●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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簡単に作れそうだったのでブログで この正統史観年表を作成しました。 ブログなので各記事の一番右下に 日付が表示されてしまいますので、 適当な日付を指定しながら記事を 作成していきました。つまり各記事 の一番右下の日付はブログを書いた 日付ではなく、適当な日付です。 まぎらわしくて申し訳ありません。 |
1896年、露館播遷(ろかんはせん)
1895年の「乙未の変」ののち、朝鮮では親日派の内閣ができ、 改革を進めようとしたが、 ロシア公使のウェーバーが親露派と共謀して韓国国王を王室から ロシア公使館に移してしまった。 こうなると形勢が逆転し、政権を握っていた大臣たちは惨殺され、 親日派の多くが日本への亡命を余儀なくされる。 このとき大臣たちは手足を切り裂かれ、肉を食われた。 朝鮮国王はロシア公館から勅令を出し、親日派を捕まえさせ、 改革案は全部撤廃した。 日本人30数名が殺されて、日本の財産が10余万円失われてもいる。 その後1年にわたって国王はロシア公使館に拘留された。 かつては朝鮮は清国の属国だったが、今度はロシアの属国となってしまった。 ロシアは軍人を送って軍を訓練する。 武器はウラジオストックからもってくる。 ロシア語学校をつくる。 そして、朝鮮北部の鉱山開発権を取った。 国王がロシア公使館から王宮に戻っても、 ロシアの影響下にあることは変わらなかった。 山形有朋とロマノフ外相が話し合って協定をまとめたが、 ロシア側はそれを守る気などさらさらなかった。 朝鮮国王はロシア公使館から王宮に戻ると、 もはや清の属国ではないとして国号を大韓と改め、皇帝を称した。 それまでは新羅王、百済王、高麗王と、常に王だったが、 と朝鮮半島ではじめて皇帝が誕生したのである(1897年)。 やがてロシアは北清事変(1900年)をきっかけに全満州を占領してしまう。 |
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