正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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戦後、今から40年くらい前まで、中国共産党の幹部たちは、
支那事変(盧溝橋事件と戦線拡大と継続)が
共産党の仕業だったことをいろいろと証言していた。

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●周恩来
1949年10月1日、「中華人民共和国」成立の日に周恩来首相が、
「あの時(廬溝橋事件の際)、我々の軍隊が、
日本軍・国民党軍双方に、発砲し、
日中両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、
共産党に今日の栄光をもたらしたのだ」
と発言したと伝えられている。

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●劉少奇(葛西純一)
 私が盧溝橋事件の仕掛人は
中国共産党(北方局第一書記胡服こと劉少奇)であると
初めて知ったのは、
一九四九年(昭24)十月一日の北京政権誕生直後、
河南省洛陽市西宮に駐屯する
中国人民解放軍第四野戦軍後勤軍械部(兵器弾薬部)第三保管処に
現役将校(正連級、日本の大尉に相当)として勤務している時であった。

 その頃、閉された中国大陸は『人民中国』の誕生にわきかえっていた。
中国人民解放軍総政治部発行のポケット版『戦士政治課本』
(兵士教育用の初級革命教科書で、
内容はいずれも中国共産党の偉大さを教えるものばかり)は、

「七・七事変(葛西注=中国では盧溝橋事件を一般にそう呼ぶ)は
劉少奇同志の指揮する抗日救国学生の一隊が
決死的行動を以って党中央の指令を実行したもので、
これによってわが党を滅亡させようと第六次反共戦を準備していた
蒋介石南京反動政府は、
世界有数の精強を誇る日本陸軍と戦わざるを得なくなった。
その結果、滅亡したのは中国共産党ではなく
蒋介石南京反動政府と日本帝国主義であった」

と堂々と述べ、・・・

(略)

 昭和28年から翌29年(一九五三~五四)にかけて、
いわゆる中共帰国船(興安丸、白山丸、自竜丸)で
約三万二千人の日本人が帰国したが、
「国共内戦で帰国のチャンスを失った日本人居留民」と
北京放送の伝えたあの日本人たちは、
実は中国革命戦争に八年間も従軍した革命者なのであった。

彼ら三万二千人は殆んどが中国語の『戦士政治課本』を読みこなせたし、
或る者は、
「日中戦争が中国共産党の仕組んだものだったとは・・・」
と憤慨もした。

葛西純一編訳著『新資料盧溝橋事件』(昭和49年、中国人民解放軍政治部発行)

葛西純一氏は、元中国共産党軍(人民解放軍)将校。

――――――――

そして、あの毛沢東も、
「日本の皇軍なしには、我々が権力を奪取することは不可能だった」
と発言していた。

このように、40年くらい前まで、中国共産党の幹部たちは、
「盧溝橋事件とそれに続く日中全面戦争は、自分たちが起こした」と
堂々と公言していた。

●毛沢東
日本社会党の人士佐々木更三、黒田寿男、細迫兼光らを接見した際の談話
(1964年7月10日)

佐々木――今日、毛主席の非常に寛大なお気持ちのお話しをうかがいました。
過去において、日本軍国主義が中国を侵略し、
みなさんに多大の損害をもたらしました。
われはれはみな、非常に申し訳なく思っております。

主席――何も申し訳なく思うことはありません。
日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、
中国人民に権力を奪取させてくれました。
みなさんの皇軍なしには、われわれが権力を奪取することは不可能だったのです。
この点で、私とみなさんは、意見を異にしており、
われわれ両者の間には矛盾がありますね。

(皆が笑い、会場がにぎやかになる)。

佐々木――ありがとうございます。

主席――過去のああいうことは話さないようにしましょう。
過去のああいうことは、よい事であり、
われわれの助けになったとも言えるのです。
ごらんなさい。中国人民は権力を奪取しました。
同時に、みなさんの独占資本と軍国主義はわれわれをも
〔日本側の記録では、「みなさんをも」となっており、
文脈からはその方が適切と思われる〕
助けたのです。日本人民が、何百万も、何千万も目覚めたではありませんか。
中国で戦った1部の将軍をも含めて、
彼らは今では、われわれの友人に変わっています。

東京大学近代中国史研究会訳『毛沢東思想万歳』、下巻

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●小平
 日本側が「先の戦争では申し訳なかった」といった内容のことを述べると、
小平は発言をさえぎるようにして
「われわれは日本軍をそんなに悪く思っていませんよ」
と切り出した。
あっけにとられた一行を前にした小平の説明はこうだった。

「あの戦争が始まる前、われわれは井崗山(せいこうざん)から、
長征の途についた。
延安にたどりついたときは気息奄々、靴もちびはて、
人数も2万人に減って、全滅寸前でした。
ところが日中戦争が始まり、
われわれを包囲していた蒋介石軍は日本軍によって次第に南部に押されていく。
袋のネズミだったわれわれはそれで息を付くことになり、
日本軍の後ろに回って、着々と工作をしていった。
そして戦争終結時には数百万の正規軍を擁する軍事勢力にのし上がった」

西安に旅行したとき、
周恩来が隠れていた地下指令室を見学した時のことを思い出した。
展示されていた古い雑誌に、
日本軍が蒋介石軍を破って南京に迫ってゆく様子を
「形勢好」と表現してあった。
「形勢はいいぞ」という意味だ。
当時は「へんなことが書いてある」といった程度の認識だったが、
国共合作で友軍になったはずの蒋介石軍が
負けていて「いい」ということもなかろうにと考えた。

 とにかく1936年秋の西安事件までは、
蒋介石は日本とことを構えるより、共産党制圧を第一目標にしていた。
それが西安事件で順番が逆転する。
そうしなかったら捕らわれの身だった蒋介石は殺されていただろう。

http://www.yorozubp.com/9806/980606.htm
1998年06月06日(土)
伴 正一

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台湾人実業家、蔡焜燦さん
・台湾は日本の植民地ではなく内地の延長・領土であった。
植民地という言葉は戦後に出てきたものである。
・戦前の日本の教育水準は非常に高く、
教師達は情熱と愛情を持って台湾に教育を普及させていった。
・台湾では、いまでも「日本精神」=リップンチェンシンは、
「勤勉で正直で約束を守る」事を意味する。
・日本統治時代、台湾籍児童が通う「公学校」と
内地籍児童が通う「小学校」の違いは、
差別ではなく日本語能力にハンディキャップがあったためであり、
日本語が達者な子供は台湾籍であっても「小学校」に通うこともできた。
・台湾では創氏改名は許可制であった。
また、日本名でなくてもなんの不自由もなかった。

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敗戦直後、救援機による満州国皇帝救出作戦に加わった台湾人の邱錦春さん
「作戦参加を今も誇りに思っています」
「救出命令に特別な気持ちはなかったが、
機翼の日章旗と尾翼の部隊記号がペンキで塗りつぶされていたのは悲しかった。
戦死したら、靖国神社に祭られないのではないかと思った」
「敗戦の最大の悲しみは、日本人から外国人になったこと」

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台湾・高砂族(現 高山族)のリムイ アベオさん(女性)
「田を作ることを出来なかった台湾人に日本人が全てを指導してくれた。
そして、種を撒いたり苗を植えることも、日本人が教育してくれた。」
「だから、日本のために命を投げてくるという決心をした。」

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日本が残した先住民の資料 「台湾文化守った」 テーマパーク建設に貢献
産経ニュース 2009.12.24 01:23
http://sankei.jp.msn.com/world/china/091224/chn0912240124000-n1.htm
番組内容に偏向・歪曲(わいきよく)があったとして、
視聴者からの批判が相次いだNHKスペシャル
「JAPANデビュー アジアの“一等国”」問題では、
日本統治時代の“負”の部分ばかりを強調した内容に、
台湾内からも批判が上がったが、
台湾の先住民には「日本統治が台湾を発展させた」と考える人も多い。
日本統治下で「日本人」として教育を受けた先住民を訪ね、
日本への思いを聞いた。(今泉有美子)

「統治時代、日本は先住民の暮らしや文化を調べて詳細に記録していた。
その資料があったから、私たちは文化を守り、伝えることができたのです」。
流暢(りゆうちよう)な日本語でこう話すのは、
ルカイ族の陳志恒さん(80)だ。
台湾の先住民の歴史を伝えるテーマパーク「九族文化村」の
立ち上げにかかわり、現在、同パーク内で案内人を務める。

陳さんは台湾東部の山岳地帯で生まれ、日本語教育を受けた。
終戦後は、狩猟などで生計を立てる一方、
ルカイ族に伝わる木や石の彫刻を勉強。
人物や動物、家など、昔からルカイ族の人々が作ってきた伝統的な
彫刻を数十作以上完成させた。
今ではルカイ族の弟子を抱え、伝承する立場にいる。

同様に、ほかの先住民にも伝統工芸や踊りなどがあることを知っていたが、
台湾も現代化が進んでいた。
陳さんは、「このままでは先住民の文化がなくなってしまう」と
危機感を抱き、テーマパーク建設を思いついた。

台湾当局などから資金援助を得て、1986年に9つの先住民の民家や衣装、
祭りなどを伝える「九族文化村」を完成させた。

建設で参考にしたのは、日本が統治時代に制作した先住民の資料だった。
「各先住民の言語や習慣はもちろん、衣装や宗教、
分布地域まで詳細な記録が残されていた。
仕事の細かい日本人らしい素晴らしい資料で、建設はスムーズに進みました」。
紹介する先住民は今では14族に増え、
約2キロの遊歩道を歩きながら各民族の歴史を知ることができる。

NHKの放送では、日本統治について「負」の部分が
取り上げられたことから、
「偏向のある内容」と番組出演者だけでなく
先住民のパイワン族なども抗議し、
番組の訂正や謝罪などを求める事態に発展した。

「日本の教育は厳しかったが、高い教養や道徳をきっちり教える
素晴らしいものだった。統治があったから台湾は発展し、
先住民の伝統もこうして残すことができた。
強要されたと感じたことはない」と当時を振り返る陳さん。
「日本は発展した。それは、日本の教育が素晴らしいからだと思っている。
台湾の子供たちにも、統治下でわれわれが受けたような、
道徳を重んじる教育を受けてほしい」と話し、
パークを歩く子供たちの姿に目を細めた。

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1-13 忘れ去れた台湾史--日本時代編 【訳付き版】

2-13 忘れ去れた台湾史--日本時代編 【訳付き版】

3-13 忘れ去れた台湾史--日本時代編 【訳付き版】

4-13 忘れ去れた台湾史--日本時代編 【訳付き版】

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12-13 忘れ去れた台湾史--日本時代編 【訳付き版】

13-13 忘れ去れた台湾史--日本時代編 【訳付き版】


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米英の新聞が日本の台湾統治を絶賛!

日本の台湾統治を絶賛するロンドンタイムズ(1904年9月24日)と
ニューヨークタイムズ(1904年9月25日)
※ロンドンタイムズの記事をニューヨークタイムズも掲載しました。

SAVAGE ISLAND OF FORMOSA TRANSFORMED BY JAPANESE
日本統治で一変した未開の島、台湾
Wonders Worked in a Few Ears With a People That Others Had Failed to Subdue
誰の手にも負えなかった事を、数年間で克服した驚異の偉業
ALesson fbr Other Colonizing Nations
他の植民地宗主国への教訓

ロンドン、1904 年9 月24 日『タイムズ』は、
本日、日本による台湾の変革を伝える特派員の記事を掲載する。
何事によらず、成功するには三つの条件が必要だ。
すなわち、そこに住む人々の能力、綿密な施策、それに経験である。
植民地経営のルールに例外はない。
ドイツはその綿密な施策にも拘らず、住民の能力欠如か、
あるいは自身の経験不足のいずれかの理由で植民地経蛍に失敗した。
工芸の世界でも試作はえてしてうまくいかないものだ。
ドイツの失敗の原因はおそらくこれと同じだろう。
それゆえ、日本が台湾の統治に当たって
優先的に採った施策は注目に値する。
とりわけ、日本にとって最初の植民地である台湾の地は、

【1】
どの植民地宗主国にとっても手に負えないと
思われてきた難しい問題を抱えていたからだ。
台湾はもともと支那本土および諸外国から
逃れた無法者にとって格好の巣窟だった。
また、現地人の中には野蛮な無法者が大勢いたため、
数度に亘って外国に征服された地域でも、
その国の植民地として支配されることはなかった。
スペインとオランダは、台湾を植民地化しようと企てたことがあるが、
「危うきに近寄らず」とそれを断念した。
支那(清朝)は、事実上その地を荒れ果てたままにしていた。
フランスとイギリスは、
容易に台湾を手に入れることができたかも知れないが、
未開の蛮地に深入りするのを避けた。

未開の原住民の啓蒙
1894-1895 の日清戦争の後、日本が台湾を要求したのに対し、
支那(清朝)は不本意にせよ喜んでこれを受け入れた。
其の時、李鴻章(Li Hung-Chang)は皮肉を込めて
「日本は極めてまずい取引をしたのに気付くだろう」と嘯いている。

【2】
日本が台湾に進出した時は、沿岸部には海賊が蟠踞していた。
内陸では、土着の匪賊が支配する地域と、
無法者と盗賊の組織が跳梁する地域が入り交じっていた。
彼らは、海岸に漂着した難破船を略奪したり、
島に近よる船員を殺害したりしていた。
台湾が支那(清朝)領だった頃は、外国船の船員に対する流血事件が頻発し、
アメリカ初め他国との紛争が支那(清朝)はが絶えなかったから、
無法の島を割譲して内心喜んだと思われる。
日本が島全域を完全掌握するのに約1 年かかった。
1896 年3 月31 日、島は文民統制の行政府が管轄することになった。
しかし、それまで、島を管轄する職にあった支那(清朝)の行政官は、
失職を懐れて台湾の無法勢力と結託し、
新しい統治者に対する叛乱を扇動し始めた。
このため、島は絶えず不安定な混乱状態にあったが、
1901 年末になって漸く叛乱分子を掃討することができた。

寛大な行政
台湾は、日本の統治下の数年間で完全な平和を享受していた。
国の姿と以前の野蛮な住民の心は顕著に変わり、
人々は日本の統治を祝福し賞賛し始めるようになったのである。
この目覚しい成功は何によるのか。
それは、日本が可能な限り住民の考えを尊重し温和に導き、
文明開化への道を強要しなかった施策にある。
例えば、台湾に古くからある自警組織2つを存続させた。
この組織を通して武装した盗賊の襲撃や火事、
洪水その他の自然災害から住民を守る一方、
日本の秀れた法律、制度を台湾に導入した。
こうした法制度は台湾在住の日本人には厳格に順守させたが、
現地人にはその適用を緩和していた。
当時の現地人はまだ文明国とはどういうものかを知らなかったし、
文明社会を築くためには法治国家への転換が
必須だということを理解していなかったからだ。

阿片吸引癖の矯正
台湾人の阿片吸引者に処罰はなかった。
しかし、阿片の吸引と取引は、
日本のみならず台湾に住む日本人にとっては犯罪で、
色々な刑罰や懲役の対象になっていた。
日本は、阿片消費量の漸減と中毒者の阿片離れの促進を計って、
阿片を「専売制度」とする一方、
吸引を思い止まらせるために考えられる色々な方策を講じた。
これによって、政府の許可無く入手できなくなった上に、
入手した阿片は極めて厳しい監視下に置かれた。
日本政府は阿片患者と認定された者に限り、
ライセンスを与えられた正規の販売庖で購入できるよう阿片の供給を制限し、
吸引者の輸が拡がらない様に警察に厳しい監視態勢をとらせた。
これと平行して、モラル面で、の教育も強めていった。
成人には、全ての医師に阿片吸引の害を説明させた。
子供の教育としては、学校の教師に、
阿片がいかに身体や道徳的に有害かを教え込むよう義務付けた。

【3】
台湾の人口は当時およそ3,OOO,O00 人だが、
その中で1900 年9 月には阿片の常習者が169,064 人いた。
1902 年3 月末までに、政府の許可を得た吸引者は152,044 人に減少した。
この17,020 人の差は、常習者の死亡か阿片使用を断った者の数である。
政府の賢明な政策によって吸引者が今後さらに減ることは間違いない。
1900 年には3,392,602 円あった阿片輸入額が、
1903 年には1,121,455 円に縮小したが、
これは注目すべき変化だ。
歳入の観点からすれば、
台湾で阿片の使用を制限する政策は決して好ましくない。
国の財政上、収入を失うのは重大な問題だし、
行政費と阿片吸引者の監規に要する費用の膨張を招くからだ。
日本政府は、土着の宗教やしきたりに干渉して、
現地人の感情を傷っけないよう細心の注意を払った。
日本統治の恩恵がはっきりした形で納得されるよう、
人々の生活条件をあらゆる面で改善でした。
まず第一に、法を守る人は、土匪や強盗集団の暴威、虐待を受けることなく、
公正な政府の下で自由を享受できるようにした。
第二に、住民の福祉厚生に非常にカを注いだ。
この地では以前から伝染病が蔓延していたが、
それは主として澱んだ湖水や汚染した河川の汚濁した水の利用によるものだった。
それゆえ、日本政府は水質の良い浄水の供給に着手した。
台湾全土での掘り抜き堀井戸の数は不明だが、
全人口の一割が住んでいる台北地区だけでも800 以上の井戸が掘られている。

秀れた教育制度の発足
教育は全ての進歩発展の基礎であり出発点だが、
日本は日本の見事な教育制度を台湾に導入した。
台湾には、60 人の教師と2,O00 人の生徒の日本人学校がある。
また、台湾本島人のための小学校が130 校あり、
521 人の教師、教育スタッフを擁して
18,149 人の子供達に文明文化人への道を教えている。
しかし、日本は、本島人に初等教育を施すだけでは満足していない。
日本の持っている最高のものを台湾に移入したいという日本の大きな夢から、
本島人の為の医学校、日本語学校に加えて教師養成の師範学校も創設した。
台湾の医学校は大きな特徴がある。
それは、台湾生まれの学生に対して
近代科学の正規課程と医学の実習を教える、極東唯一の医学校だ。
台北に本拠を置き、現在、約150 人の医学生が有能な日本人教授の指導で学んでいる。

【4】
日本語学校には二つの役割がある。
島民への日本語の普及を計ると同時に、日本人に現地語を学ばせ、
内陸で働ける教師と通訳を養成することだ。
3人の幸せは、安全、圧制からの解放および健康だけでなく、
繁栄ぶりによっても左右される。
日本は台湾の発展、繁栄を目指しているのである。

鉄道交通網の整備
日本が台湾を引き継いだとき道路は無かった。
不思議なことに、一部に鉄道はあったが、
粗末な敷設工事とおざなりな管理のためあまり使い物にならかった。
鉄道運賃はほとんど毎日のように変り、
列車は「都合のいいときJ だけ運行されていた。
日本は、生活に必要な社会の基礎構造に目を向けて、
島の各地で組織的に道路の建設にとりかかった。
アメリカ領事館の最近の報告によると、
1,O00 マイル(訳者注:1 マイルは約1.6km)以上の道路がすでに完成している。
同時に、日本政府は、道路と鉄道の包括的な整備計画を立て、
これに28,800,O00 円、約3,OOO,O00 ポンドの投資資金を用意している。
これは、日本の国力から見て信じられないような額だ。
既存の鉄道はすでにすっかり修復されている。
「新竹J と「高雄J を結ぶ新しい幹線の始発、
終着両駅の同時開設には大変な労力を要した。
1897 年から1903 年にかけて、
95 マイルの鉄道が敷設され37 の駅が建設された。
導入した貨車、客車の数は210 柄、機関車の数は20 輔になる。
この間に、乗客数は4 倍に、貨物の輸送量は10 倍になった。
軽軌道の軽便鉄道も導入されたが、
その125 マイルを日本はわずか2~3 ヶ月で完成した。
更に、52 マイルの路面電車の敷設がこれから始まろうとしている。
郵便、電報、電話の導入もまた大成功だった。
1896 年から1902 年の聞に、全土に公衆用の郵便局が87 局開設されたが、
1902 年には13,285,105 通の手紙、葉書と114,779 個の小包を配送し、
336,207 件の内国郵便為替を発行した。
電信線は、1896 年の900 マイルから1902 年には2,600 マイルに伸びた。
電話線もI,359 マイル設置されたが、
1902 年にはその利用回数が3,690,228 回に達した。
日本の統治が始まるまで、
台湾の地場産業は極めて不満足な状態で経営されていた。
実り多い土地を科学的に耕作するにはどうしたらいいか無知で、
ひたすら神の恵みに頼るだけだった。
台湾の農民は、年に2 回、時には3 回米を収穫していたが、
その収穫が土地の使用料につり合っていないため、
農民の収入は話しにならないほど少なかった。
日本が採った殖産振興策の結果、
米の収穫は1896 年から1902 年の間に1 割増加、
お茶の収穫もこの間5 倍に増えた。
また、砂糖、薩摩芋、槻表、輔、黄麻、ウコン等
4つの生産も飛躍的に増大した。

【5】
広大な森林の資源もほとんど活用されていなかった。
資源の無駄使いぶりを示す例を挙げると、
例えば、樟脳油は地元の精製業者によって廃棄物として扱われ、
樟脳は樹木から抽出していた。
日本が導入した改善策の結果、樟脳の生産量は1897 年の
1,534,596 斤(訳者注:1 斤は600g)から
1903年には3,588,814 斤に着実に増加し、
樟脳油の生産高がこの間に638,603 斤から2,670,561 斤に増大した。
同じく鉱業も、極めてありきたりの場当たり的な
やり方で進められていたため、
最大の労力をかけても最小の成果しか得られなかった。
日本は辛抱強く繰り返し指導して、
すべての産業分野で改善策の導入に成功した。
農産物の収穫は向上し、森林が科学的に開発された。
数百万本もの樟脳の苗木が適地に植林された。
鉱業はこの数年間で著しい発展を遂げた。

銀行と通貨制度
台湾の通商、産業を発展させるには
金融機関と通貨制度の改善が必要だった。
そのために、中央銀行として「台湾銀行」を設立し、
主要都市に民間の銀行を開設した。
郵便貯蓄銀行も開設され、これも満足すべき成功を収めた。
預金者の数は、1896 年の5,847人から1902 年には41,145 人に増加し、
この間に預金額も228,487 円から763,575 円に伸びた。
台湾の通貨も改革しなければならなかった。
台湾では、以前から交換手段は支那(清朝)同様に
硬貨ではなく金銀の地金だった。
嵩張った銅の鋳造硬貨は、大事な商取引ではほとんど使い物にならなかった。
日本は、この時代遅れの通貨制度を最新の金融システムに変換した。
日本は台湾に惜しみなく資金を投入した。
黒砂糖、白糖、ガラス、紙などの生産工場を建設し、
有能な人材を大勢い管理者として送り込んだ。
台湾の統治政策で示した日本の善意と見識は必ず報われるだろう。
島が完全に平和を回復してほんの数年しか経っていない。
にも拘らず、この間に達成された経済成長には目を見張るものがある。
住民の福利の向上は、主として政府の公共事業、
阿片の専売、通関業務から生じる歳入増で賄われた。
1896 年には2,711,822 円だった税収が
1903 年には12,738,587 円に増加したという事実からこれを窺うことができる。
主として土地、家屋、商売などに課せられる税からなる地方の行政機関の歳入も、
1898年の747,850 円から1902 年には1,952,220 円に増加した。
4 年間でほぼ3 倍に伸びている。
過酷な徴税手段を一切用いずに、この見事な成果を収めたのである。
したがって、台湾の人口が資源開発と
足並みを揃えて急速に増加したのはごく当然だ。
1897年には2,455,357 人だった台湾の人口が、
1903 年には3,082,404 人に増加しているのである。

訳者:上木劭夫


〓〓〓参考〓〓〓

以下「日本統治時代の台湾」より引用
http://s02.megalodon.jp/2009-0503-1641-03/jiten.biglobe.ne.jp/j/16/ac/1e/07701d7eb56d96a293580e8f6298f54f.htm

日本の台湾統治時代の阿片対策

阿片対策
1895年に日本による台湾統治が開始されると当初阿片吸引は禁止された。
しかし阿片吸引人口が多く、急進的な禁止政策は社会不安を招くとし、
即時禁止政策を漸禁政策へと転換させた。
1897年1月21日、総督府により『台湾阿片令』が公布されると、
総督府は阿片を専売対象品目とし民間の販売を禁止し、
また習慣的な吸引者には一代限定の吸引免許を発行し、
新規免許の発行を行わないことで時間をかけた阿片撲滅を図った。
1900年の調査では阿片吸引者は169,064名(総人口の6.3%)であったものが、
1921年には45,832人(1.3%)とその政策の効果が現れている。
また財政的にも阿片専売による多額の歳入があり、
台湾経済の自立にも寄与する政策であった。

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日本のアヘン政策の時代背景
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-75.html

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「日本は私たちを忘れなかった」台湾の元少年工に勲章伝達
http://japan.cna.com.tw/search/201306170007.aspx?q=%E6%9D%8E%E9%9B%AA%E5%B3%B0

(台北 17日 中央社)
日本政府の今年春の叙勲で旭日小綬章を受章した台湾高座台日交流協会の
李雪峰理事長(86、左5)への伝達式が17日、
日本の出先機関である交流協会台北事務所であり、
樽井澄夫代表(大使に相当)から勲記と勲章が伝達された。
戦中に台湾少年工として日本の海軍工場で働いた李さんは
「日本は私たちを忘れなかった、とれも嬉しい」と挨拶し、
当時製造した戦闘機「雷電」をモチーフにしたネクタイで笑顔を見せた。

台湾高座会は、台湾の元少年工らの同窓組織。
第二次世界大戦末期の1943年、台湾から8000人以上の少年が工場要員として
“内地”入りし、神奈川県の高座海軍工場で訓練を受け、
各地で戦闘機の生産に従事した。
リーダーだった李雪峰さんは帰台後も日本との交流を願い、
結社が禁じられていた戦後の台湾で仲間たちと連絡を取り合い、
戒厳令解除翌年の1988年に高座会を立ち上げた。定期的に日本で大会を開き、
また日本各地の民間団体と交流し台日の友情を育んできた。

「日本統治下の台湾で厳しくも愛にあふれた教育を受けた、
日本人であることを誇りに思っていた」という李さんの自慢は、
有能な少年工として雷電の製造に奮闘した日々。
メンバーは高齢化し、設立当初は3000人を超えた会員数も
今では1000人以下になってしまったが、
この日、会場には20人以上の仲間がそろいのネクタイで駆けつけた。

空をイメージする上品な濃紺に、銀色の雷電が光るネクタイに話を向けると、
緊張気味だった李さんはようやく顔をほころばせ、日本語でこう語った。
「2000年に記念品として作りました。
雷電は私たちの誇りであり、最高の想い出。
何の約束もしていませんが、
今日はこのネクタイの日だとみな分かっているんです」。

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「日本統治下の台湾で厳しくも愛にあふれた教育を受けた、
日本人であることを誇りに思っていた」

日本で戦闘機造りに従事した台湾少年工、彰化で最後の同窓会
http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201311210007.aspx

(台北 21日 中央社)
日本統治時代に神奈川県高座など
日本各地の海軍工場で少年工として働いていた「台湾高座会」彰化分会の
メンバーが集まって20日、“最後の同窓会”を開き、
同会の活動に終止符が打たれることになった。
自由時報が21日付で伝えている。

太平洋戦争末期の1943(昭和18)年、
8000人余りの台湾の少年が日本の“内地”に渡り、
各地で戦闘機の生産に従事した。

今年はこの台湾少年工の派遣からちょうど70年目にあたるが、
これまで日本でも交流会や記念大会などを開いてきた元少年工の同窓組織、
「台湾高座会」はメンバーの高齢化が進んでいるが、
20日、台湾中部・彰化県出身の23人が集まり“最後の同窓会”が開かれた。

戦争末期に海軍工場で少年工として戦闘機「雷電」を造っていた蔡天開さんは
当時まだ14歳。台湾の家族のもとを離れたが、
日本の冬は思いもよらぬ厳しい寒さだった。
少年らはいつもひもじい思いをし、
また空襲に遭って危うく死にそうになったこともあるという。

1945(昭和20)年、終戦を迎え、台湾の少年工たちは
6艘の船に分乗して台湾に戻った。
戦後の台湾でも互いに連絡を取り合い、
戒厳令解除の翌年1988年に「台湾高座会」を結成した。
当時の会員数は3000人。

しかし、その後会員の高齢化が進んで93年には1400人、
現在は250人にまで減った。会設立当時1000人以上いた彰化県の出身者も
2001年には150人余り、今年は僅か33人となった。

今回で最後となった高座会彰化分会の“同窓会”では、
メンバーらが台湾語や流暢な日本語で互いに声をかけ合い別れを告げた。

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日本の台湾統治を絶賛するニューヨークタイムズ 1904/9/25

新台湾と日本

米国から見た日本の台湾統治~「知られざる台湾・台南市」より

日本と台湾は一心同体:Japanese and Taiwanese like each other


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