正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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3/7 シナ大陸の真相

『 シナ大陸の真相―1931-1938 』 カール カワカミ著

この著書が『シナにおける日本』(Japan in China)という原タイトルで、
ロンドンの書店から英文で出版されたのは1938年3月のことである。
とき、あたかもヨーロッパ大戦の始まる前年であり、
さらにまた日本が世界中から非難を浴びた支那事変の泥沼に
足を踏み入れてから一年目にあたり、まさに世界が迫り来る嵐の予感に
脅えながら、不安と緊張の暗雲に包まれ始めていた時期であった。

このような時期において著者のK・カール・カワカミ氏は、
世界大戦の破局を回避すべく、日本の置かれた立場を世界に訴えるために、
この本を書いたものと思われる。

日本が支那においてとっている行動は決して
侵略と破壊を目的としたものではなく、
東亜の秩序を確立し混乱を収束するためのものなのだ。
日本は国際法にしたがって忠実に行動しているだけであり、
欧米列強と事をかまえる意図など少しも無い…。
支那事変前夜の大陸の政治的実情と国際社会の視線を冷静に公平に
且つ鋭く見据えていた著者の観察は、日本の正義を主張してやまない。

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1938年2月 前駐日イギリス大使 ジョン・タイリー

この本は、英国の読者が現在の日本の置かれた立場及びその考え方を
理解するのに、大変役に立つだろう。
それらをカワカミ氏は実に明快に説明している。
我々がそのような見解を最終的に受け入れるかどうかは別として、
少なくとも我々がこの本の趣旨を理解し、
その底に流れている誠実さを評価することは極めて大切である。
カワカミ氏の適切な導きのおかげで、
我々は容易にそれをなすことができるだろう。

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P139-149

1937年7月7日夕方、
約150人の日本兵はマルコ・ポーロ橋の近くの
いつもの練兵場でいつも通りの演習を行っていた。
いつものように中国側は日本側から前もって連絡を受けていた。
日本兵は実弾を携行していなかった。いつも通り彼らは空砲を撃った。

ところが全く予期せぬことに同日夜11時40分、
これらの日本兵は29路軍第37師団の中国軍部隊によって銃撃された。
彼らはマルコ・ポーロ橋の方角から撃ってきた。

この日中間に生じた戦闘の最初の局面に詳細に立ち入る前に我々は、
北京・天津地域に軍隊を駐留させている国は日本だけではない、
ということに留意せねばならぬ。
日本軍派遣部隊が中国軍に銃撃された当時、
この地域の諸外国の守備隊の内訳は次の通りである。

日本兵 4080名

アメリカ兵 1227名

イギリス兵 999名

フランス兵 1839名

イタリア兵 384名

(略)

ここでマルコ・ポーロ橋事件に話題を戻すと、
150人の日本軍は7月7日の夜、中国軍に銃撃された時、
実弾を携行していなかったので反撃できなかった、
彼らは演習を中止し、
少し退却して、約2マイルほど離れた場所にある豊台の
かつて英軍兵営だった場所にある日本軍本部に通報した。
深夜0時を少し過ぎた頃に援軍部隊が到着した。
それから中国軍の銃撃に対する日本軍の応戦が始まった。

そうしている間に北京の中国軍と日本軍の地方当局は
この事件の報告を受けた。
直ちに彼らは日中共同の調査団を結成し、現地へ派遣した。
その結果、7月8日午前6時に戦闘は止んだ。

しかし当日午後3時及び午後6時に、
中国軍は日本軍に銃撃を浴びせてきた。

翌朝7月9日、中国29路軍の代表と
日本軍松井大佐との間に休戦協定が結ばれた。

7月10日午後5時から午後8時の間に、
200人以上の中国兵が迫撃砲を使用して新たな攻撃を開始。
これは休戦協定を完全に無視したものであった。

日本軍は当然のことながら応戦した。
しかしながらまた休戦協定が結ばれた。
というのは日本軍はこの事件を地域的なものに限定して、
一刻も早く清算したいと熱望していたのである。

7月11日に日本政府は現地の日本軍に指令を送り、
早期解決を図るべく努力を傾注するよう促した。

同日午後4時、日本側の松井大佐と中国側の張自忠(天津市長)及び
殷雲(河北省の公安長官)との間で協定が結ばれた。
その協定の条文は次の通りである。

(略)

7月13日、第29路軍の司令官であり
河北・チャハル政治会議(事件を処理する十分な力がある)議長
である宋哲元将軍は天津へ赴き、
日本軍守備隊司令官の葛城陸軍中将と交渉を始めた。

将軍は前記の条項を事実上受け入れ、
7月18日盧溝橋事件について遺憾の意を表明し、
事件収束の方向に向けてスタートした。

ところが南京政府は、この事件を交渉によってではなく
武力によって解決する決定を下した。
盧溝橋に最初の銃声が響き渡るやいなや、南京は動員を開始。
7月9日、南京政府は4個師団と戦闘機を北部へ派遣。
これらは勿論、もう既に北支に大量に存在していた中国軍に
追加されたものである。

7月19日までに30個師団(約20万人)もの中国軍が北支に集結。
このうち約8万人が北京周辺に展開。同日南京政府は、
この事件に関する地域レベルでの決着は一切認めないし、
東京は直接南京と交渉しなければならない、
ときっぱり日本に通告した。

これは、河北・チャハル政治会議議長と
日本軍守備隊司令官との間で結ばれた協定を
南京政府が拒否するつもりであることを意味する。

(略)

この間ずっと南京政府は、
このような地域レベルでの解決に対して異議を唱えたことは一度も無い。
ところが今や中国の軍事指導者は、
日本と戦場で対決する準備が整ったのでその結果、
地域レベルで平和的に解決しようという日本の申し出を
きっぱり拒否できるようになった、と明らかに確信してしまった。

(略)

7月23日までに蒋介石自身が率いる師団が河北省に入った。
これは1935年の協定への違反であり、
この協定によれば南京政府は河北省に1兵足りとも進駐させない、
と自ら誓ったのである。

(略)

7月20日、宋哲元の誓約にもかかわらず、
第37師団の部隊は盧溝橋付近で再び日本軍に対する攻撃を再開した。

宋哲元将軍は、7月21日正午までに第37師団の撤退を行う、
と日本軍司令官葛城将軍に再び保証した。

同日午前11時蒋介石は会議を開き、
日本に対して戦争の手段に訴えることを公式に採択した。

7月23日、蒋介石の右腕といわれる南京副幕僚長孫浜将軍は
飛行機で北京と保定(河北省の省都。北京南方90マイル)に赴き、
その地域の軍隊に日本軍と戦うよう勧告し、金・人・武器の面で
南京政府からの寛大な援助を彼らに約束した。

このようにして、第37師団を撤退させるという宋哲元の
度重なる誓約にもかかわらず、
この軍隊は日本軍と対峙している同じ場所に事実上留まりつづけた。

それにもかかわらず7月25日、
葛城司令官はこの事件が平和的に解決されるだろうという意見を表明。
彼がこのような楽観的な意見を述べているときでさえも、
中国軍は北京・天津間を結ぶ日本軍の電話線を切断したりした。
この両都市の丁度真中の廊坊で電話線が切断されているのが発見された。

7月25日午後4時20分、歩兵1個中隊に
護衛された日本軍工兵隊が廊坊に赴いたが、
これは同地域を支配していた第38師団司令官の
張治中将軍の明確な了解を得た上でのことである。

同日午後11時までに修復工事は完了し、
日本軍の技師と兵士は鉄道の駅で遅い夕食を食べていた。
その時突然、中国軍が攻撃してきた。
彼らはライフル、手榴弾、機関銃、そして迫撃砲をも使用していた。

日本軍は夜陰に紛れて、圧倒的多数の敵前で陣地を固守した。
たった今修理したばかりの野外電話線を使い、天津の日本軍部隊に通報した。

廊坊は天津から約40マイルの地点にあり、
包囲攻撃された部隊が差し迫った全滅の危機に
曝されているまさにこの瞬間に、
通常の手段で救援軍を現地に派遣するには余りにも遠すぎて不可能である。
そういうわけで翌日(7月26日)午前7時、
数機の日本軍戦闘機が廊坊に到着し、中国軍陣地を爆撃し日本軍を救った。

ことここに至ってようやく葛城司令官も、中国軍の司令官は信頼できない、
という結論を認めざるを得なかった。
その結果、葛城司令官は宋哲元に最後通告となる覚書を送った。

(略)

中国軍がこれらの条項に応じなかったのは言うまでも無い。
そういうわけで7月28日、日本軍は中国軍前線に向けて進撃を開始した。

7月27日、
日本政府は平和的解決の望みを捨てて中国への援軍派遣を決定した。
日付に注意して欲しい。
本国の軍隊を紛争地へ派遣する命令を出すまでに
3週間が経過しているのに対して、
南京政府は7月9日の段階で動員令を出しているのだ。
20日間もの間、日本は何とかしてこの軍事衝突を最小限に抑え、
地域的な紛争に限定し、平和的解決を図ろうと必死の努力をしたのである。
だが中国は戦争を熱望していたのである。

(略)

7月29日、29路軍の3千人以上の兵士が北京の北の通州で、
日本の民間人200人を虐殺した。

同日の殆ど同時刻に29路軍の兵士が
天津の日本租界区域に攻撃を仕掛けてきた。
そこには1万人以上の日本の民間人が居住していた。

P152-160

第8章 上海、その問題点

(一部抜粋・ダイジェスト)

1、反日暴力の嵐

前章で次の諸点が明らかになった。

1、日本は北支で戦争することも望んでいなかったし、
  予期もしていなかった。

2、中国軍の引き起こした盧溝橋事件に続く3週間の間、
  日本側は4度休戦協定を結んだが、中国軍は悉くこの休戦協定を破った。

3、この3週間の間、日本は動員令を出すことを控えたが、
  南京政府は即座に動員令を出した。

4、この3週間の間に25万人の中国軍が北支に集結したが、
  日本はこの事件を平和的な交渉を通じて解決しようと必死の努力をした。

5、平和を求める日本側の努力に対して、
  中国軍は通州で200人の日本の民間人を虐殺し、
  1万人の日本人が住んでいる天津日本租界区へ攻撃を仕掛けてきた。

上海で日本人が平和を熱望する気持ちには、
北京におけるよりももっと切実なものさえあった。
北支の状況が余りにも深刻な事態になっている中で、
兵力を分散しないほうが日本にとって有利であることは明らかであった。
しかしここ上海においても北支と同様に
中国は「事件」の発生をそそのかした。

2、大山大尉の殺害

1937年8月9日の事件を中国側が発生させたのは、
まさにこのような緊張した雰囲気の中においてであった。

その日の夕方6時ごろ、
大山海軍中尉と彼の運転手が国際疎開の延長にある通りを車で走行中、
所謂平和維持部隊と呼ばれている多数の
中国人兵士が突然襲い掛かってきた。

大山中尉は30発以上の弾丸を喰らい蜂の巣にされて即死。
運転手は重傷を負い、その後間もなく死亡。
大山中尉と運転手は国際租界にある日本海軍の本部に所属していた。

日本と中国の当局による共同の公式調査の結果、
この事件は血も凍るような最も残忍な殺人であることが判明した。
大山中尉の死体は切断され原形を留めていなかった。
その死体は無数の弾丸が撃ち込まれていたばかりでなく、
銃剣による切り傷で覆い尽くされていた。
中尉は車外に引きずり出され、ライフルの銃床で殴打され、
頭骸骨は2つに割られていた。

顔はぐしゃぐしゃに潰されて判別不可能な程である。
腹部はさらけ出され、胸部には大きな穴が開いていた。
所持品は全部奪われていた。

事件のあった通りは国際租界の管轄権下にあり、
全ての外国人の住居や通路に通じている。
この2人の日本人が襲われなければならない理由は何一つ無い。
大山中尉や運転手は何の武器も携行していない。
にもかかわらず彼らは最も残忍なやり方で殺害された。

3、中国軍の前進

1937年8月12日未明、
中国軍大本営の正規軍大部隊が上海まで前進し、
国際租界の日本人居住区域に包囲攻撃を仕掛けてきた。
事態は突然このように極めて不安定なものになった。

日本側は平和的な解決がもたらされるという期待をまだ捨てずに、
上海休戦協定に参加している列強諸国の合同委員会会議を招集し、
中国軍の撤退を再び要求した。

列強諸国の代表は日本の誠意を認め、中国側に再考を促した。
しかし中国は聞く耳を持たず、8月13日未明、
中国軍が海軍陸戦隊への攻撃を開始した。

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2009/10/31 09:00|年表リンク用資料
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