正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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1940年9月27日、日独伊三国同盟~当時の近衛文麿首相の手記

日独防共協定は1937年(昭和12年)11月にイタリアが加わり、
三国防共協定となったが、翌1938年(昭和13年)に入ってからは
満州国とハンガリー(2月)、そしてスペイン(3月)が加盟し、
枢軸陣営はますます強化されつつあった。

このような状況下の1938年(昭和13年)1月、ドイツ外相のリッベントロップ
から大島浩中独武官に防共協定の強化が提案された。

日本においても支那事変解決を促進する見地から日独伊の提携強化が
陸軍と外務省の一部で主張され、
この年5月には陸海外三省事務当局において、その研究が着手されたが、
11月にはドイツから正式に三国同盟草案が提示され、
日本はその検討を迫られることになった。

そして、ソ連の他にイギリス・フランスも同盟の対象とするドイツ案を
支持する陸軍と、対象をソ連に限るとする陸軍以外の意見が
大きく対立することとなった。

近衛文麿首相には防共協定強化すなわち枢軸側との提携が英米側を動かし、
支那事変解決を促進するであろうという期待があった。
これはやがて外相として三国同盟締結に邁進することに
なった松岡洋右の心事とも一致するものだった。

枢軸強化には、支那事変解決のため日本の国際的地位を
強化しようとする窮余の一策としての一面があった。

しかし、三国同盟の基本性格をめぐって、
日本の国家意思は容易に決まらず、ドイツは日本の回答延期に焦慮した。
様々なレベルでの意見の対立を調整させながら、
最終的な国家意思を形成してゆく日本の政策決定過程は、
ドイツやイタリアのような独裁的ファシスト国家のそれとは
全く異質のものであった。

ドイツとイタリアは日本の態度に不満で、
1939年5月22日、日本抜きで独伊同盟(鉄鋼同盟)を締結した。
このような状況下の1939年(昭和14年)8月23日、
突如独ソ不可侵条約が締結され、日本政府当局を愕然とさせた。

対独不信ムードの中で阿部信行内閣が成立。
大命降下の際、天皇陛下より「外交は英米と強調する方針をとること」
という指示を受けたこともあり、
ここに枢軸外交は止め、「中道外交」へ修正された。
具体的には親米派の野村吉三郎海軍大将を外相に起用、
枢軸派の大島駐独大使、白鳥駐伊大使を更迭した。

翌1940年(昭和15年)1月に成立した米内内閣の外相には
枢軸強化反対の有田八郎が任命された。
有田は「中道外交」を継承しつつ、対英米国交調整の途を求めた。
日本とドイツの関係は冷え切った。

ところが1939年9月に第二次欧州(世界)大戦が勃発。
ドイツは電撃戦でポーランドを18日間で撃破、
オランダ、ベルギー、フランスを6週間で破り、パリを無血占領し、
さらに北アフリカでイギリス軍をしりぞけた。

これに対して日本では、とてつもない強さを見せたドイツと
同盟関係を結んでおけば将来は安泰だという気運が高まった。
「バスに乗り遅れるな」という言葉が流行り、
朝日新聞などはドイツとの関係を重視する
大々的なキャンペーンを繰り広げた。

アメリカを融和しようとして成功せず、
アメリカの対日重圧のいよいよ加わりゆく時期であっただけに、
日本の親枢軸世論は一挙に高まり、米内内閣は総辞職に追い込まれた。

そして7月22日、第二次近衛内閣が発足、
日独提携論者の松岡洋右が外相に就任した。
このときは、反英米熱と日独伊三国同盟締結の要望が
沸騰点に達した時期だった。

アメリカの参戦を防止するため、
ドイツが日本に接近してくることを見抜いていた松岡は、
内心は枢軸との接近を急ぎながらも決して焦りを見せず、
時にはアメリカと結びかねないポーズを装いつつ、
一種の偽装外交によって慎重に対独打診を試みた。

ドイツのイギリス本土上陸作戦が停頓し、対英戦長期化の公算が大となると、
俄然、ドイツは焦燥し、対日接近が開始された。

ドイツの三国同盟に対する態度は、

【1】ドイツは対英戦に日本の援助を求めない。
【2】日本が米国の参戦を牽制、防止すること。
【3】日独伊三国の毅然たる態度のみがアメリカを抑制することができる。
【4】日独伊三国同盟締結ののちソ連に接近するに然かず。
ドイツは日ソ親善の多面「正直な仲買人」となる用意がある。

などであった。
アメリカが対独参戦の場合、
日本が自動的に参戦義務を負うことに強く反対していた海軍も、
「ドイツは日本のヨーロッパ参戦を希望しておらず、
また参戦の決定は日本が自主的に行うことを了解した」
との松岡の説明に接して反対する理由を失い、
またこれ以上国内対立を深めることを恐れたこともあり、
遂に同盟賛成に踏み切った。

1940年(昭和15年)9月27日、
ベルリンにおいてイタリアを加えた三国同盟が締結された。

第一、二条で日本は独伊の、独伊は日本の、
欧州および大東亜における新秩序建設の指導的地位を認め合い、
第三条で、「いずれか一国が現に欧州戦争または日支紛争に参入していない
一国によって攻撃されたときは、三国はあらゆる政治的、経済的
及び軍事的方法で相互に援助する」ことを約した。

また同日、東京で松岡外相とオット大使の間に
「締結国が攻撃されたか否かは三国間の協議によって決定する」
旨の秘密の公文が交換され、これによって相互援助義務の自動性を制限し、
日本の参戦について自主的解釈の余地を残したのであった。

三国同盟を推進した当事者の動機と目的
当時、首相であった近衛文麿の手記では以下のように述べられている。
―――――――
■三国同盟を推進した動機と目的

・・・日米関係は悪化し、殊に支那事変以来両国国交は極度に行詰った。
かかる形勢では松岡外相の云える如く、
もはや礼譲や親善希求のみでは国交改善の余地はない。

歴代の外相、殊に有田、野村両外相は対米交渉で
日米間最大の問題たる支那問題について了解に達っせんと
惨憺たる努力を重ねたが何の効なく、
もはや米国相手の話し合いによっては解決は絶望視されるに至った。

ここにおいて唯一の打開策は独伊、
さらにソ連と結んで米国を反省させる他なくなった。

即ち日独ソの連携も最後の狙いは対米国国交調整であり、
その結果としての支那事変解決であった。余は対ソ警戒論者であった。

対ソ接近を好まざる余が日独その連携に賛成したのは、
これが米国の戸の了解に達する唯一に途と考えられたのみならず、
ソ連の危険は日独が東西より
ソ連をけん制することで融和しうると信じたからである。
―――――――
三国同盟に踏み切った日本の当事者の真意は、
ほぼここに尽されていると思われる。

戦後、三国同盟推進者としての松岡に対しては
仮借ない批判が浴びせられてきたが、
彼の真意図はあくまでアメリカを説いて支那事変を終局せしめる点にあった。

昭和16年4月、日ソ中立条約の調印を終えてモスクワから
帰朝の途にあった松岡の胸中にはすでに広大な和平構想が描かれていた。
彼は帰国後、6月27日に重慶へ赴き蒋介石と差しで話し合って説得する。
直ちにチャイナ・クリッパー機で一緒に米国へ飛んで
ルーズベルトを交えた三人で膝を突き合わせて支那事変解決の話をつける。
支那事変解決の条件としては満洲国の承認と冀東地区の中立化だけとし、
ただこれだけの約束で日本は支那と仏印から一兵も残さず撤兵する。

これが松岡の東亜和平の構想だった。
独ソ戦という事態が発生しなかったら、
この和平構想が実行に移されていなかったとは言い切れまい。

日米開戦の報を病床で聞いた松岡は流ていしてこう語ったという。

「三国同盟は僕一生の不覚だった。
・・・三国同盟はアメリカの参戦防止によって世界戦争の再起を予防し、
世界の平和を回復し、国家を泰山の泰樹におくことを目的としていたのだが、
事ことごとく志と違い、今度のような不祥事件の遠因と考えられるに至った。
これを思うと、死んでも死にきれない。
陛下に対して奉り、大和民族八千万同胞に対し何ともお詫びの仕様がない」

結果から見れば確かに松岡は誤算を犯したことになる。
だが、日本の融和政策をもってしても、
あるいは三国同盟を含む松岡の和平構想をもってしても
何らの反省も改善もみられなかった硬直したアメリカ極東政策は、
歴史の大局から見て正しかったなどとは絶対に言えまい。

三国同盟に対する評価と責任
当時、首相の近衛文麿の手記では以下のように述べられている。
―――――――
■三国同盟に対する評価と責任

余は今もって三国同盟締結は当時の国際情勢下では、
やむを得ない妥当の政策であったと考えている。

当時独ソは親善関係にあり、
ヨーロッパのほとんど全部はドイツの掌握に帰し、
イギリスは窮境にあり、アメリカはいまだ参戦せず、

このような状勢下では日独ソ連携によって英米に対する我国の地歩を
強化することは支那事変を解決し、対英米戦をも回避し、
太平洋の平和に貢献しうるのである。

したがって昭和15年秋の状勢の下においてドイツと結びしことは
親英米論者の言うごとく、
必ずしも我国にとりて危険な政策なりとは考えられぬ。

これを強いて危険なりというは感情論である。
感情論にあらざればドイツの敗退を見てから後からつけた理屈である。

・・・しかしながら昭和15年秋において妥当なりし政策も、
16年夏には危険なる政策となった。

何となれば独ソ戦勃発で日独ソ連携の望みは絶たれ、
ソ連は否応なしに英米の陣営に追い込まれてしまったからである。
―――――――
三国同盟が論議された頃、ドイツ不信論、対米衝突を危惧する意見などが
一部にあったことは事実だが、それらは近衛が指摘するとおり、
ドイツの敗退を科学的根拠より予想せる先見の名に基づく
冷静な判断とは言いがたく、国際的な政治力学による三国同盟に
対抗するだけの力はなかったのである。

日独伊三国同盟はまさに、
「(資源や植民地を)持てる国」の囲い込みが
「持たざる国」であるドイツ、日本、イタリアを結び付けてしまったといえる。

しかし、この後1年あまりでドイツは劣勢に転じた。
日本はその行く末を見誤ったわけだ。

また、当時、世界の石油を握っていたのはユダヤ人財閥だったが、
ユダヤ人を迫害するドイツと手を結んだ日本は、
彼らの心証を激しく害してしまった。
このことが、後々、石油を生産する植民地を
持っていない日本を苦しめることになる。

当時の日米関係は極度に悪化していた。
アメリカの反日政策は日本の友好的な対応ではらちがあかない。
アメリカ相手に話し合いではもう解決は絶望的となった。

唯一の打開策は、ドイツとイタリア、さらにソ連と組んで
アメリカに反省させる以外になくなってしまった。
日独ソの連携も狙いは対米国交調整であり、
その結果としての支那事変解決だった。

日本はドイツと組むことにより、
強い立場での対米交渉を狙うためにこの同盟を結んだわけだが、
結果的に、「防共」が目的の「日独防共協定」が
対米軍事同盟になってしまった。

また、ファシズム国家であるドイツとイタリアと同盟を結んだことで、
日本がファシズム国家のように思われてしまい、
連合国が日本を侵略者にするには好都合となってしまった。

三国同盟は日米開戦を引き起こした大きな原因の一つといわれるが、
当時の国際情勢かではやむをえないところがあった。
当時ドイツとソ連は親善関係にあり、
ヨーロッパのほとんどはドイツが掌握し、
イギリスは追い込まれており、アメリカは参戦してなかった。

このような情勢では日本、ドイツ、ソ連の連携によって
イギリス、アメリカに対する日本の立場を強めることは支那事変を解決し、
対英米戦争を回避し、太平洋の平和に貢献しえた。

しかし、独ソ戦勃発によって日独ソ連帯の望みがなくなり、
ソ連は英米の陣営に追い込まれてしまった。

ドイツがこの同盟を結んだ目的は、極東で日本にアメリカを牽制させ、
アメリカのヨーロッパ参戦を抑止することだった。

松岡洋右外相の考えは、
すでにアメリカをはじめとする諸外国は日本包囲網を作っているから、
その圧力を避けるためには、
「日本は孤立しているわけではない、少なくとも同盟国がある」
ことを示したいということだったらしい。

つまり、決して攻撃的な同盟ではなく、圧力があるから、
日本にも見方がいることを示したいというものだったらしい。
つまり、決して攻撃的な同盟ではなく、圧力があるから、
日本にも見方がいることを示したいというものだった。
実際、ドイツと共同軍事行動をとったことはない。

それだけではなく、日独伊三国同盟は防共協定だったはずなのに、
ドイツは日本を裏切って簡単にスターリンと手を結んだ。
これではとても共同謀議とは言えないだろう。
欲を言えば、この時に日本は三国同盟を破棄すべきであった。
そうすれば日米交渉の大きな障害が亡くなっていたであろう。

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日独伊三国同盟は、
日本がアメリカやイギリスと開戦する直接の原因ではありません。
日独伊三国同盟なんて、
日米開戦の原因としては非常に小さい一つに過ぎません。
もっと分かりやすく言うと、
もし日独伊三国同盟がなくても、日本の対米英戦争は不可避でした。

アメリカは、日露戦争の後から日本と敵対しました。

―――――参考図書―――――――――――――――――
『「アメリカ外交50年」 ジョージ・ケナン著(1951年)』
我々は十年一日の如く…日本に嫌がらせをした。
――――――――――――――――――――――――――

日独伊三国同盟が成立したのは、1940年9月27日ですが、
1937年10月5日には、早くもルーズベルト大統領が
「戦争伝染病を隔離せよ」と演説し、日本を非難しました。
日本が支那に対して、大幅に譲歩した和平案を提案したにもかかわらず、
支那は日本の和平案を蹴って戦争を拡大継続させている最中に、
アメリカ大統領は日本を「戦争伝染病を隔離せよ」と非難したのです。
もう既にこの頃にはアメリカは
日本を徹底的に敵視しており、日本との戦争を狙っていました。

日本が必死になって支那事変を終わらせようとして
支那に対して「戦争を止めよう」と言っていた時に、
アメリカは支那に対して「戦争をやめるな!支援するから戦争を続けろ!」
と指示して戦争をやめさせなかったのです。
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-4113.html
アメリカは、日本と支那が和平交渉を行なうと、
支那に「戦争をやめるな!支援するから戦争を続けろ!」
と指示して戦争をやめさせませんでした。

以下は、その一例です。

1938年12月18日、汪精衛(汪兆銘)は
日本と講和しようと重慶に脱出しました。
汪精衛は、蒋介石と違って「これ以上国民を苦しめるべきでない」
という考えで、特務機関に命を狙われながらも
近衛首相の呼びかけに応じたのです。

―――――参考図書―――――――――――――――――
『「日本及び日本人に寄せる」 胡蘭成(汪精衛の側近)著 を要約』
汪精衛(汪兆銘)は重慶を出る時「蒋介石と話をつけている。
建前として蒋介石が抗戦を担当し、汪精衛が講和を担当する。
うまく行けば講和に移る」と言っていた。
汪精衛は東京で近衛と会って、
その真意を確かめてから1939年5月8日上海に帰り、
蒋介石に『これで私の役目は終わった。本番は貴方に頼む』と打電した。
ところが、この時、既に事情が異なっていた。
米国が蒋介石に「軍事物資の援助をするから」と言って講和を止めさせた。
米国の意向を無視してまで講和は出来ない。
結果、汪精衛は裏切り者にされた。
――――――――――――――――――――――――――

その後も米国や英国による理不尽な対支那支援と
日本への制裁が継続拡大していきました。

アメリカによる支那事変勃発後の対日経済制裁
(日独伊三国同盟の成立前からアメリカは対日経済制裁していた)
1937年10月5日、米国大統領「戦争伝染病を隔離せよ」と演説して日本を非難
1939年3月、蒋介石政権が軍用機や発動機を購入のために1500万ドルを借款
1939年7月、日米通商航海条約破棄を通告
1939年12月、モラル・エンバーゴ(道義的輸出禁止)として
航空機ガソリン製造設備、製造技術の関する権利の輸出を停止するよう通知。
1940年1月、米国が錫、屑鉄の対日輸出額を前年度の半分にすると通告
1940年1月、日米通商航海条約失効
1940年6月、特殊工作機械等の対日輸出の禁止
1940年7月、国防強化促進法成立(大統領の輸出品目選定権限)
1940年7月、航空機用ガソリンの東半球への輸出を禁止
1940年7月、鉄と日本鉄鋼輸出切削油輸出管理法成立
1940年8月、石油製品(主にオクタン価87以上の航空用燃料)、
航空ガソリン添加用四エチル鉛、鉄・屑鉄の輸出許可制
1940年8月、航空機用燃料の西半球以外への全面禁輸
1940年9月25日、蒋介石政権に2500万ドルの借款
1940年9月26日、屑鉄の輸出を全面禁止
★1940年9月27日、日独伊三国同盟成立
1940年11月、米大統領が蒋介石政権に更に5000万ドルの追加借款
1940年12月、米国が蒋介石政権に一億ドルの借款供与
1940年12月、英国が蒋介石政権に100万ポンドの借款供与
1940年12月、航空機潤滑油製造装置ほか15品目の輸出許可制
1941年6月、石油の輸出許可制
1941年7月、日本の在米資産凍結令
◆8月1日、米国が対日石油輸出を全面禁止
◆8月8日、日本側から日米首脳会談を提案したがアメリカは拒否
◆8月9日~14日、大西洋会談(大西洋宣言)
アメリカがイギリスに戦争協力を約束。
◆8月18日、豊田外相がグルー駐日米大使に首脳会談への協力を要請。
グルー大使は豊田の真率な態度に感動し、即刻コーデル・ハルに
「日本の提案は深い祈念を込めた検討なしに片付けるべきにあらず。
最高の政治的手腕を発揮しべき機会がここに提起せられあり。
これにより太平洋の平和にとりて一見乗り越え難き障害も
克服しうる公算あり」と言葉の限りを尽くして打電。
◆9月6日、近衛首相、グルー駐日大使を通じて、日米首脳会談の実現を
再度依頼したが、アメリカ政府は無視。
◆9月30日、豊田外相がクレーギー英駐日大使に日米首脳会談への協力を
要請し、クレーギー大使はイギリス本国政府に重大性を進言したが
英国政府は無視
◆11月21日、米国に三国同盟死文化申し入れ。
◆11月26日、ハル・ノート提示
3項:支那大陸や仏印からの即時、無条件完全撤退。

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日独伊三国同盟

当時、ソ連が蒋介石と結びつきそうな状況を考えれば、
「日独伊三国同盟」を結ぶという案は妥当だといえます。

日本は蒋介石と戦っていましたので、
日本だけでソ連と蒋介石の両方を一度に相手するのは厳しかったのです。

ですからソ連を牽制するため、1938年夏に日独伊防共協定を締結しました。

ところがその後、日本の予想に反し、
ドイツがソ連と独ソ不可侵条約を結んでしまいました。
これに日本はビックリです。

ソ連は欧州側を気にすることなく極東側での南下政策を考えます。
事実、ソ連はノモンハンに出て来ました。

それに加え、米国の脅威も高まりました。

日本は追い詰められて仕方なく、
ソ連を加えた4か国による対米同盟を構想しました。
その前段階の準備として
1940年9月27日に日独伊防共協定を日独伊三国同盟に変えて強化しました。
加えて、1941年に日ソ中立条約も結びました。
そして、日本が念願の日独伊ソ四国同盟を推進しようとした矢先、
突如としてヒトラーが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻したのです。

そこで日本の外交は完全に破たんしました。

その責任は、日本を利用し、騙し続けたドイツにあります。
日本には何ひとつ罪はありません。
日本は、その時々の状況で、
日本のためになると考えた外交的選択を誠実に追求し続けていたのです。
2009/09/10 09:00|年表リンク用資料
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