正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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世界四大文明の嘘

ブログ『ねずきちの ひとりごと』より転載
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-791.html

青森県 外ヶ浜町 大平山元遺跡(おおだいやまもといせき)
青森県 外ヶ浜町 大平山元遺跡

「世界四大文明」といわれているものがあります。
いわずと知れた、
エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明の四つです。
これが世界の文明の黎明であると学校では「世界史」の授業で教えています。

いまこの文をお読みの方なら、学校で習った覚えがあると思います。
そして小中高の学生のお子様かお孫さんをお持ちの方でしたら、
お聞きになったらわかりますが、
やはり今でも、学校では「世界四大文明」なるものを教えています。

しかし「世界四大文明説」なるものは、
とっくの昔に世界の歴史学会で、完膚なきまでに否定されきっている説です。

考えてみてください。

ギリシャ、中東、インド、支那の文明の黎明をいうなら、
南米のインカやアンデス文明は、どうなるのですか。
文明ではないのですか?
北米のインデアンの文明はどうするのですか?
ヒンズー文明は、どうなるのか?

支那についていうならば、黄河文明よりももっと古い時代に、
長江文明が別な場所で栄えたという史実が、
考古学上も明らかになっています。その長江文明は、どう解釈するのですか?

そもそも「世界四大文明説」というのは、
1900年に、清朝末期の支那の政治家梁啓超(りょうけいちょう)が
日本に亡命中に唱えた政治論です。歴史論ではない。

どういうことかというと、1900年頃というのは、清王朝の末期です。
支那は欧米列強に植民地として国土を食い荒らされていた。

そんな折に、日本に亡命していた支那人政治家の梁啓超が、
日本で、支那には「黄河文明」という欧米に匹敵する古い文明があったのだ
(当時はまだ長江文明は発見されていなかった)という話を教わり、
「そうだ! 支那には誇るべき歴史があるのだ。
そのことを支那の民衆に教えねば!」と、これを本に書いた。

要するに、梁啓超は、植民地化され、
欧米人の家畜化されようとしている支那人たちに、
「俺たちには欧米に匹敵する誇るべき歴史があるのだ」
という誇りに目覚めてもらうために、きわめて政治的な産物として、
世界四大文明切なるものを唱えたのです。

つまり、世界四大文明説なるものは、
もとから政治用語であって、歴史用語ではない。

ではなぜ、正しくない「世界四大文明説」なるものが、
これだけ情報の発達した日本において、
いまだに学校の教科書で教えられているのかというと、
実は、この説が反日学者たちにとって、きわめて都合が良いからです。

どういうことかというと、文明論には、衛星文明説というのがあって、
「衛星文明」というのは、独立文明(世界四大文明)の刺激を受けて発生し、
独立文明に依存した、自立していない文明を指します。

これを唱えたのが、英国の歴史家トインビーで、
彼は、日本文明は、支那の文明の衛星文明であり、
日本は、西暦645年の大化の改新によって、漢字や支那の冠位を取り入れて、
はじめて文明国家となった、と説いた。それが昭和40年頃です。

要するにこれが、支那が親、朝鮮が兄で、日本が末子という、
支那文明日本渡来説の根拠になっています。

これはじつはとんでもない話で、
日本には大化の改新よりもはるかに昔から、国体があったし、
そのことを知ったトインビー博士は、
後年、日本文明は、独立した一個の文明であると自説を訂正している。

にもかかわらず、都合の良いところだけを切り取って、
いいように歴史を捏造するのが、反日左翼主義者の特徴です。

おかげで、2010年の今日においてもなお、
日本の世界史の教科書には「世界四大文明」なる用語が登場しているし、
これは必ず「試験に出る」問題です。

これによって多くの子供たちは、世界四大文明なる、
世界中の歴史学者にとっくの昔に否定されつくしている説を、
無批判に教え込まれ、
なんとなく支那が日本文明の親であると思わせられている。

ところが、実は文明の現出は、支那よりも日本の方がはるかに古い。

支那の黄河文明が、いまから約4千年の昔です。
長江文明が約7千年前の文明です。

これに対し、日本では、なんといまから1万6500年前という
世界最古の土器の遺跡が見つかっている。

場所は青森県蟹田町の西端に位置する
「大平山元|遺跡(おおだいやまもといちいせき)」です。

世界最古です。
しかも土器があるということは、
すでに火を使い社会的分業制度を持っていたことが同時に類推されるわけで、
こうなると、もしかすると、日本は世界最古の文明国だった可能性すらある。

なにせ、支那で最も古い長江文明より、
さらに1万年もの太古の昔の文明の痕跡がでてきちゃった。

さらに、大平山元遺跡群の2遺跡からは、約16,000年前の石で囲った炉の跡、
石蒸し料理に使った焼けた石なども見つかっている。

ところが、この「大平山元|遺跡」で
世界最古の遺跡が発掘されたことがよほどくやしいのか、
なんの故意かしらないけれど、あきらかに世界最古の遺跡でありながら、
たとえば青森県のHPには、
この大平山元|遺跡のことは載っていないし、
青森県内の遺跡を紹介したサイトでも、
この遺跡から出土した土器は「青森県下最古の遺跡」などと書いてある。

青森県最古ではないのです。世界最古なのです。意味が違う。

しかも、大平山元遺跡群というのは、場所が、1と2があるのだけれど、
なぜか「1」と書けばよいモノを、
パソコンのキーボードの右上の「¥」マークのところにある
「|」という記号を使って、「大平山元|遺跡」と表記している。
あるいは「Ⅰ」を使っている。

要するに意図的に検索エンジンにひっかかりにくくしているわけで、
ふつうに、「えっ?どうして?」と疑問に思える文字の使い方がされています。
どうして、あえて、1と2にわけるのか。
なぜ「1」ではなく「|」を使うのか、
ちょっと常識では考えられない微妙な操作が加えられています。

科学的に、考古学的にちゃんと証明されたことが、微妙に隠ぺいされ、
その一方で、あきらかに世界の歴史学会で否定されつくした事柄が、
いまだに日本の子供たちの教科書に記述され、試験に出る問題とされている。

これって、普通に考えて、おかしいことなのではないでしょうか。

きちんと子供たちに教えるべき真実を教えず、真実を捻じ曲げた操作を行う。
そういういかがわしいことが、学校教育の場で、永い間、まかりとおってきた。

マルクス史観というものがあります。

マルクス主義(共産主義)を正当化するために、
歴史を「道具」として利用する歴史観です。

当然のことながら 「マルクス主義」に忠実であればあるほど、
「マルクス主義」にとって有利な事柄を過大に評価し、
その反面不利な事実を無視し、時には歴史を平気で
ねつ造するという極端な偏向性を持つ歴史観です。

歴史を検証すれば明らかな如く、共産党、社民党、中国共産党、北朝鮮、
あるいはその影響を受けた韓国、在日コリアンなどの
左翼・反日主義者たちがどれ程言葉巧みに歴史を捏造し、
偽造変造してみても、彼らの究極の目的は 、

「手段を選ばない階級闘争による、日本の解体」といわれています。

そのイデオロギーの信奉者たちが主張し、本に書き、
教える歴史は、真実や公平性とは無縁のものです。

なぜなら、彼等にとって重要なことは真実よりも、イデオロギーだからです。

戦後65年。わたしたちは、歴史教科書のイロハから、
もういちど抜本的に見直すときにきているのではないでしょうか。


Wikipedia 大平山元遺跡
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B9%B3%E5%B1%B1%E5%85%83I%E9%81%BA%E8%B7%A1

青森県 外ヶ浜町 大平山元遺跡(おおだいやまもといせき)(縄文時代の遺跡)

出土した土器片この遺跡から発掘された縄文土器に付着した炭化物の
AMS法による放射性炭素年代測定法[1]の算定で
16,500年前(暦年較正年代法による)とされ、
世界最古の縄文土器とも言われている。

外ヶ浜町山元地区にはI〜IV遺跡、墓地公園遺跡など
いくつもの縄文遺跡が発見されているが、
このうち太平山元I遺跡が縄文時代草創期の遺跡である。

これらから出土した石器や土器は、
大山小学校の跡の大山ふるさと資料館に保存されて
自由に見学ができるようになっている。

太平山元I遺跡は、現在は民家と民家の間に挟まれた狭い空き地にある。
田の近くにあるため、
縄文時代には湿地帯のすぐ近くの小高い場所だったと思われる。

太平山元I遺跡太平山元I遺跡からは石斧や石核、石鏃などの
石器も発掘されている。

ほとんどの石器の材料は地元の川から採れる頁岩からできているが、
中には青森県鰺ヶ沢町から持ってきた黒曜石からできている石器もある。

1975年とその翌年には青森県郷土館が、
1998年に蟹田町教育委員会により発掘されている。

土器はすべて小破片で形の分かるものはないが、
文様はなく平らで角張った底の土器である。
土器の内側には炭化物がついており、
食料の煮炊きに使ったものであることがここから分かる。

また、石鏃も日本でもっとも古いもので、
これは日本で最も古い弓矢の使用を示す。

1998年の民家の建て替え工事に伴い、
蟹田町教育委員会が行った発掘調査によって、
世界で最も古いともいわれる土器が発掘されることになった。


国旗の重み 建築編~悲しき誇り~



群馬県みどり市笠懸町にある『岩宿遺跡』は、
今から約2万5千年以上前の旧石器時代の遺跡です。

Wikipedia 岩宿遺跡(いわじゅくいせき)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%AE%BF%E9%81%BA%E8%B7%A1

岩宿遺跡(いわじゅくいせき)は、
群馬県みどり市笠懸町にある旧石器時代の遺跡である。

1946年(昭和21年)頃、
当時在野の考古学者であった相沢忠洋によって発見された。

この発見によって、日本の旧石器時代の存在が証明された。

これ以降、日本全国において旧石器時代の遺跡の発見が相次ぐことになる。
1979年(昭和54年)8月17日、国の史跡に指定された。


岩宿遺跡は、赤城山の南東、渡良瀬川右岸地域の小残丘に立地しており、
丘陵の北部は「稲荷山」、南部は「山寺山」および「金比羅山」
と呼称される。

稲荷山と山寺山の境をなす低い鞍部には町道が通っていたが、
相沢忠洋によれば、始めてローム層中で打製石器を発見したのは、
この道路の切通においてであった。
相沢は当時、納豆の行商をおこないながら
熱心に考古学研究にいそしんでいた。

1949年(昭和24年)、杉原荘介の主導による明治大学の発掘調査で、
切通しの北側がA区、南側がB区と命名され、
A区において上下2層の石器文化層が確認された。

下層の岩宿I文化(約3万年前)と呼ばれる石器群は、
地表の下約1.5メートルの中部ローム最上部の暗色帯中に包含されており、
楕円の形状をなす打製石斧2点の他、掻器類、
2次加工のある刃器状剥片、石核があり、石材には主に頁岩が認められる。

同層からは多数の自然礫やクリ材の炭化物もみられた。
この結果は、旧石器時代の段階における植物資源の広汎な活用を示唆する。
この暗色帯の最上部には姶良Tn火山灰(AT火山灰)が確認されており、
このことより、岩宿I文化の年代は今から2.5万年以上前にさかのぼると考えられる。

A区上層の岩宿II文化(約2万年前)は、
上部ローム層中に含まれる切出状のナイフ形石器を指標とする文化で、
瑪瑙、頁岩、黒耀石、安山岩などさまざまな石材が用いられている。

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2012年6月、残念ながら中国で1万9千~2万年前とされる
世界最古の土器が発見された。

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最古、2万年前の土器片 中国の洞窟遺跡、料理に使用か

産経ニュース 2012.6.29 07:21
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120629/trd12062907250003-n1.htm

世界最古となる約2万年前の土器片を、
中国・江西省の洞窟遺跡で発見したと、
北京大や米国などの研究チームが29日付の米科学誌サイエンスに発表した。

これまで日本を含む東アジア各地で見つかっていた、
最古級の土器より2千~3千年古いという。

洞窟からは280個以上の土器の破片が出土。
多くに焦げた跡があり、チームは「現生人類の祖先が、
料理に使ったのではないか」と推測している。

チームは、破片が見つかった地層を詳しく調べ、
地層に含まれる動物の骨や炭などの炭素を解析。
古い地層は氷河期とされる1万9千~2万年前と結論付けた。

破片は土器の縁の部分などとみられ、厚さ0・7~1・2センチ程度。
表面を滑らかに整えたり、筋で模様を付けたりした破片もあった。

人類は土器の発明により、
食料の備蓄やアルコールの熟成なども可能になったと考えられている。

チームは、氷河期の厳しい気候に適応するのに、
これらの土器が重要な役割を果たしたとみており、
「東アジアの狩猟採集は、農耕より1万年ぐらい早く始まったことを示す」
としている。

日本で最古の土器は、
青森県の大平山元1遺跡で出土した約1万6千年前の破片。
2009/09/02 09:00|年表リンク用資料
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