正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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日英同盟

三国干渉以後のロシアの極東侵略政策に対し、
日本では以下の二つの意見が対立していた。

◆ロシアと妥協して侵略政策を緩和させる。
(伊藤博文、井上馨らの主張した日露協商論→失敗)

◆イギリスと手を組んでロシアの南進を防ぐ。
(首相・桂太郎、外務大臣・小村寿太郎らの主張した日英同盟論)

伊藤博文らはイギリスのような超大国が日本と同盟を結ぶとは
考えてなかったためロシアとの妥協が現実的と判断していた。

当時のイギリスは「栄光ある孤立」といって、
他のヨーロッパ諸国と軍事同盟を結ばなかった。

義和団の乱が終わると日本軍はすぐに支那大陸から引き上げたのだが、
ロシア軍は満州に居座った。

もう満州はロシア領になったも同然となった。
すでに遼東半島には軍港として旅順を構築しており、
次は朝鮮半島や支那北部に支配を広げてくるのは目に見えていた。
このことは日本にとって国家存亡の危機であった。

一方、ロシアの支那への進出はイギリスにとっても
権益を喪失する危険を意味した。

イギリスは、義和団の乱以来、
満州から撤兵しないロシアを牽制したいと考えていたが、
イギリス単独ではイギリスの中国における権益維持に限界があった。

こうした状況で、イギリス側から日本に同盟の提案があった。
義和団の乱での日本軍の軍紀、勇敢さをイギリスは高く評価し、
日本は同盟するに値する国だと判断した。

そこで、それまでの「栄光ある孤立」政策を捨て、
義和団の乱で活躍した日本に接近し、
1902年(明治25年)1月30日、日英同盟が締結(調印、発効)された。

この同盟は有色人種と白人種が行なった最初の平等な軍事同盟である。
しかも相手は超一流国イギリスであった。
この当時のイギリスはスプレンデッド・アイソレーション(栄光ある孤立)
といって、他のヨーロッパ諸国と軍事同盟を結ばなかったのだが、
その国が日本と軍事同盟を結んだ。

◆1902年、第一次日英同盟

・締結国が他の1国と交戦した場合は
同盟国は中立を守り他国の参戦を防止する。
・2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦する。

条約締結から2年後の1904年(明治37年)2月8日に日露戦争が勃発。
■日露戦争時の日英同盟の利点。
・イギリスは日本に軍事資金を貸してくれた。
・イギリスは表面的には中立を装いながらも、
諜報活動やロシア軍への妨害工作、武官の派遣などで日本を支援した。
・ロシアはフランスの参戦・協力を得ることができなかった。

この日英同盟により、
日露戦争後の日本は外交においては超大国のイギリスと手を組んでおり、
軍事的にもロシアに勝ってアジアではもう敵がなくなった。

しかし、日露戦争後、アメリカという新たな問題が現れた。

◆1905年、第二次日英同盟

・イギリスのインドにおける特権と、
日本の朝鮮に対する支配権を認め合う。

・清国に対する両国の機会均等を定め、
さらに締結国が他の国1国以上と交戦した場合は、
同盟国はこれを助けて参戦するよう義務付けた(攻守同盟)。

◆1911年、第三次日英同盟

アメリカが、交戦相手国の対象外に定められた。
ただしこの条文は自動参戦規定との矛盾を抱えていたため、
実質的な効力は期待できなかったが、
これは日本、イギリス、ロシアの3国を強く警戒するアメリカの
希望によるものであった。

また、日本は第三次日英同盟に基づき、
連合国の一員として第一次世界大戦に参戦した。

◆第一次世界大戦後の1919年、パリ講和会議で利害が対立し、
とりわけ、国際連盟規約起草における日本の人種的差別撤廃提案が
否決されたことは禍根として残り、

◆1921年11月12日、ワシントン会議で日英米仏の四ヵ国条約が締結され、
日英同盟の更新を行なわないことが決定された。
(実際の日英同盟失効は第三次日英同盟の期限である1923年8月17日)
21年間の日本の外交を支えていた日英同盟であり、
日英双方が意義を感じていた同盟をワシントン会議で終了させられた。

アメリカにとって当時世界最強のイギリスが
自分が叩くべき日本と同盟を結んでいることは不都合だった。

日英同盟の代わりとして日本、アメリカ、イギリス、フランスによる
「太平洋に関する四ヶ国条約」が締結された。
これは太平洋の現状維持を取り決めたもので大した意味はなく、
本当の目的は日英同盟を解消させることだった。

日英同盟はロシアとドイツに対するものだが、
「第一次世界大戦でロシアもドイツも弱くなったのに
日英同盟が続いているのは両国が我国を挟み撃ちしているのだ」などと
パラノイアのようなことをアメリカが言い出した。
大英帝国内ではオーストラリアやニュージーランドは
日英同盟維持に賛成したが、アメリカの隣国のカナダが猛烈に反対した。

第一次世界大戦でヨーロッパの国はアメリカに経済的・軍事的に
協力してもらったのでイギリスもアメリカの要求を断れない。
イギリスは同盟廃止を言い出したくないので
日英にフランスとアメリカを加えた四ヶ国同盟に移行することになった。

「連帯責任は無責任」といわれるように
この四ヵ国同盟はまったく役に立たなかった。

日本は純情にも、四ヵ国条約は平和を求める各国の希望の結晶である
などと信じ込んでしまい、
全権・幣原喜重郎は軽率にもこの提案に乗ってしまい受け入れてしまう。

こうして日英同盟は消滅し、
アメリカは日英同盟という最後の砦を崩すことに成功、
強力な同盟国を失った日本を狙い撃ちし始める。

イギリス人から見れば、日英同盟の廃止が
世界に広大な植民地を有する大英帝国にとって致命的だった。

当時は軍艦一隻で十分植民地を抑えられた。

ところが第二次世界大戦での日本との戦争で、
イギリスはプリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈された。

それからインド洋艦隊も、
ドイツのビスマルク号を沈めた重巡洋艦ドーセットやコンウォール、
さらには航空母艦ハーミスを撃沈された。
それをインド人が知ったら、抑えが利かなくなるのは当たり前だった。
イギリスは日本と戦争をしたから、インド、パキスタン、ビルマ、
シンガポール、マレーなどを失う羽目になった。

◆1923年8月17日、日英同盟 失効
2009/10/14 09:00|年表リンク用資料
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