●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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在りし日の第六潜水艇
![]() 第六潜水艇事故 1910年(明治43年)4月15日、 広島湾沖で潜水訓練中の潜水艦が遭難する事故が起きた。 海水が潜水艦の内部に入り込み、 後ろに大きく傾いて海底に沈んでしまった。 艇長の佐久間勉と乗組員13名は、艇を浮上させようと 排水などの手段を尽くしたが浮上できなかった。 やがて有毒ガスのため、乗組員全員が窒息死するという事故であった。 数日後、佐久間艇は引き上げられた。 潜水艇の遭難事故はヨーロッパでも度々起きていて、 引き揚げられた艇の扉を開けると、 扉近くで多くの乗組員の遺体が群がり、 乱闘のあとがうかがえることも多かった。 しかし、第六潜水艇はハッチを開けると、 艦長の佐久間大尉は司令塔で指揮を取るままに息絶え、 舵取はハンドルを握ったまま、各々自分の持ち場を離れずに絶命していて、 取り乱した様子が無かったというのだ。 さらに、佐久間艇長は苦しい息の中で遺書まで書き残していた。 その遺書には、部下を死なせてしまったことを謝り、 部下が最後まで沈着に任務を尽くしたこと。 また、この事故が将来、潜水艇の発展の妨げにならないこと、 さらに沈没の原因とその後の処置について書き、 最後に明治天皇に対し、 部下の遺族の生活が困窮しないように懇願していた。 当時、軍人殉職者遺族への補償規定はなかった。 佐久間艇長は部下の遺族が路頭に迷うのが何よりも気がかりだったのだ。 第六潜水艇 佐久間勉艦長 ![]() 事故後、米国では国会議事堂の大広間の一角に、 この遺言の原文コピーと英訳文を陳列した。 英国海軍の潜水艦学校では、現在も教科書で、 この事故の第六潜水艇の乗組員の沈着冷静な行動を讃えている。 佐久間艇長が刻々と迫る死の間際まで 沈着にその状況を鉛筆の走書きでノートに綴った報告書(遺言書) ![]() 殉職者氏名(敬称略) 海軍大尉、佐久間 勉 海軍中尉、長谷川 芳太郎 海軍機関中尉、原山 政太郎 海軍上等兵曹、門田勘 一 海軍上等機関兵曹、鈴木 新六 海軍一等兵曹、浴山 馬槌 海軍一等機関兵曹、岡田 権治 海軍二等兵曹、堤 重太郎 海軍二等機関兵曹、山本 八十助 海軍二等機関兵曹、檜皮 徳之助 海軍三等兵曹、吉原 伸二 海軍三等機関兵曹、河野 勘一 海軍三等機関兵曹、福原 光太郎 |
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