正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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■1.もう一つのアメリカ合衆国■

敗戦後、満洲から引き揚げてきた少女が祖国にたどり着いて、
母親に真っ先に訊ねた。
「ねえ、日本の夕陽はどうして小さいの?」
大草原の彼方に沈んでいく赤い大きな夕陽は、日本にはない光景であった。

その赤い夕陽に染まりながら、1万2千キロメートルも
伸びる鉄道線路があった。
「南満洲鉄道株式会社」、通称「満鉄」である。

夢の超特急 「あじあ号」
夢の超特急「あじあ号」

満鉄の開発した超特急「あじあ号」は最高時速150キロで
その広大な原野を疾走した。当時の日本で最速の列車は時速70キロ。
「あじあ号」は、まさに夢の超特急として世界の注目を集めていた。



「あじあ号」だけではない。
満鉄本社では電話はダイヤル即時通話であり、
大豆の集荷量・運搬距離・運賃はIBMのパンチカードで処理されていた。
南満州鉄道地図
さらに東洋で最初の本格的な高速道路、
水洗トイレまで備えた近代都市、東洋一の埠頭、
世界でも有数の巨大ダム、自動車工場や飛行機工場までがあった。

このような部分的には日本をも追い抜く先進工業国家が、
ユーラシア大陸の東北端に忽然と姿を現し、
わずか13年半の後には蜃気楼のように消え去った。
そのまま発展を続ければ、もう一つのアメリカ合衆国となったであろう。
まさに満洲国は日本人の明治維新以来の近代化への
情熱と技術が生みだした20世紀の奇跡であった。
日本の傀儡政権、偽満洲国、大陸侵略などと批判する前に、
満洲国とはどんな国だったのか、まず事実を見ておこう。

■2.満洲と中国本土を分けていた「万里の長城」■

満洲は総面積約110万平方キロ。
ほぼドイツとフランスを合わせたほどの面積で、緯度も同程度である。
古来からツングース系やモンゴル系などの遊牧諸民族が興亡を繰り返した。
これら遊牧民族は農耕を中心とする漢民族とはまったくの別民族であった。

満洲と中国本土の間に築かれた万里の長城は、
漢民族が遊牧民族から自らを守るために築いた防護壁であった。
しかし、遊牧民族は強大な武力で、しばしば長城を越えて漢民族を征服した。
北魏、遼、金、西夏、元、そして清である。
清はツングース系女真族(満洲族)が、元の後継国家として建国し、
1644年に長城を越えて北京に入城した。
その後、漢民族の明を滅ぼし、
モンゴル、チベット、ウイグルに至る大帝国を築いた。

清王朝のもとで、漢民族は満洲族による支配を受けた。
ちょうどインドが大英帝国の支配に屈したのと同じ形である。
辛亥革命の後、清朝を倒して漢民族が独立し、
後継政権の一つとして今日の中共政権が成立した。
中共政権は第二次大戦後に獲得した満洲を「東北」と呼び、
チベットやウイグルとともに「古来から中国の絶対不可分の固有領土」
などと称しているが、
これは独立したインド政府が、大英帝国の後継者として
オーストラリアやカナダまで領有権を主張するようなものである。

■3.ロシア南進■

清朝が北京に移ると、広大な中国を統治するために、
満洲族は大挙して移住した。
清朝は人口が極端に減少した満洲を先祖発祥の地として保全しようと、
漢民族の入植を禁じたが、
中国本土や朝鮮半島からの流民の密入植が絶えなかった。

そこに勢力を伸ばしてきたのがロシアであった。
日清戦争後、日本が得た遼東半島を仏独との三国干渉により
清国に返還させると、それをそのまま横取りした。
さらにシベリア鉄道と連結して満洲を横切り、
ウラジオストックと最短距離で結ぶ東清鉄道の敷設権を得た。
1900年7月、義和団の乱が満洲に波及するや、
ロシアは建設中の東清鉄道保護を名目に、満洲全体を軍事占領した。

ロシアはさらに朝鮮半島にも勢力を伸ばそうとしたため、
日露戦争(1904-5年)が起こった。
日本の勝利により、両軍の満洲からの撤兵、
遼東半島租借権と東清鉄道南満洲支線(長春-旅順間)の
日本への譲渡が実現した。日本が戦っていなかったら、
満洲はシベリアの延長としてロシア領土になっていただろう。

■4.軍閥支配下の満洲■

1911年の辛亥革命により清朝が倒れ、
その後、軍閥の割拠する内戦状態となった。
満洲も張作霖・張学良父子が支配した。
張作霖は北京争奪の内戦に参加するため、25万人もの軍隊を維持し、
歳出の8割を軍事に注ぎ込んだ。
税収が不足した分は、財産家の誘拐や処刑による財産没収、
さらには民衆から5年先の税金取り立てまで行っていた。
歳入の柱の一つである塩税などは、日本の租借地の5倍であった。

張作霖のもとで、各省の支配者は、
政権を奪取するたびに旧紙幣を紙くずとし、新紙幣を発行して財源とした。
そのたびに民衆の財産は強奪されることになる。
インフレが昂進し、満洲経済は大混乱に陥った。

さらに30万人以上と推定される馬賊・匪賊は、民衆に対して
略奪、放火、強姦、誘拐の限りを尽くした。
支配者に招聘されれば軍人となり、支配者が負ければ馬賊・匪賊に戻る。
今日の中共政権が「反日抗日の英雄」と祭り上げる勢力の大方は
こうした馬賊・匪賊の類なのである。

■5.毎年100万人以上も満洲国へなだれ込んだ■

1931年満洲事変が勃発し、日本軍はわずか1万5千の関東軍兵力で、
当時30万とも45万とも言われた張学良の軍隊を一気に駆逐した。
事変は確かに日本軍の謀略だったが、
謀略だけでわずか1万5千の外国軍隊が
3千万の民衆を制圧することはできない。民衆は謀略を支持したのである。

日本軍の力により満洲国が成立し、
清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)が元首についた。
満洲王朝が先祖の地で、再興された形となる。
日本軍が画策したために傀儡政権と非難されたが、
中共政権も同様にソ連の「傀儡政権」と蒋介石は罵倒していた。
政権争いで相手を「傀儡」と非難するのは、中国人の常套句である。
勝った方が「正史」に正統政権と自称し、
負けた方は傀儡政権と永久の烙印を押される。

民衆にとって大事なのは、そんな政治ゲームよりも、
どの政権が社会を安定させてくれるかであろう。
事変の直前、1928年に満洲を視察した米モルガン財団代表ラモントは、
オールズ国務長官に次のような観察を書き送った。

自分の観たところでは、
今日満洲は全支那で殆ど唯一の安定せる地域である。
・・・日本は軍事的意味に於いてのみならず、
経済的にも満洲を発展せしめつつある。
日本がかくするのは、満洲に赴く少数の日本人開拓者の利益のためではない。
実際の話、満洲開発は中国人の利益になっているのだ。
不安定な戦争状態が中国の広大な部分に拡がっているため、
今や中国人は、他の何処に於ても受けねばならぬ匪賊行為や
略奪から逃れるために、何千人と云う単位で南満洲に流れ込みつつある。
[1,p336]

この傾向は満洲国成立後も続き、
事変前の人口3千万人が10年後の1941年には4千3百万人に急増した。
毎年100万人以上もの民衆が中国本土から万里の長城を越えて、
満洲国になだれ込んだ。
民衆は、内乱と飢饉の中国本土よりも、満洲国を選択したのである。

■6.通貨と交通のインフラ整備■

日本の力により満洲国は急速に近代的産業国家として発展した。
まず近代経済発展の基盤の一つとして通貨制度を確立しなければならない。
各地の軍閥が勝手に新紙幣を発行しては、旧紙幣を紙くずにする、
などという状態では、近代的な商取引など不可能であった。

建国3ヶ月目にして、満洲中央銀行が設立され、満洲国通貨を統一して、
旧軍閥が発行した様々な紙幣との交換を行った。
映画やラジオを通じて日中露3カ国語で広告をしたり、
辺地に飛行機でビラを撒いて巡回出張をする、など、
血のにじむような努力の結果、日本の3倍もの広大な領土で、
わずか2年で93.1%もの旧紙幣が回収され、
民衆の満洲国の統一通貨への信頼が確立した。

通貨と並んで、広大な国土を発展させるためのインフラは交通である。
当時は、日本の南満洲鉄道以外にも、ロシア(当時は革命後でソ連)や
イギリス、さらには地方軍閥による鉄道があり、
規格も運賃もばらばらの状態であった。
そこで満洲国が成立すると、ソ連、英国の路線は平和的に買収し、
満鉄が一括経営することになった。

満鉄は建国時の6,226キロの路線に加えて、7年後の39年までに
約4千キロの新線建設を行った。
毎年、東京-神戸間の東海道線に匹敵する路線建設を、
冬の河川凍結と夏の氾濫、
そして匪賊による鉄道襲撃頻発という悪条件の中で敢行した。

道路交通についても、満洲では冬は凍結、雨期はぬかるみ、
春秋はわだちの跡のみが道標となる状態だった。
各河川には橋梁はほとんどなく、わずかな渡し船しかなかった。
そこに満洲国は終戦までに国道6万キロ、地方道路5万キロを整備し、
橋梁も30メートル以上のもの3百カ所が造られた。
さらに港湾も、1931年には大連に東洋一の埠頭を完成させている。

■7.満洲は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか■

近代工業発展、そして、生活の近代化のためにも
欠かせないインフラが電力である。
満洲の年間降雨量は約3~5百ミリと日本のほぼ3分の1に過ぎず、
その70%が7、8月に集中しているので、発電と灌漑、用水、
治山治水をも狙った多目的ダムの建設が重視された。

鴨緑江・水豊ダム(20万キロワット)、鏡泊湖発電所(2万キロワット)、
渾江・桓仁ダム(28万キロワット)、
松花江・豊満ダム(70万キロワット)などが次々と着工され、
41年頃から稼働を始めた。
戦後日本で有名な黒四ダムの33万5千キロワットに比較すれば、
その規模が計り知れよう。

特に豊満ダムは満洲開発の象徴とも言うべき巨大プロジェクトで、
高さ90メートル、延長1100メートルのコンクリート堰堤により、
琵琶湖大の人造湖を忽然と満洲中央部に出現させた。
発電以外に洪水防止、灌漑、飲用水、工業用水、航運など、
世界でも屈指の巨大多目的ダムであった。
完成後に見学に訪れたフィリピン外相は、次のような歓声を発したという。

フィリッピンは、スペイン植民地として350年、
アメリカの支配下で40年を経過している。
だが、住民の生活向上に大きく役立つものは一つも作っていない。
満洲は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか。
[2,268]

■8.見果てぬ夢■

民生分野で特筆すべきは新都市建設と既成都市の改造である。
近代的な国土計画のもとで、日本人建設技師の人材を集めて、
近代的な美しい都市が満洲の広大な国土に次々と生まれていった。
特に、新しい国都・新京(現・長春)は、百万都市として建設を進められ、
電気、上下水道を完備し、東洋で最初の水洗トイレも設けられ、
豊かな緑に彩られた。

また満鉄は沿線各都市に、満鉄病院、伝染病研究所、結核予防協会、
保養院などを設け、僻地には巡回施療を行って、
民衆の健康状態改善に大きく貢献した。
さらに中央試験所、農事試験所を設立し、
ここで開発された「改良大豆」は、全満洲に普及し、
世界一の大豆輸出国として成長させる原動力となった。
そのほか地質研究所、鉄道技術研究所、製鉄研究所などが、
満洲の農・工・鉱業発展の牽引車となった。

以上の国土開発、産業開発はほとんどすべて日本からの投資でなされた。
たとえば1936年にまとめられた第一次産業開発5カ年計画では、
増産すべき分野として、電力、鉄鋼、石炭、アルミニウムから、飛行機、
自動車まで挙げられているが、その投資総額は25億円で、
同年の日本の一般会計歳出総額24億円を上回る額であった。
日本は膨大な人材と技術と資本をつぎ込んで、
満洲の発展に賭けたのであった。
満洲国総務長官だった星野直樹氏は、こう回顧する。

その間、満洲の状態は一変した。治安は完全に確保され、
国内には一人の兵匪もいなくなった。農業国から立派な工業国となり、
総生産額は倍増した。
国民生活は目覚ましく向上した。
東亜各地から集まってくる人は数多く、
3千万人であった人口は5千万人を超えるにいたった。・・・

生まれ出た満洲国を、ひとり主導的地位に至った日本人のみならず、
ひろく東亜諸民族が力を合わせて開発、発展せしめ、
その恵福を、ひろく等しく各民族の間に分かち、
ここに新たなる楽天地をつくりあげようと、
日本の若き人々は進んで満洲国に集まってきた。・・・

生命わずか13年、満洲国の建設はついに見果てぬ夢に終わった。
しかしこの間、日本の若き人々の費やした努力と苦心とは
永久に日本民族の誇りとするに足るものであると確信する。

■9.再び、略奪と戦乱の中華世界へ■

満洲国は日本の敗戦ともに消滅した。
日本降伏の6日前に満洲国に侵攻したソ連軍は、全域の産業施設を略奪し、
本国に持ち帰った。
その金額は約8億9千5百万ドルにのぼると
アメリカ・ボーレー調査団は報告している。

そのあと、毛沢東は「もし、我々がすべての根拠地を失っても、
東北(満洲)さえあれば、それで中国革命の基礎を築くことができる」
と言って、満洲の確保に走った。
全中国の重工業の約90%を満洲が占めていたからだ。

1945年10月になると、満洲争奪のための国民党と共産党と、
中国人同士が数十万人単位の死傷者を出して戦う凄惨な内戦が始まった。
こうして平和な高度産業国家として発展した満洲は
再び、略奪と戦乱の中華世界に飲み込まれていったのである。
(文責:伊勢雅臣)

国際派日本人養成講座より引用
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog239.html

中国で南京大虐殺は聞いた事ない。満州は素晴らしかった。


満州と支那は別
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「満洲」は民族の名
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満洲
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「支那」呼称について
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清(清国、清朝)
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2010/04/08 07:00|年表リンク用資料
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