正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1896年、露館播遷(ろかんはせん)

1895年の「乙未の変」ののち、朝鮮では親日派の内閣ができ、
改革を進めようとしたが、
ロシア公使のウェーバーが親露派と共謀して韓国国王を王室から
ロシア公使館に移してしまった。

こうなると形勢が逆転し、政権を握っていた大臣たちは惨殺され、
親日派の多くが日本への亡命を余儀なくされる。

このとき大臣たちは手足を切り裂かれ、肉を食われた。

朝鮮国王はロシア公館から勅令を出し、親日派を捕まえさせ、
改革案は全部撤廃した。
日本人30数名が殺されて、日本の財産が10余万円失われてもいる。
その後1年にわたって国王はロシア公使館に拘留された。

かつては朝鮮は清国の属国だったが、今度はロシアの属国となってしまった。
ロシアは軍人を送って軍を訓練する。
武器はウラジオストックからもってくる。
ロシア語学校をつくる。
そして、朝鮮北部の鉱山開発権を取った。

国王がロシア公使館から王宮に戻っても、
ロシアの影響下にあることは変わらなかった。

山形有朋とロマノフ外相が話し合って協定をまとめたが、
ロシア側はそれを守る気などさらさらなかった。

朝鮮国王はロシア公使館から王宮に戻ると、
もはや清の属国ではないとして国号を大韓と改め、皇帝を称した。
それまでは新羅王、百済王、高麗王と、常に王だったが、
と朝鮮半島ではじめて皇帝が誕生したのである(1897年)。

やがてロシアは北清事変(1900年)をきっかけに全満州を占領してしまう。
2009/10/05 09:00|年表リンク用資料
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