●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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1905年(明治38年)5月27日~28日、日本海海戦(対馬海戦)
![]() 日露戦争中【1904(明治37)年2月6日~1905(明治38)年9月5日】の 1905年(明治38年)5月27日~28日に、日本海軍の連合艦隊と ロシア海軍のバルチック艦隊(第2・第3太平洋艦隊)との間で行われた戦い。 日本以外では一般に対馬海戦と呼ばれるが、 実際の海戦域は対馬沖にとどまるものではなく日本海広域に及ぶ。 日本艦隊の司令官東郷平八郎が採用した丁字戦法などにより、 ロシア艦隊は戦力の大半を失い壊滅したが、 日本側の損失は軽微で、海戦史上まれな一方的勝利となり、 ポーツマス講和会議への道を開いた。 後進国と見られていた日本の勝利は世界を驚愕させ、 タイムズ紙など有力紙が確認のため発表を遅滞させるほどであった。 バルチック艦隊のロジェストヴェンスキー長官は、 「日本連合艦隊は煤煙が一筋になって見えるくらい 的確な単縦陣を作っており、先頭の艦が取り舵をとると、 それに続く艦船も見事に後についていく。」 と、そのあまりに素晴らしい艦隊行動に、 先ほどまでの自軍のだらしない艦隊行動を恥じたと言われる。 日露戦争前までは海上で白人の国が有色人種に勝ち続ける時代だった。 日本海海戦は有色人種が白人との海戦で勝った最初の戦いである。 これが白人に与えたショックはきわめて大きかった。 19世紀、白人国家は文明力の優越をもって有色人種を支配したが、 その文明力の象徴である海軍の戦いで有色人種が白人の大艦隊を全滅させた。 このことは、海軍の重要性を知っている欧米人にとって ショックが大きかった。 アメリカが日露戦争後の日本に対して 従来のような友好的態度を示さなくなり、 警戒心をもつようになったのは、それを端的に物語っている。 「有色人種が海軍で勝てるようになった」 という日本海海戦のショックは、有色人種の側にも影響を及ぼした。 これは日露戦争全体の勝利ということも含めて、 「白人に支配される状態からの独立」という意識を強めた。 アジアではベトナムのホーチミン、インドのネール、 支那の蒋介石と毛沢東も日露戦争で大きな感銘を受けている。 とりわけ清国は長い間ロシアに苛められていたから、 日露戦争後に日本へ留学生が急増し、日本に学ぶ一方の時代になる。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 以下、BIGLOBE百科事典 『日本海海戦』 より引用。 ■影響 バルチック艦隊は戦力の大半を一回の海戦で失った。 損害は被撃沈16隻(戦艦6隻、他10隻)、自沈5隻、被拿捕6隻。 他に6隻が中立国へ逃亡し、ウラジオストクへ到達したのは3隻 (巡洋艦「アルマース」、駆逐艦「ブラーヴイ」、駆逐艦「グローズヌイ」) のみであった。 兵員の損害は戦死4,830名、捕虜6,106名であり、 捕虜にはロジェストヴェンスキーとネボガトフの両提督が含まれていた。 日本側の損失は水雷艇3隻沈没のみ、戦死117名、戦傷583名と軽微であり、 大艦隊同士の艦隊決戦としては史上稀に見る一方的勝利となった。 当時後進国と見られていた日本の勝利は世界を驚かせた。 また海戦の結果、極東海域における日本海軍の制海権が確定した。 ロシア軍にとっては、満州で対峙する日本軍の補給を断つことで 戦争に勝利できる可能性が消滅した。 1905年3月の奉天会戦でロシア陸軍主力の撃滅に失敗した日本にとって、 海戦での決定的勝利は和平交渉の糸口となり、 ポーツマス講和会議への道を開くことになる。 ロシア側の6,000名以上の捕虜は、 多くが乗艦の沈没により海に投げ出されたが、 日本軍の救助活動によって救命された。 また対馬や日本海沿岸に流れ着いたものも多く、各地の住民に保護された。 当時の日本は戦時国際法に忠実であり、 国際社会に日本は文明国であるとアピールするためにも 戦時法遵守が末端の小艇の水兵にまで徹底されていた。 ロシア兵捕虜は、日本国民が戦時財政下の困窮に耐える中、 十分な治療と食事を与えられ、健康を回復し帰国した。 軍法会議での処罰を恐れる士官は日本にとどまることもできた。 日本の戦時国際法の遵守は世界各国から賞賛が寄せられた。 ロジェストヴェンスキーは長崎県佐世保市の海軍病院に収容され、 東郷の見舞いを受けた。 東郷は軍服ではなく白いシャツという平服姿であった。 病室にはいるとロジェストヴェンスキーを見下ろす形にならないよう、 枕元の椅子にこしかけ、 顔を近づけて様子を気づかいながらゆっくり話し始めた。 この時、極端な寡黙で知られる東郷が、 付き添い将校が驚くほどに言葉を尽くし、 苦難の大航海を成功させたにもかかわらず 惨敗を喫した敗軍の提督をねぎらった。 ロジェストヴェンスキーは 「敗れた相手が閣下であったことが、私の最大の慰めです」と述べ、 涙を流した。 ロジェストヴェンスキーは回復して帰国し、1906年軍法会議にかけられたが、 戦闘中に重傷を負い指揮権を持っていなかったとして、 無罪となり60歳まで生きた。 日本では、5月27日は海軍記念日に制定された。 海軍記念日は1945年を最後に廃止されたが、 現在でも日本海海戦記念式典が毎年開催されている。 2005年5月には対馬市、横須賀市などで それぞれ日本海海戦100周年記念の式典や大会が開催され、 対馬市では海戦後初の合同慰霊祭が行われた。 ■参謀による作戦の実施 秋山真之連合艦隊司令部は第1艦隊参謀秋山真之、 第2艦隊参謀佐藤鉄太郎を参謀に擁し、 上層部もその意見をよく重用しつつ、組織的、有機的に、 最善の判断を行うよう常に努力した。 また、各艦隊司令官・各艦艦長は必要に応じて独自の判断で 行動する高い能力を持ち、高速巡洋艦からなる第2艦隊には 猛将といわれた上村提督が任命されるなど適材が適所に配属されていた。 バルチック艦隊の旗艦の急転回に対し、東郷司令長官が判断を誤ったため、 第1艦隊はバルチック艦隊を逃がしてしまう。 この時、佐藤参謀がその判断が誤りであることを見抜き、 第2艦隊がその高速性を生かしてバルチック艦隊を猛追撃し、 戦艦相手に至近距離での砲撃戦を行い、 第1艦隊の方向へバルチック艦隊を追い込み、 結果的に挟み撃ちに持ち込んだことが海戦の完全勝利を確定させた。 ■画期的な哨戒作戦 秋山真之参謀が立てた哨戒計画。 バルチック艦隊を出来るだけはやく発見し、 連合艦隊が出来るだけ有利に艦隊決戦を行うために、 世界初の画期的な哨戒を行った。 済州島と佐世保港を線で結び、それを一辺として正方形を描き、 その正方形の中を碁盤の目のように細かく分画し、 その一つひとつに哨戒用の艦艇を配置し、水も漏らさぬ監視を行った。 軍籍船舶以外にも漁船まで動員した哨戒艦船73隻で行った。 ■七段構えの戦法 秋山真之参謀が立てたバルチック艦隊を 全滅させるための周到な迎撃作戦計画。 「天気晴朗なれども波高し」の電報で、 大本営は、第一段が行われないことを理解した。 実際には、第二段と第三段のみでバルチック艦隊を殲滅した。 第一段 主力決戦前夜、駆逐艦・水雷艇隊の全力で、敵主力部隊を奇襲雷撃 第二段 わが艦隊の全力をあげて、敵主力部隊を砲雷撃により決戦。 丁字戦法が行われた。 第三・四段 昼間決戦のあった夜、再び駆逐隊・水雷艇隊の全力で、敵艦隊を奇襲雷撃。 高速近距離射法が行われた。 第五・六段 夜明け後、わが艦隊の主力を中心とする兵力で、 徹底的に追撃し、砲雷撃により撃滅 第七段 第六段までに残った敵艦を、 事前に敷設したウラジオストック港の機雷原に追い込んで撃滅 ■丁字戦法 連合艦隊は秋山参謀と東郷司令官の一致した意見によって、 丁字戦法を採用した。実際の進展は次のようなものだった。 敵艦隊に対して平行にすれ違う航路(反航)をとる。 すれ違い直前で敵前回頭を行う。 自艦隊の足の速さを頼りに敵艦隊の先頭に対して 斜め後方から敵進路を遮蔽する。 (このため、実際には「丁」より「イ」に近い形になる) 当時の海戦の常識から見れば、 敵前での回頭(しかも2分あまりを費やしての160度もの回頭)は 危険な行為であった。 実際、回頭中はともかく、 追撃中は旗艦であり先頭艦であった三笠は敵の集中攻撃に晒されており、 被弾数48発の内40発が右舷に集中しており、 帰還時の三笠は、突き刺さった砲弾の重みだけで、 かなり右舷側に傾いていたという。 しかし、一見冒険とも思える大回頭の2分間には、 日本海軍の緻密な計算と英断が込められていた。 それは次のようなようなものである。 たしかに連合艦隊は2分間余り無力になるが、 敵も連合艦隊が回頭中はその将来位置が特定できず、 バルチック艦隊側も砲撃ができない。 (実際、三笠が回頭を終えた後に発砲してきている) 当時は照準計の精度が悪く、 第1弾が艦橋や主砲などの主要部に1発で命中することはごく稀であった。 そのため、第1弾の着弾位置(水柱)から照準を修正して、 第2弾からの命中を狙うことが多かった。 しかしバルチック艦隊が使用していた黒色火薬は、 発砲後にその猛烈な爆煙によって視界が覆われ、 煙が晴れて第2弾を放つまでに時間がかかる。 すなわち回頭中に第2弾は飛来しないか、 慌てて撃つため命中精度が極めて低い。 バルチック艦隊は当然旗艦である三笠を集中砲撃するが、 東郷としては最新鋭で最も装甲の厚い三笠に被弾を集中させ、 他艦に被害が及ばないことを狙った。 万一三笠が大破し、自らが戦死してでも 丁字の状態を完成させることを最優先とした。 東郷は砲弾飛び交う中、艦橋を一歩も動かなかった。 また、前述の旅順封鎖中などの艦隊訓練により東郷は、 各艦の速度・回頭の速さなどの、いわゆる「癖」を見抜いており、 これが敵前大回頭を始める位置を決めるのに役立った。 常識にとらわれず、合理的に勝利を追求した結果、丁字戦法を成功させた。 敵艦隊に対する十分な分析と、 有効射程範囲のギリギリの所を見極めて「トーゴー・ターン」を 決めた東郷の采配は、連合艦隊を勝利へと導いた。 ■高速近距離射法 第五駆逐隊司令の鈴木貫太郎中佐が行った、 駆逐艦や魚雷艇で敵艦にぎりぎりまで全力で 接近して行う必死の魚雷夜間攻撃法。 探照灯で照らし出され、猛烈な砲火を浴びせられながら、攻撃する夜戦法で、 暗闇が前提なため味方同士が衝突事故を起こす危険があり、 実現するために、猛訓練を行った。 その結果、 戦艦「クニャージ・スヴォーロフ」、「シソイ・ヴェリーキー」、 「ナヴァリン」、 装甲巡洋艦「アドミラル・ナヒーモフ」、「ウラジミール・モノマフ」 を一夜で撃沈するなど大戦果を挙げ、 バルチック艦隊にとどめの大打撃を与えた。 遠距離からの魚雷攻撃が当たり前だった当時の 魚雷戦術に衝撃をもたらした新戦法。 ■艦隊編成 連合艦隊は常に速力・火力が同じ2隻が1組となって敵と対峙し、 2対1の優位な状態で戦えるようにしていた。 連合艦隊は同種の艦をグループにまとめるように留意しており、 第1艦隊は砲戦力、第2艦隊は機動力、第3艦隊は旧式艦として はっきり運用の仕方を分けていた。 このため、艦隊運動による効率的な攻撃、追撃、退避が可能になり、 バルチック艦隊を逃さない徹底的な追撃戦を行えた。 バルチック艦隊は速力の速い艦と遅い艦が混在した艦隊編成をとっていた。 ■新技術・伊集院信管 当時の艦砲は徹甲弾であっても威力が小さく敵艦の装甲を 貫通できないことが多かった。 榴弾も信管に問題があり、敵艦に命中しても爆発しない不発弾が多かった。 連合艦隊は徹甲弾による装甲の貫通よりも榴弾による上部構造の破壊を狙い、 信管に伊集院五郎少将の開発した伊集院信管を採用した。 この信管は鋭敏で、ロシア艦の装甲面で破裂した砲弾は 下瀬火薬の特性によって火災を発生させ、上部構造を殲滅し無力化させた。 ロシアの砲弾は徹甲弾なので、煙突などに当たると穴をあけて そのまま突き抜け反対側の海中に落下する。 しかし日本の砲弾は瞬発式で、 ロープに当たってもその場で破裂したと言われるほど鋭敏に起爆し、 下瀬火薬の猛烈な爆速で、何もかも粉々になぎ倒したうえ、 その高温で火の海にしたのである。 ロシア艦隊に下瀬火薬の豪雨を一方的に浴びせたことが、 ワンサイドゲームの一因とされる。 ■下瀬火薬 連合艦隊は砲弾の炸薬に下瀬火薬を導入した。 これは当時炸薬の主流であった黒色火薬より爆速がすさまじく速く、 命中時の破壊規模は当時の火薬常識を大きく超え、 ロシア艦の構造物は粉々に破壊された。 下瀬火薬の爆速は、 現在のTNT火薬の爆速 6,900m/秒を上回る7,350m/秒であり、 この爆速で破壊尽くされたロシア艦の凄まじい姿から、 戦後、日本に謎の下瀬火薬ありと諸外国から恐れられた。 さらに、下瀬火薬はその高熱によってペンキなどの可燃部全てを燃やし、 粉々に破壊した甲板を火の海にした。 生き残ったロシア水兵は 「今でも信じられない、鉄の大砲が炎を上げて燃えていた」 と下瀬火薬の恐怖を述懐している。 想像を絶する砲弾の衝撃波の威力に、 バルチック艦隊の司令塔内にいた者は一人のこらず震えあがり、 みんな恐怖におそわれて、 垂直の装甲壁のかげに匿れる者や 司令塔内から逃げる者もいたと伝えられている。 ■三六式無線電信機 秋山真之参謀は、無電に理解の無いトップに三回も上申を繰り返し、 木村駿吉博士の寝食を忘れるほどの猛研究によって 完成した三六式無線電信機を1903年に制式採用させた。 しかも、島津源蔵が日本初の鉛蓄電池の開発に成功したため、 三六式無線電信機は日本海海戦で十二分に活躍可能となった。 当時、無線電信技術はグリエルモ・マルコーニが 1894年頃に発明したばかりだったが、 日本海軍は、いちはやく世界トップレベルの通信力を整備したのである。 ■海底ケーブル 児玉源太郎は、日本独自の海底ケーブル敷設船で 「九州~台湾」間を海底ケーブルで繋ぎ、 さらにイギリスのインド・アフリカ回線と結んだ。 バルチック艦隊が喜望峰やインド洋を周回している情報は、 イギリスのインド・アフリカ回線を通じてロシアに秘密で、 次々に日本に送られた。 さらに、この児玉ケーブルといわれる海底ケーブルは朝鮮半島と日本間など、 日本周辺に張り巡らされ、 朝鮮半島に停泊していた連合艦隊旗艦:戦艦三笠と東京の大本営とで 電信による通信が可能であった。 1分間で20数文字と限られた情報量であったが、最前線と大本営の間で、 情報や命令のやりとりを短時間で行うことが可能であった。 このため、大本営はいつでも、 連合艦隊に移動命令を出せるようになったため、 持てる戦闘力の全てを日本海海戦だけに集合させることが出来た。 ■宮原式汽罐 宮原二郎が開発した当時世界に衝撃を与えた画期的な新型汽罐。 価格が当時の世界標準価格の半値で、給水、掃除が容易で、蛮用に耐えられ、 燃費がよく、強力な馬力で、 しかも小型とまさに画期的な発明で、日本海軍の高速化をもたらした。 このため、バルチック艦隊を思う存分追撃できた。 ■驚異的な識字率 当時の日本国民の文盲率は25.1%前後と、欧米諸国より遥かに少なかった。 識字率の高さは、「自己ノ氏名ヲ書シ得ザル者」は兵役に就くことが 不可能とすることができ、 複雑な兵器の取り扱いを紙の説明書による伝達で可能にするため、 訓練の効率化をもたらした。 一方のロシア側は、 日露戦争で捕虜となったロシア人の中で自分の名前すらも 書くことのできない者が過半数はいる状況であった。 このため、日本各地のロシア人捕虜収容所では、 あまりに気の毒な惨状から、ロシア語の読み書き教育が行われた。 ■福岡県福津市に日本海海戦紀念碑がある。 毎年5月27日には横須賀の海上自衛隊で 「日本海海戦記念式典」が催されている。 |
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