正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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日本人は昔から清潔だった!

『大君の都』 イギリス公使オールコック 安政6年 1859年 来日

一般に日本人は清潔な国民で、人目を恐れずに度々からだを洗い、
身につけているものはわずかで、風通しのよい家に住み、
その家は広くて風通しの良い街路に面し、そしてまたその街路には、
不快なものは荷物を置くことを許されない、
というふうにいうことをはばからない。
すべて清潔ということにかけては、日本人は他の東洋民族より
大いにまさっており、とくに中国人にはまさっている。
中国人の街路といえば、見る目と嗅ぐ鼻をもっている人ならだれでも、
悪寒を感じないわけにはゆかない。

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『江戸幕末滞在記』 フランス海軍士官スエンソン 慶応2年 1866年 来日

日本人の清潔好きはオランダ人よりはるかに発達していて、
これは家屋だけでなく、人物一般についてもいえるのである。
仕事が終わってから公衆浴場に行かないと一日が終わらない。
公衆浴場で何時間も湯を浴び、下着を洗っておしゃべりの要求も満足させる。
・・・
西洋人は一日中不潔なハンカチをポケットに入れて持ち歩く。
それが(日本人は)どうしてもわからぬというのである。

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『シュリーマン旅行記 清国・日本』 ハインリッヒ・シュリーマン

男性や女性も、服の袖の中にポケットがついていて、
そこにははなをかむための和紙[懐紙]を入れている。
彼らは、この動作をたいそう優雅に行なう。
彼らは、われわれが同じハンカチーフを何日も持ち歩いていることに、
ぞっとしている。

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『日本奥地紀行』 イザベラ・バード

貧民階級の衣類や母屋がどんなに汚くても、
料理の仕方とその料理を供するやり方は極端に清潔なのだ。

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◆魏志倭人伝(3世紀、約1800年前)

婦人淫いんせず、妬忌ときせず。盗窃とうせつせず、諍訟そうしょう少なし。

◆随書倭国伝(7世紀、約1400年前)

(日本)人はとても落ち着いており、争訟は稀で、盜賊も少なく、
百済・新羅は日本(倭)を尊敬して仰ぎ、使いを通わせていた

◆『1274年・文永の役』後、
総司令官・忻都が、元の世祖フビライに報告した記録『元韃攻日本敗北歌』

倭人は狠ましく死を懼れない。たとえ十人が百人に遇っても、
立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。

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日本を絶賛した世界の知識人達

日本では16世紀の戦国時代から庶民に対しての
「おふれ」が立て看板で掲示されていた。
当時来日した宣教師達が一様に驚いているのが、
日本人の教養と識字率の高さである。

また1543年(天文12年)に、
ポルトガル人宣教師が2挺の鉄砲を日本人に与えたところ、
40年後にはその鉄砲を遥かに凌ぐ高性能の物を量産する事に成功し、
1583年(天正11年)にポルトガル人が戻って来ると
既にヨーロッパの鉄砲の総数を越える数を所持していた。

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ルイス・フロイス 、ポルトガル人、宣教師、1563年(永禄6年)来日

日本製の鉄砲の性能と品質を世界最高と評した。

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フランシスコ・ザビエル 、スペイン人、宣教師 1549年(天文18年)に来日
(彼がスパイであった事は、現在当時の手紙から証明されている)

彼は日本人を、清貧で名誉を重んじ、
今まで出会った異教徒の中でもっとも優れた国民と評した。
欧州人の知る武器の全てを製造する事も、
扱う事もできるので軍事力で征服するには適さない、と本国に報告した。

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C・P・ツュンベリー(スウェーデン人 医師 植物学者 ) 1775年(安永4年)来日
「江戸参府随行記」より

地球上の民族のなかで日本人は第一級の民族に値し、
ヨーロッパ人にも劣らず。
その国民性は堅実で熱意に溢れ、
その他百を超す事柄に関し我々は驚嘆せざるを得ない。
政府は独裁的でもなくまた情実にも傾かず、飢餓と飢饉はほとんどない。
信じられない事ではあるがこれは事実なのである。

日本人の親切なことと善良なる気質についても驚くべきことで、
日本で商取引をしているヨーロッパ人の汚いやり方やその欺瞞に対しても、
侮り、憎悪を持たず信義を通す。国民は大変に寛容でしかも善良である。

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18世紀、識字率がロンドンで20%程度、パリが10%未満の時、
江戸が70%以上だったと言われている。
19世紀半ば欧米では識字率が世界最高と思われていたイギリスで
男性25%程度、女性ほぼ0%の時、
日本は男性40%、女性25%、
江戸においては武士100%、男性79%、女性21%だった。
明治になり福沢諭吉は「通俗国権論」で
幕末の日本の識字率は世界一であると誇っている。
考えてみれば世界最初の小説は日本の「源氏物語」1001年(長保3年)である。
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現在の東京は4万6千人の警察官によって守られているが、
江戸時代は70万人の町人に対して、
武士の町方同心という警察官と、町人の岡っ引きを含めて60人。
岡っ引きの下で情報を集める下っ引きを加えても300人だった。
それほど治安が良かったのである。
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マシュー・C・ペリー提督、アメリカ東インド艦隊司令長官。
1853年(嘉永6年)に来航

ペリー提督一行も、どの様に日本という国を
植民地化するかを分析する為の偵察隊であった訳であるが、
侍の高い戦闘能力を知り、また当時の日本に貸し本屋がいたる所にあり、
そして町民から百姓にいたるまで手紙による意思伝達が
広く普通に行われている事に驚き、
この国の植民地化が簡単にはいかない事を思い知った。

また、ペリーは当時日記に、
「この国の国民の勤勉さと器用さは尋常ではない、
将来工業製品で我が国をおびやかす存在となるであろう。」
と書き残している。

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タウンゼント・ハリス、初代米国総領事、1856年(安政3年)来日。

「日本滞在記」より

日本人は皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうで、
一見したところ、富者も貧者もない。
これが恐らく人民の本当の幸福というものだろう。

私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、
果たしてこの国の人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、
疑わしくなる。
私は他のどの国にも存在しない、質素と正直の黄金時代を日本に見い出した。

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ラザフォード・オールコック卿(イギリスの初代駐日公使)
1859年(安政6年)来日

日本征服戦略のために送り込まれた精鋭の一人で、
最後まで日本人を非白人の劣等民族と見下していたが、
清潔で手入れの行き届いた町並みに思わず意に反して
世界にはこれに匹敵する都はないと感嘆を吐露している。
日本人の器用さ、勤勉さ、生活態度も驚嘆に値する、
とスパイらしく事細かにそれらを本国に報告している。

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アレクサンダー・F・V・ヒューブナー(オーストリアの外交官)
1871年(明治4年)来日

「オーストリア外交官の明治維新」より

この国においては、ヨーロッパのいかなる国よりも、
芸術の享受・趣味が下層階級にまで行きわたっているのだ。
ヨーロッパ人にとっては、
芸術は金に余裕のある裕福な人々の特権にすぎない。
ところが日本では、芸術は万人の所有物なのだ。

「世界周遊記」より

他の国では、自己の仕事の削減と他人の仕事増は大歓迎。
しかし、これでは争いになるから、綿密な契約を作る。
しかしトラブルは絶えないだろう。

日本だけである。ニコニコ笑って自分の方が
きつく厳しい思いをあえて選択するのは。

どちらの精神の方が、戦争と平和という観点からも貴重であるか、
明白の事であろうと思う。

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バジル・ホール・チェンバレン、イギリス人(言語学者)
1873年(明治6年)に来日し、後に東京帝国大学の文学部教師を務めた。

彼は日本人のことを、逞しく健康的な国民で知的にも道徳的にも
ヨーロッパ人と比較して少しも劣ることなく、これほど技術の習得に優れ、
戦争に際しては騎士道的で人道的な国民は他になく、
日本の軍隊は規律正しく優秀で世界最強であると評した。
高い精神性を持つ日本文化を西洋化するのは間違いで、
欧米こそ日本に学ぶべきと説いた。

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エドワード・S・モース、1877年(明治10年)来日。
アメリカ人で東京帝国大学で生物学を講じた。

「日本その日その日1」より

外国人は日本に数カ月いた上で、徐々に次のようなことに気がつき始める。
即ち彼は日本人にすべてを教える気でいたのであるが、
驚くことには、また残念ながら、
自分の国で人道の名に於いて道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、
日本人は生まれながらに持っているらしいことである。

衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、
あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正さ、
他人の感情についての思いやり、これらは恵まれた階級の人々ばかりでなく、
この国では最も貧しい人々も持っている特質である。

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アーネスト・F・フェノロサ、アメリカ人、美術研究家。
1878年(明治11年)来日、東京大学で政治学や哲学を教えた。
美術行政にかかわり、東京美術学校創設などにも尽くした。
日本文化に傾倒し、日本人よりも日本美術を愛したと評される。

「中国および日本の特徴」より

日本のとるべき最上の道は、
日本が東洋的伝統の理念をしっかりと保持して行くことだと私は信じている。
この道こそ日本が人類に対して果たすべき重大なる任務であり、
日本こそこの聖火を守る最後の国である。

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イザベラ・バード、イギリス、女性旅行家。
1878年(明治11年)来日、日本各地を旅した。

「日本奥地紀行」より

ヨーロッパの多くの国々や我イギリスでも、
外国の服装をした女性の一人旅は、
無礼や侮辱の仕打ちにあったりお金をゆすりとられることがあるが、
ここでは私は一度も失礼な目にあったこともなければ、
過当な料金をとられた例もない。

群集にとり囲まれても失礼なことをされることはない。
馬子は私のことを絶えず気をつかい、
荷物は旅の終わりまで無事であるように細心の注意を払う。

私は日本の子どもたちがとても好きだ。
私は今まで赤ん坊の泣くのを聞いたことがなく、子どもがうるさかったり、
言うことをきかなかったりするのを見たことがない。

日本では孝行が何よりの美徳で、
何も文句を言わずに従うことが何世紀にもわたる習慣となっている。
英国の母親たちが子どもを脅したり手練手管を使って騙したりして、
いやいやながら服従させるような光景は日本には見られない。

庶民の振舞いに私は目を見張った。
美しかった、とても育ちがよく親切だった。
英国と何という違いだろう。
老人と目の見えぬ者へのいたわりは、旅の間とてもはっきりと目についた。
われわれの一番上品な振舞いだって、
優雅さと親切という点では彼らにはかなわない。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-211.html

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アリス・ベーコン、アメリカ人、女性教育者、1881年(明治14年)来日。
華族女学校(後の学習院女学校)の英語教師として活躍した。

「明治日本の女たち」より

日本が芸術や造形、色彩を愛する国として
欧米で知られているのは職人の功績である。
職人は忍耐強く、芸術家のような技術と創造力で、
個性豊かな品々を作り上げる。
買い手がつくから、賃金がもらえるから、
という理由で納得できないものを作ることは決してない。
日本人は貧しい人が使う安物でさえも、上品で美しく仕上げてしまう。
一方、アメリカの工場で労働者によって作り出されるあらゆる装飾は、
例外なくうんざりするほど下品である。
もちろん、日本の高価な芸術品は職人の
才能と丁寧な仕事をよく体現している。
しかし、私が感心したのはそのような高級品ではなく、
どこにでもある安い日用品であった。
貴族から人夫にいたるまで誰もが
自然の中にも日用品の中にも、美を見い出し大切にしている。

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エライザ・R・シッドモア、アメリカ人、紀行作家。
世界各地を回って日本に魅せられ、1884年(明治17年)以降6度も来日した。

ポトマック河畔の桜並木は、
シッドモア女史からタフト大統領のヘレン夫人への提案で実現したもの。
また、彼女は日露戦争時の日本のロシア人捕虜に対する人道的な扱いを
題材とした小説「ヘーグ条約(ハーグ陸戦条約)の命ずるままに」を著し、
アメリカでの対日理解に貢献した。
しかし、1924年(大正13年)アメリカ議会が通過した「排日移民制限法」
に憤って母国を捨てスイスに移住した。
1928年死亡、日本政府の計らいで遺骨は横浜の山手外人墓地に眠る。

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エドウィン・アーノルド、イギリス人、詩人、インドのデカン大学学長。
1889年(明治22年)来日、帰英後はデーリーテレグラフ紙の編集者

「ヤポニカ(Japonica)」より

この国以外世界のどこに、人生のつらいことも受け入れやすく
品のよいものたらしめようとする広汎な合意、
洗練された振舞いを万人に定着させ受け入れさせるみごとな訓令、
言葉と行いの粗野な衝動の普遍的な抑制、毎日の生活の絵のような美しさ、
生活を飾るものとしての自然への愛、美しい工芸品への心からの喜び、
楽しいことを楽しむ上での率直さ、子どもへのやさしさ、
両親と老人に対する尊重、洗練された趣味と習慣の普及、
異邦人に対する丁寧な態度、
自分も楽しみひとも楽しませようとする上での熱心、
この国以外のどこに、このようなものが存在するというのか。

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ヴェンセスラウ・D・モラエス、ポルトガル人、作家。
海軍で世界各国を訪れたあと1889年(明治22年)来日

日本に魅せられ自国籍を返上して日本に帰化、
1929年に亡くなるまで一度も故国を訪ねる事はなかった。
日露戦争で東洋をロシアから守った日本を軍国主義と批判する欧米に対して、
それなら植民地を持っている国家はすべて軍国主義であると反論した。

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ロシアから守られたのはアジアだけではなかった、
日露戦争のおかげでロシアの支配体制から抜け出ることができた
トルコ、ポーランド、フィンランド、スェーデン、ポルトガル等の
北欧、東欧諸国はその影響で今でも親日の国が多い。

フィンランドには、1992年(平成4年)まで、
世界各国の提督の肖像をラベルにしたアミラーリ(提督)ビールがあり、
日本は東郷提督になっていた。

1890年(明治23年)に来航したトルコのエルトゥールル号の遭難者を
日本人が救助した際、その事後措置を手厚く行った事が
トルコでは、何と現在でも語り継がれている。
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「日本の国民性は偉大」 122年前の遭難事故救助にトルコ人が感謝

産経ニュース 2012.10.26 10:05
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121026/wlf12102610100005-n1.htm

トルコ・アクデニズ大のイスラフィル・クルトジェフェ学長(54)らが
25日、和歌山県串本町を訪れ、122年前の遭難事故で580人以上の
乗組員が犠牲となったオスマントルコの軍艦
「エルトゥールル号」の慰霊碑に献花した。

■クルトジェフェ学長「2つの国、ずっと家族だ」

アクデニズ大の関係者は、学術提携している千葉大との
交流のため21日に来日。
オスマン史の研究を専門にしているクルトジェフェ学長が、
遭難事故で地元住民が献身的な救助活動をした同町を
訪問したいと希望したという。

一行はクルトジェフェ学長夫妻や大学関係者ら7人。
慰霊碑に献花し、遭難事故の犠牲者に祈りをささげた。
このあと、住民が乗組員を救助したことを伝える
町立トルコ記念館などを見学した。

クルトジェフェ学長は「私たちの国の祖先を救助した日本の国民性は偉大だ。
日本とトルコの間には家族のような関係が築かれている。
この場に来て大変感動している」と話した。

エルトゥールル号遭難事故の慰霊碑に祈りをささげるアクデニズ大の関係者。
和歌山串本町
エルトゥールル号遭難事故の慰霊碑に祈りをささげるアクデニズ大の関係者=和歌山串本町
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小泉八雲(P・ラフカディオ・ハーン)、アイルランド人、新聞記者、小説家
1890年(明治23年)に来日して、その後日本に帰化した。

「知られざる日本の面影(日本瞥見記)」より

将来まさに来ようとしている変革が、
この国の道義上の衰退をまねくことは避けがたいように思われる。
西欧諸国を相手にして、産業の上で大きな競争をしなければ
ならないということになれば、
結局日本はあらゆる悪徳を自然に育成していかなければなるまい。
昔の日本が、今よりもどんなに輝かしいどんなに美しい世界に見えたかを、
日本は思い出すであろう。
古風な忍耐と自己犠牲、むかしの礼節、古い信仰のもつ深い人間的な詩情。
日本はこれから多くのものを見て驚くだろうが、
同時に残念に思うことも多かろう。

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ハーバート・G・ポンティング、イギリス人、写真家。
1901年(明治34年)来日、日露戦争にも従軍。

「英国人写真家の見た明治日本」より

日本兵はロシア兵捕虜のところへ駆け寄り、
煙草や持っていたあらゆる食物を惜しみなく分かち与えた。

一方ロシア兵は親切な敵兵の手を固く握り締め、
その頬にキスしようとする者さえいた。
私が今日まで目撃した中でも、最も人間味溢れた感動的な場面であった。

松山ではロシア兵たちは優しい日本の看護婦に限りない賞賛を捧げた。
何人かの勇士は病床を離れるまでに、彼を倒した弾丸よりもずっと深く、
恋の矢が彼の胸に突き刺さっていたのである。

ロシア兵は過去のすべての歴史において、
これほど親切で寛大な敵に巡り合ったことは一度もなかったであろう。
それと同時に、どこの国の婦人でも、日本の婦人ほど気高く
優しい役割を演じたことはなかったのではあるまいか。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-373.html
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日露戦争で捕虜にした6,106名のロシア人が自分の名前さえ書くことが
できない者が半分以上いたので、あまりに気の毒だということで、
日本各地のロシア人捕虜収容所ではロシア語の読み書き教育が行われた。
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アルジャーノン・B・F・ミットフォード、英国公使館の書記官。
1866年(慶応2年)来日。
1906年(明治39年)にガーター勲章使節団として33年ぶりに3度目の来日。
その時の「ミットフォード日本日記」より

東郷提督、黒木大将らの謙遜と自制心は
まさに人々の心をとらえるものがあった。
両者ともに誇らしげな様子は全く見られなかった。

私が強調しておきたいのは、私の日本滞在中に
いろいろな種類の多くの日本人と話をしたが、
さきの日露戦争の輝かしい勝利を自慢するかのような発言を
一度も耳にしなかったことである。

戦争に導かれた状況と戦争そのものおよびその結果について、
全く自慢をせずに落ち着いて冷静に話をするのが
日本の人々の目立った特徴であり、
それは全世界の人々の模範となるものであった。

このような謙譲の精神をもって
かかる偉大な勝利が受け入れられたことはいまだにその例を見ない。

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ロマノ・ヴルピッタ、イタリア人、ローマ大学法学部卒。
東京大学に留学、駐日イタリア大使館一等書記官、
ナポリ東洋大学大学院現代日本文学担当教授、
1975年(昭和50年)欧州共同体委員会駐日代表部次席代表、
後に京都産業大学経営学部教授。

1910年(明治43年)に起きた第六号潜水艇の海水侵入事故について。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-196.html
引き揚げられた潜水艇の中で、乗組員皆が取り乱すことなく自分の役目を
最後の最後まで果たしながら亡くなっていた。
これは世界の驚きだったわけですが
(注:当時、外国の海軍に同様の事故があり、
乗組員の醜態が世間に知られていたから)、
大事なことは彼らが別に英雄を目指したわけでも何でもないということです。
そこに、日本人の根本的な美しさがある。日本は何を外国に発信すべきか。
私はそうした能動的な姿勢がことさら必要とは思わない。
当たり前のこと、つまり日本人として本質を追求して
立派な日本人として当たり前に振る舞う。
それでいいのだと思うのです。それが世界のモデルになる。

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この第六号潜水艇の事故についての当時1910年の「英紙、グローブ」の記事

「この事件は、日本人は体力的に勇敢であるだけでなく、
精神的にも勇敢であることを証明している。
このような事は世界に類を見ない。」

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また、潜水艇と言えば、1942年(昭和17年)5月31日、
オーストラリアのシドニー湾に停泊中の米軍大型艦船6隻からなる艦隊に
小さな特殊潜航艇3隻に依る奇襲攻撃が敢行された。
3隻とも自爆あるいは沈没をしたのだが、
彼らの勇気と愛国心に感銘を受けた。
当時のオーストラリア海軍シドニー要港司令官、
ムーアヘッド・グルード少尉は、
我が国にこれらの勇士の千分の一の覚悟でも持てる人が何人いるだろうか、
と自国の船1隻と19名の海軍兵を失う被害にあったにも関わらず
(まして白豪主義のかの国で)、周りの反対を押し切り、
自決した敵国の松尾敬宇大尉ら4名の遺体を引き上げ棺を日本国旗で包んで、
スイス総領事らも参列し最高位の海軍葬で丁重に弔った。
この模様は、ラジオで放送され、オーストラリア全土で感動を呼んだという。
そして、4名の遺骨は戦時交換船を通して日本に送り届けられた。
この時の特殊潜航艇は、後の回天とは違い特攻用に設計された物では
なかったが、この任務の内容は、生還することが不可能なものであった。
松尾大尉は自ら志願し、遺書を遺して出撃した。
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ラビンドラナート・タゴール、インド人、詩人、1916年(大正5年)来日

日本が日露戦争に勝利した時、ベンガル語で短歌を詠んで日本を称えた。
後日来日して、日本文化の精神性の高さに感動し「日本紀行」を著した。

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ポール・リシャール博士、フランス人、法律家。
東洋の精神文化を求めてアジアを目指し、
1916年(大正5年)最初数ヶ月の予定で来日したが日本に魅せられ4年間滞在。

分裂し相争う世界を統合する事は日本にしかできないと主張。
1919年(大正7年)、パリの講和会議で日本が「人種差別撤廃案」を
提出した際も列国の要人に働きかけ協力をし、
結果11対5で圧倒的多数決を得た。
しかし議長のアメリカ大統領ウィルソンが平然と、
全員一致ではなかったからと屁理屈をこねて否決を宣言。
国際連盟議会のルールであった多数決に従う事を拒否した。
彼は日本人に、植民地政策を転換しない欧米にもう期待する事をやめて、
自分たちの力で「アジア連盟」を作る事を進言した。

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コリン・ロス、ドイツ人、新聞社の海外特派員、1939年(昭和14年)来日

「日中戦争見聞記、1939年のアジア」より

わたしたちの大型車メルセデスは、
日本の狭い道路にとってあまりにも長大で重すぎた。
しかし、車が町角の家にぶつかったり、
耕作したばかりの畑に深い車輪のあとをつけても、
人々は決して立腹した様子は見せなかった。
車が故障で動かなくなったときは、
いつもただちにいかにも当然であるかのように、援助の手が差しのべられた。
その際謝礼を出そうとすると、
彼らはまるで侮辱されたかのように驚きの表情をあらわにして拒否した。
日本人は、全世界でもっとも友好的で上品だ。
地球上で日本人に匹敵できるほど、親切で礼儀正しい国民はないであろう。

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デール・カーネギー、アメリカ人、実業家、作家。
(鉄鋼王のカーネギーとは無関係)、1953年(昭和28年)来日。

人間関係を良好にする秘訣を説いた「人を動かす」は
世界で1500万部以上を売り上げ、聖書に次ぐ世紀のベストセラーとなった。
来日して、「日本人は、私が生涯かけて発見した人間関係の法則を、
既に何百年も前から実践していた」と驚嘆した。

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アーノルド・J・トインビー、イギリス人、歴史学者、1929年(昭和4年)来日

「英紙、オブザーバー」1956年(昭和31年)10月28日より

第2次大戦において日本人は日本の為というよりも、むしろ戦争によって
利益を得た国々の為に偉大なる歴史を残したといわねばならない。
その国々とは日本の掲げた短命な
理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。
日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、
アジアとアフリカを支配してきた西洋人が過去200年の間に
考えられていたような不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。

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アイヴァン・モリス、イギリス人、翻訳家、日本文学研究者。
(ロンドン大学で「源氏物語」の研究をし称賛、大岡昇平、三島由紀夫などの
翻訳を通し日本文化の紹介に努めた。)

特攻という非合理な攻撃への志願は自発的ではなく脅迫、あるいは
洗脳によってなされたに違いないという欧米人の考え方に疑問を持ち、
日本人の歴史を丹念にたどり、ひとりひとりの若い特攻隊員にとっては、
それが病的な狂信や暗愚とはほど遠い、
日本人の古来からの美意識や気性にもとづくものであり、
ひたむきな誠実さ、高貴なる精神の発露であったと語っている。

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ベルナール・ミロー、フランス人、ジャーナリスト。
特攻を深く掘り下げて研究をした。

「神風(KAMIKAZE)」より

本書の目的は、皮相的な見方から一歩踏みこんで西欧から見た神風に、
新たな脚光を浴びせることであった。
また著者の意図したところは、
この日本の自殺攻撃が集団的発狂の興奮の結果などでは断じてなく、
国家的心理の論理的延長が到達した点であらわれた現象であり、
戦局の重圧がそれをもたらしたものであることを明らかにすることにあった。

このことを、我々西欧人は笑ったり、哀れんだりしていいものであろうか。
むしろそれは偉大な純粋性の発露ではなかろうか。
日本国民はそれをあえて実行したことによって、人生の真の意義、
その重大な意義を人間の偉大さに帰納することのできた。
世界で最後の国民となったと著者は考える。

たしかに我々西欧人は、
戦術的自殺行動などという観念を容認することができない。
しかしまた、日本のこれら特攻志願者の人間に、
無感動のままでいることも到底できないのである。

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アンドレ・マルロー、フランスの作家、冒険家、政治家。
(第二次世界大戦中はドイツへの抵抗運動に身を投じた。
戦後はド・ゴール政権下で情報相や文化相を務めた。)

日本は戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。
世界のどんな国も真似のできない特別特攻隊である。

スターリン主義者たちにせよナチ党員たちにせよ、
結局は権力を手に入れるための行動であった。
日本の特別特攻隊員たちはファナティックだったろうか、断じて違う。
彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった、
祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。
代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、
逆上と紙一重のファナティズムとは根本的に異質である。
人間はいつでも偉大さへの志向を失ってはならないのだ。

フランス人のなかには、なぜ若い命をと疑問を抱く者もいる。
そういう人たちに、私はいつも言ってやる。
「母や姉や妻の生命が危険にさらされるとき、
自分が殺られると承知で暴漢に立ち向かうのが息子の、弟の、夫の道である。
愛する者が殺められるのをだまって見過ごせるものだろうか?」と。

私は、祖国と家族を想う一念から、恐怖も生への執着もすべてを乗り越えて、
潔く敵艦に体当たりをした特別特攻隊員の精神と行為のなかに、
男の崇高な美学を見るのである。

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世界の偉人たちの驚き日本発見記


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