正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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石井・ランシング協定

1917年(大正6年)11月2日、石井・ランシング協定

第一次世界(欧州)大戦中の1917年(大正6年)11月2日に、
石井菊次郎外相とランシング米国務長官との間で結ばれた協定。
中国での権益に関する協定である。

日本外交の勝利を意味するもののごとくみえながら、
その根底に、欧州大戦当時、アメリカが日本に対して抱いていた不信感が
色濃くにじんでいる上に、
アメリカの不誠実な対日態度を、はかなくも露呈したものである。

「日本とアメリカ両国政府は、
領土を接する国家の間には特殊の関係を生ずることを承認する。
したがってアメリカは日本が支那において
特殊の利益を有することを承認する。
特に日本領に接近する地方においてはその通りとする」

これが宣言の前段の概略であり、主要眼目だった。
ところが後段には、

「日本とアメリカ両国政府はいずれも支那の独立または領土保全を
侵害しないことを声明する。
また、両国は支那において門戸開放または商工業に対する機会均等の
主義を支持することを声明する」

と前段とはニュアンスの異なる趣旨が述べられていた。
これが解釈上の争いの余地を将来に残すことになった。

なぜアメリカはこのような解釈上の問題を
残すような協定を日本と結んだのか。

実はこの協定はアメリカが欧州戦争に忙殺されている間、
極東における日本の行動を掣肘するための一時的な懐柔策であり、
その場しのぎの便宜的政策に他ならなかった。
それゆえにこそ、大戦終了後、
アメリカはこの協定を破棄することに努力し、成功した。

ワシントン会議で支那の門戸開放をうたう九ヶ国条約が締結された結果、
石井・ランシング協定は存続の理由を失ったとされ、
1923年(大正12年)に廃棄されたのであった。
アメリカはたったの5年でこの協定を捨てたのだ。
2009/09/21 09:00|年表リンク用資料
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