった
真白き富士の気高さと 歌う黒髪瞳清らか
2、
空襲のサイレン鳴れば 真っ先に僕らを壕に
案内してくれた若者 日本人はひたむきだった
アジアのためのたたかいに 力尽くして彼等は散った
3、
戦いに敗れた後の 生きるすべあてない街で
励ましてくれた友らよ 日本人は親切だった
独立のため生き抜けと 握り合う手に涙こぼれた
4、
あの頃は苦しかったが アジアには平和がおとづれ
民はみな祖国を持った ああ日本の若人たちよ
こころを継いであたたかく 共に栄える明日に進もう

ああ日本の若き友らよ こころとこころ結び合い
豊かなアジア共に築こう

(名越二荒之助『大東亜戦争とアジアの歌声』p65~66)

【31】マレーシア マハティール首相
日本は、軍国主義が非生産的であることを理解し、
その高い技術とエネルギーを、
貧者も金持ちも同じように快適に暮らせる社会の建設に注いできた。
質を落とすことなくコストを削減することに成功し、
かつては贅沢品だったものを
誰でも利用できるようにしたのは日本人である。

まさに魔法も使わずに、奇跡とも言える成果を創り出したのだ。
(中略)
東アジア諸国でも立派にやっていけることを証明したのは日本である。
そして他の東アジア諸国はあえて挑戦し、
自分たちも他の世界各国も驚くような成功をとげた。
東アジア人は、もはや劣等感にさいなまれることはなくなった。

いまや日本の、そして自分たちの力を信じているし、
実際にそれを証明してみせた。
もし日本なかりせば、世界は全く違う様相を呈していただろう。
富める北側はますます富み、
貧しい南側はますます貧しくなっていたと言っても過言ではない。
北側のヨーロッパは、永遠に世界を支配したことだろう。
(欧州・東アジア経済フォーラム 1992年10月14日)

【32】朴 鉄柱
(韓国 平成二年一月逝去・六十八歳 、
韓日文化研究所 昭和四十二年十月)
ソウルから日本を眺めていると、日本が”心”という字に見える。
北海道、本州、四国、九州と、心という字に並んでいるではないか。
日本は万世一系の御皇室を頂き、歴史に断絶がない。
それに対して韓国は、
断絶につぐ断絶の歴史で涙なくしてみることはできない。

第二次大戦後の日韓関係は、李承晩政権の影響もあって、
共産主義以上に日本を憎む傾向があった。

そのため日韓の氷山の一角を誇大に強調して、
隠された部分を見落としていた。
お互いの精神的歴史的豊かさを掘り起す努力をしようではないか。
そのために日本は自信をとり戻して、
おおらかに民族形成の原点に立ち返ってほしい

現在の日本の自信喪失は敗戦に起因しているが、
そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。
平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだ。

それまで日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。
最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。
”事態ここに至る。座して死を待つよりは、
戦って死すべし”というのが、開戦時の心境であった。

それは日本の武士道の発露であった。
日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨て身の一撃を与えた。
それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。
日露戦争と大東亜戦争ーこの二つの捨て身の戦争が歴史を転換し、
アジア諸国民の独立をもたらした。
この意義はいくら強調しても強調しすぎることはない。

大東亜戦争で日本は敗れたというが、
敗けたのはむしろイギリスをはじめとする
植民地を持った欧米諸国であった。

彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。
戦争に勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、
というのはクラウゼヴィッツの戦争論である。

日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。
日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、”聖なる戦争”であった。
ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、
こんなものはすぐに回復できたではないか。
二百数十万人の戦死者は確かに帰ってこないが、
しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、
国民尊崇対象となるのである。

【33】朱 耀翰 {韓国 元国会議員 ゴーマニズム宣言第六巻p232}
アメリカ大統領ルーズベルト君、
君は口を開けば必ず正義と人道を唱えるが、
パリ講和条約の序文に人種差別撤廃文案を挿入しようとしたとき
これに反対し削除したのはどこの国だ?

黒人と東洋人を差別待遇して同じ席にも着かせず
アフリカ大陸で奴隷狩りをしたのはどこの国であったか?
しかし君らの悪運はもはや尽きた。
一億同胞なかんずく半島の二千四百万は渾然一体となって
大東亜聖戦勇士とならんことを誓っている!

【34】孫文(中国革命の指導者)
ベルサイユ講和会議で、日本は五大国の一員として席に着いた。
日本はアジア問題代弁者だった。
他のアジア諸国は、
日本をアジアの『先頭馬』として認め、その提案に耳を傾けた。
白人人種にできることは日本人にもできる。
人間は肌の色で異なるが知能に違いはない。

アジアには強い日本があるから、
白人人種はアジアのいかなる人種も見下すことはできない。
日本の台頭は大和民族に権威をもたらしただけではなく、
アジア全民族の地位を高めた。(孫文『三民主義』より)

【35】蒋介石
ラモウ・騰越を死守しある日本軍人精神は、東洋民族の誇りたるを学び、
範として我が国軍の名誉を失墜せざらんことを望む。

【36】許文襲(実業家)
台湾の今日の経済発展は、日本時代のインフラ整備と教育の賜物です。
当時、搾取に専念したオランダやイギリスの植民地と違い、
日本のそれは良心的な植民地だったのです。

戦前の日本の台湾統治に対し謝罪する必要などありません。
戦後の日本政府は深い絆を持ちながら世界で一番の
親日国家である台湾を見捨てました。
謝罪すべきはむしろ戦後の日本の外交姿勢です。
(蔡焜燦『台湾人と日本精神』)

【37】ベルナール・ミロー(フランス ジャーナリスト)
これら日本の英雄達は、この世界に純粋性の
偉大さというものについて教訓を与えてくれた。
彼らは1000年の遠い過去から今日に、
人間の偉大さというすでに忘れ去られてしまったことの使命を、
とり出して見せつけてくれたのである。(『神風』)

【38】アンドレ・マルロー(フランス 元文化相)
日本は太平洋戦争に敗れはしたが、
そのかわりに何ものにも替え難いものを得た。
それは、世界のどんな国も真似のできない特別攻撃隊である。
スターリン主義者たちにせよ、ナチ党員にせよ、
結局は権力を手に入れるための行動だった。
日本の特別攻撃隊たちは、ファナチックだっただろうか。
断じて違う。

彼らには、権勢欲とか名誉欲など、かけらもなかった。
祖国を憂える尊い情熱があるだけだった。
代償を求めない純粋な行為、そこには真の偉大さがあり、
逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。
人間は、いつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ。
(ベルナール・ミロー『神風』内藤一郎訳、早川書房、359頁)

【39】サンティン・アムステルダム(オランダ 内務大臣 元市長)
本当に悪いのは侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。
日本は敗戦したが、その東亜の解放は実現した。
即ち日本軍は戦勝国の全てを東亜から追放して終わった。
その結果、アジア諸民族は各々独立を達成した。
日本の功績は偉大であり、
血を流して闘ったあなた方こそ最高の功労者です。
自分を蔑むことを止め、その誇りを取り戻すべきであります。

【40】オランダ、アムステルダム市長

『賢いニュースの読み方。』より引用
反日マスコミは60年前の戦争についての真実を放送しない。
http://ameblo.jp/taishou3569/entry-10003620224.html

平成3年、日本傷病軍人会代表団が、
大東亜戦争の敵国であったオランダを訪問した折、
同国の傷病軍人代表と共に、首都アムステルダム市長主催の
親善パーティに招待された。その時の市長の挨拶。

あなた方日本はアジア各地で侵略戦争を起こして申し訳無い、
諸民族に大変迷惑をかけたと自分を蔑み、
ペコペコ謝罪していますが、これは間違いです。
あなた方こそ自ら血を流して東亜民族を解放し、救い出す、
人類最高の良いことをしたのです。

何故なら、あなたの国の人々は、過去の歴史の真実を目隠しされて、
今次大戦の目先の事のみ取り上げ、
或いは洗脳されて、悪いことをしたと、
自分で悪者になっているが、ここで歴史を振り返って、
真相を見つめる必要があります。

本当は私共白人が悪いのです。
100年も200年も前から競って武力で東亜民族を征服し、
自分の領土として勢力下にしました。
植民地や属領にされて永い間奴隷的に酷使されていた東亜諸民族を解放し、
共に繁栄しようと、遠大崇高な理想を掲げて、
大東亜共栄圏と言う旗印で立ち上がったのが、
貴国日本だったはずでしょう。

本当に悪いのは侵略して権力を振っていた西欧人の方です。
日本は敗戦したが、その東亜の解放は実現しました。
即ち日本軍は戦勝国の全てを東亜から追放して終わりました。
その結果アジア諸民族は独立を達成しました。日本の功績は偉大です。
血を流して戦ったあなた方こそ最高の功労者です。
自分を蔑むのを止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきです。

【41】「大東亜戦争開戦について」 ハミルトン・フイッシュ米上院議員
日米・開戦の悲劇、ハミルトン・フィッシュ、PHP文庫、H4.12

日本は、フイリピンおよびその他のいかなる米国の領土に対しても、
野心を有していなかった。

しかしながら、ひとつの国家として、日本はその工業、商業航行
および海軍のための石油なしに存立できなかった。

非常な平和愛好家である首相の近衛公爵は、
ワシントンかホノルルに来てもよいから
ルーズベルト大統領と会談したいと、繰り返し要望していた。

彼は、戦争を避けるためには、
米国側の条件に暫定協定の形で同意する意思があったが、
ルーズベルトは、すでに対日戦、およびその帰結としての対独戦を
行なうことを決意していたという理由で、日本首相との話し合いを拒否した。

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日本とスリランカの間には、互いに助け合った長い友好の歴史がある。
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愛国心を育てる名言
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外国から見た日本_1
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日本にやって来た欧米人の日本の印象
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