正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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5/6 暗黒大陸

『暗黒大陸中国の真実』 1933年
アメリカの元上海・福州副領事 ラルフ・タウンゼント著

満州事変の背景

満洲の推定人口は1900年、約5百万であった。
それが1931年になると約3千万に増えた。
5倍以上も増えたことになる。理由はさまざまである。

例えば、満州産の大豆に世界の需要が集まったこともあろう。
今世紀初頭、日露両国が鉄道を敷設したので発展したということもあろう。
以前は中国人の満州移住は制限されていたが、
政権が変わって移住制限が緩和されたことも一因である。
清王朝は満州人が築いた王朝であったが、
満州を政治的に中国とは切り離し、私有地扱いにしていた。
3百年前、満州族は生まれ故郷を捨て、
暖かい南の地に大挙して渡って来た。

それから中国人が満洲の地に足を踏み入れることを禁じたので
人口が減少した。
ところが1907年、ロシアの南下政策を阻止するため、
移民を盛んに奨励した。
と同時に政策を転換し、満州を中国の一部と扱うようになった。

辛亥革命が起こると中国全土がますます混乱し、満州にも火の粉が飛んだ。
日本も対岸の火事では済まされなくなった。
満鉄と周辺の権益を保護するため、
兵力を増強せざるを得なくなったのである。

混乱に乗じて満州に張作霖が現れ、中国政府に逆らい、満州を支配した。
張は中国兵を放逐するため、
中国人とは思えないほどの強力な兵力を整え始めた。

1923年には何と5億ドル(中国の通貨であるが)もかけ、
兵器工場を奉天に完成させた。
デンマーク人の建築家を、後にはドイツ人、フランス人、
イギリス人も雇い、日本人の軍事顧問まで雇っている。
中国では5億ドルといえば途方もない額である。

これだけかけた兵器工場はまさに脅威である。
1924年から27年には常時2万人が働いていた。
ほんの2年前の1931年、約千人の外国人を招聘し
指導に当たらせている。

この兵器工場の生産能力には舌を巻く。
砲弾は日産4千5百発、弾薬は日産4万発、大砲月産12問、
と日本ははじいている。
工場の規模、従業員数から考えて法螺とも思えない話である
(今日ではこれほどではないにしても大規模兵器工場が中国各地にある)。
加えて20万とも30万とも言われる私兵を蓄えていたのである。

1928年、張作霖が暗殺され、
遺産は無能な放蕩息子の張学良に転がり込んだ。父の張作霖は慎重だった。
日本に好意を持っていたわけではないが、
かといって公然と敵対行為に出ることはなかった。

日本人を脅かすこともあったが、
政情定まらぬ国では普通にありえる程度のことで、
日本が行動するほどのことではなかった。

張学良が後を継いでからは事態が一変した。
南京を拠点とする風見鶏の蒋介石と同盟を結び、中国の地に乗り出し、
政治に手を出し、汪兆銘の「中央政府」を追い落とした。

北京を乗っ取り、取れるだけ税をとった。
南京中国中央政府に「手の者」を多数忍び込ませた。
それから「外務協会」と「北東文化協会」という反日プロパガンダ組織
をつくり、盛んに活動を開始した。

部下は新政策の一環として日本に次々と要求を突きつけた。
大連と旅順の返還を迫り、条約を無視し、税金を取り立てようとした。

たとえ父の張作霖の腹心の部下であっても、
反日政策に乗らない者を容赦なく追放し、暗殺した。
日本に留学したというだけで追放し、虐殺した。
父張作霖の子飼いの部下2人を麻雀に誘い、殺した。

満州全土で日本人襲撃事件が多発した。
張学良の狙いが何なのかはわからない。

ただ、中国と関わりを持ったことで、
1927年に政権を取った国民党の排外政策に
同調したことだけは確かである。

しかしこれが仇となり、権力を奪われ、
満州を追われる身となったのである。
歴史に「もし」はないが、もし、初めから負けるとわかっている戦を
仕掛けないで、父と同じようにしていたら、満州に残れたかもしれない。
そして満州は「満州国」にされずに満洲のままでおれたかもしれない。

(P252~253)

日本の大陸政策の背景
 (略)
こういう中国的考え方を頭に入れた上で、日本を見なければならない。
日本は日清戦争に勝利したが、
「国際道義上、他国の領土を分捕ることは許されない」との列強の干渉で、
多くの権益を奪われた。

確かに、それまでは勝者が領土なり何なり切り取り放題であったが、
時代は変わった。
倫理・道義というものが大切になったのだ。引き下がるしかない。

しかし取り上げられたものがそのままロシアのものになったから
怒りが爆発した。
それだけではない。ロシアに対しては、
あの高尚な国際道義なるものの一言も言われなかったのである。
臥薪嘗胆、黙って見ているしかなかった。
ロシア人がにっこり笑って持っていくのを。
日本人が血を流して勝ち得たものを。

さすがの日本人も怒髪天を衝く。
通常の小競り合いの後、日露戦争が始まった。
アメリカでは日本支持派が大勢を占めた。
数ヶ月でロシアを一蹴した日本は「下関条約で確定した権利を奪取」すべく、
万全を期して和平交渉に臨んだ。

しかし、しかしである。
列強はまたもやあの高尚な「国際道義の歌」を合唱した。
歌詞は同じだが、題名が「国際親善の歌」と変わっていた。
日本の要求は国際親善上認められないという歌である。

しかしこれまた不思議なことに、
1905年、ニューハンプシャー州のポーツマスで行われた講和会議に
出席した日本の全権大使は、さしたる不満も漏らさず、
黙ってこの歌を聴いたのである。

しかしさすがに、日本国内では日比谷焼打事件等の暴動が起こった。
帰国した全権大使の身の安全を図って厳重な警備体制を
敷かねばならないという事態にまで進展した。
それほど国民の怒りは大きかったのである。

二十一ヵ条要求の背景

世界中が戦争に巻き込まれていた1915年、
日本はこれを好機と捉え失地回復を図った。
二十一ヵ条からなる文書を認め、中国代表団に提示した。
いわゆる「二十一ヵ条要求」である。

確かに「要求」といわれれば「要求」かもしれない。
全容は明らかにされなかったが、日本が最も力を入れたのは、
1923年に期限切れとなる鉄道の租借期限の延長であった。

これを知ったアメリカがまず日本非難に回り、
列強も同調したので要求を幾分和らげることとなった。
これは交渉に当たった日本の外交官からじかに聞いた話であるが、
内容が公になるずっと前に、中国代表団は内容に満足し、
調印に同意していたそうである。

ところが、中国側はこう持ち出してきた。
「内容はこれで満足だが『要求』ということにしてくれまいか。
そうした方が見栄えがする。
やむなく調印したのだという風にしたいのだが」と。

これを受けて日本側は「その方が良いならそういたしましょう」と言って、
高圧的な態度に出るふりをした。
それで中国人は不承不承、署名をするという風にしたのである。
裏でかなりの金が動いたであろう。
中国との交渉事は金次第とみてきたからである。

ところが今回は計算違いだった。
「日本に脅迫されやむなく調印した」という体裁にしたのは、
中国の国内の中国人に納得してもらうためであった。
ところがアメリカがこれに噛み付いた。
「哀れな中国に、過酷な要求を突きつけるとは許せん」とばかり、
同情が湧き上った。
(P256~258)

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