正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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ほんとの悪代官は、まじめ人間だった!?

ブログ『ねずきちの ひとりごと』より転載
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-658.html

悪代官というと、巷のヤクザ者や、悪徳商人と結託し、
庶民を苦しめ、陰で人を斬ってしまったり、果ては年貢の代わりに
娘を差し出せという非道者というイメージがあるようです。

「越後屋殿、お主も悪よのぉ」
「いえいえ、お代官様ほどでは…」
「ガッハッハ」

悪代官=非情な支配者で、これに虐げられる農民や町人が登場して、
それがそのまま武士=斬り捨て御免、
生かさぬよう殺さぬようにという残忍な印象にまでつなげられている。

しかし、実際にはどうやら世間の印象と実在した悪代官には、
そうとうな開きがあるようです。

どうやら「越後屋殿・・・」の悪代官は、戦後階級闘争主義者たちによって
作られたねつ造イメージらしい・・・というのが、今日のお題です。

江戸時代の代官というのは、勘定奉行の支配下で、地方の天領などで
年貢の徴収や知行地の石高管理のなどのお役目をいただいた武士でした。
担当地域には、相当な権限が付与されたけれど、
実際には、かなり貧しいお侍さんでした。

当時のお代官はもちろん世襲制なのだけれど、幕府の直轄領の代官でも、
身分は150俵と最下層の旗本が任命されていました。

150俵というのは、いまで言ったら年収600万円です。
その中から、小者1~3人を雇ますから、経済的にはかなり苦しい。
つまり、お代官さまは、貧しいお武家さまでもあった。
とても冒頭にある絵のような
立派な着物を着るような人たちではなかったようです。

そして任期は不定で、数年で交替することも多かった。
交替といえば、聞こえはいいのですが、なかには更迭も含まれる。

どういうことかというと、年貢を収める時期になると、
当時の農民は、代官所で、舛(ます)で米を計って米を収めます。

このとき、舛(ます)からこぼれた米は、
お百姓さんが持ち帰っていいってことになっていました。
こぼれた米など、お上が徴収したら威厳に関わる、というわけです。

だから、農民は、マスで計って、米を収めるときに、
ちょっとずつ、米をこぼした。
こぼれたお米は、農家が持って帰てよい。
マスは、一升マスですから、こぼれる量だって、けっこうはんぱでない。
手元に残るお米は多いにこしたことはないのですから、
これで結構、お百姓さんは助かった。

この“こぼれたお米”が「おめこぼし」で、
おめこぼしが多くても文句を言わないお代官様が“良いお代官さま”です。
反対に、お目こぼしを認めないでかっちりしっかりマスの通りに
年貢を徴収するお代官は、手厳しい。
だから、「今度のお代官様は、ひでえ奴だ。悪代官だ」と陰口をたたかれた。
どうやら、職務にまじめすぎたお代官が“悪代官”とされたようです。

田も同じです。代官の役目は、領内をくまなくまわり、
領内のすべての田畑に、上中下区別をつけて、
その収穫予測高を事前に掌握する。

このとき、実際には収穫高の多い上田でありながら、
中田として登録してくれたりする。これもおめこぼししです。
お目こぼしが多ければ、百姓は生活が楽になる。だから“良い代官”
そういうズルを認めず、しっかりと取り立てるのが“悪代官”。

もっとも、おめこぼしが多すぎて、極端に“良いお代官さま”に走ると、
お上の取り分が減って、中央のお奉行からお叱りを受ける。
そうなると更迭です。
さりとてお目こぼしが少ないと、農民から不満の声がでる。

そのあたりのさじ加減を上手にするのが、
お代官という職のむつかしいところだったといいます。

さらに、年貢を過酷に取り立てて農民が逃散したら、
当然、年貢の収量が減る。
逃散を招いたお代官は、切腹です。
飢饉で餓死者を出したら、責任をとって罷免です。

いやはやお代官稼業も楽じゃないです。

お代官は、くまなく領内をまわり、すべて・・・すべてです・・・
の田畑の石高を調査してまわり、これを帳面につけます。
そして収穫量の把握をし、中央に報告する。
年貢の徴収をしたら、それを一軒ごとに帳簿につけ、
安全に勘定奉行に届ける。

水害が起きれば知行地内の田畑が被害をうけ、収量が減ってしまいます。
だから、そうならないように堤防を見てまわり、
補修を指揮し、平素から土嚢等の備えつけの準備の指揮などもした。

火災が起きたら、領内の収量が減るから、
火の見櫓の輪番の管理をし、消火桶の備え付けを辻辻に準備する。

これらの社会公共事業には、村々の協力が欠かせません。
人徳がなければ、民百姓に協力してもらえない。
だから自分から進んで村をまわり、領民と接した。信頼関係を築きあげた。
ワイロなんかでゴマ化したら、途端に人々の口に、のぼります。
なにせ人の口に戸は立てられない。
きちんと仕事をして、民との間に信頼関係を築く。
そうでなければ、お代官は務まらない。

そもそも、武家の教えというのは、私利私欲をきびしく戒め、
質素を心がけること、
また公共性を重視する自己犠牲の精神のうえに成り立っていました。

だから行儀作法には、ことのほかウルサイ。
食事は、必ず正坐。肘を横にはって、
あぐらをかいて食事をするなんて、お殿様でも許されない。

目の前の食事は、
領内のお百姓さんが丹精込めて作ってくれたお米や野菜です。
だからちゃんと感謝して「いただきます」と領民に手を合わせて、
正坐していただく。子供のころからそうしつけられた。

武士は、自ら身を律しなければ、誰もいうことなど聞いてくれない。
聞いてくれなければ、治水も防災もなにもできないのです。

ちなみに教科書では武家を「封建領主」と教えるけれど、
封建領主という概念は、西洋のものです。
西洋における「封建領主」の概念は
「領地は領主の私有物である」という概念です。

だから国家や藩というものは、
領主の私有財産としていろいろな人の手に渡っていく。
土地も領民も、領主の私有物です。

日本における領主は、こうした西洋の「領主」とは、
そもそもの成立からしてまるで違うのです。

農村のことを昔から「村」とか「惣」と言います。
「惣」というのは、村が集まった少し広い地域社会のことです。
これが一つの自治体になる。
その自治体の代表者が、領主です。

戦後の階級闘争史観では、なにやら武家階級は封建領主であり、
西洋と同じく領内を征服して私有財産(私腹)を肥やすもの、
といったイメージにされているけれど、実はまるで違う。
単なる収奪者や私有財産主では、民の尊敬は集められません。

戦国大名というと、民衆を支配し、
厳しく抑えつけたというイメージがあるようだけれど、
有力な戦国大名の地域の人々は今でも戦国大名を懐かしく慕っている。

山梨では信玄と呼び捨てにすると怒られます。
“信玄公”と呼ばなければならない(笑)。

戦国大名というのは民衆から憎まれる怖い存在ではなくて、
慕われる存在だったといいます。
なぜなら、彼らは、民衆の生活に必要なものだったからです。

地域の平和を維持し、治安を守り、治水や防火を行い、産業を発達させる。
そういうことをやるのに成功したのが戦国大名です。

江戸時代も、そうした戦国大名の伝統を綿々と引き継ぎます。

江戸幕府が270年続いたというのも、決して強い力で抑えつけたからではない。
幕藩体制が、合理性を持っていたのです。

全国の各村には村の組織が出来て、おとな(老、長)たちが、
村をみんなで共同して運営していく。20歳前後の若衆が実行部隊になる。

村と村は、惣をつくり、相互に協力して公共事業にあたる。

公共事業そのものは、別に奉行があたるけれど、
その保守は代々のお代官がこれにあたります。
そして藩は、それらの総合管理にあたります。

だから若衆の実行行為も、村人としての行為であり、
惣の行為であり、藩や国の一員としての行為になる。
たとえ小さな藩の一武士、あるいは農民であったとしても、
日本全体の中の一部であるという意識がみんなに共有される。

階級闘争主義に汚染された戦後の歴史家の中には、
明治維新以後、天皇陛下の国だと人々を教え込んだと
主張する学者もいるようだけれど、
メディアもろくに発達していなかった時代に、
そんな単純な宣伝で日本中の人々が
明治政府に協力することはありえないです。

むしろ、江戸時代からの慣習に、特別な教育をしなくても
自分たちは日本全体の中で、ある地域の責任を負っているという自覚があり、
明治政府は、それを公共精神として
追認したとみるのが正解であろうと思います。

日本人は家族の中で一番小さい者を基準にして、お兄ちゃんとかお姉ちゃん、
お父さん、お婆ちゃん、といった呼び方をします。

要するに役割で呼んでいる。
名前で呼び合ったりしないです。

役割で人間関係を表現するということは、
同時に自分がその役割にふさわしい生き方をするということでもあります。

お兄ちゃんならお兄ちゃんらしく、お母さんはお母親としての役割を果たす。
家庭の中でも役割によって呼び方が変わります。

家の中で個々の役割がちゃんと決まっている。
その役割を果たすことが家族の一員となるということでもあります。

お代官さまも役割。家族も役割です。

人はそれぞれの役割をきちんとこなして生きることによって、
世の中とつながっていた。
そういう自覚と誇りを持つことが、正しい生き方とされていた。
それが普通の日本人の感覚でもあった。

こうした精神は、ついこの間まで、企業社会の中でもしっかりと生きていました。

課長、部長という呼び方が、○○課長、○○部長という
呼び名に変わったのは、つい最近のことです。
最近では、それが昂じて役席者であっても、
○○さんと呼ばれるようになった。

こうなると、社員と会社の関係は、会社の一員としての役割ではなく、
会社と個人の、いわば請負関係のような関係になります。

請負関係だから、ちょっと景気が傾けば、会社は簡単に社員のクビを切る。
社員も簡単にクビを切られると思っているから、
会社に生涯を捧げようなんて気にならない。

戦前までの日本社会は、地縁・血縁社会だったといわれています。
戦後の日本は、企業社会だった。

戦前の日本は、悪いことをする人がいれば、
身内の恥、地域の恥さらしだった。
戦後の日本では、悪いことをする奴は、会社の恥さらしです。

昨今の日本は、個人社会です。悪いことをしたら、そいつが悪い。
ついでにポッポは、故人社会(笑)・・・カンケイナイデスカ(^^;)

つまり、日本社会が、共同体意識をなくし、
いまや完全に個人主義社会になりかわっているといえるのかもしれません。

昔、鶴田浩二の歌に、
「産まれた土地は荒れ放題。右も左も真っ暗闇じゃあござんせんか」
というのがあったけれど、さしずめいまの日本なら、
「育った会社は荒れ放題。右も左も真っ暗闇」と言った方が、
しっくりきそうです。

人がそれぞれの役割を失うということは、
社会との絆を失うということでもあります。

その先にあるものは、無自覚なわがままの横行と、
社会による取締りなのかもしれません。

ほんとうにそれでいいのか。
それが私たちの目指す理想社会といえるのか。
わたしたちはもういちど考え直してみる必要がありそうです。

そして考えなおす前提として、どうも、わたしたちは、
戦後の嘘と偽りの自虐史観によって、
かなり汚染されてしまっていることに
気付かなければならないのかもしれない。

過去を単純に悪と決め付け、眼をそらせるのではなく、
真実の目をもって、歴史をもういちど点検してみる必要がありそうです。

悪代官は、実はまじめすぎる中央派遣の貧乏武士だった。

なんだか真実は、戦後の印象操作でかなり変形されているようです。


日本の「一揆」や「打ちこわし」に見る平和的なルール
2009/09/01 09:00|年表リンク用資料
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