正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1940年10月、ビルマ・ルート再開

援蒋ルート

首都南京陥落後、奥地の重慶に退いて抗日抗戦を継続する
蒋介石政権(重慶政府)を支えたのは、
米英仏ソなどによる軍事経済援助であった。

支那の沿岸を日本海軍が封鎖したため、
これらの援助は仏印やビルマや支那西北方から重慶へ通じるルート
によって行われた。これを「援蒋ルート」という。

仏印ルート、ビルマ・ルート、西北ルート、南支ルートの4本の
「援蒋ルート」のうち最も重要だったのが仏印ルートで、
援蒋ルートすべての輸送量のほぼ半分がこのルートを通じて送られた。


ビルマ・ルート

支那事変中、支那沿岸が日本軍によって封鎖されると
ビルマ・ルートは軍需物資補給路として注目され、
支那政府は昭和14年に道路を完成させ、援蒋ルートとして利用された。

しかし、ヨーロッパの戦局が急変し、イギリスが危機に陥った昭和15年6月、
日本はビルマ・ルートによる援蒋武器輸送の停止をイギリスに求め、
折衝の末、イギリスはこれに同意し、
7月17日、ビルマ・ルート三か月停止のための協定が日英間に結ばれた。

イギリスのこの決定に不満なアメリカの国務長官・コーデル・ハルは、
ビルマ・ルート閉鎖は世界貿易に対する不当な妨害であり、
アメリカは独自の政策を遂行するとの所見を述べた。

中立義務違反に等しい援蒋行為さえもが、
通商の自由であるとのハルの臆面もなき主張には辟易するが、
門戸開放主義の悪用も極まった感がある。

一方、日本に譲歩したイギリスも、
日本の北部仏印進駐と日独伊三国同盟を理由として、
ビルマ・ルート一時閉鎖の協定を更新することを拒否し、
10月18日より公然とビルマ・ルートによる援蒋を再開したのであった。
2009/09/12 09:00|年表リンク用資料
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