正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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日露戦争前後~ロシアと世界の反応

日露戦争前のロシア側の日本への認識

●陸軍武官ゲ・バノフスキー中佐

日本軍がヨーロッパの最弱小国に太刀打ちできるまでには、
数十年、おそらく100年はかかるであろう。

●クロパトキン大将

日本兵三人にロシア兵は一人で間に合う。
われわれは13日間に40万の軍隊を満州に集結できる。
これは日本軍を敗北させるに必要な兵力の三倍である。
来るべき戦争は単に軍事的散歩に過ぎない。

●ツアー・ニコライ皇帝

子猿が敢えて朕に戦争をしかけるなぞと、一瞬たりとも想像できない。
帽子の一振りでかたづけてしまうさ。

●巡洋艦アスコリッド艦長 グラムマチコフ大佐

日本海軍は外国からの艦艇を購入し、物質的装備だけは整えた。
しかし、海軍軍人としての精神は到底われわれには及ばない。
さらに軍艦の操縦や運用に至っては極めて幼稚である。

●アレキシエフ海軍大将

日本とは戦うに及ばざるべし、紙上の勢力に過ぎぬ。

●ノヴォエ・ヴレミヤ紙

われわれに対する日本の戦争は日本にとって自殺であろう。
彼らの希望の全ての破壊となろう。

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日露戦争後の世界の反応

●中国 孫文

これはアジア人の欧州人に対する最初の勝利であった。
この勝利は全アジアに影響を及ぼし、
全アジア民族は非常に歓喜し、きわめて大きな希望を抱くに至った。
大国の圧政に苦しむ諸民族に民族独立の覚醒を与え、
ナショナリズムを急速に高めた。

●ベトナム ファン・ボイ・チャウ

日露戦役は実に私たちの頭脳に、
一世界を開かしめたものと言うことができます。
それまで、ベトナム人は中国やフランスしか知らず、
世界の変遷、風潮の如何の如きは、
我が国民の夢想だにしなかったところで、…海外に出て考えが一変したが、
それは日露戦争の余波が影響したものと言わざるを得ません。

●インド仮政府 チャンドラ・ボース首相

今から約40年前、私がようやく小学校に通い始めたころ、
一東洋民族である日本が、世界の強大国のロシアと戦い、これを大敗させた。
このニュースは全インドに伝わり、興奮の波がインドを覆った。
いたるところで、旅順攻撃や奉天大海戦、
日本海海戦の勇壮な話で持ちきりだった。
私たちインドの子供たちは、東郷元帥や乃木大将を敬慕し尊敬した

●インド ネール首相

私の子供の頃に日露戦争というものがあった。
その頃のロシアは世界一の陸軍国だった。
世界中は、ちっぽけな日本なんか
ひとたまりもなく叩き潰されると思っていた。
アジア人は西洋人には、とてもかなわないと思っていたからだ。

ところが戦争をしてみると、その日本が勝ったのだ。
私は、自分達だって決意と努力しだいではやれない筈がないと
思うようになった。
そのことが今日に至るまで私の一生をインド独立に捧げることになったのだ。
私にそういう決意をさせたのは日本なのだ。

日本の勝利は私を熱狂させ、私は毎日、新聞を待ち焦がれた。
私はナショナリズムに興奮し、
インドをヨーロッパの隷属から救い出す事を思い、
私自身が剣をとってインドのために戦い、
インドを解放する英雄的行為まで夢見た。

アジアの一国である日本の勝利は、
アジアの総ての国々に大きな影響を与えた。
ヨーロッパの一大強国が破れたとすれば、
アジアは昔たびたびそうであったように、
今でもヨーロッパを打ち破ることができるはずだ。
ナショナリズムは急速に東方諸国に広がり
『アジア人のアジア』の叫びが起きた。
日本の勝利は、アジアにとって偉大な救いであった。

もし日本が最も強大なヨーロッパの一国に対して
よく勝利を博したとするならば、
どうしてそれをインドがなしえないといえるだろうか?

●ミャンマー バー・モウ(ビルマの初代首相)

最初のアジアの目覚めは日本のロシアに対する勝利に始まり、
この勝利がアジア人の意識の底流に与えた影響は
決して消えることはなかった。

それは全ての虐げられた民衆に、新しい夢を与える歴史的な夜明けだった。
ビルマ人は英国の統治下に入って
初めてアジアの一国民の偉大さについて聞いたのである。

日本の勝利はわれわれに新しい誇りを与えてくれた。
歴史的に見れば、日本の勝利は、アジアの目覚めの発端、
またはその発端の出発点と呼べるものであった。

当時私は小学生、その頃流行した戦争ごっこで、
日本側になろうとして争ったりしたものだった。
日本が勝つまで想像もできぬことで、ビルマ人に新しい誇りを与えてくれた。

●トルコ

観戦武官のペルテヴ・パシャ大佐が戦記「日露戦争」と、
講演録「日露戦争の物質的・精神的教訓と日本勝利の原因」を刊行し、
「日本軍の勇敢さや国j明の一致団結を讃え、
国家の命運は国民の自覚と愛国心で決するものであり、
トルコの未来も日本を見習い近代化を進めるならば、
決して悲観すべきではない。

国家の命運は国民にあり」と訴え、それが近代化を推進する青年党の運動、
ケマル・アタチュルクのトルコ革命へと連なっていった。
トルコでは「トーゴー通り」があり、「ノギ」という大きな靴販売店があり、
「トーゴー」や「ノギ」という男の子の名前が
たくさんつけられたのは有名である。

●トルコ皇帝

われわれは、日本人の成功を衷心から喜ばなくてはならない。
ロシア人に対する日本人の勝利は、すなわちわれわれの勝利である。

●エジプト民族解放指導者 ムスタファー・カーミル

日本の勝利と発展は…天皇以下の重臣から庶民に至る国民にあふれる愛国心
-アラビア語でワターニャと呼ばれる民族主義的精神と、
これに支えられた教育、政治、経済、軍事の近代的諸制度にある。
日本人こそは、ヨーロッパに身の程を
わきまえさせてやった唯一の東洋人である。

●アフリカ開放の父 ウィリアム・デ・ポイス

有色人種が先天的に劣っているという誤解を日本が打破してくれた。
日本が有色人種を白色人種の奴隷から救ってくれるので、
有色人種は日本を指導者として従い、
われわれの夢を実現しなければならない。

●イランの詩人 シーラーズ

日本の足跡をたどるなら、われわれにも夜明けがくるだろう。

●イラン

東方からまたなんという太陽が昇ってくるのだろう。
文明に夜明けが日本から拡がったとき、
この昇る太陽で全世界が明るく照らし出された。
どんなに困難であろうとも、日本の足跡を辿るならば、
この地上から悲しみの汚点を消し去ることができる。

と、明治天皇を中心に団結し、
大国ロシアを破った日本を讃える「ミカド・ナーメ(天皇一代記)」
が出版された。

●ポーランド(当時はロシアの属領)

第一次世界大戦末期に独立を達成するとウスーツキー大統領は、
日露戦争に参加した日本軍指揮官に軍功章を贈った。
「ノギ」という名をつけた人を集めたら、
教会がいっぱいになる村があった。

●フィンランド(当時はロシアの属領)

フィンランド独立の英雄マンネルハイムは、
帝政ロシア軍の騎兵旅団長として奉天の会戦に参加したが、
この会戦で敗北したことから、
日本のような小国でも国民が団結すれば大国のロシアでも勝てると、
ロシア革命の混乱を利用して独立を達成した。
東郷平八郎にちなんだビールが発売されたのは有名である。

●日露戦争全史の著者 デニス・ペギー、ウォナー夫妻

苦力(クリー)も主人となりうるし、
主人たる西洋人も苦力に落ちぶれかねないことを示した戦争であった。

●アメリカ ニューヨーク・タイムス(1905.6.1)

日本の勝利は文明の凱旋であり、迷信に惑溺し、
宗教により人を虐げる金城鉄壁を破壊した。
人類の自由進歩の最大障害物を崩壊し取り除いた。
…ロシアの敗北を世界が喜ぶのは、世界がロシアの目的と政略を憎み、
平和を欲しているからである。
…日本人には武勇を賞賛し、策略の巧妙なのに驚嘆し、
万歳を唱えるものである。

●イギリス ロンドン・タイムズ(1905.6.2)

日本海軍の目標は単にロシア艦隊を打ち負かすことだけではなかった。
これを撃滅することだった。そして、決意したことを成し遂げたのだ。
…その理由は軍艦にも砲にも、乗組員の熟練度にも、
戦術の巧拙にも求められない。
精神的性格や高遠な理想、やむにやまれぬ熱情や、
あまねく浸透した責任感と愛国心などに求められるべきだ。
…対馬海戦の勝利は武士道によってもたらされたものである。

●フランス レビューブリック・フランセーズ紙

日本の勝利は太平洋に大海軍国が出現したことを意味し、
今後は列強の同盟関係に変動が生じるであろう。
英米といえ憂慮するところであるが、
フランスでは以前から日本の勝利に焦慮しており、
今後フランスは日本の勢力の増加に関心を抱いている国々と、
共同せざるを得なくなるであろう。
フランスのアジアにおける利益を維持するため、
対策を講ずるべきである。

●ドイツ アドルフ・ヒトラー

日本海海戦があったのは、私が小学生の時だった。
クラスのほとんどすべてがオーストラリア人で、
日本海海戦のニュースに落胆したが、
私は歓声を上げた。
それ以来私は日本海軍に対して特別な感情を持った。

●ロシア レーニン

日本は戦争の主な目的を達成した。
進歩的な進んだアジアは、遅れた反動的なヨーロッパに、
取り返しのつかない打撃を与えた。
10年前ロシアを先頭とするこの反動的ヨーロッパは、
若い日本が中国を壊滅させたことに不安を抱き、
日本からの勝利の最良の果実を奪い取るために結束した。
旅順にある…難攻不落の要塞を、
ちっぽけな、これまでだれからも軽蔑されていた日本が、
8ヶ月で占領したのである。


このように日本海海戦の日本勝利は世界を驚愕させ、
ほとんどの国が号外で報じ、
アジアやアラブ諸国は自国の勝利のように驚喜し、
英米の新聞も日本の勝利を手放しで讃えた。

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日露戦争後、日本に留学した中国人、周作人(中国の作家の魯迅の弟)

『留学中の思い出』

私が初めて東京へ行ったのは明治39年(1906年)、
ちょうど日露戦争が終わった翌年の事である。

今では中国の若者たちは、もう、ほとんど知らないだろうし、
日本人でも、おそらく身に染みては知らないと思うのだが、
その頃の日本は私どもに二つの大きな影響を与えた。

一つは明治維新、もう一つは日露戦争である。
当時、中国の知識階級は祖国の危機を痛切に感じ、
いかにすれば国を救い、西洋各国の侵略を逃れ得るか、
ということに最も腐心していた。

そこで日本が維新を成功させ、変法自強の道を発見したのを見て、
大いに奮起し、ロシアに勝利したのを見て、さらに少なからず勇気づけられ、
西洋に抵抗して東亜の保全を計るのは不可能でない事を思い知った。

中国で留学生を日本に遣わした狙いも、ここにあったわけで、
このごろ流行の言葉で言えば、みな熱烈な興亜の意気に燃えていたのである。

中国人が、いかに日本の明治維新に感服賛嘆し、
日露戦争に関して、いかに日本の勝利を願ったことか、
いま思い出しても実際、奇異なくらいである。

率直に言って、
それは去年の大東亜戦勃発の時に幾分か勝るほど真実で熱烈であった。

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以下、平間洋一「日露戦争が変えた世界史」芙蓉書房出版、
植村英一「グスタフ・マンネルハイム~フィンランドの白い将軍」荒地出版社
より抜粋。

◆ポーランド

東欧の国、ポーランド。

この国には、苦い苦い亡国の歴史がある。

1772年、ポーランドはプロシア、オーストリア、ロシアによって分割され、
本土の四分の一を喪失した。

1893年の第二回分割では旧領の三分の一を残すのみとなった。

1896年の第三回分割で国土のすべてを失ってしまった。

ポーランド人でカラチ大学やセイロン大学の教授を歴任した
ジョージ・J・レルスキは論文の中で、
「ポーランド人ほど日露戦争の勃発を喜んだ国民は、他にあるまい。」
と書いた。

日本の勝利のうちに日露戦争が終結して13年後の1918年11月、
ポーランドは第一次世界大戦の停戦協定により独立を認められた。 

当時ポーランド人がいかに日本の勝利を喜んだかについては、
駐オーストリア公使牧野伸顕(元勲大久保利通の子息)が、
「ロシア戦とポーランドの有頂天」と題して、次のように書いた。

「・・・ポーランドの伯爵で、
私に遊びに来ないかということで遊びに行った。

ロシア国境に近いエズボールというところで、在郷軍人みたいな人が
迎えに来てくれて、えらい厳かな歓迎振りであった。

宿の主人が、

「村長が閣下(牧野)にお目にかかりたいと言っている」
というので会ったが、彼らが言うには、
同胞を代表して天皇陛下に御礼を言いにきた、というのだ。

ロシアが日露戦争に負けた結果、
今までのポーランド人に対する束縛が解かれた。

これまでは学校でもポーランド語を教えさせず、土地所有権も与えず、
婚姻の自由さえなかったが、日本の連戦連勝のおかげでその束縛が
ひとつひとつ解かれ、今では非常に自由の民となった。

これは日本皇帝陛下のお陰で、忘れることができない」

◆ハンガリー

1956年の「ハンガリー動乱」(同年10月23日に始まった、首都ブダペストを
中心に沸き起こった学生・労働者による反政府反ソ暴動)のおりに、
ハンガリーからアメリカへ亡命したデュナイ・イシュトワン氏が、
月刊誌「文藝春秋」1963年2月号に「日本への恋文」という文を寄稿した。

それによれば、イシュトワン氏の自宅近所に住む農民が、口癖のように、

「東方には我々の兄なる国、日本がある。
日本は小なりといえども、大国ロシアを打ち破った素晴らしい国だ。
この国を、この国の人々を信じ給え。必ず報われるだろう。」
と言っていたという。

そしてその農民が「日本に行ったら日本人に渡してほしい。」と、
イシュトワン氏に託したのが以下の手紙である。

「日出ずる国、大日本の紳士淑女へ。
私はあなた方の弟、ハンガリー人の一農夫であります。

長い長い間、私は兄なる国、日本に憧れていました。
日本に関する本は全部読みました。
日本について知っている人がいると聞けば、
どんなに遠くへも出かけていって熱心に耳を傾けました。

いまだ見ぬ憧れの日本よ、
私の胸に溢れる貧しい言葉をどうかお許しください。

おそらく私は一生あなたにお目にかかることはないでしょう。
しかし、私は心眼を以ってあなたの孤高なる姿を見ることができます。
それは、さながら水晶の器に純粋のまま保存され、
自然のみにあるからであります。
 
いかなる異民族も、あなたの神聖な領土を犯すことは不可能でした。

それに引き換え我々は、西方異種族の中に唯一人、
一日として安んじたことはありませんでした。

第二次世界大戦で我々は二十万の人命を失い、
十五万人が西欧へ亡命し、幾千人がシベリアへ連れ去られたのです。

共産統治下では一万人を越える人々が絞首台へ追いやられました。
我々は滅びつつあります。

雨にも風にも耐えながら私は待っています。
血を分けた同胞の日本が孤独な西欧の弟を思い出して下さる日を、
我々の苦しみを必ず理解して下さる日を・・・・
長くとも私は待っております。」

◆スウェーデン

北欧のスウェーデンは、隣人ロシアに対し
歴史的に絶えざる恐怖と怨念を持っていた。

その影響で、日露戦争が勃発するや、スウェーデン人は
心から日本を支持していた。

明治三十七(1904)年二月五日、
日露戦争開戦にともない日露間の国交が断絶し、
駐ペテルブルグ日本公使館は閉鎖、館員全員が国外退去となった。

栗野慎一郎公使以下館員がスウェーデンの首都ストックホルムに到着すると、
駅のホームには一行を歓迎する民衆が多数集まっていた。

このとき、スウェーデン国王オスカル二世も離宮に行くために駅に来ていた。

国王は栗野公使を招き、

「自分は、このたびのことについては何も言わぬ。
 言わぬが、自分の心はわかっているであろう。」と語ったという。

◆フィンランド

1809年以来ロシアの支配下にあったフィンランドは、
1917年のロシア革命により帝政ロシアが崩壊した好機を利用して、
念願の独立を達成することになった。

とはいえ、帝政から代わった共産国家ソ連は
前にも増して獰猛、貪欲であり、
フィンランドを蹂躙し再び呑み込もうとした。
フィンランドの国民は、有能な指導者のもと、
独立を守るための闘いに邁進した。
 
ソ連の侵略からフィンランドの独立を守り抜いた英雄として、
後年「白い将軍」と呼ばれたフィンランドの武人カール・マンネルハイムは、
若かりし頃の1905年三月、当時帝政ロシア陸軍の将校を務めており、
第52騎兵連隊付の騎兵中佐として、日露戦争下の満州にいた。

彼の所属する連隊は、史上名高い奉天大会戦において、
乃木希典陸軍大将率いるわが第三軍との激烈な戦闘の末敗れた。

この戦いにより、日本がそうであったように、
小国フィンランドといえども
国民が一致団結すれば大国ロシア(ソ連)にも勝てる、
との教訓を得ることになったのである。

カール・グスタフ・エミール・マンネルハイム(1867~1951)は
帝政ロシア陸軍中将、フィンランド独立後フィンランド軍騎兵大将、
同陸軍元帥、同軍最高司令官、後に国家元帥、大統領。

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1898年12月から1907年3月まで(途中帰国時期あり)滞在した英国人旅行家が
見た日本軍人と日本軍の姿。

『ゴードン・スミスのニッポン仰天日記』 リチャード・ゴードンスミス著
荒俣宏、大橋悦子翻訳 小学館 1993年

11月17日 木曜日(261頁)

非常に早起きして、午前8時には私は竹やぶを歩きまわっていた。
そこで、すでに8里(16マイル)歩いてきたという
2隊のオオサカの歩兵隊に出会った。
彼らは武器を積み重ね、休憩していた。
しばらく休んだあと、彼らは敵国内を進軍する訓練として
戦闘の演習をつづけながら、オオサカにもどる予定だった。
彼らはほとんど例外なく、たくましく頑丈に見えた。
兵士間の秩序は見事に整っており、将校たちはそれを維持するのに
ほとんど何もしなくてよい。あらゆる点でうらやましい限りだ。

10月23日 日曜日(266~267頁)

兵庫県知事の服部氏が昼食にやってきた。
彼の息子は、気の毒な事に片目を失っていた。
若い将校なのに本当に哀れだ。
知事はどちらの目なのか知らなかった。
息子の唯一の願いは、自分の事で騒ぎ立てないで欲しいということだ。
こうした日本人すべてに就いて言える事だが、
戦いの最中に勇敢であるというだけでなく、慎ましく、内気ですらあり、
有名になるのを嫌うという点で、彼らは真の英雄である。

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第8週6話世界史の奇跡!日本海海戦~ポーツマス外交大勝利【CGS倉山満】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm21173329
日露戦争の世界史的意義
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-203.html
ロシア人捕虜収容所
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-373.html
2009/10/15 09:00|年表リンク用資料
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